六年前。魔物騒動が起こってからのトゥネリは、数日塞ぎ込んでいた。
食事を出されても一切手をつけず、両親と過ごした部屋の片隅で膝を抱える日々を送っていた。
彼女は考えていた。
父親が狂ってしまった時、側にいて支えることが出来たならばこんなことにはならなかったのではないか。あるいは母親が息を引き取る原因を作った自分が生まれなければ良かったのではないか。
考えても取り返しのつかない事だと分かっていながらも、〝自分はどうすれば良かったのか〟ということばかり考えていた。
それだけではない。彼女の脳裏には離れることのない、消すことの出来ないものがあった。
雷鳴轟く嵐のような豪雨の中、一人歩く少年の背中。その少年の手には、失くしてしまった大切な人が着ていた泥だらけの衣服が握られている。
事件の時に初めて出会い、救ってくれた少年ソラ。彼に対しても、取り返しのつかないことをしてしまったと。
胸に渦巻く罪悪感。両親がいなくなってしまったことで生まれた虚無感。そして何よりそれらから来る孤独感が心を蝕んでいた。
もはや涙は枯れ果て、生きる気力すら失っていたトゥネリ。そんな彼女をなんとか慰めようと、共に暮らしていた老夫婦たちは必死になった。
毎晩必ず彼女のいる部屋で寝泊りし、例え食べずとも食事を用意し、どんな時も彼女の側を離れなかった。
老夫婦の温もりを感じたトゥネリは、徐々に生気を取り戻し、いつしか少しだけ笑うようになっていた。
それでも彼女の心の中に、罪悪感は居座り続けていた。
少しずつ食事も取るようになったある日のこと、一人の女性がトゥネリの下に訪れた。
女性の肩書はこの国にあるギルドの支部長――そう、ヴェラドーネだ。ヴェラドーネはトゥネリが〝魔物騒動の首謀者の娘〟であることを知っていて訪ねてきたのである。
ヴェラドーネは言った。「今お前は、今回の騒動に対して罪悪感を感じているな」と。
彼女の言葉にトゥネリは静かに頷いた。
ヴェラドーネは「ならば」と言ってこう続けた。「もしお前があの騒動と同じことが起きてほしくないと思うのならば、ギルドに来い」と。
トゥネリは答える。「わたしにはその力がありません。力がないから、あの時なにもできなかったんです」と。
トゥネリの答えに、ヴェラドーネは笑ってこう言った。「ならばギルド最強の男を、お前の師匠にしてやろう。そうすれば力がつくはずだ」と。
もしもお前が望むならば、王都のギルドに来い。そう言い残し、ヴェラドーネは去っていった。
その翌日。トゥネリはドゥエセの街を出て、王都へと旅立った。
もしもあの時自分に力があったならば、事件が起きたとしても誰も犠牲になることはなかった。
あの日犠牲になった者のためにも、贖罪のために生涯を過ごさなければならない。あの日救ってくれた少年のように、今度は自分が救えるようにならなければならない。
そんな呪いにも似た思いを抱えながら。
◇
噴水の縁に座ると、トゥネリは一息吐く。
「ありがとうございます」
トゥネリは右隣に座るメルヒに感謝を述べる。
咽び泣いている間、彼女は体を優しく抱き締めていた。母親に包まれているかのような感覚に、トゥネリは次第に落ち着きを取り戻して今に至る。
気恥ずかしそうに縮こまり、トゥネリはメルヒの顔色を伺う。心配そうに見つめる彼女の瞳は慈しみに満ちている。
「すいません……庭を汚してしまって」
何も答えてくれない気まずさから、トゥネリは思いついたことを口にする。
「大丈夫ですよ。あれだけのことを言われたのですから仕方ありません」
やはりラミナとの会話を聞いていたらしく、メルヒはそう言って微笑む。
「あの……いつから聞いていたんですか?」
「最初から聞いていました。暗い表情で出ていくのが見えたので」
自分で聞いておきながらどう返せばいいか分からず、トゥネリは顔を伏せる。
「本当は割って入ろうかとも思ったのですが、いらぬ衝突を生むと思って。こちらこそ助けに入らず、すみません」
「いえ、いいんです。あいつが言っていたことは、別に何も間違っていないから」
トゥネリはセレネーラやラミナに言われたことを思い返す。
彼女たちの指摘はなにも間違っていない。全て的を射ている。
常々自覚していることだった。自分はまだ弱い。その弱さがいずれ、あるいは今すぐにでも災いを起こしてしまうかもしれない。かつて父がそうであったように――いつかまた罪を犯してしまうかもしれないと。
その恐怖から自分のことを否定し、例えやり方を間違えようとも、決して父親のようにはならないようにと足掻いてきた。もう二度と同じ罪は犯すまいと強い力を求めた。
「わたし、分からないんです。自分が本当はどうしたいのか」
ソラと再会した時、トゥネリは嬉しさのあまりすぐその場を離れた。また再会できた。自分の命を救ってくれた人が会いに来てくれた。そう思ったのだ。
自分の部屋に戻り、トゥネリは自分を呪った。彼の大切な人は自分がこの手で奪ったも同然だ。そんな自分が、どうして再会を喜ぶ資格があるのかと。
「あの人とは関わらないでおこう。再会した時、最初はそう思ったんです。でも気づけば、あの人と一緒にいたいと思うようになってた。そんな思いを正当化しようと、わたしはあの人を守らなきゃいけないんだって考えました。わたしはあの人の大切な人を奪った。だったらわたしには彼の命を守る義務があるって」
メルヒは静かにトゥネリの話を聞いていた。相槌は打たず、繰り返し頷きながら聞いていた。
「わたしは……どうしたいんでしょうね?」
問いかけに対し、メルヒはトゥネリの肩に左手を優しく置いて答える。
「それは、あなたが考えて導き出すものですよ」
「でも……すぐには分からないかもしれない」
「いいじゃないですか。沢山時間をかけて、ゆっくり一歩一歩答えに近づいていけば」
トゥネリは俯く。それではダメなのだ。それでは、自分は弱いままなのだと。
表情で思いを察すると、メルヒは微笑む。
「それでも今すぐに答えが欲しいというのなら、ひとつ解くための鍵を教えます」
「解くための……鍵……?」
「ええ……」
そしてメルヒは右手で優しく、トゥネリの心臓付近にそっと触れた。
「あなたはすでに答えを持っていますよ。あなたはただ、そんな資格はないと言って封じ込めているだけ。自分のことを許す勇気――それがあなたに必要な唯一の鍵です」
「自分のことを許す勇気……?」
「自分を許せないという気持ちは私にも分かります。ですがそれだけではダメなんです。時には自分の過ちを必要以上に責めず許してあげる勇気も必要なんですよ」
果たして今の自分にそれが持てるだろうか。トゥネリは自分の胸に手を当てて考える。
ソラや彼を慕っていた女性にしてしまったことを。それだけではない。あの時一緒にいた子供たちや父が狂うきっかけを生み出してしまったこと。様々なことが彼女の中で罪として渦巻いている。
それらを許すことはできるだろうか。
(わたしには……そんなこと……)
唇を固く閉ざし俯く。今のトゥネリには、自分を許せるほどの心の余裕がなかった。
「まず手始めに、姫様と仲直りすることからやってみてはどうですか? 喧嘩してしまったのでしょう?」
「セラと……仲直り……」
トゥネリはメルヒの提案に同意する。頭に血が上っていたとはいえ、彼女にはひどい一言を放ってしまった。そのことを謝らなければならない。
だがトゥネリはラミナに言われたことを気にしていた。彼女の言う通り、今の自分では足手纏いにしかならない。そんな状態でおずおずと彼女の前に姿を出していいのだろうか。
ふとセレネーラが口にした言葉を思い出して口を開く。
「メルヒさんは今の生活や今の自分が好きですか?」
トゥネリの問いに、メルヒの表情が一瞬だけ強張った。
「そうですね」
一息置いて、メルヒは黙する。そして立ち上がり、噴水の方に体を向けた。
「好きか嫌いかでいえば、あまり好きではないですね」
「それは生活ですか? それとも自分が?」
「どちらもです。すいません、先ほど偉そうに言っておきながらこんな答えで」
トゥネリは俯く。メルヒもまたなにかを抱えているのだとすぐに察することができた。
「姫様がそう言ったのですか?」
「はい。好きでここにいるわけじゃないのにって」
「そうですか。そんなことを」
二人の間に会話が途絶える。
水の流れる穏やかな音だけが響き渡る。
「メルヒさん、わたし――」
ふとトゥネリがなにかを言おうとした時、
「トゥネリ様。ひとつ聞いてもよろしいですか?」
メルヒがその言葉を遮った。
「あなたはソラ様のことが好きですか?」
唐突なその問いかけに、トゥネリは言葉を失う。一体彼女はどういう意味で、どうして今そんなことを問いかけるのかを。
「どうしてそんな急に」
答えが出ず、トゥネリはそのままの疑問を投げかけた。
するとメルヒは天を仰いで、答えの代わりに自分の思いを口にする。
「私は姫様が好きです。あの方のことを大切に思っています。あの方の苦しみや悲しみを無くしてあげたい。そう常々思っております」
メルヒは真剣な眼差しでトゥネリを見る。
「あなたはどう思っていますか?」
「わたしは……」
自然とトゥネリは口を開き、答えようとした。
「わたしだって――」
答えようとして気がついた。
(ああ……そうか、わたしは……)
自分には彼に償わなければならない罪があるから。あの日お願いされたから。だから自分はソラと一緒にいることを選んだ。そうトゥネリは思っていた。
だが違うことに、彼女は気がついた。
(わたしはただ……ソラの笑顔を守りたいだけだったんだ……)
ラミナの言う通りだった。ただ本心を偽り、別の形で本当の想いを正当化しようとしていただけだ。それは結局ただの嘘でしかない。
トゥネリは目蓋を閉じる。そして笑みを溢す。ようやく一つだけ、答えが見つかったと。
その答えがただの依存でしかないのは分かっている。それでもこの気持ちは紛れもない本心であり、捨てることのできない想い。
「あいつが誰かの笑顔のために戦うなら、あいつの笑顔を守るために戦いたい」
「……トゥネリ様」
「メルヒさん、ありがとうございます。おかげで少しだけ、前に進めた気がします」
トゥネリは立ち上がる。今の彼女の顔は少しだけ晴れやかなものになっていた。
「いえ、私はなにもしていませんよ? トゥネリ様がご自分で見つけたのです」
メルヒも微笑みかける。
「メルヒさんって優しいですね。抱き締められた時、まるでお母さんに包まれているみたいでした」
「母親……ですか……」
トゥネリの言葉に、メルヒの顔が一瞬だけ曇る。
「あっ、すいません。余計なことを」
つい思ったことをそのまま口に出してしまう癖を治さなければ。トゥネリは反省し謝罪する。
「いえ、お気になさらず。もしそうであればどれだけ良かったかと、そう思っただけです」
するとメルヒはすぐに笑顔を取り繕い、頭を深々と下げた。
「トゥネリ様。同じ言葉をあなたに掛けることになりますが、どうか姫様のことをよろしくお願いします」
「はい。わたしもあいつと一緒で、セラが心から笑えるようにしてあげたいですから」
トゥネリも頭を下げると、駆け足でその場を去っていった。
その背中を見送り、メルヒはまた表情を沈ませる。彼女の頭の中では、トゥネリに言われた言葉が反響している。
「今の私にその資格はありませんから」
何かを憂うようなメルヒの呟きは、噴水の穏やかな音に吸い込まれるように消えた。