月が昇り切る頃、ブリアンテス城では異様なほどの静寂に包まれていた。王都内も寝静まり、あるのは街灯の明かりと軽く吹き通る風の音のみ。
城内では兵士たちが見回りをしていた。主に目立つのは槍を持つ兵士。彼らは警戒心を露わにして周囲を見渡しながら歩いている。
そんな城を遥か上空から影が見下ろす。時を待つかのように静かに佇む影は一点、蝋燭の灯る部屋ヘルディロ第二王女セレネーラ=モント=ブリアンテスの部屋を見つめている。
月明かりが雲間から射し込むと影を照らした。影は闇に紛れるかのような黒いマントをはためかせている。顔も体格も隠し、ただ静かに何かを待っている。
ふとセレネーラの部屋の明かりが消えた。
正体不明の影は、口元に笑みを浮かべる。彼はこの時を待っていたのだ。
部屋の明かりが消えてからすばらくして、影は窓の側にまで下降した。
窓から部屋の中を覗く。部屋の中に警護する人間の姿はなく、人と認識出来るのはベッド上の膨らみのみ。膨らみが微かに上下していることから、就寝したセレネーラがいるのだろう。
影は窓に手をかざす。細く華奢な指先でそっと触れると、窓が一人でに開いた。
息を殺し、影は眠るセレネーラに近づく。暗闇に慣れた瞳が、白銀の長い髪を捉えていた。
影はまた笑みを浮かべた。手には一振りの短剣が握られている。
逆手に持った短剣を掲げると、影は口を動かして言葉を発した。
「さようなら……セラ」
その声は女のものだった。
女は掲げた短剣をベッド上に眠るセレネーラに振り下ろす。
このまま切っ先が貫くかと思ったその時、女の体は突然動かなくなった。
「っ……!?」
何かに縛られている。そう女が認識した時、ベッド上の膨らみが立ち上がった。
「やっぱり……あなたが来たんですね」
ベッドで横になっていたセレネーラ――ではなく、偽装していた空色の髪を元に戻したソラが碧眼を光らせる。
「ずっと待っていたんです」
ソラは真っ直ぐとその顔を見つめて言い放った。
「メルヒさんが来るのを」
影は息を飲む。
否定しようにも、この状況では出来るはずもなかった。いや、そもそも彼女は否定する気などなかった。
縛られていない方の手でフードを取ると、メルヒは素顔を晒した。
「いつから気づいたんです? 私が姫様の命を狙っていると」
「いつから……と言われると、最初に出会った時から違和感は持ってました。この人には何かあるって」
「勘……というものでしょうか?」
「そうですね。あなたがユースに最初に言ったことが、まるでユースが来ることを期待していたみたいだなって思ったんですよ」
メルヒは自嘲気味に笑う。たかだかそんなことでずっと警戒されていたのかと。
「姫様は今どちらに?」
メルヒは辺りを見回す。ソラ以外の姿は見当たらず、出てくる様子もない。
「ルーさんと、いえシェルヴェリア姫と一緒に王様のところに向かってます。今ごろ話している頃だと思いますよ」
「あの方も一緒にですか。一体いつの間に? あなたが姫様を連れて戻ってきたには、そのような気配はありませんでしたが」
「彼女を警護している騎士シェルヴィアさんが颯爽と」
なるほどとメルヒは肯く。彼女であれば誰にも悟られずに連れてくる手段を持っている。なにせ彼女は一時期、騎士団の団長を務めていたのだから。
こうも相手の都合よく事が運んでいることにメルヒは笑う。全ては想定の内とはいえ、いざ直面すると笑うしかなかった。
「流石はヴェルティナ様の息子といったところでしょうか」
ソラは首を横に振る。
「ボクはあくまできっかけを作っただけですよ。あとは皆の意思でここまで来たんです」
「なるほど。ですが残念ながら、その皆というのに私は含まれていませんよ」
メルヒは嘲るように笑うと、短剣を持った手を軽く捻る。すると彼女を拘束していた魔力の糸が全て切断されて消滅した。
動揺することなくソラは刀身を見つめる。青白い光りを纏う刀身は、怪しくも美しい。
「その短剣……なにか特殊なものですね?」
「王家に伝わる短剣ダルナシア。魔力で生成されたものを断ち切って無力化する力が備わっています」
短剣の持つ力は魔法を多用するソラにとっては天敵だ。まともに相対すれば不利と言えるだろう。
だがソラは構えない。敵対する意思はなく、ただメルヒの動向を伺っている。
その姿勢にメルヒは眉を寄せる。
「ソラ様はどうして構えないのですか? 目の前に敵がいるのですよ?」
「あなたのことを敵だと思っていないだけです」
明らかな敵意を示すメルヒに対しソラはそう言い放つ。
メルヒはしばし呆然とした表情を浮かべた後に項垂れる。そして短剣を構えて切り掛かった。
ソラは素早く反応すると、接近してきた腕を受け止めた。顔に当たる寸前のところで切っ先が止まる。
「ここまでしても、私を敵だと認識しないのですか?」
問いかけにソラは真っ直ぐな目で頷く。
「甘い考えですね」
メルヒは鼻で笑うと、空いた手のひらをソラの眼前に翳す。
短い詠唱とともに魔力が収束。直後、小さな爆発が起こった。
メルヒは距離を取って様子を伺う。
「あなただって本気で戦おうとはしてない」
煙が晴れると、ソラは瞬時に距離を詰めてメルヒの右手を掴んだ。
「魔力糸をなぎ払った時に使った芸当を使えば、ボクを切る事もできたはずです。でもそうしなかった」
無理やり引き剥がそうと試みるが、予想以上の腕力にメルヒは驚愕する。
「ボクは武器を持っていない。そうなれば防ぐ手段は魔力の障壁を纏う事しかありません。でもあなたの持つ短剣であれば、それを断ち切ることができるはずだ」
「だから手を抜いている。そう言いたいのですか? つくづく甘い考えですね」
笑みを浮かべると、メルヒは手首を捻る。
危険を察知したソラはすぐさま後ろに飛び、メルヒから離れた。
ソラがいたところに見えない斬撃が幾つも飛び交う。
明らかに致命傷を狙ったものだったが、ソラの表情に動揺はない。彼の視線は自然と地面に向いていた。
「今あなたはこう考えていますね? 床を斬らないように配慮していたと」
「メルヒさん。もうやめましょう。こんなことしたって何も意味がない」
「意味がない?」
メルヒは眉を潜める。
「だってそうでしょう? 大切な家族を欺いてまでやることじゃない」
「その物言い……シェルヴェリアから聞いたのですね?」
ソラは肯く。
「あなたの正体が、亡くなったとされている母親だってことを」
メルヒは否定することなく俯く。対しソラはそのまま話を続けた。
「セラが生まれた後、あなたは使用人に扮して彼女を育てた。全てはこの偽りの筋書きが終わった後、彼女の心が壊れないようにするために」
セレネーラが生まれる前のこと。
ヘルディロ王とメルヒはある計画を立てていた。それは成長したソラが王都を訪れた時、彼を王として擁立すること。そのためには現在ある王家が邪魔であると二人は考えていた。
しかしすでに赤子を身篭っていたたメルヒは、苦肉の策として母親であることをこれから生まれてくる子供には伏せようと考えたのである。
いずれ罪人として裏切る身。その罪人が母親であったなどと悟らせないためにも必要なことだと。
あまりに突拍子もない考えだと分かっていても、それが子供のためであるのだと信じてメルヒは決行したのだ。
「でもこんなの間違ってる。相手が誰であろうと、親愛を寄せていたのなら、その人をじつの母親のように思っていたのなら悲しいに決まってる」
「だからもうやめろと仰るのですか? そんなの無理ですよ。だってもう……後戻りできないのだから」
そう言ってメルヒは扉を一瞥する。
その瞬間をソラが見逃すことはなく、口を開いた。
「兵士なら入ってこないですよ。さっきの爆発音、この部屋以外には聞こえないようになってますから」
「なるほど……音を遮断する魔法ですか……」
部屋全体を覆うほどの魔法であれば、仮に短剣の力があろうとも簡単には断ち切れない。おそらく短剣の存在を聞いていたのだろう。
メルヒはそう睨み、ソラを凝視する。得た情報を最大限に活用する姿、そのやり方は母親に似ていると。
ソラとヴェルティナの姿が一瞬重なり、メルヒは奥歯を噛む。
「あなたはどうしても私を止めると言うのですね?」
「今度は家族として、ルーさんやセラと一緒にいて欲しいから」
それがソラの願い。だがメルヒは聞き入れるつもりはなかった。ある目的のためにも、このまま終わらせるわけにはいかないのだと。
「だったら外に出るまでです」
そう言い放ち、メルヒは短剣を懐の鞘にしまう。そして隠し持っていたひとつの結晶を取り出した。
結晶に魔力を込めて放り投げると、結晶は強い光を放出する。
「くっ……!?」
ソラはすぐさま光を直視しないように顔を逸らした。直視してしまえば、視力が回復するまで時間が掛かるからだ。
その隙を狙ってメルヒは外へと飛び出した。
「これで騒ぎを大きくすれば――」
上空を飛んで街中に逃げようとした時、背後に気配を感じてメルヒは振り向いた。
「メルヒさん!」
背後にいたのはトゥネリだった。
城の屋根から飛び降り、自分目掛けて急降下してくる彼女を見てメルヒは目を剥く。
「なんて無茶な!」
咄嗟にメルヒは身を翻して躱そうとする。が、脳裏にトゥネリと交わした会話がちらついた。
「……っ!」
軽い舌打ちとともに、メルヒはトゥネリの体を受け止めて落下する。
なんとか受け身を取ったメルヒだったが、その代わりにトゥネリに組み伏せられていた。
「街には行かせません。行かせたらあなたは騒ぎを立てて、事を大きくしちゃうから」
呆れた表情で、メルヒはトゥネリの目を見つめる。真っ直ぐながらも微かに潤っている瞳を。
「私が受け止めなかったらどうするつもりだったのですか?」
「きっと受け止めてくれると信じてましたから」
トゥネリは自嘲気味に笑う。自分でも危険な行為だと分かっていた。それでもメルヒを信じたのだ。母親としての優しさを隠し切れていなかった彼女を。
その思いを察して、メルヒはため息を吐く。
すべて読まれていた。読まれていたからこそ、ここまで周到な準備が短時間で成されていたのだ。
「トゥネリ、大丈夫?」
心配した顔でソラが降りてくる。
「うん、大丈夫」
「そっか。良かった」
ソラはそっと胸を撫で下ろす。もし外に逃げた場合は任せて欲しい。そう言われて任せたものの、まさか城の屋根から飛び降りてくるとは思ってもいなかったのだ。
その様子を見て、メルヒはくすりと笑う。
「どうやら何も言わずに無茶をしたのですね、トゥネリさん」
メルヒの指摘に一瞬目を逸らしながら、トゥネリは笑った。
「やっぱりメルヒさんは優しいですね」
笑うトゥネリの顔を一瞥してから、メルヒは天を仰ぐ。
自分は覚悟したつもりだった。この日までずっと、覚悟を忘れずにいたはずだった。
ずっと誤魔化し続けていた感情を認識してメルヒは涙を溢す。
娘たちと笑って過ごしたい。時に悩み、時に苦しみながらも、家族同士支え合って生きていたい。そんな思いが込み上げてくる。
「ずっとこの日のために……あの子を騙し続けていたのに……」
吐露する思いを聞いて、ソラは目蓋を閉じる。
きっと彼女にもただならぬ思いがあったのだろう。そのために犠牲者となることを選んだのだろう。
だがその思いは少しずつ変わっていったのだ。本来と違う形とはいえ、愛する娘と時間をともにしていく内に。
「もうその必要はないんですよメルヒさん。今から始めましょうよ……嘘偽りのない家族としての時間を」
すべての原因は自分にある。そう自覚していてもソラは、ひとつの家族がまた笑い合えるように言葉を投げかける。
「あなたたちの思いはわかりました。でもこんなやり方じゃなくてもいいはずです」
「では……王になるのですか?」
問いにソラは首を横に振る。
「ボクはまだまだ未熟です。それに彼女たちの意思を踏みにじりたくないから」
「彼女たちの意思?」
ソラは微笑むと、仰向けのメルヒに右手を伸ばした。
「行きましょう、メルヒさん。あなたの大切な娘さんたちの思いを聞きに」
メルヒは差し伸べられた手を見つめた。微かに震えている。
(そういえば幼い時に……)
自分が向けたものを思い出し、胸を締め付けられるメルヒ。目の前にいる彼はきっと、目を逸らしたくても真っ直ぐ見ていたのだろうと。
そして同時に悟った。もうこれ以上は無理だと。
諦めて、メルヒは微かに震えている手を取って身を起こす。
「わかりました。あなたに同行します」
微かに笑うと、メルヒはそっと震える手を両手で包むのだった。