「そういえば慌てた様子で入ってきたけど何かあった?」
不意に思い出し、ソラは問いかける。部屋に入ってきた時、トゥネリの様子が明らかにおかしかった。何かあったのではないかと。
「あ、えっと……」
対しトゥネリは迷っていた。
送られてきた手紙は老夫婦によって書かれたものではなかった。それはつまり、この手紙は犯人から送られてきたことになる。
しかし今それを話すべきか。話したところで余計な不安を煽ることになりかねない。何より犯人からという確証もない。
「な、なんでもないわ。ただちょっと心配になっただけ」
苦笑を漏らしながら、トゥネリはそう答える。
「そう? 何か隠してない?」
さらに問われて、トゥネリは息を呑んだ。
ソラは人の変化に殊更敏感だ。ほんの少しでも表情を変えれば、心配したように訪ねてくる。
それを痛感し、トゥネリは冷や汗を滲ませる。やはり明かすべきだろうかと。
答えを考えあぐねていると、ソラの真っ直ぐな目と目が合った。
なんの曇りもなく、輝いて見える碧眼。その吸い込まれるような瞳を見た時、トゥネリの脳裏にソラの眩しいほどの笑顔が過った。
「ううん。本当に大丈夫よ。気にしないで」
視線を逸らして、トゥネリは平然とした顔で答える。
手紙は自分に当てられたもの。仮に犯人からだったとしても、その矛先は自分に向けられているはずだ。ならばソラの笑顔を守るためにも話す必要はない。そう彼女は考えていた。
「それよりさ、わたし達この現場がどのようにして発見されたか知らないわよね?」
「あ、うん。隊長さんからは特に聞かされなかったから」
「じゃあさ、ここの隣の家に話を聞きに行かない? もしかしたら何かの手掛かりになるかも」
「わかった。そう……だね」
トゥネリの提案に少し戸惑いながらも、確かに必要なことだとソラは頷く。
「トゥネリ……」
「ん?」
頷いて、ソラはトゥネリの顔をよく観察する。彼女の表情には一切の曇りがない。しかしそれでも言いたいことがあった。
「無理しないでね?」
やっぱり隠し通すのは難しいか、と内心でトゥネリは笑う。
それでも答えるわけにはいかなかった。例えこの身が犠牲になろうとも、ソラの笑顔だけは守り通したいのだから。
「大丈夫よ。ほんと心配性なんだからソラは」
笑顔を取り繕って、トゥネリは部屋を出て行こうと歩き始める。
その背中を追いかけるようにソラも歩く。そしてふと前を歩くトゥネリが、強く拳を握り締めていたのを見逃さなかった。
◇
ベッドに寝転がりながら、セシルは一冊の本に目を通していた。
本には魔法に関する基礎知識――魔法の定義や魔法を扱う際の注意点、魔力に関する一般論などが書かれている。
母親には内緒で図書館から借りてきたものだが、セシルはこれを少し退屈そうにページを捲っている。
不意に彼女の口から深いため息が漏れ、本を閉じると仰向けになった。
「今日もお兄ちゃんはお仕事で帰ってこないのかなぁ」
物憂げな表情でセシルは呟く。
ソラとはまだ会って数日の関係ながらも、すでにセシルにとっては家族に近い存在となっている。その感情の大部分を占めているのは憧れだ。
魔法の本を借りたのも、亡くなった父親やソラのように強くなり、母親を守れる存在になりたいという願いの下で取った行動だった。
「お兄ちゃんともっとお話ししたいのに……」
ソラがしばらくこの家で暮らすことが決まった時は、飛んで喜んだほどに嬉しかった。きっとこれから沢山、この人と話が出来るのだろうと。その中には、魔法についても聞いてみたいという思いもあった。
だがセシルは、その憧れの人と共に過ごす時間は少ないのだとすぐに悟っていた。
亡き父がそうであったように、彼もまた誰かのために日々奔走する。そうなれば自ずと、共に過ごす時間は減っていくのだと。
「お兄ちゃんもお父さんみたいに――」
まさか父親のように、ある日突然いなくなってしまうのではないか。そんな不安が過り、セシルはベッドに顔を埋めた。
思考が悪い方向へと流れていく。今日来るのではないか。それとも明日来るのではないか。不安は恐怖へと変わっていく。
セシル自身、なぜここまでソラのことを心配しているのか分からなかった。あの人なら大丈夫だ。そう思おうとしても、不安と恐怖が思考をすぐに塗り替えてしまう。
いつしかセシルは涙を溢していた。ベッドに被せてあるシーツを強く握りしめて、微かな声で呻く。
嫌だ。大好きな人がいなくなるのはもう嫌だ。そう心の中で悲鳴をあげる。
「ただいま、セシル」
セシルが泣いていると、不意に部屋の扉が開いた。入ってきたのは母親のレフィナだ。
「休憩をもらって、心配になったから帰って――どうしたのセシル?」
レフィナが問いかけたと同時に、セシルは立ち上がって母親に抱きついた。
「どうしたの? なにかあったの?」
何も言わず顔を埋めて泣くセシルに対し、レフィナはどうしていいか分からず動揺する。
ふとベッド上の無造作に置かれた本に気がつき、ようやく原因を理解した。
「そっか。ソラさんがいなくて寂しくなったのね?」
セシルは微かに頷く。
「ねえお母さん……? お兄ちゃんはお父さんみたいにいなくなったりしないよね?」
セシルの問いに、レフィナは胸を締め付けられる。この子も自分と同じように、彼を父親と重ねている部分があるのだと。
それは二人の生き方があまりにも似ているからだ。誰かの笑顔のためにあろうとするその姿が。
レフィナは姿勢を低くすると、小さな体を優しく抱きしめた。
「大丈夫よ。きっと大丈夫だから」
根拠はない。きっとその場凌ぎな一時の言葉だ。
そう理解していても、レフィナが言えるのはこれが精一杯だった。
「ほんと?」
「ええ、本当よ」
「ほんとにほんと?」
「うん。だってセシルはあの人のことを信じたんでしょ?」
レフィナの問いをセシルは小さく頷いて肯定する。
「だったら信じて待ちましょう? ね?」
「うん……」
セシルの体を引き離すと、レフィナはその顔を真っ直ぐ見つめた。涙を流し、顔が赤くなっている。
「ほら、泣かないの。もし帰ってきた時にあなたがそんな顔をしてたら、きっと心配しちゃうわ」
「うん……そうだよね……」
セシルは服の裾で涙を拭うと、再び明るい笑顔を浮かべた。
「大丈夫。ぼくもう泣かないよ」
「そう。偉いわ、セシル」
それを見てレフィナも微笑むと、セシルの頭を優しく撫でた。
この時、セシルの中にある思いが芽生え始めていた。彼女の人生を左右するある強い思いが。
そのことに彼女が気がつくのは、まだ少し先の話である。