抉り食らうは蛇の顎 作:我は蛇なりや
どことも知れぬ森の中、僅か10㎡という狭い空間が区切られていた。
「ふぅーーーーーーーッ」
その中央に立つのは、黒髪の少年。
ボロボロになった袴に素足。上半身は裸であるのだが、この草深い森の中であまりにも無防備が過ぎる格好であると指摘せざるを得ないだろう。
何故ならここは、深山幽谷。人も来ないへき地であり、同時に色濃く自然を残した魔境であるのだから。
「グルルルル…………」
三メートルはあろうかという熊に出くわした場合、矮小な人間が丸腰で生き残れる可能性はほぼゼロだと言っていいだろう。
分厚い毛皮、堅牢な骨格、柔軟だが強靭な筋肉、人とは質の異なる皮下脂肪。一説では、戦前のライフル銃を用いた場合、その頭蓋骨を貫通できなかった事があるという逸話があるほど、熊という生き物は強靭だった。
少年の前に現れた熊は、見るからに腹を空かせている。
ギラギラと怪しい光を灯す黒い瞳は真っ直ぐに少年へと向けられ、鋭敏な嗅覚と聴覚も同じく彼の一挙手一投足を聞き逃さぬ、とばかりに研ぎ澄まされていた。
おもむろにその巨体は立ち上がる。身長百七十前後である彼の約二倍。体格も相まって実際の数字以上に大きく見えた。
「…………」
しかし少年は、そんな怪物のような存在を前にして、逃げず。
右足を引いて半身となり、左腕を曲げて体へと寄せ右腕は鉤にして顔の隣に持ち上げる。
独特な構えだ。その背には、まるで毒蛇が鎌首をもたげて牙を覗かせるような、そんな威圧感が感じられた。
「グルァアアアアアアア!!!!!」
熊が吠える。一度立ち上がり、前足を左右へと広げ反動をつけると四足をもって前へと駆け出した。
その突進は、まるで大型トレーラーにも匹敵するかのような圧倒的なまでの重量感と受圧をもって対象へと襲い掛かってくる。
だが、彼の表情は変わらない。
黒く、暗く澄んだ目でジッとその時を待つばかり。
6メートル、4メートル――――――――1メートル、
「ゴッ!?」
鼻先でカチ上げようとしていた熊は、次の瞬間鈍い痛みに思わず鼻先に痛みを覚える。
反射的に足が止まり頭を振った熊。だが、それはこの瞬間においては致命的な隙であった。
空気の弾ける音。それが複数回響き、その度に熊の頭部が上下左右へと跳ね回る。
「…………」
振るわれていたのは、少年の左腕。独特の円弧を刻むような軌道をもって、打撃と斬撃の中間のような鋭い拳打が熊の顔面に食らいつくようにして襲い掛かっていた。
普通、太い首も相まって人間の拳などを顔面に受けても熊には毛ほども効かない場合が多い。脳も小さいため、人の様に顎先を強打して脳を揺らす事も難しいだろう。
しかし、そんな通説を覆すようにして跳ねる熊の頭部には着実なダメージを与えられていた。
上下左右からの打撃を絶え間なく繰り出し続ける事により、衝撃を体内へと押し留めて無理矢理倒す。まるで、毒でも扱っているようだ。
「ヴゥゥゥゥ…………!」
ふらふらと酒にでも酔っているかのように、熊の足が覚束なくなる。
瞬間、毒蛇は牙を剥いた。
一際強い踏み込みから、掌底とも熊手とも取れるような手の形から放たれる一撃は、直線的な軌道で熊の鼻っ面へと食らいつく。
打撃そのものの破壊力と、触れた直後に蛇の様に食らいつく素早さ。その指先はつきたてられた牙の様に比較的毛皮の薄い熊の鼻っ面へと食らいついた。
そして、引き千切る。
「ゴォアアアアアアアアアアッッッ!?!?!?」
夥しい量の血が流れ、大きく仰け反る熊。後ろ足二本で立ち上がり、前足が鼻のあった場所を抑える。
瞬間、ガラ空きとなった胴体へと毒蛇が食らいついた。
分厚い毛皮も強靭な筋肉も関係ないと潜り込み、内臓の中でも最も重要な器官の一つである心臓へと到達し、
「――――カッ…………!」
食らい潰した。
血が、まるで噴水の様に熊の口から吹き上がり、熊そのものもぐらりと揺れて白目をむき脱力していく。
突き刺さっていた少年の右手が引き抜かれれば、その巨体は後ろへと倒れていった。
「…………ふぅーーーーーーー…………」
右手についた血を払い、少年は大きく息を吐き出していた。
表情には一切の陰りも見受けられることなく、一つの命を奪ったことにすら何の感情も抱いていないことがありありと見て取れた。
熊を仕留めた少年は、遺骸をそのままに放置すると踵を返し森の中心へと戻っていく。
そして再びその場での鍛錬を開始した。
左腕は円弧を描き、撓りながらも急所へと食らいつく。右腕は、垂直にして直線的であり空を切った熊手が風を巻いて空間を引き裂くような威圧感があった。
独特だ。何せ暗殺拳。広まっている既存の格闘技とはそもそも違うのだから。
殺す事の一点にのみ終始しており、正面戦闘も熟せるがやはり殺すことに特化している事には変わりがない。
何故こんなものを修めているかと言われれば、そう命令されたから。そう
親はいない。友はいない。恋人はいない。居るのは、彼に暗殺拳を習得させ練磨した組織の人間とこれから殺すことになるであろうターゲットのみ。
それ以上でもそれ以下でもない。物心つく頃より、彼はそうしてこの十五年を生きてきたのだから。
暗殺拳の習得は五年で終了した。そして七年を練磨に当て続け、最早二の撃ち要らずと呼ばれた最強の拳法家にも迫ると組織の人間たちは鼻高々。
もっとも、褒められたところで彼には何も感じないのだが。情動をつかさどる部分が破壊され精神が歪んだ彼の感情は波が起きる事が無い。
熊との戦闘などを見れば分かるが、恐怖で竦まなくなる。命を賭した攻撃というのをアッサリと選択し痛みを感じようともその動きは止まらない。
正に、
彼の一生は、このまま終わる――――――――筈だった。
「…………?」
突き出した右拳。その先に少年は違和感を覚えた。
陽炎のような揺らぎ。まるでその場所だけ、空間が歪んでおり亀裂が走っているようにも見えた。
彼には目の前のソレが何なのかは分からない。分からないが、それでも彼はその揺らぎへとその手を伸ばしてしまった。
特に何かを考えていたわけではない。強いて挙げれば、何となく。
延ばされた指先が触れて―――――
+
その街は、バベルと呼ばれる天まで伸びる塔を中心として成立していた。
人々を魅了するのは、当が蓋の役割を果たした地下へと延びる迷宮。魔石と呼ばれる核を中心とした怪物が壁より生み出され、日夜跋扈する人外魔境。
この迷宮を攻略すること、その他迷宮の恩恵を受けて暮らすファミリアという集団があった。
彼らの長は、力を封じて下界へと降りてきた天上の神々たち。彼らは、恩恵を下界の人々へと与え眷属として対価を得る。
もっとも、一から十まで神が重用されているかと問われれば、否だ。
零細ファミリアなどと呼ばれるファミリアは少なくない。神自らが働いて日銭を稼ぐことも少なくない。
そして、重要なのがこの世界にはレベルという概念がある事。
偉業を神々に認められることにより上がっていき、今の世界最高は7。一人だけであり、この街で最強というのはそのままイコールとして世界最強との呼び声も高い。
続くのがレベル6。この段階になると、上級冒険者と呼ばれ街内でもファミリア問わずに有名人。街を歩くだけで人々の視線を集める事になる。
そもそもの話、レベル2に上がるだけでも才能が要るのだ。逆に才能がなければ、死ぬまでレベル1で燻り続ける事になる。
残酷なようだが、それが現実。夢を見てこの街を訪れようとも才能に恵まれない者などざらにいる。
そんな街において、現在最強と呼ばれるのは二つのファミリア。
一つは、レベル7を要するフレイヤ・ファミリア。もう一つが探索において最高到達階層を更新し続けてくるロキ・ファミリア。
「絶対に逃がすな!被害が出てしまえば、僕らの責任だぞ!」
ロキ・ファミリア団長である、フィンの声を背に団員たちは疲労を押して駆け抜ける。
彼らが追うのは、十五階層より出現する牛頭人身の怪物ミノタウロス。討伐推奨レベルは2からでありレベル1の冒険者では、それも駆けだしならば間違いなく殺されることになる。
群れていた、ミノタウロスは逃げ出していた。しかも、その方向は上層へと通じる階段があり進めば間違いなく新人の冒険者にぶつかることになる。
そしてこの日、白兎は金糸の妖精と出会う。
そしてこの日、毒蛇は褐色の舞姫と出会う。
+
意味が分からないというのが正直なところだろう。
「…………」
歪みに触れたその瞬間、世界が揺らいで気づけば彼はここに居た。
格好は変わっていない。晒された上半身に傷は無く、袴もボロボロのまま。
ただ、世界が変わった。先程までは森の中に居たというのにいつの間にか、洞窟の中に居たのだから。
「…………?」
周りには、何かが動く気配が彼の肌を空気を介して叩いてくる。
反射的に構えると、より感覚を研ぎ澄ませて彼は視線のみで周囲をなめる様に見回していた。
そして、来る。
「ブモォオオオオオオオオオッッ!」
「…………」
二足歩行の化け物牛。ミノタウロスが、暗がりの先より彼をその赤い瞳で見つめていた。
肩で息をしながら、極度の興奮状態であるらしく右足でしきりに地面を引っ掻き、首を振り鼻息も荒く毛が逆立っていた。
怪物だ。しかし少年は一切の動揺を見せることなく構えたまま逃げ出すそぶりも見せない。
どうやら、彼の眼には怪物もこれまで手にかけてきた熊やイノシシと同じものにしか見えていないらしい。何より、人型の方が殺りやすいというのもあった。
「ブモォオオオオオオオオオ!!!」
ミノタウロスの突進。その粉砕力は容易く巨岩を粉砕するほどであり、特にその角は希少な鉱石と似たような成分を含んでいるため、少なくとも甲冑程度ならば容易に貫くことが可能だ。
運悪くというべきか、この通路は一本道。左右に抜けるルートが一本も存在しないため、背を見せて逃げるか迎撃するかしか選択肢は無い。
彼の選択は、迎撃。狙うのは、
「…………ッ」
「ブモッ!?」
その硬質な角。直線的な右腕の打撃が食らいついていた。
角のある生物の角は、頭蓋骨と繋がっている。そこを響くように強くたたかれると同時に頭蓋も揺れるのだ。
こうなると頭蓋を通して、如何に小さな脳であっても揺れる。それが二足歩行の生物ならば一定以上の脳みそを持ち合わせている事は確定であり、脳震盪を起こすことになる。
この場合、人間が顎先を殴られたことに等しく、如何に屈強であろうとも膝が揺れるのだ。
例に漏れず、ミノタウロスの巨体が揺れた。だが、倒れるほどのダメージなど期待できるはずもなく赫灼の瞳が少年を捉えて離さない。
その凄みは、容易に鑪を踏ませそうなほどの威圧感があるが彼はひるまない。
「…………」
「ボォッ…………!」
左拳を振り上げて表情一つ変えることなく、ミノタウロスの反対の角をぶっ叩いた。
響いた衝撃にその巨体が揺らぎ―――――
「ブモォオオオオオオオオオ!」
剛腕が振るわれ、少年の体がまるで小枝の様に吹き飛んでいく。
「…………ふむ」
空中で姿勢を制御し、着地した少年はその勢いのまま後方へと滑りつつ己を殴り飛ばしたミノタウロスを見た。
「…………揺れていない?いや、回復か」
素足で岩盤を滑るなど、足の裏がズタズタになりそうなものだが彼は山育ち。面の鉄面皮と同じように頑強な皮膚は、この程度では裂けるどころか傷一つ付くことは無い。
だが、何も無傷とは言えなかった。
彼の左腕、前腕の骨にヒビが入っている。そして。同じく右の肩の骨にも。
先程のミノタウロスの一撃は躱せてはいなかった。後方へと跳びながら威力を殺してはみたものの、人外の腕力というのは恐ろしい。
しかし、裏を返せば会心の反撃をたったそれだけの被害で抑えてしまったとも言える。
すぐさま構え直し、今度は彼から前に出た。
かなりの距離が空いているようにも見えたが、伊達に鍛えてはいない殆ど瞬きの間にミノタウロスの懐へと潜り込むと右の熊手を捻りながら前へと突き出した。
だが、
「…………硬い、な」
ガリガリと表面を削る鈍い音だけが響く。
少年の指先は出血していた。爪が剥がれて、わずかに指先が肉に食い込んでいるもののとてもではないが致命傷には程遠い。むしろ、突っ込んだ彼の方がダメージが大きいだろう。
生半可な鍛え方はしていない。相手の毛皮の無い露出した部分が硬すぎるのだ。
「ブ―――――」
「…………ッ」
動きの止まった彼を襲おうとするミノタウロスだったが、その前に引かれた右腕が振り上げられその頭は大きく後方へとカチ上げられていた。
僅か一歩、後退するのみ。されど一歩、後退させた。
振るわれた左腕。狙われるのは関節部。
いかな生物、無機物含めて関節部というのは共通の弱点だ。可動の為に余裕を持たせなければならず、結果的に皮膚であれカバーであれ装甲であれ、脆くなってしまう。
何より、敵の攻撃を最小限に抑えるのに肘を破壊するのは定石と言えた。
問題は、相手の耐久性。
「…………ッ」
ズキズキと痛みを伝えてくる手足が相手の並々ならない耐久性を示している事に他ならないと彼は考えながら拳を振るう。
肩肘周りを重点的に狙い、自身に降りかかる攻撃を最小限の動作でいなしながら着実に、確実に、一歩ずつ前へと進んでいく。
「…………ッ、フンッ」
「ブモッ!?」
一際強い右拳が、ミノタウロスの胴体へと突き刺さった。
衝撃が頑強な皮膚を貫き、その背後へと突き抜けていく。
「―――――ブモォオオオオオオオオオ!!!」
しかしそれでもまだ足りない。ミノタウロスは右拳を振り上げて力任せに破壊せんと振り下ろし、
「…………モッ?」
腕が止まった。正確には、止められた。
食らいつくのは、少年の左手。その左手が、軋みを上げるほどの力をもってミノタウロスの右肩へと食らいついていた
まるで蛇が食らいついたかのようだ。そして、痺れた様にして止められた腕は動かせない。
「…………終わりだ、化け物」
最初の一撃の様に、熊手に放たれる右の一撃。
先程の焼きまわし――――――にはならない。
「ブッ――――――!?」
硬い表皮を、何のために何度も殴っていたのか。
肉の調理法に、硬い肉を叩いて引き延ばすというものがある。これにより、筋なども伸ばすことができ軟らかくすることが可能なのだ。
彼は己の体でそれを成した。ある一点のみを叩き続ける事で鋼のような肉体を皮膚ごと軟らかくする。
その為に、彼の拳は潰れかけたが十分な対価は得た。
螺旋回転しながら突き出された一撃は、皮膚を貫き筋肉をかき分けて臓腑を漁る。
そうして、
「カッ…………!?」
「…………」
パキリ、とミノタウロスの核である魔石が握り砕かれ、ミノタウロスは沈黙した。
引き抜かれる腕。積み重なったダメージで指先はあらぬ方向へと曲がっているし、所々裂けて中身を晒しているという悲惨な有様。
それでも彼は、無表情だった。右腕を確認し、使えないと判断してそれでお終い。消えていくミノタウロスを見送り、
「…………ん?」
そこで何かが転がっている事に気が付く。
それは、黒い角だった。洞窟の中でありながら、それは独特な存在感を放って転がっている。
最早動かない右腕ではつかめないと判断して、彼は左手でそれを持ち上げた。
「…………?」
何なのか、彼の知識にはない。ただ、戦利品である事には変わりがない。
どうしたものかと考えて、
「あーーーーーーッ!」
横合いからの声に殴られた。
見れば、褐色の肌をした服の防御力が限りなく低い少女が少年へと駆け寄ってくるではないか。
「君、大丈夫!?」
「…………ああ」
「って、大丈夫じゃないじゃん!その手、大丈夫なの!?あ、ミノタウロスの角!君がミノタウロスを倒したの!?それじゃあ、レベル2とかなのかな?!あ、ごめんね!その前に治療しないと―――――って、あたしポーション持ってなかったぁ!」
うきゃーっ、と騒ぐ少女を見ながら少年はある感想を覚えた。
(…………猿みたいだ)
いつぞや山で見たいたずら猿。それを思い出すあたり、彼もいつも通りという事だろう。
彼の内心など知る由もない少女はというと、
「ちょっとこっちに来て!フィンにお願いしてポーション分けてもらうから!」
「…………?」
「あ、フィンって言うのはあたしのファミリアの団長で、あ、そうだった!自己紹介してなかったよね?」
少女は一度離れると笑顔を作って、振り返る。
「あたしはティオナ!ティオナ・ヒリュテ!君は?」
「…………芥」
「アクタ?変わった名前だね」
「…………」
少年、アクタは答えない。只もしも、この後に言葉が続いたらこう言った事だろう。
――――――塵芥の芥だ