気がつけば5月も終わり際。人生のかかったテストが目前に迫ってくるもので、今日も生徒たちはピリピリしまくっている。春のうららかな日の下で阿鼻叫喚が響き渡っているので、気持ちばかりの応援をしておこうかなと思いましたどうもみなさんトミーポッターです。
みんな勉強がんばれ♡ がんばれ♡ 学生なんだから勉強するんだよ嫌って言ってもよぉあたりまえだよなぁ!! はっはっは! あー…勉強したくな。他人事みたいな雰囲気をかもしだしたけど、僕も一年生として進級テストを控えてるんですよね。下がるわ…テンションさがるわほんとに。
まあ逃れられぬカルマに抗う方法などなく、僕も図書館の机に座り勉強してる。
……ふりをしているんですねぇ。うーん、この。
ちがうんだよ、右を見ても左を見ても勉強してるのが悪いんだよ!! なんだろう、勉強色の覇気垂れ流すのやめてもらっていいですか? 窓の外眺めてぼーっとしてるだけでなんか悪いことしてるみたいな気分になるんすわ。あ~あいつサボってんなみたいな空気と視線感じるんすわ! 僕の鍛え上げられすぎたエアリーディング能力がビンビンに敵意を感じてるんですわ!! こんなん…フリでも勉強するしかないじゃないっ!!
別に勉強したくないとかね…そんなことはね…まあないこともないんだけどね。大事だよね勉強な。ホグワーツでの成績って割と人生かかってるもんね魔法省とズブズブのずぶだしさ。キャリア形成はスタートダッシュが一番お得ってそれ一番言われてるから。
でもねぇ~…僕が心配したいのは数年後の進路じゃなくて明日の我が身なんだよなぁ。どうすんだよこれこのままじゃ一年目おわっちゃうよ足音聞こえてきてんだよもうさぁ…。
ため息ついて世の中をはかなみたくなっちゃうけど、ここはため息すらも騒音判定し罰則を狙ってくるマダム・ピンスの領域。気軽に嘆きを表現することもできないのだ。ホラー映画の舞台か何か? ええい、くそっ! こんなところにいられるかっ! 僕はドリーの隣に帰らせてもらう!
…まあ帰らせてもらえないんですけどね、悲しいなぁ…。
考え事がしたいと言ったあの日から、ドリーは全然かまってくれない…というか、僕を遠ざけているみたいなのだ。もう終わった?って近寄っても、まだだからあっちに行ってなさいって…。待てが長すぎてしょうじき心が…折れそうです……。
僕と四六時中べったりだったドリーが、まさかこんなふうに一人になるなんて思ってなかったからか、どうやら女王様は飼い犬に飽きてしまったようだなんて噂が聞こえてくる始末。やめろお前らぁ! おかげで僕は不安で夜も眠れなくなっただろうがよぉ!! どうしてくれるん? それともお前が寝かしつけてくれるんか教科書の読み聞かせでさぁ! くそう暇人どもめ。どうしてその熱意を他のことに向けてくれないんだうわさ話する暇があったら勉強しろよもおぉー!
そんなこんなで深刻なドリー成分不足によって、僕の顔色は日に日に悪くなっていく一方だ。医者のお墨付きだよもう。診断書は自分で書く羽目になるだろうけどさ。あぁーつら。今なら安らかに逝ける気がする。いや逝けない。一ミリも安らかじゃねえわ…。いいや、もう居眠りしようかな。視線が何だってんだ上等だろ僕だって生き物なんだよ寝て何が悪いんですかぁ?? よし、寝る!! もう知らん!! というわけで、瀕死の重体で頭も回らない僕は惰眠をむさぼることにしたのだ。ぐう。
…こつん、と誰かに頭を叩かれた。
(やっぱり堂々と眠るのは)ダメみたいですね。
と、顔を上げたその先には輝ける僕の女神様が立っていた。
突然のドリー成分の供給により全身の細胞が喜びにうち震え、頭からつま先までしびれるような甘い電流がかけめぐるので、僕は思わず叫んでしまうのだ!
ああ、ドリー!! 僕のすてきな飼い主様!!!
いやまあ、もちろん口パクだけどね。だってここ図書室だし……。
とりあえず、僕は熟練のスーパー店員のような手さばきで荷物を片付けて、ドリーに連れられるまま外に出た。ドリー! ずいぶんと久しぶりに感じるわなんて、ひとことでまとめないでおくれ! 僕は君にお預け食らって死にそうになってたんだから!!
一緒に歩いている間、僕はもうニコニコと…そりゃもう、自分でもびっくりするくらい、ニコニコのにこちゃんだった。うーん、たまんないね!!
ドリーはそんな僕を見て嬉しそうだったけど、少しつらそうだった。
「呼びつけておいてなんだけど…ここで話す内容でもないわね。
そうね…今晩、寮の談話室で会いましょう。人払いはしておくわ」
“考え事が終わったってことだよね。おっけー! 楽しみにしてる!”
「…ええ、そうね。ふたりきりで話をしましょう」
そしてすっかり日は暮れましたとさ!!
みんながぐっすりと眠った真夜中。地下に埋もれた談話室。大きな窓の外には水底があり、月の光が差し込んでいる。なんてロマンチックなシチュエーション! 僕はドキドキしてきちゃったね! 君も同じ気持ちならいいんだけどと、椅子に座るドリーに声をかけた。
“おまたせ、ドリー!”
「気にしないでいいわ。待たせたのはわたしでしょう」
僕が笑えば、ドリーは笑いかえしてくれる。
“ほんとに誰もいない。すごいね、どうやったの?”
「大したことじゃないわ。スリザリンでは顔が利くの。私はマルフォイだから。
よく知ってるはずよね?」
僕はようやっと気が付いた。ドリーは表情をみせていない。笑顔の仮面の下に、本心をしまいこんだままだ。
“…なんだか、意地悪してる? 僕はほんとにさみしかったんだよドリー。君とはなれて、それはもう死んじゃいそうになるくらい、つらかったんだからね”
「ええ、わたしもよ。一人はさみしいものね。けれど、時として味方にもなる。…あなたをそばにおいたままにしたら、いつもみたいに気が紛れてしまっただろうから」
“なにそれ。喜んだほうがいいのかな。じゃあさ、そうまでして考えてたことってなにか教えてくれる?”
嫌な予感がする。僕は焦っている。から回っている。まだ大丈夫だと自分に言い聞かせている。
なのに、ドリーは、冷たい笑顔で言い放った。
「いいわよ。でも、先に命令しておくわ」
もう二度と、アーニー・ポッターを助けないと約束しなさい。
もう二度と、ハーマイオニー・グレンジャーにかかわらないと約束しなさい。
トミー・ポッターの問題は、飼い主であるドリー・マルフォイにすべて預けると約束しなさい。
そんな言葉を、命令としてドリーは無感動に言い放った。
“…急にどうしたの、ドリー”
「返事は? はい、以外の言葉はいらないわよ」
―――――………。
“ねぇ、もしかして僕捨てられちゃったりするのかな”
「わたしがあなたを捨てれるわけないでしょう。あなたがそうするならともかくね」
“それ笑えない冗談だよ、ドリー。”
「知ってるわ。冗談でもこんなことはいいたくない。でも、確かめないといけない。
わたしはもう引けない位置にいる。だから、わたしはこうするしかないのよ」
ああー、くそったれ。クィレルのクソ野郎。ほんとうに余計なことをしてくれた。
間抜けなトミー・ポッター。あいつに負けたツケの支払いがくるよ。
「可愛らしく愛想をふりまくから、無邪気に信頼を寄せてくるから。知らなかったわ、トミー。
あなた隠し事が上手なのね。おかげさまで飼い犬が死にかけるまで気がつかなかった。
誰か知らないけれど、私は感謝したほうがいいのでしょうね。あなたを殺そうとした誰かに。
飼い犬が道端で死んでから悲しむ、間抜けな飼い主にならずに済むのだから」
ほら見たことか! クィレル! このクソ野郎!
隠そうとした嘘、お月様が暴きにきたじゃないか!
“あれは事故だったって、スネイプ先生が言ってたよ。箒の故障だってさ”
「あら、そう? じゃあ短気で思慮も分別もないあなたの姉は、なぜ憎い憎いわたしから矛先を変えたのかしら。なぜあんな屈辱的な要求を飲み込んだのかしらね。なぜ今も忙しそうにこそこそと走り回っているのかしら」
“さあ…昔からアーニーは元気だからね。何か楽しいことを見つけたんじゃないかな”
「わかってはいたけど強情ね。あなたもわたしも、今しかないと思うけれど? わたしはどうでも構わないのだから」
“…どういう意味?”
「わたしのかわいい飼い犬を狙うのが誰なのか。飼い犬にどんな事情があるのか。飼い主にかくれて何をしようとしているのか。興味がないと言っているの。
事情をわたしに打ち明ける必要もない。なにが起きているのかも関係がない。それでどうなろうと構わないと言っているのよ。
あなたが今、“わたし”に飼われたいと望むならね」
ドリーは僕から目をそらし、窓の外の湖を見た。
「考え事の内容だったわね、トミー。あなたが飼い犬でいてくれる理由について。わたしの何を求めて傍にいるのかについてよ。今から言うことは否定してくれていいわ。…いいえ、否定してほしい」
水底にそっと石を投げ入れるみたいに、ドリーは言った。
「あなたは“わたし”を必要となんてしていないのでしょう。
ドリー・“マルフォイ”が必要だから…わたしの傍にいるんでしょう」
僕が黙っていると、ドリーは力なく笑った。
「―――ようやく腑に落ちたわ。
わがままばかりで人をふりまわしてばかりのこんな小娘に、あなたみたいな子が懐く理由なんかないもの。神様は皮肉屋ね。血によって無条件に認められたいと、尊ばれたいと望んだからって…こんな仕打ちをするなんて。
ほんとうに虚しくなる。」
ドリーは懐から小包をとりだした。そして、赤子をなでるようにやさしくそれを開く。
月の光に照らされた美しい首輪は、眠るように佇んでいた。
「確かめなどすればよかったのにね。ずっとわからないままにすれば、わたしは幸せになれた。
なんであなたはわたしの傍にいるのか。離れようとしないのか。尽くしてくれるのか。
信じられなくて、疑ってしまった。だからアモルテンシアを、何よりも強力な愛の妙薬なんてものを使った。人を恋に、愛に狂わせてくれる恐ろしい薬。周りからは、さぞ卑劣な手段に見えたことでしょうね。でもこの薬は完ぺきではないのよ。
―――ありもしない愛を作り出せるわけではないの。
すこしでもあなたがこの首輪を望んでいてくれたのなら…この子はわたしの手の上になかった」
ドリーは僕の首をみた。そこにあるはずのものを想いながら。
「わたしのことが好きなんだと信じたのに、わたしに飼われたいんだと信じたのに。
そう信じきればよかったのに、わたしは疑ってしまった。愛の妙薬を使ってしまった。
そして、あなたは首輪をつけなかった。
わかってしまったのよ。
あなたが好きなのは、忌々しい穢れた血。
あなたが大切なのは、血を分けた双子の姉。
あなたは“わたし”の飼い犬になることなんて、かけらも望んでいない」
ドリーが首輪をもてあそぶ。慈しむように、あやすように撫でる。
僕はそれを眺めている。一枚の絵画を見るかのように。どこか非現実的に。
「どうしようもなく傷ついた。憎い人に、周りに当たり散らすようになった。
それでも苛立ちは収まらなかった。矛先が、あなたに向きそうになった。
だからわたしは、縋るしかなかった。
あなたはわたしに庇護してほしいんだと、そう信じるしかなかった。
それだけが拠り所だった。わたしが飼い主でいられる理由だった。
わたしの慰めだった。
考えれば考えるほど虚しいものね。
あなたをよく思わない者たちや、うわさ好きのわずらわしい羽虫たちから、
アーニーでもハーマイオニーでもなく、わたしに願っている。
あなたの身を守ること。心を守ること。それが理由で、好意の対価なのだと、縋ったのに。
あなたは助けすら求めてくれない。
あの時、少しでも迷っていれば、わたしはあなたを失っていた。
わたしが巻き込んだクィディッチで、無理やりに付き合わせたから。
あなたはわたしが巻き起こしたいざこざのせいで死にかけた。
…と、そう考えていたのだけれど、違うのね。
あなたはいつもと変わらずに笑顔で尻尾を振ってくる。
アーニーはわたしに頭を下げて、屈辱にまみれてでも感謝をする。
わたしの知らないところで、わたしの知らない事情で、あなたは殺されかけた。
なのに…“わたし”には何も言わないのね。あれほど自分を惨めに感じことはないわ。
たとえ死にかけたとしても、あなたは“わたし”が飼い主である理由を与えてはくれなかった。
いいえ、与えられないのね。だって、そんなものありはしないのだから。
あなたの奉仕の対価は、“わたし”が払えるものではないのだから」
そこまで話しきって、ドリーはようやっと息をついた。
くちびるを震わせながら、結論を告げるのを待っている。
僕が否定してくれるのを待っている。
あぁ、“噓”をつかなくちゃ。
そんなことないよって、君の考えすぎだよってさ。僕は君が好きなだけなんだよってさ。
誠実さなんてクソくらえ。けつ拭く紙にもなりゃしない。
…わかってるのに、わかってるのになぁ。
「トミー。あなたは“マルフォイ”に飼われたいのね。
“わたし”である必要なんて、どこにもないのね」
そして告げられたチェックメイト。
心がどんどん冷たくなるのがわかるよ。
自分がどれだけ冷酷なのか、よくわかる。
―――ドリー、君がもっとひどい人ならよかったのに。
「傘が必要だと思ったんだ。アーニーを守ってくれる、大きな傘が。
生まれた時からずっと…僕たちは敵には事欠かなかったから」
諦めてしまえばするすると、僕の口は無感動に音を垂れ流す。しかたないよ。僕は嘘をつきたかった。でもツケがたまりすぎたんだ。僕は負けて、ツケがたまって、それを払えと言われてるんだから。はーぁ、やだな。
隙あらば自分語りってやつを、僕はやるしかないんだね。
「ずっと、誰にも守ってもらえない場所で生きてきた。集団からあびせられる罵声や暴力がどれだけ抗いがたく恐ろしいか知ってる。敵だらけの街で、味方のいない場所で生きるのがどれだけつらいか、身に染みてる。それがどれだけ心を蝕むのか、僕は人一倍に実感してきた。
アーニャがどれほど怖がり、怒るのかも」
プリペット通りの四番地、満面の笑みのダーズリー一家。ひとりで髪をかきむしるアーニャ。
頭の中に詰まった嫌な記憶が、堰を切ったように押し出されていく。
「ホグワーツに来ることになって、僕はどうしたもんかって悩むはめになったんだ。僕らは知らないところで有名人。そのくせ魔法界のことはチンプンカンプン。誰が敵で誰が味方になるかもわからない。未来がどうなるかなんて、普通は誰にもわからない。もちろん、僕にもね。だから僕らはいつも目を光らせてた。
ドリー、きみは信じられないだろうけど…いまでこそあんなに元気になってくれたけど…昔のアーニーはとても内気で臆病な子供だったんだ。人間不信で疑心暗鬼のね。危なっかしくてみていられないさ。護られていてほしい。安心してほしい。けれど僕では護り切れないとわかっている。
だから僕は傘が欲しかった。雨が降っても、代わりに濡れてくれる傘が。信頼できる、大きくて立派な傘が。けど…そうそうみつかるわけもないだろ? それっぽいのはいたんだけどね、僕には開けそうになかった。
だからほんとうに困ってたんだよ、僕は」
ダイアゴン横丁でなめたキャンディーの味を思い出す。不安そうにするアーニの横で、僕は脳天気をよそおって飴を差し出した。ああ、懐かしいな。人生はじめての甘い甘いお菓子をなめるアーニーの顔。びっくりしてたな。僕にとっては十数年ぶりの甘味、けれどちっとも甘く感じなかった。その横でほんとうに途方に暮れてたから。
「そんなところに、きみが話しかけてくれた。そしてきみが…自分の家がどれだけすごいのか教えてくれた。僕は内心小躍りして喜んだよ。きみが、僕に興味を持ってくれたんだから。本当に…本当に、神様に感謝したくらいさ。
なんて可愛らしい女の子。すごく大き家に住んでいて、お金持ちで、権威もあって、見栄っぱりだ。気に入られなきゃいけないってすぐにわかった。そしたら僕もアーニーも守ってもらえるかもしれないって。
僕はきみを、きみの家を、僕らの傘にしたてあげたかったんだ」
もう嫌だな。これ以上何も言いたくない。
ドリーが遮ってくれたらいいのにな。もう聞いていられないって。
あぁ、お月様は表情を変えてくれない。ただ静かに罪人を照らすだけ。
なら僕はまだ踊らなくちゃいけない。足がもつれたとしても。
「普通の仲良しなんかじゃ足りなかったんだよ、ドリー。僕は狂わなきゃいけなかったのさ。きみは僕の飼い主だ、女神様なんだって。そうして僕の全部を捧げてでも、きみの大切な人になりたかった。アーニーは僕がそうするのを心底嫌がったけどね。あははっ! いまさら大したことでもないのに!
愛玩動物のマネも、気に入らない主義を飲み下すことも、笑顔で奴隷になることも。ぜんぶ、ぜーんぶ安いもんさ! 僕はなんてことないのさ!
演じるのが飼い犬なだけましさ。
僕はもっとひどい場所で、ずうっともっとひどい役を演じてきた。
純血主義なんて心底嫌いだよ。
でも尻尾を振れば腹は膨れるんだ。何もしてくれない神様よりよほどいいじゃないか。
奴隷みたいにこき使われるなんて、それこそ楽勝だ。
あのクソどもに比べたらなら、きみは本物の女神様だったよ。
そうとも、安いものさ。僕は嘘できみをだましていた。
ねぇ、僕がきみになにを差し出させようとしていたかわかるかい?
きみの大切なもの全部さ。家族も、名誉も、誇りもぜんぶなのさ。
きみの全部を僕のために利用しようとしたのさ!
僕は、僕は、きみのことなんて――――」
美しくて残酷な僕の女神様。どうか許してください。
突き付けるのはやめてください。隠したままにさせてください。胸の内など暴かないでください。
僕がどれほどろくでもない奴かなどと、とっくにわかりっているんです。
あいつらと何も変わらないんてことは、同じ穴の狢だなんてことは。
「どうでもよかった」
だからどうか、このまま僕を行かせてください。
「どうでもよかったのに――――」
―――君がもっとひどい人ならよかったのに。
そしたら僕はこんなひどい奴にならなくてすんだのに。
雲がかかり、月の光がふっと消えた。水の中を揺らめいていた月光のカーテンは姿を消した。
窓の外には、ただ暗い水底だけがあった。僕は自分がそこに沈んでいるように感じた。
「――――狡猾さを恥だなどと思うのはやめなさい」
それまでの儚げな表情が嘘だったかのように、ドリーは平然と僕を見ている。
美しいグレーの瞳には、変わらず月のような輝きがやどっていた。
「よくわかったわ。ようやくわかったわ、トミー。あなたがどんな人なのか。
わたしのかわいい飼い犬は、飼い主がただのお人よしの小娘だと思っているのね。純朴で裏の顔などかけらもない、救いの女神のように信じているのね。嘘をつき、隠し事をし、裏切りを行うのは自分だけだなどと、本気でおもっているのね。
――――そんなわけがないでしょう、バカな子ね」
包んだ首輪をふたたび取り出して、ドリーは僕に歩み寄った。
「あなたは騙しきらなければいけなかったのよ。かわいらしく笑って無知を装わなければいけなかった。
あるいは、なにくわぬ顔で、後ろめたさをかくしてわたしを踏みにじらなければいけなかった。
―――そうしたら騙されてあげたのに。
あなたがわたしに嘘をつけたのなら。あるいは私に縋りつけたのなら。
あなたはまだわたしを利用できると、見守ってあげられた。
目的のための狡猾さがまだ残っていると、信じてあげられた。
かわいそうな飼い犬に免じて、歯を食いしばって耐えてあげたのに。
飼い犬になりたくないだなんて嘘を、信じてあげられたのに」
そして僕の手に首輪を握らせる。僕の望みを暴いていく。
「トミー、わたしのかわいい飼い犬。いじらしい正直な愚か者。
あなたはもう何もするべきじゃない。
アーニー・ポッターを助けないと約束しなさい。
ハーマイオニー・グレンジャーにかかわらないと約束しなさい。
ドリー・マルフォイに支配されると約束しなさい。
自分のことだけ考えて、どうすれば傷つかなくてすむのか考えなさい。
敵がそこにいるのなら、すべてを利用してでも自分の身を守りなさい。
くだらない情になど囚われず、いますぐにそこから逃げ出しなさい。
わたしはあなたの選択を尊重するつもりだったのよ。
あなたがその状況から抜け出せるのなら、どんな選択も受け入れるつもりだった。
なのに、あなたは何も選べなかった。
目的のために他のものを切り捨てることができなかった。
自分の望みに従うことすらできなかった。
もうどうしようもなくなっているんでしょう。
だったら―――もう一度命令してあげるわ。
全部忘れて、全て預けるの。悪いようにはしないから。護ってあげるから。
わたしの首輪をつけなさい」
そして飼い主は飼い犬に懇願する。
「わたしを遠ざけようなどと、無駄なことはおやめなさい。
飼い犬が家を出ていきたいと思っていたとしても、
飼い主がそれを許さなければどこにも出られないのよ
どうかお願いだから……“わたし”の言うことをききなさい」
ドリー、気がつかなくてごめんね。僕の素敵な女王様。
なんであの時、首輪をつけろと命令しなかったのか、僕はようやくわかったよ。
きみは僕に選んでほしかったんだね。
僕の意志で、“ドリー”・マルフォイを選んでほしかったんだね。
そうだね、全部きみの言うとおり。なら言わなくてもわかってるのにね。
ねぇ、できると思うかい?
僕の返事がわかるよね、ドリー。
「―――むりだよ。だって僕、ドリーのこと大切だもの」
僕は首輪を受け取れない。ごめんね。僕の女神様。
トミーくんドリーちゃん大好きってマジ?
マジです。