その日見た夢はいつもと同じ、父の教えをなぞるものではなかった。
楓の身体は幼い頃のものではなく、その手には父が握るものと同じ、長刀と刀による二刀流だった。
「…………」
「どうした? 早く構えろ」
父には己が幼い時分のものにしか見えていないのだろう。
常と変わらぬ様子で一刀を青眼に構え、楓が仕掛けてくるのを待っている。
「……いえ、少し手足の感覚を確かめていました」
楓は何も言わず腰を落とし、本気で父と相対すると心に決めて目を細める。
どんな夢なのかはわからないが、千載一遇の好機。逃す手はない。
「――っ!」
一瞬の踏み込みの後、父の眼前まで迫った楓が今持てる全ての技術を注いで双刃を振るう。
驚愕の表情を浮かべたのも刹那。父はすぐさま楓の剣術に対応し、握る刀と火花を散らした。
手数で勝る楓の乱舞を父は当たるものだけ見極めて弾いていく。
押している。楓は刀を振るう手を止めることなくそれを確信する。
父の剣は全くもって正確無比に楓の剣を弾き、己の身に刃を走らせることなく防いでいるが、それだけで防戦一方だ。
そして父の剣筋も楓の目がしっかりと捉えていた。
どこからどんな剣閃がどんな速度で放たれるのか。剣を交えていた頃は一切わからなかった情報が手に取るようにわかる。
「――」
「む……っ!」
やがて彼らの攻防は楓の予測通り一方的なまま推移し――やがて楓の放った剣閃が父の刀を弾き落とした。
父はいささか以上に驚いた様子で距離を取り、弾かれた剣を握っていた腕を軽く振る。
「さすがだな。今のお前相手に刀一振りは手加減を通り越していたか」
「…………」
「ここからは俺も本気でやろう。さあ、始めるぞ……!」
次の瞬間、父の手には楓と全く同じ長刀と刀の二刀流が握られ、楓が幼い頃に見た以上の速度で踏み込んでいた。
正真正銘、今が本気の父である。楓も応えるように二刀を握りしめ、父の剣に応え――夢はそこで終わった。
そして話は椿が普段の背景すら透けている姿と比較して、だいぶ濃くなっている現状に戻る。
椿は楽しそうに楓が普段持つ長刀を握り、刀を上下させて重さの感触を楽しんでいた。
『おおー……あ、楓、おはよう』
「……お前、それはどうした」
『わかんない。起きたらこうなってて、この刀だけなら持てそうだなって思ったら持ててるところ』
楓の脳裏に様々な可能性がよぎる。
その中には椿が付喪神として正式に覚醒を果たしたものもあったが、昨日まで姿に変化が見られなかったのに今日になっていきなり変わった、というものに違和感があった。
「……付喪神に覚醒した、という可能性は」
『わかんないって。そもそも今の私、他の人に見えているのかもわからないよ』
「……外で確認するか」
楓と椿が外に出て、いくつかの確認を行っていく。
まず、今の椿は楓が使っている長刀を同じように持つことができる。当然、それを振るって別のものを傷つけたり、斬ることも可能。
ただし、椿が干渉できるのは椿の長刀だけである。楓がもう一振り使っている、左の刀についてはこれまで通り触れることも干渉することもできなかった。
他にも楓への干渉はこれまで通り可能。相変わらず彼女は楓にだけ干渉し、楓もまた彼女には触れることができる状態だった。
『こんな感じかな。あんまり変わったって感じでもないね』
「そうだな。とはいえ、お前はこれで他人に干渉する術を獲得したわけだ」
『楓が使ってる刀を盗めば、ね。楓相手にそんなことできる度胸ないよ』
「……まあ良い。後は他人に見えるかどうかだけだが――おっと」
楓が話していると、ちょうど椛の足音が聞こえてきた。
少し待っているとまだ眠そうな目をこすりながら、椛が楓たちの鍛錬に使う中庭にやってくる。
そして空に浮かんでいる長刀を見ると目を丸くした。
「楓、おはよう……ってどうしたの? その刀、空に浮かんでるけど」
「誰かが見えているわけではありませんね?」
「? ええ……」
「だそうだ。椿、お前はやはり見えていないよ」
『そうみたいだね。残念というか、これまでと変わらなくて安心したというか』
肩をすくめる椿だったが、椛は話が掴めない様子で首を傾げている。
そんな彼女に楓が今朝からの状態を報告する。すると椛は不思議なこともあるものだとうなずいていた。
「はぁ……椿さんが楓に見えているって話は前から知ってたけど……とうとうここまで来たんですね」
『私の生前……っていうのもおかしいけど、見た目はお母さんの知り合いそっくりなんだっけ』
「――だそうです」
「声も聞こえないし、やっぱり楓にだけ。でも、その長刀絡みの付喪神なら納得なのかしら」
『納得されちゃった。でもこれではっきりしたね。私の声や身体はやっぱり楓にしか見えない』
長刀と関わりの深い人ならあるいは、といった可能性もあるが、それも椛に見えないことで可能性としては潰えたと言えるだろう。
「今朝起きたらこうなってました。普段は刀に干渉までできなかったはずなのに。母上は何か心当たりは?」
「私の方は普段通りだったわよ? 特に変わっているところなんて――」
椛が否定しようとした時だった。慌てた様子の天子の足音と同時、何かが飛び出してきたのは。
「む?」
「きゃっ」
「ちょっとそれ捕まえて!」
いきなり飛び出してきた棒状の何かを、言われるがままに楓が捕まえる。
手の中で暴れるそれは、見れば緋想の剣の柄だった。これを天子が握ることにより刃が生成され、緋想の剣となる。
手から抜け出そうとするそれを握って抑えながら天子がやってくるのを待つと、廊下の向こうから天子が現れる。
「楓、捕まえた?」
「捕まえた。これは一体?」
「わかんないわよ。朝起きたらいきなり緋想の剣が動きはじめて、逃げ出したの」
「…………」
思わず椿と顔を見合わせてしまう。
急に長刀へ干渉できるようになり、付喪神として覚醒を果たした椿と、今朝起きたらいきなり動き出した緋想の剣。事象がよく似ていると思ったのだ。
「……時に天子、俺の後ろにある長刀が浮いているのはわかるか?」
「へ? ああ、なんか浮いてるわね。なに? なにか術でも使ったの?」
「いや、そう見えているかだけ確認したかった」
どうやら天子にも椿は見えていないらしい。
違いがあるとすれば楓は椿が見えていて、天子には緋想の剣に関わるものが見えていないところくらいか。
「こっちも朝起きたらこうなっていた。お前の方も似たようなものらしいな」
「そうね。椛の方はなにもないの?」
「私の方は何も? ほら」
そう言って椛は稽古に使う剣と盾を見せてくる。
楓たちが見ても動く様子はまるでない。正真正銘、ただの道具だった。
「となると、今の所動くのは俺の剣と緋想の剣か。……共通項を見出すには情報が少ないな」
「外で誰か別のものがないか探してみる?」
「……見る限り、外でもいくつか道具が動いているな。まだ人の起き出す時間じゃないから騒ぎになってないだけで」
この調子では阿求のところの道具も怪しい。
彼女に被害が行くのは避けなければならないので、ある程度まとまったら阿求のところへ行くことを決心する。
「道具が動き出す異変か? さっさと霊夢に動いてもらうとして、何がどうなって――」
『……ねえ、楓。もしかしてこれ、私みたいなのが力を持つ異変じゃない?』
「……一から説明しろ」
椿が口を開いたため、楓が説明を促す。
「この姿だけ見てると虚空に話しかけてるヤバい奴よね」
「だから人前で話さないように厳命してるんですって」
「非常事態だ」
二人を黙らせた後、椿の説明を聞いてみる。
『うん、一番最初に私がおかしいって気づいたでしょう? それで色々なものも動き出している。これってつまり――』
「……付喪神になりかけていたやつが一斉に成った?」
『私はそう思ったよ。正しいかはこれから確認すれば良いし』
「……なるほど、仮説の一つとしては悪くない」
つまり楓の刀と天子の持つ緋想の剣は付喪神化するに相応しいだけの時間が経っており、椛の武器はそうでないという意味になる。
……そういえば母は父との鍛錬の折、しょっちゅう武器や防具を壊されていたと話していた覚えがある。だから彼女の使う武具は付喪神にならないのだろうと、楓は母に一瞬だけ同情の視線を向けた。閑話休題。
楓は椿から聞いたことを天子らにも話し、早速動き出すことを明言する。
「母上は念のため自警団の方に顔を出してください。騒ぎが大きければそちらを鎮める方にお願いします」
「わかったわ。じゃあ早速行ってくる」
「天子は霊夢の方に報告を頼む。終わったら阿求様の屋敷に」
「今回はあんたと一緒に動けるのよね?」
「こっちも野暮用を終えたら合流する。そこからは一緒に行動しよう」
「なら了解」
手際の良い楓の指示を受けて動き始めた二人を見送り、楓は一人になったところで改めて椿を見る。
「俺たちは易者のところに行く。天子を動かしたのは方便だ」
『要するに一人で動ける時間が欲しかったのね。了解。あくどい主人を持つと大変だ』
椿の言葉に何も言わず、肩だけすくめて楓もまた動き出すのであった。
「易者」
「おお、これは当主殿。何か御用で?」
楓が魔法の森の廃屋を訪れると、易者は水晶玉を用意しながら笑いかけてくる。
しかし楓は知っている。つい先程まで楓の周囲を黒々とした悪意が渦巻いていたのを。
十中八九、彼による呪術だろうと当たりをつけていた。正直、悪意程度で折れる心ではないので無視していたが。
「今起きている異変を知っているか?」
「ふむ、初耳です」
楓が事情を説明すると、易者はしまっていた水晶玉を取り出して占いの準備をする。
「私の元へ来たのは――」
「占いを頼む。手がかりになるのが映れば何でも良い」
「では早速――む、むむむむむ……!」
力を集中させて占いを開始する易者に、楓は何も言わず待ち続ける。
彼が嘘を付くとは考えていない。今や自分と彼の関係性は明白で、自分が阿礼狂いの当主で彼がその手足である。手足が意識した通りに動かないなど、そんな手足は不要なだけなのだから。
「……逆しまの城が見えますな」
「なるほど」
「おそらくそこに何らかの関係があるものと思われます」
「わかった、上出来だ」
易者にそれだけ告げると楓は廃屋を出て、再び何かを考える姿勢に入る。
彼の占いを信じる以前に、外れている可能性もあるが――それでも彼が語った逆しまの城とやらが無関係ではないだろう。
これを霊夢に教えれば多少は早く異変も解決するはず。特に最近は自分が表に出すぎたところもある。
今の所、異変は道具が勝手に動き出すというだけ。それにしたって最悪、楓が魔眼を使って強引に阿礼狂いに堕としてしまえば終わりである。
「……今回は霊夢に花を持たせるか」
『お、動かないの?』
「人里に害は……あるが、まあ騒動の域を出ないんだ。俺が焦って動く必要もない。たまには阿求様と異変解決を待つのも悪くない」
『私がこうなったのも異変のせいだとすると、これが終わったらおしまいかなあ。短い天下だ』
「どうだろうな。存外、これで意識を持った付喪神たちがどうにかする算段をつけるかもしれない」
『そうなっても私は楓の剣以外に動かせないチンケな付喪神だけどね。まあいっか。楓が選んだ道が私の道ですよっと』
椿は特に惜しむ様子も見せずに楓の方針に賛成し、いつも通りふわふわと浮かびながら頭の後ろで手を組んだ。
「……そういえばお前はないのか」
『何が?』
「緋想の剣は天子から逃げていただろう。あれは要するに天子の使い方に嫌気が差したから、とも言い換えられる。そういうのはないのか」
『全然? だって私を一番上手く使えるのは楓以外にいないでしょう?』
「…………」
『道具の本懐は上手く使われることだ。私という剣をこの上なく上手く使うのは私じゃなく、楓。それだけだよ』
「……そうか」
『間違いなく。私が剣を握っても私より楓の方が上手く斬れるし、上手く扱える。さっき剣を握って確信したんだ』
椿は剣の付喪神。それ故に求めるものは誰よりも己という剣を担うに相応しいものだ。
そして今朝方、剣を実際に自分で握り、自分で振ることで確信に至っていた。
自分程度より、自分をずっと握ってきた少年の方が担い手として相応しい、と。
『だからこれからもよろしくね、ご主人さま?』
「……今更新しい武器を探すのも手間だ。嫌だと言っても手放すつもりはないから安心しろ」
機嫌よく楓の頭に抱きついてくる椿を無視して、楓は阿求たちとの合流を目指して飛び出すのであった。
稗田の屋敷に向かうと、ちょうど起き出したらしい阿求と鉢合わせする。
見れば彼女の後ろからいくつも筆や文鎮などが彼女を追いかけており、それから逃げている様子だった。
「あ、お兄ちゃん! 聞いて、朝から道具が動き出して大変なの!」
「把握しております。おそらく付喪神化しているものと。少しお待ちを」
パタパタと慌てた様子で現れた阿求に頭を垂れ、断りを入れてから魔眼を解放する。
今の道具は付喪神化を行い、簡易的ではあるが魂を所持している状態。つまり――魔眼の対象である。
「死ぬより恐ろしい目に遭いたくなければこれまで通りにしていろ」
一瞥するだけで付喪神と化した道具の魂を掌握した楓が底冷えする声で恫喝すると、道具はパタリと地面に落ちてそれきり動かなくなる。
「これで屋敷にある道具は大丈夫だと思います」
「お兄ちゃんの目って妖怪からはそんなに恐ろしいのね……」
「魂を鷲掴みにされる感覚らしいので、慣れないというだけでしょう。ともあれ道具を片付けて戻ります。少しお時間いただきます」
「うん。終わったら私の部屋で知っていることをお願い」
「かしこまりました」
道具の片付けをしている間に天子とも合流したため、二人は揃って阿求の部屋を訪ねる。
「お待たせいたしました。天子の方は何かなかったか?」
「人里が大騒ぎになってるって話したらやっと重い腰を動かしたわ。勘に任せて飛ぶみたいだけど、博麗の巫女はそれが正解でしょう」
「霊夢さんもすでに動いている、と……お兄ちゃんの方はどうでした?」
「知己を当たりました。どうやら逆しまの城が異変に関係しているという情報です」
「逆しまの城ぉ?」
怪訝そうに天子がつぶやくもののその目は好奇に彩られており、楓が詳しく話したら今にもそれを探しに飛び出しそうな空気が漂っていた。
「詳細は自分にもわかっていませんが、それを探せば異変に関連するさらなる情報が得られるかと」
「お兄ちゃんはどうするつもり?」
「動きますが、今回は霊夢に花を持たせたいと思っています。あまり自分が動きすぎると、あいつが今度は怠けかねない」
自分が動かなくても楓がどうにかするでしょ、とか言ってサボる未来がありありと予想できた。
阿求にもそれはわかったのか、困ったような笑いで同意する。
「あ、あはははは……」
「……それに妖怪の動きも少し気になります。その辺りを多少調査できれば、と」
「もっと面白いこと探しに行きましょうよ。逆しまの城なんてうってつけじゃない」
「探さないとは言ってないだろ。それに俺の力がどうにも落ちている」
「は?」
楓がつぶやいた言葉に阿求と天子の二人が同時に反応する。
さらりと告げていたが、楓の力が落ちているとはどういう意味だろうか。
「言葉通りの意味だ。今朝から身体が重くて、術が思うように使えん。天子はこの前の神々との話を覚えているか?」
「どの話?」
「普段は暴れない妖怪が見境なく暴れているという話だ」
それを聞いて思い出したのか天子は顎に手を当てる。
「おとなしい妖怪が暴れて、道具が付喪神になる異変……ひょっとしたら俺も異変の影響を受けているかもしれないと思ってな」
「なるほど。力が落ちているってどのくらい?」
「あまり強い妖怪と戦いはしたくないといったぐらいだな」
技の冴えは変わらないものの、大幅に力が制限されていることは事実。
今の状態でかつてのレミリアと戦ったら文字通り瞬殺されるだろう。
「だから今回は天子と動く。何かあったらお前の力が頼りだ」
「……っ! ええ、ええ、存分に頼りなさい! この私、比那名居天子があなたの力になってあげるわ!」
「じゃあ二人ともお願いします。お兄ちゃんは無理しないでね?」
「危険になったら天子を囮にして逃げてきます」
「やったら一生恨むからね」
「そうならないことを祈ろう。では阿求様、行ってまいります」
「うん、行ってらっしゃい」
楓と天子は異変調査のために部屋を出ていき、その姿を阿求は笑って見送るのであった。
「……本当、お爺ちゃんそっくりになったなあ」
少年と少女が並んで御阿礼の子に背を向けて歩く姿に、阿求は懐かしい影を想起する。
阿求が見た覚えのない、白狼天狗と男が並んで進む風景が幻視されたのだ。
「――」
どこか懐かしさを覚える幻に阿求は目を細め、やがて穏やかに笑って目を閉じて自分のものではないけれど、確かに懐かしい思い出に浸るのであった。
「行くアテはあるの?」
「先に見ておきたい連中がいる」
「誰よ?」
「草の根妖怪ネットワークだ。おとなしい妖怪が暴れるとなると、彼女らが気になる」
人里上空を飛びながら、楓は行動の方針を天子に説明する。
もしかしたら彼女らにも異変の影響が出ているかもしれない。そうなっていた場合、楓たちが殴り倒して鎮圧するのが両者のためだろう。
「ふむ」
「無駄足なら無駄足で構わない。仮説が一つ潰れるだけでも意味がある」
「良いけど、それが終わったら逆しまの城探しを手伝うのよ」
「草の根妖怪ネットワークの居場所と同じ方向だから安心しろ」
すでに逆しまの城の場所は特定していた。
何しろ千里眼の持ち主なのだ。怪しいものがあるとわかっていれば幻想郷全土を見通して確認するぐらい簡単である。
天子にその情報を伝えると彼女はいよいよワクワクが抑えられないとばかりに興奮した笑みを浮かべ、前を見た。
「未知が近づくこの感覚。やっぱり冒険ってたまらないわ……! あんたも一緒だし言うこと無しね!」
「草の根妖怪ネットワークを忘れるなよ」
楓が一言注意を入れた後、楓の案内で草の根妖怪ネットワークが屯している場所に降り立つ。
そこには普段からよく見かける橙、影狼、わかさぎ姫の姿とは別に、普段はほとんど見ない蛮奇の姿もあった。
橙以外の三人は全身をうずうずと震わせており、橙はそんな三人を心配そうに眺めている。
「よう。一体何があった?」
「あ、楓! それが三人とも急に力が溢れてきたって言って……! 私も力が溢れた感覚はあったけど、三人みたいにはならなかったのに!」
「暴れ出したくて仕方がない! ああくそ、楓、当たっていいか!?」
「ば、ばんきっきが良いなら私も良いよねというか我慢できなーい!!」
楓が何かを言う前に我慢の限界だった影狼が飛びかかってくる。
初めて出会った時とはまるで違う速度の突撃だったが、楓は驚いた様子もなく横に飛んで回避し、がら空きの脇腹に容赦ない蹴りを入れる。
「ぐはぁっ!?」
「――」
痛みに怯んだ影狼が腹部を押さえると、楓はそんな彼女の首を引っ掴んで上空に放り投げ、拳と足による乱打を空中で叩き込み、最後に蹴りで地面に叩き落とす。
楓に突撃する前までは元気いっぱいだった影狼も、一連の攻防ですっかり大人しくなって萎れていた。
「満足したか?」
「はい……でもちょっとぐらい情けも欲しかったです」
「抜刀しなかったんだから手加減した。お前たちもやるか?」
遠慮しますと首を横に振られ、いつの間にか身体の震えも治まっている様子だったので楓は橙の方に向き直った。
「影狼ちゃんがやられる姿で正気に戻ったわ」
「右に同じく。やっぱりアホみたいに強いんだなお前……」
「俺も異変の影響を受けているのか、力は普段より落ちている。他にも色々と騒動があった」
人里で起きている騒動を話すと、四人は不思議そうに首を傾げた。
「そんなことが起きているんだ。私たちは暴れそうになってすぐこっちに来たからわかんないなあ」
「あんたたちはそれ探るの?」
「そのつもりよ。あんたたちは?」
「くっくっく……」
天子が橙たちにどう動くのか聞いたところ、橙がよくぞ聞いてくれましたとばかりに含み笑いを始める。
何事かと楓と天子が顔を見合わせ、とりあえず鬱陶しいので耳を引っ張ろうと楓が一歩踏み込んだ瞬間、橙は俊敏に動いて楓の頭に陣取った。
「耳引っ張ろうとするんじゃないわよ! でも今こそ! 私たちにチャンスが回ってきたのよ!!」
「チャンス?」
「そう――下剋上よ!」
「下剋上?」
橙の言葉をオウム返しに聞き返しながら、橙を頭の上に乗せた楓たちが不思議そうにする。
はて、この妖猫に下剋上なんて大仰な言葉を使う相手がいただろうかと疑問に思っていたところ、橙の口からその人物の名前が飛び出す。
「今こそ! 私のご主人である藍さまに下剋上をして私たちの方が強いって証明するのよ!」
「…………」
「さあ子分たち! 私に続きな――ええい、動きなさいよーっ!」
意気揚々と動くよう指示を出す橙だが、楓が困惑したまま動かないので橙が頭をグリグリと動かしてきた。
「いや何でだ? 彼女に不満でもあったのか?」
「え? ないけど? いつも言ってるじゃない。藍さまみたいに強くなるって」
「じゃあどうして下剋上なんて言い出すんだ」
「私がお仕事を代わって上げるの! 私の方が強いんだったら、藍さまには少しぐらい休んでほしいから!」
「ああ、なるほどそういう……」
橙らしい理由で安心したというか、下剋上なんて言葉を使うから紛らわしいと思ってしまったというか。
とりあえず腹いせに楓が頭をグリングリン動かすと、橙は慌てながらも楽しそうに抱きついてくる。
「きゃーっ」
「俺と天子は別の方向だ。悪いがそっちに加勢はできない」
「最初からアテにしてないわよ。――さ、行くわよ影狼、蛮奇、わかさぎ姫!」
ぴょんと地面に降り立った橙がマヨヒガへ向かい始めるのを見て、影狼たちは諦めた様子でその後ろをついていく。
その途中、楓とすれ違いざまに影狼が耳打ちをして藍の人となりを聞いてきた。
「……ねえねえ楓、橙ちゃんの言ってる藍さまって優しい人?」
「橙の遊びだとすぐ気づいて付き合ってくれるはずだ。必要以上に痛めつける人じゃない」
「なら安心か。異変で力が溢れているけど、変に暴れて注目されるよりそっちの方が良いや」
「この状態じゃ人里にも戻れん。仕方がない、彼女に付き合うか」
影狼と蛮奇、わかさぎ姫が橙についていくのを見送った後、楓は天子と一緒に肩をすくめる。
「……あっちは問題ないだろう。こっちも動くか」
「九尾の狐に挑むってのも面白そうだけど、逆しまの城も面白そう……面白いがたくさんあるって良いわね!」
「はいはい」
そう言って歩き始めてすぐのことだった。彼らの上空に影が差したのは。
「うん?」
「――天子、下がれ」
千里眼で何が迫っているのかをすぐに察知した楓が天子を抱き抱え、後ろに飛ぶ。
するとその直後、彼らの頭上から巨大な何かが落下してくる。
重苦しい地割れの音と地響きが辺りに広がり、爆心地とも呼べる場所から凄まじい勢いで砂埃が舞う。
「……っ、何!?」
楓の腕から降りた天子が緋想の剣を構えるが、楓はこの砂埃の舞い方や音にどこか聞き覚えがあった。
そう、一度どこかでこれと同じような状況に遭遇したことがあるのだ。
それは緋想天の娘と知り合う奇貨になった異変の始まりで、天子が要石に乗ったまま地上へ降臨した時の光景にそっくりで――
「…………それが、お前の見初めた男か」
「え、ちょ、お父様!?」
天子の使うそれより一回り大きく、一回り頑強そうな要石に乗り、厳しい面持ちで自分を睨みつけるその視線を受け、楓は密かにため息をつくのであった。
「いつか来ると思っていたがこのタイミングで来るか……」
ということで次回は天子パパンとの戦いになります。なんで戦うのか? 娘を取られた(父視点)親のやることなんて決まってるじゃろ?
なお楓は異変の影響でだいぶ力を削がれているので、メインは天子と椿になる予定です。