「それで報告はしてきたか?」
「ええ、まあ。後で本人にもちゃんと説明はしました」
「ん、ならば良し」
妖怪の山の山頂付近。雲海を貫く山肌の一角で、一組の男女が話していた。
どちらも烏天狗。年若い男性の烏天狗は艶のある黒翼をはためかせ、腕を組んで烏天狗の少女――射命丸文の報告を聞いていた。
「でも相当な譲歩ですよね? 人里からの通いで構わず、その上でこちらの教えられることは全て教えるって」
「それでこれから先を人里の守護者となる予定の奴に顔をつなげるなら安いもんだよ」
「はぁ。――天魔様がそう言うなら良いですけど」
天魔。天狗のみならず妖怪の山全てを統べる者に与えられる称号を背負った男の烏天狗は、千年以上もの年月背負い続けた重責を微塵も感じさせない、稚気のある笑みを浮かべた。
「新聞が流行るのは大いに結構なんだが、他のことが疎かになっても困る。――その意味じゃ、放逐した白狼天狗の子供が山に来るなんてのは良い刺激だ」
「快く思ってない連中まで焚きつける気ですか?」
「己を磨くことをサボられるのも良くないってだけだ。……まあ、旦那の息子の顔が見たいってのも否定はしないが」
否定しないんですか、と呆れた顔になる文に笑いを返しながら、天魔は己の思考を話す。
「別に今の時点では色良い返事がもらえなくても良い。要するにオレたちはこんなことを思ってますよ、と伝えられれば良いんだ」
「ふむ……確かに今まで私たちは個人ならともかく、勢力としてあの子に接したことはありませんね」
「オレも旦那に会いに行きはしたが、息子の方にはそう面識もない」
「期待していなかったと?」
「――まさか」
飄々と笑う天魔の笑みの質が変わる。稚気の含まれるそれから、どこか老獪で狡猾な思索をのぞかせるものに。
「子供を直々に後継者とした時は純粋に驚いた。普通、才能ってのは子に継がれるようなもんじゃない」
「二世、というのは何かと比較もされる立場ですからねえ」
「だが、あの子は違う。断言しても良い。――あれの才覚は旦那以上だ」
尤も、文の報告を聞く限りではまだ己に自信が持てていないようだが。
しかし天魔の口ぶりには確信があった。紛れもなく自分たちと同じ位階――否、それ以上の領域に足をかける才覚を楓に見出していた。
「あれ以上……あれ以上かぁ……」
文は天魔の言葉を受けて遠い目になる。
楓の父親とも文はかつて知り合っており、それなりに話もした間柄だった。
知り合った当初は厄介ながらも戦えば五分五分ぐらいになるだろうと思っていたのに、いつの間にか手の届かない領域まで飛躍を遂げた人間の力量に、どこか苦手意識があった。
……楓の父はスペルカードルールのない、人と妖怪の戦いは殺し合い以外になかった頃の人間であったため、敵対するものにはとことん容赦しない苛烈な性格であったことも一因ではあるが。
「全く、時代の節目ってやつは続くものだ。旦那、次代の博麗、旦那の子。どいつもこいつも幻想郷に一波乱も二波乱も起こす」
「それには同感。本当に――今は楽しくて仕方ないわ」
「そうだな。――そろそろオレたちも動くか。天狗の腰が重いなんて冗談にしても笑えない」
一方その頃、渦中の人である楓は自分が妖怪の山で注目されている人間であることなど全く知らないまま、妖怪の山近くを歩いていた。
腰には仕留めた兎がぶら下がっており、川辺で捌いて持ち帰り、阿求の好物である兎鍋を食べてもらおうと考えていた。
「さて……」
仕留めた獲物を解体する時などに使う小型の刃物を取り出し、皮と肉を分解しようと考えた時だった。
血の匂いに惹かれたのだろう。軽快な足音がこちらへ向かってくる。
手元が狂わぬよう集中する作業だと、どうしても千里眼での把握も疎かになりがちだ。楓は己の未熟を恥じ入りながら、兎の解体を続けていく。
「この血の匂い……兎ね!!」
やがて現れた少女――橙は鼻をすんすんと鳴らしながら見事に楓の抱えていた獲物を言い当て、楓の背中からそれを覗き込む。
刃物を扱っているため、いきなり飛びつくのは危ないと察していたのだろう。
「やった、正解! 景品は兎で良いかしら」
「少しで良ければ分けるよ」
楓は振り返らずに答えながら、淀みない手付きで兎の解体を進めていく。仕留めたら素早く解体して血抜きをし、清水でその血を流す。
またたく間に大まかな部位ごとに解体された兎肉を見て、橙は目を輝かせる。
「上手に捌くのねえ。私は仕留めたらそのままかじってたわ」
「妖怪はそれで良いかもしれんが、食べるのは阿求様だからな」
「私もそっちの方が好きよ? 同じ兎でも全然美味しさが違うもの」
「まあ、そりゃ美味しくなるように加工しているわけだし」
丸焼きと一緒にされては困るというものだ。そちらの野趣が良いと思われる時はあるが、大抵の場合では手間ひまかけた方をありがたがるのが人間である。
楓は分解した兎の肉を紐でまとめて縛り、いくつかを橙の方に渡す。
「ほら、これで良いか?」
「うーん……」
しかし、橙はそれを受け取らず気難しそうな表情で腕を組む。
どうしたのかと思って反応を待っていると、彼女は名案を思いついたとばかりに手を叩く。
「そうだ! そのお肉はあんたにあげるから、私にもご馳走してよ! お夕飯でしょ?」
「阿求様が良いと言ったらな。ダメだったら諦めてくれ」
ダメと言われることは恐らくないだろうが、一応そう言っておく。
橙は気にした様子もなく自信たっぷりの顔でうなずいた。
「ふふん、我ながら良い案ね。楓とも遊べるし、美味しいご飯も食べられる!」
「待て、着いてくる気か?」
「ダメなの?」
「この肉を置いたら別の友達に会いに行くつもりだった」
「じゃあ紹介してよ」
「ふむ……」
影狼とわかさぎ姫のところへ顔を出そうと思っていたため、橙を連れて行って良いのかわずかに悩む。
……悩んだ結果、別に橙なら連れて行って問題ないという結論に達したので、了承することにした。
「まあ良いか。怖がりなところのある妖怪だから、あまり怖がらせるなよ」
「ふふん、それはどうかしら。私から溢れ出るこの未来の大妖怪の力が……」
「ほら行くぞ」
文字通り赤子の時から付き合っている楓が一度も感じられていないので、無用の心配だった。
「あ、待ってよーっ!」
一旦人里に戻って解体した兎を置いた楓は、肩に乗っかってくる橙をそのままに霧の湖へ向かう。
「あんたの友達、こっちにいるの?」
「一応入れ違いにならないかは確認した。できれば迷いの竹林が良かったんだがな」
「なんで?」
「もうひとり、紹介したい友達がそっちにいた」
世捨て人が如き暮らしをして、永遠亭の主と無意味で有意義な殺し合いを続ける以外に何もやることのなかった少女――妹紅に紹介したかった。
楓の直感が多分に混じった推測になるが、彼女は誰かとの付き合いが必要だ。自分や慧音だけでは恐らく足りない。
誰かが彼女を繋ぎ止めなければ、彼女はまた永遠の殺し合いに慰みを見出すだけになるだろう。それを止める役として、橙はぴったり当てはまる。
強くなくて良い。ただ純粋に誰かを心配できる誰かが妹紅には必要なのだ。
(……この考えについても色々と言われそうだが――まあ、その時はその時だ)
「楓? 紹介したい人がどうかしたの? あ、もしかして怖い人とか? そういうことなら私に任せなさうわわっ!?」
少し黙っていたら見当違いの方向に橙が心配し始めたので、頭を揺らして止めてやる。
「違うから頭で暴れないでくれ。揺れる」
「今のあんたが揺らしたわよねぇ!?」
「ははは何のことやら」
「ちょっとは親分を敬いなさいよ!?」
「敬ってなかったら肩から振り落としてる」
本当に小さい赤子の頃は逆の立場で橙に肩車してもらった覚えもあるので、楓は自分の肩に橙を乗せることへの抵抗は特になかった。
だが、多分楓の父が同じことをやろうとはしないだろう。無理やり肩に乗ろうとしても全力で振り落とすはずだ。
橙は楓の敬っている、という単語だけ都合よく聞いたようで一転して機嫌良さそうに頭上で鼻歌を歌い始める。
「橙さまの偉大さがようやくわかったようね。……はっ、これから先の子分も皆、赤ん坊の頃から面倒を見ればいつか私は大勢の子分に慕われるようになるのでは!?」
「それができるなら、まあ」
ただ、それでも橙が慕われる方向はこのお調子者の幼猫の面倒は誰かが見なければならない、という方向性になるだろうな、とぼんやり思う楓だった。
などと会話を交わしているうちに、草の根妖怪ネットワークの面々である影狼とわかさぎ姫のいる場所まで到着する。
千里眼で見たのは二人がおしゃべりに興じる姿だった。
しかし今回はわずかに違い、二人の姿が見える前に二人の耳にある音が飛んでくる。
「んにゃ、歌?」
「そのようだな」
幻想郷ではあまり耳にすることのない類である。子供の童歌程度ならともかく、大人が歌う姿はほとんど見ることがない。
そういえば最近はある夜雀が人前で歌い始めるようになり、人気を集めているとかいないとか。永遠亭の薬やら何やらであまり関与できていなかったので、今度確認しておこうとついでに思う。
さておき、今の歌に耳を傾ける。争いを好まないわかさぎ姫らしい、優しい旋律だった。
穏やかな波のような、聞くものの心を落ち着ける温かい歌声に楓は目を細める。
「良い声ねえ……」
「同感。……中断させるのも悪いから、少し待ってから行くか」
「賛成」
一も二もなく賛成が来たので、楓はその場に立ち止まってわかさぎ姫の歌に聞き惚れる。
取り立てて上手いといったものではないが、最後まで聞くと優しい気持ちになれる歌を終わりまで聞き、改めて楓たちは影狼らの前に姿を現す。
「はー、いい歌だった……って、楓! よく来たね!」
「……もしかして、聞いてた? 少し恥ずかしいわ」
「恥じ入るものではない。綺麗な歌だった」
頬をわずかに赤く染めて恥じ入るわかさぎ姫に答えながら、橙を頭に乗せたまま楓は適当な場所に腰掛ける。
「うんうん、楓もやっぱりそう思うか。もっと自信持っていいと思うよ、姫?」
「自信とか、そういうのじゃないの。ただ、好きだから歌ってるだけ」
「そっか、なら好きに歌って! それが一番綺麗な歌声だと思うから。で、私にも聞かせて!!」
「で、楓。気にしないようにしてたけど、その子はどちらさま?」
影狼が橙について聞いてきたので、自分との関係性も含めて紹介する。
「ふっふーん、将来の八雲である私と知り合えたことを光栄に思いなさい!」
「あはは、面白いことを言う子だねえ。楓にこんな知り合いがいるなんて思わなかったよ」
「頭からまるっと信じてないわね!?」
橙の頭をポンポンと撫でながら朗らかに笑う影狼に、橙はむすっと頬を膨らませる。
「……一応、言っていることは事実だ」
「えっ?」
「こいつの主は八雲藍で、その上は八雲紫になる。その意味ではこいつは確かに将来の八雲だ」
「え、本当? 今からでも土下座する?」
「ちょっとまってなんでそこで流れるように正座するのっていうか止めなさい楓!?」
「だってほら、こう偉い人への無礼って要するに切腹じゃないの命だけは助けてください」
「疑問と命乞いを同時にするのはやめなさい!? というか殺さないから!?」
全く迷う素振りを見せず命乞いを始める影狼と、すでに逃げ出す用意を整えているわかさぎ姫の姿に楓は内心でため息を吐く。
彼女らの力が弱いのはその通りだが、この姿は改めた方が良いのかもしれない。助けを求められる誰かとのつながりを持つというのは大切なことである。
「橙はそういう奴じゃないよ。二人に紹介する相手は吟味している」
「そっか、なら良いや」
「ねえ楓、あんた友達って選んでる?」
一瞬で手のひらを返した影狼の姿を見て、橙は一周回って心配している顔で楓を見てきた。
なので楓は橙を安心させるべく、應用にうなずいて答える。
「実はそこまで選んでない」
「ダメじゃない!?」
自分を慕う相手は自分も知りたいと思う主義だった。だから影狼に橙を紹介したり動いているのだ。
「悪い人にだまされてからじゃ遅いのよ!?」
「こいつらが俺を騙せるならそれはそれで面白いと思う」
「楓、きみって私らのこと何だと思ってるの?」
「誰とも関わらず生きていたいけど、誰とも関わらないではいられない程度には弱い妖怪の集まり」
「うぐぅっ」
楓の容赦ない言葉に胸をえぐられたように抑える影狼だが、その顔にはあまり傷ついたものがなかった。
「別に悪いとは言ってない。ただ、色々あったとは言え俺とは友達だと言ったんだ。これを機に他の友達を増やしても良いんじゃないか?」
「……そうかな?」
「俺はそう思う」
「わかさぎ姫はどう思う?」
「確かに今でも満足してるけど……もっと楽しくなるなら賛成、かな」
控えめながらも楓に賛成するわかさぎ姫の姿を見て、影狼は楓によく見せるどこか自信なさげで朗らかな笑みを浮かべる。
「……ん、じゃあそうしよう! というわけで橙ちゃん、弱っちい妖怪が集まって話す草の根妖怪ネットワークだけど、きみさえ良ければまた来ない?」
「ふふん、私が来るからには弱小なんて言わせないわ! 未来の大妖怪、橙さまの子分ですって胸を張って言えばいいのよ!」
「……楓もそうなの?」
「楓は赤ん坊の頃から知ってるからね!」
「おかげさまでな」
調子に乗ることは多々あるが、悪気があるわけじゃないのだ。それに彼女が楓のために動く行動の大半は純粋な心配や子分の面倒を見たい、という善意から来ているためどうにも頭が上がらない。
「まあ、仲良くしてくれると嬉しい。この面子なら仲良くできるとも思っていたからな」
「すでに子分よ! ということで子分! 早速あんたの子分祝いにお魚取ってきてあげるわ!」
「あ、ちょっと待って橙ちゃん!?」
「え、待って。私の前でお魚取らないで!?」
そして早速馴染んだ橙の姿を見て、やっぱり橙は誰とでも仲良くできそうであると頬を緩めるのであった。
なお、こうして楓はちょくちょく橙に知り合った妖怪を紹介していき、やがてそれは遠い未来において橙の一大勢力結成の根幹になったとかならないとかいう話があったが――それはまた別の話。
「なあ、楓を本気で怒らせたことってあるか?」
ある日、魔理沙が今日も今日とて元気に紅魔館から本を盗み、もとい借り受けた戦利品を片手に博麗神社へ寄った時の話だ。
霊夢が明らかに渋々といった表情で出してくれるお茶を飲みながら、魔理沙はそんなことをつぶやいた。
「楓を?」
「そう。お前って楓と特に付き合い長いんだろ? だったら見たことあるのかなって思ってさ」
「魔理沙だって大差ないでしょうに」
魔理沙、霊夢、楓。この三人は寺子屋に入る前からそれぞれの両親や師匠役となった男から引き合わされ、顔見知りとなっていた。
「そりゃそうだが、稽古まで一緒にやってたのは霊夢だけじゃないか。いいじゃん、減るもんじゃなし」
「まあ話の種としてなら良いけど、そうねえ……」
魔理沙に言われて思い返してみる。
今でも楓との稽古や付き合いは継続しており、それは日々彼が手慣れた様子で自分を叩き起こすことからもわかっていて――
「……いや、この意味なら私は毎日怒られてるわ」
「へ?」
「毎朝毎朝飽きもせず、私に早寝早起きしろとか暴飲暴食するなとか、見られる立場なんだから身だしなみに気を使えとか」
「それお小言じゃねえか!? というかもらいすぎだろ、それ!?」
「うっさいわね、ちょっと早く生まれたからってあいつが兄貴面しすぎなのよ」
気ままな一人暮らしのはずなのに、日々の思い出を振り返るといつも楓の存在があって、どこにも気楽さが見当たらない。
面倒な兄貴を持って大変よ、と首を横に振る霊夢を見て魔理沙は困ったように苦笑するしかなかった。霊夢が小言を受けて、素直に聞く相手なんてこの世に何人いるのやら。
「まあそれは怒った部類にゃ入らないだろ。てか、霊夢のそれはもはや怒っているというより、日常なんじゃないか?」
「嫌な日常もあったものだわ」
「本当にな」
言う方も言われる方も大変である。魔理沙は飽きもせず霊夢に小言を言っている楓の姿を思い浮かべて、小さく笑う。
「じゃあ本気で怒らせたことってないのか?」
「こう、頭に血が上るような怒り方は見たことないわね。いや、あいつに関してはそれを見たら本当にヤバいんだけど」
昔、楓の父が霊夢と楓の師匠を務めていた頃に聞かされていた。彼らの出自と、それに伴う価値観について。
嘘など一つもないと語る師匠の姿と、昆虫じみた無感情さを思わせる顔で隣に立つ楓の姿を見て、霊夢はその直感を持って彼らの話が真実であると悟ることができた。
……とはいえそれを聞かされて以降、楓がそういった姿を霊夢の前に見せたことは一度もないため、霊夢としても完全に実感を伴っているとは言い難いのだが。
「ヤバいって?」
「え、知らないの?」
自分は聞かされていたので、魔理沙も知っているものとばかり思っていた。
これは話すべきか、と思ったところで魔理沙はそれを制するように手をこちらに向ける。
「ああいや、心当たりはあるんだ。だから今日、私はあいつの怒った姿を見たことあるか、って聞いたわけだしな」
「……あんた、よく首がつながってたわね」
「霊夢のその言い分から見るに、やっぱ相当ヤバかったのか」
「なにかやったの?」
「妖怪退治で妖怪の知識を身に着けようと思ってな。阿求のところから借りようとした」
「魔理沙、今からでも遅くないから謝りに行きましょう。必要なら私からも頭を下げるから」
「その優しさやめろよ!? いや、借りてないからな!?」
嘘偽りの一切ない、純粋に心配という顔で霊夢に見られると魔理沙も自分の所業がいかに薄氷の上だったかを自覚してしまい、意図しない冷や汗が流れてしまう。
「もう過ぎたことだけど、一応話しておくか。そんな長くもないけどな」
魔理沙が人里の外で暮らすようになり、生きる糧を得るために妖怪退治を始めて間もない頃のことだ。
戦闘に際し実感したのは、自分に知識が足りていないということだった。
無論、寺子屋で学んだ知識はある。あるが、あれは妖怪と出会った際の逃げ方を中心に教えるものであり、立ち向かう方法を教えるものではなかった。さもありなん、妖怪と戦うのは特別な人間がやることであり、妖怪と逃げるのが大半の人間の生き方だからである。
しかし、魔理沙はその特別な人間の側に立ってしまった。ならば必要なのは妖怪に立ち向かう知識なのだ。
余計な危険を冒すつもりはなかった。強くなるための危険なら大歓迎だが、無用な危険まで背負うのは愚者のすることである。自分の許容を超えたリスクはただの無謀でしかない。
なので魔理沙は妖怪関係の知識を得ることにした。そして妖怪関係の知識とくれば、稗田の家にある幻想郷縁起が真っ先に思い浮かんだ。
とはいえ、最初はちゃんと正面から見せてもらおうと思ったのだ。阿求とも知らない仲ではないし、仮に彼女の家でなにかやらかしたとあれば自分の名前から、両親の経営する店である霧雨商店まで累が及ぶかもしれない。
一人で生きているのだから何もかも自分の責任に終始する、と言えないのが社会の世知辛さである。同時に温かみでもあるのだが、そちらを理解するには魔理沙はまだ幼かった。
「阿求ー? いないのかー?」
だが、今日に限って阿求は外出中のようで、おまけに屋敷に誰もいる気配がなかった。たまたま他の女中らもいない時間帯に来てしまったようだ。
珍しいこともあるもんだ、と後頭部をかきながら待つか戻るかを考える。しかし、そこで一つ脳裏にひらめくものがあった。
(……待てよ? 昔の資料を見せてもらうだけだ。持っていくつもりもないし、見られたら素直に話せば良い。怒られるかもしれないが、その時はちゃんと謝れば良いだろう)
褒められることではないが、罪に問われるほど重い行いでもない。そう判断した魔理沙はこっそりひと目のつかないところへ行くと、空を飛んで屋敷の中庭へ降り立つ。
そして足音を忍ばせて屋敷の中を散策する。
不思議と誰もいない空間。人がいないと広い屋敷であることも相まって、どこか不気味な空気さえ感じてしまう。
影の形も人やなにかのように見えてしまい、目に見えない何かがうごめくそれを魔理沙は正しく感じ取る。
初秋のまだ暑さを感じる季節だというのに、ぶるりと肌を震わせた魔理沙は急いで目標を達成してしまおうと足を早め、書物の置かれている場所を発見する。
「お、見つけた。どれどれ」
声を出したのは意図して恐怖を紛らわせるためでもあった。
背筋に走るゾワゾワとした悪寒を無視し、書架を漁っていく。無論、見つかった時を考えて丁寧に傷つけぬよう。
「……あ、これだな。良し」
やがて目当ての書物を見つけたため、手に取ろうとして――
「――魔理沙」
その声を発したのが誰か、魔理沙はすぐにわからなかった。
ただ感じたのは腹の底から悪寒を覚える冷たいナニかを孕んだ声であるというだけ。
同時に首筋に鈍い輝きを放つ、底冷えするものが当てられる。刃物であると理解するのに時間はかからなかった。
「お前に、一つだけ答えることを許す」
脂汗が止まらない。あまりにも膨大な感情を向けられ、魔理沙の頭は真っ白のまま猛烈な回転を始める。
どんな内容でも良い。その内容に完璧に答えねば、自分は死ぬ。ギチギチと体内のなにかが軋む音とともに絶対的なその予感が、自分を突き動かしていた。
「――その本を持っていくつもりか?」
「ち、違う」
震えながらではあったが、そう答える。
声の主が誰かわからないが、この答えに嘘はない。ただ、選んだ相手が悪かったことは今猛烈に後悔していた。
「…………」
「…………」
痛みすら感じる無言が少しの間続き、やがて魔理沙が背中越しに感じていた気配が霧散していく。
首の刃も消え、魔理沙はようやく息を吐き、そこで自分がずっと息を止めていたことを実感する。
「ゲホッ、ゲホゲホゲホッ!?」
「ゆっくり呼吸することを意識しろ。少し身体が驚いているだけだ」
背中から聞こえる呆れたような声を受け、その声の主が誰であるかようやく悟る。
「か、楓!?」
「どうかしたか?」
「さ、さっきのあれは何だよ!? いや、悪かったのは私だってのはわかるけどさ……」
「なにって、なにが?」
「は? そりゃ、相手が私だってわかってたんだろ?」
「後ろ姿でな」
「だったら、あんな気配……」
であれば一声ぐらいかけてほしかった。説教を受けろというのならもちろん受けるが、あんな殺意を向けられる程ではないはず、という抗議が喉元まで出かかる。
「――それがどうかしたか?」
そして、魔理沙は喉元まで出ていた言葉をまとめて飲み込んだ。
これはダメだ。何を言っても通るはずがない。彼にとって、御阿礼の子のものに手を出すのは幼馴染であっても、親兄弟であっても誰であろうと、情け容赦なく殺す対象にするほどの逆鱗なのだ。
「……い、いや、なんでもない。それより悪かったな。誰もいないからって無断で入ったりしちゃ」
「全くだ。俺が千里眼で見たから気づいたものの、女中だったらひっくり返っていたかもしれん」
ああ、そんないつも通りの呆れた目で見ないで欲しい。さっきまでの冷徹な言葉が白日夢のように感じられ――逆にその落差が魔理沙の心胆を凍えさせる。
「どうにも日が悪かったみたいだ。また日を改めて尋ねさせてもらうぜ」
「その方が良い。……が」
とっとと逃げて考えをまとめる時間が欲しい、と思っていた魔理沙の頭を帽子ごと楓がむんずと掴む。
「ふぇ?」
「それはそれとして稗田の家でやらかしたことについて、たっぷりと反省してもらおうか」
「は? いやそれはさっきのあれで――」
「終わりだと思っているのなら、その思い上がりが消えてなくなるまでお仕置きといこう」
「……幼馴染のよしみで許して?」
「幼馴染だからこそ、お前が道を踏み外さないようここでしっかり矯正せねば」
ズルズルと引きずられ、部屋に連れ込まれた辺りで魔理沙の記憶は途切れている。次の記憶は自宅のベッドで丸まって震えるところからだった。
「いやぁ、あの時は本当にどうやって帰ってきたのか全く覚えてないが、エライ目にあったんだろうとは思ってる」
「……よく生きてたわね」
魔理沙の武勇伝――もとい所行をひとしきり聞いた霊夢は頬を思いっきり引きつらせる。
子供が詳しく知らないのは無理もないかもしれないが、それにしたってそんなことをやるとは無謀の一言以外に言葉が浮かばない。
「で、それでもう一度同じことをやろうとか考えてないわよね」
「考えねえよ!? いや、詳しい理由はわからんが、あの家はとにかくダメだって身に沁みたぜ」
「詳しい理由もわかりなさいよ……」
「ちょっと、私の第六感がそこに触れるとヤバそうって言ってて……」
「…………」
霊夢の直感もあまりあの一族に深入りするのは良くないと言っているので、魔理沙の尻込みを指摘することもできなかった。
「……まあ良いわ。いえ何も良くないけど、魔理沙も良い教訓になったでしょう。阿求のところに手を出すのは絶対にダメよ」
「おう、霊夢もそう言うってことは本当に当たりだな。いや、確認程度だったけどしておいて良かったぜ」
「事情が事情だから、事が起こる前に知ってたら死にものぐるいで止めてたわよ……」
どれだけ命がけの綱渡りをしたのか、わかっているのだろうか。霊夢はじっとりとした目で見ながら、自分のお茶を飲み干すのであった。
「しっかし、あの時は楓の目が綺麗な碧に見えたんだよな。あれ、なんだったんだろう」
「は? あいつの目は紅でしょ。夢でも見てたんじゃないの?」
「いやいや、あれが夢だったらとんだ悪夢だぜ」
――その時抱いた、楓の能力の核心へと至る疑問は、すぐに霧散してしまった。
天魔が動くのはもう少し先で、今は他のキャラをワイワイ動かします。
そして一番最初に地雷近くまで踏み込んだのは魔理沙でした。これでもまだ地雷爆発には至っていない。
Q.もしあの質問に魔理沙がうなずいていたらどうなっていたの?
A.原作キャラ死亡ありのタグが増えます。