「……ふむ」
境界の賢者、八雲紫は自室にて一つの書物と向き合い、真剣な顔をしていた。
とある人物から託されたこの書物。未だ紫には使う決心のつかないそれを前に、彼女の思考はある一点に集約される。
(この内容――誰に教えるべきか)
昨今の幻想郷の情勢は混沌を極めている。次々と新しい勢力が登場し、各々の思惑に基づいて幻想郷に関わろうとしているのだ。
異変を起こし、異変を博麗の巫女が解決する。そのサイクルが保たれているため、現状は混沌とした中にも一定の秩序が保たれている。
無論、これには異変が終わった後に奔走する少年の尽力もあるだろう。何かと妖怪を惹き付ける父親譲りか、あるいは父親を凌ぐ勢いの奇縁を持つ少年はまさに破竹の勢いで幻想郷にその名を轟かせつつある。
すでに彼を未熟と侮る声はない。英雄と呼ばれるに相応しい偉業を成し遂げた彼の父親と比較する者は確かにいるが、彼女らを抜きにしてももう彼は大妖怪を相手に戦える領域に到達している。
そう、彼は動き始めているのだ。未だ大きな潮流に巻き込まれるだけかもしれないが、その中で確かな意思を見せ始めている。
パチ、パチ、と手元の扇を弄びながら紫は己の思案を言葉に出してまとめていく。
「ならば私が日和見を決め込むわけにもいかないでしょう。まずは見極めねば」
直接会って話すことは今まで行わなかった。境界の賢者という肩書もそうだが、これまで幻想郷に現れた勢力は八雲紫をして油断ならぬと認めざるを得ない大物ばかり。
月から来たかぐや姫と共に生きる月の賢者、八意永琳。
幻想の廃れつつある外の世界からやってきた二柱の神、八坂神奈子と洩矢諏訪子。
話をする――顔を出す時点で相応のリスクがある。あるいは口ぶりから何かを読み取られるかもしれない。
面と向かって顔を合わせて話すやり方に関して、紫はそこまで自惚れることができなかった。業腹だが、その分野で明確に自分より上手な輩を知っている。
「二柱については天魔も巻き込むべきね。あれの見立てを聞いておかないとさすがに怖い」
この一件について自分と天魔はある意味同士である。自分がこの話を持ち出せば天魔はかなり優先度を上げて対応するだろう。
となれば恐ろしい相手のうち一組はどうにかできる公算が立つ。天魔が味方にいるなら、相手がどんな出方をしようと確実に目当ての情報は引き抜ける。
千年、幻想郷で一緒にやってきたというのは敵味方の垣根を超えて相手の理解が深まるものである。
「もう一人……八意永琳」
スキマを開いて情報を盗み取る、という手段は取っていない。それを行い、うかつに紫の知り得ない情報を漏らしたらその時点で永遠亭との信頼関係は壊滅的なものになることが容易に想像できた。
幻想郷で暮らす最低限のルールを教えるためであればそれも構わないが、紫も好き好んで嫌われたいわけではない。相手が無体をしないうちは多少の誠意を見せるのが度量というもの。
「薬師であり医者である、となると事情を話せば協力してくれる可能性は高い。でも……」
相手がどう出てくるかは未知数だった。月の技術などという紫にも全容の知れない技術を永遠亭がどれほど所持しているか。それ次第で話は大きく変わってくる。
繰り返すが、スキマで知るのは悪手だ。月の技術が未知である以上、スキマを感知する何かがあってもおかしくない。
――かつて只の人に、スキマに潜んで隠れていた紫を完璧に探り当てられたことがあったのだ。油断など、もはやできるはずもない。
「……あまり好みではないのだけれど、地道に外堀から埋めていくしかないわね」
それだけ言って紫は思考を打ち切り、立ち上がる。
「藍、少し良いかしら」
「はい、なんでしょうか紫様」
「永遠亭と最も繋がりの深い人物は誰かしら」
「異変解決に参加したものたち以外に、でしょうか」
「そうね。その後も継続的に関係を持っている人が望ましいわ」
「となると人里かと。彼女らは薬師という形で人里と関わりを持っています。最近では置き薬の形式で人々に薬を分け与えているとか」
「それはどこから?」
「懇意にしている店での世間話です。ほら、霧雨魔理沙の」
ああ、と紫も納得を示す。今や人里一の商家になった霧雨家は人里の要として、名前を覚えるに値するものだった。
「あの店に置いているの?」
「いえ、ただ永遠亭が人里と関わるに当たり、相談を受けていたと。あまり重要なものを一点にまとめるのも不味いという考えだそうです」
「ふむ……」
人里内でも考えることは多そうである。内部で大過なく運営できているのなら紫から言うことは何もないため、話すことも少ない。
「やはり、人里と永遠亭を取り持ったのはあの子かしら」
「はい。永夜異変が彼の初陣となったこともあって、あれが人里内で火継楓という少年の存在感を高めたのは事実でしょう」
「少なくとも親の七光りという声だけは黙らせた、と」
「そもそもあの歳で守護者の役目を果たせる人物がどれほどいるのか、という話でもありますが」
やはり一度は顔を合わせて話す必要がありそうだ。最近は彼の活躍を人づてに聞くばかりで相手の口から聞くことがなかった。
「久しぶりにあの子に会いに行こうかしら。霊夢の方にばかり構っても拗ねてしまうかもしれないわ」
間近で見ないとわからないものもある。そう考えていそいそとスキマを開いて、紫はその中に身を滑り込ませるのであった。
「……まるで孫の顔を見に行くお婆ちゃん――あいたぁっ!?」
それを見送った藍の頭上に金ダライが落ちてきたが、まあ些細な話だろう。
「――ふぅっ!」
まだ日も昇りきらない早朝、楓は人里の外で剣を振るっていた。
普段振るうような二刀ではなく、刀一振りを握って目まぐるしく立ち位置を変える。
振るわれる刃は相手もいないはずだが、時折不自然に軌道を変える。まるでそこにいる誰かが軌跡を逸したように。
だがそれは楓にとって驚くことではなく、続けざまにいくつもの剣閃を放つ。
そうして見えない相手と何合打ち合っただろうか。楓が僅かに首を反らして何かを避け、返す刃で一閃すると楓は刀を下ろし、戦意を収める。
「――これでまた俺の勝ちだな」
『ずるい。ずるいずるいずーるーいーっ!!』
剣を弾かれた少女――楓にしか見えず、楓にしか干渉できない何かである椿は地団駄を踏んで悔しがる。
『楓は良いよね、大勢の人と稽古できて! 私は楓としか稽古できないんだから、どんどん離されるばっかりじゃん!』
椿の八つ当たりじみた言葉に楓は困ったと後頭部をかくしかなかった。
「そう言ってもな……。というか、お前だってすごい勢いで腕を上げてるじゃないか」
『楓が戦った相手を必死に思い出して剣を振っているだけだよ。実戦を経験した楓に比べたらどうしてもね』
「悲観することでもないのでは?」
『悲観してるわけじゃないよ。ただ、このままだと私が楓の足手まといになるんじゃないかなって』
椿はふてくされたような顔で半分真実、半分ウソのことを話す。
楓の足手まといになりたくない、というのは本心だ。お互いに物心ついた頃から一緒にいたのだから、楓が飛躍的な成長を遂げる姿を横で見ているしかない、というのは忸怩たる思いがある。
もう半分は焦りにも似た感情。いつぞやの白玉楼の庭師が語っていたような、成長速度で負けてしまっているのだから、このままでは楓と自分は一生対等になれない。
『やっぱり、私は――』
「なにか言ったか?」
『……ううん、なんでもない。楓が休んでいる時とか剣を振ってるんだけど、上手く行かないなあって』
「俺が教えても……」
『それはダメ。そもそも楓も忙しいでしょ? 私に関わる時間なんてないでしょ?』
「お前が望むなら作る。忙しいのは否定しないが、お前も大事だ」
楓の言葉を聞いた椿は僅かに頬を赤らめる。この少年は自分の感情に素直というか、他人に好意を表すことに迷いがないというか。
『……そういうのは大事な時に言った方が破壊力あるよ?』
「日頃から言わないと伝わらない」
椿のささやかな抵抗は妙な実感のこもった楓の言葉で打ち砕かれた。
彼は彼で全く自分の感情を表に出さない身内がいたので、ああはなるまいと意識している部分もあるのだ。
『……でもそっか。確かに言わなきゃわからないよね』
「人をよく見るようにはしているが、それでもわからないことだらけだ。父上みたいになれるのはいつの日やら」
楓の父親は千里眼こそなかったものの、今の楓をして恐ろしいとしか言えない観察眼の持ち主だった。
そして長い間一線に立ち続けたことで得られた経験による推測まで入れると、まるで本当に自分の心を読んでいると思うほどの精度になる。
……それほどに人の心が読めたからこそ、自分の心を出す必要性を感じなかったのかもしれないが。自分にできることを自分ほどでなくても、相手もできるとどこか思っていた可能性もある。
「さて、まだ続ける――いや」
『ん、どうしたの?』
まだ続けるか、と聞こうとした楓は途中で言葉を切ってあらぬ方向に視線を向ける。
椿が何事かと思って楓の見ている方向に視線を向けるも、そこには何もない。
『なにか見えたの?』
「……この近くに妙な違和感がある」
『違和感?』
椿には何も見えない。そもそも楓は千里眼を持っているので、この近くと言っても椿の認識できない距離を話している可能性が大いにある。
半ば話半分に聞いていたが、楓の視線――から少しずれた場所に瞳とリボンで彩られたおぞましい空間が広がったので椿は黙ることにした。誰かがいる時は黙るようにするのが楓との約束だった。
「うーん、惜しい。七十点といったところかしら」
瞳とリボンの空間――スキマから現れた八雲紫は相手をからかうような意味深な笑みを浮かべ、スキマに腰かけて楓を見下ろす。
「こんな朝早くに何の用だ、八雲紫」
「ああん、冷たい言葉遣い。大切な友人の忘れ形見を見に来ることは悪いことかしら?」
「悪いとは思うが、そちらがどういった用向きで来たかで俺も対応を変えなければならない」
「じゃあ先に言っておきましょう。――今回はあくまで私的な用事よ。永遠亭に関して聞きたいことがあるの」
紫の言葉を聞いた楓はどこかホッとした顔になる。ここしばらく会う人会う人が公人として会わねばならぬ人ばかりで、肩肘を張っていたのだ。
……別にそれが負担になっていたわけではないことはここに断言しておく。なぜって――阿礼狂いなのだ、それが御阿礼の子を守るのに最適な以上、己をそれに合わせることくらい造作もない。
造作もないが、それはそれとして気楽な態度ぐらい阿礼狂いにもある。
「――それは失礼しました。不躾な言葉遣いをしてしまい申し訳ありません」
「ふふ、懐かしいわね。あなたのその言葉を聞くのも」
永夜異変の折に改めるよう紫に言われ、公人として見られかねない時は常に意識して言葉遣いを変えていた。
今回はまだ朝早く、相手も紫以外にいないため楓も昔と同じ態度で話すことができている。
「己のような若輩者と接するには大きい相手ばかりで、緊張の連続でした」
「少々荷の重い相手ばかりだったものね。伝聞だけれど、同情するわ」
「おかげで成長できている自覚はあります。不思議ですが、本当に不思議ですが色々と好かれる性質のようで」
「単純に強いことも妖怪にとっては評価の一つよ。今は弾幕ごっこの上手さというのも加わったけれど、あなたのそれも決して見劣りするものではない」
「自分は見劣りするものにしていくべきだと思っています。ただ……相手にそれを言っても全然通じない輩が多くて……」
単純な暴力が尊ばれる時代など、来るべきではないと楓も思っていた。弾幕ごっこでケリがつくのならそれに越したことはない。
何より、弾幕ごっこは阿求が見て喜ぶのだ。御阿礼の子が喜ぶものを尊ぶのが阿礼狂いである。
……その点で言えば自分に弾幕ごっこの才能がないのは残念極まりない話だった。弾幕に殺意が混ざってしまい、本能的な恐怖を掻き立てるとは実験に付き合わせた霊夢の言葉である。
「そこはご愁傷さま。ただ、いきなりスペルカードルールに移行して不満が溜まっている妖怪のはけ口になっているとも言い換えられるわ。今後もその調子で頑張ってもらえると私も嬉しい」
「精進します。ところで永遠亭の話というのは?」
「ああ、話がそれてしまったわね。本題に入りましょうか」
紫が永遠亭の情報をほしい理由をある程度ぼかして告げると、楓は何かを察した顔になりながらも深く追求はしなかった。
「……八意永琳についての話ですか」
「ええ、そう。今後、私も表舞台で話す必要があるかもしれないの」
「スキマを使って情報を集めるのは?」
「それがバレた時点で交渉の席が成立しなくなるわ。相手が愚かならそれでも良いのだけれど、そうではないのでしょう?」
「……そうですね。私もまだあの人の全容はまるで掴めませんが」
楓にとって永琳という人物は不思議な人物という評価だった。
間違いなく八雲紫と同等かそれ以上の知略を持ちながら、彼女自身はどこか薬師として没頭したいように見える。
薬師として楓が足元にも及ばない技量を持ち、患者を考えた薬も提供する慈悲ある人物だが、同時に彼女の主――蓬莱山輝夜が選んだら即座に切り捨てるだろうと思わせる忠誠も持っている。
そして忠臣の常として――間違いなく強い。弓を使うことまではわかるが、楓が戦って勝てるのかといったことは確信が持てなかった。
紫に自分の知る限りの情報を話しながら、楓は思ったことを口に出す。
「多分主への忠誠が一番に来ています。主が白といえば白、黒といえば黒に傾くタイプかと」
「そう考えた根拠は?」
「それなら説明が付きます。主のために医学を修め、武術を修め、話術を修める。順番が多少前後している可能性は否定できませんが――私と同じような考え方です」
そう語る楓の瞳はここではないどこかを見ている狂気的なそれで、紫は背筋が冷えるのを自覚する。
礼儀正しく、心優しく、ひたむきな努力家で才気あふれ――どこか空恐ろしさを感じさせる。
彼自身の性根も紛うことなく優しい少年だから誰もが錯覚してしまう。――その優しさは主が望むないし害されれば、一瞬であらゆるものを殺し尽くす残酷なものに変わることを。
「……あなたの言葉は参考にさせてもらおうかしら」
「ああ、それと自分はこの後永遠亭に向かう用事があります。一緒に行きますか?」
「あら、どういった用件で?」
「人里に卸してもらっている薬で話があると呼び出されています。書簡ではダメだったのか不思議ですけど」
「……せっかくのご厚意だけど、遠慮させてもらうわ。おそらく私とあなた、相手は同じ人物でしょうから片方が待つことになってしまう」
紫に断られてしまったが、楓は特に気にした様子もなくうなずいた。
「有意義な話が聞けましたわ。ありがとう、楓」
「この程度で良ければ。さすがに彼女と人里の契約の詳細などは話せませんが」
「そこは分けてもらわないと私も困っちゃうわ。さて、ではまたね、楓。久しぶりに話せて嬉しかったわ」
楓が見送る中で紫はスキマに消えていき、残された楓は再び虚空に向かって剣を振るい始めるのであった。
さて、永遠亭に所属していない中で最も付き合いの深い人物からの証言が得られた以上、後は本人を前にするしかない。
紫は腹の底に緊張が渦巻いているのを自覚しながらも、努めて表に出さずスキマを開き、八意永琳のいる部屋に現れる。
何か書物をして紫に背中を向けていた永琳は、紫が現れた瞬間にペンを動かす手を止めた。
「はぁい、永遠亭の薬師さん。少しお話良いかしら」
「……全く、神出鬼没というのは予約無しで訪れることの不躾も許されるのかしら」
「おおこわい。次からはあなたのところのお弟子さんに話をつなげましょうか?」
「人里の少年に話を通しなさい。その方が私にも伝わりやすい」
「あら、お弟子さんよりそちらの方が良いの?」
今のは本心からの疑問だった。永琳は椅子を回転させて紫の方へ向き直ると、腕を組んで答え始める。
「彼の話を姫様も楽しみにしておられるの。特にあなたからの話なんて話題の種になるでしょうし」
「ずいぶんとあの少年に入れ込んでいるのね」
「こっちの事情に付き合わせてしまっているという負い目と、私の想定を上回る才能の持ち主だと思ってね。ああいうのを見るとつい教えたくなってしまう」
忠誠心に優れた人物、というのが楓の見立てだったが、少し訂正を加えるべきだ。彼女は忠誠心の高さもさることながら、己の好奇心を優先させる研究者じみたところもあるのだ。
「へえ。ああ、今のはお弟子さんにも彼にも黙っておくわ」
「そうしてくれると助かるわね。意外と話せるじゃない、境界の賢者も」
「さて、どうかしら。もっとも、今日は私から訪ねたのだから譲歩する側ではあるのだけど」
「それで用件は何か? 薬の処方がお望みなら――」
「――この本を見て欲しい。ただそれだけ」
紫はそう言って、スキマの中から一冊の本を取り出す。
見たところまだ新しいが何度も読み返した後があり、同時に非常に丁寧に扱われているのがわかる本だった。
「これは?」
「あなたが――月が私の予想するレベルの医療技術を持っているのなら確実にわかる内容の本、とだけ言っておくわ」
「ふぅん……」
永琳は紫の言葉をあまり信じていなかった。そもそも月に紙の書物なんて保存性の悪いものはない。
本がない以上、紫が持っている本も月からくすねてきた、という線は考えなくて良くなった。
境界の賢者がここまで真剣な表情をするものだから身構えてしまったが、あまり深く考えなくて良いだろう。そんな月の賢者の思考をその本が粉々に打ち砕く。
何気なく表紙をめくり――永琳の視線は本の内容に釘付けとなった。
ページをめくる手すら煩わしいと凄まじい速度で読み進め、あっという間に読み尽くした時には本から目が離せないでいた。
「……誰が書いたの、これ」
「私が知りたいのは、その本に記載されていることができるか否か。それが知りたい」
「私の質問に答えなさい!」
激高した永琳が紫を見るが、紫は話をしていた時とは別人のような、どこか静謐な空気をまとって佇んでいた。
なまじ胡散臭い笑みを浮かべられるよりやりづらい。鼻白んだ永琳は乱れかける思考を抑え、紫の質問への答えを探す。
「……作者は誰か、それに答えるなら私の見解を話すわ」
「――あなたが懇意にしている少年の父親よ」
「楓の、お父上? 薬師として素晴らしい人物だと思っていたけど……」
「正しいわ。一流の薬師であり、過去の人里を武力、知略双方で守り抜いた英雄であり、唯一人の主のためにいかなる苦難も踏破する人だった」
そこには紫の掛け値なしの敬意が含まれていることに永琳は気づいた。どうやらその人物ともそれなりに関係が深いらしい。
「なんてこと……月の子孫の末裔とかないわよね?」
「ないわ。彼に連なる一族はあの子を除いて純正の人間」
「半人半妖が生まれたのもその時。……相当な人間だったようね」
「間違いなく。人妖共存の立役者となった人ですもの」
「…………」
「それじゃあ次は私の番。――そこに書いてあることは可能なのか、否か」
真剣そのものな紫の言葉。永夜異変の解決にあたって博麗の巫女と組んでやってきた時以上に真剣なそれに、永琳はそれだけ思い入れのあることなのだろうと納得しながら口を開く。
「……可能か不可能かで言えば可能。ただし永遠亭の設備では難しい、という答えになるわ」
「…………」
「月の賢者として言わせてもらうわ。――ここに書かれた理論は実証可能よ。最先端の月の技術まで使用すれば、という但し書きがつくけど」
「……ここにはない、と」
「ご期待に添えなかったのなら悪かったわね」
「いえ、可能であるという言葉が聞けただけでも前進だったわ」
紫は永琳の言葉をしっかりと心に刻みつけると、永琳から返してもらった本を再びスキマの中にしまう。
「次は私の質問にも答えてもらうわ。……あの本の内容は一体? 見たところ……そう、短命の子の寿命を戻す研究内容だったけれど」
「あなたにはどう見えたかしら」
「……狂気的、それでいて献身的。いっそ理論まで吹っ飛んでいたら狂人の戯言がたまたま一致したと一蹴できるものを、恐ろしく論理的かつ筋道の通った理論になっている。……本当にこれを、人里に生まれて人里で死んだ人間が作り得るものなの?」
「多くの妖怪と触れ合い、その知識も得ていました」
「だとしてもあり得ない、と言いたくなる荒唐無稽さよ」
永琳が思い返す本の内容にはいくらか違いもあった。あったが、人里の文明レベルで暮らしていた人間が作ったと考えるなら許容の範囲内だ。いや、あのような内容の本を作ること自体がまずあり得ない領域だが。
「……月の人間でもなく、まして文明のある程度進んだ時代ですらなく、これを作り得る人物がつい最近まで存命だったと」
「そうなるわ。そしてその人間は私といくらかの妖怪にそれを託して死んでいった」
「本当に、全く……会って話ができなかったのが心底惜しまれるわ」
稀代の傑物、なんて言葉に収まるかどうか。あるいは時間さえあれば、自分をも凌ぐ才覚の持ち主だったのではないかとすら思えてしまう。
「……八雲紫」
「なにかしら」
「私にこれを見せた意図は確認がしたかっただけ?」
「いいえ、叶うなら協力もお願いしたかった」
「……どんな内容で?」
「いつか、その書物に記された理論を実践する時が来るかも知れない。その時が来たら、全面的に協力するという約束」
「あなたと……いくらかの妖怪はそれを了承しているの?」
当然だと言わんばかりの首肯が返ってきた。どうやらこの荒唐無稽な話に全霊を賭けようとする妖怪は何人かいるようだ。
全くもって論理的ではない。これを実行するのは間違いなく彼女らと関係のない少女だろう。関わりのない存在に力を尽くす――それだけ故人となった男の存在が大きかったのか。
当然ながら、永琳はその人物を知らない。会ってみたいと切望はするが、故人なのだ。そこはどうしようもない。
「……保留、とさせてもらえるかしら」
「構わないわ。すぐに協力をもらえるとも思ってなかったもの」
「ただ……あの内容は掛け値なしに興味を覚えた。保留ではあるけれど、前向きに検討はさせてもらう」
「それで十分よ」
そう言って、紫は微笑む。この部屋に入った直後に見せた怪しい意味ありげなそれではなく、緊張して臨んだ物事が上手くいったことによる安堵とも言える微笑みを浮かべた。
永琳はあえてそれを指摘しなかった。きっと彼女にとって、この本を書いた人物はそれだけ大きな存在だったのだろう。そこを指摘するほど野暮な存在ではないつもりだった。
話は終わったと紫はスキマに潜り込み、再び消えていく。
それを見送り、誰もいなくなった部屋で永琳は口元に指を当て、息を吐いた。
「全く……表舞台に出るのが遅かったと後悔する日が来るなんて思いもよらなかったわね」
八雲紫の暗躍(暗躍するとは言ってない)
本作のストーリーラインは紺珠伝までの予定です。その理由の一端が少し明かされた感じです。なので永遠亭キャラはキーパーソンだったり。
……まあ地雷解除するまで協力はされないから頑張れ楓(無茶振り)
次話は輝夜が楓に頼んで外に連れ出してもらったり、行った先で橙と遭遇したり、アリスの人形劇を見たりするお話です。
天子……お前はいつになったら出てくるんだ……(出し時を見失いつつある)