ある晴れた日の昼下がり。
緋想天の異変についての取材も一段落し、阿求が今日は一日のんびりすると決めた日のこと。
兄である楓には守護者の仕事の方を優先して良いと命じつつ、そんな彼の姿を眺めていようと楓の部屋に乗り込んで、阿求はゴロゴロと行儀悪く本を読んでいるところだった。
畳の上に横になって、肘をついて本を読みながら書物をしている楓の姿を眺める。
障子越しの日差しは柔らかく、どこか時間の流れが遅くなっていると錯覚できる、穏やかな時間。
誰の目も気にせず好きな姿勢で本を読み、傍らには世界で最も信頼している家族の姿。
これほどの幸せがどこにあるだろうか、と阿求がしみじみ噛み締めていると、ふと楓の顔に視線が向かう。
スラスラと止まることなく動いていた筆はいつの間にか止まり、眉根には僅かに思い悩むシワが刻まれていたのだ。
これは珍しい、と阿求は思う。阿求の知る楓は彼の父親の生き写しのごとく、基本的には即断即決で物事に対して迷いを見せることが殆どない。
その彼が筆を止める事態とは何があったのだろうか、と阿求は身体を起こして楓に聞いてみることにした。
「お兄ちゃん、何書いてるの?」
「……ちょっとした私事の手紙になります。大したものではありません」
「でも、唸ってたよ?」
「…………実を言うと、文通をしておりまして」
「文通!?」
色恋に興味など全くございませんという態度の裏でそのようなことをしていたのか。
阿求は驚愕で飛び起きると、何々と楓の手元にある紙面をのぞき込む。
そこには達筆で書かれた情緒溢れ、風流を感じさせる文体による時候の挨拶。こういったものを面倒くさいと一刀両断しそうな楓にしては、珍しいを通り越してあり得ないと言っても良いものだった。
「え、誰と文通してるの!?」
「白玉楼の主です。彼女はあまり自分のところから動かないことと、私の目を苦手としておりますから」
「……ああ、そういうこと」
合点がいったと阿求はうなずく。
以前、阿求も同席して白玉楼の主――西行寺幽々子が楓のことを知りたいと語る姿を見たことがあった。
魂縛りの瞳という、精神の存在に近づけば近づくほど効果を発揮する瞳を持つ楓は、幽々子にとってある種の天敵とも言える存在だった。
だから近づかないことを選ぶ。なるほど道理にかなった話である――自分たち妖怪は古くから力なき人間の天敵であったにも関わらず。
阿求は幻想郷の人里に生きる人間として、その事実を指摘した。あれが間違いだとは今なお思っていない。
ずっと人間は虐げられ続けてきた。ここ数十年、類まれな人間といくらかの時節が噛み合って、今はかつてが冗談のような楽園になっているが、だからそれ以前の出来事をなかったことに、とはならない。
「それで幽々子さんと文通を?」
「はい。自分もそれなりに忙しく、あまり白玉楼へ足を運ぶこともできませんでしたから」
私人としての時間は全て御阿礼の子に費やし、公人としての時間を人里の守護者として動くことに費やすと、他との関係をほぼ絶っているに等しい白玉楼の優先順位が下がってしまうのだ。
あの場所は冥界。死者が転生までの間、安らぎを得るための場所であり、現世でいくら動こうとあの場所を侵すことは何人にも許されない。人妖のバランスや調停云々以前に、生と死の均衡を乱すことになってしまう。閑話休題。
「それで彼女とはもっぱら文通を行っていたのですが……お恥ずかしながら、あまり風流とかそういったものを解したことがなく、彼女にふさわしい文面を考えるのに時間がかかっているのです」
「お兄ちゃんにも苦手なものってあったんだ」
「どうにも、風情や情緒といったものを感じるのが苦手で」
はにかんだ笑みを浮かべ、楓はなんとか言葉をひねり出そうと頭を使っていた。
そんな楓の様子を見て、阿求は顎に指を当てる。
「……私で良ければ教えようか?」
「お気持ちはありがたく。ですがこれは私に宛てた文です。主の手を煩わせるものではありません」
「私がお兄ちゃんの力になりたい。それじゃあダメ?」
「…………」
眉間のシワが深くなる。これは本心では頼みたいが、従者としての建前が邪魔をしている顔だ、と阿求は七変化する楓の表情を楽しみながら思う。
「…………不甲斐ない従者で申し訳ありません。少し表現について伺っても良いですか?」
長い葛藤の末、楓は絞り出すような声で阿求に助力を乞うてくる。
従者が主に頼るとは何事か、と言って憚らない彼が自分を頼ってきたことに阿求は満面の笑みを浮かべ、大きくうなずくのであった。
「任せて! 九代続く御阿礼の子の文章力を見せてあげる!!」
「な、なんとか形になった……阿求様、不出来な従者にお時間をいただきありがとうございます」
「ううん、私も楽しかったわ! お兄ちゃんも結構綺麗な言葉選びできてたよ?」
「彼女と比べるとどうしても見劣りします。……そもそも、私のは彼女の見様見真似ですよ」
阿礼狂いに情緒とか風情とか求めないでほしいというのが本心だった。
とはいえ彼女がそういった文を好む以上、こちらも相手にある程度合わせるのが役目でもある。相容れないからと言って、歩み寄る努力をしないで良いわけではない。
ともあれ楓は阿求の協力もあって作成できた手紙の返事を懐にしまい込むと、立ち上がる。
「手紙を届けに行くの?」
「ええ、普段は妖夢が稽古に来た時などに一緒に渡しているのですが、来ない時はこうして向かうしかありません」
白玉楼へ定期的に足を向ける人が楓の知り合いにいないのだ。霊夢や魔理沙は妖夢に呼ばれて訪ねることがある程度である。
幸い、今は天子が意欲的に自警団の仕事を行ってくれている。つまらない作業だからとすぐに文句が来るのではないかと思っていたが、なかなかどうして真面目な働きぶりだそうだ。
「自警団の方に寄って天子に頼んでから白玉楼へ向かいます。阿求様はどうされます?」
「え? ついて行っても良いの?」
「阿求様が望まれるなら。いかなる厄災からもお守りいたします」
阿求と離れることはままあるが、楓としては可能な限り避けたいことなのだ。そもそも阿礼狂いが御阿礼の子の側にいられない状況がおかしい。
無論、阿求の方に一人になりたい時間も必要だとは思う。その時は静かに離れるが、そうでないなら四六時中一緒にいたいのが楓の気持ちだ。
「それじゃあお願いしようかな。私も白玉楼って一回行ってみたかったの」
「お供いたします」
「ううん、今回は私が主体じゃないもの。言い方がおかしいわよ」
「む……」
「今日は私がお願いする側。ね、お兄ちゃん。今日はお兄ちゃんを横で見ていて良い?」
「――それが阿求様のお望みと在らば」
楓は素早く出発の準備を整える――といっても誰に見られても構わないよう常に服装は気を使っているので刀を腰に差すぐらいだが――と、別室にいる衣玖へ声をかける。
彼女には楓が守護者として担っており、楓の裁可が不要と思われる仕事の一部を頼んでいた。ゆくゆくは守護者の仕事を全て任せてしまいたい。
日々真面目に仕事はしているが、できることなら一秒でも早く阿求の側仕えに注力したいと思っているのが楓である。
……余談だが、道を歩いて妖怪に出くわすのは守護者としての仕事ではない。これは単に楓の間が悪いのと、彼女ら妖怪が楓個人を目当てにやってきているだけである。そのため阿求の側仕えのみになったとしても妖怪に出くわす日々は変わらないと思われる。閑話休題。
「少し出かける。仕事に問題はないか?」
返事がない。部屋の中を阿求と覗き見ると、そこには巻物に顔を突っ伏している衣玖の姿があった。
何をやっているんだ、と呆れた顔になったところ空気の変化を読み取ったのか衣玖がガバリと顔を上げる。
「業務自体に問題はありませんが、物量に問題があります。早急な労働環境の改善を要求します」
「具体的には?」
「正午までには仕事が終わる内容に――というのは冗談です。空気を読むことにかけては右に出るものがいない女ですよ私は?」
「その自己評価が正しいかは議論の余地が大いにあるが、一旦横に置こう。しかし問題あったか? 大丈夫と思われる部分を頼んだつもりなんだが……」
「いえ、重ねて言いますが業務内容に文句はありません。しかし量が多すぎるのです。これをお一人でどうにかしていたのですか?」
うなずく。父から受け継いだ火継の当主としての仕事と、人里の守護者としての仕事と、御阿礼の子に仕える仕事。そして空いた時間は稽古に費やす。それが楓の基本的な生活だった。
それらを話すと衣玖の乏しい表情がみるみる引きつっていくのがわかった。
「人間とはかくも恐ろしい。これは私を過労死させる策でしょうか」
「……お兄ちゃん、疲れたならいつでも言ってね? お休みぐらいいくらでもあげるから」
何やら阿求にも気を使われてしまったようだ。
「わかった。正直実感はまるでないが、お前がそう言うなら俺の方に問題があるのだろう。なんとか改善策を考えてみる」
「よろしくお願いします。これが続くようなら総領娘様と同じ職場への転職も辞さないつもりでした」
「が、頑張ってくださいね衣玖さん……」
「御阿礼の子ですか。空気の読める私は余計なことを言いませんが、あなたの従者はなんてことない顔でとんでもないことをしでかすタイプですよ?」
「わ、わかりました……」
それは余計なことではないのか。楓が冷たい目で衣玖を見下ろすのを横目に、阿求は冷や汗をかきながらうなずくのであった。
火継の家を出た後、楓と阿求はその足で自警団の詰め所へ向かう。
天子の仕事ぶりの確認と、楓が外出時に誰か来た場合の応対を頼むためである。ちなみに以前は母に頼んでいた。
詰め所に入ると、見回りを終えた天子が眼鏡をかけて机に向かっているのが確認できた。
「天子、少し良いか」
「ん、ああ、楓と御阿礼の子か。どうかしたの?」
何やら書き物をしていたらしい天子は楓に気づくと顔を上げ、楓と阿求を見る。
「大した用じゃない。外に出るからその間を頼むというだけだ」
「なるほど、了解。あんたが外にいた方が平和だって思うくらい妖怪は来るけどね」
「人を撒き餌か何かのように言わないでもらおうか。ところで一体何を?」
「これ? 寺子屋での教材を作ってるのよ。どうせなら面白い方が私も子どもたちも楽しいもの」
ほら、と言って天子が指差す先には今天子が作っているものと同じものが積まれており、それなりの数作られているのが伺えた。
「この眼鏡もその一環。意識の切り替えも兼ねてね」
「…………」
「これで教職は肌に合うわ。子どもたちは無邪気だし……って、どうしたの? そんな無言で」
「お前のことだからどうせすぐ飽きるだろうと思っていた自分を許して欲しい」
ここまで真面目にやるというのは想定外だった。楓は思わず感動した顔で天子を見てしまう。
「あんた遠慮しなくていい相手にはとことん失礼よね! 頼まれた仕事を十分以上にこなせなくて何が天人よ!!」
実際には他ならぬ楓に頼まれた仕事だからこそ頑張ろうという気持ちもあったのだが、天子の口からそれが出ることはなく、楓が気づくこともなかった。
彼女が上を目指したいと言ったのは伊達でも酔狂でもなく、任された仕事を十分以上にこなすことから始めていたのだ。
「いや、疑ったことは謝罪する。しかし頼もしいな。俺が不在時をいつも母上に任せるしかなかったのが不安だったんだ」
「そうね。比べてみても彼女と楓、どっちが強いかと言ったら圧倒的に楓よね」
「そうだな。ともあれ任せても良いか?」
「任されようじゃないの。御阿礼の子の守護が本業でしょう? そっちに注力なさいな」
力強く笑う天子を見て、楓も信頼を込めた笑みを浮かべる。
出会いこそ物騒で、二度も刃を交えた間柄だが、味方になるとこうも頼もしい存在になるとは。
天子に見送られて詰め所を出ると、阿求が何かを理解したように何度もうなずく姿があった。
「なるほど……やっぱり天子さんはそういう……」
「そういうとはどういう?」
「あ、ううん! 天子さんはお兄ちゃんと仲が良いなあって」
「色々ありましたからね。私としても信の置ける一人です」
「色々あったの?」
「……さて、いい加減白玉楼へ向かいましょうか」
「あ、ごまかした!」
「さて、何のことやら」
ごまかした内容を聞き出そうとする阿求をはぐらかしながら、楓は彼女を抱きかかえて白玉楼へ飛び立つのであった。
その日、紫が白玉楼へ遊びに行くと、常とは違う不思議な香りが漂っているのを感じ取る。
嗅ぎ慣れない匂いだが、決して不快ではないそれに目を細め、紫は旧友である幽々子を訪ねる。
「お久しぶり、幽々子。……あら」
幽々子のいる部屋を開くと、紫は香を炊いて服を整え、めかし込んでいる幽々子の姿を見つける。
珍しいものが見れた、と目を丸くする紫とは対照的に幽々子は唇を尖らせた。
「紫、タイミングの悪い時に来たわね、もう……」
「あらら、殿方との逢瀬だったかしら?」
「そうね。文通させていただいている殿方がそろそろ来るはずなの」
「それは邪魔してしまった――殿方と文通!?」
「ええ、それが何か不思議なことでも?」
からかい半分の言葉に予想外の返事が来たため、紫は目をひん剥いて驚きを露わにする。
普段の紫なら扇子で顔を隠し意地でも表に出さない感情だが、気の置けない友人が相手だとそれも薄れるのだろう。
「だ、だ、だ、誰と!?」
「さて、誰でしょう。ただ、文通というのも存外馬鹿にできないものね」
顔は見えず、しかし文は届く。
文に込められた思いを読み解き、返礼を書く。
そうしている時は間違いなく相手のことだけを考えていると実感できるのだ。
文を重ねて想いを交える、というかつての恋愛にはそれなりの理由があった、と幽々子は変なところで感動すら覚えていた。
「あまり顔を合わせられない相手で、今日は異変も一段落ついた頃でしょうから会いたいと思ったの。わざわざ妖夢を別口で外したのもそのため」
「異変も一段落って……ああ、そういうこと。余計な驚きをしてしまいましたわ……」
異変に関わっており、幽々子と接点のありそうな殿方など一人しか浮かばない。
先日の緋想天異変で見事に黒幕を退治し、天子を味方に引き入れることをも達成した少年。
もはや紫の目から見ても侮りはない。彼は霊夢とそう変わらない年齢ながら、幻想郷を己が意思で動かせるに値する存在となっていた。
「楓のことね。まさか幽々子に懸想する相手が現れたのかと思ったわ」
「あら、そう間違ってないわよ? 彼との文通は私の予想以上に楽しいものだし」
「めかし込むのもそれが理由?」
「ええ、自分を良く見てもらいたい相手ができるなんていつぶりかしら」
「ずいぶんと好きになったものね。前までは理由もなく警戒していたというのに」
「今でも恐怖はあるわよ? ――でも、それを乗り越えてきたのが人間だと言われたら、ね」
手紙を通してわかったことは、楓は実直な少年であるということだ。
実を言うと手紙の文面を格式張って情緒的なものにしたのは、幽々子のからかいも混ざっていた。あえて彼の普段使わないであろう表現を多用した手紙に対し、どう反応するのか知りたかったのだ。
返礼は彼も幽々子に合わせたもの。慣れないであろうものに精一杯尽くし、苦心しながら幽々子の手紙に返事を書いたと思うと目尻が下がった。
それを紫に話すと紫も楽しそうにクスクスと笑う。
「なるほど、あの子も律儀だこと。幽々子がからかっていることに気づいても良いでしょうに」
「途中から気づいていたかもしれないわね。でも、ちゃんと私に合わせてくれる辺りはいっそ可愛く思えない?」
「面倒な可愛がられ方だこと……」
ただでさえ歩けば棒に当たる勢いで妖怪を引っ掛けているというのに、あの手この手で妖怪に好かれる少年である。しかも真っ当な好かれ方をあまりしていないのがタチが悪い。
紫は楓が今後見舞われるであろう災難に内心で合唱しつつ、指を鳴らしてスキマからお茶を取り出す。
「あら、どこから?」
「霊夢のところから。あの子の用意するお茶は美味しいのよねえ」
「後で怒られても知らないわよ」
「その時は適当に煙に巻きますわ」
あの短気な巫女のこと。紫の話を聞く姿勢すら見せずに殴りかかるのではないだろうか、と幽々子は思ったが口には出さない。どうせ痛い思いをするのは紫である。
などと話しながら妙に美味しいお茶を飲んでいると、ふと庭先の方へ人の気配が二人分現れる。
誰かがすぐにわかった紫が顔を上げた。
「ふむ、これは……楓と阿求ね。阿求まで連れてくるとは珍しい」
「一応、殿方との逢瀬のつもりだったのだけど……紫もいるし今更か」
「自分が楽しければどちらでも良いのでしょ。来てもらいましょう」
紫の言葉通り、部屋に入ってきたのは楓と阿求の二人だった。
しかし普段は側仕えである楓が阿求の側に控えるように立つのだが、今回は楓と阿求は並び立っていた。
「今日はどういう風の吹き回しかしら? 阿求と一緒に来るなんて」
「御阿礼の子としてではなく妖怪に興味のある稗田阿求として、お兄ちゃんと一緒にいるんです。なので今日はお兄ちゃんが主役になります」
「そういうこと。でも久方ぶりの逢瀬に女性を連れてくるなんて感心しないわね?」
「そちらもスキマと一緒にいるではないか。俺だけが責められる謂れは感じないな」
幽々子の言葉にも動じた様子を見せず、楓は阿求と一緒に対面に座る。
「まずはこちらを。遅くなってすまないが、手紙の返礼となる」
「受け取りましょう。読めるのを一日千秋の思いで待っておりました」
「その思いに応えられるかは保証しないぞ」
楓は憮然とした顔で手紙を渡し、幽々子が花開くような笑顔でそれを受け取る。
「後ほど、ゆっくりと読ませていただきます。今日訪ねてきたのはこのためだけに?」
「そうだな、他に用事はない」
そう言いながらも楓に立ち上がる気配はない。
つまりこれといった用事は全て終わったが、茶飲み話には付き合うという姿勢なのだ。
しかし時間は大丈夫なのだろうか、と先ほど衣玖が半死人のごとき顔で仕事に向かっていたのを阿求は思い浮かべる。
「お兄ちゃん、時間は大丈夫?」
「文通仲間と話す時間ぐらいはありますよ。なに、足りなかったら徹夜すればなんとかなります」
「お兄ちゃんが無茶な仕事をどうにかできる理由がちょっとわかった気がする……」
妖怪だって昼夜のどちらかは休んでいる。いくら体力があるからって平然と徹夜はしない。
なぜって、妖怪はそういった精神面での疲労を肉体面での疲労以上に嫌うからである。変に無理をして精神に変調を来してしまうと、人間以上に後を引くことになる。
それを楓は一切気にしていない。阿礼狂いとしての精神性と、妖怪の特徴を持ち合わせた楓にしかできない無理と言えた。
さておき、と強引に阿求の話を切った楓が口火を開く。この話を続けると日頃の時間の使い方に話が及んでいらぬ心配をかけそうだった。
「こちらではまたも異変が起こっていた。人々の気質が可視化し、博麗神社が倒壊する大事件だ」
「あらあら、顕界は騒がしいわねえ。もっとこちらみたいにのんびり生きてもいいでしょうに」
「全くだ。それで俺も動いてな。紆余曲折あって異変の黒幕は今、人里に身を寄せている」
「だったら顔を合わせる時も来るかしら。天人であると聞いているわ。迎えに来る死神を倒して生き長らえる存在……きっと、冥界とは縁のない人なのでしょうね」
「実際に目にしたことはないがな。……時々人里にもサボって死神が来るから、顔を合わせているかもしれないが」
その時はその時である。楓もその場面に居合わせたら、人里に身を寄せる天子を守るために動かなければならない。
などと話していると、横合いから阿求が口を挟んでくる。
「冥界に来るのは私も初めてです。いえ、何度も三途の川を渡った覚えはあるのですが、もっぱら映姫様と一緒に是非曲直庁で仕事をしておりましたから」
「そういえば阿求は知らないのね。だったら幽々子、丁度良いから冥界の案内をしてあげたら? 今の時期なら紅葉が始まる頃合いでしょう」
「始まるばかりで見頃はもう少し先だけど……それも悪くないわね。妖夢がこの前、庭の手入れもやってくれたのよ。自慢ついでに案内させて頂戴」
「わかった。阿求様」
「うん、お兄ちゃん。やっぱりお兄ちゃんについて行って正解だった。お兄ちゃんの周りはいつも騒がしくて楽しくて――どこか暖かい」
異変の時や取材の時とは違う、あくまで私人として付き合う幽々子や紫、そして楓の姿はどれも阿求の目に新鮮に映った。
冥界の主と境界の賢者。どちらも名だたる大妖怪の一角である。当然、公人としての姿であれば相応の威厳を持った姿であるだろう。
しかし今の彼女らからそういったものは感じられない。庭を自慢したいと歩く幽々子と、そんな彼女と並んで歩く紫と楓、そして自分。
ともすれば日常のようにすら錯覚してしまう、この一時。人間も妖怪もなく、ただ同じ時間を過ごしてとりとめもない話をする時間。
これこそ彼女ら妖怪が求めてやまず、そして人間たちとの営みの末に生み出された楽園の光景なのだろう。
阿求は自分もいる今の空間がなんだかとても愛おしく思い、零れそうになった涙を慌てて目元を拭う。幸い、隣の楓には気づかれなかったようだ。
「……阿求様」
「え?」
そのようなことはなかった。楓は隣を歩く阿求に手を伸ばし、その手を優しく握る。
「私達が受け継ぎ、より良くしていくものです。ですが今は噛み締めてもバチは当たりません」
「……うん」
阿求は初めて見る白玉楼の絶景を記憶に焼き付け、兄と一緒に見たそれを幾度転生を繰り返そうとも忘れない思い出としながら、穏やかに流れる時間に身を任せるのであった。
この夜、幽々子は明らかに人に手伝ってもらった様子が見える手紙を読んでもう一度笑います。彼女にとって楓は突っ立ってるだけでこっちの退屈を紛らわせてくれる存在みたいなものです。
懸想するとか色々言ってますが、当然ながら全部からかいの言葉です。ゆゆさま的に楓は背伸びして頑張ってる少年ぐらいの感情。ただ、文通で色々と知っているので素直に頼めば色々と協力してくれる程度には好ましく思っています。
次回は紅魔館の面々が出る予定です。おぜう的に楓はそろそろ本気で食べに行っても良い相手になってます。