楓にとって、自分の力というのは忌まわしいものだった。
どうして自分にこんなものが与えられたのかと思ったことすらある。両親に当たるのは筋が違うので表に出すことはなかったが。
少なくとも父は己を憐れんでいた。父は武勇、知略双方の力量こそ幻想郷でも随一をほしいままにするほどだったが、それだけだったとも言い換えられる。
楓のように睨むだけで見えるもの全てを阿礼狂いに変えるなんてことはできなかったし、妖術にも明るくなかった。あくまで人の振るう剣術と知恵、そして霊力のみで彼は幻想郷の魑魅魍魎と渡り合っていた。
楓は父を超えならなければならない。それは先代を超えるのが託された者の義務だとかそういった感傷的なものではない。
いつか必ず露見するであろう己の能力に振り回されず御阿礼の子を守るために、混迷の渦にある今の幻想郷では特に切迫して獲得しなければならないものだった。
(だが、時は足りなかった)
楓は己を止めようと構える三人を前に、誰から殺していくべきかを冷徹に思考しながら心のどこかで諦念を抱く。
愛する主を侮辱したさとりを最低でも殺しておきたい。最良は阿礼狂いへ堕とすこと。その後のことは――今の彼にそこまで思考を割く余力はない。
楓の脳裏を占めているのは今やさとりへの敵意と悪意。そしてそれを阻む少女らへの殺意と害意がほぼ全てだった。阿礼狂いが主を侮辱されたのだ。考えることはこれ以外に必要なかった。
(邪魔をするなら誰であっても殺す。最優先は霊夢。次点で天子、最後に魔理沙)
物心ついた頃からの幼馴染であっても。同じ修行を受け、同じ師に師事した相棒と呼べる存在であっても、他ならぬ楓自身が心を砕き、それに応えてくれた少女であっても――全て、御阿礼の子と比べたら塵芥である。
およそ今の彼は冷静ではない。それは心を努めて鎮め、熱持つ思考を冷やし続けることで得られるもの。楓にあるのは昆虫じみた無機質な殺意と徹底した効率のみ。
「――」
楓は一息で三人の前に踏み込み、それを阻もうと天子と霊夢が前に立つが、見向きもせずにその横を通り抜ける。
殺す優先順位は変わらず、霊夢が最優先だ。しかし――隙を晒している存在から先に殺すのは数を減らす上で当然の理屈だ。
「しまっ――魔理沙、逃げて!!」
「はっ?」
どこか気の抜けた声を発し、魔理沙はミニ八卦炉を見当違いの方向に構えたまま、楓の長刀が自身の首を刈り取らんと迫るのを見るしかなかった。
霊夢にとって楓は馬鹿のつく真面目な男であり、同時にある一つの確信を霊夢に与えた存在でもあった。
最初に楓と会ったのは物心もついて間もない頃。師であり父親代わりでもある人から紹介したい者がいると言われて引き会わされたのが最初だ。
妖怪と見紛う――実際それは間違っていないのだが――白髪紅目の無表情な少年。彼を見たとき、霊夢には一つの予感があった。
――ああ、自分はいつか彼に殺されるのか。
霊夢が頼りとしている直感は出会った時から変わらず、彼への接触を避けるようずっと囁いている。
だが霊夢はそれを無視して今の今まで彼を口うるさいけど大事な相棒であり、兄貴分として扱っていた。
理由はいくつかある。霊夢にとって己に限らず万物いずれ生死は必ず訪れるものであり、恐れるものではないとする価値観を持っていたこと。
喜んでも、恐れても変わらず死はいずれ誰の頭上にも現れる。ならばそれを恐れるのではなく、受け入れて悔いなく生きるのが霊夢にとって快いと思えるものだった。
そして霊夢は自分の選択を後悔したことはない。霊夢にとって楓は直感を無視してでも一緒にいてほしいと思える人間だった。自分が一切の憂いなく背中を預けられる人物など魔理沙と彼ぐらいである。
ただ、今の彼を見て霊夢は心のどこかで、直感が正しかったのだと認めてもいた。
(夢想天生を発動させ、天子と魔理沙を見殺しにしてさとりが阿礼狂いに変わっても楓もろとも殺す――そうしないと私は死ぬ、か)
霊夢の直感は常に幻想郷にとっての最適解を弾き出す。だがそれはあくまで幻想郷のためになる、というものを第一に置いたものであり、時に酷薄な行動を要求するものがある。
それは魔理沙の時もそうだったが、今回は特に群を抜いている。あらゆる犠牲を許容して霊夢の生存を何よりも優先している辺り、それほどに今の楓は危険ということか。
(――知ったことか)
霊夢はそこまでわかって直感を無視した。
直感の言う通りにすれば霊夢が思い描く通りの未来――魔理沙と天子は死に、阿礼狂いへ変わり果てたさとりと楓を己の手で殺すものになるだろう。
そんな未来、誰が望むものか。
霊夢がこの世で最も嫌うものは、己の意思を阻まれることである。何ものにも阻まれず、あるがままに空を飛びたい彼女にとって、今の直感は煩わしいものでしかなかった。
その選択肢にすがったが最後、自分は死ぬまで直感の奴隷になってしまう確信があったのだ。
直感の選ぶ道を唯々諾々と受け入れ、その通りに行動するだけなど人形と何が違うのか。それはここで死んだとしても受け入れられないものだった。
(それに勝てない戦いを挑むほど自惚れちゃいないっての!!)
「――天子っ!!」
「言われずとも!」
魔理沙へ迫る凶刃に割り込んだのは緋想の剣を携えた天子だった。
追い抜かれたと悟った瞬間、霊夢は亜空穴に天子を抱えて飛び込み、天子を楓の前に置いたのである。
常人なら驚愕に身を固めるところだが、そこはさすがの天人と言うべきか。天子は霊夢が内心で驚くほど滑らかに瞬間移動させられるという経験に対応し、楓と切り結んでいた。
「あんたのそれは一度見たことがある! 魔法使いはさっさと下がりなさい! 長くは持たない!!」
否、切り結ぶというのは少々天子贔屓な言い方だ。
もとより敵には容赦のない剣を振るう楓だが、今の彼の剣閃は幾度も見てきた霊夢や天子をして、打ち合いたいとは全く思えない、おぞましさすら覚える無慈悲かつ精妙な剣に至っていた。
故に天子は半ば自分の身体を斬らせる形で楓の剣を受け止める。
刃を受け止めた肩口から血が吹き出るが、骨まで達してはいないと刃の感触で理解し天子は前に出る。
「っ、せいっ!!」
「――」
苦痛を無視して振り上げた緋想の剣は楓がすでに振るっていた左の刀で弾き飛ばされそうになるが、そこへ霊夢の陰陽玉が割り込んで食い止める。
「ぶっ飛べ!!」
楓の刀を受け止めた陰陽玉が至近距離から弾幕を放ち、これは近距離での対処が難しいと楓も距離を取り――同時に彼への追撃を阻む炎が巻き起こる。
屋敷の中が一瞬で火の粉舞う煉獄と見紛う空間になったことに三人が目を見開く。
「これは……!?」
「妖術よ! こいつ、天狗の妖術が使える!!」
「はぁ!? 普段はそんなもの全然使ってなかったじゃないか!」
魔理沙の悲鳴じみた叫びを背に、霊夢は状況が悪くなったと歯噛みする。
楓にはこれがあった。霊夢との稽古でも使わないため彼女も忘れかけていたが、彼は剣術以外に妖術も堪能だ。
楓が戦ってきた妖怪相手では大して効果が見込めないことと、彼自身が剣術での勝負にこだわりを持っていたため日の目を見ることがあまりなかっただけで、妖術の腕前は決して侮って良いものではない。
少なくとも霊夢や魔理沙を殺すには十二分な天狗の颶風に天狗礫と、直撃でもしようものなら天人であろうと焼き尽くす炎を楓は使うことができる。
つまり今の彼に対して距離を取れば安全、という思考は己の首を締めるだけなのだ。
霊夢はこれらの状況を素早く理解し、楓が動き出す前にそれぞれの役割を決めて矢継ぎ早に指示を出す。
「……魔理沙は狙えるギリギリから魔力を貯めてこいつをぶっ飛ばせる魔法を用意! 天子と私で時間を稼ぐ!!」
まず、楓と最低でも白兵戦の形に持っていける天子と自分を後ろに下げる選択は取れない。というより、どちらか片方が倒れたら確実に押し切られて終わりだ。
二対一の形を作ることで、かろうじて
霊夢の直感のみならず、楓と日々稽古してきた霊夢の経験も囁いているのだ。――今の彼はかつて楓と霊夢二人がかりで手も足も出なかったかつての師、楓の父の領域に指をかけている、と。
「できないって言ったら!?」
「全員仲良くこいつに斬り殺されて終わり! 死んでもやりなさい!!」
「……わかったわ。私も一人でこいつに勝てるなんて思っていない。片方は任せたわよ」
楓のことをある種穏やかと表現しても良い面立ちで見つめながら、緋想の剣を構える天子の聞き分けが良いことがこの場での救いか。ここで彼女が独断で動いて死んだら霊夢たちも詰んでしまう。
役割を決めると同時、楓は炎の向こうでゆらりと構えを取ると、猛烈な勢いで踏み込んでくる。今度は魔理沙を狙う奇策など取らず、霊夢たちを正面から片付ける心積もりのようだ。
しかし先と違い、彼の剣は轟々と渦巻く風をまとい炎を伴っている。うかつに受けようものなら風と炎でそのまま戦闘不能にされかねない。
「タダでさえ切り結びたい相手じゃないのに勘弁してよ本当に……っ! 天子、悪いけど!!」
「わかってる。私が前で、あんたが援護。……自慢じゃないけど一人で長く持たせるのは無理よ」
天子一人で正面から切り合った場合、一合で勝負はつくだろう。楓と天子の技量にはそれだけの隔たりがあった。
だが、泣き言は言えない。すでに彼はこちらに殺意を向けているのだ。どれほど不利であっても、逃げ出す選択肢は天子にない。
「ここで逃げたら――あんたが認めた誇り高い天人から遠ざかる!!」
楓の振るう剣に伴う炎と風が身を裂き、焼いていくのを無視して緋想の剣で凶刃を受け止める。
一太刀受けた程度、何の意味もないと楓が持つもう一振りの刃が閃き――そちらは霊夢の放った陰陽玉が軌道をそらす。
陰陽玉を放つと同時、霊夢は巻き上げられた炎に紛れて楓の側面から接近を試みるが、霊夢の接近を予測していたのだろう。楓の身体を覆う風の刃が霊夢の接近を許さない。
「ああくそっ!! 面倒な術ばかり覚えたわねこのバカは!!」
少女にあるまじき暴言を吐きつつ霊夢は退魔針とアミュレットを投げつけるが、楓は見向きもせず二刀で切り払う。
そして楓を釘付けにせんと、緋想の剣を振りかぶる天子の鳩尾に容赦のない蹴りを放ち、さらに風で追い打ちをかけることで距離を強引に離す。
「っぐぅ!?」
胃液を吐き散らしながらも天子の目は楓から離れない。この男が単なる時間稼ぎ程度で距離を離したがるとは到底思えないのだ。
天子は吹き飛ばされた己の背中を強引に押し戻す風を受け、自分が下がる選択を取らなかった正しさを確信する。
攻撃にかまけて下がりでもしようものなら風で体勢を崩され、無防備な姿を眼前に晒していた。だが、それを天子は気迫で乗り切り、呼吸もままならぬ身体で強引に手を伸ばす。
「要石!!」
召喚した要石を礫の如く放ち、風ではたき落とされるのと同時に緋想の剣を振るう。
緋想の剣はうかつに受けられないと判断したのか、楓は思いの外素直に後退する。
「逃がすか!!」
そこへ霊夢の弾幕が襲いかかり、呼吸を整える時間すら与えない苛烈な攻勢に楓は鬱陶しそうに顔をしかめた。
「攻め手を緩めたら死ぬ! こいつの弱点は――こっちの攻撃は避けるなり防ぐなりしなくちゃいけない打たれ弱さよ!!」
主導権を握らせたらあっという間に押し切られる。それを先の攻防で思い知った天子は身体を蝕む激痛を生きている証とうそぶいて己を鼓舞し、弾幕の切れ目に飛び込むように再び楓の前に戻っていくのであった。
楓ただ一人が認識することのできる少女、椿は楓の変貌を全てその目で見届けて、静かに佇んでいた。
『あぁ……』
御阿礼の子を侮辱されて浮かべた表情。それこそがずっと付き合い続けた中でようやく見えた、楓の本質に他ならない。
そして椿の胸中が叫び続けていた答えも、ここにある。
『やっとわかったよ。……それがキミなんだね、楓』
彼と共に成長したと言っても過言ではない。椿の記憶は彼に認識してもらったその時からしか続いておらず、その中で楓は一度たりとも今の姿を見せたことはなかった。
しかしずっと楓の中にはあったのだろう。御阿礼の子に関わる時以外、下手をすれば一生表に出ないような一面であり――椿の魂が求め続けていた真実だ。
そして椿は明かされた楓の能力と同時、自分の正体についても完全に理解し、その瞳から誰に拭われることもない涙を流す。
『私は、間違えたんだ……! どうしようもない過ちを犯したんだ……!』
過去の記憶など戻るはずがない。自分の存在に思い至った彼女には、正しく過去の記憶は
だが椿の胸は納得に震え、ついに到達した真実に歓喜していた。
『私の過去……ううん、元になった人が誰かはわからないけど、きっとよっぽど彼らに執着していたんだろうね。そして私は奇跡のように楓と出会った』
あふれる涙を拭い、椿は今の状況を確認する。
炎に風、目くらましに天狗礫まで操り、およそ付け入る隙を与えず双刃を振るう楓と、彼に押し切られまいと傷を物ともせずに前に立つ天子と、楓を動かすまいとあらゆる角度から消耗も無視して弾幕を撃ち続ける霊夢と、彼女らの凄惨な動きに己の役目を自覚したのだろう。魔理沙の目は楓から一瞬も離されることなく魔力が貯まり続けている。
彼らの戦局を俯瞰できる椿にはわかった。この状況が続いた場合、楓が負ける可能性が高い、と。
なぜなら彼は今なお霊夢たちを押し切れていない。数の差がある敵を相手にする場合、いかに一対一の状況を作るかが重要であるというのに、今の彼はバカ正直に三人を相手している。
そこは彼女らの決死の攻勢もあるだろう。どちらかが倒れた時点で瓦解するような猛攻であるからこそ、楓も後手に回って対応せざるを得ず、術に頼った散発的な攻撃になっていた。
魔法の用意が完了する、ないし霊夢がさとりへやっているような空へ浮くことを天子か霊夢自身に行ったら、楓は対処する術を持たない。
膠着した状況が長引けば楓が勝つだろう。今の拮抗は少女たちの死にさえしなければ問題ないと捨て身の攻撃に出ているからだ。このまま続けるなら消耗で天子か霊夢が倒れた時点で決着はつく。
椿は彼女らの奮闘を好ましく思う。彼女らが力を尽くしているのは、楓が人の道から外れぬよう願ってのこと。
本質を語るなら最初から阿礼狂いである楓が
楓のことを思うなら彼女らに力を貸せば良い。間違いなく椿は消滅するが、楓は高い確率で生き残るだろう。
しかし――
『
椿は楓とともに生きてきた。だからこれからも生きていく。
ただそれだけで、そのためなら全てを犠牲にしても良いと思える決意を秘めて、椿は楓の力となるべく戦場に身を投じるのであった。
霊夢は歯噛みしていた。このままだとこっちが倒れる方が早い、と理解してしまったのだ。
楓にしか見えず、楓にしか触れない存在が参戦したのだろう。これまではかろうじて読めていた楓の動きが一気に読めなくなってきた。
「――いい加減に死ね」
「お生憎様! 身体が丈夫なのが取り柄なのよ!」
そのため身を張って攻撃を防ぐ天子の傷が加速度的に多く、深くなっていく。すでに四肢がくっついて十全に動いているのが不思議なほどだ。
今だって楓の放つ双刃の片方を防ぎ切れず、天子の脇腹に深々と刃が埋まった。
「――ァァァアッ!!」
痛みに堪えるように踏ん張ったのも一瞬。天子は肉体の限界など知らぬと前に出る。出血は只人ならとうに失血死するほどだが、天人の肉体が強引に生かしている。
(もう魔理沙の溜めを待ってられない! これ以上は天子が死ぬ! 天子が死んだら私と魔理沙も死ぬ!)
存在するかもわからない手札を切らなければ状況の打開ができない。もはや幾つくぐったのかもわからないほど死線をくぐっているというのに、魔理沙の魔法は未だ用意ができていない。
それはつまり、楓との攻防は永遠にも錯覚させる刹那でしかないということ。時間に直しても一分に満たないだろう。
(切れる札自体に案はある……けど! それをするとさとりが無防備になる!)
さとりに行っている他者を空に浮かせる業。それを他者にかけ、なおかつ意識を保ったままにする。
天子にそれができれば彼女への攻撃は文字通り空を切り、彼女の攻撃は全て通るようにできる。というより、そうしないと彼女の傷がそのまま致命傷に変わりかねない。
しかし、そもそも他者を空に浮かせるという業自体がぶっつけ本番の産物であり、さとりに成功しただけでも褒め称えられる領域だ。
それをさとりに維持したままさらに別の他人に、しかも意識は保った状態で、となると奇跡が一つ二つでは足りない上、霊夢の霊力も持たない。
けれど迷う段階はとうに過ぎている。一秒迷う度に天子の死ぬ確率が一割増えるような状況だ。
「……っ! 一か八か!!」
空に浮かせたさとりを地に戻す。当然、地に降りると同時に魔眼の侵食も再開するが、天子とさとり、どちらかしか取れないなら今なお身体を張っている天子を選ぶ。
霊夢の判断は適切で、自分にできる最善を常に選んでいた。
だが、今回に限ってはほんの少し遅かったのだろう。
「――まず一人」
「ぁ……」
霊夢がさとりの状態を解除した瞬間、彼女の目に飛び込んだのは天子が楓の双刃に貫かれ、刃が背中から生えている光景だったのだから。
さとりは一瞬だけ解放され、その後再び始まった阿礼狂いの侵食に魂を侵されていた。
見たことも聞いたこともない名前や顔が次々に頭へ流れ込み、それらを盲信する価値観が植え付けられていく。
文字通り価値観が塗り替えられ、あまつさえそのことに幸福感すら覚えてしまう状況に吐き気と恐怖が身体を縛る。
自害できるのならとうにやっている。だが、すでにさとりの思考には主のためでもないのに死を選ぶなど何事か、と叫ぶナニカが存在していた。
記憶は変わらない。地霊殿に住まうペットも、たった一人の妹のことも全て覚えている。
だというのに、彼女らへの見方が変わりつつある。大事なペットは単なる手足に。大切な妹はただ、血が繋がっているだけの他人に成り下がっていく。
そして己の命よりも大切な存在として、見覚えのない誰かが刷り込まれる。
「嫌だ……っ、嫌だ嫌だ嫌だ!! 私の心を塗り替えないでくださいお願いしますお願いしますお願いしますっ!!」
頭をかきむしり、いっそ指を脳に突っ込んでかき回しても魂への侵食は止まらない。ガリガリと耳の裏にこびりつく鎖をひっかくような不快な音が止まらない。否、止まった時がこのおぞましい時間の終わりなのだろう。最悪な形で、という枕詞がつくが。
泣いても乞うても鎖の音は鳴り止まない。それに付随するように涙でにじむ視界から徐々に色が消えていく。
色が消えるというのは視覚の話ではない。ただ、さとりにとって価値あると思えるものがとあるお方以外にいないという状態になりつつあるのだ。
さとりの思考には顔も名前もわからない大切な人の存在が、脳に直接焼きごてを当てたように刻まれていた。ああ、彼ないし彼女に会えて側にいられるなら何もかもいらない――
「違うっ!! 私はあの方のためではなく自分のために生きてあの方は誰だ私も会いたい違う私はこの場所で生きて違う違う何が違うの!?」
ペットたちは家族のはずなのに大切に思えない。妹はたった一人の肉親なのに他人のように思えてしまう。価値観の変貌に必死に抗っているつもりだが、もはや何に抗っているのかもわからなくなってきた。
いっそこのまま身を委ねてしまえば良いのではないか。そんな選択肢がひどく魅力的に思えるのは、ここまで魂を侵される苦痛に耐え抜いたからか。
何もかも投げ出し、この呪縛に侵されるままになろうか。一瞬でもそれに抗いきれずさとりが身体の力を抜いた瞬間だった。
さとりの頭に小さく暖かい手が乗せられ、鎖が千切れるように呪縛がかき消えたのは。
「え?」
「――もう大丈夫だよ、お姉ちゃん」
頭上から愛しい妹の声が届き、涙に濡れた視界を上げると慈しむ眼差しで彼女を見下ろす妹――古明地こいしの姿があった。
第三の目を閉じ、他者の無意識に存在するようになってさとりですら知覚が不可能になっており、常日頃から気を揉んでいた妹が、今は自分を助けてくれている。
妹が助けてくれる。その事実に感謝できる事実がさとりの心を慰める。つまり、自分はまだ染まり切ってはいないのだ。
家族を大事に思えた事実に安堵しながら、さとりの意識は穏やかな闇に落ちていくのであった。
天子は腹を貫かれた瞬間、これはさすがに死んだと思っていた。
すでに全身で傷のない場所を探す方が難しいくらい、身体はズタボロになっている。中には骨まで斬られ、筋肉と根性のみで動かしているような部位もあるぐらいだ。
「あ、が、は……っ」
何度か血を吐いた口からさらに血があふれる。緋想の剣が手からこぼれ落ち、震える指先が刃を握る楓の手首に触れた。
楓の目は天子を映していない。もはや終わった存在だと結論づけ、天子の腹から突き出た刃を引き抜こうと力を入れようと――
「――っ!?」
刃が引き抜かれる前に楓の目が驚愕に見開かれる。今の状態となって初めて、彼が明確な感情を表に出した瞬間だ。
天子にはわからなかったがこの瞬間、こいしがさとりを無意識の領域に落として楓の認識から逃れたのだ。阿礼狂いの呪いをかけ続けていた相手が認識できなくなったことに、さしもの楓も驚愕せずにはいられなかった。
楓の脳裏には一瞬で様々な可能性が駆け巡る。霊夢が戻ってこれないことを承知でさとりを完全に浮かせたか、あるいは第三者が何らかの能力を使ったか。
阿礼狂いとして最大に加速した思考を用いれば、数秒の間に答えを見出して無意識に逃れたと理解し、次はこいしもろとも阿礼狂いの呪いをかけただろう。
だがこの一瞬、楓は確かに動きを止めたのも事実であり――
――これを天子は好機と捉えた。
「……っ!」
身体に残されたありったけの力を使い、両腕を伸ばして楓の五体を抱きしめる。
両腕に収まった楓は天子の意図に気づいてもがき、術を駆使して天子の身体をさらに刻むが天子は痛みに顔を歪めるどころかいっそ穏やかな顔で楓を見た。
憎々しげに天子を睨む楓に、ようやくこちらを見たと天子は力なく口角を上げる。
「こうすれば逃げられない。――博麗の巫女と魔法使い!! 私ごと楓を撃て!!」
「は? おい待てよ、こいつは完全に人を殺せる火力だ。そんな状態のお前が受けたら一緒に――」
「――魔理沙、私を信じろ!!」
天子の心中宣言にも受け取れる言葉に魔力のチャージが終わり、いつでも撃てる状態になった魔理沙が叫ぶが、霊夢が魔理沙の逡巡を遮るように言葉をかぶせる。
それを聞いて魔理沙は迷いを捨て、決意を持った瞳でミニ八卦炉を楓に向けた。
「霊夢の言葉だ、信じるぜ!! ――魔砲! ファイナルマスタースパーク!!」
霊夢に向けた時よりさらに大きく、強大な魔力の光線が天子に抱き抱えられた楓へ殺到する。
天子は一秒とせず己を焼くであろう熱を背中に受けながら、懐かしい記憶がよぎるのを受け止める。
何もわからず天人となった子供時代。嘲笑に耐え、屈辱に塗れながら必死で天人としての知識、振る舞いを身につけた時代。やがて何もかもが無為になり、ただ退屈を持て余していただけの時代。
そして楓たちと出会い、彼のもてなしを受けたこと。異変を起こしたがほとんど何もできず倒されてしまったこと。夜に二人だけで戦い、鬱屈した思いを全て吐き出して戦い、負けたこと。勝手にやり過ぎたのか天界から追放され、地上で暮らすようになったこと。
地上ではあらゆる物事が刺激的だった。退屈を覚える暇もなく、あらゆる刺激と冒険が向こうからやってくる。
天界で過ごした永い時間より、一年にも満たない地上での活動の方を多く思い出す走馬灯に天子は苦笑してしまう。
全くもって、自分を地上へ連れてきたこの少年には感謝してもしきれない。ここで命を懸けるのも、彼女なりの恩返しである。それほどに千年の退屈を打破した少年への恩義は大きかった。
冒険がここで終わるのは名残惜しいが、なに。この少年も連れて行くのだ。きっと彼岸でも別の冒険が待っているだろう。
「あの世で誇りなさい。この比那名居天子様が、黄泉路の伴をしてあげるから」
天子は楓の胸に頭を預けるようにし、共に光の中へ消えていくのであった。
魔理沙のファイナルマスタースパークは彼女の言葉通り、今までで最大の火力を持って地霊殿の壁をぶち抜いていく。
ミニ八卦炉から正真正銘ありったけの魔力を発射した魔理沙は飛ぶ魔力も残さず、かろうじて立っているだけの状態で霊夢を見る。
魔力を集めるのに集中していたため気づかなかったが、霊夢の身体にも細かい傷がいくつもあり、頬から血を流しながらもうもうと土煙の立ち込める天子たちのいた場所へ手をかざしていた。
「……大丈夫なんだよな、霊夢」
「あったりまえよ」
霊夢は自信満々に断言し、徐々に消えていく土煙の向こうに少女の姿を見出した。
「……ふぇ? 生きてる?」
一緒に巻き込まれて死んだとばかり思っていた天子は、身体の痛みが全く消えないことを疑問に思って目を開く。
目を開いた先にあったのは期待していた彼岸ではなく、腹から剣を生やしたまま地霊殿に立っていた。
天子が振り返ると、霊夢が会心の笑みを浮かべ、親指を立てる。
「なんか知んないけど、さとりを浮かせていた手が空いたから、魔理沙のファイナルマスタースパークが当たる直前にあんたを浮かせたのよ。そんでほら」
霊夢が指差した先には全身から煙を発し、黒焦げになった楓が倒れていた。指が震え、何かを探すように蠢いているのは天子の腹に刺さった刀を求めているのか。
「楓ならあの瞬間でも防御ぐらい取ったでしょ。生きてるのがその証拠で、だけどもう抵抗する気力もない。ああ、あんたは怪我大丈夫?」
「え? ええ……これ以上傷を負わないならしばらくすれば治るわ。首を守り続けたのが功を奏したわね」
「なら良し。取りこぼしたものはない、と」
つまり、勝ったのである。誰も彼も生きた心地のしなかった悪夢のような勝負を制し、三人は生き延びたのだ。
「――私がいるんだから誰も死なせず、誰も終わらせず全取りするに決まってんでしょ。これが博麗の巫女の実力ってやつよ!!」
楓VS少女三人の戦い&色々な情報開示シーンでした。椿の正体についてはまた今度彼女の口から語られます。
戦闘とも並行してるから書くのが難しい……!
ここにお空がさとりをいじめるなと乱入するシーンも考えていたのですが、これ以上人数増やしたら私の手に負えないのと、後先考えず核融合ぶっ放したらさとりとこいしが蒸発しかねないのと、霊夢と魔理沙が放射能浴びる可能性が見えたのであえなくお蔵入りに。許せ、多分天子が地底に降りた時に出番がある。
次回はお偉い人があれこれ話すシーンを予定しています。何を話すのか? そこにクソヤバい能力持ちなのが判明した主人公がおるじゃろう?
物語全体としてはここが中盤の山場、というイメージです。主人公の設定もほぼ開示されたので、この先は各異変と同時に楓と阿求の物語も動き始めていきます。
物語の山場が50話過ぎて遅い? はいすみません(土下座)
あ、この辺りで折を見て人物紹介を投げます。私も登場人物の把握が怪しくなりつつあるからな……!