紫がとつとつと楓の一族について語り始める中、阿求は静かに瞑目し無言を貫き続けていた。
たとえ紫の口から彼らを狂人の一族だと語られようと、眉一つ動かさず粛々とその言葉を受け入れる。
「――彼らの一族については以上よ」
「ここに来てある程度長いやつや、個人的な付き合いがあった連中は知っていることだ」
紫の言葉を天魔が補足し、レミリアと勇儀らが同意するようにうなずく。
反面、彼ら一族について初耳だった永琳と守谷の祭神はどこか信じがたい様子だった。
「……にわかには信じがたいわね。楓からそのような気配は――」
「抜き身の刀を振り回す狂人じゃないってことさ。あいつらは御阿礼の子に関わらない限り、普通に生きている。冗談に笑う時もあるし、人死に顔をしかめることもあるが――根底はさっきスキマが話した通りだ」
彼らは溶け込むのがとにかく上手いのだ。知識として知っている彼らをしてまさかと思わせるほどに上手く、人の擬態をする。
本質はただ一つの願いのため、全てを昆虫じみた無機質な打算と効率で動く存在である。
「スキマとは多少顔合わせもしているんでしょう? 御阿礼の子に手を出すな、とかそれに近しい言葉は受けたんじゃない? あれは要するに楓たちの一族を敵に回すな、ってことよ」
「ふぅむ……。そんなに恐ろしいのかい? 紫の口ぶりから察するに、現在の当主である楓以外はそこまでの脅威じゃないんだろう?」
「三人いればうちの天狗の足止め、下手すりゃ殺害だろうと行える。頭目の実力はオレたちと正面から殴り合える。おたくらはそんな集団を敵に回して勝って、生き残って、旨味を得る算段を立てられるか?」
「懐柔……は無理なんだろうね。なるほど、そいつは恐ろしいや」
数という点では間違いなく幻想郷最大である、妖怪の山の主がこう言っているのだ。少数精鋭である守矢神社が彼らを敵に回した場合、最良でも相討ちの結果になるぐらいの差がある。そもそも楓を抑える時点で諏訪子と神奈子の二人がかりが必須である。
「と言っても、昔はそこまでではなかった。いや、確かに敵に回すと厄介なのは変わらなかったが、オレたちが雁首揃えて話すような脅威でもなかった」
「おじ様と楓がいないようでは、いくら精鋭といえど人間の精鋭止まりだったわ。――逆に言えば、あの二人がいる彼らは決して侮れない」
「……楓以前にいた人も関わっているようね。肉親かしら?」
天魔とレミリアの語り口に言葉を差し込んだのは永琳だった。
彼女は以前、紫との話で楓の父が自身をも驚かせる才覚の持ち主だったことを知っている。
もしかしたら程度の言葉であったが、レミリアと勇儀はその言葉を待っていたと言わんばかりに顔を輝かせた。
「ああ、あいつの父親さ。これがまた傑物でね」
「私やそこの鬼を正面から一騎打ちで打倒する猛者だったの」
「おまけに頭も滅法回る御仁でな。今の幻想郷に一枚も二枚も噛んでいる」
「……会えないのを残念に思うわ。その人物が彼ら一族の認識を跳ね上げた、と」
一人で済むならどれほど良かったか、と頭を抱えているのは紫一人であり、残りは概ね楓の存在を好意的に受け入れている者たちばかりだった。
「話を戻しましょう。彼らは敵に回してはならない理由は理解できたと思うわ。ただ、それだけなら私も不幸な事故があったで片付けるつもりだった。次代の幻想郷を担う若人を無闇に摘み取りたくはないわ」
楓の父親のように、本気を出したら紫が全力でかかっても危うい相手と違い、楓は今ならまだ抑え込める領域にある。
それに今は彼と同世代も粒ぞろいである。霊夢はいわずもがな、最近人里で暮らすようになった天人も彼に対して相性が良いようだ。あれだけ斬られ、術を流し込まれても天人の肉体が彼女を生かしていた。
暴走だけなら抑え込める。紫はそう信じていたし、楓自身もそのような状況が来ないよう苦心しながらも器用に立ち回っていた。
「……これより彼の能力について開示します。彼とおそらく彼の父しか知らず、誰にも言わず隠し通していたものですが、これを隠し立てすることは許されません」
「ほぉ。魂縛りだけではないと思っていたが、どんなものだ?」
「――視た者を阿礼狂いに変える程度の能力。彼が所持する瞳は我々が危険視している阿礼狂いそのものに妖怪を変質させるもの」
どこか面白そうに話を聞いていた皆が、紫の口より語られた能力の詳細を聞いて一様に真顔になる。
瞑目し、無言を貫いていた阿求も楓の能力を聞き、僅かに眉を揺らした。
「受けた者は価値観の変貌と有りもしない記憶を埋め込まれ、最終的には阿礼狂いへと変わり果てる。気合や根性で耐えようとしてもどうにもならない」
「そいつはまた……なんともはや」
天魔すら絶句し、二の句が告げない様子で呻く。次代の天魔に推しても良いと思っていた少年がそこまで大きな爆弾を抱えていたとは誰が思ったか。
……いや、阿礼狂いという時点で巨大な爆弾なのだが、それに加えてさらに面倒なものを持っているのは少々予想を上回っていた。
と、そこで諏訪子が不思議そうに手を上げて口を開く。
「うん? 待った。今の話が本当なら、誰も彼を止められなくなるんじゃないかい? 受けた者はほぼ動けなくなる認識で良いんだろう?」
「霊夢たちは問題なく動いて戦えた。このことから、彼の能力にはいくらか可能性が考えられる」
「対象はあくまで一人だけか、能力の発動自体に何らかの条件があるか、だな」
「前者である、と考えるのは希望的観測でしょうね」
確かめる術はないが、個人だけで済むなら彼があそこまで必死に隠そうとするだろうか、という疑問が生まれてくる。ここで楽観的に考えた場合、間違えた際の代償は非常に大きくなるだろう。
「となると条件の有無ね。……ねえ、紫。私が以前に話していた彼への苦手意識、覚えているかしら」
心当たりがあると声を上げたのは幽々子だった。
これまで確たる根拠もなく、彼の人となりを文を通じて知ってなお消えることのなかった警戒心。
今でこそ文通によって知ることのできた彼の人柄を起点に、理性で警戒心を抑え込むことができていたが、肝心の警戒を抱く理由については放置したままだった。
「……ええ、言っていたわね」
「魂縛りの方でも、存在が魂や精神に依っていればいるほど効果が高いと言っていたわ。つまるところ、彼の瞳は――」
「肉体よりも精神に依った存在ほど強力な効果を発揮する、と」
腕を組んで聞き役に徹していた神奈子が大仰にうなずき、楓の能力についてしっかりと認識する。
そして目を閉じてゆっくりと何度も首肯して情報を咀嚼し――顔から冷や汗が流れ落ちた。
「……状況次第で自制心放り投げる奴が問答無用で私らの価値観を塗り替えられる能力持ちってことかい!?」
「うーん、あわよくば早苗の婿にとも思うくらいの優良物件ぶりもある種擬態だったのか……」
人里において欠かすことのできない防衛戦力であり、楓自身は人里での対妖怪との折衝をほぼ一手に担い、今現在の幻想郷の主だった勢力とは全て顔見知りないし友好的な関係を築けている。
仮に別の勢力とのつなぎが欲しい場合、楓に話を通せば間違いなく顔をつないでくれるとなればその有用性は大きい。
私人としても早苗の良き友人だと聞き及んでおり、神奈子たちから見ても前途ある好青年だった。
――それら全てが本質を隠す擬態でしかないのなら、大した役者であると神奈子たちも脱帽せざるを得ない。
「恐ろしい話だ。実に恐ろしい話だ。初見殺しにも程がないかい?」
「言っておくが、御阿礼の子を害さない限り楓はあの態度を崩さないぜ? それこそ一生表に出ない可能性だってあった」
それならオレたちもこんな苦労しなくて済んだんだが、と天魔は肩をすくめた。
「おじさまたちの素敵――もとい、恐ろしいところはあの姿も別に擬態じゃないところよ。全部が全部本心とは限らないけど、全部が全部演技でもないわ」
レミリアの知る彼ら親子は表に出やすいかの違いこそあれど、どちらも優しさや誠意を持ち合わせた性格だった。
そしてそれとは別に御阿礼の子を害した者を、一切の躊躇なく滅する部分が矛盾なく同居しているのだ。
「誰だって色々な性格を持っているでしょう? 一面だけの性格なんてあり得ない。彼ら一族は例外なく普通の性格と阿礼狂いとしての性格が狂わず同居しているから
「……事情はわかりました。それで、あなたは我々に何をしてほしいの?」
自分たちに関係はないと位置づけつつ、永琳は紫に話の続きを促す。蓬莱人である彼女らに楓の魔眼は効果を発揮しない。
あるいは不老不死の魂にすら影響を及ぼすのかもしれないが――そこまで強力な魔眼ならそれこそ対処のしようがないのだ。気にするだけ無為である。
水を向けられた紫は微かに迷いをにじませた目で参加している面々を見やり、やがて絞り出すようにつぶやく。
「……彼の処遇について意見を求めます。恥と思ってくれて構わないけど、私一人では彼の処遇を決めかねる」
彼が他と関わりを作らず、御阿礼の子の側仕えに徹しているだけであれば、紫は消すことを選んでいただろう。
だが、すでに今の彼は紫の独断で消すには影響力が大き過ぎた。この場に集めた面子とて、彼と関わりがない人は呼ぶつもりなどなかったのだ。
「……そいつはつまり、楓の命をオレたちに委ねると?」
天魔は腕を組み、片目を閉じて阿求の方をちらりと見やる。
「…………」
連れられて来た時と変わらず、人形の如く微動だにしないままだった。この場にいる妖怪たちが誰か一人でもその気になれば、命などまばたきの間に消えることなど百も承知で、それでも汗一つかいていない。
ここまで楓のことを道具か何かのように扱われ、彼女の心中はいかなるものか。
(まして彼女は御阿礼の子。――千年、阿礼狂いに付き合った女だぞ。スキマ、こいつの中身読み切れているのか……?)
阿礼狂いの狂気を誰よりも間近で見て、時に彼らを剣とし、時に彼らを従者とし、時に彼らを家族として共にあった少女たちである。
――阿礼狂いと共にあり続けた彼女らの正気を保証するものなど、どこにあるのだろうか。
故に天魔は一度場の流れを見ることにした。ここで自分が先走るとロクなことにならない、と彼の直感がささやくのだ。
そして真っ先に口火を切ったのはレミリアだった。
「紫、一つ確認したいのだけど良いかしら?」
「……何でしょう?」
「その楓の瞳ってやつ――色は何色?」
大真面目な顔をして聞いてきたため、紫は思わず目を瞬かせる。
「これは重要よ? 普段のあの子の目は綺麗な紅玉なのに、色が変わったら私の好きな色から遠ざかっちゃうわ」
「……碧よ。あの力さえなければ見惚れるぐらいに綺麗な翠玉の瞳」
「それは残念。私の好きな色ではなくなるの。――ああ、私は殺すことには反対よ」
実に気軽に。それこそ咲夜に紅茶を頼むのと同じ調子でレミリアは自分の立ち位置を明確化した。
「……ことの重大性をわかっていて? 彼は幻想郷を容易に滅ぼせる――?」
「それ、できないやつはこの場に何人いるの?」
紫の詰問にレミリアは質問を投げかける。
「私が満月の夜に本気で暴れて、人里はその機能を維持できるわけ?」
「それは博麗の巫女が――」
「別に霊夢を過小評価しているつもりはないわ。私は間違いなく霊夢に滅ぼされるでしょうけど、それまでに人里程度の規模、壊滅させるなんてわけないでしょう?」
楓が防衛に出ても彼を無視して人里の破壊に専念すれば、レミリアが死ぬまでに間違いなく人里は壊滅する。よしんば生き残りが出たとしても数十人にも満たないだろう。
そうなれば幻想郷の人間は容易く滅び、人の畏れを得られなくなった妖怪も滅びる。
「私以外も大体似たようなものでしょう? そうしないのは単にそれをしても得がないってことと、色々な勢力が睨みをきかせているから。その辺度外視して暴れることだけ考えればそれぐらいは皆可能」
そもそもこの面子で幻想郷の存続を語ること自体がナンセンスなのだ、とレミリアは両手を広げて肩をすくめる。
「むしろ幻想郷の存続って点だけなら楓の能力はかなりマシじゃない? 私たちは皆楓と同じになっちゃうけど、同じってことは阿求に手を出さなきゃこれまで通りなんでしょう? 真っ当な妖怪はいなくなるでしょうけど、幻想郷は続いていくわ」
「…………」
「だったら私は気にするだけ無駄だと思う。それに楓はもっと美味しくなったら私が食べる予定だし」
言うべきことは終わったとレミリアは満足げに目を閉じる。
誰の言葉にも耳を貸さず、自分のルールを愚直に守り続ける姿はある意味正しく、大妖怪としての生き様だった。
「……天魔、あなたはどうかしら」
「ん、お嬢ちゃん――レミリアの言葉で腹が決まった。オレも殺さないに一票だ」
「……あなたはそう言うと思ったわ。天狗の子供でもあるし」
紫はため息を隠さないが、レミリアと天魔の反対は想定の範囲内でもあった。
彼女らは楓の父とも親交のある者たち。彼への義理立てを含めても楓をかばうことは予想された。
しかし、天魔は少し違うと紫の指摘に首を振った。
「お偉方が揃っているから丁度よい。――オレはあいつを次代の天魔に据えるつもりだ」
「……それがどういう意味かわかっていて?」
「もちろん、楓本人にも問われたさ。だが、オレは本気だ。オレを全てで超えうる天狗が現れた以上、今の座に固執する意義はない」
「彼の瞳について知った今でも?」
「何か抱えているのは知っていて、その上で選んだ。……オレはもう賭けているんだ。今更危険なのがわかったから足抜けします、なんて言える場所にいないんだよ」
楓に自分以上の器を感じた天魔は、今なお己の直感に疑問を覚えてはいなかった。
次代の天魔に、と言うほど買っていたことはやや予想外だった紫に、次の声が届く。
「永遠亭の名代、八意永琳も彼の殺害は反対ね。永遠を生きる蓬莱人に彼の目が効かないだろうというのが一つ。そして半人半妖という貴重なサンプルをまだ失いたくないのが一つ」
「…………」
「そんな顔をされても困るわ。才ある弟子が途中で潰れるのを防ぐのも師の務めよ」
ここまで買われているのは予想外だった、と紫は内心で爪を噛む。というかいつの間に弟子入りしたのだ。
……後日、楓本人に聞いても弟子入りした覚えまではないと首を横に振られたのは別の話だ。
と、そこへ神奈子と諏訪子が口を挟んできた。
「では私らは賛成としておこうか。ああいや、人里と敵対するつもりはないが、万が一を考えると無視もできまい」
「彼がいなくなる影響は大きいけど、それも時間が解決するでしょう。人里の立場は悪くなるだろうけど、それとて元に戻ったと思えば良い」
この場所は忘れ去られた妖怪の楽園であり、人間は彼女らを生かすための餌に過ぎない。
そんな意思が透ける言葉に、誰よりも不快な感情を覚えたのは他ならぬ紫自身だった。
人妖共存を最初に掲げた少女はその理想に向かって邁進し、多くの奇縁と偉業の末にそれが結実した。
慌ただしく激動ながらも前に進む実感のあった日々と、悲願が実現した瞬間。紫は何よりもあの光景を尊いものだと信じるからこそ、諏訪子たちの言葉は内心、自分でも驚くほどの不快感があった。
「…………」
「おっと怖い顔。私たちはあんたがいかにも殺したそうに話を進めるから乗っただけだよ。何がそんなに嫌なんだい?」
「境界の賢者も人の子か。いやいや、悪い意味で言っているわけじゃない。むしろ初めて好感を覚えたよ。どうあれ私らの意見は以上だ」
「……わかりましたわ。鬼は――聞くまでもないわね」
萃香と勇儀にも一瞥を向けるが、彼女らの力強い笑みを見て聞く意味は感じられなかった。
「驚いたのは事実だよ。紫と一緒に楓の能力を見た者として、彼の脅威は正しく理解しているつもりだ。――だが、私も勇儀もあいつに負けた鬼だ」
「あれはもっともっと強くなる。今回でこそ尋常な一騎打ちじゃあないが、いつか必ず私らを超えていく。そんな芽がここで消えるなんて冗談じゃない」
勝者が敗者より先に消える道理などあってはならない。原初の理に従って生きる鬼の首魁らは、どちらも笑って楓の能力を受け入れた。
「それにあいつは勝者の望みをまだ言っていない。阿礼狂いになれと言われりゃ受け入れるのが鬼の度量よ」
「違いない! なに、死ぬわけじゃないし酒の味もわかるんならそれもまた一興だよ!」
そう言って勇儀と萃香はお互いの肩をバンバンと叩き、大いに笑いながら酒を飲む。
聞くだけ無駄だったと紫は嘆息し、最後に幽々子へ視線を向ける。
視線を向けられた幽々子はこの場に似つかわしくない、たおやかな笑みを浮かべて紫を見た。
「……幽々子」
「ついに私の出番ね。忘れられてたかと思っちゃったわ」
「悪いけど、今はあなたの軽口にも付き合えないの」
「そうねえ。私から言えることはそんなに多くないけれど――あなたも楓とお話してみたらどうかしら?」
「話?」
「ええ、そう。今の紫は前の私に見えるわ。……話すことをせず、ただ額面だけの情報で過度に警戒していた私と同じ」
「…………」
「私も彼を殺すのは反対。素敵な文通相手がいなくなるのは悲しいわ」
妖夢の稽古相手であり、自分の文通相手でもある楓がいなくなるのは惜しい。彼の文からは冥界では想像もつかない賑やかさがあって、幽々子をいつも楽しませているのだ。
そして幽々子が答え、一通り回ったところで映姫が紫に対し口を開く。
「八雲紫。私は今回の一件には中立を保ちます」
「理由を聞いても?」
「簡単です。――彼岸に来るのは人間も妖怪も阿礼狂いも同じです。私は衆生を裁く閻魔大王として、彼らを贔屓しませんし、待遇を変えることもしません」
映姫はあくまでその生命が歩んだ道を裁定するものであり、生命の在り方が後天的に歪められていようと彼女の仕事に変わりはない。
「ああ、ですがこうして彼の能力を知る機会を設けてくれたことには感謝します。関わりの薄い話でしたので語る口を持ちませんでしたが、確かに有益でした」
「……それは光栄ですわ」
どうあれこれで一通りの答えは聞いた。唯一楓を殺すことを提案したのは守矢神社の祭神二人だが、彼女らは紫がどういった反応をするか理解した上であえてとぼけたという見方もできる。
紫自身、迷うところがあったので試金石として彼女らの反応を見たことは認めるが、ここまで受け入れられるのは少し予想外だった。彼の動きを甘く見ていたかもしれない。
だが、おかげで紫も決心がついた。彼の能力が危険であることに間違いはないが、それを知った上で殺すのが惜しいと思われる程度には価値を高めている。
では最後の確認を行おう。最悪の場合、阿求の記憶をいじらなければならないことと、彼女にも真実を知る権利があると考えて同席させていたが、面子が面子だったためかずっと無言を貫いていた阿求に紫は視線を向けて――
――目を開いた阿求に膝が崩折れるほどの威圧を覚えた。
「……ああ、お話は終わりましたか。ええ、もちろん一から十まで聞いておりましたし、生涯忘れません」
「……っ」
うかつな返答すら許さない。そんな空気が求聞持の力を持つとは言え、ただの少女から発せられていた。
「お話を全部聞いた上で言わせてもらいますが――
「…………」
全員が黙り、そして視線が紫に注がれる。
視線の意味は唯一つ。お前が連れてきたんだからお前がなんとかしろよ、というある種の懇願である。今の彼女に触れるのが不味いとは皆に共通した感想だった。
阿求はそれもわかっているだろうに、普段の来訪者を相手にする時と変わらない柔和な笑みを浮かべ、しかし目は笑わず話し続ける。
「レミリアさんも言っていたことですよ。――その気になれば人間を滅ぼせる人たちが雁首揃えて何を言っているんです?
楓さんが妖怪を滅ぼす力を持っていたとして、どうしてそれが殊更に問題視されるのか、私には皆目見当もつきません」
「阿求――」
「以前幽々子さんに話しましたが、私は人里の人間です。あなた方が餌と語る人間です。共存を成し遂げたとはいえ、変わることなく妖怪に襲われる人間です。――あなた方は我々を滅ぼす力を持って、私たちにそれを持つのは許されないとでも言うのですか?」
徐々に阿求の声に怒りが混ざり始めている。それがわかった天魔は逃げ道を探すように視線を部屋の周囲に回し、ここが紫の住居であることを察して舌打ちする。逃げ場所がない。
「ああいえ、それは別に重要ではないんです。私も一度転生したら人里でのつながりはほぼ絶えるも同然ですから。言ってしまうと人間が滅んだところでそこまで哀しみは覚えないでしょう」
転生の周期は百年以上あるのだ。御阿礼の子にとって、人とのつながりは紫たちが思っている以上に希薄なものでしかない。
故に人里を守る意思は確かにあるが、阿求の中で人の価値はそう高くないのだ。
だから彼女らが人間を餌と呼ぶことに怒りこそあるが、同時に事実であるとも認めている。
「だけど――私のものに手を出すのは許さない。それが鬼であっても、天狗であっても、神であっても――境界の賢者であっても! 千年私たちに寄り添った彼らを消すことを私は許さない!!」
孤独な旅だった。三十年にも満たない活動を終え、百年以上の周期で転生を繰り返す。
見知った顔は全て消え――それでも変わらず傅く者たちがいた。それがどれだけ御阿礼の子の魂を慰めたか、誰にもわからないだろう。
立ち上がり、これまで誰も見たことがないほどの激情を浮かべ、阿求は並み居る大妖怪と相対した。
「ずっと、ずっと、ずっと――阿礼の時代から考え続けていました。私たちは彼に何を報いてやれるのか、と。狂気に身をやつしてまで私の旅に同道してくれる人たちに何ができるのか」
時に剣となり、時に盾となり、時に道具となり、時に従者となり、時に家族になり――人が只人のままでは到底不可能な思いを継ぎ続け、彼らは常に御阿礼の子の隣りにいた。
だから御阿礼の子も何かを返そうと思うのだ。そのあまりにも大きな想いに足りるとは言えずとも、ずっと捧げ続けてくれる彼らに御阿礼の子も何かを渡したかった。
阿求は自分が言おうとしていることを内心に投げかけ、歴代の御阿礼の子に問いかける。
稗田阿礼、阿一、阿爾、阿未、阿余、阿悟、阿夢、阿七、阿弥――阿求の記憶に眠る全ての御阿礼の子が迷わず承認したのを確かに見て、阿求は場にいる全ての妖怪たちに己の決意を叩きつけた。
「――あの人が消えるなら私も消える!! 彼らが私たちのために全てを敵に回すなら、私たちは彼らのために全てを敵に回す!! 阿礼狂いは私たちのものだ!!」
彼らが危険だと語ることは納得しよう。役目の果てに命を落とすのも納得しよう。
だが、その命は御阿礼の子に捧げられたもの。それを御阿礼の子以外の者たちが好き勝手にするなど、許されはしない。
阿求は自分の裡に驚くほどの独占欲があったことを理解し、しかし一瞬も戸惑うことなく声の限りに叫ぶ。
「どこにいるか知らないがいつまでも寝ているな! 私が呼んでいるぞ!! 私の家族! 私の大切な人! 私の剣! 私のもの! ――火継楓!!」
叫んだことなどないのだろう。大きく息を荒げ、肩で息をしながら阿求は叫び、しかし声はどこへ届くこともなく虚空へ消え――
素手で強引にこじ開けるような開き方だった。スキマ妖怪である紫をして、ここまで力押しで開けられるものかと感心するもの。
そして中から出てきた者を見て、ある者は歓喜に目を輝かせ、ある者はとんでもないものを見たと苦笑してそれの帰還を受け入れる。
両目を塞がれ、武器を奪われ、されどその顔は滂沱の涙と語り切れぬ狂喜に彩られ――スキマに囚われていた少年は主の声に応え、参上した。
「――遅くなりました。申し訳ありません」
「――許します。ですが、これより私の手から離れることを許しません」
「御意。元よりこの身、血肉から毛一本に至るまで、阿求様のものにございます」
阿礼狂いにとって御阿礼の子を傷つけられるのが地雷なのは当然として、御阿礼の子にとっては阿礼狂いを取り上げられることが地雷というお話です。おまえらなに人のものの処遇なんて勝手に決めようとしてるの?(激おこ)
御阿礼の子が消えれば阿礼狂いも消えますが、阿礼狂いが消えても御阿礼の子は消えます。文字通り一蓮托生で、彼らの関係に余人の入り込む余地はない。
とはいえ御阿礼の子たちは狂気と呼ぶほどではなく、ただ彼らの献身に報いたいという一心ですが。
前作で御阿礼の子と阿礼狂いの家族は書けたので、今作では御阿礼の子と阿礼狂いという関係自体も書きたかった……(屑)