地底少女のお願い
楓は己が夢を見る時、大体何らかの騒動の前触れとして受け取るようにしていた。
それはこれまでの経験則みたいなものである。見ている夢が全て父との稽古場面だったこともあって、自分が無意識のうちにこれから先必要となる技術を、夢という形で再確認しているものだと考えていた。無論、父の教えは全て己の頭に叩き込んであるが。
しかし、今回見た夢は父との稽古ではなく、父の姿が影も形もないものだった。いいや、むしろ夢なのかすら怪しいもの。
見覚えのない御殿とも言うべき豪奢な館に佇み、意識だけが浮いている状態で楓は困惑気味に周囲を見回す。
繰り返すが、楓は今いる場所の心当たりが一切ない。そもそも幻想郷の大半を見通せる楓の千里眼をして、見覚えのない場所である。幻想郷の外にある屋敷だと思った方が自然だった。
「外の世界、なのか……?」
文字通りの夢である。そんなこともあるのだろうかと楓が己を納得させかけた時だった。
楓の前を横切るように一人の少女が前を歩き、その後ろに一人の男性が侍っている。
どちらも身にまとう装束は楓から見てなお古めかしいと思わせ、その上で高貴な身分の装束だと判断できるもの。
はっきりとした顔の輪郭はどちらも読み取れない。ただ、服装や佇まいから男女の判別を付けているだけだ。
「――っ!」
だがそんなことはどうでも良かった。楓は二人の身なりから読み取れる情報を横へ投げ出し、自らも片膝をついて平伏する。
間違いない。――この少女は御阿礼の子だ。
楓の魂が彼女を認識した瞬間、言い知れぬ歓喜を覚えたのだ。阿礼狂いが強い感情を覚えることなど、御阿礼の子に関わること以外では数えるほど。
片膝をついて頭を垂れた楓だが、夢の住人と思しき二人は当然ながら楓の方を見向きもしない。
ただ粛々と廊下を進んでいると、不意に男性の方が声をかける。
「阿■様。本当によろしいのですか? あのような得体のしれない妖怪の言に従うなど」
「不服ですか?」
「主の決めたことであれば、いかなる道程にもお供いたします。ですが、破滅の道と知らず歩むのであれば主への諫言もいたしましょう」
男の言葉に楓は不敬である、という感想を抱く。主が選んだ道であれば何も言わず付き従えば良いのだ。結果、思っていたのと違っていたから変えたいと主が願えばその通りにすれば良い。その程度の力なくして、御阿礼の子の側仕えは務まらない。
しかし楓が何を思ったところで彼はこの場に実在しない人物。楓の考えを他所に御阿礼の子はおかしげに笑う。
「あなたの心配り、いつもありがたく受け止めているわ。――でも今回は私の意思を押し通させて。彼女の語った夢物語……私もその一助となりたいの」
「――かしこまりました。この身命を尽くし、お力となることを約束いたします」
男性の言葉に御阿礼の子は嬉しそうに、しかしどこか哀しげに微笑む。
「ありがとう。――でも、ずっと私に付き従う必要はないわ」
「……真意をお聞かせ願えますか」
「これより私は転生を繰り返すの。彼女の語る幻想郷――人と妖怪の共存する理想郷の歩みを、私の力で記すために」
「…………」
「簡単にできることではないと言われたわ。今の私が死に、転生が果たされるまで、百年以上の期間が空くと言われている。長い長い旅になることは間違いないでしょう」
御阿礼の子が語る言葉に男は何も言わず、静かに耳を傾けていた。
「あなたには何度も助けられたし、本当に大事な仲間だと思っています。――でも、人は時間の前には逆らえない」
「……確かに、あなたの言う通り私は数十年と経たず死ぬでしょう。子々孫々へ語り継いだとしても、正しく受け継がれ続けるかはわからない」
そこでようやく楓も理解する。どういった理由かはわからないが、自分は初代御阿礼の子――稗田阿礼とその従者を見ているのだ。
今話している少女が稗田阿礼ならば、侍る男性はすなわち――阿礼狂いの始祖と呼んでも過言ではない存在。
なぜ自分が知り得ないものを見ているのか、という驚愕と困惑を覚える楓だが、次の男性の表情を見てその疑問も霧散する。
阿礼と視線を合わせ、真っ直ぐに語る男性の目には――自分たちと何ら変わらない狂気が見えたのだから。
「――ですが、それでも。我らはあなたに寄り添い続けます。幾星霜の年月を経ようと、必ずあなたの元へ馳せ参じ、あなたの旅に同行いたします」
男性の言葉は誓いのものではなかった。子々孫々へ受け継ぐといった曖昧なものでもない。ただ、どこまでも確定した事実を語る口ぶりだ。
だが、阿礼はそれを男性なりの励ましと慰めと受け取ったのだろう。穏やかに微笑むと話を終わらせる。
「ありがとう。じゃあ一つ、私のお願い……ううん、いつか遠い未来で思うかもしれないお願いを聞いてもらえるかしら?」
「何なりと」
ここで楓の意識が浮上を始める。周囲の景色が急速に輪郭を失い、どれほど強く念じてこの場に留まろうとしても身体が空へ浮いていく。
ダメだ、それはダメだ。自分は阿礼の言葉と、男の言葉を聞き届けねばならない。
御阿礼の子と阿礼狂い。その関係の始まりである二人の姿にこそ、阿礼狂いの誕生した原点が存在する。
御阿礼の子は戯れに果たされるはずのない約束をし、阿礼狂いはそのために狂気さえ継いで生きてきた。その願いは――
「私が――と願った時――」
「――様っ!!」
楓が身体を起こすと、そこはここしばらくで慣れてしまった暗黒が広がっていた。
汗で濡れた寝間着を気持ち悪く感じながら、手で目を覆う布に触れる。
「……何だったんだ、あれは」
およそ夢とは思えない出来事だった。楓の将来にどんな摩訶不思議な出来事があったとしても、初代御阿礼の子の尊顔を拝む機会が訪れるとは思えない。
夢と片付けるにはあまりに不可解で、さりとて予知夢と語るには見たものが追憶の彼方に過ぎる。千年前の光景を見せられて何を予知しろと言うのだ。
考えても答えの出ない問いにしばし頭を悩ませ、やがて楓は吹っ切るように稽古着に着替えていく。頭を使ったところで意味がないのだ。身体を動かした方が幾分か気も紛れる。
外に出ると暇を持て余していたのか、ふわりと楓の肩に重さのない感触が来る。
『おはよう、早いね。まだ明け方だよ』
「妙な夢を見て目が覚めた」
『妙な夢?』
オウム返しに尋ねてくる椿に楓はどう話したものかと悩み、自分でも上手く説明できる自信がなかったのではぐらかすことにした。
「……見覚えのない景色が見えただけだ。それより稽古をするが、付き合うか?」
『お、待ってました。今の楓相手なら私が勝っちゃうかもね?』
「抜かせ」
確かに目が見えなくなったことで椿の存在を察知する術は失われた。音も匂いもなく、悪意も敵意もない状態で近づかれたら楓にもわからないだろう。
だがそれが椿の優位に働くとは限らない。楓はあくまで己の自信を崩さないまま、庭の一角に立つ。
「――来い。光が失われた程度でお前に負けるなら、その程度だと諦めもつく」
『すっごい失礼なんだけど! 殊勝な態度を取るなら手加減してあげようかなって思ってたけど、死んでも知らないからね!!』
「五体を斬り刻むぐらいやらんと死なないぞ俺は」
楓のツッコミに返答はなく、突き刺すような殺気が楓の胸に向けられる。
「そら、読める」
『うっそ、無言で攻撃してるのに!?』
「殺意を向けられればこっちも反応する。攻撃の殺意を消せるなら当たるかもしれんが」
急所、牽制、刀以外での打撃、人の警戒しづらい上空からの急降下攻撃。椿に思いつくあらゆる攻撃を試みるも、全てが紙一重で回避されてしまう。
なぜ回避されるのか。それは楓が語っていた通り、殺気がこもっているからだろう。しかしそれだけでこうも当たらなくなるものなのか。
(待てよ? だったら殺意を乗せない攻撃なら読まれることはない。だったら――)
ふと思いついた案を実行に移すべく、椿は手に持った刀を思いっきりぶん投げる。
それは楓の刀で容易く払われるが、椿の持つ刀は彼女自身の力の発露。その気になればいくらでも、どこからでも生み出せる。影響があるのが楓だけなので現状、ほぼ役に立たない能力だが。
『それそれそれそれっ!!』
「――これで勝つ気ならもう終わらせるぞ。時間の無駄だ」
『へへ、私は今どこにいると思う?』
「っ!?」
すでに椿は楓の懐に潜り込んでいた。
刀を投げていたのは目くらましに過ぎない。椿の作った刃なのだから、その気になれば手を使わずとも投げられる。
目の見えない楓に位置を誤認させ、椿は何の武器も持たない状態で悠々と楓のもとへ近づく。向かってくる刃の対応に追われていた楓は面白いくらい、椿に気づかない。
『それっ、どーん!』
「む……っ!?」
極力音を出さず、楓に接近した椿は殺意も敵意も何も持たず、ただ楓に思いっきり抱きつく。
それを察知できなかった楓は目の見えない顔に驚愕を露わにし、すぐに理由を理解して刀を持つ手を下ろす。
「……未熟にもほどがある。殺意がないから気づけないのか」
『こればっかりは無理じゃない? 私は楓の目がないと見えなくて、楓の目は今封じられてるんだから』
「何か別の手段を考えねば」
『克服する気マンマンだね……』
「明確な欠点なんだ。改善できるに越したことはない」
そもそも椿に不覚を取ったという事実が楓にとって耐え難い。大至急なんとかしなければ、椿に延々と同じ件でいじられてしまう。
などと考えていると、ふと部屋の方から気配を感じ取り、椿に黙っておくよう指で合図を送りながら相手を待つ。
出てきたのは天子だった。あくびを噛み殺し、緋想の剣片手に庭の方へ出てきて、楓の姿を見て声をかけてくる。
「早いわね。昨日は休んだと思っていたけれど」
「寝付きが悪くて早く目が覚めた。そっちは鍛錬か?」
「そんなところよ。ここしばらく、ちょっと思うところが多くてね」
言いながら天子は緋想の剣を構え、楓の前に立つ。
「私は基本、要石とこの剣を使って戦うわ」
「そうだな。両方揃うと俺も手間がかかる」
「お世辞は結構。……現状があんたの下位互換になってるのよ。白兵も遠距離もできる。でもあんたに及ばない」
「弾幕ごっこができる……と言っても納得はしないか」
その一点だけでも楓としては天子の方が優秀だと思うのだが、それを言っても納得しないことぐらいはわかる。
「要石の使い方については良いのよ。弾幕ごっこにも使う以上、独自性があって然るべきだし、その欠点を埋める方法は私が考えれば良い」
「ふむ」
「問題は距離を詰められた時よ。距離を離す術、ないし懐でも戦えるようじゃないとそこで詰む」
「言いたいことはわかるが、俺も白兵戦ならいい加減、一廉の使い手になってきたと思うぞ。これで簡単に距離のとり方を覚えられると俺の立つ瀬がない」
天子は距離のとり方を覚えようとしているが、楓も距離の詰め方を日々考えているのだ。白兵戦に依っている自分の戦い方は、兎にも角にも距離を詰めなければ始まらない。
相手が毎回律儀にこちらの得意な距離で戦ってくれるとは限らない。天子にとっては欠点の克服の一つかもしれないが、楓にとっては死活問題である。
「まあ良い。――俺も稽古相手が欲しかったところだ。少し、付き合ってもらうぞ」
「上等! 負けても目が見えないからなんて下らない言い訳しないでよ!!」
「――で、これまで通り一本も取れなかったと」
「そうよそうよそうなのよ!! あいつ何なの本当に!!」
やけっぱちじみた、しかし以前と比べて格段に鋭さの増した天子の剣を受けるのは、片手を盃で塞いだ鬼、星熊勇儀だ。
天子が地底をちょくちょく訪れるようになって以来、勇儀は己の体術を磨くためにちゃんとした技量を持つ相手を欲し、天子はとにかく剣術を磨ける相手を求めて。
お互いに利害が一致したため、二人は地底で稽古を重ねる間柄となっていた。
「せいっ!!」
「よっ!」
足を刈り取らんと振るわれた緋想の剣を勇儀は跳躍で回避すると同時、左足を振るって天子の頭を狙う。
天子が僅かに身体を屈めて紙一重で避けると、勇儀はそれを待っていたとばかりに足を持ち上げ、踵落としの姿勢になる。
「もらった!」
「読んでるわよ!!」
天子の身体を潰すように落とされる勇儀の巨大な足に対し、天子は横へステップを踏み軽やかな身のこなしで振り下ろされた足に自らを乗せる。
「これなら避けられない――っ!」
「む、っとぉ!?」
足を動かして天子を振るい落とそうとすれば、間違いなく体勢が崩れる。かといってこのままでは天子の斬撃があっけなく勇儀の盃を払い落とす。
ほんの一瞬の取捨選択。勇儀は脳裏によぎった行動を全て鼻で笑い飛ばした。
「ハン、鬼に後退の二文字はねえっ!!」
選んだ行動は迎撃。盃を持っていない左手を拳に変えて天子へ殴りかかる。
相手の妨害など鬼の性に合わない。策を弄するならそれを受けた上で踏み潰すもの。
体術を覚え、駆け引きを覚えたとて勇儀の本質は変わらない。
守りも後退も必要なら厭わないが、彼女の中に一つでも攻撃の選択肢があるのなら必ずそれを選ぶ。
それが鬼であり、星熊勇儀という少女の本質である。
「――そこまで読み通りよ」
そして、天子は勇儀が迎撃を選ぶことまで読み切っていた。
勇儀が鬼であるならば、天子は天人だ。昨日より今日、今日より明日の成長を己に誓う、成長に貪欲な天人だ。
楓と一緒に行動することが多いため、力量の点では楓に譲っていると思われがちだが――その知性、知略は楓が自分より上であると認めるもの。
当人は直情的かつ面倒なものが嫌いなサッパリとした性格なだけで、必要ならいくらでも相手の思考すら読み切る知性を発揮する。
勇儀の足からさらに跳び、勇儀の左肩に着地。そして流麗な動作で緋想の剣を振るい、勇儀の手にあった盃を払う。
「あ」
「今回は私の勝ちね」
「……お見事!! 私も腕を上げた自信はあったんだが、まだまだ井の中の蛙だな!」
己の敗北を豪快に笑って受け入れ、勇儀は落ちた盃を拾い直すと手近な岩に腰掛ける。
「天子はどこでその剣術を覚えたんだい?」
「道場剣術の手習いよ。千年続けていたからそれなりの形になっているだけ」
「千年、愚直に続けるのも才能だよ。理由や結果がどうであれ、何かを続けること自体も認められて然るべきものだ」
「……ま、意味はあったと思えるようになったわ。最近になってようやくだけど」
あの時は何の意味も見出だせなかったが、こうして己を磨く一部分になっているのだ。人生塞翁が馬とはよく言ったものである。
「それで天子の子分だったあの二人はどうした? いつもなら私らの稽古も見ていくもんだが」
やんややんやと合いの手というか、熱烈な天子への応援をしている釣瓶落しの声は大体騒がしいが、ないとないで寂しさを覚えるものだ。
「私の方が別件でね。ちょっと楓に報告することがあるのよ」
「おや、地霊殿かい?」
「そっちはもう気にしてない。覚り妖怪の方もだいぶ快復しているみたい」
後遺症の頻度も下がりつつあるらしい。やはり楓の能力は一度範囲から逃れた場合、徐々に効果が薄れていくのだろう。
そのおかげか、彼女も少し自省の気持ちを持っているようだ。あんな思いをさせられたことを許す気はないようだが、多少は楓とのやり取りについても前向きな方向を示し始めている。
……楓の方は一切気にしておらず、悪いとも思っていないようだがそれは天子の裁量で伝えないことにした。知らぬが仏である。
「そいつは何より。仲が良いのが一番さ。裏切りさえなければね」
「鬼が言うと重いわね。で、その帰り道に変な妖怪に絡まれたのよ」
「ほう?」
「血の池地獄近辺に住んでいる妖怪二人よ。知らない?」
「あの辺を縄張りにしている妖怪がいるのは知っていた。でも素性までは興味なかったから知らないも同然さ。そいつらはなんと?」
「ま、その辺りは楓に報告するわ。多分、今回は地底に関係ないはずよ」
天子にそう言われては追及もしづらい。勇儀は気になりながらも天子を快く送り出すことにした。
「だったら早く戻ってやりな。そうだ、こいつもやろう」
勇儀の放ったひょうたんを受け取ると、ちゃぽんと水の揺れる音と酒精の匂いが漂ってくる。
「これは……酒?」
「地底の酒ってやつさ。ちなみに結構不味い」
「ダメじゃない」
「だが、誰かとゲラゲラ笑いながら話す時にはこいつが恋しくなる。なに、一口飲んだら吐き出すってほど絶望的な味じゃない。飲み切るぐらいはできるよ」
「また微妙な……」
「味なんて二の次三の次って奴らが作った地底の酒さ。味わってくんな!」
「……ま、鬼から天人への貢物として受け取るわ」
勇儀の見送りを受けて、天子は血の池地獄で遭遇した妖怪のことを思い浮かべながら、地上への道を戻り始めるのであった。
天子が地底へ訪れる時、大体はキスメ、ヤマメ、パルスィの三人が彼女についてくる。
キスメは純粋に天子を慕って。ヤマメとパルスィは暇つぶし以上の意味はないと思われる、なんともちぐはぐな組み合わせだが、天子は来るものを拒む予定はなかった。
「天人様、今日はどんな用事で?」
「いつもどおり、地霊殿との折衝よ。ただ、今回は時間がある」
「へ?」
不思議そうに見上げてくるキスメに天子は天界にいた頃、徹底的に研究した威厳ある笑みを浮かべて告げる。
「キスメ、お前に栄誉ある役目を与えよう。天人に地底を案内する、この世で一度しかできない役目だ」
「……っ! はい! お任せください、地底全部案内しますよ!!」
ささ、と手を引いてくるキスメに天子も微笑ましいものを覚える。ここまで素直に慕われれば悪い気はしない。
ヤマメも彼女の変わりようは面白いのか、後頭部で腕を組みながら天子の横を歩く。
「首ったけだね。ああなったキスメは色々と面倒だよ? あの子は陽気だけど、同時に凶暴でもある」
「襲いかかってきたら己の分を教えてやるわよ。あんたもそうじゃないの? 土蜘蛛でしょう?」
ヤマメは一瞬だけ表情を消すと、次いで少女のような華やいだ――残酷さを連想させる笑みを浮かべた。
「――ふふっ、相手が純正な人間なら疫病の一つも撒き散らしてやったんだけどね。残念ながら天人に病は効かないらしい」
「……あんたの能力は」
「病気を操る程度の能力だよ。効果があるのは大体人間さ。ああ、異変の時に能力は使ってないから安心しなよ。お祭り騒ぎに病気を持ち込むほど無粋じゃない」
人間相手なら躊躇わず首を狙うであろう釣瓶落しに病気を操る土蜘蛛、嫉妬を操る橋姫。
彼女らが地上に出てきてはいけない理由が身に沁みた天子は内心でため息をついて、地上でのほほんと側仕えをしているであろう楓に恨み節をぶつける。
あいつが地底で大騒ぎを起こしたせいで、面倒な妖怪が全部自分に来ているのだ。
……まあ楓は楓で地上の妖怪を大体一人で引き受けているので、怒るに怒れない状況でもあるのだが。いくら人里が人妖の要だからといって、負担が大きすぎはしないだろうか。
「地底の妖怪と仲良くなる器の広さが妬ましい。で、行かないの? あっちは血の池地獄だけど」
「おっと、待たせて失礼。あなた、意外と面倒見が良いのね」
「……ふん。嫉妬を認めて越えられるあなたに私は勝てないのよ」
天子が素直に褒めるとパルスィはバツが悪そうに顔をそらす。
彼女の言う通りなのだろう。嫉妬を煽り、嫉妬を操る橋姫という妖怪の性質上、己の裡にある嫉妬を認めた上で受け入れられる天子は決して勝てない存在と言っても過言ではない。
そのためパルスィは何かと嫉妬を抱くことはあっても、口に出すだけで能力を使う素振りは一切見えなかった。今となっては何かに嫉妬する仕草も可愛らしいものである。閑話休題。
ともあれ天子はキスメらの案内を受け、地霊殿や鬼の住まう地域以外の地獄を見ていたところ、血の池地獄を散策していた時に二人の妖怪に絡まれたのである。
「真紅の血の池地獄を歩く天人。……全く、何の間違いかって思うわよね」
文字通り血で作られた大きな湖とも見紛う地獄を横目に、天子は自分の現状を思って小さく笑う。一年前の自分にお前は将来、地上で暮らして地底へ足繁く訪れるようになる、などと言っても信じられないだろう。
だが、この日々を心底愛おしく思っているのも事実。千年も天界にいたのが馬鹿馬鹿しく思えてならない。地上にこんな冒険があるのならもっと早く降りるべきだった。
などと考えている天子の前に、二人の少女が現れる。
尼僧のような服装をした少女と、動きやすそうな水夫服に身を包んだ少女だ。
地底で出会う少女がただの少女のはずがない。天子が懐に入れていた緋想の剣に手を伸ばすと、尼僧の少女が声を発する。
「……あなたが最近、地底に現れた天人で相違ないか?」
「ああ、そうだ。この私、比那名居天子が地底に降臨した天人である」
厳かな声を意識して返答すると、水夫姿の少女がやや警戒を含ませた声で質問してきた。
「証拠は?」
「声をかけたのはお前たちだ。お前たちが私を天人だと思ったから声をかけた。ならば証拠はお前たちの心にあるだろう」
天子から呼び止めたのなら話は別だが、今回は逆である。己を証明する必要などないと感じた天子は声をかけた理由を問うことにした。
「それでなぜ私を呼び止めた? この私を天人と知っての行いだ。何らかの理由はあるのだろう?」
「……一輪」
「多分本物だ。何より、ここまで清浄な気配を私は地底で初めて見る」
「返答は?」
少女のヒソヒソ話に興味を惹かれなかった天子は話を促す。これでつまらないものだったらとっとと踵を返して地霊殿に向かうつもりだった。
その意思が読み取れたのだろう。少女らは佇まいを正すと礼儀正しく会釈する。
「失礼しました。私は雲居一輪と申します。こちらは船幽霊の村紗水蜜」
「ここにいて普通の人間とは言うまい。妖怪が私に何の用だ?」
問い返すと、少女改め一輪と村紗は驚くべき行動に出た。
『――お願いします! 聖白蓮を助けるお力となってください!!』
腰を直角に折り、天子へ懇願する姿勢を取ったのである。
「――という話があってね」
「ふむ」
その日の夜。美しい月が見える縁側に天子は楓を呼び出していた。
折よく楓は火継の屋敷で衣玖とともに雑務を片付けている時で、目が見えない楓が書類の読み上げを衣玖に頼んで作業していた頃だった。
天子が酒の入ったひょうたん片手に誘いに来たところ、救い主を見上げるような顔で衣玖が自分を見ていたのは非常に新鮮だった。
「……ところで衣玖に無茶な仕事を渡してないでしょうね?」
「むしろ余裕を持たせている。俺と衣玖、どちらが抜けてもある程度なんとかなるようにした」
特に楓はいつ抜けるかわからない身分だ。基本的に彼は御阿礼の子を優先するし、異変に巻き込まれればそちらの対応でかかりきりになる。
なので衣玖には是非とも楓が動けない状態の中核になって欲しいと思っている。
「しかし当人は――」
「私はのんびり過ごしたいのです。ノー残業」
「別に無理してくれと言っているわけじゃない。というか俺もいい加減、お前の能力は大体把握している。手抜きしなければ問題なく終わらせられる量だろう」
「まあ実際、充実感を覚えているのは事実です。正直、総領様のお側仕えをしていた時より向いている気はしています」
「だったら――」
「それはそれとして楽できるならしたいのが本心です。特にあなたは無茶振りして良い相手には遠慮なく無茶振りする空気をひしひしと感じます」
「どんな空気だ」
しれっと座っている衣玖はあれこれ言いながら天子の方をちらりと見る。
「……まあ、上司への小言はこのぐらいにいたしましょう。私は空気の読める女。有り体に言うならメスの顔をしている総領娘様への気遣いぐらいオーケー話し合いましょう緋想の剣で首を斬られたら多分死にます」
「その根も葉もない嘘を垂れ流す舌を斬り飛ばした方が平和な世界になると思わない……?」
「安心しろ。俺も衣玖の言葉は業務以外、八割ぐらい嘘だと思って聞いている」
「上司に信頼されていない。部下として傷心せざるを得ません。ということで傷心旅行のために休みをいただきたく」
「誰がやるか。今日はもう下がっていいから戻れ。話が進まない」
楓が下がるよう命じると、衣玖は今までの無表情ながら人を茶化していた空気を一変させ、仕事のできる人間としての気配を醸し出す。
「ふむ、わかりました。明日の仕事はどうします?」
「……俺は難しいだろうから、俺の裁可が必要なもの以外を任せる。できるか?」
「今の業務であれば問題なく。旦那様の留守は預かります」
「頼む」
「それでは本日は失礼いたします」
天子がぽかんと口を開けて見る中、衣玖は静々と割り当てられた部屋に戻っていく。
やがて彼女の気配が完全になくなってから、天子は衣玖の去った方向を指差して恐る恐る口を開いた。
「……あれ誰?」
「永江衣玖。俺も伊達や酔狂で仕事を任せているわけじゃない。あいつなら任せてもなんとかできると判断している」
「荷物抱えさせたかと思ってたわ正直」
「あれで優秀なんだ。事務作業で俺の肩代わりができるやつをあいつ以外知らん」
だから彼女の軽口に付き合い、時々行われるサボりも目を瞑っているのである。多少のデメリットを無視してでも動かすだけの能力が彼女にはあった。
「まあ頭を悩ませる相手でもあるが……いや、そこは置いておこう。お前の話だ」
「っと、そうね。まあ地底の酒でも飲みながら話しましょう」
用意しておいた盃に自分と楓の酒を注ぎ、楓に盃を手渡す。
「もらったのか? ……む、強いな」
「あら、下戸?」
「いや、飲んで酔いを覚えたことはない」
楓は注がれた酒を一息に飲み干すと酒精の混じった息を吐き出し、顔をしかめる。
「……不味い」
「そんなに不味いの? ……うわ、不味っ」
酒精ばかりが強く、苦味や酸味、甘味がぐちゃぐちゃに混ぜられてそれぞれが主張し、思わず渋面になるほどの不協和音を奏でていた。
天子も味を確かめて顔をしかめ、次いで笑い始める。
「ふ、ふふふっ……何が友人と話すのにこれが恋しい、だ。これは、笑い飛ばさないとやってられない不味さというだけじゃない……!」
「これが地底の酒か……。地上の酒造りでも教えるか?」
「これはこれで良いのよ。趣があるわ」
「そんなものか……?」
楓には今ひとつわからないが、天子には理解できるようだ。天子が言うならその通りなのだろうと思い、楓は再び注がれた酒を飲む。
そうして天子の口から語られる内容を頭の中で反芻し、楓は思考をまとめて口を開く。
「聖白蓮という尼僧が封じられたのは法界と呼ばれる魔界の一角。そして彼女はおよそ千年前に封印されていたので、なんとか助け出したい……」
「どう?」
「信じ難いというのが正直な感想だ。そもそも只人は千年も封印されたら死ぬ」
「当時の妖怪に慕われていたことといい、確実に事情はあるでしょうね」
妖怪に慕われ、しかし人間の間にそういった話があるようには見えない。それだけである程度察せるものはあるが、確証はない。
「……しかしお前の返答如何に関わらず、妖怪は動き出すだろう。手段はわからんが、おそらく地上にも影響が出る」
「そうね。地底で完結するなら私に声をかける必要なんてないもの」
「となるとこっちも動くしかないか……」
楓はまた面倒が来そうだと頭痛を紛らわせる意味で酒を流し込む。むせ返るほど不味いが、確かにこれはこれで趣があるように思えてしまう。
「……俺の方でも聖白蓮について調べて阿求様に確認する。お前には……そうだな」
楓は少し考えた後、一人の少女の名をあげる。
「守矢神社の風祝を協力者として引っ張って動いてくれ。地底の騒動の原因は向こうの主神なんだ。このぐらい働いてもらってもバチは当たらん」
「あら、あんたは関わらないんじゃないの?」
「俺との接触を避けるだけだ。人里と関係を断つわけでもなし、結果的に大勢が動く騒動になったのも事実だから動かしても良いだろう」
「……いい性格してるわねあんた」
「これでお互い様になるんだ。貸し借りの清算を素早くやっているだけ慈悲ある対応だろう?」
そう言ってなんだかんだ気に入ったのか手酌で酒を飲む楓を横目に、天子は何かを言うことを諦め、自分もまた不味い酒の消費に戻るのであった。
「それにしても地上、地底の次は魔界と来た。あんたと一緒にいればそのうち、三千世界の制覇も夢じゃないかもしれないわね」
「やめろ。現実になりそうで怖い」
「なに、その時はお前も一緒に私の冒険に付き合ってもらうだけよ」
天子の冒険に楓が付き合っているのか、楓の冒険に天子が付き合っているのか。どちらが主体なのかわかったものではない。
楓は気分良く鼻歌など歌い始めた天子の歌声を耳にしながら、また近いうちに始まるであろう異変に思いを馳せるのであった。
――この異変を奇貨に阿礼狂いと御阿礼の子の物語が動き始めることなど、知る由もなく。
星蓮船スタートのお話と阿礼狂いの物語の始動です。
これまで楓は父親の技術や力量に追いつくことだけ考えて走ってましたが、この先はそうもいきません。
ここから二部スタート的な感じです。今までが助走期間&地雷設置期間みたいなイメージ()
Q.早苗さん早速呼び出していいの?
A.自分が顔合わせなきゃいいし、向こうに責任ないわけじゃないし(真顔)
※なお何かと不安定な早苗にろくな説明もなくいきなり距離を取るなんて対応取ったメンタルダメージは計算されてません。ぼちぼち導火線に火が付きますね()