「……ふむ」
楓は火継の屋敷に戻り、ロウソクの明かりを傍らに置いて一冊の書物を読んでいた。
阿求が何度も何度も読み返し、その都度大切にしまわれてきたであろう、父が遺した御阿礼の子の短命を治す方策が記された本である。
とうとう御阿礼の子が生を望んでくれた。阿礼狂いの全てが願い、寄り添い続けた意義をようやく果たせるのだ。しかも己の代で。
全くもって感無量と言う他ない。父が生きていたら自慢しているところだ。
生きる希望を抱いた阿求は自分が保管していた書物を楓に託し、自分のやり方に全てを任せることを告げてくれた。
「今すぐである必要はありません。私もまだ子供だし、お祖父ちゃんだってこれを書いたのは多分、私が生まれてから。あの人の六十年近い経験をお兄ちゃんは凌駕する自信ある?」
「必要とあらば、と言いたいですが……」
一朝一夕に到達できるものではない。このまま自分の成長のみで考えるなら、十年以上の時間が必要になるだろう。無論、阿求の時間にそんな猶予はない。
阿求もそれはわかっているので、楓の言葉に落胆はしなかった。
「お祖父ちゃんはこれについて、映姫さまや慧音先生、紫さまに話を聞いてはいたけど、書くこと自体はほぼ一人でやっていたと思う」
「…………」
「それにお祖父ちゃんは多分、お兄ちゃんには何も言っていない。違う?」
「いえ、合っています」
そんな本があったのは初耳だった。
楓が正直に答えると阿求は予想していたと首肯する。
「お祖父ちゃんは多分、私に委ねたんだと思う。私がどちらの決断をしても、お兄ちゃんが悩むことのないように」
「……何も知らされずとも、私はきっと父上と同じ願いを抱いていたでしょう」
御阿礼の子に生きてほしい。そう願って、何らかのアプローチは確実にやっていたはずだ。結論が父と同じになるかはともかく。
どうあれ自身の手に渡った本の内容を改めて確認し、内容を一言一句違わず頭に叩き込んで楓はひとりごちる。
「全部読みはしたが……理屈がさっぱりわからん」
父はどんな発想でこの理論に至ったのか。あと半世紀、時間を積み重ねればわかるのだろうか。
当然、楓にそんな時間はない。なのでわからないなりに父の遺した理論に対してアプローチしていく必要がある。
「そもそも、父上はどうやって魂の疵に気づいた? 俺の目でも人の肉体から魂は見えないんだぞ……?」
楓の魔眼は魂を縛る。その副産物か、彼には魂の形というものが視える。
しかしこれも万能なものではない。肉体に依っている存在――要するに人間――は肉の殻が覆いかぶさっているからかまるで見えず、精神に比重を置く妖怪ならぼんやりとこんな形である、と読み取れる程度だ。
「うーん……」
今の自分にはわからないが、老境の人間は理屈を超越した何かを悟れるのだろうか。それともただ単に父が凄まじいだけか。
おそらく後者だろうと実の父親相手に酷い評価を下した後、楓は本を閉じて立ち上がる。
「――俺一人じゃ無理だ。助けを請おう」
一人では荷が勝つと判断し、楓は迷うことなく誰かに助けてもらおうと決心するのであった。
「今日は稽古をしないの? あんたが朝早くに仁王立ちしてるから稽古するのだとばかり思ってたわ」
手近な人間から声をかけようと思い立った楓は早速、自分の屋敷に居候しており最近では稽古も一緒にするようになった天子を呼び出す。
「後でやるが、先に話しておきたいことがあってな」
「話?」
「ああ。――絶対に果たさなければならない使命ができたんだ」
「……それってあんたの主のことでしょう。それぐらいはわかるわ」
天子の指摘に楓はうなずく。
そして改めて御阿礼の子の短命について語り、楓に与えられた使命についても全てを話す。
「――という次第で、阿求様がついに生を望んでくれた。俺はどんな手段を講じてでもその願いを叶えたい」
「……まあそれにはおめでとうと言っておくわ。よくわからないけど、あんたたちはそのために千年の時をつなぎ続けた」
「そして、俺で最後にする」
阿礼狂いの悲願を果たし、寿命の問題が解決した御阿礼の子がいつの日か旅を終える時まで。万年だろうと億年だろうと寄り添い続ける覚悟だった。
その迷いのない瞳を見て天子は僅かに息を呑む。
楓という少年は基本的に受け身なところがあり、動く時は他者に巻き込まれて動くことが多かった。
人里の守護者として動く時でも、それは異変が起こった際に人里に被害が行かないことを第一義としている。
だが、ここからは違う。彼は明確な意思を持って動き出し、進み始めた。
天子風に言えば、ようやく誰かに巻き込まれて始まる冒険ではなく彼自身の冒険が始まったのだ。
天子はニヤリと口角を上げ、楓の話を促す。
「続きを話しなさいな。あんたが願いを持ったのは結構なことだけど、それを伝えるためだけじゃないでしょう?」
「……そうだな。阿求様の短命の軛を解く術について、記されている本がある。俺の父上が遺したものだ」
「へえ、話しか聞けてないけど、やっぱり大した人だったのね」
「読んでみたんだが、内容がさっぱりわからなかった」
「ちょっと」
「つまり、俺一人では手に余るんだ。理論の正否すら俺にはわからない」
楓はようやく抱いた自身の願いに対して、自分が力不足であることを臆面もなく認めた。
「……助けてほしいってこと?」
「ああ。俺の勘が間違っていなければ、この本は正しい理論だ」
当然、間違っているかどうかの確認は別の妖怪に頼む予定だが、と楓は他力本願な言葉を口にするものの、その顔に恥じ入るものはない。
「勘って」
「信頼と言い換えても良い。……しかし、これはまだ未完成だ。俺の手で完成させる必要がある。それには人手が多く必要で――多分、戦闘も予想される」
楓の経験則から言って、無償の手助けをしてくれる存在など幻想郷には皆無と言っても過言ではない。
どんな相手に頼むことになるかはわからないが、何らかの契約ないし取引になるだろう。そしてその手段には戦闘も含まれるはず。
「失敗できない。だから頭数を増やしたい。それも俺が頭を下げるだけで頼みを聞いてくれるやつが良い。最初に浮かんだのがお前だった」
後半の言葉を聞いた天子の身体がピクッと揺れる。どうやら最初に選ばれたのが何らかの琴線に触れたようだ。
天子は上機嫌な顔になり、その理由を聞こうとしてくる。
「へえ、私が一番とはお目が高い。どうしてそう考えたのかしら」
「……? いや、距離が一番近いからだが。お前の他にも頼む予定の相手はいる」
天子の肩が露骨に落ちる。そこはお前を一番信じているとかそういう台詞を言うべき場面だ。
「ああ、そういう……。いや、あんたはそういうやつよね」
「何かおかしなことを言ったか?」
「そこそこ付き合いも長くなってきたけど、わかってないことは多いってだけ」
この話を続けると自分にダメージが来そうだ。そう察した天子は颯爽と髪を後ろに払い、楓の頼みを快諾する。
「――まあ良いでしょう。あんたの目は間違ってないってこと、証明してあげるわ」
「感謝する。その時が来たら助けてくれ」
そこまで話すと楓は立ち上がり、中庭の方へ視線を向ける。
「では今日の稽古を始めよう。霊夢にも後で話さないとな」
「ねえ」
「うん?」
「ここからはあんたも冒険を始めるのよね」
「お前の言う冒険とやらが自分の願いに基づいて動くことなら、そうだな」
「だったら楽しみなさい。いえ、むしろ楽しむべきよ」
「なぜ」
「その冒険の先にあんたが願ってやまないものがあるのでしょう。あんたは自分の願いを叶えようとしているのに、苦しい顔になるの?」
言われてみればその通りだと天子の言葉にうなずく。
阿礼狂いの悲願を成し遂げる大役。他の誰が自分の居場所を願おうと、絶対に譲らないものだ。
「……そうだな。楽しませてもらおう。お前の気持ちも少しはわかるかもしれんし」
「その意気よ。自分で動いて、自分で何かを探しに行く。それがものすごく楽しいことなんだってあんたも学びなさい」
人里に降りてきた天子は常にそうしていたのだ。楓は得意げに語る天子に肩をすくめ、おどけたように言葉を選ぶのであった。
「これに関してはお前の方が先達か。その言葉、心に刻んでおこう」
「いっつも何かに巻き込まれて面倒そうな顔してるんだし、自分から楽しむことを覚えたってバチは当たらないわ。これからは私が楽しみ方ってやつを教えてあげる」
その日、楓は紅魔館へ足を向けていた。
理由は唯一つ――父が遺した本を幾人かの妖怪に渡していると、阿求から聞いたのだ。
レミリア、天魔、星熊勇儀、伊吹萃香、八雲紫の五名。父がその人生の中で信頼に値すると見出し、阿求へ託した本と同じ内容のものを渡している。
彼女らとも付き合いはあったが、今の今までそんな素振りは見たことがない。つまり彼女らは全てを知っていて楓と接していたのだ。
何も知らぬ小僧と憐れまれていたのか、いつか同じ場所に到達すると信じてもらえていたのか。
全ては過ぎたことであり、今更確かめる気も起きない。
しかし、彼女らが自分に協力してくれるのかどうか。それは確認しておく必要があった。
紅魔館へ到着すると、普段どおり門番の紅美鈴が日差しを暑そうにしながら立っている。
美鈴は楓が近づいてくると視線を向けてきて、見慣れた存在であることを確認すると嬉しそうな笑顔を向けてきた。
「楓さんじゃないですか。魔理沙さんだったらまた本を借りに来たのかとビクビクするところでしたよ。あ、目隠し取ったんですね」
「いや、日常生活ではまだ付けている。今日は会う相手が相手だったから外してきただけだ」
阿求が楓の目隠しについて外す許可を出せば簡単に目隠しは外すことができる。それがなければ目の奥に火花が散るだけだが。
……楓が今日会いに行く人物を阿求に話して目隠しを外す許可を願い出たところ、この人はこれからネギを背負って鍋の中に入りにいく鴨になるんだな、とでも言うような視線を向けられたのはここだけの話である。
「ところで今日は何のご用です? あ、パチュリー様の運動なら私が責任持ってやらせてますよ!」
「喘息は改善されたか?」
「少し呼吸がしやすくなった気がする、と仰ってました。このまま運動を続けて、後は空気のキレイなところへ行ってもらえば良いと思います」
「ふむ」
空気が綺麗と言われてパッと思い浮かんだのが天界だった。あそこの清浄さはちょっと他では見られない。あまりに綺麗すぎて虫も住めないほどである。
そう考えると逆に良くない気もしてきたが、まあそこは実際に連れて行って反応を見ようと、どこか他人事で楓はパチュリーを天界へ連れ出す予定を組み立てていく。
「そこは今度考えよう。レミリアはいるか?」
「えっ、パチュリー様目当てじゃない!? 正気ですか!?」
楓が常日頃からレミリアに命を付け狙われていると言っても過言ではない状態なのを美鈴は知っている。知っているからこそ、彼が自発的に彼女へ会いに来たことに驚いていた。
目を見開き、そして次の瞬間には気遣わしげな表情でおずおずと楓の顔をのぞき込んでくる。
「……あの、何か悩みとかあるなら聞きますよ? いや、聞くくらいしかできないかもですけど、言うのと言わないのでは大きく違います」
「俺がレミリアに会いに行くのはそんなに気を遣われることか」
「生きるのに疲れてお嬢様に介錯をお願いしに来たのでは?」
もしも楓がレミリアにそんなことを頼んだ場合、彼女は激怒して絶対に殺さないだろう。
レミリアが楓に殺意を向けるのは父の背を追い続ける楓を愛しているからであり、愛せないものに殺意を向けることはない。
きっと失望しきった、どこか哀しい目で楓を一瞥してレミリアは楓の前から立ち去るだろう。そして二度と顔を見せることはなくなる。
そういったレミリアの評価を話すと、美鈴はよくわかってらっしゃるとばかりにうんうんとうなずく。
「まあ確かにお嬢様は自分が納得した相手じゃないと戦いたがりませんね。楓さんもお嬢様をわかっておられる」
「……あいつが俺の前に顔を出さないのはひょっとして利益しかないのでは?」
「しまった私の話で楓さんがお嬢様との縁を切るメリットに気づいてしまった痛ぁ!?」
気づいてはならない事実を教えてしまったと美鈴が慄いていると、その額に小さな戦闘用のナイフが生えていた。
美鈴は額から血を流して、ナイフの刺さった方向へ顔を向ける。
そこにはナイフを指の間に構えた美しい銀髪の少女――十六夜咲夜が呆れた顔で二人の方へ近づいてきていた。
「二人とも、あまり門前で話し込まないでもらえるかしら。こちらも出て行くタイミングというのがあるのよ」
「ああ、事前に連絡もなしに悪かった。レミリアはいるか?」
「お嬢様ならこちらに。ただ、その……」
咲夜は見事な所作で頭を下げるものの、同時にとても言いにくいことがあるように言葉を濁す。
「何かあったのか? いやあいつが騒がしいのはいつものことだが」
「今日はちょっと毛色が違うというか、なんと言うか……」
「……? そんなに言いづらい状況なのか? ちょっとレミリアと話をするだけで良いんだ」
楓がここに来たのは自分も阿求から本を託され、短命の問題へ立ち向かうことの報告と、もしも何らかの情報があれば教えてほしいということくらいだ。
レミリアが襲いかかってきたとしても、せいぜい十分ほどあれば話は終わる。
それすらもダメとは一体何が起こっているのか。楓はなかなかこちらに視線を合わせてこない咲夜に首を傾げた。
咲夜は言外に話せる状況じゃないと言っているのだが、下がる様子のない楓に特大のため息をついて、状況を話すことにした。
彼が紅魔館に不利益をもたらすとも思えないし、よく考えてみたら楓は妖怪関連の騒動の第一人者と言っても過言ではない。紅魔館、というかレミリアが直面している問題についても何らかの改善案を出してくれるだろうと考える。考えるのを放棄したとも言う。
「あー、まあ、今日一日だけではあるんですが……」
「ああ、お帰り咲夜。客人は楓だったの? よく来たわね」
「…………?」
「ただ今戻りました、お嬢様。手紙については完成されましたか?」
「妖精メイドに手紙の使いをお願い。定期的に血を供給してくれているのだから、礼を尽くすべきよね」
「お嬢様の慧眼、感服するばかりでございます。他勢力へも一筆いただけると幸いです」
「そっちはこの後書く。過去の手紙の保存とかはあるの?」
「こちらに。使われなくなって久しいですが、整理しておきました」
「さすが。紅魔館のメイドは他とは違うわね」
「お褒めに与り光栄です」
自分は何の光景を見せられているのだろうか、と楓は心底からの困惑を覚える。
見えているものはテキパキと仕事をする主人の姿と、そんな主人の力になれることを心からの喜びと捉えて励む咲夜の姿。
但し、主人が座る席に座っている少女は宝石の羽を持つ金髪の少女――フランドールだった。
フランドールは赤縁の眼鏡をかけて真面目な様子でスラスラと羽ペンを動かし、手紙を綴っている。
その様子は主人としての風格に溢れており、レミリア以上に似合っているのではないかという錯覚すら覚えてしまう。
「…………何が起こってるんだ、これは」
呻くような楓の言葉にフランドールは初めて顔を上げ、何かを思い出したようにうなずいた。
「ああ、楓は最近こっちに顔を出さなかったから知らなかったわね。――取り替えっこしてるのよ」
「取り替えっこ?」
オウム返しに聞くとフランドールは慣れた様子で背もたれに体重を預け、眼鏡を外して楓と同じ色合いの目で楓と視線を合わせた。
「そう。私は諸事情があって地下室に幽閉されていた。最近になって外に出るようになり、寺子屋とかにも通っていたのは外の世界を学ぶためでもある」
「ふむ」
「で、まあ私もある程度分別が付いたと思うようになったのだけど、そういうのを決めるのは私ではなく他人でしょう?」
「その通りだな」
「でも私の人間関係はハッキリ言って狭い。パチュリーや美鈴、咲夜に魔理沙と霊夢、アリスとお姉様。あとは楓ぐらい」
片手よりは多いけど両手で足りてしまうの、とフランドールは自分の交友関係の狭さに自嘲の笑みを漏らす。
「この面々から分別が付いている、って太鼓判をもらっても信用できないでしょう?」
「信用できない面子に自分がいるのは不満だが、まあ」
楓が曖昧な同意をしたところ、フランドールはおかしげにくすくす笑う。
「それでふと思ったの。――お姉様は周りから分別ある妖怪だと思われているのか、って」
「…………」
「紅魔館がここにあっても何も言われていないのは、お姉様が相応の働きをしているからだと思ったの。……ねえ、楓のその筆舌に尽くし難い苦渋に満ち満ちた顔はなに?」
「……フランの言う、通り、だと思う、ぞ?」
「なんでそんな言いたくなさそうな顔で認めるの!?」
レミリアが自分には迷惑しかかけていないからである。
それに紅魔館があることに何も言わないのは、レミリアの働きというより彼女自身の強さによって支えられている点が大きかった。
紅魔館のスタンスは仕掛けてこない限り仕掛けない、といった単純明快なもの唯一つだ。レミリア自身はあれで基本、周囲とは棍棒外交の姿勢を今なお崩していない。
「……ともあれ取り替えっことやらの意図はわかった。だが今日は紅魔館の主ではなく、レミリア個人に会いに来たんだ。彼女はどこに?」
「私の代わりに地下室に、ってやるつもりだったけどすぐ飽きてうるさいからメイドの真似事をさせてるわ。結構ノリノリでお皿を割ってるのよ?」
暇だったんだな、という感想を飲み込んだ楓はフランドールの前から辞す前に一つ、助言をすることにした。
「僭越だが、一つ助言をしようと思う。聞きたいか?」
「あら、そういうのがあるの?」
「――他人の助言は聞き入れないことだ」
「え?」
「ではまたな。自分と他人との違いについてはまた今度場を設けて話そう」
何を言っているのか理解できないといった様子で見てくるフランドールの視線を背に受けながら、楓は部屋を出ていく。
そして部屋を出てすぐにいた人影に声をかける。
「これで問題ないか、レミリア」
「百点満点ね。――紅魔館の頭に必要なのは絶対的な力とカリスマであって、他者に迎合する柔軟さではない。フランのやり方じゃ早晩、紅魔館は落ちるでしょうね」
紅魔館は他所の勢力と繋がりが多いわけでもなく、積極的に交流を持っているわけでもないのだ。
そのためこの場所において最適な在り方は君臨すれども統治せず、という形となる。
楓が声をかけた少女、レミリアはメイド服姿のはずなのに妙な着こなしと威厳を伴った風体で、モップを片手に楓と話す。
「彼女がもっと明確なビジョンを持って方針を変えるって言うなら、私も本気で相対したわ。吸血鬼同士の支配者を巡る戦いになるもの。でも、今回みたいなお話ならフランが飽きるまで付き合うわ」
「飽きなかったら?」
「飽きるわよ。今は色々やっているみたいだけど、どこからも適当に流されて終わり。目に見える成果もないまま続けられるほどあの子の根気は強くないわ」
頭はきっと私より良いんだけどね、と言ってレミリアはモップを水に濡らして廊下掃除に戻る。
「で、楓は私を名指しで何の用かしら。私が最近ハマりつつある掃除より面白い話?」
「――阿求様が生きたいと願ってくださった」
「――っ!」
楓がそれを告げるとレミリアは弾かれたように身体を向け、驚愕に見開かれた視線を楓に注ぐ。
「……本当なの?」
「父上が遺した本を預かっている。これで証明になるだろう」
「……そう。来るとしたらもう少し時間が経ってから、って予想してたけど外れたみたい。あなたたち親子は本当に運命なんて物ともせず駆け抜けていく」
そう語るレミリアの目には楓の瞳しか映っておらず、そこにある何かに焦がれてやまない様子で手を伸ばし――以前は自省して触れなかった手を楓の頬に当てた。
「青い果実だと思っていたのに、本当に成長したわね。一年と少し程度で私が本気を出すに値する領域に至るなんて」
「騒動には事欠かない一年だった」
まったくもって平穏とは程遠い時間だったと振り返り、楓は肩をすくめてその話を一旦終わらせる。
「今日訪ねて来たのは他でもない、レミリアの方で何か知っていることはないか聞きたかった」
「ないわね」
一刀両断のにべもない言葉だが、楓も予想していたので驚かず首肯した。
「ないか」
「吸血鬼の私が人間の寿命問題の力になれるわけないでしょう? 強いて言えば私の血を与えて吸血鬼化させることだけど……私は阿求にそうなってほしくないわ」
レミリアは楓の父からの知り合いであるため、阿求の前身の御阿礼の子――稗田阿弥と知己であったりする。
それゆえ彼女も御阿礼の子の短命を知っており、それが楓の父の本を託すに相応しい相手だと判断した理由かもしれなかった。
「俺もそんな阿求様を見たくはない」
「でしょうね。人間の美しさは人間であってこそよ。私も人間やめたおじ様なんて見たくなかったし、阿求についても同じく」
ただ、とそこでレミリアは一度言葉を切る。
「――御阿礼の子の短命に思うところはあったわ。妖怪にとって人間の一生なんてほんの瞬きに過ぎない。……瞬きに過ぎないんだから、その時間だけでも目一杯生きなさいってもんよ。楓やおじ様が気を揉んだのもよくわかるわ」
「……本の内容は?」
「理解できなかったけど一言一句覚えてるわ。愛した人が遺したものですもの。それをおろそかにはしない」
しかし、手がかりはないとレミリアは断言した。それはつまり楓の力にはなるが、力以上にはならないと言っているのだ。
「楓が動いているってことはおじ様の本についても言われた通りやってハイおしまい、ではなく完全なものにする必要があるのかしら」
「……そうだな」
「そしてその手がかりはほぼ皆無」
でなければ私のところになんて来ないと言い切っておかしそうに笑うレミリアに、楓は苦虫を噛み潰した顔になるしかない。
レミリアはそんな楓の顔すら面白いと笑みを深め、犬歯を見せる獰猛な笑みに変える。
「力を尽くしなさいな。そして力が必要になったらいつでも言いなさい。――私が本気であなたを見定めてあげる」
「……俺が助力を請わなくてもいつか同じことをする予定だったんだろう?」
「それはもちろん。私はあなたを愛しているもの」
「はた迷惑な愛だ」
「妖怪の……いえ、吸血鬼の愛はそういうものよ。愛されたことを不運を思いなさいな」
妖怪と言おうとして、レミリアは一度言葉を変えた。
それは妖怪の血も流れている楓への気遣いであることを楓は察し、なぜそれができて自分への殺意は抑えないのかと頭痛を覚える。
しかし動き出した流れは変えられない。楓が阿礼狂いとして生きる限り遅かれ早かれ来るものだったのだ、と己を納得させた。
「わかった。助力が必要な時はお前に声をかける。――そしてお前を打倒し、引きずってでも手助けしてもらう」
「それでこそよ。私もまた全力を出せる時を楽しみにしておくわ」
絶対それで終わらないという確信があった。
伊吹萃香、星熊勇儀といったかつて父と戦った面々はいずれもあの時以上に腕を上げて楓の前に立ちはだかったのだ。レミリアも以前と同じままでいるとは思えない。
助力を請う一番手としては最悪を引いたのかもしれないとため息をつこうとして、天子の言葉を思い浮かべて思いとどまる。
「……冒険を楽しめ、か」
「あら、どこで仕入れたの、その言葉?」
「居候の受け売りだ」
「悪くないわね。命短し冒険せよ少年少女たち! って良いと思わない?」
「お前はその少年少女の道を邪魔する存在だがな」
「そりゃそうよ。――吸血鬼が完全無欠の味方になんてなるわけないでしょう?」
そこはなって欲しいと思う楓だった。
Q.おぜうの助力を求めたらどうなる?
A.まず戦います()
ここからしばらくは助力を求めつつ色々な勢力と絡んでいくお話が続きます。次回は妖怪の山方面。