「色々とご迷惑をおかけして……すみませんでした!!」
ほぼ直角に下げられた頭に、楓は困った様子で自分の目を覆う目隠しに触れる。
先日の騒動で神に成りかけた早苗が現人神に戻り、ようやく調子も戻ってきたということを聞いて諏訪子たちから守矢神社に招かれていたのだ。
阿求に託された本について天魔に聞きたいこともあったので、一石二鳥だと守矢神社を訪れたところ、急に早苗に頭を下げられてしまった。
「怒ってなどいないし、迷惑だとも思ってないから頭を上げてくれ」
「いえ、それでは私の気が済みません! あと三十分くらい私に付き合ってください!!」
頭を下げているとは思えない気合の入った声が返ってきた。しかも内容はとても謝罪しているとは思えない自分本位のもの。
「これを謝罪と呼ぶのか疑問になってきたんだが」
「はっはっは、まあ少年には悪いが付き合ってやってくれ。幻想郷に来てからこっち、ずっと入っていた肩の力がようやく抜けたみたいなんだ」
「今の姿が素なのか?」
「そういうこと。早苗は幻想郷の連中に気圧されることなんてないくらい、ワガママ――んんっ! 自由な性格さ」
褒めてないなこれ、と思いながら楓は頭を下げ続けている早苗に声をかける。
「まあ体調が戻ったようで良かった。霊夢たちも心配していたから挨拶は忘れないようにな」
「押忍!」
「……本当にこっちが普段の姿?」
感無量といった様子で腕を組んでいる二柱に聞いてみたところ、無言の首肯が返ってきた。
もしかして自分の行いは面倒な輩を増やしてしまっただけなのでは? と嫌な疑問が脳裏によぎるが気づかなかったことにする。
「それでですね、楓くん! 私も好きなことをやろうと思うんです!」
「ああ、うん。どこからその話に飛んだのかは知らないがその方が良いんじゃないか?」
「はい! なので、私――幻想郷の食文化に革命を起こします!!」
こいつら革命という言葉が好きだな、と楓は早苗を感慨深そうに見ている二柱含めて評価する。
祭神の方は産業革命。早苗は食文化に革命と来た。
楓は自分に被害が来ず、利益を享受できれば良いので何かを言うことはしなかった。言っても無駄だと見切りをつけたとも言う。
「楓くんやさとりさんと夢で会ったみたいに! あ、夢の話、覚えてます?」
「あんな体験、早々忘れん」
一歩間違っていればさとりと一緒に死んでいたのだ。阿求の側で死ぬならまだしも、嫌いな相手と一緒に死ぬなど死んでも死にきれない。
「まあ色々と少年には世話になった。命蓮寺の土地についても力を貸したし、いつだったか少年を殺すべきだと思った判断も翻そう」
「え、神奈子様そんなこと考えてたんですか!?」
「別に変えなくても良いぞ。自分の危険性は理解しているつもりだ」
危険視すること自体は気にしていないのだ。それで直接的な被害が出れば動くが、そうでない限り楓から敵対しようとは思わない。
「殺すべきだと言った私たちを命がけで助けてくれた。命には命で報いるよ。私らも神の矜持ってもんがある」
「……なんだか私の与り知らぬところでものすごい話があった気がしますが、丸く収まっているみたいなので良しとします! では楓くん、人里へ行きましょう!」
「え、なんで――」
この後天狗の里へ顔を出す用事があるので断ろうとしたところ、早苗は問答無用で楓の腕を掴んで飛び上がる。
「おいちょっと待て。俺は天狗の里に行く用が――!」
「私の用が終わった後でお付き合いします! さ、行きますよ!!」
人の話を聞きやしない。楓は自分たちを見送って手を振る祭神の気配を感じながら、まともだと思っていた早苗も幻想郷に馴染んでしまったとため息を吐くのであった。
「さてさてやってきました人里! では楓くん! あなたイチオシのお料理屋へ案内してください!」
「……それは構わんが、人を強引に引っ張ってきた謝罪の一つぐらいあってもバチは当たらんぞ」
「え? 楓くん、本当に急ぎの用事があるなら私の手なんて振り解きますよね? そうしなかったってことは急ぎの用事じゃないと思います痛っ!?」
「よしわかった。今日この時からお前への対応は霊夢たちと同じにする」
要するに遠慮はしないということだ。早苗が好き勝手やるならこっちも好きにやる。当然、今までは遠慮していた拳も容赦なく飛んでいく。
とりあえず早苗の頭に一発ゲンコツを落とし、楓は人里を歩き出す。
「い、痛い……こんな美少女の頭を叩いて何とも思わないんですか思わないんですね……」
「霊夢で慣れてる」
「……ちなみに霊夢さんは叩いて言うことを聞くんです?」
そのぐらいで話を聞いてくれるならどれほど楽か。楓は何も答えず肩をすくめるだけに留めた。
仕草で大体読み取れたのだろう。早苗は楓に同情的な視線を向けながら隣を歩くが、楓にしてみれば早苗も今や霊夢とほぼ同格の面倒な女という認識だった。
「それで、お前の語る食文化の革命って具体的に何をするつもりなんだ? 多少なりとも洋食の文化は入っているぞ」
食糧事情や洋食に慣れていない人々の事情もあって、常識になっているとまでは言い難いが洋食屋も確かに存在する。
それを教えたところで目新しさはない。結局、食糧事情に躓いて終わりである。
そういった事情を話すと早苗はノンノンと指を振って楓の指摘を否定した。
「私は外の世界の住人でした。なので、外の世界の食事上に精通しています」
「だろうな」
「楓くんも多少知っていると思いますが、外の世界の食文化は色々なものが入り乱れています。和洋折衷どころではありません」
「ふむ」
「私はもう一度、今度は霊夢さんたちと一緒にハンバーガーとポテトを食べながらお話したいんです。そのためならいくらでも革命を起こしてみせましょう」
「……友人として協力すると言ったのは俺だ。その責任は取る。多少は興味も出てきた」
あの味は毎日食べたいものではないが、時折食べる程度なら悪くない。上手く行けば阿求に知ってもらうのも良い。
楓はこういう時とりあえず頼りにできる料理屋――蛮奇の働く店へ一直線に向かう。
「知り合いのお店なんです?」
「妖怪のやっている店だ。妖怪だってことを隠して働いているから他言無用で頼む。言ったら俺まで出禁になる」
ただでさえ出禁になりそうな妖怪を複数紹介し、顔を覚えられていると殺意のこもった愚痴を受けているのだ。この上彼女の素性をバラして出禁にされたらそれこそ土下座ものである。
まあ最近の彼女は現状を受け入れつつあるというか、半ば諦観の境地に達しているところがあるので、早苗を紹介するぐらいならそんなに怒らない……と思いたい楓だった。
早苗を伴った楓が店の暖簾をくぐると、そこには見知った顔の妖怪が二人ほどいた。
「わちきはもうダメなのです……。こんなダメダメなダメ妖怪、墓地に一人消えていくのがお似合いなのです……」
「ああ、ほらほら泣かないで。みんな見てるから……あ、楓!!」
酒でも入っているのかはたまた泣いているだけか。ぐすぐすと鼻をすすりながら愚痴をこぼしているのは先日知り合った唐傘妖怪の多々良小傘。
そしてそんな彼女を慰めているのは蛮奇と自分の知己である今泉影狼だった。
見ず知らずの他人だったら回れ右して別の店を探しに行く光景だが、影狼に自分の姿を補足されてしまっている。
楓は仕方がないと大仰にため息を吐いて、影狼たちの座っているテーブルに早苗を伴って向かう。
「聞くだけ聞いてやる。何があった?」
「うぅ、なんかやたらと上から目線だけど守護者さま、聞いてくださいよわちきの聞くも涙、語るも涙のお話を……」
「影狼、大まかな話」
「竹林でやってた驚かせ方の練習が辛くて逃げた」
「わちきのお話をそんな短く要約しないで!?」
小傘が再び半泣きになって見上げてくるが、目隠しをしている楓にそれは見えないし知ったことでもない。
楓は早苗にも座るよう促しながら影狼の隣に座り、呆れた顔を小傘に向けた。
「近いうちに様子を見に行こうとは思っていたが、早速逃げ出すとは」
「うう、悪いとは思いましたけど限度があります! 先生すぐ手が出るんですよ!?」
「まあそれは予想していた」
てゐの様子からして、かなり厳しいやり方になるとは楓も思っていた。
「しかしだ。人を驚かせることに関してあいつ以上はそうそういない。お前が人を驚かせたいなら頑張るべきじゃないか?」
「もう良いです。わちきはどうせ赤ん坊を驚かせてお腹を満たすぐらいが丁度いいダメ唐傘妖怪なんです。わちきに人を驚かせるなんて最初から無理だったんです」
「極端から極端に振れるやつだな……」
会ったばかりの時は自分のことを天才と言って憚らなかったのに、凄まじい変わりようである。
「てゐに会ったらあいつからも話を聞いておいてやる。お前が本当にダメそうなら無理強いはしない。これでいいか?」
「それが終わった後に子守の仕事をくれると嬉しいです!」
「そこまで面倒見きれん。というかダメだった時を今から考えるな」
小傘にとっては切実なのかもしれないが、楓にとっては至極どうでも良い問題である。
とはいえ頼まれた以上、できることを尽くさないのは楓の主義にもとる。
永遠亭や妹紅に顔を出す用事もあるのだ。その時一緒に聞いておこうと脳内の予定に書き込んでいると、隣の影狼が声をかけてきた。
「ところで楓は何しに来たの? あ、ばんきっきなら厨房ですごい目でこっちを見てるよ」
「丁度いいし呼ぶか。蛮奇、悪い話じゃないから少し来てくれ」
「…………」
「いよいよ疫病神を見る目で見られてるわね、はいお水」
「何一つ言い訳できないのが辛い」
お盆片手に天子が持ってきた水を口に含み、警戒心しか感じられない蛮奇がだんだん近づいてくるのを待つ。
「……今度はどんな厄介事を持ってきたんだ」
「今回に限っては無実だ。こいつが外の世界の食文化を再現したいと言ってて、俺は場所を提供したに過ぎない」
「東風谷早苗と申します! 先日ここに来た守矢神社の現人神です!!」
その自己紹介だけでもう厄介事だと確信した蛮奇は天子からお盆を奪い取り楓の頭を叩く。
「さすがに横暴だ!」
「うるさい黙れお前が連れてくる客で面倒じゃないやつなんて見たことないんだよ!」
大して痛くはないもののボカボカと叩かれる理由もないと思った楓は抗議するが、蛮奇は聞き入れない。
お盆を片手に肩を怒らせたまま、蛮奇はどっかりと近くの椅子に腰掛ける。
「……で? 食文化がなんだって?」
「あ、話は続けるんだ……」
「店が儲かるなら悪い話じゃない。楓がとりあえず飯関係で困ったらここに連れてくればいいだろ、みたいに考えているのは業腹だが」
「飯関係だけではない。とりあえず知り合いを探す時にもここに来る」
「なお悪い」
蛮奇にもう一度お盆で殴られるが、先程より力は弱いものだった。
それに本気で怒っているわけではないことも楓にはわかっていた。本当に怒らせていたら問答無用で出禁になっている。
自分に話題が向けられたので早苗が立ち上がり、楓にも話していた外の世界の食事場を話して幻想郷でも再現したいことを話す。
「――というわけで、私が外の世界でよく食べていたものを幻想郷でも再現できないかと思ったわけです」
「ふむ……」
「再現できればこちらで売っていただいて大丈夫です。それに蛮奇さんはお料理上手だと楓くんも絶賛していました!」
「本当か?」
「不味かったら来ない」
「ん……」
蛮奇は何かを考えるように襟元で口を隠す。
それが照れ隠しであることをわかっている影狼と天子はニマニマと笑みを浮かべ、蛮奇がごまかしてお盆を振った。
「だったら厨房を案内しよう。今は客も少ない、というかお前が来て皆逃げた」
「風評被害では?」
「黙れ歩く妖怪誘蛾灯」
身も蓋もない蛮奇の言葉に楓がどことなくしょんぼりした雰囲気を漂わせるが、誰も取り合わない。彼が立っているだけで妖怪を引き寄せるのは周知の事実である。
そうして外の世界の料理を知っている早苗と料理ができる楓、好奇心が刺激された天子も入ってくる。影狼、小傘は客席越しに面白そうに眺めていた。
「食材はここにある。一体何を作るんだ?」
「ふむふむ、卵に小麦粉、お砂糖とかもありますね。ここではお菓子も出すんです?」
「売れるなら大体何でも作る、というのが店主の方針だ。なまじ私も料理ができるってバレてからその方針に拍車がかかった」
それが妖怪に愛される理由の一部でもあるのだろう。好き嫌いや要望の多い妖怪の注文をさばける店はそう多くない。
「生クリームはありますか?」
「少しだけなら。あれはどうしたって日持ちしない」
「氷室がないとどうしてもな」
楓の知り合いにとりあえず燃やすことができる輩はいるが、何でも凍らせることのできる知り合いはいない。
「楓、何かを凍らせたりできないの?」
「今この場で、だと難しいな。天子の神通力にはないのか?」
今度練習しておこうと心に決める楓だった。妖術で炎が出せるのだから、逆ができても不思議ではない。
「日常生活に使えそうなやつなんてないわよ」
「だそうだ。今後の課題にするとして、メニューは決まったのか?」
「はい! 果物もありますので、クレープを作ろうと思います!」
「クレープ?」
どういった料理だろうか。名前からイメージが沸かない面々は一様に首を傾げる。
そんな彼らに早苗は得意げに料理の内容を語っていく。
「クレープというのはですね、卵と小麦粉、牛乳を混ぜた生地を薄く焼いて、色々な具材を挟む料理のことです!」
「そんな料理があるのか」
「私ぐらいの学生が帰り道に食べていくものの定番ですよ! ……って雑誌に書いてありました!!」
つまり本人の経験にはないということである。
楓たちは一気に胡散臭いものを見る顔で早苗を見始めるが、早苗は気にした様子もなく卵を割り始めた。
「む、意外に慣れてるな」
「守矢神社の食事は私が作ってますから!」
意外と言えば意外だが、納得できると言えば納得できるものだった。あの二柱は料理を作ってもらう立場だろう。
「天子、悪いが教えてくれ。目が見えないと細かい動きはわからん」
「大体わかるのが恐ろしいわ。横で説明するからちょっとこっち来なさい」
並び立って天子の話を聞きながら楓は興味深そうに何度もうなずく。
その姿を蛮奇は横目で見ていて、こいつら仲いいなと思いながら早苗の手で薄い生地が作られているのを眺めていた。
「――はい、これで生地が完成です。この上に泡立てた生クリームを塗ったり、果物を乗せたりして食べます。あんまり詳しくないですけど、しょっぱいものを乗せることもあるとか」
「大体要領はわかった。早苗は引き続き焼いてくれ。乗せるものはこっちで作ろう。楓、天子、手伝え」
「わかった」
蛮奇の指示を受けて具材を作り始めた二人を見ていた影狼は小傘に声をかける。
「人里の守護者二人を顎で使うってある意味すごいことしてるよね」
「あの人が一番物怖じしてないんじゃないかなって、わちき思います」
「ところで小傘の話は大丈夫なの?」
「守護者さまは約束してくれましたし、あの人は多分約束は裏切らないです」
どうしてそう思ったのか、影狼は首をかしげる。
楓との付き合いもそこそこ長くなってきた今なら、楓は何かと騒動こそ持ち込んでくるが同時に場の収拾も試みてくれるし、頼み事には全力を尽くしてくれることを信じられる。
しかし小傘はまだ二回会ったきり。その割に彼女は楓を不思議と信頼している様子があった。
影狼がその辺りのことを聞いてみると、小傘は楓が背負っている長刀を指差す。
「わちきは捨てられた唐傘から化性した妖怪なので、物が大事にされているかどうかはちょっとわかるのです」
「あの刀は大事にされてるってこと?」
「多分、もう成りかけてる。あと少し時間と想いが積み重なったら、正真正銘の付喪神になると思う」
「へえ……」
影狼にはわからないことだったが、小傘が楓を信じるに値する情報のようだ。
だが楓の戦いを見ていた影狼はもう一つの疑問に気づき、誰にでもなくつぶやく。
「あれ? 楓、背負ってる刀は大事にしてるけど、もう片方の刀は割と雑に交換してたような……」
小傘は最後まで聞くことなく、厨房の方に突撃していた。
「ちょっと守護者さま!? ちゃんと私のこと先生に言ってくれるんでしょうね!?」
「あ、ダメだっていきなり近づいちゃ!?」
一瞬で信用が消えたらしい。影狼はうかつなことを言ってしまったと後悔しながら彼女を引き留め続けるのであった。
そうこうしている間に楓たちが戻ってくると、ぜえぜえと呼吸を荒げている影狼と小傘の姿があった。
「話は聞こえていたが、お前らも大概愉快だな」
「楓には……言われたくない……」
「まあ良い。色々作ってみたから試食を頼む」
早苗がクレープと呼んでいた薄い生地と、楓たちが作った思い思いの具材が並べられる。
初めての食べ物で食指が伸びない中、早苗がいち早く手を伸ばして手際良く具材を並べて丸めていく。
「では僭越ながら私がお手本を……うん! 懐かしい味です!」
「なるほど、そうやって」
要領が掴めたので蛮奇や天子も同じように具材を乗せ、一口かじる。
「……ん、美味しい。甘くてふわふわしてる。なるほど、食べたことのない味だわ」
「予め乗せる具を決めておけば商品にできるな。見栄えについては……」
「綺麗に作る方法も今度教えます。私も見ていただけなので上手くできるかはわかりませんが」
「助かる。……楓」
「うん?」
「……これからも儲け話があるなら持ってこい。お前は本当に疫病神だと思うし、関わってから私の望んだ平穏とは程遠い日々ばかりだが――今の幻想郷はそれが普通なんだろう」
誰も彼も祭り好きで、見るのも踊るのも楽しい輩ばかりなのだ。
人里の連中だって危ない相手からは逃げ出すものの、彼女らが去ってから何食わぬ顔で戻ってくる辺り、図太い連中ばかりである。
ならば今だけ。本当に今だけ、彼女らに付き合って踊るのも悪くないと思ってしまった。
騒動が絶えず、頭を抱えることも多いが、楓と一緒にいる面子で退屈そうな顔をしている輩はいない。
そのことを話すと楓は不本意だとばかりに口をへの字に曲げた。
「人を人間台風みたいに言わないでもらおうか」
「何一つ否定できないだろ、疫病神」
「店の利益になっているんだからせめて福の神と言ってくれ」
「むむ、神なら現人神の私以上はいませんよ! 楓くん、人里の信仰を奪うなら勝負です!」
「あら、偉い偉くないなら天人以上はこの世にいないわよ? 天上天下唯我独尊とは私のためにある言葉ね」
「わ、わちきも付喪神の一種だもん! 偉いんだぞおどろけー!!」
「楓、一瞬で場をややこしくする天才だよね」
自分の一言でにわかに騒がしくなった空間を見て、つぶやかれた影狼の言葉を否定する術は、楓にはなかった。
「――とまあ、こんなことがあってな。尋ねるのが遅くなってしまった」
「いやお前、それは普通一日潰れる内容だと思うんだが……」
あの後、楓は当初予定していた内容通り妖怪の山を再び訪れ、山頂に座す天魔の元へ来ていた。
天魔は楓のかいつまんだ話――蛮奇のことは伏せていた――を聞いて、次代の天魔候補の少年はつくづく騒動に愛されていると呆れた顔を隠さない。
「しかし、守矢の現人神はようやく肩の力が抜けたのか。変な方向に一皮むけただけな気もするが」
「それは同意する。で、話はそれとは全く別なんだ」
「ああ、御阿礼の子が生を望んだことか」
「……風のうわさになるのも早いな」
楓の言葉に天魔は皮肉げに口元を歪める。
「確信したのはお前さんが吸血鬼の嬢ちゃんを訪ねたことだよ。お前さんが自発的に行くことはあんまりなかったからな」
「それを知っている時点で耳が早い」
「天狗の取り柄だ。風に耳ありってな」
天魔が言うとシャレにならない。楓は渋面を作りながらも話を進める。
「父上があなたにも本を託したと聞いている」
「ああ、持ってるぜ。内容も覚えてる」
「……何か情報は」
「ない。オレたちと旦那の約束は御阿礼の子が動くと決めたら力を貸すってだけだ。お前さんたちと違って、オレたちに御阿礼の子をどうこうするって利益はないからな」
この調子では鬼の方も期待はできないだろう。もともと期待していなかったが、やはり自分の足で動くしかないらしい。
などと楓が考えていると、天魔は顎を撫でながら空を見上げていた。
「御阿礼の子の寿命問題についてオレから言うことはない。旦那とお前さんの悲願だ。到達できれば祝福するし、力を貸せと言われりゃオレ個人で動かせる範囲なら全力を尽くすが、それ以上はやらん。あくまで主役はお前さんらだ」
「……ああ」
「短命がどうにかなって、御阿礼の子が転生に苦痛を覚えないかって不安はあるが……まあ問題はないだろう。話を聞く限り、多少知識を引き継いだだけの別人らしいからな」
それより、と話を切った天魔が楓を指差す。
「オレはどちらかと言うとお前さんを危惧している」
「俺を?」
「そうだ。お前さんは見たところ……御阿礼の子の旅に最期まで付き合う腹づもりらしい」
うなずく。半人半妖として生まれた楓ならば、これから先も続くであろう御阿礼の子の旅路を終焉まで寄り添い続けられる。
千年、万年、あるいは億年。どれほどの年月であろうと、楓は御阿礼の子の側を離れるつもりはなかった。
その覚悟を告げると、天魔は厳しい表情で楓の歩む道の苦しさを指摘する。
「言っておくが。その道は妖怪すら誰も歩んだことのない道だ。そうだろ? ――そもそも万年生きた妖怪の話すら存在していない」
「…………」
「そしてお前さんは阿礼狂い。御阿礼の子以外で揺らぐことはないが、御阿礼の子が絡めば容易に崩れる精神の持ち主だ」
言わんとすることが読めてきた。以前、阿礼の死を追体験したことで傷を受けた左腕を無意識のうちに撫でる。
「オレが危惧しているのはもうわかったな? オレはお前が壊れることを恐れている」
「…………」
反論はできなかった。夢で追体験するだけで左腕が崩れたのだ。
考えたくない未来だが、必ず訪れるであろう御阿礼の子の死。それを看取って心身が無事で居られるか。楓自身にも想像ができなかった。
「今代は耐えるかもしれん。だが次は? その次は? 二代、三代と続けばわからんだろう。おまけに次からは文字通りゆりかごから墓場までだ。思い入れの強弱を阿礼狂いに語るなんて無意味だとは思うが、時間の差は生まれる」
「…………」
「即答しない辺り、お前さんも危険視はしているんだろう。――だがそれじゃオレは安心できん」
「……どうしろと言うんだ」
「確証が欲しい。お前さんが最期まで耐え抜き、歩み続けられるという確証が」
無理難題だと思いはしたが、口に出すことはなかった。楓もそれが必要であると心のどこかで理解していたからである。
「一朝一夕に答えを出せとは言わない。だが避けられない問題だ。御阿礼の子を喪う度にお前の魂が傷を負うなら、
精神は決して無限ではない。
それは阿礼狂いであっても例外ではない。傷を負うことが極端に少ないだけで、傷を負う時は誰よりも深く傷を負っている。
「お前の親父さんは立ち上がった。だがそれは人間だからだ。肉体に依存した人間だから、精神の傷にオレたちより耐性がある」
「……俺は立ち上がれないと?」
「前例がないだろ? 半妖のお前さんがどうなるかなんて誰にもわからん」
そう言われると返す言葉もない。
楓は自分が折れないと思っている。御阿礼の子の死がどれほど深い悲しみをもたらそうと、必ず立ち上がって待ち続ける腹積もりだ。
「……支えがいるのか」
「そうだな。阿礼狂いのお前に酷なことを言っていると思うが――お前は御阿礼の子以外で自分が死ねない理由を作る必要がある」
「…………」
「天魔になるでも、女との約束でも、何でも良い。あるいは全部まとめてか。御阿礼の子が死んだ後も生きる理由を作ってこい」
天魔の言葉を噛み締め、楓は無言を貫く。
言われずとも考えていたことではあるが、改めて思い知らされた。
最期まで寄り添うと言うだけなら誰でもできる。だが、途方も無い年月とそれに伴う御阿礼の子の死を前に阿礼狂いの――否、楓の精神はどこまで耐えられるのか。
あまりにも考えが浅かった。その時が来なければわからないのも事実だが――それでも備えておかねばならないことだ。
己の浅慮を恥じていると、天魔はやり切れないと同情を含んだ声で語りかけてきた。
「……面倒な話だよな。短命な人間は生きる理由などなくても生きられて、長命な妖怪は生きる理由がなければ生きられないんだ」
「妖怪の先達としての言葉か」
「ああ、そうさ。――生きる理由を見つけ続けろ。それを御阿礼の子に依存する限り、お前は千年も持たないよ。断言してやる」
阿礼狂いでありながら、御阿礼の子以外を己の命より大事にしなければならない。
矛盾しているが、最後の阿礼狂いとなるには必ず成し遂げる必要がある。
「……わかった。できるかわからないが――やらなければならないなら成し遂げるだけだ」
「その意気だ。次代の天魔ってのも生きる理由に入れて良いんだぜ?」
「……あなたがいる限り、それを生きる理由にするのは難しそうだ」
自分がダメでも彼がいると思ってしまう。そんな甘えた発想が浮かぶものを生きる理由にすることはできない。
それを正直に告げると天魔は大仰に腕を広げて嘆いてみせる。
「おいおい、千年頑張った老体をまだ働かせるのか!? いい加減楽させてくれ!」
「妖怪は楽になると死ぬんじゃないか?」
「ハッ、こいつは一本取られた! だがな、頑張り続けても精神は死ぬんだよ、これが」
「……人間を笑えんな」
ある意味肉体以上に面倒かつ繊細な精神というものを整えなければならない。
楓は妖怪が生き続けるということの意味を実感し、先行きの長さにめまいを覚えるのであった。
Q.楓が阿礼狂いとしてのみ生きた場合、どのくらいで壊れる?
A.寿命問題を解決した場合の転生サイクルをおおよそ200年(人生+閻魔の手伝い)と仮定した場合、頑張っても1000年ぐらい。何が悪いわけでもなく、精神が受け続ける傷に耐え切れなくなる。
人間なら時間を置いて立ち上がれるけど、楓は魂の傷が肉体の傷に直結してしまうため、立ち上がる時間が得られず全身が崩壊してしまう。
なので生きる理由が必要です。阿礼狂いなのに、御阿礼の子に依存し過ぎると最期まで居られないという難易度ルナティック状態。
半妖であり、最後の阿礼狂いになる。それはやっぱり一筋縄では行かないことなのです。