お世辞にも高いとは言えない山の傾斜、緩やかに覆って広がる大小様々な木々の間に隠れるよう、一軒の小屋が存在した。
強風が吹けばぐら付きそうな木材たちは寄り固められ、何とか耐えしのんでいた。――到底、人が住んでいるとは思えない古屋だけに、周囲は荒れ果ていると思いきや、驚くことに草木は丁寧に剪定され裏手の獣道でさえ綺麗に整っていた。
人が住むにはあまりに人里から離れた位置にある古屋に、不自然にも整頓されたそこは見るもの全員がはて、と疑問に首を傾げるだろう。
そして次に思い浮かべる事は必ず、決まっている。
『一体誰が住んでいるのだろう?』
キィ、と短い木々の悲鳴の後、一つの影が扉の奥から現れた。
「んー……はぁ――」
降り注ぐ光に反射して見えた影と聞こえた声は幼い少女を思わせる。ゆっくりと伸びをして突き上げた腕は短く、先を突いた拳は凶暴、と言うよりも可愛らしい印象を受ける。
その小柄な体系が暗がりから出て切った時、やっとその姿が鮮明に見られた。
赤と黒が混ざり合ったチェックのワンピースと思われる服装。スカートから生えるほっそりと、瑞々しい長い下肢から子供らしい丸いひざ小僧の下にはつんと付いた裸足が覗く。
ほんのりと赤みがかった健康的な肌にくるんと跳ねたライトグリーンの髪からは勝ち気そうな瞳が少女から活発的な印象を受ける。
全体的に華奢な風体に、片手には水汲みとバケットのようなモノが一緒に入れられていた。
少女は空を見上げ、眩しさから遮った指の先からそっと快晴の空を確認すると、にっと口元に笑みを象り、軽い足取りで裏手の獣道に入っていった。
清涼とした川辺に緑髪の少女、風見幽香は満喫気分で水を汲んでいた。
「はあー今日もいい天気ねぇ」
花好きであり、花妖怪でもある彼女からしたら、雲一つない今日は最高の曜日だった。
チャポチャポと音を鳴らす桶を軽く片手で持ち上げながら、軽快な足取りで生い茂る葉っぱから滴る光のアーチを潜りながら、幽香は上を見上げてふふん、と満足げに鼻を鳴らした。
幽香が向かったには花妖怪の名に負けないほどの色とりどりの花々が咲き誇っていた。どれもが最良の状態を保って花たちは満開の花びらを広げて彼女の帰りを迎えた。
少女は微笑を浮かべると、早速水やりに取り掛かった。
彼女の、幽香の一日は中々ハードな労働から始まる。
毎朝早朝には彼女だけの庭園に足を運ばなければならないし、水場が若干花畑から離れている為往復も重労働だ。何より一つ一つの花たちの状態をチェックするのも幽香の仕事であり、日課であった事からも由来する。
――これほどの手のかかる世話など、よほど花好きでなければこなせないだろう。
しかし幽香は特に苦も感じずに花たちの世話をこなす。疲労の様子など見せず、どちらかと言うと家を飛び出した時より活き活きとしているように見える。
「お花さんお花さん、今日の調子はどうですかー?」
暖かい陽気に当てられ、眠気の混じった間延びした声に反応を示したとも取れる動きで茎が揺れた。彼女は微笑を浮かべるとするすると横にずれて続いて他の花たちにも質問を投げかけた。
……庭園の端で浮き上がった汗を拭ったのは、既に昼を過ぎてすぐの頃だった。少女は深く空気を吸い込むとそのまま吐き出した。
「……うん、今日もみんな元気!」
周囲を見渡して快活にそう言うと軽い足取りで摘まれた花が入れられたバケットとスッカリ空になった桶を持ち上げて辿った道を戻ろうとした際『ああ』、と思い出したように足を止めた。
「……」
その視線を追うと、花畑から少し離れた場所に周囲の木々とは離れて一際巨大な木が居座っていた。
幽香は自分の顔が僅かに強張るのを感じ取ると、マーサッジの要領で揉み解して硬さが取れたところで巨木へと続く道へ足を進めた。
太陽はまだ中天を少し過ぎた頃の筈、幽香は頭の中でそう何度も反芻して周辺の沈鬱とした雰囲気を紛らわそうと試みたが成果はあまり芳しくない。道を入ってから数分として経っていない訳だが、鬱蒼とした木々たちが光を遮って、聳え立つ巨木がより夜にも似た帳(とばり)を落とす引き立て役になっていた。
こればかりはしょうがない。
彼女は諦め混じりの息を吐くとせめて数秒でも早く着くように足を速めた。その願いに答えた訳ではあるまいが、数秒して目的の場所へと到着した。
「は――」
長めの呼吸に、毎度の事ながら地面に力強く根付く古代の樹に感嘆のため息を吐いた。
命の息吹とでも表そうか、幹の表面張り付いた苔は大樹に貫禄のようなモノを与え、視界に収まり切らない程の大木の棒から連なって手を広げる細枝は光を受けて葉の細部まで煌き、神々しいという思いを懐かせる。
何時までも見ていられそうな光景に彼女は見上げていた視線を巨木を辿って下にずらして行き、その根元。目を凝らさなければ樹の一部だと見間違えてしまいそうな、明らかに樹とは異なった異物へと目を向けた。
これも毎度の事ながらよく見れば、子供と思える体躯の輪郭が幽香にはハッキリと確認できた。服と思える灰色の布地にはコケと姿を隠すかのようにツタが張られ、子供の表情と言えば鼻先から下側が見えるだけに止まり、それより上は被せられた布に隠されて把握できない。
それを見て彼女は自分が緊張をしている事を自覚しながら慎重な足取りで近づく。
あと数歩で手が届くと言う距離で足を止め、彼女は葉の天然クッションに腰を下ろした。
より近づいた事で明確に子供の姿が見えた訳だが、分かる事と言えばあまり変わらず、子供は少年であった事と、両手には開かれた状態で彼女が知らぬ本、と言うモノが乗っていたという事だけだった。
「ここに変化はあった?」
呟いた言葉に共鳴してか、少年の側に生えていた花の茎がふらっと揺らぐ。
『なにもなーい。けど、……あ、そういえばまた笑ってた』伝わってきた念に礼を述べると幽香は見えない相手の瞳へと視線を合わせる。少年は微動だにしない。
彼女は摘んできた花を束に合わせ、そっと少年の前に差し出し、無言で目を瞑って手を合わせた。
視界のシャッドダウン。彼女の脳裏にふっと浮かんできた情景は過去の物だった。
人間、動物は共に、自身の居場所(テリトリー)と言うものがある。人間であれば寄り固まったソレを村と言い。獣であれば、群れという。
更に規模を縮小するならばそれは自室部屋だったり、はたまた荒れた洞窟内かもしれないが、それは妖怪も同じでお互いに分を弁えた。大きく分けるとするならば管理する側と、される側と分かれていた。
そしてこの山も前までは、何処と変わらずにそれを守り、山の頂点が存在していた。
昔の彼女の庭園は小さくとも荒廃した地表に咲く一輪の花のよう、規模は小さくともその頃の少女は自分が作った一人だけの庭に満足していた。
この日も、花たちの世話を終えてさて帰ろうかと思っていた時だった。重低音の唸り声、はっと聞こえた方向を見ると、暗がりの先にイノシシとも狼とも言える妖怪がこちらを睨んでいた。
――彼女は一目見ただけで知らない妖怪ではないと気づいた。
それはこの山の主であった。幽香とその管理者は、この時決して仲の良い間柄と言うわけではなかった。
しかし、幽香は何も無断でこの場所に住んでいるわけではない。この様な場所に隠れ住むのは育てた花たちを荒らされないようにする為、出来るだけ周囲の妖怪に目をつけられないように、認められなくとも分を弁えた行動を取っていた。それだからこそ、頂点である山の主の急な来訪に驚きと緊張からの逡巡の間、彼女は挨拶をすべきか迷った結果、震える体をいさめて口を開きかけた。
「……あ、こん――」
そこで初めて、彼女はまともに視線を合わせた。
数度しか顔を合わせなくとも気づくほどに、妖怪の野獣の瞳に篭った敵意に彼女は理解することできた。その予想が的中したとおりに、地を蹴って野獣は幽香目がけて飛びかかった。
「きゃッ」
引き攣った悲鳴が上がった。
戦い慣れていない彼女は反射的に頭を抱える防御の姿勢を取る事で、しゃがんで突き出た妖怪の牙をかわした。
傍を通り抜けた風斬り音に続いて轟音が轟き、バキバキと木が折れる破壊音が耳を打った。
大木が倒れた衝撃の地揺れで竦んだ足に自由が利かず、自失呆然と次の突進に後ろ足を掻く妖怪を眺めた。
なんで――
疑問が頭を埋める中で、必死にこうなった原因を見出そうとしていた。
妖怪の突き出た牙と同じく、野獣の眼球は数センチ前へと押し上げられていた。常時開かれた口と鼻から際限なく垂れ落ちる液体で、彼女は明らかに管理者だった主が――既に正気を保っていない事に気づくことが出来た。
駆け出した妖怪に、彼女は迫る形相から目をそむけるように体を丸めた。
「……?」
一向に訪れない痛みに、おそるおそる顔を上げた彼女が見たものは、木のツタに絡められ絶叫を引き連れて森の奥に消えた妖怪の姿だった。
そして、震える足取りで辿りついた先にあったのが、大樹の根元で目を瞑っている子供と、生気が失せた状態で縛られた妖怪の干物だった。
すーっと薄く開いた瞳で、幽香は目線で目の前の少年にたずねた。
貴方は誰……? 何であの時私を助けてくれたの? 何で寝ているわけでもないのに目を瞑っているの? ――なんで、こんなところで一人で居るの?
幾ら時間が経とうとも、少年は彼女の問いに答える事はなかった。それでも諦めずに、張られた糸が切れないよう、沈黙を保って直視し続けた結果、彼女が漸く得られた反応は、パラ……と紙を捲る効果音だけだった。
「はぁ……」
きんちょーして損した。……動けるんだった何か一言くらいしなさいよ!
真剣になっていた自分が途端に馬鹿らしくなり、彼女はもやもやと胸の中で渦巻く考えをため息と一緒に吐き出した。
「もしかして神様、とかじゃないかぁ……さすがに」
ちらりと視線を配った幽香には、木に寄り掛かって何かをしている少年が、神などの高尚な存在にはどうがんばっても思えなかった。
どちらかと言えば、妖怪の村から逃げ出した子供か。親に捨てられて居場所を失った妖怪にしか見えなかった。
こうしてあの日、命を助けてくれたお礼として毎日欠かさず摘んだ花を納めてきたが、それも今日で潮時かもしれない。
そもそもお礼を強制されていた訳ではないのだ、今更自分がそれを止めたとして何か変わるだろうか。
「……今日でお別れ、ね」
そっと呟いて尾を引く未練を断ち切るよう手荷物を握って立ち上がった。
立ち去る途中、、不意に、勢いをつけて振り返ってみた。
そう、よね……。
反応にない少年を見て、最後なのだからと幽香は懐いていた少々期待が淡く消えていく失望感を胸の内までに抑えた。
幽香は次第に足早なる森を走っていた時に、声を聞いた気がした。
――近づくな。
彼女は、振り返ることなく家への扉を開け放った。