鬼哭劾―朱天の剣と巫蠱の澱―   作:焼肉大将軍

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新たな決意

 †††

 

「あの人は、時臣は無事なのですか!?」

 

 驚愕に声を荒げる葵に対し、綺礼は飽く迄冷静に告げる。

 

「はい、奥様。御安心下さい。襲撃者は処分しました。時臣氏も健在です。ですが、時臣氏の召喚に使う触媒を運んでいた運び屋達は壊滅。時臣氏の元に届くはずだった英雄王所縁の聖遺物は敵の手に落ちました」

「それは……ッ!!」

 

 葵は言葉を失う。

 綺礼の告げた内容は葵に少なからぬ動揺を与えた。

 時臣が命懸けの戦いに臨んでいるという事は葵も理解している。

 否、理解していると思っていた。

 

 だと言うのに、時臣が窮地にあると聞いただけで、葵の心はざわめき、とても冷静ではいられなくなっていた。魔術師の妻になると決めた時に、覚悟は出来ていた筈なのに。

 葵はギリと唇を噛み締めると、頭を振って冷静になろうと努める。

 聖杯戦争のルールについて多少ではあるが葵は時臣から聞き及んでいた。

 

 七人の魔術師各々が自ら最強と思う英霊を召喚し、最後の一組になるまで殺し合う生存戦。そして目当ての英霊を召喚する鍵となる触媒こそ、英霊所縁の聖遺物。

 旧き時代に遡る程、神秘は純度を増すとあって、人類最古の英雄王は正に最強の英霊である。時臣が八方に手を回して用意したその英雄王所縁の聖遺物こそ、彼に勝利を約束する代物である、筈であった。

 

 英雄王所縁の聖遺物が発見された時の時臣の喜びようを葵は覚えている。彼は正にその時、勝利を確信していた。心配する葵に対し、彼にしては珍しく熱っぽく、かの英雄について饒舌に語っていた事を覚えている。

 

 時臣の言葉に間違いがあろう筈も無い。

 彼が呼ぶ筈だった英霊は正に最強だったのだろう。

 しかし、時臣が葵に語り聞かせた勝利の方程式は崩れ去った。

 否、事態はもっと悪化している。

 

「奪われた、という事は……。敵は主人の聖遺物を使って召喚を行う事になるのですね」

「はい、下手人はこの冬木から大聖杯を奪ったユグドミレニアに連なる魔術師でした。英雄王は間違いなく敵に召喚されるでしょう。そして、此度の聖杯戦争の開催地トゥリファスはユグドミレニア一族の本拠地。時臣氏が大聖杯の奪還を企むならば、彼等との激突は不可避かと」

 

 葵は目の前が真っ暗になった気がした。

 時臣の事は勿論信じている。

 しかし、それでも、自分は時臣を引き止めるべきだったのではないか。

 そんな後悔の念が頭を過ぎる。

 勿論、葵とて分かっている。

 泣いて縋った所で、時臣が止まる筈も無い事は。魔術師としての時臣はどこまでも魔術師だ。彼は自らに科せられた遠坂家の宿命を捨てられまい。例え、家族と天秤に掛けた所で、彼は魔術師である事を選ぶだろう。

 不利であろうとも、決して退く事は無い。

 

 それが遠坂時臣という男だ。

 夫の性は妻である葵が最も良く知っていた。

 知っていて結婚したのだ。

 それでも……。

 

「奥様、お気を確かに。英雄王の聖遺物を失った事は確かに痛手ではありますが、敵のサーヴァントの真名を把握している事は大きな優位。奪ったユグドミレニアには敵も多い。如何様にも、やりようはあります。時臣氏も既に次善の策を実行に移すべく動いている。どうか御安心下さい」

 

 力強く語る綺礼に対し、葵は丁重に頭を下げる。

 

「言峰さん。どうか主人をよろしくお願いします」

「承りました。最善を尽くします」

 

 それから、二人はこれからの事を話し合った。綺礼は葵達を禅城に送り届けたら、直ぐにでも時臣の工房から目的の品物を探し出して日本を発つつもりであったらしい。事態が切迫している事は間違いない。葵としても一刻も早く綺礼には時臣の元に聖遺物を送り届けて欲しい。

 

 一方で、綺礼の任務には葵達の身の安全の確保も含まれる。禅城の家に皆を送り届け、時臣と交流のある魔術師に彼女達の身の安全は任せるつもりであったが、状況が変わってしまった。元々綺礼が葵達に気を配って貰う様に頼むつもりだったのは、同じ御三家の同胞であり交友のある間桐家だったのである。

 

 鬼面の男は聖杯戦争開催の地で待つ、と言った。

 ただ殺すだけならあの場で十分に可能であった以上、下手に小細工を弄するとは思えぬが用心しておくに越した事はない。既に近縁者を狙った襲撃は絵空事では無くなった。何より、当初時臣達が懸念していた襲撃者は鬼面の男とは別口なのである。

 

 魔術師同士の対立が殺し合いに発展する事はままあるが、魔術師同士の対決とは純粋なる魔術勝負、決闘じみた形式の段取りで解決されるのが慣例となっている。魔術師は世間一般の法や倫理に外れた存在であるが、故にこそ彼等には幾つもの遵守すべき不文律が存在する。

それは聖杯戦争においても同様で、幾つかのルールや鉄則が存在するし、それを参加者に厳守させるべき審判役も存在する。

 

 時臣達が危惧したのは、今回、聖杯戦争にその例外が紛れ込んだ事だ。

 “魔術師殺し”の異名を取る男、衛宮切嗣。あらゆる手段を用いて魔術師(エモノ)を狩る謀略戦の専門家(エキスパート)を、御三家の一角、アインツベルンが雇い入れた為である。

 

 魔術師でありながら魔術だけでなく近代兵器にも精通し、その手口は悪辣かつ無慈悲。

 不意打ち、騙し討ちは当たり前。狙撃に毒殺などまだマシな方で、捕えた敵を魔術で洗脳し、偽の情報を流す事で同士討ちを煽ったり、標的を殺す為なら市街地でガス兵器を使用するなどやりたい放題。あまつさえ旅客機に乗り合わせた無関係の乗客ごと標的を爆殺してのける手際は魔術師では無く暗殺者のそれだ。

 その恐るべき暗殺者をアインツベルンは自陣営に招き入れた。

 

 聖杯戦争において優先的に令呪を受ける事の出来る御三家は、逆に言えば参戦が確約している。こと情報戦においてこれは大きな不利である。魔術系統や人と成りだけでなく、調べようと思えば、居住地やその人間関係まで洗う事も容易い以上、徹底して手段を選ばぬ暗殺者の魔の手が葵達に伸びないとは限らない。

 

 時計塔に派遣していた密偵が消息を絶ち、聖遺物を輸送していた運び屋が襲撃を受けた。聖杯戦争の監督役である綺礼の父、言峰璃正から伝え聞いた話では未だ召喚されたサーヴァントは半分に満たぬ筈であるが、既に聖杯戦争は始まっている。

 間桐家当主に宛てた時臣直筆の書状を綺礼は持参していたが、力を貸してくれそうな人物を探す所から始めねばならない。しかし、魔術師一家の護衛とあっては古巣の聖堂教会を頼る訳にもいかず、綺礼には伝手らしい伝手が無い。

 

 時臣と連絡を取ろうにも、時臣の機械嫌いのせいで時間のかかる状況だ。

 綺礼は暫し沈黙していたが、やがて口を開いた。

 

「一人、心当たりがあります。金で動くフリーランスでありながら、腕の良い魔術師に。彼との護衛の話がまとまり次第、私はブカレストに戻る事にしましょう。少々不便を掛けますが、夜は決して出歩かない様に、凛達にも言い聞かせて下さい。私が言ったのでは、凛は反発するでしょうから」

「分かりました。言峰さん、何から何までありがとうございます」

 

 そう言うと、葵は丁重に頭を下げた。

 

 

 それから二日後。

 戦闘から三日経ち、漸く間桐雁夜は目を覚ました。

 

 

 †††

 

 

「そうか……。俺は、負けたのか……」

 

 事の顛末を聞いた雁夜はそう呟くと、目を瞑って天井を仰いだ。

 自ら口にすると、敗北の事実は実感を持って襲ってくる。

 雁夜の握り締めた拳が骨の軋む音を上げた。

 

「雁夜おじさん、あの時の事、覚えてないの?」

 

 おずおずと尋ねる桜に対して、雁夜は首肯を返す。正確には鬼毒酒の二口目を呷ってからの記憶が欠落していた。凛は何かを言おうとして、結局口を噤む。暫し沈黙があった。

 雁夜は二人の様子を見て、自らの不甲斐無さを恥じた。

 自らの無力を悔いるのは何度目だろうか。

 

 その時だった。

 雁夜は一瞬だけ顔を顰め、そして、目の前に凛と桜がいる事を思い出し、何事も無い風を装う。数年振りの感覚と苦痛への戸惑いを、気取られぬ様に雁夜は苦笑の裏に隠す。

 

 それは皮下に蠢く魔蟲の胎動。

 脳髄の裏側に纏わり付いた蟲共が、自らの内側で好き放題に這い回っている感覚。頭の中を常に掻き毟られている感覚。蟲蔵の中で嫌と言う程に味わった感覚であった。随分と長い間忘れていた苦痛と、吐き気を催す強烈な違和感とが全身を駆け巡っている。

 雁夜の体内に巣食う魔蟲共が、雁夜の魔術制御を外れて異常に活性化しているのだ。

 

「ああ、どうにも記憶が曖昧なんだ。でも、ゴメン。おじさんの力が足りないばかりに、二人には怖い思いをさせてしまったね」

 

 雁夜は桜と凛に頭を下げた。

 彼のその肩が震えているのは悔恨のせいだけではない。

 一方で、頭を下げられた二人は戸惑いながら互いの顔を見比べる。

 過ごしたのはホンの僅かな時間だったが、それでも雁夜の人と成りは二人とも分かっているつもりだった。

 

 だが、あの時の雁夜は余りにも違い過ぎた。

 凛を、皆を護ろうと死に瀕して猶、立ち上がった雁夜の姿と、神便鬼毒酒の魔力に振り回され暴走した姿。そのどちらもが彼女達には見た事の無い姿だった。

 その時抱いた恐怖を二人は振り払えずにいた。

 

 あの時、確かに二人は雁夜に恐怖を抱いた。それは彼自身に対する恐怖であり、同時に、彼を失ってしまう事に対する恐怖であった。

 彼が負った傷は凛や桜の目にも致命傷である事が分かるものだ。日が経つにつれ、二人は彼がもう二度と目を覚まさないのでは無いかと不安に思い、次に、目を覚ました雁夜が以前と違っているのでは無いかと不安に思った。

 

 目を覚ました彼は、あの夜の、ただ只管に死ぬまで戦い続ける怪物なのではないかと。

 だから二人は胸を撫で下ろし、安堵の表情を浮かべる。

 どうやら不安は杞憂だった様だと、雁夜の様子を見て、彼女達はそう結論付けた。そう信じる事が出来た。

 

「ううん、ありがとう、雁夜おじさん。きっと、助けに来てくれるって信じてた」

 

 そう言って微笑みを浮かべる桜の瞳には涙が滲んでいた。

 雁夜は不意に目頭が熱くなるのを感じて、眉間を押さえる。

 報われたと思った。

 やってきた事は無駄では無かったと思った。

 力及ばず無様に負けたというのに、そう思ってしまった。

 

「皆が無事で良かった。後で、その言峰って人にはお礼を言わなきゃいけないな」

 

 雁夜は努めて陽気な調子で言った。

 言葉とは裏腹にその脳髄を怒りが焼いている。

 

“俺は負けた。

 臓硯にまんまと出し抜かれ皆を危険に晒し、

 護ると誓っておきながら、無様に敗北し――救けられた。”

 

 忸怩たる思いがあった。

 一歩間違えば、皆に危害が及んでいても不思議では無かった。

 取り返しの付かぬ事態になっていたかも知れない。

 そして、自分にはそれを止める力が無かった。

 それが雁夜には許せないでいる。

 

“あの時、俺は差し違えるつもりだった。

 それ位は可能だと思っていた。

 だが―― ”

 

 雁夜は自身の胸の傷痕に触れる。それは先の戦いで敵の刃が貫いた箇所だ。刃は胸骨を裂いて心臓の直ぐ脇を通り抜けた。ホンの数センチ、刃がズレていれば雁夜は死んでいただろう。結果、彼は生き永らえた。――死ぬ事すら出来なかった。

 

 死を覚悟して励起させた八種最後の魔蟲、屍蟲。

 刃は雁夜の心臓に取り付いたソレを正確に貫いていた。

 結果、屍蟲はその能力を発現する事無く、不発に終わる。

 屍蟲と神便鬼毒酒。それで何とか出来ると思っていた。だが、結果は――。

 ギリ、と噛み締められた奥歯が鳴った。

 

“もっとだ。

 もっと力がいる。

 彼女達の為にも、俺は強くなければならない。

 二度と負けない為に”

 

 幼少から殊更に力を求めた。

 それが雁夜が間桐で生きる為の術だった。

 大切なヒトを護る為にはそれしか無いのだと、今も雁夜は頑なに信じてい――

 

「なにを思い詰めた顔してんのよ」

 

 ぺしっと雁夜の額を傍らに控えていたバーサーカーが叩く。

 目を白黒させる雁夜にバーサーカーは続ける。

 

「襲撃にあった。ピンチだった。でも、皆無事で誰も死んでない。上出来でしょ。それとも、この結果が不満なワケ? 自分が勝てなかったから」

「そういうワケじゃあ――」

「まァ、サーヴァントである私の方としては、我がマスターの勇猛極まる判断と行動には少々思う所が無い訳じゃあ無いんだけどね~」

 

 雁夜は言葉に詰まる。

 バーサーカーは笑顔である。

 しかし、有無を言わさぬ迫力があった。

 笑うという行為は本来攻撃的なものであり、獣が牙をむく行為が原点である。

 

「あっ、ハイ、すいませんでした」

「分かればよろしい。ま、でも、間に合わなかったら承知しないって約束だったし、今回だけは勘弁したげるわ」

 

 深々と頭を下げる雁夜に、バーサーカーは寂しそうな笑顔を返す。

 

「無茶はもうやめてよね。一人で戦ってるワケじゃないんだから」

 

 バーサーカーは小さく呟く。

 

「私も、もう躊躇わないわ」

 

 その言葉が雁夜の耳に届く事は無かったが、彼は彼女の表情に気付くと膝を打って笑った。

 

「ああ、そうだな。俺の認識が甘かった。敵は怪物。一人じゃあ勝てそうにない。こちらからもよろしく頼む、バーサーカー」

 

 真っ直ぐに見詰めて微笑む雁夜に対し、バーサーカーは気恥ずかしそうに視線を逸らす。

 

「さて、それじゃあ、俺は綺礼って人に会ってくるよ。礼を言わないといけないし、少し話したい事もある」

 

 起き上がろうとすると視界が霞むのを雁夜は感じた。

 神便鬼毒酒の代償。頭蓋の内から魔蟲の狂騒が聞こえる。

 

“蟲蔵に入ったあの時と同じだ。

 俺は強くなれる。”

 

 魔術師としての一歩を踏み出した時と同じ覚悟と、それを乗り越えた自負から来る確信を胸に、間桐雁夜は再び立ち上がる。

 

 その背中から、彼の傷を癒していた蛭血蟲の死骸が落ちた。先の戦いからずっと宿主に魔力と血を送り込み続け、その身体を癒していた魔蟲は干乾びて小さくなってしまっている。

 彼はそれに気付かなかった。

 

 後日、部屋を片付けていた遠坂葵がそれを見て悲鳴を上げる事になるが、それはまた別の話である。

 


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