ソードアート・オンライン アリシゼーション Imagenary Fabricte ~光を照らす執行者〜 作:熊0803
ついに、この時がやってきました。
「Selfrontier」を聴くことをお勧めします。
楽しんだいただけると嬉しいです!
「おや。どうかしたのかな、後輩君?」
ハッと、目を覚ます。
すると、見覚えのある光景が視界一杯に飛び込んできた。
大理石を削り出した彫刻入りの白い壁。埃一つなく磨き抜かれた床。
様々な分野の書物や、四帝国中の茶葉と茶器が収められた棚に、革張りのソファ。
そして、一級の職人が手掛けたと分かる長机の向こう側に。
「何か悩み事かね?」
三人程度なら余裕で座れるソファの中央を占拠して、優雅に足を組んだその女性。
顔は輪郭がぼやけてよく見えない。けれど自分は、この人をよく知っている。
彼女の問いかけに、ふと顔を俯かせて考えた。
(俺は……何を、していたんだっけ)
ずっと、夢の中を揺蕩っているようだった。
眠るように堕ちていく前の最後の記憶は、自分の胸に剣を突き立てた冷たさと痛み。
それから長い間、どこでもない場所にいて……ふと気がつくと、目の前にあった光景は。
「……っ、そうだ。母さんを助けないと!」
子供を庇い、今にもゴブリンに斬り殺されそうな母の姿をようやく思い出す。
思わず興奮した気分は、微かな笑い声によって急速に冷めていった。
「まあ、一度落ち着きなさい。何事も冷静に、順序よく。そう教えただろう?」
「…………そう、でしたっけ」
「そうさ。君は教えれば教えるだけ吸収して成長する、よい後輩だった」
どうしてだろうか。名前も覚えていないのに、その人の言葉には不思議な説得力がある。
徐々に心が落ち着いていくと、それを悟ってか「よろしい」と彼女は両手の指を合わせる。
「では一つずつ、問題を紐解いてゆこう。なに、ほんの少しの時間だ。些細なことだよ、我が後輩君」
「……はい」
いい子だね、と女性は呟いた。
「最初の質問だ。君はどうして、ずっと一人で泣いていたのかな?」
「……俺が、泣いて…………?」
はてと、疑問を顔に浮かべる。
涙を流したことなど、母に秘めた願いを打ち明けたあの時以来、一度もない。
開始から要領を得ることができないでいると、彼女はかぶりを振った。
「そうじゃない。私が言っているのは、ここの話だよ」
気品ある仕草で動かした片手を添えたのは、紺色の制服に包まれた胸元。
陶器のように白い手を見つめ続け、そのうち、心や魂のことを言っているのだと気がつく。
真似をして自分の胸に手を置き、もう一度その質問に対する答えを探してみる。
「…………あぁ。それなら、何度もありました」
今度は、溢れんばかりに思い当たることがあった。
大切な後輩を危険に晒してしまった時。彼女の苦悩に気が付かず、悲しませてしまった時。
初めて人を斬り、そのことを実感した時。白亜の塔で、この世界の残酷な真実を知った時。
他にも、数え切れないくらいあるけれど。
「……でも。一番、辛かったのは」
「辛かった事は?」
「あいつらを……悲しませてしまった時、ですかね」
己を見失った弟と、それを止める為に立ち向かった弟。
この身を呈することでしか彼らを止められず、もう一人の少女共々、涙を流させてしまった。
薄れゆく意識の中で聞いた、弟の一人の怒号が今でも耳の奥で残響を続けている気がする。
「成程。よく分かった。言葉にして言えたことに、心から賞賛を送ろう」
「こんなことで……?」
「自分の失態と向き合うというのは、誰にでもできることじゃない。普通のことだが、十分に誇るべきことさ」
世界が悪戯をしたように、そこだけがぼやけている顔が微笑んだような気がした。
徐々に組み合わさってきた記憶の断片を回想していると、彼女が指を鳴らす。
沈みかけた意識を引き上げれば、ほっそりとした人差し指と中指が二を示していた。
「次の質問だ。君はそうやって俯いて、何故諦めているんだい?」
「それは…………もう、傷つけたくないから」
今度はすんなりと答えが出てきた。
そう。不釣り合いな程の傲慢な願いを成し遂げようとして、結果的に多くの人を傷つけた。
本当の弟や妹のように愛した彼らに、自分は一度だって喜びを与えられただろうか。
わからない。誰の心を救うこともなく、爪痕ばかりを残してしまった。
そんなことしか出来ないのであれば、いっそ永久に願いを持たぬ生きた屍でいようと、そう思った。
これから先、自分のせいで痛みを知る人が、もう生まれないように。
「それに俺は、肝心な時に何もしてやれなくて……あいつらに慕われる資格なんてないんです」
「ふむ。それは少し、性急な判断と言わざるを得ないね」
「……何故?」
自分が至らなかったことは事実ではないかと、そんな思いを含めて聞き返す。
そうだね、と少し考えてから、女性はゆっくりと言い聞かせるように語った。
「君は先程から、事あるごとの一場面だけを切り取って、それで自分の全てを理解したようでいる。だがそれはあまりに狭窄した視点だろう」
「一場面だけを……?」
「そうさ。君の人生は物語か何かのように、目立つ部分だけが断続的に繋がったものなのかい? ……いいや。決してそうではないはずだ」
そうだろう? と確かめる彼女に、その言葉の意味を咀嚼する。
確かに、それは正論だった。
自分は紙の上で、活躍する場面だけを照らし出される物語の登場人物ではない。
この世界に生まれ、多くのことに悩みながらも生きてきた、一人の人間なのだ。
よって自分という存在は、これまでの二十年近い生き様の総括であるはず。
「思い出してごらん。君のこれまでの人生、隣にいた人達はずっと辛そうにしていたかい? 君は常に、彼や彼女を苦しめていたのかな?」
思考を覗き込むように、更なる言葉が与えられる。
頭の中に、大切な人達の顔を思い浮かべてみた。
自分を兄のようだと慕ってくれた、二人の弟分や、妹のような姉妹。
いつだって味方でいてくれた母。側にいたいと言ってくれた後輩。
相棒であり、後輩だと言ってくれた緋髪の騎士、己が信念を受け止めてくれた無双の騎士……
「……みんな。俺に、笑いかけてくれました」
「その通り。決して傷付けただけなんてことはない。そもそも人と人が交わる中で、一度だって辛い思いをさせないなんてことは、絶対にあり得ないのさ」
だから自分ばかりを責め続けるのはやめなさい。
彼女の言葉には、そういう意味が込められている気がした。
●◯●
「そう怯えるものじゃないよ、後輩君。彼らが傷ついたのだとしたら、それは君が愛されていた証明にしかならない」
心を痛めたというのなら、それは同じだけの愛情がなくては成り立たないことだ。
自分は知っている。
妹分を連れ去られ、最初に弟達を傷付けてしまった時、身を引き裂かれるような悲しみが襲った。
彼らが白亜の塔で戦う運命になってしまった時だって、深く嘆いたのはそれだけ愛していたから。
(……今まで俺は。それと同じものが、自分に向けられているかもしれないということに気付いていなかったんだな)
あるいは、あえて目を逸らすことでその想いから逃げていたのかもしれない。
「傷付けていい、とは言わないよ。だけど、そうでなくては成し得なかったこともある。傷ついた分だけ、救えたものがある。物事はいつも表裏一体だ」
「……だから、傷つけることから、愛することから目を逸らしてはいけない。そういうことですか?」
「正解だ。君ならば自ずと答えに辿り着くと信じていたよ」
期待通りと言わんばかりのその言葉に、少しだけ照れ臭くなった。
だが、すぐに浮き立つ気持ちは消える。
彼女が示してくれたのは、とても辛く、険しい道のりだ。
それはいい。自分がしてきた選択の対価なら、今までもこれからも耐えられるだろう。
問題は、物事の見方が変わっただけで、根本的な解決には至っていないということだ。
「……俺、いつも無力で。助けたい時に、一歩及ばなくて。結局、最後まで大事な人達を守りきれなかったんです」
「それについては紐解いていくまでもなく、単純明快だね。君は完全無欠の英雄になりなかったのかい?」
間断なく告げられた言葉に、一瞬きょとんとしてしまった。
だが、その言わんとするところの隅々まで理解はしていて……すぐに、苦笑した。
「違います。俺は完璧な自分を追い求めていたわけじゃなくて……そう、ただ、本当に。あいつらを、守りたかっただけなんです」
「これも正解だ。理由と結果が逆転してはならない。君が力を求めたのは、それ自体が目的ではなく、願いを叶えるに足るものを欲したから」
強い自分を得たいからではない。為すべきことを為すために夢を追いかけていたはずなのに。
積み重なった後悔の中で、いつしかその純粋な想いは埋もれ、見えなくなってしまっていた。
「至らなかったのなら、やり直しなさい。間違えたのなら、問い直しなさい。君がこうだと思える答えに辿り着けるまで、何度でもそうすればいい」
「駄目ですね、俺。何にも気づいてなかった」
「今ここで気付いたじゃないか。後悔するのは少し早いよ」
「……あるいは遅すぎたのかも」
ふと、少しだけ影のある笑みを浮かべる。
「それを知るには、走り過ぎました。もう俺は…………飛ぶことが、できない」
「……………………ふむ」
しばらくの間を置いて、彼女は重々しく相槌を打った。
さしものこの人と言えど、こればかりは覆してはくれないだろう。
「では。君に最後の質問を与えよう」
そんな自分の予想を、ことごとく上回るように。
「君は、気付いているかな。もう準備は済んでいることを」
「──────────え?」
ざぁっ、と。
どこからか、強い風が吹いた。
顔を上げた時、そこはもう見慣れた上級修剣士寮の一室ではなかった。
光に満たされ、向こう側が見えなかった窓は消え、地平線の先まで広がる蒼穹がある。
唖然としていると、そよぐ風に何かが足をくすぐる。
反射的に見下ろせば、何も覆う物がない体と、足を撫でる柔らかな草が目に入った。
「ここ、は…………」
強い困惑を抱えながら、もう一度前へ視線を投じる。
どこまでも果てなく生い茂る、若草の草原がルークを包み込んでいた。
今この瞬間からではない。もっと長い間……ずっと。
「綺麗な場所だね。これが君の心象か」
「っ…………ルル、先輩」
隣で囁くように言ったその人に、振り返る。
彼女もこちらを見て、ようやくはっきりと見えたその顔に優しい笑みを浮かべた。
「やっと、私の顔を見てくれたね」
「…………俺、今まで先輩のこと忘れて」
「いいさ、気にしなくて。それよりもほら、見てごらん」
そう言って彼女が目線を投じたのは、自分のすぐ後ろ。
つられて顔を後ろに向け──驚嘆する。
翼だ。巨大な翼が、自分の背中から生えている。
ひと目見ただけで数十メル以上あることが分かるそれは、霜のような燐光を放っている。
何故、こんな物が──そう思った瞬間、やはり彼女の言葉が耳に届いた。
「それが準備だよ。君の大きすぎる願いに飛び立つのに相応しい、君だけの翼」
「俺の、翼…………」
復唱すると、彼女は若草を踏みしめながらルークの数歩前へと行く。
腰の後ろで指を絡め合い、その背中だけを見せつけるようにしながら、言葉を紡いだ。
「君は、あらゆる後悔と挫折、絶望を味わった。何度も己に失望し、無力を憎み、それでもと手を伸ばし続けた」
「…………俺は、ずっと」
自分の手を見下ろして、彼女の言葉を噛み締める。
「この私が断言しよう──君のこれまでの苦悩は、無駄などではなかった。全てはこの瞬間、君がまた飛ぶための糧だったのさ」
糧。その言葉が、不思議なほど強く胸の中に染み込んだ。
今一度、翼の感覚を確かめる。
自分の中にある、あらゆる昏いものを吸い取り成長し続けた、大きすぎるそれ。
これならばどんな願いを抱いたって、あの空を飛ぶように容易く叶えられるだろう──そう確信できる。
「望むままに飛びなさい。後悔も、悲しみも乗り越えて。その先にある、君の夢へと」
「……ルル先輩、貴女は」
彼女の背を、じっと見る。
苦難に直面した時、いつだって自分のことを導いてくれた、儚くも力強い存在。
今目の前にいる彼女は──ずっと自分の中にあった、答えの象徴だったのかもしれない。
「ふふ。どうだろうね?」
「…………ありがとう、ございます。気付かせてくれて」
ああ。本当に、この人には教えられてばかりだ。
いつかこの大恩を返せる機会は来るのかと、そう思ってしまう。
「さあ、もう行きなさい。君の大切な人達が戦っている。いつまでも寝ぼけていては、本当に取りこぼしてしまうよ」
最後に厳しくも優しい言葉を残し、彼女は草原の彼方へと歩み出した。
もう役目は終わったということなのだろう。
立ち去る彼女に、ルークは何かを言いたい衝動に駆られる。
何かないのかと、そう自分の中に戻り、満ち満ちた記憶を懐古して──
「──ライオットに、会いました」
その言葉に、ふと彼女が歩みを止めた。
振り返りはしない。けれど確かに、この声は届いている。
それを確信したルークは、必死に何かを伝えようと言葉を紡いだ。
「あいつは、騎士になっていて。人界の為に、今も戦い続けてるんです」
「………………」
「俺も、すごく助けられて。いろんなことを教わって、導いてくれて……だから、その、えっと」
「……ふふっ。そっか」
不意に彼女が笑い、ルークは下手に繋いでいた言葉を止めてしまった。
ふふ、ふふ、と。心底楽しそうに、嬉しそうに聞こえる声音で笑った彼女は。
そのうち笑い声を収めると、少しだけ顔を上げ、空を見た。
「ねえ、ルーク君!」
そして、振り向いたルルディの顔には。
心底嬉しそうで。
まるで、大好きなものを名一杯自慢する子供みたいに、無邪気な笑顔があって。
「私の
──その笑顔を、ルークは生涯忘れることはないだろう。
●◯●
──目を見開く。
ユメは終わり、絶望の現実が目の前に戻ってきた。
不思議と、恐怖は微塵もない。
──やるべき事は、見出したな
(──ああ。もう、迷わない)
──ならば、叫べ
その言葉に、小さく頷いて。
成り損ないは──否、損なった全てを取り戻した男は。
そこにあると確かめるまでもなく信じていた、光と共に現れた剣の柄を掴み。
もう一方の手を鞘に添えて、最愛の母の元へとひた走る。
(もしこの世界に、運命なんてものがあるのなら。俺は、その全てを斬り捨てて前に進む)
──勇気を吠えよ。
(俺が何かを望むことが間違いだというのなら、貫き通して全てを守ってみせよう)
──勇気を掲げよ。
(だから、俺は────もう何も、恐れない)
勇気を以って、誇りを叫べ!
「『────《リリース・リコレクション》』」
願いを叶えるその言葉を、静かに紡いで。
ルークは、一条の光を解き放った。
直後、血飛沫が宙を舞う。
それを見た誰もが、絶望に顔を染めて。
だが、最悪の未来がやってくることだけはなかった。
「……………………?」
死を覚悟していたセフィアは、いつまでも痛みがやってこないことに疑問を覚える。
そして、強く子供を抱きしめていた腕を恐る恐る解くと、自分達を襲ったゴブリンに振り返り。
「──────あ」
宙を舞う呆けた醜悪な顔に、まるで緊張感のない声を漏らした。
彼女の血の代わりに、己の首から鮮血を噴水のように撒き散らしたゴブリンの体がよろめく。
数歩後ずさり、それから途端に、何かの糸が切れたようにその場で倒れて。
二度と起き上がる事はなかった。
「──大丈夫か、母さん」
入れ替わるように、純白の剣を振り切ったその背中は。
とても力強く、安心できる……他の何より愛した、一人の少年のものだった。
「あ」
声が、震える。
「あ、あぁ、あぁあぁ」
心が、魂が打ち震え、ありとあらゆる感情が大きな波となって押し寄せた。
容易く理性の壁が崩壊し、無数の雫となって双眸から溢れ出す。
「あぁっ、あぁああっ、あぁああああ…………っ!」
涙を止めることができない。
意味のない言葉を発して、ただ、ただ、そこにある奇跡を確かめるように。
幻だと思ってしまわないように、ひたすらに感情を嗚咽として吐き出し続けた。
「────────。」
それを見て、一筋の温かい涙が、アリスの左の頬を伝い落ちていく。
瞬く間に胸を満たし、突き破ってしまった感情の奔流を表す言葉が見つからなくて。
ただ、彼の背中を。
一対の翼のように分かたれた純白のマントを一心に見つめながら、涙することしかできなかった。
誰もがそうだ。
口元を押さえ、涙を滲ませたセルカも。
この世で最も驚くべきものを見たように固まったガフストも、ナイグルも、村人達も。
空に舞い上がったボロ布のような赤い外套の内側から現れた、白の騎士に目を奪われて。
「アリス! いい加減に避難を始めないと、間に合わ────」
霧舞に橋の確保を任せ、必死の形相で広場に駆け込んできた、イーディスでさえ。
「──ああ、嘘」
いっそ絢爛なほどに燃え盛る炎の中で浮き彫りになった、彼の後ろ姿に。
(──なんて、綺麗)
呆気ないほどに、心の全てを奪われたのだ。
彼は、ゆっくりと剣を下ろしていく。
獲物を狩るための蛮刀ではない。見事な装飾と無類の強靭さを備えた、美しい神器だ。
再び携えた《白竜の剣》を鞘に収めると、未だに涙する母へ振り返り。
「──ただいま、母さん」
「ルー……っ……くぅん…………!」
ずっと名前を呼んでくれた彼女へ、優しげに微笑んだ。
ルーク。その名前を聞き、ようやくそれが誰なのかを本当に理解した人々は息を飲む。
彼らの記憶の中の少年と、今目の前にいる騎士はとても似ても似つかない。
まるでその身に秘めた竜の力を象ったような白鎧は、水晶色に縁を塗られ、肌は鱗帷子に包まれている。
頭に戴いた頭冠は、それを構成する一つ一つが小さな角のように連なっており、威厳を醸し出していた。
「ごめん、一杯迷惑かけて。不安にさせたよな」
「ルー、くんっ……かっ、母さんは……ねっ……ただっ、ただぁ………………!」
「全部聞こえてた。ずっと寄り添ってくれて、ありがとう」
心を安らがせるような力を持つその言葉に、いよいよ感極まったセフィアは何も言えなくなった。
そんな彼女と、腕の中で呆然と自分を見ている幼子を両腕で抱き上げると、広場の中に戻っていく。
村人の誰もが、自然と道を開いた。
北門からゴブリンと応戦し、命からがら帰ってきた衛士隊も、農具を構えていた男達も。
子供や老人、隔てなくその騎士に敬意を表すように身を引いて、生まれた場所にルークは二人を下ろす。
「坊や!」
「ママぁ!」
自分を呼ぶ声に、幼子は喜色を顔に浮かべてそちらへ飛び出していった。
両手で抱きしめた母親は、滂沱の涙を流しながら何度も幼子に謝る。
実在を確かめるように繰り返し背中や後頭部を撫でられ、幼子が嬉しそうに微笑んだ。
「よかった。今度は、間に合った」
「ルー君っ……!」
「おっと」
抱きついてきたセフィアを受け止めて、泣きじゃくる彼女の背中をそっと撫でる。
その温もりを今一度感じながら、すぐ近くにいたアリスへと視線を投じた。
「久しぶり、アリス。キリトのことを一人で背負わせてすまなかったな」
「っ……もっと他に謝るべきことがあるでしょう、この馬鹿者っ……!」
「そうだな……心配かけて、ごめん」
「本当ですっ……ルーク兄さんの、馬鹿っ…………」
全身を小刻みに震わせながら、アリスもまたルークの胸元に額を埋めた。
懐かしい呼び方に淡く微笑みながら、金糸の髪を傷つけないようにそっと撫でつける。
しばらく二人の女性を胸の内に抱えていた彼は、不意に表情を真剣なものに変えて来た道に振り向いた。
「……奴らが来る」
「え?」
「……っ!」
顔を上げ、セフィアは疑問の声を上げるが、アリスは鋭く息を呑んで同じ方向を見た。
いつの間にか、目に見える場所にまでゴブリンやオーク達が進軍していた。
炎などものともしない彼らは、口々に醜悪な鳴き声を上げ、殺戮と狂乱を叫ぶ。
「行ってくる。アリスは皆の避難を」
「っ、ルーク兄さん!」
「ルー君!」
「平気さ。今度はちゃんと帰ってくるから」
思わずといった様子で叫んだ二人に笑いかけ、離れたルークは闇の軍勢へと踏み出した。
●◯●
もはや、その歩みを止められるものはなく。
あっという間に広場から村道へ出ていってしまった彼は、炎の前で立ち止まる。
腰から取り外した《白竜の剣》の柄を両手で握り、鞘の先端を地面に打ち付けた。
「聞け! 闇の国より来たりし残虐の徒よ!」
キィン、と《果ての山脈》にまで届きうるほどの清涼な音が奏でられ、怪物達が足を止める。
「我が名はルーク! この人界を守護せし聖なる四竜、その一柱の心意を受け継ぐ者! 高潔なる竜騎士である!」
その口上に、ダークテリトリーの侵略者だけでなく、アリス達も驚いた。
古くから語り継がれて来た、守護竜の伝説。
その体現者であり、続きを紡ぐものが今、現れたのだから。
「我が剣は断罪の刃! 貴様らの血と狂気に染まった魂を滅し、永劫の闇へと屠る執行の力! 来世を迎えたくば、早々に闇の国へ戻るがいい!」
それは、最後通告であり、同時に宣告でもある。
あと一歩でもこちらへと踏み込めば、完膚なきまでにその身と魂を両断すると。
「ルーク……! あんなに、立派になって……!」
堂々としたその背中に、セフィアが膝をついて感涙の涙を流した。
この世で竜の魂を受け継いだと大法螺を吹ける人間など、どこにもいはしない。
故に、厳然なまでの事実が心を強く震わせた。
(…………ルーク兄さん。貴方は、本当に戻ってきたのですね)
それを実感しているのは、母だけではない。
もはやそう呼ぶことに何の躊躇もなく、魂が兄だと慕うアリスもまた、ルークに見惚れる。
すると、不思議なことに体の中で沸き起こるものがあった。
(私は、何度同じ過ちを繰り返す? また彼だけに何もかもを背負わせて、後悔ばかりを残すというの?)
ずっと失われていた、静かなれど猛々しい、青白い炎のような力。
あの日、最高司祭の居室で失われてしまったとばかり思っていた意志が、蘇る。
(──そんな馬鹿げたこと、決して許されはしない!)
もはや、心を雁字搦めにしていたものは完全に吹き飛んだ。
大きく息を吸うと、今だに呆けているナイグルとガフストに振り返る。
「──衛士長ジンクの命令は破棄します。この広場に集う全員、南の開墾地に避難するよう。これは命令です」
その声は大きくはなく。だが、見えない何かに打たれたように男は体を震わせる。
恐ろしいまでに強固な意志を宿した目に見つめられて、なお言い返したのはいっそ豪胆だったろう。
「な、何の権利があって命令など! 逃亡者の分際で!」
「騎士の権限です」
「騎士じゃと!? そんな天職この村にはない! ちょっと剣を使えるからといって騎士を名乗るなど、央都の騎士様に知られたらどうなるか──」
もはや、最後まで聞く価値はその言葉に存在しなかった。
アリスは、ぐっと外套の裾を掴むと、一息に腕を振り抜いて脱ぎ捨てる。
白い布が宙を舞う。
分厚い隠れ蓑の内側から現れたのは、眩いばかりの黄金の鎧。
炎に反射してより強く煌めく輝きを纏い、彼女は兄がそうしたように《金木犀の剣》を地面に突き立てた。
「私はアリス! セントリア市域統括、公理教会整合騎士第三位、アリス・シンセシス・サーティ!!」
声高に、己の名を名乗る。
「なぁっ……!? せ、せせせ整合騎士……!?」
仰天したナイグルが、どすんとその場で尻餅をついた。
ガフストやセルカ、セフィアも、ルークと同じかそれ以上の驚愕の目で彼女を見る。
竜の魂がそうであるように、整合騎士の権威を否定することができる人間もまた存在しない。
唯一、キリトとユージオ、竜魂の騎士達を除いて──つまり、誰も彼女の言葉を偽りとは疑わなかった。
「姉、さま……」
「今まで黙っててごめんなさいね、セルカ。これが私の本当の罰……そして、本当の責務なの」
少し寂しげに言う彼女に、セルカは大きく頭を左右に振った。
「私、信じてた……姉様は、罪人なんかじゃないって……すごく、すごく……綺麗…………」
感激に震える彼女に、アリスは微笑む。
次に動いたのは、村長ガフストであった。
「御命令、しかと聞き届けた、整合騎士殿!」
その場でアリスに跪いた彼は、はっきりとした口調で言葉を述べる。
それから素早く立ち上がると、よく通る声で広場に集まった人々に命令を下した。
「全員、退避! 武器を持つ者を先頭に、南の森まで逃げろ! 急げ!」
ざわめいた村人達は、しかしすぐに混乱を収めると、その場から逃げる準備を始めた。
アリスはそれらを眺めていると、南側の村道でぼんやりと立ち尽くしているイーディスを見つける。
「イーディス殿、良い所に! 彼らの誘導を!」
「──っ!? えっ、あっ、えと、う、うんっ!」
何処からか舞い戻った彼女は、ひどく慌てた様子で肯定した。
大声で自分の方へ来るように呼びかけ、同じく鎧を纏った彼女に村人達は希望を抱いた顔で移動を始める。
やってきた彼らを引き連れ、南の門に走り出す彼女の顔は──これ以上ないほど真っ赤に染まっていた。
(違う違う違うっ! 絶対に、ぜっっったいに! そんなんじゃないんだからっ!)
誰に知られることもない内心を爆発させながらも、彼女は自分の勤めを果たすのだった。
次々と後続も出発を始め、不安を取り除けたアリスはホッとする。
それでも油断はしないように気を引き締めながら……父の方を見た。
「……父様。セルカを、母様を。皆を、頼みます」
彼もまた、少しだけ表情を緩めて。しかしすぐに厳格な表情へと戻った。
「……騎士殿も、どうかお体に気をつけて」
娘と呼んでもらえないことに、一抹の寂寥を覚えながら。
腰を抜かしたままのナイグルを引きずっていく彼を見届けて、身を翻した。
確かな足取りで無人となった広場を通り過ぎると、道に入り、ルークのすぐ隣に並ぶ。
「アリス。皆は?」
「避難を開始しました。もう心配ありません」
「そうか……こっちは駄目そうだ」
彼の言葉に、前方へと視線を投じる。
次々と集まってきたゴブリンやオーク達が大挙をなし、今にも決壊しそうな様子だ。
殺すや食うなど、貧困な語彙を振り翳して喚く彼らに氷点下の視線を浴びせる。
「最初から結果は見えていました。もはや慈悲はいらぬでしょう」
「そうだな──奴らに断罪の一太刀をくれてやろう」
アリスに答えたルークは、静かに《白竜の剣》を地面から引き抜いた。