実りの季節を待ちながら 実りの季節シリーズ2   作:きゃら める

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第一章 ~夏の終わり~

第一章 ~夏の終わり~

 

 

         * 0 *

 

 夏が、まもなく終わろうとしていた。

 エアコンが効いたこの部屋ではわからないが、街を歩けば、空気に秋が混じり始めているのが感じられる。

 時計を見てみると、五時と少し。真夏の頃はまぶしいほど照りつけていた陽の光も、今は壁一面に大きく取られた窓からカーテン越しに、部屋を薄明るくする程度だった。

 今まで眠っていたのか、夜の間ずっと起きていたのか、覚えていない。夢を見ていたような気もするし、明るくなっていく窓の外を眺めていたような気もする。

 まだ頭の中が覚めきらない。まるで霧がかかってるように思考がはっきりしない。オレがどこにいて、何をしているのかも思い出せない。

 自分の部屋ではない広い一室で、染み一つない清潔シーツの掛かるダブルベッドに寝ているのくらいはわかった。それ以上のことを思い出そうと、起きつつある頭を働かせる。

「そうか。オレは昨日……」

 思い出した瞬間、頭がはっきりした。

 オレは昨日ホテルに泊まった。だがこのホテルは家からそう遠い場所にあるわけじゃない。チェックインしたのも終電前だし、帰ろうと思えばいつものあの笑顔で迎えてくれるマルチのもとに帰れないわけじゃなかった。

 少し前に誕生日が来て、オレは二七歳になっていた。マルチが帰ってきたのは大学一年のときだったから、あいつとの生活は八年以上になる。

 別にその生活に不満があるわけじゃない。いやむしろ、家事も料理もしっかりこなせるようになったあいつと一緒の毎日は、オレにとって幸せという以外なかった。

 でもオレはマルチのもとに帰らなかった。それに今も、もうそろそろ彼女が朝の仕事をつくり始める時間なのに、ただ両手を頭の下で組んで真っ白な天井を見上げているだけだ。

「何やってるんだろうな、オレは」

 つぶやいて、溜め息を漏す。

 頭の中にはマルチの姿が浮かんでいた。八年の生活の中でまったくかわらないあいつの笑顔が、オレにはまぶしく輝いて見える。

 自分が情けなかった。

 マルチは毎日頑張ってる。人が喜ぶことをしようと、文句なんて一言も口にせずに、逆に笑みを浮かべながら頑張ってる。ときには自分のことじゃないのに泣いて、それでも自分じゃない誰かのために何かをしている。

 それに対してオレがしていることと言えば――。

 安らかな寝息が、すぐ隣で聞こえてきていた。その人物を起こさないようにしながら身体を起こし、そっちの方に目を向ける。

 眠っているのは、あかり。

 無防備に思えるほどあどけない寝顔を見せているが、高校の頃から比べれば締まりが感じられるようになった顔と、学生時代より長くしている髪から、もうこいつも子供じゃないのがよくわかる。そればかりでなく、毛布の下で見えていないそのスラリとした身体が、もう充分に大人の女性のものであることをオレは知っていた。

 こみ上げてくる思いに堪えられず、ナイトテーブルに手を伸ばした。置いておいた煙草の箱から一本取り出し、火を点ける。大きく煙を吸い込んで、それを細く吐き出した。

 いつの間にか煙草を吸うようになってるオレ。

 こんな夜を過ごすようになってしまったオレ。

 自分が情けなくて、情けなさ過ぎて、煙草なんかじゃ気が紛れることなんてない。

「マルチ。オレはどうしたらいいんだ……」

 まぶし過ぎるほどの頭の中のマルチをかき消そうと、もう一口煙草を唇に寄せて大きく息を吸い込んだ。だが胸に溜まった思いに邪魔されてせき込むように吐き出してしまう。

 煙がしみたのか、オレの目から一粒、涙がこぼれ落ちていった。

 

          * 1 *

 

「ご主人様。そろそろ時間ですけど、準備はできましたか?」

「おぅ、マルチ。ちょい待ってくれ。もうすぐできる」

 部屋に入ってきたマルチに一声かけて、オレはロッカーダンスの戸についてる鏡でネクタイの調子を見た。

 ――よし、曲がってねぇな。

「どうだ?」

 振り返ってちょうど部屋の扉を閉めていたマルチの方に向き直る。

「とっても似合ってますよぉ。やっぱりご主人様はかっこいいですー」

「そうか?」

 おだての――いや、マルチの場合は本心からだろう――言葉に乗って、オレはわざとらしく胸を反らした。

 昨日マルチにアイロンを当ててもらった正装用の黒いスーツには皺一つない。出勤用のほどじゃないが、そろそろ着慣れてきたこのスーツ姿をオレ自身けっこう決まってると思っていた。

「マルチこそ、その服、似合ってるぜ」

「あ、あの……。ありがとうございますぅ――」

 薄ピンク色のシャツに下がスカートになってるオーバーオールシャツを着ているマルチ。ウインクしながらオレが言うと、彼女は耳まで赤くしながら自分の頬に両手を添えた。

 ――しっかし、マルチはかわんねぇよな。

 マルチの格好は、確かにメイドロボだから成長するわけきゃないが、服の方も一緒に暮らすようになった八年前とたいしてかわってない。それどころか服の趣味に関しては、高校に通っていた割には中学生くらいに思えた。

 ――もう八年か……。

 あらためてマルチと過ごしてきた時間を意識する。

 その長い間に、マルチはほとんどかわってない。掃除好きなのはもちろんだし、人に喜んでもらおうと頑張っていることもだ。いや、大きくかわった点が一つだけある。

 マルチがオレのもとに帰ってきてから二年くらい経ったときだろうか。たぶん学習機能のためだろう、それまで苦手だった掃除以外の家事の腕がメキメキと上がり、今では家のことは満足にこなせるようになっていた。

 ――本当に、それだけだったらいいんだけどな。

 ふとそんなことを思ってしまったオレは、マルチの頭をポンポン軽く叩いた後、準備に戻った。

「……でも、すごいですよね。あの方が結婚なされるなんて」

 持っていくバックの中身を確認しているとき、マルチがポツリとつぶやいた。

「んぁ? 早いってのか? そんなことねぇだろ。オレもあいつも二七だぜ? 結婚するには早いってことはねぇよ」

「そう、ですか――」

 何を思ってマルチがそんなことを言い始めたのかまではわからない。だが明らかに元気がなさそうな様子に、オレはその頭を優しく撫でてやった。

「ご主人様ぁ……」

 情けない声を出して再び耳まで赤くなるマルチ。

 今日、オレがわざわざ正装なんてしてるのは結婚式に呼ばれたためだった。さすがに二十七歳ともなると、同級生やら職場の同期の奴やらが婚約だ結婚だで忙しくなってくる。確かにいわゆる平均結婚年齢からしたら少し早めなのかも知れないが、本当に早い奴なんてオレが大学にいるときにはそういうことになってたわけだから、それに比べれば早すぎるということもない。

 しかし今回の結婚式で一番イヤなのは、友人代表としてみんなの前で祝いの言葉を述べなくちゃならないことだった。

 ――まったく、面倒なことを頼まれたもんだぜ。

 心の中で毒つきながらも、幸せなあいつのことを思うと笑みがこぼれてくるオレがいた。

「本当は、わたしも行けたら良かったんですけど……」

「そうだな。でも仕方ねぇさ。今日はマルチにとって大事な日なんだからな」

 結婚式の案内状にはオレの名前ばかりでなく、マルチの名前もあった。だが今日は半年に一度の定期点検の日。試作機のマルチは量産型とは少し違うとかなんとかで、長瀬主任が仕事の合間に直々にやってくれるその点検は、早々ずらすことができなかった。

 顔を上げて少し寂しそうな目を向けてくるマルチの頭に手を乗せた。

「まっ、今日はよ、マルチ」

 オレの呼びかけに不思議そうな瞳になる彼女。その瞳を覗き込みながら、屈んだオレは額と額をくっつけた。

「久しぶりにお父さんに会うんだろ? だったら思いっきり甘えて来いよ。定期点検以外じゃ滅多に会うこともないんだぜ?」

「えと、あの、それは……」

「だろ?」

「そうですね!」

 元気な笑みが戻ってきたマルチの髪をくしゃくしゃと撫でつける。

「結婚式の写真はしっかり撮ってきてやるから安心しな」

「ありがとうございますぅー。でも本当は、一度ウェディングドレスを着た女の方をすぐ側で見てみたかったんですけど……」

「大丈夫だ。結婚式なんてまたすぐにあるさ。お前の知り合いで結婚しそうな奴なんて、ちょっと考えただけでも片手じゃ足りないぜ。――そうなると、祝いの金が莫迦にならねぇかもしれねぇなぁ~」

「で、ですけど、結婚なされるということは、その方々は幸せなんですよね。わたし、幸せな方が笑っているのを見ているだけで、自分のことじゃないのに嬉しくなっちゃうんですよー」

「お前は人に喜んでもらうことをするのも、喜んでるのを見るのも好きだからな」

「はいっ! それから、それから……」

 大きな身振りを交えて楽しそうに話すマルチ。

 マルチとオレは、いつの間にか時間を忘れて話し込んでたみたいだ。

「浩之ちゃんっ!」

 そんなとき飛び込んできたのはあかり。

 急いで来たのか息を切らせながらオレの部屋に入ってきたあかりは、力加減を考えずに扉を開けたらしい。

 バンッ! と扉が壁に叩きつけられて大きな音を立てた。

「あかり、お前な……」

「も、もう行かないと時間に遅れ――って、あれ? マ、マルチちゃん?」

「え?」

 あかりの声にマルチの方に視線を戻してみると、彼女は今まさに倒れ込もうとしていた。

 ――ぎりぎりセーフ。

 どうにかマルチがフローリングの床に頭をぶつける前に抱きとめ、オレはあかりにジト目を向けた。

「まったく、おめぇのせいだぞ」

「ゴ、ゴメン。でももう時間だし……、外で待ってても浩之ちゃん、出てこないし……」

「わかってるよ、って、もうこんな時間だったのか。悪ぃ、待たせちまったな」

 すまなそうにしてるあかりに一言謝っていると、「ぶぅーーん」という音とともにマルチの再稼働がかかった。

「大丈夫か? マルチ」

「あの、わたしは……」

「こいつが悪いんだ」

 あかりのことを意地悪な目でちらりと見やる。

「ごめんなさいっ!」

 大げさに頭を下げるあかり。

「それよかマルチ。お前の方の準備はできてるのか?」

「あっ、はい。もうできてますぅー」

 どうやら意識がはっきりしたらしいマルチを立たせてやり、オレは机の上のバックを手に取った。

「玄関はオレが閉めるから、もう時間だろ? お前は先に出な」

「わかりました~」

 元気な声を残して部屋を出ていったマルチを微笑みで見送ったオレだったが、表情とは裏腹に心の中は暗かった。

 ――やっぱり、何もかも同じままってことは、ないんだよな……。

 マルチの姿が消えた扉の向こうを見ながら、オレはそんなことを考えていた。

「どうしたの? 浩之ちゃん。怖い顔して」

「ん? そうか? 別にたいしたこたねぇよ。さぁ行こうぜ。これ以上家にいたら遅刻しちまう」

「うんっ」

 暗い思いをかき消したオレはあかりと一緒に家を出た。

「それではご主人様、あかりさん。行ってきまぁ~す」

「気をつけて行って来いよーっ」

 後ろ手に手を振りつつ、時間を気にしてか小走りにバス停に向かうマルチ。玄関の鍵をかけたオレは小さくなっていくその背中をしばらく眺め、それから歩き始めた。

 まだ秋と言うには早すぎるこの時期の強い日差しを浴びつつ、あかりに歩調を合わせてゆっくりと歩く。

 左右に広がる街並みはいつもと何もかわりがない。道路に出た木々が日差しを受けながら緩い風に揺れているだけの、見慣れた風景。

 だが思い返してみれば、マルチと初めて出会った頃とはずいぶんかわっている街並み。

 その中に、マルチの姿が小さくなって消えていった。

「もうあいつに会ってから十年が経つんだな」

 そこだけはいつまでもかわらない抜けるような青い空に目を移し、つぶやいた。

「そうだね。もうそんなに経つんだね」

 オレの声に応えるあかりも空を見ていた。

 マルチに出会ってから十年。あいつは何もかわっていないように思える。しかし見えない場所で確実に時間が流れていることに、オレは気がついていた。

 

        * 2 *

 

 廊下の突き当たりにある「部長室」の札がかかっている扉をノックした。

「長瀬です。部長、今よろしいでしょうか?」

「おぅ。入ってきな」

 砕けきったその声に扉を開く。部屋の奥には、執務用ながらずいぶん豪華な机にピッシリしたスーツに身を包む一人の男がついていた。机と同じく造りのいい黒革張りの頭まで隠れるような椅子に座っている彼は、机の上に投げ出した両足を高く組んでいるという、部長らしからぬ格好で三流ゴシップ雑誌を読んでいた。

「そういう堅っ苦しい挨拶はすんなっていつも言ってるだろ? 長瀬」

「ですがあなたは私の上司ではありませんか? 音山部長」

「うっせぇよ、莫迦ヤロー。もとはと言えばてめぇがいるはずだった場所じゃねぇか。あぁー、くそっ。てめぇにそんな口調使われるくれぇだったらこんな役職なんて就かずに現場に残っときゃよかったぜ」

 自他共に認める「社内一問題ある社員」こと、音山は、そう言って雑誌から目を上げ唇の片端をつり上げて笑った。

「んで、何の用だ? これでもそれなりに忙しいんだぜ」

 そんな言葉でうそぶき、音山は雑誌を机の上に放り出して足を下ろして机の上に両手を組んだ。そんな彼のもとに寄って行き、私は脇に抱えてきたひと綴りの書類の束を渡した。

 その束の一番上に印刷されている「新型メイドロボ 企画概要」という文字を目にして、表情を曇らせながら小さく息を吐き出す音山。それでも彼は企画書を手にし、胸ポケットから取り出した眼鏡を掛けて内容を読み始めた。

 ページをめくる彼の目は、それまで軽い口調で話していたものとは明らかに違う。来栖川エレクトロニクスからメイドロボが独立してできた来栖川HMが、その業界で、それも世界の中で第一位の位置を占めている要因の一つが彼にあることは、業界内では知られている事実だ。

 そんな彼が企画書に目を通している間、私は手に汗を握りながら待っていた。

「長瀬、これはいったいなんだ?」

 読み終わった彼がおもむろに言った。

「どういう意味ですか?」

「こいつはどういうコンセプトのメイドロボかって訊いてるんだ」

「それは……」

 答えることができず、私は音山から向けられる鋭い視線を外した。

 ふんっと鼻を鳴らした彼は企画書をめくり内容を読み上げ始める。

「BCHMにアドバンスド・ヒューマニティシステム、こいつぁいい。ネットワーク機能とサテライトサポートシステムも企業向けならわかるな。しかし、だ。スメルセンサーにストマックエンジンだと? どーせお前のことだから、こいつにゃ味覚の方もつけてやるつもりなんだろ?」

「……はい」

「っざけんじゃねぇっ!」

 突然立ち上がった音山は力一杯企画書に向かって拳を叩きつけた。その反動で湯飲みが倒れ、わずかに残っていた中身が机の上を濡らすが、彼は気にしない。

「てめぇはこんなメイドロボつくるために現場に残ってるのか? 俺はこんなメイドロボをつくらせるためにてめぇに来た部長昇進の話を代わりに受けたってのか? 違ぇだろ、長瀬っ!」

 私の持ってきたメイドロボは、これまで来栖川エレクトロニクス、来栖川HMで培ってきた技術のすべてを投入して設計されていた。まさに来栖川HMの技術の粋を集めて設計されたメイドロボ。それが私の持ってきた企画案の内容だった。

「俺はな、メイドロボはもう限界だと思ってるよ」

 沈黙を続ける私に一つ息をつき、背を向けた彼は語り始める。

「俺とお前でつくったアヤノで、メイドロボはコンセプトの限界だと思ってるよ」

 彼は私をちらりと見た後、窓の外に目を向ける。

 窓の外に広がる来栖川HM研究所の中庭は、まだまだ強い日差しを受けながら、しかし緩い風に揺れる木や草にはもう夏ほどの輝きはない。

 そんな風景を眺めている音山は続けた。

「人がメイドロボに求めるもんはなんだ? 簡単なことだろう。安くて有能な労働力だ。メイドロボは確かに創造的な仕事には就けないが、雑務やらルーチンワークなら人間以上の正確さでこなせる。導入するには高いように思えるが、単価と維持費を稼働時間で割ってやれば人件費を大きく下回る。それに人間関係で問題も起こす事がねぇ奴らは、最高の労働力じゃねぇか。俺たちメーカーはユーザーのそんなニーズに応え、メイドロボの開発をしてきた。さらなる高性能化、多機能化、それから外見やらの付加価値なんかをつけることによって、競争してきたんだ。アヤノはそのすべてをクリアし、加えてヒューマニティシステムなんつぅユーザーに受けるような付加価値を持ってる。性能やら機能やらはこれからも上がってくだろう。だがメイドロボのコンセプトはアヤノで限界だ。完璧な性能とユーザーに受け入れられる付加価値。それで限界なんだ。それを越えちまったら、それはもうメイドロボじゃねぇ。お前の目指してるもんなんてそれの最もたるもんだ」

 言い終えて、溜め息を吐き出して席に着いた。おもむろにポケットからハンカチを取り出し、お茶で濡れた机の上を拭く。

「メイドロボには心なんてものはいらねぇ。必要ねぇ。そんなもんは邪魔になるだけだ。オレは十年前にそう言ったよな」

「はい」

「その考え方は変わってねぇよ。変える気もねぇ。だがな、あのときオレはそれと一緒に言ったな、『手伝うぜ』ってよ。それもやっぱりかわってねぇんだ。あの試作型のマルチみたいなメイドロボは売れるこたぁない。だがお前はそれがわかってても諦めないと言った。心から微笑むメイドロボを生み出すと宣言した。それがなんだ? このメイドロボは」

 ハンカチを適当にポケットの中に突っ込み、音山は左手で企画書をポンと叩く。

「これまでつくってきた奴に機能を追加しただけじゃねぇか。確かにこの設計は素晴らしいぜ。これだけの機能を搭載したメイドロボなんざ、お前以外にゃこの業界でできる奴は少ねぇだろう。こいつがこの見積もり通りの価格で発売されれば売れるはずだ。だがな、これがお前の求めてるメイドロボか? こんな中途半端なメイドロボがお前の求めるものなのか? 違うだろう?」

「……」

 私自身、そのことはわかっていた。私の持ってきた企画案のメイドロボはただのメイドロボでしかないことが。私が求めて止まぬマルチの妹たち――いや、今ならばもう『マルチの娘たち』と呼んだ方が良いだろう――では決してないことが。

 HMX―12マルチを完成させてから、十年の歳月が経過していた。心から微笑むメイドロボをつくると宣言してから、それだけの時間が流れていた。その間に様々なことが起こっていた。来栖川エレクトロニクス・メイドロボ部門の独立。発売から二年経ってなお最高のメイドロボと言われ続けるHM―32アヤノの発表。私が蹴り、音山が受けることとなった部長昇進。その他にも、様々なことが……。

 しかし私はマルチの娘たちをつくり出せずにいた。

 十年という時間は私と、そして音山にはあまりに長い時間だった。音山が掛けている眼鏡はただの眼鏡ではない。それには老眼の意味が含まれている。私たちはともに四十四歳となり、音山の髪には白いものが混じっている。私の方と言えば遺伝のためだろう、もう髪の半分以上が白く染まっていた。

 音山の言う言葉の意味が理解できている私は、ただ沈黙しているしかなかった。

「俺は、お前が俺にはできないメイドロボをつくってくれると信じて、お前が回してきた部長昇進を受けたんだ。お前ならこれまでの概念を打ち破るメイドロボをつくって世の中に広めてくれると期待して、俺はこの席に着いてるんだ。そんなことくらい、わかってんだろ?」

「――はい」

「だったらなんでこんなメイドロボを持ってくるっ!」

 もう一度容赦ない拳が企画書に叩き込まれた。

 今度は湯飲みが倒れたりはしなかったが、机が苦しげな軋みを上げた。

「お前に任してある開発課第一班は既存のメイドロボの発展型を開発してる二班とも、高性能タイプの奴をコストダウンして普及タイプにしてる第三班とも違う。オーダーメイドについちゃあ古参の揃ってる一班に任すしかねぇが、本来お前の班がやるべき仕事は、これまでの概念をぶち壊しちまうようなメイドロボの開発だ。そのことは再三言ってきたんだから忘れちゃいねぇだろう。……それともおめぇ、焦ってるのか?」

 人の心の底まで見透かすような視線が私の目を捉える。それから逃れてあらぬ方向に目を向けた。

「私が、ですか? そんなことはありませんよ」

「――そうか。それならいいんだが」

 深く溜め息をつき、音山は明らかに拳のものとわかる跡がついている企画書を無造作に抽斗の中に放り込んだ。

「こいつは二班の方に回しとく。おめぇは自分の仕事に専念しろ。何年かかっても構やしねぇ。上への報告は俺がなんとでもしといてやる。だからおめぇはおめぇのやるべきことをしてろ」

「わかりました」

 応えて私は部屋を出ようと踵を返す。

「俺はお前ならできると信じてる。期待しながら待ってるんだぜ。焦んじゃねぇよ」

「はい」

 唇の端をつり上げている音山の顔を見ながら、私は部長室の扉を閉めた。

 

            *

 

 少女は屈託のない笑みを浮かべていた。

 小さな口をいっぱいに開けて、本当は大きいはずの瞳が隠れてしまうほど目を細めて、彼女は笑っていた。

 よほどその日に届いた、彼女がこれから行くことになる高校の制服が嬉しかったのだろう。その笑みは見ているだけで、自分も釣られて笑みをこぼしてしまいそうなほど曇りがなかった。

 そのとき掃除中だった彼女は、右手にモップを持ち、この位置からではわからないが、背の半ばまで伸びた髪を先の方で結っていた。そして彼女の後ろには、わずかに微笑んだ男が立っている。

 少女の名前は長瀬みのり。背後の男は少女と血のつながりのない兄、長瀬源五郎。つまり二七年前の私だ。

 私がいま手にしているのは一枚の写真。それも残っている写真の中では唯一みのりが映っているものだった。

 私には写真を撮る趣味がなかった。両親と過ごすこともほとんどなく、何かの機会に写真を残しておくことなどほとんどなかった。

 しかしそのときは両親も私も彼女の入学式に行けないことを考え、一枚だけ撮っておいた。

 まさにその日、彼女は逝ってしまった。

 そのために私は写真を現像に出したこと、いや撮ったことすら忘れていた。

 先日家の掃除をしているときにたまたま出てきたその写真を、私は開発課第一班主任室として個室になった自分のオフィスで眺める時間が、近頃長くなっていた。

 スティールで固められた家具。薄っぺらな絨毯。ただ壁際に並んだ三台のコンピュータだけがこの部屋に似合わずかなり高級なものであったが、それも部屋の事務的な殺風景さにとけ込み、寂しさすら醸し出していた。

 そんな部屋の中で、私は誰の目も気にせずみのりの写真を眺め続けていた。

『行って来まーす』

 みのりの残した最後の言葉が耳に聞こえてくる。

 恥ずかしそうに制服を着た姿を見せに来た彼女。それを着ながら嬉しそうに掃除をする彼女。そして、彼女は耳に残るその言葉を残して買い物に出掛けた。

 あのときの私は信じていた。帰ってきた彼女に、「お帰りなさい」と声をかけられることを。彼女と過ごすようになった私にはそれがいつもの習慣になっていたから、信じて家で待ち続けていた。

 しかし、彼女は帰ってこなかった。

 みのりは多くのものを私に残したまま、逝ってしまった。

「ふぅ」

 写真に向かって溜め息を漏らしたとき扉がノックされた。

「長瀬主任。定期点検に来ましたぁ~」

 続いてかけられた元気のいい声に暗い気持ちが晴れるような気がした。

「入ってきなさい、マルチ」

 みのりの写真を机の上の乱雑に置かれている書類の中に隠し声をかけると、想像していた通り満面の笑みを浮かべながらマルチが入ってきた。

「お久しぶりですっ! その……」

 そこまで言ってマルチは口ごもり、うつむいた。側に寄って行くと、彼女は勢い良く顔を上げて言う。

「……お父さんっ!」

 私をそう呼ぶことに恥ずかしがっていたのだろう、マルチはほんのりと頬を赤く染めていた。

 いつからだろうか。マルチは私のことを「長瀬主任」ではなく、「お父さん」と呼ぶようになった。

 考えてみれば、それは六年前からだったのかも知れない。

 ――あのときのことが、何か影響を与えてるのだろうか?

 脳裏にそんな思いが掠めるが、できるだけマルチの前では出さないように笑みを浮かべる。

「久しぶりですね、マルチ。この前の部品交換のとき以来ですから、五ヶ月振りですか」

 彼女の頭に手を乗せながら言うと、朗らかな笑みが返ってきた。

 けれどその笑みはすぐに陰りを見せる。

「お父さん。どうかしたんですか?」

「ん? それはどういうことですか?」

「何となくですけど、寂しそうな目をしてるように見えるんですけど……」

「……」

 心配そうな目で一心に私のことを見つめてくるマルチ。笑みで覆い隠したはずなのに、敏感な彼女は私の内心を読みとっていたのだろう。

 ――本当に、マルチの瞳はみのりに似ていますね。

 マルチの目は他のメイドロボと同じくカメラアイでしかない。ただ彼女のものは「人間らしさ」を求めたが故に、普通のものに比べて人間に近く見え、状況に応じて色合いを変化させられるという機構を備えていた。

 そうだとしてもこれほどマルチとみのりの瞳が似るとは思わなかった。それはただ見た目の問題ばかりでなく、人の心を見抜くことができるという点においても二人は同じだった。

「何でもありませんよ。ただちょっと……いつも見ているテレビ番組の録画予約を忘れてきましてね」

 そんなしようもない理由をつけて本心を偽った私は、マルチの頭を優しく撫でた。

「それより良く来ましたね。さぁ、さっさと点検を終わらせてしまいましょうか。早く藤田君のもとへ帰りたいでしょう?」

「いえ。今日、ご主人様はご友人の方の結婚式に出席なされていて、夜遅くまで帰ってこないんですよぉー。だから今日は――」

「そうですか。それでは点検が終わった後、どこかでゆっくりお話でもしましょうか?」

「はい!」

 にっこり笑みで応えたマルチはそのまま扉の方に向かう。

「ちょっと待ちなさい。いつものようにカタログを持っていってもらいますから」

 定期点検の際は必ず最新のメイドロボやオプションパーツなどのカタログを渡すことになっている。私が直々に行っているこのマルチに関しても一応製品出荷の形を取って藤田君のところにあるため、それは同じにしてある。

 マルチを扉の前で待たせて広報課の人間から受け取って机の上に放り出しておいたカタログを集め、適当に封筒に詰めた。

「それでは行きましょうか」

「はいっ」

 カタログの入った封筒を手渡し、マルチを点検用の部屋に先導して歩く。本来は休日のため、研究所の廊下に人影はない。

 私の横に着いて歩きながら、マルチは楽しそうに話をしている。

「もう結婚式は今年に入って四回目なんですよー。ご主人様もおっしゃってましたけど、ご主人様くらいの年齢になられた方は結婚を考えられておられる方が多いそうですねー」

「藤田君ももう二七ですか。早いものですね」

「そうですね~。ご主人様のところでお仕事するようになって、もう八年以上になるんですよぉー」

 その八年もの間にまったくかわらない笑みが、マルチの顔に浮かんでいた。

 この笑みの下で、彼女は何を考えているだろうか。

 藤田君や彼に関わる人々のこと、たぶん私や音山たち、開発課の人間たちのことも考えていることだろう。

 そして彼女は、今だ実現していない本当の意味での自分の妹たちのことを思っているだろうか?

 多くのものをマルチに託した私が十年前に彼女に託された、今では「マルチの娘たち」と呼ぶべきメイドロボ。それをつくるために私は長い時間を費やしてきた。

 それはみのりのためであり自分の夢のためでもあり、マルチに、今だ生まれぬ彼女たちを見てもらいたいがためでもあった。

 しかしその望みは、叶ってはいない。

 彼女に会う毎に見てきた彼女の笑み。

 しかし、時間は無情に流れていく。

 マルチを伴いながら、私の中にわき上がってくる思い。

 ――あと何度、私はこの笑みを見ることができるだろうか……。

 

          * 3 *

 

「本日は私たちの結婚を祝っていただき、本当にありがとうございます」

 最後に新郎による感謝の言葉が述べられ、披露宴は会食の時間に移る。

「ひゅーひゅー。かっこいいわよぉ~」

 オレと同じテーブルからかかった声に、新郎ははにかんだ笑みを浮かべながら頭をかいた。

「何やってんだよ、志保。まったく恥ずかしい」

 にやにやしながら新郎の様子を眺めてる志保のことを睨みつける。それに負けじと志保の方もオレを睨みつけてきた。

「ヒロこそ何言ってるのよ。披露宴っていえばようは宴会じゃないの。宴会といえば無礼講が当たり前でしょ?」

「場所と状況を考えろよな。てめぇはこの結婚式がどういうもんだかわかってんのか? ったく、久しぶりに会うってのに高校の頃からちっとも成長してないんだからな、こいつは」

「何よっ。あんたやる気ぃー?」

「おぅ。いつでも受けて立ってやるぜ」

 激しい睨み合いの中、志保とオレの真ん中の席に座っているあかりがくすりと笑う。

「何だよ、あかり。オレは高校のときにつけられなかったこいつとの決着をつけてやろうとなぁ――」

「そうよそうよ、って。あぁ、もう。あかりのせいでやる気が失せちゃったじゃない」

「わ、私のせいなの?」

 真剣に困ったようにオロオロとオレと志保の顔を交互に見るあかりに、思わず二人同時に吹き出していた。

「冗談よ、冗談。あかりのすぐ物事を本気で考えるとこ、かわらないわねぇ~」

 口元に手を当ててすくすと笑う志保。ひとしきり笑った後、志保は新郎新婦が座る席の方に目を向けた。

「でもさすがよね、あいつ。相手は取引先の社長令嬢だっけ? もう出世が決まったも同然じゃない」

「そうだね。でも私たち四人の中では一番頭が良かったし、大学も就職も一番に決まってたし――」

「そりゃぁ何か? 大学は補欠ぎりぎりで入って、就職も遅ぉーくまで決まらなかったオレに対する当てつけか?」

「そんなことないよー」

 また困った顔をするあかりに、オレは笑みで応えていた。

 今日の結婚式は――そう、雅史の結婚式だった。それも相手は志保の言う通り大企業とは言えないまでもかなり大きな会社の社長令嬢。それにより式の規模はオレが今まで出席した中では一番くらいに大きなものになり、オレやあかり、志保ばかりでなく中学高校辺りで親しかった同級生などはかなりの人数が呼ばれていた。

 高校を卒業し、大学に入った後は別の大学に入った雅史や引っ越していなくなった志保と会うことは少なくなった。あかりとは同じ大学だったし、別々の会社に就職してからも――色々な理由で会っていることが多かったが、二人とは交流こそなくならなかったが、滅多に会わなくなってしまった。

 たぶん今回のことは雅史の配慮からだろう。この結婚式は同窓会の様相を呈し、みんな久しぶりに会う旧友たちと楽しく話しているようだった。

 だが、オレは――。

「どうしたの? 浩之ちゃん」

「いや、何でもねぇよ」

 オレの視線に気づいたのか、あかりが声をかけてきた。

 オレが見ていたのは、新郎と新婦。幸せそうな二人の笑顔。

 オレも雅史も、もう今年で二七歳になった。あかりと志保はまだ誕生日が来ていないが、まもなくオレたちと同じ歳になる。

 あかりもそうだが、なんだかんだ言って志保の方ももう高校の頃に見えた子供っぽさはない。会食の時間となって旧友たちのテーブルを歩き回っている彼女を見ればすぐにわかる。

 思いのほか伸びた背や女性らしいプロポーションになったこともあるが、まだ抜けきれない性格のことはあるにしても、その顔つきや仕草、端々に見える細かな言動が、彼女はもう子供じゃないことを表していた。それは元からあった物静かさに磨きがかかり、貫禄すら感じられるようになった雅史についても同じだった。

 気がついてみると、こんな歳になっている。振り返ればすぐ昨日まで高校に通っていたような気がするのに、しかしオレはもうこんな歳になってしまった。

 二七歳。それはそろそろ自分の長い意味での将来を考えてもいい時期だ。

 ――オレは、この先どうやって生きて行くんだろうか?

 その言葉はあくまで疑問符で終わる。

 オレは自分がこの先どうやって生きていくのか、何をやっていくのか、描けないでいた。

「やっぱりあの二人、幸せそうだよね」

 不意をついたように、あかりが言った。

 それに「あぁ」と小さく応えながら、オレの気持ちはどんどん沈んでいく。

 結婚。

 その言葉が重くのしかかってきていた。

 もうそれを考えてもいい時期なのは知ってる。友人たちは次々と結婚していき、ついに雅史も今日という日を迎えた。お袋にも何度かそのことについて言われてたりもしていた。

 そんなときの心の中に浮かんでくる思い。

 ――オレは、誰と結婚するんだろうか。

 近頃よくそんなことを考えてるオレがいた。考えてるのに答えが出せないでいるオレがいた。

 もちろん、ずっと一緒にいたい奴が誰かくらい、わかってる。

 眺め続けていた新婦の姿がマルチになる。その隣に座っている新郎は、オレ。

 二人は幸せそうに微笑みあっている。そして同じことを願っている、「いつまでもこの幸せが続きますように」と。

 そこまで考えた瞬間、見えていた幻想が消え失せた。

 新郎の雅史もその新婦も元の姿に戻り、残っているのはあかりや志保とともに二人を祝う立場でテーブルに着いてるオレだった。

 マルチと結婚することなんて、オレには考えられなかった。

 別に結婚式をしないとしても、籍を入れられないとしても、そんなことはどうでもよかった。ただマルチがメイドロボである限り、オレとあいつが結婚することなんてできないのはわかっていた。

 いや、たとえ結婚したとしても、その後マルチとの幸せな生活が長くは続かないことを、オレは知っているから、だから……。

 泣きたい気持ちになって、オレはまだ出そうにもない涙を抑えるために片手で顔を覆った。

 みんなは楽しんでいるというのに、その中でオレだけは、辛くて堪らなかった。

「浩之ちゃん? どうしたの?」

「なんでもない。ちょっと、疲れただけだ」

「……そう」

 心配してくれるあかりに、オレは精一杯の笑顔を返した。だがそれも、虚勢でしかない。

「どうしたのぉ~。あら? ヒロはもうオネムの時間?」

「何言ってんだよ、志保」

 テーブルを回ってきてすっかりできあがってるらしい志保に返す言葉には、さっきみたいな元気は出せない。

 志保はそんなことには気づいてないのか、酔眼を細めてあかりを睨む。

「そんなことよりもあかり、あなたはまだなの?」

「え?」

「結婚よ、結婚」

「それは……」

 そんな言葉に、あかりはオレの方をそっと見る。しかしオレはその視線を受け止めることなくワイングラスを取って口元に寄せていた。

「……うん」

「へぇ~、そうなんだ。そろそろかと思ってたのに」

「そっ、そう言う志保はどうなの?」

「あたし? あたしはダメよ。いい男はいてもあたしが結婚して上げられるような男はそうそういないわ」

「うぅ~ん。でも――」

 そろそろ絡みが入ってきた志保の話にあかりはつき合わされていた。それにオレが参加することはなかった。たまにあかりがオレの方に目をやることがあったが、視線を合わせることはなかった。

 その後はオレもあかりも、とくに何も言うでもなく披露宴の時間を過ごしていた。

 

            *

 

 深夜ともなれば、たとえ街灯がところどころ立っていたとしても人気の住宅街は寂しいほどの暗さに包まれる。

 もうそろそろ秋の気配が感じられるようになったこの時期、月明かりの下に吹く風は冷たく、気の早い虫たちが合唱を始めていた。

 さすがに新郎の雅史は呼べなかったが、志保を中心とする同級生たちとカラオケに行ったために、こんな時間になってしまった。三時間歌ってそれでも酔いが醒めなかったらしい志保が三次会に突入していくのは放っておいて、オレはもう点検から帰っているだろうマルチが待つ家に帰ることにした。

「久しぶりにみんなに会えて、良かったね」

 オレと一緒に帰ることにしたあかりが、半歩後ろから声をかけてくる。

「あぁ」と、短く応えてオレは空を見上げた。

 気持ちいいほど丸い月が、オレたちが歩く方向のちょうど正面に上っていた。

 雲は一つもなく、いつもならけっこう見えるはずの星も、強い月明かりに負けて鳴りを潜めている。影がはっきりとわかるほど強い月の光の下の街はどこか現実離れしていて、こんな深夜になっても迷うことないくらい慣れた道なのに、別世界にいるような錯覚に捕らわれる。ささやかな虫たちの声は、その感覚をいっそう強めていた。

 どこまでも続くような真っ直ぐな道。

 時間が止まっているような静けさの街。

 そんな中を歩くオレの頭の中もまた、ほとんど止まっていた。

 色々なことが思考を巡っているのに、それがなんなのかはっきりしない。ごちゃごちゃと考えることが多すぎて、何を考えていいのかわからない。

 ただ、止まっているようでも確実に流れている時間。それが恨めしいと思っていることだけははっきりしていた。

「ウェディングドレスの新婦さん、きれいだったよね」

「あぁ」

「憧れちゃうよね。あんなに豪華なのじゃなくても、一度はウェディングドレスを着てみたいな」

「そうだな」

「でもどうなのかな。あんなドレスを着たら私もあれくらいきれいに見えるのかな? それともやっぱり幸せだから、あんなにきれいになれるのかな?」

「どうなんだろうな」

「……浩之ちゃん?」

「あぁ」

 別世界のような街の中で、あかりの弾んだ声だけが現実だったが、それも右の耳から左の耳へ抜けていくように、ほとんど頭に残らない。何も考えていないようで何かを考えているオレは、まぶしすぎる月を眺めたまま、上の空でそれに応えていた。

 マルチの顔が浮かんできた。

 頭に残っていたウェディングドレスという言葉と重なり、それを着た姿になる。

 ほんのりと頬を赤く染め、恥じらいの笑みを浮かべるマルチ。少し不釣り合いなウェディングドレスだったが、そんな姿も微笑ましかった。

 しかしそれも幻想。現実のものになることはない。現実にすることは不可能だった。

 ――オレは、何をしてるんだろうか。

 いつも頭の中にあるその言葉が巡り始める。

 八年、オレはマルチと過ごしてきた。

 オレにとってマルチはあの満月のように輝かしく光っていた。それに対してオレの方は、月明かりにかき消される星のように弱々しい光しか持たない。いや、光すら発していないのかも知れない。

 マルチのように輝きたいと、いつも思っていた。せめてあいつの隣にいてもかき消されないくらいの光を持とうと願っていた。

 それなのにオレは、この八年間でいったい何をしただろうか。

「はぁ……」

 静かにわき上がる思いが、溜め息となって漏れ出ていった。

 そのとき突然騒がしくなった虫の音に現実が戻ってくる。

 いつの間にか家のすぐ側まで来ていたらしい。そこはもう学生時代には近道によく使っていた公園だった。あかりはもう話すのをやめたらしく、小さな足音だけがオレの少し後ろから着いてきていた。

 ――ここもあの頃からするとかわったよな。

 今でも時々駅への近道として使う場所だから、いつもはそんなこと気にすることもない。だがよくよく見てみれば、この公園もマルチと最初に会った十年前とずいぶんかわっていた。

 あの頃小さかった木は大きくなり、なかったはずの草が垣根をつくっていたり、あったはずの芝生がなくなっていたりした。遊び道具もなかったものがあり、あったものがなくなり、昔からあったようなものも、実はつくり直されたりしていた。

 気がつけば時間が流れている。オレはそれを止めることはできない。今が止まってくれれば何もいらないとさえ思うのに、その望みは叶えられることがない。

 時間がすべてをかえていく。

 自分から何かをかえることができないオレは、ただその流れの中で戸惑うばかりだ。

 何かをかえたい。マルチのようになりたい。そう願っているのに、願ってきたのに、オレは何もできず、八年を過ごしてしまった。そしてその後の時間で、オレは何かをかえることができるだろうか。

 公園を抜ける。そうすればもうマルチの待つ家はすぐそこだ。彼女はいつものようにオレを笑顔で迎えてくれるだろう。

 それを思い少し早足になったオレは、公園の出口を抜けようとする。

「浩之ちゃん」

 いきなり、あかりに呼び止められた。

 立ち止まっていたのかその声はすぐ後ろではなく、少し離れたところから聞こえた。

 振り返り、彼女を見る。

 公園の電灯をスポットライトのように受け、あかりが真っ直ぐな目をオレに向けていた。

「どうしたんだ? あかり」

 近づいて行くと、成長したオレとあかりの身長差で彼女の顔が上に向けられていく。

 触れ合うほど間近に立ったとき、あかりの目がかわった。

「浩之ちゃん。結婚て、考えたこと、ある?」

 強風が公園に吹き荒れた。

 木々がざわめき、ほこりが舞い上がる。

 風を受けながら、オレはあかりの目に釘付けになり立ち尽くしていた。

 顔にかかる髪の間から覗く、何かを求めるような潤んだ瞳。

 それに吸い込まれるように見入るオレの頭の中は、真っ白になっていた。

 夏が、まもなく終わろうとしていた。

 風が止んだとき、そこにはただ月の光と、虫の音だけがあった。

 

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