実りの季節を待ちながら 実りの季節シリーズ2 作:きゃら める
第二章 ~季節はずれの予感~
* 1 *
「あぁ、ずいぶん良くなってますね。売り上げがこのまま伸びればこの先は安定するでしょう。もう少し地域的な宣伝の方に力を入れるよう、本部に申請を出してみて下さい」
「はぁ。でも本部の方が認めてくれるかどうか……」
「それについては私の方でも話をしておきますよ。ここの店はできたばかりで、どうしても地域の人にあんまり知られてないみたいですから、やっぱり存在と場所を知ってもらうってのが今は一番効果があるでしょう」
「よろしくぅ、お願いします」
そろそろ寂しくなり始めた頭のてっぺんを見せながら、店長は深々とお辞儀をした。
「じゃあお店の方を見に行きましょうか」
にっこりと笑みを返しつつ、オレは事務所という名の狭い控え室の座り心地の悪い椅子から立ち上がる。
「案内しますよ、浩之さん」
そう言って前に立った店長に先導されながら、事務所から店に続く狭い廊下を歩くオレは気づかれないようにこっそり溜め息をついていた。
業務用のつくり笑いも、妙なほど丁寧な口調も、そして仕事のときしか使わない「私」という自分の呼び方も、もう勤続五年目に入った今では馴染んでしまっていた。
オレがしている仕事はFC契約してるレストラン、いわゆるファミレスなんて呼ばれる店の管理やチェック、そしてその場におけるアドバイスや契約主である本部が全体に発するものじゃない局地的な販売促進プランの提示なんかだった。つまりオレはFCの運営会社に勤めてる。それも海外に本部を持つ、新興のチェーンレストランの日本運営本部なんてところだ。
この仕事は「業務用の自分」をつくらなきゃならないのも面倒だが、任されてる店が多いのも問題だった。店の巡回以外にも事務仕事もしなきゃならないから、ほぼ毎日残業で帰るのが遅くなっちまう。
マルチとできるだけ一緒にいたいと思うのに、それができない。まぁこれも生活のためだから仕方がないと、自分に言い聞かせるしかなかった。
奥まった場所にある事務所から先行する店長に続いて、それほど広くないながら効率よくつくられてる厨房に入る。そこでは昼の最盛期を少し過ぎているため、コックなんかが注文されたものを調理しているが、そんなに忙しいほどじゃなくなっていた。
だが――。
「うぅ~ん。掃除の方は大丈夫みたいですけど、片づけの方がもう一つですかね」
見える場所での環境づくりや客への応対ばかりじゃなく、契約各店に配られている運営マニュアルでは掃除や片づけのことまで事細かに条項が載せられてる。この店の厨房は掃除の方は行き届いていたが、昼食時間後の片づけの方が遅れているため、ゴミなんかがそこら中に残っていた。
「それはまぁ、さっきまで昼食の時間で混んでいましたから……」
「それはわからなくないですけど、できるだけお願いします」
「は、はぁ。わかりました。徹底させるようにします」
店長より若造だが、オレは本部から派遣されている人間だ。つまりオレが注意したことはそのまま本部に伝わることになる。そのことを気にして額に浮かんだ汗を拭きつつ従業員に注意を与える店長を横目で見ながら、手に持った十段階中十から八が合格ラインのチェックシートの厨房の片づけの欄に、八を書き込んだ。
「次に行きましょう」
「え、えぇ」
チェックが進むに連れて、店長の様子は焦りというより怯えのようなものが含まれてくる。もう暑い季節は終わりだというのに汗の量はどんどん増えていき、最初ははっきりしていた言葉も、だんだんどもるようになってきていた。
その理由も店長の立場を考えればわからなくはない。
この店の店長はもとは普通のサラリーマンで、四十過ぎで脱サラした人だと聞いていた。店舗用の土地も膨大にかかる開店資金もない彼は、店長募集に応募し、本部の援助に頼ってこの店を任されている。詳しいことは知らないが、それなりに危うい立場らしい。
厨房からテーブルが並んだ店の表に出て、すぐに『それ』が目についた。
「まずいですよ、店長。これは」
すぐさまレジの横に行き、さすがに昼食時間が過ぎても客のいる場所だから潜めた声でそれの存在を示す。
「いや、でも、これは……」
汗を拭き拭き口ごもる店長にどういう目を向けていいかわからず、オレは眉根に皺を寄せた。
レジの横に置かれているものは、ファミレスなんかで良くあるお菓子やちょっとしたオモチャの販売コーナーだった。内容的にはけっこう本格的で、誰が買っていくのかわからないような中途半端なものとは一線を画していた。
だがこういうコーナーは、うちのFCではマニュアルで禁止してあることだった。
「やっぱり問題ありますよ。うちではこういうものの販売は禁止してるじゃないですか。それにこれ、店の売り上げとは別会計ですよね?」
「え、えぇ」
「店内での副業の禁止はマニュアルの前に、契約上の禁止事項ですし――」
チェックシートを前にして、オレはどう書き込もうかと迷う。
「で、ですけどここの売り上げが伸び始めたのはこれを始めてからなんですよ。ぼ、ぼくが前に勤めてた会社ではこういう小物の卸しなどをやってましてね、売れ筋とかは良く知ってるんですよ。この辺りは団地街でもありますし、子供連れのお客さんも多いですから、こういうのは受けてるんです。だから、浩之さん、お願いしますよぉ」
「それは……」
おじさんの域に入ってる男に泣きそうな目を向けられて、オレはボールペンを彷徨わせ続ける。
「前々から思ってたんですけど、ここのマニュアルや契約書は改善の余地がありますよ。ほとんど外国でやってたことそのままなんでしょ? 日本じゃ合わないこともありますし、本部の方は地域による客層の差まで考えてくれてるんですか? そりゃあ生活が苦しいほどじゃないですけど、こっちも売り上げを上げようと必死なんです。このコーナーは相乗効果が出せて、うちにとってはいい感じなんですよ」
スーツの袖をつかんで懇願の目を向けてる店長に反論することができなかった。オレもそのことについては考えたことがないわけじゃなかったからだ。
ずいぶん考えた末、オレは言葉を選び出した。
「一応、本部の方には伝えておきます。契約上の問題があるにせよ、効果はあるみたいですからそのことを含めて。結果については本部が出してくれます。後はその指示に従って下さい」
「頼みます、頼みますよ、浩之さん。ぼくだって問題を起こしたいわけじゃないんです。ただ店が良くなるようやってるだけなんです。だから、本当に頼みましたよ、浩之さんっ」
真剣な彼の瞳に、立場上励ましの言葉も、拒絶の言葉もかけることができず、オレは唇を軽く噛みながら許可が下りるのを祈るばかりだった。
「――とりあえず、一通りのチェックは終わりましたね。この後は、そうだな……。私はまだ昼食を摂ってないんで、客として、食事していいですか?」
「は、はいっ! もちろんです。浩之さんもお疲れでしょう。あちらの席にどうぞ」
まるで接待をしている会社員のようなにこやかな顔つきになって、店長はオレに窓際の席を勧めた。
呼ばれてやってきたバイトのウエイトレスに適当な料理を頼んだ後、一人になったオレは店内を見回しながら考えていた。
明るすぎないよう少し暗めに点けられた電灯。統一された配色のもとにテーブルや椅子が並べられた店内。テーブルにある調味料なども、置き場所すら同じになっている。
まともなチェーンレストランなら、それらはすべて決められてることだ。店の広さや立地による店内のレイアウトの違いこそあれ、そのきっちりとした統一感が、どこに行っても同じチェーン店に入れば同じサービスが受けられるという安心感を客に与える。技術と経験によって出された答えと言うべきそれは、本来客にとって快適な環境であって、不快なものじゃない。
なのにオレは、そんな店の様子に居心地の悪さを感じてしまう。
オレが勤めるFCレストランは海外に総本部を持ち、日本ではまだまだ新興で勢力が弱い。読んでみればわかることだが、マニュアルの内容自体はそれほど悪いわけじゃなかった。経験ばかりでなく人間工学とか学術的なことも取り入れてつくられてるうちのマニュアルは、実効的な内容として有名で、そこらのFCのものより良くできていた。効果の方はそれなりある。けれどそれに頼ってマニュアルを徹底させ、各店から出る意見なんかを受け容れない体質の本部に、ズレを感じていた。オレが思ってるものとは、求めているものとは、どこかが違っていた。
だが、オレはそんな会社に勤める一社員に過ぎない。
意見することはあっても、それで会社の方針がかわらないのであれば、それに従って仕事をするしかない。
――そんなのは言い訳じゃないか。
オレの中で、本当のオレが指摘する。
その通りオレはオレに対して言い訳して、仕事をしているに過ぎなかった。
ふと、窓の外に目を向ける。
柔らかくなった日差しが、大通りのケヤキ並木を優しく照らしていた。半袖と長袖の入り交じった服を着た人々がゆったりと歩道を歩き、時折車が行き交う。
穏やかな昼下がり。オレはその様子を、窓の内側から眺めている。
――何をしてるんだろうか。
そんな思いが、オレの心を満たしていく。
オレが今の会社に入ったのは、自分が持ってる技術を活かそうと考えたからだった。しかしそれは活かされることなく、毎日レストランを回り、会社で書類の作成や整理をし、いつも終電近い電車で家に帰っている。
持ってる技術とは、料理。
オレは家政系の大学を出て、調理師の免許を持っていた。
不器用の固まりみたいなオレがそんな大学に入ってそんな免許を取ったのは、ちょっとしたきっかけがあったからだ。
そのきっかけが訪れたのは高校二年の初夏、マルチの試験が終わり、彼女が去ってしばらく経った頃だった。
空にはまばらに雲が浮かんでいた。その下には地平線まで街が広がっている。鳥がさえずりながら飛び、ちょうどいい具合の陽の光が辺りを優しく照らしていた。
高台にある高校の屋上から見えるこの景色はオレのお気に入りだ。一人で暇なときはよくここに来ていたし、近頃はほとんど毎日ここで昼食を摂っていた。
まぶしさに目を細めて景色を眺めていたオレは、お茶を一口飲んで昼食を再開する。
一学期の中間試験も終わり、ホッと一息つける時期だった。結果の方は……、まぁまずまずだったが、とりあえず今はもう何十年も続けてきたような気がする、たいして変化のない学生生活が繰り返されていた。
マルチがいなくなってからもう二ヶ月。
あいつと別れたあの日以来、まるで子供の頃に戻ったような、今日の抜けるような青空のような、穏やかで、静かな日々が続いている。
だがオレの中では色々な思いが駆け巡り、そんな日々の中にいながらも、心休まるときはなかった。
「なぁ、あかり」
「なぁに? 浩之ちゃん」
同じベンチのすぐ横に座り、それまで何も言わずに弁当を食べていたあかりに声をかけた。
マルチがいなくなって以来、あかりと一緒にいる時間が多くなっていた。子供の頃から何かと世話を焼いてくるこいつを前はけっこう邪険にしてたもんだが、最近はなぜか側にくるのを拒むことはなくなっていた。実はいま食べてる弁当も、親が二人とも遠方赴任のまま帰ってこない環境にいるオレの食生活のことを思って、あかりがつくってくれたものだ。それもここのところ毎日、オレはあかりがつくってくれた弁当を彼女と一緒にこの屋上で食べていた。
そんなあかりに、ふと思いついた疑問をぶつけてみようと口を開く。
「あのさ、……いや、何でもねぇ」
だが最後まで言い切れず、少し熱さを感じた顔を隠すために弁当箱に顔を寄せてご飯を頬張った。
「浩之ちゃん?」
ちらりと見ると、訝しむようにオレに目を向けているあかり。
――どうせ、たいしたことじゃない。
そう思い直しご飯を飲み込んだオレは、疑問をぶつけてみることにした。
「ちょっと、訊きてぇんだけどさ」
「うん」
「あぁっと、まぁその……お前にとって、一番嬉しいって感じるのは、どんな時だ?」
「え?」
いきなりそんな脈絡のない質問をされたあかりは目を見開く。
「いやまぁ、たいしたことじゃなくていいんだ。今までで一番嬉しかったことだとか、最近ちょっとでもそう思ったことだとか、……そういうのって、なんかないか?」
気恥ずかしくなって、オレは鼻の頭をかきながら完全に血が上った顔を隠すように空を見上げた。
まばらに雲が浮かぶ青い空。オレはそこに、マルチの顔を思い浮かべている。
――オレもあいつみたいに、人が喜ぶようなこと、なんかできねぇかな。
最近、そんなことばかり考えていた。けどマルチになれるわけじゃないオレは、どんなことをしたらいいのかわからなかった。だからとりあえずあかりはどうなんだろうかと、訊いてみようと思ったわけだ。
「ん~」
口をすぼませ、顎に軽く手を当てながら小さくうなるあかり。しばらくそんなことをした後、彼女はオレの手元の弁当に目を向けた。
「浩之ちゃん。そのお弁当、美味しい?」
「んぁ? あぁ、もちろんだぜ。また腕を上げたんじゃねぇか?」
「最初はそこまでできなかったけど、お母さんに教えてもらったし、時間はかかったけど……頑張って、練習してきたから」
少し頬を赤く染めて、あかりは微笑んだ。
それに釣られて頬が緩みそうになったオレは、残ってる弁当の中身を一つ箸でつまみ取る。
「とくにこの卵焼きが――」
言いながら口の中に放り込み、何度か噛んで飲み込む。
「美味いっ!」
叫んであかりに向かってニヤリと笑いかけた。
「うん。じゃあ、私は今が一番嬉しいよ」
その瞬間、言葉を失った。本当に嬉しそうな顔のあかりを見たオレの頭の中に、電撃を受けたようなひらめきが走っていた。
――頑張って、か。
最初から上手くできないのは当たり前のことだ。できないことでも、時間をかけてやればできるようになる。今のオレは人を喜ばせることなんて一つもできない。だったら、これからできるようにすればいい。
弁当に目を落とした。
前は不格好だった卵焼きが、今じゃ文句が付けられないくらい形良くなってる。味の方もさっき食べた通りだ。
――美味しいもんを食べると、人は嬉しいもんだよな。
そんな考えが、オレの中に生まれていた。
そのときのあかりの言葉で、オレは頑張るからこそ何かができるようになると悟った。
オレにはそれまでやりたいことなんてなかった。人を喜ばせる方法なんて一つも思いつかなかった。調理師を目指すようになったのはたいした理由じゃない。そのとき思いついたのが料理のことだったから、それでやってみようと思っただけのことだった。
ガラでもないと思いつつあかりに教えてもらいながら頑張り、大学に入ることができた。そして見事調理師の資格を取得できた。
マルチのようになりたいと願っていた。やれば自分もできるんだと希望を持っていた。大学在学中にマルチも帰ってきて、オレはあいつとともに幸せな生活が築けると信じていた。
だが今のオレは、会社に不満を持ちつつも打ち出された方針に従って仕事をしている。
いっそ辞めてしまおうと思ったこともあった。それも一度や二度じゃない。決心したつもりで辞表を書いたことさえある。でもオレは、不満を抱いたままこの仕事を続けている。
「オレは弱い人間だ」
小さくうめきを上げて、テーブルに肘をついて両手に顔を埋めた。
思っていても、考えていても、それを実行に移せない自分が情けなくて、涙が出そうだった。
「お待たせ、いたしました」
ウエイトレスが料理を運んできた。
オレの様子に少し驚いてる顔の彼女から「ありがとう」と礼を言いながら受け取る。
――考えてても仕方ない。
そう思いチェックシートともに持ってきていた鞄に手を伸ばした。シートをしまう代わりに、書類を入れるような大きな封筒を取り出す。それにはこの前の定期点検のとき、マルチがもらってきたメイドロボのカタログが入っている。オレには縁のない高級機、少しは縁があっても新しく買う気なんてない普及機、その他にもオプションパーツやソフトなど、様々なものが封筒の中に入ってる。
あのマルチに使えるものはないかとオプションパーツのカタログを取り出して、後は鞄と一緒に椅子に上に放り出した。
「さて、と」
フォークを片手にテーブルに置いたカタログを広げ眺め始める。
そのとき、ページの間に挟まっていたらしい紙か何かが床に落ちていった。
よくある正誤表か追加事項だろうといったんフォークを置いてテーブルの下に手を伸ばす。だがオレの思惑ははずれ、触った感触はどう考えても写真だった。なんでそんなものが挟まってたのかと思いつつ、拾い上げてそこに写ってる人物を見てみる。
「マルチ?」
思わずオレは口にしていた。
一瞬だけ、若い男と一緒に写ってる女の子がマルチに見えた。だがそれも一瞬のことで、古いらしく色褪せ始めてよく見えないにしても、その娘はマルチじゃなかった。
見たこともない制服を着、掃除でもしてたんだろう、モップを手に持ってるその娘は、せいぜい小柄なところが似ているくらいで、髪も長いみたいだし顔のつくりもマルチとは似てない。
ただ微笑んでる彼女の瞳というか雰囲気が、どことなくマルチを思わせた。
女の子からその背後に立つ男の方に注目する。
「これは……長瀬さん?」
一年前に会ったときみたいに白髪混じりの髪はしてないし、顔立ちも若々しいが、そこに写る男はどう見ても長瀬さんのように思えた。
いったいこれはどういう写真なんだろうか。何か手がかりはないかと写真を裏返す。するとそこには二つのことが書かれていた。
一つは日付。今から二七年以上前、オレが生まれる以前のものだ。もう一つは「みのりとともに」という言葉だった。
みのり、という名前なんだろうか。一瞬でもマルチに見えたその娘に、オレは料理が冷めるのも忘れて見入っていた。
* 2 *
主任室の扉を力無く開け、小走り気味に二台並んだコンピュータのうちの一台の前に着いた。落としてあったディスプレイの電源を入れ、処理状況を確認する。まもなく八五パーセント。
そのコンピュータでは、先日研究所に来たマルチから取り出した点検データの解析処理を行っていた。試作型のあのマルチは量産型と異なる部分を多く持っているため、事務的には普通のメイドロボと同じにしてあっても、点検データの解析処理だけは社の大型コンピュータで行うわけにはいかなかった。
本来なら一両日中に終わるそれを性能の劣る私物のコンピュータで行っているのだから、時間がかかる。今はまもなく出るはずの結果を待ち続けるしかなかった。
おもむろに席を立ち、水屋から湯飲みを取り出してティバッグで簡単にお茶を淹れ、また席に戻る。
そこまでして、私はやっと一息ついた。
「どうすればいいだろうか……」
お茶を一口飲んだ後、そんな言葉が漏れた。
ここ何回か、そうだった。この前音山に言われた通り、自分でやっていても納得できないメイドロボばかりを設計していた。
メイドロボは既に限界に達している。人間が行える作業と言うべき仕事のすべてをこなすことができ、来栖川のヒューマニティシステムが発端となって開発が行われ始めた自律機能により、命令がなくても周囲を監視し、状況に応じて行動できるようにもなっていた。創造的な仕事に就けないにしても、メイドロボは人間にとって最高の働き手として完成していた。
来栖川以外のメイドロボメーカーでも状況は同じ。付録的な機能や機構の違いこそあれ、特殊状況仕様のものでない限り、コンセプトはかわらない。基礎機能も性能もほぼ同じになった今では、ユーザーは多機能な高級機か廉価な普及機か、付録機能の差異、そして外見の好みなどでメイドロボを選んでいるのがほとんどだった。
高級機としてそのすべてを併せ持ち、さらにAHS、アドバンスド・ヒューマニティシステムによって抜群の自律性を持つHM―32アヤノは、確かにメイドロボの限界だった。
「ふぅ」
九二パーセントに達した処理状況を見、私は溜め息をつく。
マルチは、私にとって理想と言うべきメイドロボだった。
彼女は心――今なおそうと確認できていなかったが、そう呼ぶべきだろう――を持ち、人間のように自然に微笑むことができる。ヒューマニティシステムを搭載してもいないのに自分から仕事をし、何よりどんなことにも一生懸命だ。
彼女には自然と人を変える力がある。そうして藤田君は変わったのだと、前に聞いたことがあった。
マルチのようなメイドロボこそが、私の夢だった。そして私の夢は、みのりから引き継いだものだ。
「もっと一杯の人が幸せになって欲しい」。みのりはいつもそれを願っていた。
みのりの死後、コンピュータと機械のことしかできない私は、メイドロボでそれを実現しようと考え、この業界に入った。実を言えば、マルチの情動はその夢の達成が見えなくなっていたために起こった私の心の暴走と偶然によって生まれた副産物だ。
しかしそれによって目指すべき方向を見つけた私は、マルチのようなメイドロボを世の中に送り出すためにこの研究を重ねてきた。十年に渡る研究により、マルチの情動の解析結果と学習機能などを使えば、偶然ではなく確実に心を持ったメイドロボを生み出す方法は見つけだせそうな予感がしていた。
少し考えればわかることだが、もう一度マルチをつくる意味はない。
音山が言っていたように、メイドロボの心はユーザーの要求を越える。マルチのようなメイドロボが世の中に受け入れられないのは、十年前に既に思い知っていた。
――本当に、そんなメイドロボをつくることができるのだろうか?
近頃そんな諦めの思いが私の中に生まれつつあった。かき消そうとするのに、流れていく時間がそれをいっそう強くしていく。
アヤノは、私にとって壁だった。
円熟のささやかれ始めたこの業界で、アヤノは完全な人型メイドロボ発表以来の旋風を巻き起こし、今なお最高のメイドロボとして褒め称えられている。
アヤノ開発以後、私の研究は止まってしまっていた。マルチのように心を持ったメイドロボでない限り、私の夢を、みのりの夢を実現できないことはわかっている。しかしアヤノが壁となり、私はこの前のメイドロボのような中途半端なものしかつくれなくなっている。
メイドロボの限界、アヤノ。
音山が演出したメイドロボショーにおいて行われたアヤノの初めての公開の瞬間は、一大旋風のきっかけとなり、今では伝説とさえ呼ばれている。
かなり前から来栖川HM製高級メイドロボに搭載され始め、普及機にも採用されるようになったヒューマニティシステムが大きくかわるという噂は早くから流れていた。AHSという呼称で正式に発表もされている。しかし詳しい情報が公開されることはなく、人を気遣う機能がより人間らしくなったという以上のことは開発関係者以外誰にも知られていなかった。また、事前にそれを搭載したメイドロボ、HM―32アヤノについても、名前とスペックシート以外は来栖川製メイドロボの人気の一つである外見すらも未公開のままだった。
その年のメイドロボショーの初日、報道関係者を対象としたプレスデーであるというのに、来栖川ブースはAHSとアヤノ対する期待を抱いた多くの人でごった返していた。
発表当日でもセリオシリーズ、マルチシリーズの最新型が応対に出ているだけで、アヤノと呼ばれるメイドロボの姿はそこにはない。熱気すら感じる状況の中、ひと頃流行にもなったメイドロボルックに身を包むコンパニオンが一段高い舞台の上に立った。
「ようこそいらっしゃいました。これより来栖川HMの最新ホームメイド、HM―32アヤノの発表を行わせていただきます。それではまず、こちらをご覧下さい」
柔らかな微笑みとともに、コンパニオンによってアヤノの発表が開始される。
「――アドバンスド・ヒューマニティシステム、AHSは、セリオ、マルチ両シリーズに搭載されてきたヒューマニティシステムより遥かに高性能になり、従来学習により環境に合わせて指令外の『気を利かせた』たような自律行動を取るばかりでなく、細かなところまで人間的な反応ができるよう大きく改良が加えられました。またヒューマニティシステムはコンピュータの処理を増大させ、既存のPNNCでは性能不足の可能性が取り沙汰させて来ましたが、アヤノから採用されることとなりましたニューラルネットワークコンピューティング・インコーポレーションと共同開発を行ったBCHM、『Brain Computer for HM』によりその問題は完全に解決されております。
このBCHMは、既存のPNNCに対してより人間の脳に近い構造を取り入れることによって、性能テストではPNNCに劣ることはあるものの、メイドロボに特化されているため、実際の使用においてはPNNC以上のパフォーマンスを誇ります。具体的には、視覚野、聴覚野、運動野など、処理をそれぞれ特化した部野に分散させ、それらの処理結果を連合野で扱うことにより、これまでにない効率の高い処理を実現しております。
BCHMは来栖川HMとニューラルネットワークコンピューティング・インコーポレーションとの協力によって生み出された新技術であり――」
表情豊かなコンパニオンの解説と、それと見事に連動して切り替わるモニターの簡易化した映像によって発表は進行していく。しかしその間もアヤノが姿を見せることはなく、集まった人々の間に不満の色が出始めていた。
その色が強くなり、カメラを下ろす記者さえ現れ始めた頃、にっこりとした笑みを浮かべるコンパニオンが言った。
「以上で発表を終わらせていただきます。それから最後に、わたくし自身の紹介を行わせていただきます。
わたくしの名前は『アヤノ』。今回来栖川HMが満を持して皆様に公開いたしますホームメイド、HM―32アヤノと申します。
以後、よろしくお願いします」
突然会場に沈黙が訪れた。誰もが凍りついたように動かなくなり、それまで解説を行ってきたメイドロボルックのコンパニオン――HM―32アヤノが浮かべる笑みに見入っていた。
そして次の瞬間、まぶしいほどのフラッシュとともに会場全体に響きわたるほどのざわめきが起こった。
アヤノはこれまでのメイドロボとは比較にならないほど人間的な反応をすることができる。それは構造的にも人間の脳に酷似しているBCHMの存在も忘れてはならないが、やはり目玉であるAHSに負うところが大きい。
AHSは従来のヒューマニティシステムとは概念そのものが違っていた。あくまで自律行動のために存在するヒューマニティシステムに対し、AHSはそれと同時に、表情や言動と言った人間的な反応を可能にするためのものでもあった。
自律行動を行うメイドロボの時代は、HM―21セリオⅡから始まり、来栖川ばかりでなく多くのメーカーが競って自律行動型メイドロボの開発を行うようになった。付加価値としてそれに人間的な反応を加えるところもないでもなかったが、一見すると人間と間違えるほど精巧につくられたものはアヤノのAHSが最初だった。
そしてアヤノ発表後二年が経った今も、それに並ぶほどの自律行動システムの開発に成功したメーカーは存在しない。
それは当たり前のことだと言えた。
なにしろAHSには、みのりの記憶を組み込むことによって生まれただろうマルチの情動を解析し、その成果を組み込んであるからだ。来栖川以外でそれほどの自律行動システムを生み出すためには、マルチのような情動を持ったメイドロボを一度つくる必要があるだろう。
アヤノは、それでもメイドロボに過ぎない。
人間のように微笑むことができても、人を気遣うことができたとしても、それは心から行っているのではなく、組み込まれた基礎データと限定的な学習機能によって実現されているだけのものだ。
しかしそれがメイドロボとしての限界だろう。アヤノですら発表された当時、人間が生み出すべきものではないと強い反発があった。それも心など持たないただのメイドロボと理解が深まったため鎮静化していったが、もしマルチであったとしたらどうだろうか。
方法が見つからなかった。
もしマルチの娘たちを世の中に送り出すとしたら、普通の方法では無理だ。オブラートに包むような、正攻法以外のやり方を見つけなければならない。マルチ開発以後の十年間の半分以上は、その方法を探すために費やされてきたと言っても過言ではない。だが今もその方法を見つけ出すことはできないでいた。
「本当に、可能なのだろうか」
つぶやいた私は、掃除しようと思いつつしていない机の上を探る。
みのりの微笑みが見たかった。
自分の決意を思い出すために、私は整理されていない書類の間に隠したみのりの写真を探し求める。
どうしてだろうか。隠した辺りを掘り返しているのに見つからない。
そんなことをしていると、プリンタの稼働音が聞こえ始めた。マルチの点検データの処理が終わったのだ。
探すのを諦め、ページプリンタから一枚、二枚と印刷されて出てくる結果を出てくるごとに手に取って内容を見る。
「まさか……」
愕然となった。
印刷が終わるのも待ちきれず、紙をプリンタに戻してモニターの方で結果を確認していく。
「そんな……」
最後まで見ることができない。コンピュータが置かれているラックに両手をついて視線を落とした。あまりに強く握りしめた拳で、全身が震え始める。
ヒューマニティシステムは、コンピュータに大きな処理を要求することで知られていた。並列処理コンピュータであるPNNCであればそれを搭載することは可能だったが、充分な性能がなければシステム全体に悪影響を及ぼしてしまう。それでも処理を完遂しようとするコンピュータにとってそれは負荷となり、かなりの熱が発生させることになる。
AHSの以前の、マルチの情動を組み込んでいないヒューマニティシステムはHM―21セリオⅡから採用されていたが、実際にはマルチが生まれた頃にはその原型が完成していた。そしてその原型は、二機が稼働試験に入った試作型セリオの二号機に搭載されていた。
試作型セリオ一号機、二号機の完成時期のズレはたった二週間。しかし廃棄処分になった時期は一年違った。それも一号機ではなく、それを搭載した二号機の方が早く寿命が尽きていた。ヒューマニティシステムが生む負荷による熱はわずかながらコンピュータの劣化を早め、試作型セリオにおいてはそれを搭載しない一号機に対し、二号機の方が一年早くに寿命が尽きるという結果になったのだ。
熱対策がとられるようになり、加えて処理効率が飛躍的に上がったBCHMではそれほど大きな差が生まれることはなくなっていたが、古いPNNCではそれは望めなかった。
ヒューマニティシステムを搭載していなくても、マルチの情動はそれに近い、いやそれ以上の負荷をコンピュータに与え、長い時間がわずかずつ劣化を蓄積させていた。今回の点検結果では、マルチの身体はその劣化により正常稼働の限界を超えていると出ていた。
「寿命だ」
苦々しく、私はつぶやいた。
* 3 *
「ふぅ。ただいま」
その言葉は溜め息とともに漏れていった。
今日も契約店回りの後に事務仕事が溜まっていたため、終電に駆け込んで家に帰ってきていた。
疲れた身体でのろのろと靴を脱いでいる間、いつものように足音とともにマルチの元気のいい声が聞こえてくるのを待つ。
――あれ?
靴を脱ぎ終え三和土から上がったが、足音が聞こえてくることも声がかかることもなかった。
ただいまの声が小さかったからだろうか。そんなことを考えながらリビングに続く扉を重く感じる腕で押し開ける。
「……」
リビングの中を見たオレは、そこの様子に頬が緩むのを感じていた。
マルチは、リビングにいた。だがオレが帰って来たのに気づいた様子はなく、ソファに座って熱心に本を読んでいた。
一瞬声をかけようかと思ったが、読んでる本のことを推測しながら足を忍ばせ彼女の背後に回る。影を落とさないように電灯の位置に気をつけつつ覗き込むと、読んでいたのは思っていた通り童話。
「ただいま」
「え? あれ? ご主人様? お、お帰りなさい」
優しく声をかけると、やっぱりオレに気づいてなかったマルチは驚いて振り向いた。
いつからだったろうか、マルチは本を読むようになっていた。それも読む本は児童文学や童話ばかりだ。余った分は好きに使っていいと言って渡してある生活費の範囲で、彼女はせっせと本を買っていた。
「す、すみません。わたし、本を読んでいてご主人様に気づきませんでした……。お、お風呂にしますか? それともご飯にしましょうか? すぐに準備しますー」
あたふたしながらマルチが言う。
その様子に吹き出しそうになるオレは、風呂や食事の前に彼女に一つ質問をしてみることにした。振り向いたときテーブルに投げ出された童話の本を顎でしゃくって示す。
「なぁマルチ。お前、そういう本、好きなのか?」
「えと、あの……はい。好きですー。わたしは難しい本は読めませんけど、こういう本なら読めますから。それにおもしろいんですよ。わたし、時々泣いちゃうことがあるくらいなんですよぉ~」
ソファから立ち上がって、マルチは童話を手に取り愛おしそうに撫でている。
「とくにわたしは、主人公の男の子や女の子が幸せになって終わるお話が好きで……」
恥ずかしそうに頬を赤らめ、伏し目がちになる彼女。
前から一度訊こうと思っていた。好きなのはわかるが、児童文学や童話ばかりを読んでいる理由、それには好き以上の想いがあるんじゃないかと。もしかしたらマルチは――。
「書きたいと思ったことは、ないのか?」
「え? あっ、あの、それは……、でもわたし、メイドロボですし……」
――やっぱりか。
少しおかしいとは思っていた。そんな本を読んでることはともかく、その様子が熱中しているという感じじゃなくて、むしろ何かを考えながら読んでいるように感じられていた。それも思ってた通り「メイドロボだから」なんて理由で書くのをためらっていた。
「なぁ~にが関係あるってんだよ」
ポンッとマルチの頭に手を乗せ、彼女の顔を自分の顔のすぐ前まで引き寄せた。そらから睨むようにその少し潤んだ瞳を覗き込む。
「メイドロボが童話を書いちゃ行けないなんて法律でも、あるのか?」
「そ、そんな法律はないと思いますけど……」
「だったらいいじゃねぇか。書いてみたいんだろ? 書けばいいさ。メイドロボが書いたもんでも、おもしろけりゃ誰も気にしやしねぇよ」
「そっ、それは……」
「それにな、マルチ。オレはあんまり小説とか読まないんだけどな――」
それまでと打ってかわって視線を和らげ、オレはキッパリと言った。
「お前の書いた話なら、読みたいと思うぜ」
きょとんとなったマルチ。だんだんとオレの言った言葉の意味がわかってきたのか、その表情が移りかわる。
呆然から驚きへ、驚きから恥ずかしさへ、そして、喜びが溢れてきた。
「はいっ! じゃあわたし、書いてみますっ。面白い話がかけるかどうか自信はあまりないですけど……、ご主人様に読んでいただくために――」
「ばぁ~か。オレだけのために書いてどうすんだ? お前が読ませたい相手はオレだけじゃないだろ?」
どうもそういうところはいつも抜けるのがマルチだ。そんなことは頭にもなかったらしい彼女は、目と口を丸くした。
「できるんならオレだけじゃなく、もっといっぱいの人に読んでもらいたいだろ?」
「そ、そうですね。わたし、すっかりそのことを忘れていました……。ご主人様のおっしゃる通り、できたらみんなに読んでいただければ、いいですね……」
「だろ? まぁ最初から上手いのが書けないのは当たり前さ。だけど上手くなるよう何本も書いてりゃ上達するもんだ。だからさ、ためらってないで書いてみろよな」
乗せたままの手でマルチの髪をくしゃくしゃとかき混ぜ、オレはスーツを着替えるために階段の方に足を向けた。
「――わたし、書いてみることにします。書きたいと思っていたお話があったんですよ。自信はないですけど、できるだけ早く書いて、一番にご主人様にお見せします」
「焦る必要はないって。じっくり書けばいいさ」
「でも、でも、すぐに読んでもらいたいと思いますから……」
「わかった。待ってるぜ。それから夕食の準備、しといてくれ」
「はいぃ~」
そんなに嬉しかったのか、焦ってるようにも思えるマルチ。そんな彼女に手を振りつつ自分の部屋に行くために階段に足をかけた。
「はぁ」
自分の部屋に入り、溜め息をついて鞄を机の上に放り出してジャケットを脱ぐ。
――かわらないよな、マルチは。
脱いだジャケットをハンガーにかけながら、オレはそんなことを考えていた。
十年前に初めて出会ったときも、八年前に帰ってきたときも、そして今も、あいつはかわらない笑みを見せてくれた。人が喜ぶことをするために頑張ってるところもかわらない。
ただ家事の腕だけはかわっている。最初はやっぱり失敗ばっかりで一人にするのが怖いぐらいだったが、一緒に住むようになって二年くらい経った頃だったろうか、いきなり掃除でも洗濯でも何でもこなせるようになった。さすがに料理は調理師免許を持ってるオレには敵わないものの、今では家のことはマルチに任せられるようになっている。
そしてあいつがやってることは、家の中のことだけじゃない。誰に言われなくても家の周りやそうと呼べないくらいまで遠いところまで掃除をしたり、呼ばれれば断ることなく近所の家に手伝いに行ったりしていた。
何事にも一生懸命で、手を抜かず頑張っているマルチ。そんなあいつは近所の人にも可愛がられていた。
それに対して、オレは何をしてるんだろうか。
不満を持つ会社で、ズレを感じる仕事をしている。マルチのようになりたいと願っているのに、そのために大学で料理の勉強をしたというのに、会社を辞めることもできず、時間だけが流れていってしまう。
「ふぅ」
再び溜め息を漏らし、ネクタイを緩めシャツのボタンを外してパソコンを立ち上げた。日課である帰宅後のメールチェックを行う。
来ていたメールは一通。来栖川HMからのものだ。
その内容は見なくてもわかっていた。少し前に交換したマルチの部品代の請求。パソコンを操作して支払いの処理を済ませたオレは、眉根に皺を寄せる。
本体だけでもオレのような一般人には高額なメイドロボだが、消耗品となる部品なんかも分割にしないと払えないくらい高かった。
そういう交換部品代だけじゃなく、マルチには点検費用、少しずつ消費する燃料電池代、それになんと言っても普通の家電製品より遥かにかかる電気代が、家計を圧迫している。部品交換についてはマルチに不自由をさせたくないと思って、必要が少しでも出てきたら必ず交換するようにしているという理由もあったが、とにかくオレは無駄遣いも遊びも控え、あいつの維持費をつくらなきゃならなかった。
会社を辞められない原因は、主にここにある。
入社当初マルチの頑張りを毎日見ていたオレは、それに引きずられるように仕事を頑張り、上司の信用を得ることができた。そのため今も同期の人間からすると重要な仕事を回されていたし、仕事量もかなりになっていた。
仕事量の分、毎月の給料は多い。それでどうにか維持費を払い切れてる。だからもし今の会社を辞めたとしたら、マルチを今みたいにちゃんとさせてやれる自信がなかった。
仕事を辞めて人に喜んでもらえるようなことがしたいという思い。
マルチの維持費を稼ぐために今の仕事を続けなければという思い。
二つの思いがぶつかって、オレはそこから出られなくなってしまっていた。
だが、そんな悩みもいつか消えることになる。それも問題が解消されるからじゃなく、問題そのものが消えちまうことになる。
七年前くらい前、ちょっと長瀬さんに用事があったオレはマルチの定期点検に着いていった。そして用事を済まして帰ろうとしていたとき、オレは長瀬さんと音山さんの会話を聞いてしまった。
話の内容は、マルチと一緒につくられた試作型セリオの廃棄処分のこと。マルチと違って休むことなく稼働を続けていたらしいセリオに、寿命が来たという話だった。
メイドロボに寿命があることくらい、たまに廃棄後の再利用や古いメイドロボの不法投棄の問題なんかがニュースでやっていたから、知っていた。だがそれを意識することなんてなかった。マルチとの生活はずっと続くんだと、無意識のうちに信じていた。
セリオの廃棄処分の話を聞いて以来、オレはマルチの寿命を意識するようになった。
オレがこんなに仕事をしてるのは実は維持費を稼ぐ以外にも理由がある。マルチと一緒に過ごす時間は幸せだ。時間が止まってしまえばいいとさえ思う。けれどゆったりしたその時間こそが、オレに寿命のことを意識させる。
何度、話してしまいそうになったことか。いっそ話してしまって、楽になろうと考えたことも数知れない。
だが話してしまえば、マルチとの幸せな生活は終わってしまう。いつ来るかわからない寿命に怯え、何もできずに泣きながら毎日を過ごすようになる自分が想像できてしまう。
なんとしてもそれだけは避けなくちゃならなかった。だからオレは無理矢理にでも残業を入れてマルチと一緒の時間を削り、がむしゃらに仕事をすることによってそれを忘れようとしていた。
――何をしてるんだろうか。
その思いがオレを満たしていく。
できるだけマルチと一緒にいたいと思っているのに、寿命のことが怖くて貴重なその時間を避けてしまっているオレ。
すべてがオレから遠ざかるように思えてくる。
会社のことも、マルチの寿命のことも、すべてが悪い方向にばかり流れていってしまう。そしてオレは、その流れをかえることができず、悩み続けてるばかりだ。
そして今、マルチの寿命が近づいていた。
雅史の結婚式があった日の朝、いくら大きいったって扉の音程度でオーバーヒートを起こして倒れてしまったのもその兆候の一つだと思う。
もとから多いマルチだから、オーバーヒートくらいじゃ寿命だなんて思わない。けど近頃のオーバーヒートは普通じゃなく、扉が立てる音なんていうたいしたもんじゃないことでも起きるようになっていた。それに加えて、メイドロボではあり得ないだろう目眩や放心なんかも起こり始めてる。さらにそれが日を追う毎に増加していた。
マルチに何か起こる度に、オレはいても立ってもいられなくなる。だが幸せが壊れてしまうのが怖くて、毎回言い出すことはできなかった。
「オレは、こんなに弱い人間だったんだな……」
もう何も考えたくなかった。パソコンを置いてある机の椅子に座って身体を預ける。ただ、溜め息が漏れていった。
いつまで逃げ続けていられるだろうか。マルチの寿命が尽きるその瞬間までだろうか。そしてあいつがいなくなった後、オレはどうやって生きて行くんだろうか。
考えてても仕方ない。マルチがつくってくれる食事を食べるため、着替えを再開した。
部屋着に着替え終え、鞄を手に取る。明日は久々の休みで出掛けることにしていたが、それでもオレはもって帰ってきた書類を整理するために鞄を開けた。
書類と一緒に出てきたカタログの入った封筒。それを手に取ったオレは、中に戻しておいた写真を取り出す。
それに写る二人のことが気になったが、調べようがなかった。
――今度長瀬さんに会ったときに返して、訊いてみよう。
写真をスーツのジャケットのポケットに放り込み、オレは一階へと降りていった。
「あ、ちょっと待ってて下さいね。もう少しで準備ができますから」
ダイニングに入ると、ちょうどお皿を一つテーブルに置いたマルチがそう言いながらキッチンに引っ込んで行くところだった。
用意された一人分の食事の前に座り、オレは準備が終わるのを待つことにした。
キッチンでマルチが忙しく立ち働いてるのが見える。新聞を広げたオレは適当にテレビをつけ、置いてあったビールに手を伸ばし栓を抜く。
「ご主人様、お注ぎしましょうか?」
「ん~、お願いしようか」
もう一皿持ってきたマルチにお酌してもらって、ぐいといっぱいコップを傾けた。
「ぷはぁ~。うまいっ」
「やっぱり仕事の後はビールが一番ですか?」
「もちろんさっ」
幸せだった。
本当に何でもない時間だが、マルチと一緒にいられるこの時間さえあれば、他には何もいらないと思える。止まって欲しいと願うのに、それを叶えることはできない。
メインディッシュはまだ運ばれておらず、ビールのつまみとしてマルチはボールからサラダをお皿に盛った。そしてまた、キッチンに戻ろうと笑みを残して踵を返した。
――もう二度と、行かないでくれっ!
突然爆発するように膨れ上がったその気持ちが、オレにマルチの腕をつかませた。
「ご、ご主人様?」
つかんだ腕を引き寄せ、立ち上がったオレはマルチの身体を抱き締める。自分の肩にマルチの頭を抱え込み、目をつむった。
「どこにも行くな。少しでいい、ここにいてくれ」
その言葉に応えるように、無言のままマルチの手がオレの手に添えられる。
かすかな髪の匂い。
柔らかい抱き心地。
伝わる温かな体温。
一生の中で、絶対に失いたくないもの。それが今、オレの腕の中にあった。
「マルチは、お前はずっと……、マルチ、だよな」
ぎこちない言葉だった。今の気持ちをどんな風に表していいのかわからなかった。
そんな言葉でも、マルチには伝わったらしい。
「――はい」
オレの腕に添えられたマルチの手がキュッと握られる。それに応え、オレも腕に込めた力を強めた。
安らかな気持ちになれるひととき。
オレは絶対に、これを失いたくなかった。
*
「ただいま」
いつもの習慣で挨拶をかけながら家に入ったが、声が返ってくることはない。
私の後にだれも帰ってくることはないため、玄関の電気は落としたままリビングに入る。リビングにも、他のどの部屋にも灯りが点いていることはなく、家の中は静まり返っていた。
父は子供の頃から来栖川屋敷の住み込みとなっていた。
母は、研究だと言って世界中を飛び回り、ここ三年ばかり連絡はなく、最後に直接顔を合わせたのは八年も前という状態だった。
この家が明るかったのは、三十年ほど前から二年と少し、みのりが生きていた頃だけだ。そのとき以外は、いつも寂しさを漂わせるほどの沈黙に支配されている。
「ふぅ」
もうクセになってしまった溜め息をつき、リビングの電灯を点けて手に持っていたビニール袋をテーブルに置く。袋の中から近くのコンビニエンスストアで買ってきた弁当を取り出し電子レンジに入れ、時間をセットした。続いてコーヒーメーカーの準備も済ませる。
結局、藤田君にマルチの点検結果を報告できずに帰ってきてしまった。
稼働限界を超えたという結果から、マルチがあとどれくらい動き続けられるのかはわからない。それほど重大なことなのだからすぐにでも浩之君に伝えなければならない。しかし私は、それをためらったまま自宅に帰ってきてしまった。
暖め終わった弁当を出し、まだ途中だができた分だけコーヒーをカップに移してテーブルに戻る。置いてあるリモコンを取り、テレビをつけた。
実はそのテレビは普通のテレビではない。趣味でつくった家内ネットワークの端末コンピュータのモニターになっている。
食事に手を伸ばしながら、手元のリモコンを操作してメールチェックを行わせる。
どこから調べたものかわからない広告のメールがいくつか。取り寄せた資料に関するメールが十数通。会社関係者や知人友人からのメールが少し。
いつもと何もかわった様子はない。
いや、一通だけ、広告や資料とは異なり、普段連絡を取っている人とも違う人間からのメールが届いていた。
「これは……」
思わず声が出してしまう。
そのメールは私の母、瑞恵からのものだった。
別に驚くほどのことではないような気もする。しかし、彼女は帰ってくるときは何も言わずに帰ってくるし、近況を聞くために連絡を取ったりすることはないタイプの女性だ。
予感。
三年振りに届いた瑞恵からの連絡。
私はメールの内容を読む前から、不吉な予感を覚えていた。