実りの季節を待ちながら 実りの季節シリーズ2   作:きゃら める

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第四章 ~強風~

 

第四章 ~強風~

 

 

          * 1 *

 

 マルチⅡは早朝、来栖川のサービスマンによって引き取られていった。

 長瀬さんは来なかった。あの写真を返して、そこに若い頃の長瀬さんと一緒に写る女の子のことを訊こうと思ったのに、できなかった。それから「おにぃちゃん」と口走ったマルチと、その女の子との関係についても訊きたかったのに……。

 マルチは、いつまでも泣いていた。

 一晩中泣き続け、電源がなくなった朝方、充電で部屋に下がったが、それ以外のときはずっとマルチⅡを抱き続けていた。マルチⅡが引き取られていくときも、車が見えなくなった後も手を振り続けていた。

 しかしオレは、マルチと同じ気持ちになれなかった。そのときはもうオレの知ってるマルチに戻っていたのに、どうしてもあいつが流す涙が別人のように思えて、醒めた目でしかその様子を見られなかった。

 ――そんなこと、あるはずないのに。ないはずなのに、オレは……。

「おにぃちゃん」と言ったときのマルチの声が、瞳が、どうしても頭から離れない。

「はぁ」

 溜め息が漏れ出てきて、机に肘をついて落ちそうになる頭を支えた。

「藤田」

 ――これから、どうなるんだろうか。

 まったく予想もできなかった。

「藤田っ」

 ――どうなっていっちまうんだろうか。

 オレにできることは何かあるんだろうか。

「藤田浩之!」

「はいっ」

 呼ばれたのに気づいてオレは勢い良く席を立った。

 周りを見てみると、四角に並べられた長机に部長や課長、他にも各部署の主任格の人間が座ってオレに視線を向けていた。

 ――そうか、会議中だった。

「どうしたんだね、藤田君。会議中にボォッとするなんて君らしくもない。……それに最近、君は少しおかしくないかね?」

「いえ、大丈夫です。何でもありません」

「そうか。だったら前に行きたまえ。君の番だ」

「はい」

 書類を手に取って、オレは大型モニターの脇にあるマイクが置かれた演壇につく。演壇についたモニターを操作するパネルのスイッチをいくつか押し、自分が発表する画面に切り替えた。

「それでは、各契約店の経営状況などについて発表させていただきます。お手元の書類のページでは――」

 代表してオレがまとめた各契約店の経営状況を発表していく。

 まだまだ契約店数少ないものの、全体を見ると売り上げはかなりの上昇傾向を保っていた。客から寄せられる要望書なんかも良好で、各店の経営にはまったく問題は見られないように思える。

 しかし――。

「以上で各店の経営状況の発表を終わらせていただきます。それから付け加えて、各店から出ています要望をまとめましたので発表させていただきます。

 巡回で各店を回っていますと、多くの要望がオーナーや店長から出されます。それはとくにマニュアルに関すること、引いては各店に対するローカルなレベルでの我々契約側の対応などに関する問題であり――」

「藤田君!」

 直属の上司の言葉によって、オレの発言は遮られた。席を立った彼はすごい形相で詰め寄ってくる。

「それは君のやることではないんだよ。わかるね?」

「ですが……」

「『ですが』も何もない! 君は自分の仕事を間違えている。席に戻りたまえ!」

 突き刺さるような視線と、抑えながらも激しい叱責の言葉を受けて、オレは自分の席に戻った。

「何やってんだよ、バァ~カ」

 そんな同僚の言葉なんて無視した。握りしめた両の拳を、会議机の板が割れよとばかりに押しつける。

 ――ズレが、大きくなっていく。

 オレはこの会社を、契約レストランを良くしようと思ってる。出てくる意見は納得できるものが多い。それを提示して運営を良い方向に持っていこうと思っているのに、会社はそれを受けつけてくれない。

 契約店との意見交換はオレの仕事じゃないのは確かだ。提示の仕方も悪いのはわかってる。だからと言ってまったく無視する必要はないんじゃないだろうか? それどころか会社では、マニュアルの内容を押しつけるばかりで、各店から出る意見を軽視する傾向が強かった。

 ――オレは、この会社で何ができるんだろうか?

 良くしようと思ってるのに、それを受けつけない会社。仕事自体もオレが目指してることとはズレている。

 会議はまだ続いていたが、オレは今すぐにでもここを立ち去りたかった。その気持ちを歯を食いしばって抑え込み、できるだけ静かに椅子に座り続ける。

 これもマルチとの生活を維持するためだった。今ここを立ち去ってしまえば、それが壊れちまう。マルチとの生活だけは失うわけには行かない。その一念だけで、オレは自分を抑え込んでいた。

 会議が終わったら体調不良を理由に早退しよう。あいつの顔を見て、あいつと語り合って、マルチⅡのみたいに動かなくなる前に、少しでもあいつと一緒の時間を過ごして……。

 ――『おにぃちゃん』

 耳に聞こえてきた、その言葉。

 あのときのマルチの声が、あのときのマルチの瞳が、頭の中によみがえる。

 ――オレはもうダメだ。

 マルチへの想いは一瞬にして消えていた。あんなマルチを見るくらいなら、家に帰りたくないとさえ思い始めている。

 腰のフォルダーに入ってる携帯電話をこっそりと取り出した。机の下に隠しながら、短縮番号を押す。そして二人の間で決めてある秘密のメッセージを打ち込んで送った。

 逃げだということはわかっていた。そんなことをしたところで何も解決しないのもわかってる。それでもオレは自分の気持ちを少しでも和らげるために、マルチのことを忘れてる時間をつくらなくちゃならなかった。

 携帯電話が着信を告げるために震え始めた。

 バイブレータを止め、小さな液晶画面を見てみると、そこにはOKの文字が映し出されていた。

 

            *

 

「ふぅ」

 休憩室の自動販売機でカップのコーヒーを買った私は、部屋の中央に置かれた机にある椅子の一つに座り息をついた。カップを両手で包み込むようにして持ち、一口飲む。

 来栖川HM研究開発部第一班の企画会議は、ちょうど一休みに入ったところだった。今回の会議では、来々期の新コンセプトメイドロボの開発のために、一班内でさらに別れているハード、ソフト両開発係、設計や外見デザインなどのすべての人間が集まり、大規模な会議となっていた。

 三班構成になっている研究開発部のうち、三班は廉価な普及機のコストダウンを、二班ではこれまでリリースされている高級機のさらなる高性能化を担っていた。そして一班では、まったく新しいコンセプトのメイドロボ、及びそのための技術の開発を担当している。

 しかし、音山が主任補として現場に在籍していた時代に開発を行ったアヤノ以降、細かな部分の技術開発がせいぜいで、まったく新しいコンセプトと言えるほどのメイドロボが生み出されたことはなかった。

 今回の企画会議でも状況はかわらない。ハード、ソフトともにいくつか新しい案が提示されてはいたが、アヤノほどの旋風を巻き起こす可能性は無きに等しいものでしかない。業界全体がほとんど同じ状況に陥っていると考えれば少しは慰めになるかも知れなかった。けれど私が求めているものは、業界に旋風を巻き起こすようなメイドロボではなく、マルチの娘たちだった。

 ――私はあと、何ができるんだろうか?

 まだわずかに湯気が立つカップを眺めながら、私は自分が持つものを考える。

 マルチの娘たちを生み出すために進めてきた研究は、彼女が「おにぃちゃん」と口走ったことでほとんど使えなくなってしまった。心を生み出すために必要なものは、マルチの情動の解析結果からフィードバックした技術とともに、みのりの記憶が必要であったから。

 AHSでも応用したことだが、マルチに搭載したPNNCは無意識とも言うべき制御により、みのりの記憶を表情や言動を表現するための参照データとしている。それに学習機能などが関係することによって心とも言うべき情動を生み出しているようだ。

 だが寿命が尽きる間際に起こる記憶の混乱が、みのりの記憶を表面化させる可能性がある。可能性が少しでもある限り、その方法による心の搭載は私にとっても、生み出されたメイドロボにとっても、あまりに危険なことだった。

 みのりの記憶を使わずに心を生み出す方法があるとしたら、それと同等の参照データをつくってやるしかない。けれど十年もの間にほとんど解析できず、不明な点ばかりの人間の記憶と同等のデータなど、私では生み出せるはずがなかった。

 ――やはり唯一の方法は、あの研究に参加してそれだけの技術を得ることだけなのか……。

 そこまでわかっていても、私はまだ参加とも不参加とも決心をつけることができないでいた。

「長瀬主任。隣、よろしいですか?」

 ポケットから煙草を取り出して一本くわえていたとき、そんな声がかけられた。

「三津木君か。えぇ、こんなおじさんの隣であればどうぞ」

 彼に笑みを見せた後、私は煙草に火を点けた。

 カップコーヒーを買ってきて、他の席はすべて空いているのにわざわざ私の隣に座った彼は、さっきまで一緒に会議に参加していた開発課第一班の若手、三津木信也。三十代中盤以降の古参の人間しかいない一班の中で、若干二六歳の彼は熱意ある所員としてよく記憶している。若いからと言って未熟ということはなく、ずいぶんメイドロボの勉強をしてきたらしい彼は、経験こそ少ないもののこれからが期待できる人物として一目置いていた。

「あの、主任。新コンセプトのメイドロボは出てきそうですか?」

「それはあの会議に参加していたならわかるでしょう。私たちが求めるアヤノを越えるようなメイドロボは、今回も出そうにありませんね」

「そうですか……」

 長くなった灰を灰皿に落として三津木君の方を見る。何かを考えているかのように、彼は自分の正面を真っ直ぐに見ていた。

 しばらくそんなことをして、カップの中身を一口飲んだ彼は、私にそのままの真剣な目を向けてきた。

「マルチのようなメイドロボは、どうです?」

「ん?」

 何を間の抜けたことを言うのだと私は顔をしかめる。

 マルチと言えば、普及型としてシリーズ化しているメイドロボにつけている名前だ。今は三班が春に行われる次のメイドロボショーに向けて、マルチⅣの最終調整に入っているはずだった。

「マルチがどうかしたんですか?」

「メイドロボの新しいコンセプトの話なんですけど……。あっ、マルチシリーズのマルチじゃなくて、今から十年前に発表されたときの試作型のマルチ、HMX―12のことです」

「君は、あのマルチのことを知ってるのか?」

 それまでの真剣さが崩れてあたふたしている三津木君に思わず詰め寄る。

「え、えぇ。知ってます。なんたってあのマルチは、僕のクラスメイトだったんですから」

 彼の年齢は二六。既に誕生日は過ぎていたはずだから、十年前と言えばちょうど高校一年生に当たる。

 合点がいって、浮き上がっていた腰を椅子に戻した。

「そういうことだったんですか」

「すみません。言葉足りなくて。……ヘンな話なんですけど、僕がこの業界に入ったのは、あのマルチがきっかけだったんですよ」

 何もない机の上を見つめる彼が、浸るように語り出す。

「こう見えても僕、昔はけっこう荒れてたんですよ。中学の頃から煙草吸って、酒飲んで、学校さぼったりしてて……。どうにか入った高校のクラスにマルチが来たときも、『オモチャが来た』なんてこと考えてたんですよ。――あっ、すみません。あの、僕はそんな――」

「いえ、構いませんよ。その先を聞かせて下さい」

 吸う気が無くなった煙草をもみ消し、彼に笑みをかける。すまなそうな顔をしながらも彼は話を続けた。

「それからクラスの奴らと一緒にマルチにずいぶん悪いことをしました。掃除を一人でやらしたり、通勤ラッシュよりひどいって言われてた学食のパンを買いに行かせたり……。でもなんか、違うんですよね。マルチって、メイドロボだから、とか、仕事だから、とかでやってるんじゃなくて、いつも微笑みながらやってるんですよ。それ見てて不思議に思いました。それで試験の最終日にマルチに『なんでいつも笑って仕事してんだ』って、訊いてみたんです。そしたらあいつ、こう答えたんです。『人が喜ぶことを好きなんです』って。

 なんでもない言葉のはずなのに、クサイくらいで、いつもなら鼻で笑い飛ばすような言葉なのに、僕、感動しました。僕はそのときかわりました。自分ができる何かをしようって、思うようになりました。

 そのことに気づくのが遅すぎたんです。廉価仕様になった量産型のマルチは微笑むことができないのを知って、それまでぜんぜんできなかった勉強を必死して大学に入りました。そしてもう一度マルチに会うために、あいつみたいに微笑むメイドロボをつくるために、この来栖川HMに入ったんです。だから、長瀬主任」

 十年前の藤田君を思い起こさせるような三津木君の目に、私は吸い込まれるように見入っている。

「アヤノも微笑むことができますけど、あれは違うんです。マルチの微笑みとは違うんです。だから僕は、新しいコンセプトとして、マルチのようなメイドロボを提案しようと思っています」

 ――藤田君以外にも、マルチによってかわることができた人間がいたんですね。

 その事実を受け止めながら、しかし、私の心はあくまで静かなままだった。

「もう一度マルチのようなメイドロボをつくることは、できないんですか?」

 真っ直ぐな目をした彼に対して、私はこう答えた。

「無理なんですよ。もう一度マルチのようなメイドロボをつくるなんてことは、不可能なんですよ」

「そんな……」

 三津木君の顔に驚愕に染まる。それを見る私の顔からは微笑みが消え、冷徹なまでの表情にかわっていた。

「あの試作型のマルチの情動は、偶然の産物だったのですよ。技術として確立していない段階で生まれてしまった、あくまで偶然の産物。それにもし、もう一度マルチのような微笑みを浮かべられるメイドロボをつくったとしても、それはユーザーの要求を越えたものです。世の中に受け入れられず、部長の量産許可も出ずに試作のまま終わるでしょう」

 三津木君ばかりでなく、その言葉を言った私自身驚いていた。

 音山の言ったことをそのままに受け入れ、自分の言葉として口にしている。

 ――私はもう、マルチの娘たちを世の中に送り出すことを諦めつつあるのか。

 みのりの記憶を使えないのだとしたら、これ以上研究を重ねていても無駄なのかも知れない。一から人間の記憶並みの情報をつくり出すことは技術的にも労力的にも不可能だ。

 私のメイドロボの研究は、完全に行き詰まっていた。

 唯一その打開策になり得そうなのは成体クローン研究への参加だが、それすらも確実なものではない。

 ――みのりの夢は、私の夢は、もう実現できないのか。

 絶望的な気持ちに何もやる気が無くなった私は、まだそこにいる三津木君のことを見た。

 彼は血が出るほどに唇を噛み、私のことを睨んでいた。残っていたカップの中身を飲み干し荒々しくそれをゴミ箱に投げ込むと、立ち上がって言い放つ。

「たとえどんなに問題が大きくても、どれほど時間がかかるとしても、僕は諦めません。僕のすべてを投げ出すことになるとしても、絶対にマルチのようなメイドロボをつくり出して見せます。諦めたら、すべてが終わってしまいますから」

 迷いのない強い目が、淀みのないキッパリとした言葉が、私に向かって降ってきた。

 ――やはり彼はどこか、藤田君に似ていますね。

 絶望感に半分放心しながらもそんなことを感じていた私は、立ち去ろうと休憩室の出口に向かう彼に背中に向かって問う。

「なぜ、そこまでしてマルチにこだわるんですか?」

 振り向かないまま扉に手をかけた彼が答えた。

「僕の夢だからです。マルチみたいに人に喜んでもらうことを、僕もしたいと思うからです」

 バタン、という激しい扉の音とともに、三津木君は去っていった。

 残された私の心の中に生まれてくる想い。

「夢だから、か」

 彼の言葉を反芻する。

 三津木君と少し意味合いは違っていても、私にとってもマルチは夢だった。マルチの娘たちをつくり出すことが、私の夢であり、みのりの夢を実現するための第一歩となるのだ。

 藤田君以外にもマルチがこれほどまで人をかえていたという事実が、今になって私の胸を熱くしていた。

 ――諦めたら、すべてが終わってしまいますね。

 まだ可能性が完全に断たれたわけではない。成体クローン研究への参加という、かすかにしろ希望となり得るものが残っている。

 もう冷え切ったコーヒーを飲み干し、座ったままゴミ箱に放り込んだ。立ち上がって一つ伸びをする。

 ――参加するかどうかはともかくとして、話を聞いてみるのは悪くない。

 絶望感が消えているのを感じながら、休憩時間中に連絡を取るために、私は近くの電話のある場所へと歩き始めた。

 

          * 2 *

 

 床から天井いっぱいまである窓からは、高層ビルが林立する夜景が見えた。空は晴れているが星は見えない。その代わりに、見下ろす地上にはたくさんの灯りが輝いていた。

 人によってはきれいと表現するかも知れないその風景だが、食前のワインをちびりちびりと飲むオレには、何の感覚も伝わってこなかった。

 ゆったりとしたクラシックが流れるホテルの展望レストラン。オレはその窓際の席で、昼にメッセージを送った人物と待ち合わせしている。

 それほど待つ必要はなく、約束の時間のきっかり十分前になると、オレの顔が映ってるガラスにもう一人の人物の姿が現れた。

「ゴメン。遅れちゃった?」

「いや。約束の時間にゃまだなってないぜ」

 振り返ったそこに立っていたのは、オレと同じくスーツを着た退勤姿のあかり。

 彼女の後ろについてきたボーイが「どうぞ」と椅子を引き、あかりは座ってメニューを受け取った。

「呼び出してすまねぇな。身体の方は大丈夫なのか?」

「病院で看てもらったし、昨日一日ゆっくりしてたから、もう何でもないよ」

「そっか。まぁ、とにかく何か食おう。腹は空いてんだろ?」

「うん」

 適当にコースを注文し、一緒に酒を頼んだ。

 ボーイにメニューを渡して顔を上げる。すると目の前のあかりは、真剣な顔とも笑みともつかない表情を浮かべていた。

 何か言いたげに感じるが、しかしオレは何も言わない。こいつとこうして二人きりで食事に来たときは、沈黙を守るのがまるで決まり事のようになっていた。

 あかりもオレがこうして呼び出す理由はわかってくれてる。だから運ばれてきた食事をひたすら口に運び、ワイングラスを傾けつつも、オレたちの間で会話が成立することはない。

 初めてあかりをこんな風に呼び出したのは、もう五年も前、大学卒業直前だったように思う。その一年前にセリオの廃棄処分のことを聞いてしまったオレは、その頃マルチのことでどうしようもない思いが溜まりに溜まっていた。さすがに誰かにそれを打ち明けようとあかりを呼び出した。だがマルチとの生活が失われるのを恐れるオレは、呼び出しておきながら話し出すことができず、そしてその夜は、二人とも家に帰らなかった。

 そんなことがあって以来、マルチのことでどうしようもなくなったときはあかりを呼び出すようになってしまっていた。ふた月に一回かそれ以上、彼女とはこうして会っている。それも近頃は、そのペースが早まってきてる。

 あかりと密会を重ね、そのときだけマルチのことを忘れられたとしても、何の意味もない。あかりがどんな想いでここに来てるかも気づいてないわけじゃない。

 それでもオレは、暴走しそうになる自分自身を抑え込まなくちゃならなかった。あかりにすがる以外に自分を抑える方法は、見つからなかった。

 食事が終わり、デザートも食べ終わった。いつもと違ってあかりがちらちらとこっち見ているのは知っていたが、やはり無言のまま残りのワインを傾け、オレは夜景を眺めている。

 この後は、予約していた部屋に二人で入って、朝まで過ごす以外やることはない。

「浩之ちゃん。ちょっといい?」

 ほろ酔い気分で何も考えれなくなりつつあるとき、それを破ってあかりが声をかけてきた。

「なんだ?」

「あの、あのね。私、その……」

「何なんだ? はっきりしろよ」

 ちょうどいい気分のとき――マルチのことを忘れかけていたときに声をかけられ、オレは少し不機嫌になっていた。声音にこそ出てないが、口調がどうしても荒くなってる。

「うん、わかった。はっきりと言うよ。いい?」

「あぁ」

 酔いが頭にまで回っているオレは、次にどんな言葉が出てくるかなんて予想すらしなかった。ただ残りわずかなワインを空けてしまおうとグラスに手を伸ばしていた。

 大きく深呼吸したあかりは、そんなオレを正面から見据えて、言った。

「私、妊娠したの」

 一瞬にしてすべてが止まった。

 グラスに伸びていた手も、耳に聞こえていたクラシックも、かろうじて動いていたオレの思考も、すべてが。

 あかりが何を言ったのかはしっかり聞こえていた。しかしそれが頭の中に浸透し、意味を理解するまでにはずいぶん長い時間がかかった。

「――あかり。それは、ホントか?」

「うん。病院で確認してもらったから」

「もしかしてお前、オレ以外の――」

「私が! ……私が、浩之ちゃん以外の人と、そ、そんあことするわけ、ないよ……」

 頬を赤くして少しうつむいたあかり。まだ信じられないオレは、震える声でもう一度念を押す。

「じゃあそれは、それはオレの、オレのなのか?」

「浩之ちゃんと、私の、だよ」

 赤いままの顔を上げた彼女は、優しさに満ちた笑みを浮かべる。

「おかしいとは思ってたの、少し前から。毎月のものが遅れてて、下がるはずの体温も下がらなくて……。どうしたのかなって思ってたら、この前の三人で出掛ける約束をしてた日の朝に、吐き気があって……。調べてみたら、そうだったの。お医者さんに、妊娠だよ、って、言われたの」

 耳まで赤くなって、あかりは顔を伏してしまった。

 ――オレの、子供?

 そういうことへの対策はしていたつもりだ。だがそれが完璧かと言われれば、そこまでの自信はない。

 実感なんてぜんぜん湧かなかった。何かを考えようとしてるのに、思考が空回りしてる。あかりに目を向けてはいたが、彼女を見ていない。視界がぼやけてきている。

「浩之ちゃん? 大丈夫?」

 あかりにかけられた言葉さえ、今のオレには意味をなさなかった。

 ――どうなっちまうんだ?

 ただその思いだけが頭の中を駆け巡る。

 マルチの寿命。みのりという娘の秘密。「おにぃちゃん」。職場でのズレ。オレの夢。未来の生活。結婚。そして、あかりにできた子供。

 すべてがオレを追いつめていく。オレが何もしなくても、状況がどんどん悪くなっていく。

 あかりを唯一の逃げ道にしてたのに、それすらも失われてしまった。

 充満する思考を処理しきれず、頭痛がしてきた。顔を右手で覆って、こぼれ落ちそうになる熱いものを隠す。

「どうしたの?」

 心配そうにオレの顔を覗き込んできたあかりに言う。

「帰ってくれ」

「え?」

「今日はもう、帰ってくれ」

「どうして? どうしてなの? 浩之ちゃん」

 悲しそうなあかりの声が耳に伝わってきた。

「すまねぇ。いろいろあって、一人で考えたいことがあるんだ。その話は……、また今度、近いうちに話をしよう。だから今日は、一人にしてほしいんだ」

 全身をさいなむ苦しみに、オレは絞り出すようにその言葉を吐き出す。

「……うん。わかった。また今度、話しようね」

「すまねぇ」

 立ち去るあかりの姿を見る余裕なんてなかった。顔を握りつぶすつもりで右手に力を込め、溢れ出しそうになる何かを必死に堪えていた。

「どうなっちまうんだ、オレは」

 苦しすぎて、堪えきれなくて、オレはつぶやきを漏らす。

 逃げ道を用意してること自体、莫迦なことだとわかっていた。だがオレは、あかりにでもすがってないと、自分を保ち続けることなんて到底できなかった。

 ――弱い人間なんだ、オレは。

 マルチの寿命と向き合うことができず、今まで過ごしてきた。あかりにすがってバランスを保つことによって、どうにかやってこれた。

 それももう、できなくなってしまった。

 流れ始めた涙が腕を伝い、肘から滴ってテーブルクロスに染み込んでいった。静かな雰囲気のレストランの中で、オレは一人叫び声を上げそうなくらい苦しんでいる。

 これから先どうなっていくかなんて、オレにはもう、考えることができなかった。

 

            *

 

 入り口のボーイに人待ちであることを告げると、まだ約束の時間には早いにも関わらず、相手は来ていると教えられた。

 ボーイに先導されながら相手の待つテーブルに向かう。歩いていくうち、緊張が周囲を見る余裕すら失わしていくのが感じられる。

 グラス片手に高層ビルが林立する夜景を眺める女性がいるテーブルに、私は案内されてきた。

「あら、早かったわね。源五郎」

「そちらこそ」

 軽くだけ挨拶を交わして、八年振りに顔を見る母と呼ぶべき人物の正面の席に座った。

「ごめんなさいね。オフでこっちに来てたわけじゃないから、今日しか暇がとれなかったのよ」

「いえ、私の方こそ早く会いたいと思っていましたので」

「それはよかったわ。じゃあとりあえず食事にしましょう。あなたを待っててお腹が空いちゃった」

「わかりました」

 一通りの食事と飲み物を頼み、しばらくして運ばれてきたそれに手をつける。ナイフとフォークを上品に扱いながら、瑞恵は話を始めた。

「それで、考えてくれた?」

「……えぇ。考えはしました」

「でもまだ答えは出ていないのね」

 どんなに接している時間が少ないとは言え、さすがは肉親というところか。私は読まれた心の内を頷きで応えた。

「メールに書いた程度のことじゃ、判断材料にならなかった?」

「いえ、そんなことはありませんが――」

「不安?」

「……それもありますし、まだわからない点もあります」

 瑞恵はフォークを持った手を深紅の口紅を塗った口元に添えてくすくすと笑う。

 彼女の年齢は、私が四十半ばになった今、七十に近い。皺も目立たず、髪も黒いままの彼女の笑っている姿は、四十後半でも通るだろう。

 さすがに八年前に比べて歳を取ったのはわかった。けれど八歳も歳を取ったようには見えない。そして何よりその瞳には、老いなど感じさせないぎらぎらした研究者としての輝きがあった。

「研究の状況はメールに書いた通りよ。現段階で人工子宮を使ってつくり出せるのは八歳程度の身体だけね。それ以上は強制的な成長の無理に調整が間に合わなくて、どうしてもちゃんと成長してくれないの。記憶についても書いた通り、コピーはできても肝心の書き込みがほとんどできないわ。少しはできるようになってきてるけど、そのまま流し込むだけじゃやっぱりダメね。記憶を解析してちゃんと配置しながら書き込まないと正常に動いてくれないみたい」

 大きな声でないにしろ、こんな危険な会話を潜めることもなく話す瑞恵。何より、その研究で生まれたクローンのことを人間と認めている様子がないところが、話の内容よりも強い危険を感じる。

「行き詰まってるのよね、どうしてもそこで」

「それで私に参加要請ですか?」

「そう」

 答えて分厚いステーキの切れ端を口に運んだ瑞恵は、何度か租借してそれを飲み込んだ。

「いいのよ、源五郎。遠慮しなくて。あなたはこの研究を他のことに応用しようと思ってるでしょ?」

「……」

「それでいいのよ。私たちはあなたの技術を利用する。あなたは私たちの研究を利用する。それで双方利益があるのなら、いい関係だとは思わない?

 ……食事が冷めるわ。食べてしまいなさい。せっかくなんだから」

 私の考えをすべて見透かした瑞恵に促され、フォークとナイフを構えたまままったく手をつけていなかったメインディッシュに対峙した。冷え始めているステーキを一切れを口に運ぶ。

「あなたと、音山君ね、BCHMをつくったのは。あれは素晴らしいとしか言いようがないものだわ。セクションの構成、部野の特化……。あの概念はこれまでのニューラルコンピュータにはなかったものよね。それだけの技術があれば、私の研究に参加するには申し分ないと思ってるのよ」

 BCHMの概念は、確かに私と音山が考え出したものだ。設計にも少なからず関わっている。しかしそれだけならば、私だけでなく音山を一緒に誘ってもよいはず。

 瑞恵が私に声をかけた理由は、それだけではない。

「あなたは、どこまで調べているんですか」

「母親のことを『あなた』と呼ぶように育てた覚えはないわよ。しばらく会わないうちにかわったのかしら? 源五郎」

 言葉の割に怒った様子がない瑞恵は、ふふっと笑う。

 私を生んだ直後、自分の子供を一度として抱くことなく研究の世界に戻っていった瑞恵。そんな彼女に「育てた覚えはない」と言われ、私は眉を潜めた。

「時間とお金を惜しまなければ、世の中に調べられないことはないものよ。BCHMのことも、あの、マルチっていう試作型のメイドロボのことも、ね。さすがに音山君がかけてたガードをかいくぐってあのメイドロボの情報を手に入れるのには、ずいぶんお金をかけちゃったけど」

 ――思っていた通りか。

 金と時間をいくら費やしても大丈夫な環境。やはり成体クローンをバックアップしている組織は、一個人や第三国のような小さなものではない。

 その事実は私に恐怖を覚えさせ、同時に希望もまた、与えていた。それだけの組織がバックにあるならば、これまでのように仕事の合間に予算もない状態で研究をする必要はなく、存分に打ち込むことができるからだ。

「それで、だけど。研究参加にまだ悩んでるところなのね」

「……」

 食事を終え、ナプキンで口元を拭いた瑞恵はワインを飲む。考えるために無言でいる私を見、彼女は口を開いた。

「じゃあもう少し判断材料を上げるわ。源五郎、あのマルチってメイドロボを、提供してくれない?」

「――なぜ!」

「それくらいで興奮しないの。つまりね、あのメイドロボにはみのりの記憶が組み込んであるんでしょ? あなたに渡したディスクの記憶は完全じゃないわ。人間の記憶は膨大なものよ。今では小容量になってるあのディスクの一枚や二枚で収まるほど少なくはない。それにあの頃の技術では積極的に処理されてる記憶――いわゆる走馬燈なんて言われてる部分しか、コピーできなかったでしょうしね。それで、あのメイドロボの蓄積情報も必要なのよ。あのメイドロボはみのりの記憶を持っていても、正常に稼働してるんでしょ? たぶんその辺りを研究すれば、いくらか成体クローンに応用ができるはずだわ。

 だから、あのメイドロボを提供して欲しいの。いいでしょ? 源五郎」

 瑞恵の言葉に怒りさえ覚えていた。

 これだけ調べているのだから、マルチに心が、もしくはそれに近いものがあることもわかっているはず。しかし彼女はそんなことは気にしていない。マルチには意志があるというのに、そんなことなど無視して、私に提供を求めてくる。

 冷え切った食事に向かっていた手が止まり、私はフォークとナイフを握り締める。

「怒ってるの? わかってるわ、源五郎。あのメイドロボには心があるって言いたいんでしょう? えぇ、もちろんわかってるわ。だからこそ必要なのよ。その記憶を成体クローンに移植したとしたらどうなるか……。楽しみじゃない?」

 やはりマルチの心のことを知っている。だがその口振りには、そのことを気にしている風はない。

 興味があることは否定できなかった。しかし今は抑え込んだ怒りの方がそれを上回る。

「それにね、こんなこともできそうなのよ」

 含み笑いを漏らし、もったいぶったように私の反応を見てから、言う。

「みのりを、生き返らせることができるかも知れない」

 その瞬間、怒りが吹き飛んだ。

 ――できるのか、本当に。

 音山の言っていたことが思い出される。本当に可能だとしたら私がどうなってしまうのか、まったく自信がない。みのり復活に捕らわれてしまう可能性は否定できなかった。

 しかし、本当に可能だとは思えない。瑞恵の言う通りみのりの記憶は一部でしかない上、その身体は火葬して既にないはずだ。

 そんな否定の思いも、瑞恵の言葉に砕かれた。

「驚いてるようね。もちろんだわ。記憶の刷り込みの方はまだだけど、記憶の解析の技術は進展の見込みがあるのよ。みのりの記憶と、あのメイドロボの蓄積情報があれば、完全じゃないけど記憶の復元が可能になってくるはずなの。それでも足りないでしょうけど、人間は生きてくうちに環境や状況に適応していくものよ。最初は問題が起きるかも知れないけど、そのうち大丈夫になるはずだわ。それからね――」

 もう一度含み笑いを漏らした後、告げられた事実。

「みのりの身体は保存してあるのよ。できるだけ修復して、冷凍して、ね。もうあの頃にはこの研究に携わっていたから」

 握った拳が震え始めた。

 二七年前からそんなことを考えていたなど、信じられなかった。

 私は、自分のことを研究者だと思っている。研究に一生を捧げ、そのためなら人の道を少しくらい外れたって構わないと思っているくらいの、研究に狂った人間だと。

 けれど瑞恵はそれを遥かに上回る研究者だ。

 研究のためなら人の道など無視できる、完全に研究に狂った人間だ。

 それまでどうにか無表情に近い顔を保っていた私も、それができなくなっていた。瑞恵に刺されとばかりに怒りを込めた視線をかける。

「これも親心よ。死んだ自分の娘を生き返らせたいと思うのは、正常な親の気持ちだとは思わないかしら?」

「……」

 歯を食いしばり、瑞恵の目を睨みつけたまま、私は何も応えなかった。

「それにね、私は同じだと思うのよ」

「――何が、同じだと言うのですか」

 怒りを抑え込んだ私の顔を楽しむように眺め、彼女はにっこりと笑う。

「あなたがつくりたいと思ってるメイドロボも、私が研究してる成体クローンも、どちらも社会に受け入れられるものではないわ。捌く場所なんて同じようなものでしょ? だから言ってるのよ、同じだって」

 その発言で、私は自分を抑えるのを止めた。

「マルチはっ!」

 椅子を蹴倒して立ち上がり、フォークとナイフを投げ出して拳をテーブルに叩きつけた。瑞恵の胸ぐらをつかむために伸ばした手は、しかし彼女によってはねのけられる。

「源五郎! 抑えなさい。はしたないわよ」

 息が荒いまま、信じられないほど強い瑞恵の視線に怒りを収めた。こちらを見ている周囲を気にしながら椅子を起こして座る。

「少しは冷静になりなさい。私の息子らしくもない」

 そんな言葉など聞き流した。

「源五郎。私は知ってるのよ。あのメイドロボ、試作型のマルチは、もう寿命なんでしょ?」

「……」

「はっきり答えて欲しいわね。せっかく久しぶりに会った母親が訊いてるんだから」

「――その通りですよ。マルチは、もう寿命です。安全稼働限界はずいぶん前に越えていましたから、あとどれくらい保つかわかりません。突然この瞬間に稼働不能になったとしても、そろそろおかしくない状態でしょう」

 私の吐き出すような言葉に、満足そうににっこり笑んだ瑞恵。

 何度か深呼吸をし、冷静さを取り戻した私は、自分自身に落胆していた。

 これだけ怒りがわき起こっていたにも関わらず、冷静になってみれば計算しているのだ。リスクと、可能性を。

 成体クローンの研究がマルチの娘たちを生み出すための光になる可能性は強い。みのりの復活に心惹かれてしまっているのも確かだ。

 しかし、それだけでは説明がつかない。

 嫌悪しながらも、私には瑞恵という人間の血が流れているという事実を、否応なく理解するしかなかった。

 

 

 事件というものは連続して起こるらしい。それも起こって欲しくない最悪のものは、連続して起こる可能性が高いものらしい。

 ビル街の夜景とともに、ガラスの窓にはオレの蒼白の顔が映っていた。

 あかりを無理矢理帰らせた後、強い酒を頼んでずっと飲み続けていた。すべてを忘れられるくらい飲んで、つぶれてしまおうと思っていた。

 そんなとき、「マルチはっ!」という聞き知った声で、すぐ後ろの席に長瀬さんがいることがわかった。

 ――持ってきていた写真を返そうかと思ったが、誰かと会ってるみたいで、それにマルチの話をしてるようだから、失礼とは知りながらも聞き耳を立てていた。

 真後ろの席だから長瀬さんが誰と会ってるのかは見えない。でもその声から女性なのはわかった。

 オレがその二人に気づく前に何の話をしていたのかは聞いていない。とにかくマルチの名前が出たことで、それも量産型のものじゃないあのマルチの話をしてるらしいことで、オレの耳は勝手に澄まされていた。

 女性がマルチの寿命を指摘し、長瀬さんがそれを認めた。それどころか……。

 ――いつ稼働不能になってもおかしくない?

 信じられなかった。信じたくなかった。

 だが窓に反射して映る人物の姿を見てみると、長瀬さんに間違いなかった。

 まだ何か話していたようだが、もうそれ以上はオレの耳に聞こえてくることはない。

 ただ呆然と、窓の外を眺めていた。

 長瀬さんと女性は、少し経ってから席を立ち、オレの存在に気づかずにレストランを出ていった。

 一人残されたオレは、目も口も開けたまま、両手で顔を覆っていた。

 ――マルチが寿命?

 それを思ったオレの中に何かがわき上がってくる。

「ははっ」

 真っ白な頭の中から溢れ出してきたのは、笑いだった。

「はははははははははっ」

 それはいつの間にか止まらなくなり、オレはテーブルに突っ伏して笑い続けた。

 ――あのマルチⅡみたいに、マルチが二度と目を覚まさなくなる? それはもういつ起きてもおかしくない?

 酔いは醒めていた。それなのに、頭の中には何も実感として伝わってこない。

 テーブルに組んだ両腕に顔を埋めて笑いながら、オレはただ涙を流していた。

 

          * 3 *

 

 もう秋と言ってもいいくらいの時期なのに、朝日はずいぶん強かった。

 そんな陽の光も今の私には心地よくて、いつもより足取りが軽いのを感じながら、駅に向かう道路を歩いていく。

 何でだろう。いつもの何もかわらないはずなのに、道路も、家の壁も、電柱も、なんだかきれいに見える。

 もちろん本当にきれいなわけじゃない。でも今の私には目に見えるものすべてが、愛おしく思えた。

 そのうち近づいてくる、浩之ちゃんの家。

 ――どうしたのかな? 昨日の浩之ちゃん。

 やっぱり、タイミングが悪かったかも知れない。いつも昨日みたいに私を呼び出すときは、悩み事があるみたいだから。

 ――夜寝て起きたら、いつもの浩之ちゃんに戻ってるかな。そしたら私の想像してたみたいに「おめでとう」って言ってくれるかな。

 こぼれてくる気持ちが「ふふっ」と笑みとなって出てくる。

 一生懸命笑うのを抑えて、私は浩之ちゃんの家の前に立った。

 呼び出すほどの理由はない。でも出勤する前に、できるだけ早く、浩之ちゃんの気持ちが知りたい。

 少しためらってから、思い切って呼び鈴を鳴らした。

 階段を下りてくる足音がしてきて、玄関が開く。出てきたのは、……マルチちゃん。

 ――あれ? どうしたのかな?

 メイドロボがやつれるなんてことはないと思うけど、何となく今のマルチちゃんは、そんな感じがする。

 でもすぐにいつもの彼女に戻って、すがすがしい笑みになった。

「あ、あかりさん。おはようございますー。お身体の方は大丈夫なんですか?」

「おはよう、マルチちゃん。うん。大丈夫だよ。一日ゆっくり休んだからね。……あの、浩之ちゃんはまだ? そろそろ出勤の時間だと思うけど……」

「ご主人様は今日……、ご気分が悪いらしくて、まだベッドの中に入られています」

 暗い表情でマルチちゃんは下を向く。

「そう、なんだ」

 ――どうしたのかな。

 浩之ちゃんがいるはずの部屋の窓を見上げた。

 ――やっぱり、昨日はタイミングが悪かったからかな。もう少し考えた方が良かったかな。私のせいで体調崩しちゃったのかな。

 少し不安になって、私の中に心配な気持ちが浮かんでくる。

 ――でも元気になったら言ってくれる。「おめでとう」って言ってくれる。

 それを信じて、浩之ちゃんに会わずに出勤することに決めた。

「身体には気をつけてねって、浩之ちゃんに伝えておいてくれる?」

「はい! わかりましたー」

「お願いね」

 駅に向かって歩き出そうとしたとき、ふと思ってマルチちゃんに向き直った。

「あのね、マルチちゃん」

「え? はい。なんでしょう」

 家に戻ろうとしていたマルチちゃんを呼び止めて言う。

「あの……、私、妊娠したの」

「はい?」

 言われたことがわからないようにマルチちゃんの動きが止まる。でもすぐわかって、目が輝き始めた。

「お子さまが生まれるんですか!」

「そうなの」

「おめでとうございますぅ~」

 無邪気な笑みで祝福してくれる彼女。

 私も笑みを返したけど、何となくそれが苦しくて、目をそらしてしまった。

「じゃあ、浩之ちゃんによろしくね」

「はい! あかりさんもお身体には気をつけて下さい」

「うん」

 重く感じる胸に手を当てて、そそくさと駅に向かって歩き始める。

 ――言わなければ良かったかな。

 マルチちゃんに妊娠を伝えたことを、私は少しだけ後悔していた。

 ここに来るまでと違って重い気持ちで浩之ちゃんの部屋の下を通るとき、ふとその窓を見上げた。

 ――どうしたんだろうな、浩之ちゃん。

 

 

 玄関の呼出音に、オレは布団を被って身体を丸めた。

 これで丸二日、マルチⅡを拾ってきた日以来、寝ていない。どうにか眠ろうと努力したが、頭の中にまとまらない考えばかりが回っていて、眠ることなんてできなかった。

 ――オレに、何ができるんだ?

 昨日ホテルのレストランで告げられたあかりの妊娠。そして聞いてしまったマルチの寿命。

 写真の女の子のことも気にかかっていたが、そんなことどうでもいい。今はただ、あかりとマルチのことが気がかりだった。

 ――どうしたらいいんだ?

 両方とも、オレがどうにかしてなくなる問題じゃない。

 妊娠してしまったあかりに、墜ろせとは言えない。いや、言う必要はない。オレの不始末でできてしまった子供だが、そのこと自体には、嬉しい気持ちもあるのだから。

 あかりの方は少し後でもどうにかなる。できるだけ早くにあいつと話し合って、今後のことを決めれば大丈夫なはずだ。

 だがマルチの方はそうはいかない。

 この瞬間にも、寿命が尽きてしまうかも知れないのだから。

「くそっ」

 胸を押さえてうずくまる。

 すべてのことを忘れていたかった。この苦しみに堪えきれそうもなかった。

 願っていても、もう忘れていられる時間をつくることはできない。忘れていられないほど差し迫っている。

「マルチ……」

 夜中ずっと赤くはらしていた目からまた涙が流れてきた。嗚咽が喉に詰まってせき込んでしまう。

 苦しくて、堪えられないほど辛くて、しかし、何もすることができない。胸にこみ上げてくるものを必死でこらえようと歯を食いしばっているのが関の山だ。

 あかりのことを考えるのは、とりあえず後にする。こんな状態で休むよう連絡した会社のことも、あの「おにぃちゃん」と言われたときに見た瞳のことも、今は忘れることにする。

 ただ、時間切れが迫ったマルチのことだけに集中する。

 笑みを浮かべているマルチ。

 頬を赤く染めているマルチ。

 真剣な瞳で夢を語るマルチ。

 それが今、失われようとしている。

 あいつの大きな望みが実現することもなく、消えてしまおうとしている。

 夢も希望も持てなくなり、何もできないで悩んでるばかりのオレには、あいつにしてやれることなんてない。

 ――何でこんなに、時間は残酷なんだろうか。

 止まってもくれない。少しも待ってくれない。流れていくだけで、他に関心を抱くことはない。

「くそっ、くそっ、くそっ」

 もう頭はまともに働いてなんてなかった。わけのわからないことばかりが浮かんでは消えていく。

 ――オレに、何ができる?

 動かない頭をどうにか働かせようとする。今までのことを思い出す。これまでやってきたことを考え直す。

 オレはこれまで、マルチにいい想い出を残してやろうとしてきた。あいつが動かなくなったら消えてしまうものかも知れない。それでも、生きてる間はあいつにいっぱい想い出をつくってやろうとしてきた。

 それはまた自分のためでもあったが、オレにできることはそれくらいしかなかった。

 ――最期に、何か一番の想い出を。

 オレは強く、それを思っていた。

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