実りの季節を待ちながら 実りの季節シリーズ2   作:きゃら める

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第五章 ~嵐~

 

第五章 ~嵐~

 

 

          * 1 *

 

 高校の帰りは借りていた電子工学の本を返すために図書館に寄っていた。本を返した後、今度は我を忘れて図書館の中を見て回っていたため、家に着いたときにはもう辺りはすっかり暗くなっていた。

 予約待ちで借りられなかった本と、それ以外にも電子工学系の掘り出しものを見つけていた私は、早速それらを読もうと玄関に上がって階段に足をかける。

 ふと見ると、階段奥のダイニングキッチンの扉から光が漏れているのが見えた。

「そうか」

 今のような生活が始まってからもう一年以上が経つのに、私はまだ慣れていないらしい。帰りの挨拶すら忘れているのに気づき、ダイニングキッチンに入った。

 カウンターで仕切られたキッチンの前にあるダイニングテーブルで、少女が突っ伏して寝息を立てていた。彼女の前には、ラップフィルムで覆われたハンバーグなどの夕食が置かれている。

 胸にこみ上げてくる、心地よい気持ち。暖かさが身体を包み、私は自然に笑みをこぼしていた。

「みのり。起きなさい」

 そのまま寝かしておいてもよかったが、せっかくつくってくれた食事を早く食べたくて、みのりの身体を軽く揺すった。

「ぅん……」

 眠そうに目をこすりながら、みのりが身を起こす。

「ただいま、みのり。遅くなってすみませんね」

「あっ! おにぃちゃん。お帰りなさぁい。あの、食事にする?」

「えぇ。お願いできますか?」

「うんっ」

 自室に荷物を置いてきた後、みのりが暖めなおしてくれたハンバーグで夕食となった。

「……ごめんなさい。本を見ながらつくってたんだけど、少し、焦がし過ぎちゃって……」

「充分に美味しいですよ」

 ――みのりの気持ちがこもっていますからね。

 気の利いた言葉は、まだ口にすることができない。けれどそれを笑みで表した。

「でもぉー」

 上手くできなかったことに悔しそうな表情を浮かべるみのり。

 確かにハンバーグは焦げ目をつける、という以上に黒くはあったが、お世辞ではなく充分に美味しかった。何より私は両親が家に帰ることがなく、一人で食事をすることが多かったのだ。まだ上手いとは言えなくても、暖かな食事を誰かと一緒に食べられるというだけで満足だった。

 食事中は喋ることはないながら、目が合えば微笑み合う。

 心安らぐひととき。

 みのりが来るまで、微笑み方など知らなかった。殺伐とした生活をしていた。人のことなどほとんど気にかけることなく、興味があることにだけ打ち込む生活をしてきた。微笑んだことなど、なかった。

 それが今は、まだぎこちなさはあるが、意識せずに微笑むことができるようになり始めている。みのりが側にいる、ただそれだけで、私はそれを覚え始めている。みのりに優しくしてやろうという、心の余裕が生まれ始めている。

「あの、おにぃちゃん。お父さんとお母さんは、次はいつ帰ってくるかな」

 食事を終え、私が淹れたとっておきのコーヒーを飲んでいるときにみのりが言った。

「どうでしょうか。父さんは帰ってくるように言えば都合をつけて帰ってくるでしょうが、みず……母さんはわかりませんね。今はどこにいるのやら……。どうかしましたか?」

「うん。あのね――」

 そう言って彼女が持ってきたのは、「進路調査表」と書かれた紙だった。

 みのりが中学三年になってもうひと月。そろそろそんなことを考えなければならない時期になっていたらしい。

「親と相談しなさい、って先生に言われたんだけど……」

「そうですね。父さんに連絡しておきましょう。――それで、みのりはどうしようと考えているんですか?」

「うん……」

 私のことを上目遣いに見ながら、

「近くの高校に行こうかなって、思ってるけど……」と答えた。

「自分にあった好きな進路を選んで大丈夫ですよ。何も心配する必要ありませんから」

「うん。でもわたし、どうしたらいいのかわからなくって」

 うつむき、両手の中のコーヒーカップに目を落とすみのり。

 私は彼女のことを多く知っているわけではない。何をやりたいのか、どんなことに興味を持っているのか、いくらかわかってはいるが、細かくは知らない。

 中学から高校への進学など、普通はそんなものだ。私は電子工学などに興味があったからそちらの方面の学校に進んだけれど、多くの同級生は成績ばかり気にして、とにかく高いレベルの高校を目指しているのがほとんどだった。

 直接みのりから聞いたことはなかったが、彼女は夢を持っているらしい。その辺のことも考えての進路なのだろうか。

「みのりには今、やりたいことなどはありますか?」

「あるよっ」

 勢い良く顔を上げたみのりは、真剣な目を向けてくる。

「あるけど、……どうやったらそれができるのか、わからないの。だから今は近くの高校に行って、それをやるための方法を、見つけようと思ってて……」

 一度上げられた顔は自信を失い、再びそろそろ湯気が立たなくなったカップに落とされてしまった。

 そんなみのりの様子に微笑みを漏らし、私は彼女に訊いてみた。

「それはどんなことですか?」

「うん。あのね、あの、これはわたしの、夢、なんだけど――」

 うつむいたまま小さな声で語り始めるみのりに、私は頷きで応える。

「もっと、もっと幸せな人が増えるような、笑える人が増えてくれるようなことが……、したいの――」

 彼女の声は小さく消えていった。

 自信がないからではなく、恥ずかしさのためにそうなってしまったみのりに、そして彼女の夢に、微笑みが溢れてきた私は席を立った。

「あ、あの、おにぃちゃん……」

「好い夢だね」

 言いながら頭を撫でてやる。するとみのりは真っ赤な顔をして、顔が見えないくらい下を向いてしまった。

「みのりならできますよ。頑張れば、きっと夢を実現できますよ」

「――うん」

 赤く染めているだろう頬に手を添え、うっとりとした声で彼女は応えていた。

 

            *

 

 マルチをつくったのは、みのりに帰ってきて欲しいという想いが暴走してしまったためだということは認める。

 しかし今の私が持っている想いは、十年前、マルチをつくったときのものとは違う。

 みのりに帰ってきて欲しいと願い、彼女の記憶を組み込んだメイドロボを私はつくった。しかし生まれてきたのはマルチ。みのりとマルチは異なる存在だ。たとえみのりによく似たところを持っていても、二人は確実に違う心を持っている。

 そのマルチに、私は教えられた。

 心の、本当の意味を。

 言葉ではなくマルチという存在そのものからそれを教わった私が目指しているものは、十年前と同じ人間に近いメイドロボだ。けれどマルチをつくったときのような暴走はしないと心に誓っていた。

 世界中に微笑みが溢れることを望んでいたみのり。それを実現させることなく逝ってしまった彼女。

 私はその夢を、みのりに代わって実現することを目指していた。

 マルチのようなメイドロボが、人を自然にかえていく力を持っているのはわかっている。心から微笑むメイドロボを世の中に送り出すことによって、私はみのりの夢を実現させようと考えている。

 不特定多数のユーザーに受け入れられることはないだろう彼女のたちを送り出すための方法は、まだ見つかっていない。しかし諦めるつもりはなかった。

 金属製の大きな扉についた通用口を開けて部屋の中に入った私は、そこの電灯のスイッチを入れた。

 見上げるほどの高さの天井と、足の踏み場に困るくらいケーブルが床に走っているそこは、来栖川HM研究所の地下実験室。部屋の中央の実験台の上には、いくつもの大型計器から伸びる大量のケーブルに接続された、拳二つ分ほどの大きさの金属パッケージが施されたユニットが置かれている。

 私のようなメイドロボ開発者が見ればそれが何であるかがわかるだろう。そして普通の二倍近くあるユニットの大きさに驚くはずだ。

 それはメイドロボに使われているコンピュータ、PNNC。それも六年前までマルチに使っていたPNNC―205Jそのものだった。

 六年前、本来の性能を発揮できないマルチのことを想った私は音山と協力し、彼女に使っていたPNNC―205Jを、BCHMの開発のためと偽ってそのとき最新であったPNNC―207を秘密裏に手に入れ、換装を施した。藤田君には内緒のまま行ったが、問題が起こることはなく、換装以降マルチは料理や洗濯などで本来の機能を発揮できるようになっていた。

 私は換装して残った205Jを、マルチの娘たちを生み出すために研究するようになった。

 マルチの心の秘密は少しずつ解明されてきている。AHSは、205Jに蓄積されたデータや記憶構造を解析することによって完成した成果の一つだ。しかしまだマルチの娘たちを生み出すまでには至っていない。

 マルチが生きている間に彼女の娘たちを生み出したい。それを願って研究してきたが、マルチの寿命が尽きようとしている今、それは実現できそうになかった。

 メイドロボの決定的な寿命はコンピュータの劣化によるもの。207への換装により、五年程度と言われるヒューマニティシステムを搭載するコンピュータの寿命だが、マルチは藤田君と一緒になって八年経っているが今も稼働できている。

 だからもう一度コンピュータを換装すれば、マルチの寿命を延ばすことができると考えることもできる。

 しかしそれは事実上無理だった。

 六年前ですら、精密点検と嘘をついて一日で終わるはずの定期点検の時間を三日に延ばしてデータの抜き出しを行っていた。それだけでなく、データの整理と調整、207への移植で半年の時間がかかり、さらに実際の換装作業で五日近い時間を費やしていた。

 それから六年が経ち、記憶構造がさらに複雑化しているだろうマルチのコンピュータをもう一度換装するとなると、今度はいったいどれくらいの時間が必要となるのか予想もできなかった。そしてその時間の間に、今の207の寿命が尽きてしまうだろう。設計段階から情報の引き継ぎを考えてつくられたBCHMならともかく、マルチのコンピュータの換装はもうできなかった。

 マルチが生きている間に彼女の娘たちをつくり出すことは諦めていても、それをつくり出すこと自体は諦めていない。

 マルチは、藤田君や三津木君をかえた。そしてみのりは私をかえてくれた。彼女たちが人に微笑むをもたらす力を持っていると信じられる限り、私は諦めるつもりはない。

 仕事の空きを見つけてどうにかやってきた研究だが、今の状況のままではこれ以上研究が進みそうになかった。マルチの娘たちを世の中に送り出すための、決め手となるくらいの方法が必要だった。

 顎に手を当て、私は方策を探る。

 ――やはり、成体クローンの研究に参加するのが一番有効になり得る可能性があるか……。

 研究への参加は危険であり、方法が見つかるという確実性もないが、少なくとも行き詰まっている今よりは可能性が出てくるはずだ。だが瑞恵はマルチの提供を求めてきている。マルチに参加の意志があるならともかく、こちらの都合で彼女を巻き込むことなど絶対あってはならなかった。

 スポットライトのような電灯に照らされている205Jを見る。

 研究に参加するならば、それを持っていくことによってマルチを巻き込まないよう説得するつもりではあった。しかし瑞恵のことだ、研究の完成度を高めたいとそれでもマルチの提供を求めてくるだろう。

 私が気になっていることは、そのことばかりではない。昨日レストランで可能性をほのめかされた、みのりの復活。そのこともまた、私は気になっていた。

 確かに成体クローンの研究を重ねれば、完全な記憶は持たないにしても、みのりの復活は可能かも知れなかった。

 みのりにもう一度会いたいという想いはけっして弱くはない。彼女さえいてくれればと思っている自分がまだ残っているのも知っている。

 もちろん私はそれに着手するつもりはない。だが音山の言葉の通り、自分を抑えきれずに暴走してしまうのではないか、という危惧があった。

「はぁ」

 溜め息をつき、両手で頭を抱えた。

 ――どうするべきか……。

 迷っている。悩んでいる。しかし私は、諦める気だけはなかった。

 

          * 2 *

 

 気がつくと、南側の窓からカーテン越しに差し込んでくる陽の光はかなり強くなっていた。壁に掛かってる時計を見てみれば、もう十一時を回っている。

 少し寝ていたらしい。

 わずかだが、疲れがとれているのがわかる。

 身体を起こして机の上を見たオレは、大きく溜め息をついた。

 そこに置かれていたのは、例の写真。

 すべてが夢だったらどんなに良かったか。起きてみたらオレはまだ高校生で、マルチに出会う前だったらこんなに苦しむ必要はなかったのに。いや、そこまでじゃなくても、たった数日、マルチⅡを見つける前の日に戻っていたら、今ほど苦しむことはなかっただろう。

 オレはそんな弱気なことを考えてしまっている。

 寝ているだけではどうにもならない。とりあえず起き出して、寝間着から部屋着に着替えた。ついでにいつでも長瀬さんに返せるように写真を適当にポケットに突っ込む。

 ――昨日の長瀬さんの言葉は、本当だろうか。

 確かに昨日、あのレストランにいたのは長瀬さんだ。だがあのとき長瀬さんは興奮していたから、それにマルチと言っても量産型か、セリオ二号機みたいに別につくられた他の試作型マルチかも知れない。思えばオレはあのとき酔っていたんだ。長瀬さんと思ってた人物自体、別人かも知れない。

 無理矢理なこじつけなのはわかってる。だがオレは、直接問い質して返ってきた答えでもない限り、マルチの寿命なんて信じたくなかった。

「――確認、してみねぇとな」

 信じたくないからこそ、確認しなくちゃならなかった。

 間違っていたら間違っていたでいいし、……もし本当なら、逝ってしまうあいつに、最期に何かしてやりたい。

 自分の部屋を出て、静かに階段を下りた。

 マルチはどうやら洗濯中らしい。洗濯機が置いてある洗面所の方から、いつもよりどことなく元気がないハミングが聞こえてくる。

 ――あいつに気づかれる前に済ませよう。

 階段を下りてすぐの玄関にある電話を取った。一昨日もかけた長瀬さんのオフィスに直通する電話番号を押す。

 何度かコール音がした後、電話が繋がった。

『ほい。来栖川HM第一研究所、研究開発部第一班主任、長瀬のオフィスだ。誰だ?』

「え? 音山さん?」

 電話の相手は長瀬さんじゃなく、予想外にも音山さんだった。        

『んぁ? 藤田君か。どうしたぃ?』

「あ、いや。たいしたことは、ないんですけど……」

『たいしたことはないってこたぁないだろ? 直通電話にかけてくるってこたぁ、長瀬に用事があるんじゃねぇか? まさかお前さんが長瀬と世間話するためにわざわざこの番号でかけた、ってこたねぇはずだ』

 音山さんの指摘の通りだったが、オレはためらっていた。

 もしかしたらこの人は、マルチの寿命を知らない可能性もある。それに昨日のことはさすがに知らないだろう。だから音山さんに訊いてみることは、できない。

「えぇっと、あの、……この前のマルチの定期点検の結果、出てますか? まだ連絡がなくって」

 少し考えて、オレはまだ来てないそれがどうなったのか訊いてみることにした。

 

 

「邪魔するぜ」

 そう言ってノックもせずに開発課第一班の主任室の扉を開けたが、長瀬の奴は留守だった。

「まったく、昼休み前に鍵もかけずにあいつはどこ行ったんだか」

 せっかく二班に回った新メイドロボ企画の進行状況の伝達と、成体クローンの話はどうなったかを訊きに来たのに、トイレでも行ってるんだろうか。

 どうせすぐ帰ってくるだろうと思って、俺は長瀬のデスクに腰掛けて待つことにした。

 プルルルルッ、と電話が鳴ったのは、待ち始めてそんなに経たないときだった。

 この前アヤノに掃除してもらったはずなのに、あっという間に書類でいっぱいになってる机の上から電話を掘り出した。

「ほい。来栖川HM第一研究所、研究開発部第一班主任、長瀬のオフィスだ。誰だ?」

 その電話は一応外線用の番号も持ってるが、本来は内線電話だ。受付からの接続確認もなくそいつが鳴ったということは、その電話は外からの直接コール。

 ……まぁ、何だとは思ったが、緊急の場合も考えて外向けの文句で応対に出た。

『え? 音山さん?』

「んぁ? 藤田君か。どうしたぃ?」

 マルチのことがあるから直通番号を教えてるのはわかるが、問題はその番号で藤田の野郎がここに電話をかけてきた理由だ。

 ――何かあったのか?

『あ、いや。たいしたことは、ないんですけど……』

「たいしたことはないってこたぁないだろ? 直通電話にかけてくるってこたぁ、長瀬に用事があるんじゃねぇか? まさかお前さんが長瀬と世間話するためにわざわざこの番号でかけた、ってこたねぇはずだ」

 本当に世間話のために直通番号にかけてきてたとしたら、なんて莫迦なことを思いながら彼の答えを待つ。

 声の調子からすれば、何かしら良くないことが起こったんだろうというのが想像できた。

『えぇっと、あの、……この前のマルチの定期点検の結果、出てますか? まだ連絡がなくって』

 ――嘘だな。

 別に結果が来てないことが嘘というわけじゃない。奴さんが問いたい内容がそれじゃないということだ。

 長瀬にならともかく、俺には話せない内容なんだろうから突っ込むのはやめて、とりあえず彼の要求に応えることにする。

「んじゃ、ちょっと待ってな。調べてみるからよ」

『はい。お願いします』

 保留ボタンを押して受話器を放り出した。

 どう見ても時間がかかりそうな机の上から探すのは諦め、辺りを見回す。マルチが点検に来てからずいぶん経ってるはずだから結果は出てないはずはない。だがそれらしいものが見あたらないことに本当に出てない可能性を考えながら、手っ取り早く調べるために長瀬の私物のコンピュータに近づく。もちろんのことだが、理由つきのマルチの点検データの解析は、そのコンピュータで処理してるのは知っていた。

「こんなところにあったか。探す手間が省けたな」

 プリンタに印刷されたまま置きっ放しの紙を見てみるとそれはやはりマルチの点検データの解析結果。内容をざっと見ながら長瀬のデスクの椅子に座った。

「おいしょっと」

 意味もなくかけ声をかけて受話器を取ったことに自分の老化を感じつつ、保留を解除しようとした。

「って、待てよ。これは……」

 受話器を置き直して解析結果をしっかりと見る。

「あ、藤田君」

 内容をある程度見てから、保留をを解除して彼に話しかけた。

「ちと長瀬の部屋が汚すぎてな、俺じゃわかんねぇや。結果が出てるんなら早く伝えるよう言っておくから、もうちょいまっててくれ」

 俺が言えたのはそれくらいのものだった。

 長瀬が藤田に伝えてないことを、俺が勝手に言うわけには行かないだろう。

『本当に、結果はまだ出てないんですね? もしかしたら、もう出て……、いえ、出てるってことは、ありませんよね?』

 ――こいつは……。

 すぐに納得するかと思ったが、意外にも彼は食い下がってきた。その食い下がり方が気にくわない。

「あぁ、すまねぇな。今日中に奴に訊いとくから、待っててくれ」

『……わかりました』

「んじゃ、またな」

『はい』

 受話器を電話に戻して、あらためて解析結果を眺める。

 その点検項目は通常の定期点検で行うものより遥かに多い。試作実験段階のメイドロボに行うほど詳細な数に上っていた。

 現場を離れて白衣を着なくなってからもうずいぶんになる俺だが、この程度のことなら見ただけでわかる。

 マルチは、とうの昔に安全稼働限界を超え、絶対稼働限界に近づいている。それもこの結果から考えれば、どうやってもあとひと月は保たないだろう。

 間近に迫ったマルチの寿命。

 この結果を知っていたからだと思えば、長瀬が成体クローンの話を考え始めたのも納得できなくない。それに一縷の望みを見いだしているんだろう。

 この結果を知らされてないらしい藤田も、さすがに気づき始めてるらしい。気づいているというならマルチにそのことを話していてもおかしくはないが、さっきの様子から想像するに、まだ話していないはずだ。

 そして長瀬と藤田が、マルチの寿命のことで話し合ったという様子もない。

「莫迦だぜ、てめぇら」

 解析結果を机に投げ出して、俺は息を吐き出した。

 自分に近いことじゃないからそう言えるのかも知れない。だが話し合わなくたって、マルチの寿命がそのうち尽きることくらい二人にはわかり切ったことのはずだ。

「莫迦な奴らだぜ、まったくよ」

 ここには二人のことを思い、俺はもう一度その言葉を吐き出した。

 

          * 3 *

 

 ――やっぱり、そうなのか。

 受話器を戻したオレは、音山さんの言葉に不審なものを感じていた。邪推かも知れないが、ホテルでの長瀬さんが言ってたことを考えればおかしいのも当たり前のように思えた。

 壁に寄りかかって、眉根に皺を寄せる。

 マルチの寿命がもうすぐ尽きてしまうのは、あいつの最近の様子を見ていればわかる。あかりのことも、みのりという女の子のことも気にかかるが、そんなことどうでもいい。今はマルチに何をして上げればいいのかを考える方が大事だ。

 最期に、マルチに一番の想い出を残して上げたい。

 それがオレの中に強くあった。これまでの一番の想い出と言えば、考える必要もなく出てくる。

「やっぱり、あの一週間だよな……」

 マルチに最初に出会った高校での一週間。その中でも最高のものと思えるのは――。

 ためらいはあった。しかし時間はそれほど残されていないのかも知れない。マルチの寿命が尽きてからじゃ遅いんだ。

 マルチが逝ってしまう。

 マルチに二度と会えなくなる。

 あの微笑みを、もう二度と見れなくなる。

 それを思うだけで、オレの心臓ははち切れんばかりに脈打ち始める。

「くっ」

 目で見てわかるほど上下している胸を押さえて、オレは玄関に座り込んだ。

 ――オレが最期に残してやれる想い出なんて、アレくらいしかない。

 時間はもうない。オレはマルチと最初に会った一週間のうちでも一番と思える想い出を、最期に残してやることに決めた。

 立ち上がり、扉を開けてリビングに入る。洗面所に続く入り口の向こうから聞こえてくるのは、洗濯機の動いてる音と、いつにも増してスローテンポなマルチのハミング。

「マルチ」

「はい? ご主人様」

 声をかけるとちょいとマルチが顔を見せた。

「あっ、お身体の方は大丈夫なんですか?」

「大丈夫だ。それより、オレの部屋に来てくれないか?」

「……はい。わかりました」

 特に理由は訊かなかったが、彼女はどういうことかと不思議そうな顔をした。

「えと、洗濯物を干してからでよろしいですか?」

「構わねぇぜ。じゃあ、オレは部屋で待ってるからな」

「はい」

 返事を訊いて部屋に戻った。

「はぁ」

 ベッドに座り込んで溜め息をつく。

 ――これがマルチに残してやれる、最期の想い出だ。

 そう思うオレの身体が、だんだんと高揚していくのがわかる。

 待っていると階段を上がってくる足音が聞こえてきた。ノブが回転して、扉が開けられる。

「ご主人様、来ましたけど……」

「あぁ、入ってくれ」

 ベッドから立ち上がり、不思議そうな顔をしてるマルチを微笑みながら迎え入れた。

「マルチ」

 名前を呼びながらマルチに近づき、そして……。

 

 

 玄関の前に立って、少しためらった。

 浩之ちゃんに元気になってもらおうと思って、今日も体調が悪いと……嘘じゃないけど、目的としては嘘をついて、会社を早退して昼食をつくってきた。

 お肉や野菜をいっぱい詰めた重箱を風呂敷に包んで持ってきた。でも平日のこの時間に浩之ちゃんの家に来るのはなんとなく後ろめたくて、ためらってしまう。

「しっかりしないと」

 自分を元気づけて、呼び鈴を鳴らした。

 一歩下がって少し待つ。

 ……誰も出てこない。

 もう少し待ってみる。

 でも、誰も出てくる様子はなかった。

 ――どこかに出掛けてるのかな? 病院でも行ったのかな?

 帰ってくるまでここで待とうか、それとも一度家に戻った方がいいかと考えながら、玄関扉のノブに手をかけてみた。

「開いてる……」

 悪いと思ったけど、浩之ちゃんがいるかどうか確かめるために扉を開けた。

「浩之ちゃん、いるぅー?」

 家の中に声をかけてみても、反応はない。

 ――誰もいないのに玄関開けっ放しなんて、不用心だよね。

 思い切って、家の中に入ってみることにした。

「浩之ちゃん、いたら返事してね」

 どこかヘンな声をかけながら一階の部屋を見て回る。リビングにも洗面所にも、誰もいない。

「あといるとしたら、二階の部屋かな」

 浩之ちゃんが家にいるのに一階で待ってたりしたらおかしいから、部屋を確認しようと思って階段に足をかけた。

 ふと、手に持った重箱を見る。

「これ持ってきたって言えば、わかってくれるよね」

 そう思って私は、風呂敷包みの重箱を手に持ったまま階段を上がっていった。

 

 

「ぅんっ!」

 部屋に入ってきたマルチを抱き締め、オレはその唇を奪った。いったん唇を離して抱き上げた彼女をベッドに連れていき、また唇を重ねる。

 高校のときの最初の一週間。その中でも一番の想い出と言えば、それはやっぱり最後の夜をマルチと過ごしたことだと思っていた。

 それをもう一度想い出として残してやろうと、オレはマルチの胸を服の上からまさぐる。

「ご、ご主人様……」

 苦しげな彼女の声がオレを高ぶらせていく。

 最後にマルチを抱いたのは、もう一年以上前だった。そのときにはもうオーバーヒートが増加しつつあったこいつは、最後まで堪えきれず、途中でブレーカーが落ちてしまった。

 それ以来彼女を抱かなくなっていたが、もう寿命が尽きてしまうんだ。そんなことは言ってられない。

 服の中に手を差し入れ、ブラジャーを押し退けて胸に触る。何とも言えない柔らかさと暖かさが心地よい。

 首筋にキスの雨を降らせながら、脚で無理矢理開かせた太股に左手をはわせた。

「なんで、なんでこんな……」

 マルチの声はオレを興奮させる甘美な音としてしか聞こえない。

 もう自分を抑えることさえできなかった。

 頭の中にはマルチのことしかない。

 ――オレたちの最高の想い出を!

 ――オレがマルチにしてやれる最後のこと!

 膨れ上がる感情がすべてを押し流していく。五年もの間抑え込んでいたものが一気に吹き出している。

 上気したマルチの顔、はぁはぁと断続的に吐き出されるマルチの荒い息が、オレの感じられるすべてだった。

 服に差し入れて触るだけじゃ堪えられなくなって、オレは右手で服をブラジャーごと押し上げた。右手とともに口を使ってマルチの胸を攻める。

「あっ、あっ、あっ」

 切なそうな息に身体の熱さが最高潮に達した。

 太股にはわせていた左手でスカートのホックを探り出し、外す。緩んだスカートから手を入れて左手をパンティの中に潜り込ませた。

 とにかくマルチを気持ちよくさせたい。これを最高の想い出にしてやりたい。

 オレの頭にはそのことしかなかった。マルチしか見てなかった。そ以外のことに注意を払うなんてできなかった。扉が開いたことに、気づきもしなかった。

「浩之、ちゃん?」

 いきなり声をかけられて、手が止まった。

「あかり……」

 振り向くと、大きく開けられた扉のところにあかりが立っていた。

「浩之ちゃん……」

 呆然とした目で、マルチを抱くオレを見つめるあかり。

 ガタン、と彼女が手にしていたものが床に落ちた。風呂敷の包みが取れて、重箱から中身が飛び出す。

「あかり」

 マルチから手を離し立ち上がった。

 あかりに向き直って手を伸ばそうとしたとき、さっと右腕で顔を隠したあかりが部屋から出ていった。

 階段を駆け下りる音が聞こえてきた。玄関の扉が開き、そして閉じられた。

 思考が止まっている。

 見えるものすべてがぼやけてきて、ぺたんと床に座り込んだ。オレの目には、あかりが残していった重箱と、そこからこぼれてしまった卵焼きやそぼろご飯なんかだけが、鮮明に映っていた。

「あかりさんを、追わないと」

 いつの間にか服装を正したマルチが、あかりの後を追って部屋を出ていった。

 それすらも、オレはぽかんと口を開けたまま見てるだけだった。

「何をしてたんだ、オレは」

 溢れる想いに身を任せて、マルチを抱いた。

 思い出してみれば、マルチの気持ちなんてちっとも頭の中になかった。最高の想い出を残してやりたいと、一方的な想いしかなかった。

「何をしてたんだ、オレは」

 もう一度、同じ言葉をつぶやく。

 ――オレはどうかしてたんだ。

 莫迦な自分自身に嘲笑がわき上がってきそうになったが、笑ってる暇なんてなかった。

「追わないと」

 オレたちの様子を見ていたあかりがどんな行動を取るのかわからない。それを追っていったマルチは今まで興奮していた。

 あかりが思いあまって飛んでもない行動に出るかも知れないし、追っていったマルチが途中でオーバーヒートを起こして倒れてしまうかも知れない。

 ……最悪、そのオーバーヒートがきっかけで、マルチの寿命が尽きてしまう可能性もある。

「追わないと」

 乱れた服を適当に直して、オレも家を出た。

 道路に出て左右に続く道を見てみるが、二人の姿はない。それでも追わなきゃならない。

 オレは適当に当たりをつけて走り始めた。

 

            *

 

 あかりの走り方が危なげなのは、ずいぶん距離が離れても見えていた。

 腕で顔を隠し、彼女はほとんど前も見ず不確かな足取りで走り続けている。

 マルチは必死にそれを追っていたが、激しい運動をするようにできていない彼女とあかりの距離は、縮まるどころか徐々に開きつつあった。

 無理を強いられているモーターたちが、加熱による注意を発している。運動を制御するコンピュータもまた、温度がどんどん上昇していっている。

 思い詰めた顔で自分のことを抱こうとした浩之。これまでの彼との生活。あかりと、そのお腹の子供。そして自分自身のこと……。

 様々なことが走行行動を邪魔するかのように割り込んでくる。マルチはそれらをできるだけコンピュータの処理から外し、走るという行動に処理優先度を最高に割り振って足を動かし続けていた。しかし それでも、あかりとの距離は縮まらない。

 追いつかなければならなかった。

 あかりを浩之のもとに連れ戻して、誤解を解いてもらわなければならなかった。

 ……そのとき、自分のことを話してしまうことになったとしても。

「ダメッ。あかりさん!」

 駅への近道に使っている公園に入り、それでも一直線に走るあかりの前に太い道路が見えてきた。

 彼女は腕で顔を隠してしまっている。まもなく道路に飛び出してしまうことに気づいているかどうかわからない。

 悪いことが重なった。

 視界が開けた公園だからこそ見えた。道路に、大型トラックが走り込んでくるのが。

 止めなければならない。このまま走って道路に飛び出せば、あかりはトラックに轢かれてしまうかも知れない。

 もう強制停止の警告すら発しているモーターと関節をそれまで以上に酷使して、マルチは走る速度を上げる。

 ――あのときと同じになる。

 突然、コンピュータの処理に言語情報が割り込んできた。

 記憶場所が特定されない情報。コンピュータが記憶場所を探して自動検索を始めるが、見つからない。

 検索をしている間にも、次々と同じような情報が処理に割り込んでくる。

 ――もっと、もっと早く!

 ――間に合って。もう二度とあんなことは見たくない!

 ――なんで? なんでこうなるの?

 ――ダメ。ダメだよ。間に合わない。間に合わないと行けないのに!

 あかりが道路に飛び出すまで残り数歩。

 彼女はトラックに気づかず、トラックも彼女に気づいた様子はない。

 コンピュータの熱がほぼ限界に達した。これ以上加熱すれば、自動的にブレーカーが落ちてしまう。

 そのとき、視界がかわった。

 公園の木々があったはずの視界が、まったく別の風景になってしまった。

 どこかの街。記録情報にはない場所。

 映像の処理にカメラアイから送られてくるもの以外の情報が割り込んでくる。

 あかりの姿に一組の夫婦が重なって見えた。

 ――お父さんっ! お母さんっ!

 マルチにはそれがどういうことなのか、理解できなかった。

 前も見ずに走り続けるあかり。

 微笑み合いながら歩いていく夫婦。

 重なって見えるそれぞれの姿が、トラックに気づかず道路に踏み出していった。

「ダメェーーーーーーッ!」

 その声は理解不能な割り込み情報によるものなのか、それとも自分自身が発したものなのか、マルチにはもうわからなかった。

 声を出した瞬間、ぷつんと視界が黒くなる。

 ブレーカーが落ちきる一瞬前、マルチは甲高いブレーキ音を聞いていた。

 

 

 必死にマルチとあかりの姿を探して走り回ったが、出遅れたオレは二人の姿を見つけだせないでいた。

 あんなところを見たあかりがどっちに走っていったのなんてわからない。あいつの家に真っ先に行ってみたが、まだ帰っていなかった。

 マルチの姿も見かけない。オレより先に出ていったからあかりのすぐ後を追えてるのかも知れないが、そうでないにしろ、あいつも見つけださないといけない。

 自分の家には帰ってないようだから、今度はオレの家を挟んだ反対側であかりを探そうと走り出した。

 そんなとき聞こえてきた、ブレーキ音。

 ――まさか!

 オレはすぐさまそれが聞こえてきた方に向かって全力で脚を動かした。

 ブレーキ音がしてきたのは、たまに駅へのショートカットに使ってるオレの家の近くの公園辺り。それもそんな音がするんだとしたら、公園のすぐ脇を走ってる国道からだろう。

 嫌な予感が背筋を駆け抜ける。

 とにかくオレは何が起こってるのか見極めようと、身体の限界の速さで公園の中に駆け込んだ。

 公園の向こうにある国道側の入り口の近くに、マルチが倒れているのが見えた。

「マルチッ!」

 走り寄って彼女を抱き起こしてみるが、意識がない。額に手を当ててみると、皮膚を通して異状加熱したコンピュータの熱が伝わってきた。

 ブレーカーが落ちたんだろう。ここまであかりを追ってきて、そうなったんだろうか?

「あかりは……」

 あかりのことを思い出して、オレは辺りを見回した。

 公園を出た国道の真ん中に、トラックに轢かれそうになって倒れている彼女がいた。

 マルチのことも心配だったが、それよりあかりの方がどうなったか確認しなくちゃならない。マルチを抱き上げてあかりの側に寄っていった。

 本当にぶつかるぎりぎりで、トラックは停止していた。

「あかり、大丈夫か?」

 道路に突っ伏しながら息を荒げているあかり。その状態で見る限り、怪我はしてないようだ。トラックのバンパーにもそれらしい跡は見られない。

 マルチを肩に背負い込んであかりに手を伸ばしたとき、一度バックしたトラックがオレたちを避けて走り出した。

「くそっ!」

 このことをなかったことにして走り去ろうとするトラックを追いかけようと立ち上がる。

 しかし、あかりの手がオレの腕をつかみ、それを押しとどめた。

「何やってんだ、あかり」

 あかりの手を振り払おうと彼女を見下ろして、オレは動きを止めた。

「浩之、ちゃん」

 腰に力が入らないのか、オレの服にすがりついて立ち上がろうとするあかり。その顔は、涙に濡れてくしゃくしゃになっている。

「私、私……」

 しゃくり上げながらうわごとのように言った後、彼女は糸が切れたように気を失った。

「くそっ」

 道路に頭をぶつけないよう左手であかりを抱きとめたオレは、トラックに向かって、自分に向かって、罵声を発した。

 トラックは見えなくなってしまった。もう追うことはできない。

 仕方なく、マルチとあかりを家まで運ぼうと二人を抱き上げた。すると、道路にぽたんと何かが落ちたのが見えた。

「血……」

 本当に小さなものだったが、道路に血溜まりができていた。

 トラックにぶつけられてあかりがどこか怪我したのだろうか。

 道路の真ん中から公園のベンチまで二人を運び、必要なら救急車を呼ぼうと思ってあかりの身体をざっと調べてみる。

 血がにじんでいるところも、服が裂けているところもなかった。どこから血が流れていたのかと思っていると、短めのスカートを履いたあかりの太股に、赤い筋が伝わっているのをオレは見た。

 服にはこすった跡もぶつけた跡もないから、怪我をしてるわけじゃないはずだった。

「まさか――」

 こんなときにと思いながらあかりのスカートをめくって確かめてみる。

「まさか、そんなこと……」

 続く言葉が消えていった。

 その血の意味を知り、何も考えられなくなったオレは、あかりを片腕で抱き締めていた。

「嘘だよな。こんなの、嘘だよな?」

 信じられなかった。信じたくなかった。

 オレは右腕にマルチを、左腕にあかりを抱き締めたまま、救急車を呼ぶことさえ忘れていた。

 

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