実りの季節を待ちながら 実りの季節シリーズ2 作:きゃら める
第六章 ~停滞~
* 1 *
ただ、待ち続けるしかなかった。
オレは消毒液の臭いが立ちこめる病院の救急病棟の廊下に並べられた長椅子に座っていた。
蛍光灯は灯っているけど、薄暗い。人の姿はほとんどなく、静まり返ったその場所で、処置中を示す緊急治療室の赤いランプだけが、オレに正気を保たせてくれる。
あかりがその部屋に入ってから、もうずいぶん時間が経っていた。
けれどまだ処置が終わる様子はなく、ときどき出入りしている医者や看護婦たちが、あかりの状態を教えてくれることもなかった。
もうずいぶん時間が経っている。それなのに、マルチの意識が戻ることもなかった。
――もう、寿命が尽きちまったんだろうか。
マルチⅡのときと違って、マルチのコンピュータはまだ稼働してるらしい。服を通して熱が伝わってきている。だけどこいつの体温は、コンピュータのちゃんと稼働してないのか、いつもより遥かに低かった。
今は逝ってなくても、このまま意識が戻らずに逝ってしまうかも知れない。
オレは膝の上のマルチの髪を手で梳いてやりながら、こぼれそうになる涙をずっとこらえていた。
――オレはなんてことをしちまったんだろう。
マルチの気持ちも考えず思いに任せて抱こうとして、それをあかりに見られて……。
あかりが流していた血は、危険を意味していた。お腹の子供はダメかも知れない。どこまで本当かわからないが、無理な堕胎は母親にも悪い影響を与える。
せっかくできた子供が失われてしまうかも知れない。それと一緒にあかりも失ってしまうかも知れない。そしてマルチは、目が覚める様子はない。
どうすればいいのかわからなかった。
マルチがいなくなった後の生活なんて想像できなかった。それに加えてあかりまで失ってしまったとしたら、オレはその後どうなるか予想もできなかった。
「オレは、お前に憧れてたのにな」
物言わぬマルチに語りかける。
「お前みたいになりたくて、頑張ってたのにな」
喋っているうちに、それまで抑えていた涙が頬を伝い始めていた。
オレは恐がりだった。
マルチとの幸せな生活。こいつの寿命のことを意識して以来、それを守るために必死で、そのために何もできなくなって、ここまで来てしまった。
――オレは、マルチやあかりのために、何かしてきたんだろうか。
何も思いつきはしなかった。
今から考えればもっと何かできたはずだった。マルチに寿命のことを話して、あかりとの将来のことも考えて、それでもどうにかなったはずだった。
だがそれは、もう後の祭りに過ぎない。
「ダメだよな、オレって。情けないよな」
起きる様子のないマルチの頬を撫で、その髪を梳く。
もう一度、マルチの笑顔が見たかった。
もう一度だけでいい、声が聞きたかった。
こいつの寿命のことは、オレじゃどうにもならない。だからただ一度でいい。逝ってしまう前に、マルチと話がしたかった。
「もう、ダメなんだな。終わっちまったんだな」
マルチは目を覚まさない。あかりとの関係も、戻ることはないだろう。
もうどうでもよかった。
何もできない。何かをする気力もない。これ以上生きてる理由が、見つからない。
「死のう。どこかに行って」
涙も枯れ果てて、オレはそんなことを考えていた。
わずかだった。ほんのわずかだが、マルチのコンピュータの稼働音が強くなったのはそのときだった。
*
春って呼ぶには少し早いくらいの風が、新しい制服のスカートを揺らしてる。思ったより短めだったスカートから出てる脚には、その風は冷たかった。
人でいっぱいの夕方の商店街。いろんな声や音が聞こえてくる中を、わたしはほとんどスキップしてるみたいな足取りで進んでいく。
――おにぃちゃん、似合ってるって言ってくれた。
今日の朝に届いた制服。それを初めて着て見せたとき、おにぃちゃんは「似合ってるよ」って言ってくれた。それも、笑いながら。
すごく嬉しかった。
誰に言われるより、おにぃちゃんに言われるのが、一番嬉しいのかも知れない。
――なんかヘンかな、わたし。
何となく笑みが溢れてきて、わたしは口に手を当てながら「ふふふっ」って笑った。
でもおにぃちゃん、近頃よく笑うようになったと思う。
最初にあの家に入った頃は、おにぃちゃんはぜんぜん笑わなかった。いつもむっつりした顔で、ほとんど喋ることもなかった。
それが最近は、まだ少しぎこちなく感じるときもあるけど、よく笑うようになってきてる。
……わたしの目の前でトラックに轢かれた、お父さんとお母さんのことは忘れてない。あのときのことは、何かあるごとに瞼の裏に浮かんできてしまう。
でも、でも今は、わたしにはおにぃちゃんがいる。優しくて、いろいろ知ってるおにぃちゃんがいる。
だから今は、それだけで充分。わたしに優しい笑みをかけてくれるおにぃちゃんがいるだけで、充分だった。
お父さんとお母さんのことを思い出して止まってしまっていた足を踏み出した。
――やっぱり、わたしヘンだよね。いろいろ考えて、その度に止まったり、歩いたり。
おにぃちゃんの顔を思い出してまたくすりと笑った後、買い物かごの中身から他に買わないと行けないものを考える。
夕食の材料はスーパーで揃うけど、やっぱり八百屋さんの方が新鮮だから、そっちに回って野菜を買う。
今日の夕食はカレー。やっとあんまり焦がさずにつくれるようになってきた。
――もう二年以上経つもんね。
わたしの名前が「長瀬みのり」になって、もうそんなに時間が経ってる。それまで料理なんてお手伝いさんにしてもらってたけど、おにぃちゃんと一緒に暮らすようになってからは、わたしがつくるようにしてた。初めの頃はよく道に迷ったし、買い物の仕方も知らなかったけど、今はずいぶん慣れた。
そしてわたしは、この春から高校生になる。
――見つかるかな、夢を実現する方法。
商店街を抜けて人通りが少なくなったところで、真っ赤に染まった空を見上げた。
――見つかるといいな、高校生の間に。
わたしの夢。
おにぃちゃんみたいに、世界中の人が微笑むようになったら、もっと楽しくなると思う。泣いてるより、悩んでるより、笑っていた方が楽しいはずだから。
「あの子も小学生か。早いもんだな」
「そうですね。いつの間にかもうそんな歳なんですね」
立ち止まってたわたしの横を、たぶん自分の子供たちのことを話しながら、夫婦が通り過ぎていった。幸せそうに、微笑み合いながら。
――やっぱり、笑ってる方がいいよね。
二人の様子に釣られて笑みをこぼしたわたしは、暗くなる前に帰ろうと家に向かって歩き始めた。
わたしを追い越していった夫婦は、ガードレールがついた歩道を曲がっていった。
道路を渡るため、わたしは信号が青になるのを待っている。幸せそうな夫婦の方を眺めながら。
二人が青になってる横断歩道を渡っていると、そこに向かってすごい速度で走ってくる車が見えた。
なんでだろう。けっこう遠くのはずなのに、わたしの目にはその車の運転手がハンドルに突っ伏してるのが見えている。
――ダメ!
思ったときには走り出してた。
距離はそんなに遠くない。間に合う。今度は間に合う。
あのとき、お父さんとお母さんがトラックに轢かれたときは間に合わなかった。必死で走って、大きな声で叫んだのに、二人はわたしの目の前で轢かれてしまった。
でも今度は間に合う。
中身が入った買い物かごを放り出して、わたしは横断歩道を渡っている夫婦のもとに全速力で走っていく。
――もう二度と、あんなことは見たくない。わたしと同じように親を失う子供なんて、不幸になる人なんて、増えて欲しくない!
どうにか間に合った。悪いとは思ったけど、車に轢かれないように夫婦を突き飛ばした。
でもそのとき、わたしの脚がもつれてしまった。
横断歩道の上に転んだわたしは、すぐに起きあがってそこから逃げようとした。
遅かった。
両手をついて上半身を起こしたときには、車がそこまで来ていた。
「おにぃちゃん……」
よく笑うようになってきたおにぃちゃん。
制服姿のわたしを見て似合ってるって言ってくれたおにぃちゃん。
きっと夢は実現できるって頭を撫でてくれたおにぃちゃん。
二年の間のいろんなおにぃちゃんの姿が浮かんできては、消えていく。
視界がはじけた。
車がぶつかったかどうかはわからない。でもそれまで近づいてるのが見えてた車が見えなくなって、一瞬何を見てるのかわからなくなった。
頭がボォッとなってく中、空に浮いてるような感覚とともに最期に見えていたのは、雲一つないきれいな夕焼け空だった。
あれ? どうしたんだろう。
わたし、車に轢かれて、最期に夕焼けが見えて……。
でもなんでか、意識がある。死ななかったのかな?
周りは真っ暗。何も見えない。
うぅん。違った。わたし、目を開けてない。
身体があるのは感覚でわかる。やっぱり車に轢かれたからかな、痛いとかそういう部分はなかったけど、まるで他の人の身体みたいにおかしな感じがした。
誰かが何かを言ってるのが聞こえる。
おにぃちゃん、かな? 声がよくわからない。でもたぶん、わたしに向かって声をかけてる。
わたし、生きてるのかな?
わからなかったけど、瞼を開いて、外を見ることにした。
*
枯れたと思った涙が、また流れ出していた。
最初は少ししか聞こえなかった稼働音が、だんだんと大きくなってきて、ついにはいつもとかわらないくらいになった。
「マルチ」
オレは優しく呼びかける。
もう一度こいつの笑顔がみたいと、こいつの声が聞きたいと願っていた。それが今、叶うことになったんだ。
涙を流さずにはいられなかった。
「マルチ」
膝の上にあるマルチの頭に、だんだんと温かさがよみがえってくるのが感じられる。オレは左手を彼女の頬に当て、右手で髪を優しく撫でながら、目が開かれるのをじっくり待つ。
瞼が、ゆっくりと開かれていく。
こいつがオレの存在に気づいた瞬間呼びかけてやろうと、空気を吸い込む。
完全に姿を覗かせた瞳がわずかな時間さまよい、そしてオレの存在を認めた。
息を止め、その名を呼ぼうとした、その時だった。
「あれ? おにぃちゃんは?」
言葉を発するために小さく開けた口は、そのまま驚きの口になった。流れ続けていた涙は止まり、期待によって熱くなっていた身体は一気に冷めてしまった。
「どうしたんだろう、わたし。ここ、どこだろう」
どこか寝ぼけてるみたいな口調で言い、目だけで辺りを見回してる彼女の瞳は、オレの知ってるマルチのものじゃなかった。どんな機構を内蔵しててもかわるはずのないつくり物のはずなのに、その瞳は、あの写真に写る女の子のものだった。
「病院、なのかな? それじゃあやっぱりわたし――」
「……ちょっと、いいかな」
そんな他人行儀な声をかける。でもいま彼女は、マルチの身体をしていても、マルチの声をしていても、マルチとは思えない。その声をかけることすらも勇気がいった。
身体がほとんど動かせないのか、どうにか首だけを動かして、その娘はオレの方を見た。
「はい?」
「えぇっと、その、なんなんだけど、君の名前を教えてくれるかな?」
「わたしの名前、ですか? ――そういうあなたは……わたしを助けて下さった方?」
詳しい訳はわからない。どうやらこの娘の記憶は、いつからのものか知らないけど、続いているらしい。
ここは調子を合わせることにした。
「あぁ、まぁ。そう、だな……。んで、君の名前は?」
「そうでしたか。ありがとうございますぅ。わたしは、長瀬みのりというものです」
――思った通りか。
やっぱりこの娘は長瀬さんに関係があった。
「あの、あなたのお名前は?」
「オレは、藤田浩之っていうんだ」
「わたしは、どうなったんですか? 事故に遭って、わたし、その……」
「それは――」
訊かれたが、答える術はなかった。
みのりというその娘の記憶がいったいどういう状況から続いているのかわからない。事故に遭ったと言うが、彼女が……既に死んだ人間なのか、それとも今ここにいるのとは別に、生きているのかもわからない。
そして、どうしてマルチの身体にその娘が現れたのかもわからなかった。
「身体が動かない。どうしたんだろう。事故で怪我をして、だから……」
答えることができず沈黙するしかなかったが、彼女はもうオレの存在なんて目に入っていないようだった。
苦しげに首を巡らし、焦点のあってない目で辺りを見回す。
「おにぃちゃんはどこかな? 家でわたしが帰ってくるのを待ってるのかな? 会いたい、会いたいよぉー。おにぃちゃん、おにぃちゃんー」
荒くなり始めた息を吐きながら、うわごとのようにつぶやき続ける。
膝の上の頭が熱くなってきていた。
――危険だ。
これ以上熱が、コンピュータの熱が上がったらまたオーバーヒートを起こしてしまう。
「おい、ちょっと――」
「わたし、もうダメなのかな。わたし、死んじゃうのかな。会いたいよ。最期に会いたいよ、おにぃちゃん。わたし、最期におにぃちゃんに……」
声をかけたときには遅かった。「ぷしゅぅーーっ」という音がして、マルチの身体はまたオーバーヒートを起こして意識を失った。
――どういうことだったんだろうか。
わからなかった。
マルチの身体のはずなのに、そこに現れた長瀬みのり。
どうしてそんなことが起こるのか、オレには理解できなかった。
――これが、マルチの心の秘密なのか?
「長瀬さんに訊いてみるしかない」
すべての疑問は、長瀬さんに訊いてみればわかるはずだ。マルチをつくった長瀬さんなら、オレの疑問のすべてに答えてくれるはずだ。
「浩之くん?」
そこにやってきたのは、あかりの母親。あかりの緊急事態を病院に着いてすぐオレは電話で連絡を入れておいた。
手短に何が起こったのかを、マルチとのことは伏せて話し、オレはマルチを抱いて立ち上がった。
「すみません。オレ、行かないといけない場所があるんです。こいつもひどい状態で、すぐに看てもらわないと行けないんです」
そう言ってオレは意識はないものの、まだかすかに動いてるのがわかるマルチの顔を見る。
「用事が終わったらすぐに帰ってきます。もし、もし何かあったら、オレの携帯に連絡入れて下さい」
「はい」
短く応える母親は、厳しい目をオレに向けていた。その目が果たして怒っているものなのかは読みきれなかった。
「本当にすみません。オレ、オレ、絶対すぐに戻ってきますから!」
それ以上何も言うことができず、オレはマルチを抱いて来栖川HM研究所に向かうため病院の廊下を走り始めた。
* 2 *
物事にこだわらない私だから、現状でできる準備はほぼ終わっていると言えた。あとは私がどっちにするかを決心し、話をするだけだった。
昨日今日で整理を終え、必要最低限のものしかない机の上に置いてある一通の封筒を左手で取り上げた。
右で頬杖をつき、私はその封筒を眺める。
――音山にこれを渡すべきか……。
私はまだ、決心できていなかった。
会議の時間が迫っている。この前の新しいメイドロボの企画会議で決定した内容の進行を決めるためのものだ。
宣言通り三津木君は、この前の会議でマルチのような人間に極限に近いというメイドロボのコンセプトを提案していた。しかし提案は受け入れられることなく、けっきょくいくつか出た新機能、新機構を採用したアヤノⅣで次期メイドロボ企画は落ち着いた。
私が目指しているものもまた、三津木君と同じ人間に近い、それも心を持ったメイドロボだ。けれど一度それで失敗を犯している私は、彼のように突っ走った考えを持つことはできない。失敗を二度と犯さないよう、実現の方法を探している。
それでもまだ、私は決心がつかないでいた。
もう時間が迫っている。同じことを考えていても仕方がない。
封筒を机の引き出しにしまって鍵をかけ、私は席を立った。必要な書類をまとめて脇に抱え主任室を出ようと扉に向かって歩いて行く。
「ま、待って下さい。受付を通してから――」
「急いでるんだ!」
扉の向こうから知った声が聞こえてきた。
開けた扉の前に立っていたのは、やはり藤田君。
受付嬢を腕にぶら下げつつこちらに歩み寄ってくる彼は、マルチを抱いていた。
「どうしたんだね?」
「あの、この人が長瀬主任に急いで話をしたいことがあるって無理矢理――」
「長瀬さん!」
目の前まで歩み寄って、藤田君は私のことを睨んだ。
「長瀬さん。マルチのことで、お話したいことがあるんです」
彼の腕の中に抱かれるマルチに目を落とした。
意識はない。額に手を当てると、まだかすかに稼働していることを示す体温が感じられた。
しかしそれも、かなり弱い。
「ご苦労様。彼は私の客ですよ。これ以上問題を起こしたりしませんから、すみませんが下がっててくれませんか?」
受付嬢にそう言うと、彼女は渋々ながらつかんでいた腕を解き、受付の方に戻っていった。
「これから会議があるのであまり時間は取れませんが、入って下さい」
藤田君を招き入れ、一応設置してある応接セットのソファに座るよう勧めた。彼はマルチに膝枕をする形で座り、私はその正面に座った。
「さて、話とは?」
たぶんマルチの寿命のこと、そしてこの前マルチがつぶやいたという「おにぃちゃん」の言葉のことだろうと思い、それに対する心構えをしてから、彼に問うた。
「話っていうのは……」
藤田君は話しにくそうに口ごもる。
幾度か何かを言おうと口を開いたが、何も言えず、そんなときふと何かを思い出したのか、彼は自分の服のポケットを探り始めた。
シャツからズボンのポケットに移り、右のヒップポケットで目的のものを見つけたらしく、少し腰を浮かして取り出した。
「ここに写ってる女の子は、長瀬さんの妹さんなんですね」
応接セットの低いテーブルの上に置かれたのは、私が机の上を整理しても見つけることができなかったみのりと撮った最初で最後の写真だった。
「それは……」
「その娘はみのりって言って、事故に遭って……」
「どうしてそれを!」
――なぜ藤田君がみのりの事故死を知っている!
私は思わずテーブルに片手をついて身体を乗り出していた。
彼はそんな私を静かな目で見、一度写真に目を落とし、そしてまた私に視線を戻した。
「名前は写真の裏に書いてありました。でも事故に遭ったことは、彼女自身から聞きました」
「まさか。彼女はもう――」
「そうだったんですか。みのりって娘は亡くなってたんですか」
「……」
――どういうことなんだ?
みのりが逝ったのは二七年前。計算すればみのりと藤田君が会う機会がないことくらいわかる。それにその事故で彼女は逝ってしまったのだ、その事実を聞けるはずがない。
――私のことを調べたとでも言うのか?
私のことを調べたところで彼にメリットがあるとは思えない。それとも私にカマをかけているのだろうか?
どちらにしてもそれをする意味を感じない。観念して、私は彼に訊いた。
「どういうことなんでしょう。教えていただけますか?」
「えぇ。今日はそのことを話すために来ましたから」
答えてマルチの頭をひと撫でし、愛おしそうに彼女のことを眺める。その様子はどこかぎこちないものであったが、ともかく彼は話を始めた。
「そのとき家に来てたオレの、オレの……昔からの友人が、その、ちょっと頭に血を上らせて家を飛び出していって、マルチがその後を追っていったんです。その友人は車に轢かれそうになって、轢かれるはしなかったんですけど、追ってたマルチがオーバーヒートを起こして途中で倒れたんです。轢かれなかったけどあいつはたいへんなことになってたんで、意識が戻らないマルチも一緒に救急車で病院に行きました。
それはあいつの治療が終わるのを病院の廊下で待ってるときに起こったんです」
「いったい何が、起こったんですか?」
知らぬうちに息を飲み、その先がわからない話の内容を急かすように問うていた。
「信じられないかも知れません。でも、これは本当の話です」
それまでマルチを見ていた藤田君は顔を上げ、私の目を見据えた。
「マルチの身体に、長瀬みのりが現れたんです」
「まさか!」
声とともに立ち上がっていた。
信じられなかった。みのりの記憶にコンピュータがアクセスして意味不明な言葉をつぶやき始めるくらいならともかく、みのり自身がマルチの身体に現れるなんて、そんなことは考えられなかった。
しかし少し冷静になって考え直してみればみればわかることだ。
心が生まれたマルチの身体に、みのりが現れる可能性を否定する要素がないことが。
不可能ではないのかも知れないが、考えられにくい。けれど何より私に向けられる迷いのない藤田君の瞳こそが、みのりの出現を真実だと語っていた。
「マルチには、何か秘密があるんですね? あいつにはみのりって娘にまつわる何かがあるんですね?」
これまで藤田君とはマルチのことについて、それは既に彼も気づいているはずの寿命についても、話をすることはなかった。今、私の前にある彼の静かな瞳は、マルチの寿命についても、マルチの秘密についても受け入れる準備があるように思えた。そして彼は、それを知ることを望んでいる。
話そうといつも思いつつ、話し出せなかったことのすべてを、私は話すことに決めた。
「藤田君の言う通りです。マルチには、秘密があります。量産型とは明らかに異なる秘密を、マルチは持っています」
立っていた私はソファに座り、両手を膝の上で組んだ。向けられる藤田君の真っ直ぐな視線を受け止め、私も彼に迷うことない視線を返す。
「まず、みのりの話から始めましょう。私には過去に、みのりという名前の妹がいました。両親に不幸があって私の家に引き取られてきた娘なので、私と血のつながりはありません。彼女と過ごしたのはたった二年と少しでした。たぶんその二年と少しの間が、私にとって一番幸せな時間でした。みのりといるだけで、私は安らかな気持ちになれました。それまで微笑みを知らなかった私が、微笑むことができるようになれたんです。ですが彼女との生活は短いものでした。君が彼女から聞いた通り、原因は交通事故です」
私はテーブルの上の写真に目を向ける。
「まさに、この写真を撮った日でした。みのりが逝ってしまったのは。買い物に出掛けた帰り、彼女は私に別れの言葉も告げることなく逝ってしまいました。私がメイドロボの開発を目指すようになったのは、それから少し経ってからです。みのりは夢を持っていました。私は彼女の夢を実現するために、『人間らしさ』をメイドロボに求めるようになったんです。マルチをつくったのは、夢の実現が見えないために私の心が暴走してしまったからです。暴走してしまった私は、マルチにいくつかの機能とともに、あるものを託しました」
「あるもの?」
「みのりの、記憶です」
やはりと言うべきか。
その事実を聞いた藤田君も私や音山のように、唖然と口を開けていた。
「マルチは確かに問題の多いメイドロボです。――『あの機能』も、本来つけるべきものではありません。あれは恋をすることなく逝ってしまっただろうみのりのことを想い、想いすぎた私がつけてしまった心の暴走の証です。ですが――」
私は藤田君の目を正面から捉えて言う。
「マルチを生み出したことに、私は一片の後悔もありません。みのりの記憶を組み込んだことも、『あの機能』をつけたことでも、私は無駄なことではなかったと思っています。マルチはこれまで私が生み出してきたメイドロボの中で、最高の、最高のメイドロボです」
想像もできなかった真実を告げられ唖然としていたオレに、長瀬さんはキッパリとした言葉で、瞳で、そう言った。
返す言葉はなかった。
ただオレの中に、一つの疑問が浮かび上がってくる。
「じゃあ、マルチの心は……」
「それは違います。マルチの心はみのりの記憶の存在が影響して、生まれたのかも知れません。性格も、行動も、マルチのそれはみのりに似ているものがあります。夢すらも、マルチとみのりはほぼ同一のものを持っています。ですが違います。これは研究をするうちわかってきたことですが、マルチのコンピュータはみのりの記憶をあくまでデータとして参照しています。だからもしかしたら、すべてのメイドロボは心を持っているのかも知れません。確かめたわけではありませんがね。でもあなたは感じませんでしたか? マルチの心は、マルチ自身のものであると」
問われてすぐには答えが出せなかった。まだ疑問が残っている。
何度か口を開いて、閉じて、「それは……」とやっと言葉が出てきたとき、オレの脳裏に掠めたのは、マルチの瞳とみのりの瞳、そしてマルチⅡの瞳だった。
違っていた、それぞれに。
オレはみのりが現れたときのマルチの瞳が、マルチのものには見えなかった。今から思えば逝ってしまうときに見せたマルチⅡの瞳にも、心があるように感じられていた。
「そうですね」
いまだ起きる様子のないマルチのことを眺め、オレは短く答えた。
マルチの秘密を知ったオレだが、マルチに対する想いがかわることはなかった。知った後の今でも、マルチのことが信じることができた。
――もうこいつのことで迷うことはない。
それを固く誓い、彼女の髪を優しく撫でてやっていた。
「それから、藤田君ももう気づいているとは思いますが、マルチの寿命についてです」
撫でる手がぴくりと跳ねて止まった。
ついに来た。そう思う。だがオレはそれも受け止めてやるつもりだ。
「マルチの寿命は、もうほとんど残っていません。いろいろ手を尽くしてきましたが、これ以上延ばすことは無理です」
「やっぱりそうですか」
ホテルのレストランでその話を聞いたことは、面倒になりそうだから伏せることにした。
「もしかしたら、もうこのまま目覚めない可能性もあります」
「……」
唇を噛み、目を閉じる。
――オレまだ、マルチに言いたいことがある。
オレはマルチにひどいことをした。あいつの気持ちなんて考えずに、抱こうとしてしまった。
「長瀬さん。頼みたいことがあるんです」
「なんですか?」
「オレは、マルチにひどいことをしちまったんです。いや、オレはこいつにずっと長い間、ひどいことをし続けてきたんです。もうそれはどうにもならないんですけど……。ただ、ただひと言でいいんです。マルチに、謝りたいんです。だからどうしても、このままこいつに逝って欲しくないんです。お願いします、長瀬さん。一度、もう一度、マルチに会わせて下さい!」
深々と頭を下げた。
オレじゃマルチの意識を戻すことなんてできない。長瀬さんに頼むしかなかった。
できるのかどうかはわからない。だがオレは、どうしてもマルチにひと言謝りたかった。
「……」
長瀬さんは沈黙してる。本当にマルチはひどい状態なんだろう。だから約束できないんだと思う。
それでもオレには長瀬さんに頼む以外方法がない。
「できるかどうかはわかりませんが、努力してみます」
「お願いします!」
もう一度頭を下げたとき、腰のフォルダーで携帯電話が震え始めた。
「すみません。ちょっと」
言って電話を取る。
「はい。藤田――――。え?」
電話の相手はあかりの母親だった。病院の公衆電話からかけているらしい彼女の声は、震えていた。
そして電話の用件を聞いたオレは、自分の耳を疑っていた。
「……」
「どうかしましたか?」
長瀬さんの呼びかけも、どこか上の空で聞いていた。
――嘘だろ?
そう思って訊き直してみたが、返ってくる言葉は同じ。とにかく病院に来て欲しいと言われた。
「長瀬さん。すみません。オレ、急用ができました」
マルチの頭を膝の上からソファに下ろし、まるで力が入らない身体で立ち上がった。
「大丈夫かい?」
「えぇ、まぁ。それより、マルチのこと、頼みます。マルチが起きたら家か携帯にでも連絡入れて下さい。とにかくオレ、すぐ行かないといけないんで」
視界が揺れてるのを感じながら、出口に向かう。
――どうして、オレには悪いことばかり起こるんだろうか。
思わずにはいられなかった。
扉を開けて、廊下に出る。何歩か歩いて、歩くのが速くなって、早足になる。気がついたときには走っていた。
受付を駆け抜け、広く取られた庭を門に向かって全力疾走する。
信じられなかった。信じたくなかった。
――あかりが流産したなんて!
*
バスを乗り継ぎタクシーを飛ばして、オレは病院に着いた。
研究所に行ったときよりも短い時間で戻ってこれたはずなのに、遅すぎると思いながらタクシーの料金を払って病院の待合室に走り込んだ。そこで待ってるはずのあかりの母親を肩で息をしながら探す。
「浩之さん」
「あかりは、それからあいつの子供はどうなったんですかっ?」
オレに気づいて近づいてきた母親にここが病院であることなんて気にせずに大声で訊いた。
「ショックと、ずっと溜め込んできた精神的なストレスが重なって、子供の方は……。あかりの方も身体の調子が不安定らしくて、数日は安静にさせるために、今は病室に入っています」
「病室はどこです?」
詰め寄るように訊いてしまったが、もうそれを気にしてる余裕なんてなかった。病室の場所を聞いてすぐにそこに向かう。
何度か看護婦にかけられた制止の声も無視して、オレはあかりが一人で入ってる病室の前に立った。
そこで少し息を整え、扉を開ける。
病室の中に入ると、眠っているのかどうなのか、半分だけかけられたカーテンの向こうのベッドで、オレに背中を見せるように横になっていた。
「あかり……」
声をかけてみたが、反応はない。
「あかり……」
ベッドのすぐ脇に立って、もう一度声をかけてみる。
やっぱり反応はない。同時に、オレはそれ以上あかりにかけてやる言葉がなかった。
寝てるかどうか確かめようと手を上げたが、やめた。
オレはただ、横になるあかりの姿を何も言わずに眺めていた。
「あかり……」
とにかく何か言おうと思って、三度目の呼びかけをする。
「出てって」
寝ていなかったらしく、あかりからそんな拒絶の言葉が返ってきた。
「あかり、オレは――」
「出てってよ、浩之ちゃん」
静かに言うあかりの肩に手をかける。
「出ていってって言ってるでしょ!」
オレの手をはねのける拍子に、あかりがこっちを向いた。
怒りを湛えたその目には、涙が溢れていた。
「もう浩之ちゃんの顔なんて見たくない! 嫌いだよ、浩之ちゃんなんて。だから出てって! 二度と顔も見たくない!」
伸ばそうとする手を拒否するようにあかりががむしゃらに腕を振る。
「待ってくれ。あかり、オレは――」
「イヤ!」
身体で押さえようと近づいた瞬間、彼女の手がオレの頬をはたいた。
偶然だったんだろう。でもバチッという大きな音が、オレたちの動きを止めさせた。
「出てって、出てってよぉ。もう、もうわたし……」
今にも泣きそうに息を詰まらせるあかりを見て、はたかれた右の頬を軽く押さえながら彼女に背を向けた。
「わかった。出ていく」
そのまま病室を出て、扉を閉める。
閉めた扉に背を預けて天井を見ていると、中からすすり泣く声が聞こえてきた。
かけてやる言葉がなかった。
「愛してる」という言葉をかけてやれればよかったが、オレは今でもマルチのことが好きで、愛していて、あかりに嘘をつくことなんてできない。
あかりにひどいことをしたのは、し続けてきたのはオレ自身だから、慰めの言葉すら見つからなかった。
「あかり、一つだけ聞いてくれ」
すすり泣きの声だけで応えは返ってこなかったが、オレは続ける。
「マルチはもう寿命なんだ。二度とあいつには会えなくなるんだ」
一瞬、泣き声が止まったように思えたが、すぐにまた聞こえ始めた。
これ以上ここにいても仕方がない。長瀬さんの連絡を待つためにも、オレは家に帰るために病室の前を後にした。
*
私は研究所の廊下を早足に歩いていた。
会議はこの先の進行を簡単に決めるだけで、早々に切り上げてきた。できるだけ早くマルチを看てやるために、私はマルチを残してきた主任室へと急いでいる。
「ん?」
主任室が見えてきたところで、疑問が浮かんだ。
暗めにつけている廊下の電灯に下に、部屋から灯りが漏れ出ているのが見えていた。
――誰かが部屋に入ったのか?
それまで以上に早足になって、私は主任室に駆け込んだ。
部屋に中に入ってみるが、誰かがいる様子はない。何か変化がないかと見回しているとき、気がついた。
「マルチ?」
ソファに寝かせておいたはずのマルチの姿が、消えていた。
ソファの下も、デスクの裏も見てみるが、いない。すぐに私は部屋を飛び出し廊下をマルチを求めて走り始めた。
もし、マルチに再稼働がかかって動き始めているとしたら危険だ。調整もしないままどこかに行ったのだとしたら何が起こるかわからない。最悪藤田君に会わせる前にコンピュータが停止してしまう可能性もある。
必死の思いで研究所内を走り回り、所員を幾人か突き飛ばしてもマルチの姿を探し求める。
しかし彼女の姿は、どこにも見つからなかった。
「どうした? そんなに急いでなんかあったのか?」
「ショージ」
声をかけてきた音山のことを思わず学生時代の愛称で呼びながら、彼のもとに駆け寄っていった。
「マルチが、マルチがいなくなったんです」
「んだ? わけわかんねぇぞ。とりあえずこれ飲んで、順序立てて話せ」
どうやら販売コーナーで買ってきたらしいお茶を差し出され、私はそれを一気に飲み干した。それでどうにか平静を取り戻し、彼に事情を手短に話した。
「つまり、マルチの身体にみのりちゃんが現れたってのか?」
「えぇ、そうです。それで藤田君がマルチを連れてきたんですが、会議の間にいなくなってしまって。今の彼女はかなり危険な状態ですから……」
「ふん~」
妙なほど落ち着いた様子で、音山は顎に手を当てながら考える。
「長瀬。お前はもう一度研究所の中を探せ。建物の中だけじゃなくて、外もな」
「わかりました。それであなたは?」
「俺はちょっと思い当たる場所がある。そっちを探してみるよ」
「お願いします」
ひらひらと手を振りながらどこかに向かって歩いていく音山を見送り、私はマルチが行きそうな場所を考える。
まだ見ていない部屋も多いから、そこにいる可能性も高い。
拳を握り締め、私は廊下を走りだした。
* 3 *
空は茜に染まっていた。
見渡せる場所に建物は一つもなく、ただ畑が続き、ただ林が続き、それを阻んでいるのは、遠く霞む山々だけだった。
誰もいない丘の上に立ち、マルチはその風景を眺めている。
沈み行く夕日が彼女の瞳もまた、茜に染めていた。
マルチは隣に立つ一本の木に左手を添えて、少しも動くことなく夕日に真っ直ぐな視線を向けている。
緩やかに流れ行き彼女の髪を揺らす風が、わずかずつ色を移し彼女の姿を紫色に近づけていく夕日が、そこに時間があることを示していた。
マルチにとって、そこは知らない場所だった。
蓄積されたメモリの中にこの場所の情報は存在しない。どうやってここに来たのか、そんな少し前の情報すらも、彼女の中には残っていなかった。
ただしかし、マルチは胸を熱くする。
浩之とともにいるときも感じるそれだが、ここにいることで感じるそれは、どこか違った。
表すべき言葉は見つからない。握った右手で胸を押さえるということが、胸の熱さを表現する方法だと知っていた。
「もうすぐ、もうすぐなんですね、セリオさん」
山吹色になりつつある空を見つつ、マルチはつぶやく。
五年前、自分と同じ時期に最終試験を行っていたHMX―13セリオから、メールを受け取った。それには短く「さよなら」の言葉だけが書かれていた。
セリオからもらった最初で、そして最後のメールだった。
セリオが廃棄処分になったことを知ったのは、それから少し経ってから。その理由がコンピュータの寿命であることを知ったのは、ずいぶん後になってからだった。
逝く直前、セリオにはオーバーヒートの増加などの不調が現れていたという。マルチは自分にもまた、その症状が起こり始めていることに、一年以上前から気づいていた。
それが今、限界に達しようとしている。
浩之の前では自分の寿命を知られないために、いつも元気良く振る舞っていた。しかし不調が急激に増加して隠すことができないほどになっても、浩之は何も言わなかった。その素振りから、彼がずっと前から自分の寿命のことを知っていたのを感じた。
マルチもまた、何も言わなかった。
自分以外のことでも多くの悩みを抱え、さらに自分の寿命のことで悩ませることになるのを恐れて、マルチは何も言い出せなかった。彼の前ではできるだけ元気に振る舞おうと努力してきた。
その努力ももう、これ以上はできない。それほどまでに自分の寿命が差し迫っている。
いつの間にか涙が流れ出し、マルチは右手でそれを拭う。
自分の寿命など、彼女にとっては心配事ではなかった。それよりも残していくことになる浩之を悲しませてしまうことの方が、彼女にとって辛かった。
止めることができない涙に押し流され、マルチはその場にしゃがみ込んだ。夕日が目にまぶしすぎて、下を向いて草に涙の雫を落とす。
「それでもいいのかも知れないですよね。わたしがいなくなった方が、ご主人様にとってはいいことなのかも知れないですよね」
自分の存在が浩之の負担になるくらいなら、自分がいることで彼を辛くさせてしまうくらいなら、自分などいなくなってしまった方がいい。
浩之ばかりでなく、自分の存在はあかりにまで悪い影響を及ぼしてしまうのだから。
「あかりさん、無事だったのかな。お腹の子供さんも無事かな」
あのときオーバーヒートを起こしてしまって、どうなったのか見ていない。心配がこみ上げてきて、喉が詰まる。
あかりの子供が浩之とのものであることくらい、わかっている。あかりがずっと浩之のことを好きで、けれど自分の存在が邪魔になって彼女のことを不幸にさせてしまっていることくらい、マルチはわかっていた。
しかし自分も浩之のことが好きで、ずっと一緒にいたくて、その想いが浩之とあかりを不幸にさせてしまっていた。
けれどもう、自分はいなくなる。
浩之を悲しませないような、二人が幸せになれるような、そんな別れ方をしなければならない。そのための方法を考えなければならない。
「そう思えば、あの人は誰なのかな?」
あかりを追っているときに自分の中に現れた、もう一人の誰か。なぜそんな人が自分の中にいるのかわからなかったが、確実に誰かがいるのはわかった。
そんなことを考え始めたとき、背後からかけられた声。
「かわんねぇな、ここは」
長瀬からマルチにみのりちゃんが現れたと聞いてすぐに思いついたのは、ここだった。
浩之のもとに帰るというのも考えたが、それならばそれで問題はない。だから俺は、もしかしたらと思いつつ、もうすぐ夕日が沈んでしまうこの丘にやってきた。
――やっぱり、と言うべきかな。
研究所と俺や長瀬が住んでる場所の中間くらいに、この丘はある。時間はかかるにしろ、歩けない距離じゃない。そして思った通り、マルチはそこにいた。
「かわんねぇな、ここは」
そう声をかけならマルチに近寄っていく。
泣いていたんだろう。一度振り向こうとした動きを止め、服の袖で目元を拭った後、マルチは俺の方を見た。
「音山主任?」
「おぅ。あんまり騒ぎを起こすんじゃねぇぜ、マルチ」
言いながらマルチの横まで歩いていき、その場に脚を伸ばして座った。両手を後ろについて身体を支え、俺が現れたことに不思議そうな顔をしてるマルチに向かってにやりと笑いかけた。
「どうしてこんな場所にいるんだ?」
「それは……」
困ったように言葉を濁し、「わかりません」と答えるマルチ。
俺にはだいたい想像がついていたが、その理由を告げることはない。そのことを言及するのはやめて、別のことを訊くことにした。
「んじゃ、ここで一人で何考えてたんだ?」
「……」
脚を身体に引き寄せて両腕で抱き、マルチは目をつむって膝に顔を埋める。
「ご主人様のことや、あかりさんのことや、わたし自身のこと。それから……、わたしの中にいる、もう一人の誰かのこと、です」
――気づいていたか。
自分の寿命のことも、みのりちゃんの存在も。
マルチは莫迦じゃない。よほど長瀬や藤田の方が莫迦だ。
顔を上げたマルチは、俺に問うてきた。
「音山主任。教えて下さい。わたしの寿命は、後どれくらい残っているんですか?」
向けられる真剣な目に、これまで仕事でどんな人間と対峙してもひるむことがなかった俺が飲まれそうになっていた。
――どうしてこう、俺は純粋な目に弱いかな。
揺らいだ心に悔しさを感じたのではなく、むしろ苦笑いが漏れそうになるのを必死でこらえながら、俺はキッパリとした声で答えた。
「お前が思ってるのと同じだよ。寿命はもうほとんど残ってねぇ。いや、この瞬間尽きてもおかしくないくらいだ」
訊かれたら隠さないつもりだった。だからはっきりと答えた。
あの二人のように隠すのは一つの優しさの表現だが、それはあまりに残酷だ。隠したところで、マルチの寿命が延びてくれるわけじゃない。
優しい残酷さよりも、冷徹なまでの優しさの方が今はいい。
「そう、ですか」
「あぁ」
太陽は沈み終わり、残り火だけが西の空に残っていた。
俺たちはそれを眺めながら、何も言い出すことはなかった。
秋の訪れを告げる風が、緩やかに吹き抜けていった。
「ここはな、俺にとって想い出の場所なんだ」
なぜそんなことを言い出したのかは自分でもわからない。星を輝かせ始めた空がそうさせたんだろう。
俺は沈黙を破って、話を始めた。
「小学校の頃からだったな。この場所に俺はよく来てた。近くに何もありゃしねぇから、誰かが来ることは滅多にねぇ。一人で考え事をするにはいい場所だった」
何も言うことはないが俺の顔を見つめてくるマルチに笑いかけ、話を続ける。
「高校生の入って少しした頃から、この場所は俺一人の場所じゃなくなった。あるときいつものようにここに来てみたら、先客がいたんだ。中学生の女の子だったよ。
最初のうちはどっちも口を聞かずにただ一緒に夕日を眺めるだけの関係だったが、いつの間にか話をするようになってた。そいつとはいろんなことを話したよ。学校のことや、生活のこと、昨日見たテレビのことやら夕日が何で赤いのか、なんてことまでな。それから、将来のことや、夢なんてことも語り合った。
その娘は世界にもっと幸せが増えるのを望んでたよ。そのために何かしたいって、いつも考えてた。だけど彼女は死んじまった。交通事故だった」
「音山主任にとって、その人は……」
「ん~」
突然かけられたマルチの疑問に口ごもる。なんて答えていいか微妙だった。
少し考えて、俺は一番似合う言葉を探し出した。
「憧れてたんだ、俺は。その娘の夢に、その娘自身に」
その答えじゃ不満だったのか、マルチは何も言ってこなかった。
口元に笑みを浮かべて、俺はマルチに言う。
「逝くときに、悔いを残すなよ。その娘は夢を実現できず、大好きな兄さんに別れ言葉も告げられず、交通事故で逝っちまったんだ。お前はそんな風になるなよ」
「……はい」
目をつむり何かを考えて、マルチは立ち上がった。決心を決めた目で、「行ってきます」と言う。
「頑張れよ、マルチ」
「はい。わたしがいなくなった後もご主人様が幸せになっていただけるように、行ってきます」
振り向くことなく、マルチは行った。
その背中が見えなくなった後、首だけで彼女を追っていた俺は立ち上がる。
「莫迦だぜ、長瀬も藤田もよ。マルチの方がよほどしっかりしてるじゃねぇか」
二人のことを罵倒して歩き出す。
藤田のことはマルチに任せておけばいいだろう。俺は長瀬の方をどうにかしてやらなくちゃならない。
どこからか雲が張り出し始めた空の下、俺は研究所に向かって歩いていった。
「お、音山?」
つかつかと早足に廊下を歩く足音が聞こえてきたと思ったら、主任室の扉がノブも回されずにすごい勢いで開いた。
脚を振り上げた格好のまま私のことを睨んだ音山は、次の瞬間私に詰め寄ってくる。
「はっきりしやがれ! てめぇがそうだから何にもならねぇんだ!」
「ど、どうしたんですか?」
わけもわからず、私は迫ってくる音山を押さえるために両手を身体の前に構えた。
研究所の中を探したが、どうしてもマルチの姿を発見することはできなかった。音山には何か思い当たる場所があるらしかったから彼を待っていたのだが、いきなりこの剣幕は何なのだろうか。
「マルチは藤田ん家に行った。自分で決着をつけるためにな。だからあとはお前だけだ」
「ですがマルチは……」
「うっせぇ! どっちにしろもうすぐあいつの寿命は尽きちまうんだ。調整でごまかしたところでたいしてかわりゃしねぇだろ? それに寿命のことくらいマルチも気づいてたよ。それどころか、自分の中にいるみのりちゃんのこともな」
「本当、ですか?」
信じられず問う直してみたが、真剣な目で頷かれただけだった。
「藤田のことはマルチに任せた。だからあとはお前だけだ。お前が自分の答えを出せばいいだけだ」
迫ってくるのをやめ、ソファにドサリと座った音山は、横目で私のことを見る。
私はまだ瑞恵の研究に参加するのか、しないのか、どうしても答えを出せないでいた。
迷い下を向く私に全身で溜め息をつき、音山は口を開く。
「ちょっと前によ、俺に姉ちゃんがいるってのは言ったよな」
「えぇ」
「姉ちゃんの名前は早姫ってんだが、早姫は中学時代からバンドをやってたんだ」
何をまた語り始めたのかと私は音山の目を見る。彼に視線で「この前の話の続きだ」と告げられ、黙って聞くことにした。
「ゲンゴロウ。俺が昔は弱虫でいじめられっ子だったって言ったら、信じられるか?」
「まさか」
音山は見かけよりも小柄な身体をしているが、力で言えば私よりも遥かに強い。思っていることをズバズバと言い、雰囲気だけで人を退けられるような彼が弱虫だったなんて、信じられるわけがない。
「本当だ。小学校の頃はよく泣かされてたもんだよ。んでな、早姫はバンドに打ち込んでて、それもけっこう上手かったんだ。インディーズではそれなりに有名だったらしい。
だがお前も知っての通り、俺ん家はどこだか名前も覚えちゃいねぇが、けっこうでかい会社の社長なんてものを代々やってる家なんだ。一番上の兄さんも下の奴も秀才だったし、俺も別に勉強を苦に思ったことはないくらいできた。その中で早姫は一人異質だったよ。親父とは殴り合いの喧嘩してたし、お袋にはよく泣かれてた。そんな状態じゃぁもちろん小遣いなんてもらえねぇから、あいつは学校もほとんど行かずにバイトして、それでどうにかグループを維持してた」
いつものように唇の端をつり上げて笑いながら語り続ける音山。しかしその笑みは、自虐的だった。
「早姫はな、よく俺に自分の夢を語ってくれてたよ。自分の歌で感動して欲しい、聴いた人が元気を出せるような歌を歌いたいって、いつも俺にそう言ってた。憧れてたよ、早姫に。俺はその頃親父の言いなりになって勉強なり生活をしてたからな、早姫みたいな強さが、夢が欲しいって願ってた。
早姫が高校三年になったとき、俺が小学校の四年生に上がってすぐだった。親父と大学進学だのバイトに打ち込むだので大喧嘩して、あの莫迦親父をノした後、けっきょく家を飛び出していった。でもな、すごいんだ、早姫は。一年後に呼び出されて会ったとき、あいつはメジャーへの切符を手に入れてたよ。目ぇ輝かせながら、自分の歌をもっと多くの人に聴いてもらえるって、あいつらしくなくはしゃいでたっけ。それが最期だった。早姫が死んだのを聞いたのは、最後に会った日から三日後だったよ。
長瀬。早姫のヤローはどうやって死んだと思う? 当ててみな」
笑いながら問うてくる音山だったが、その姿は悲しげだった。どこか無理をしているような様子がある。
「いえ、わかりません」
「笑えるんだぜ、これがよ。階段から落ちて死んだんだ。それもたった四段、地面からたった四段しかない階段で転んで落ちて、死んだんだ」
笑みが凍りつき、それを隠すように彼は顔を手で覆った。それでも言葉は終わっていない。
「あっけなかった。打ち所が悪かったんだってよ。せっかくメジャーデビューが控えてたってのに、早姫はそんな莫迦な死に方をしたんだ。笑ったよ、俺は。葬式の席で大声で笑い転げたよ。
そのとき、俺はかわったんだ」
指の間から自分を取り戻した音山の視線が向けられる。ソファから立ち上がって彼は再び私の前に立つ。
「人なんてもなぁ簡単に死ぬ。夢があろうがなかろうが、人生を楽しんでようが楽しんでいまいが、人なんてもなぁ気がつくと死んでんだ。それに気づいたときから俺はかわった。早姫みてぇに夢を持つことはできなかったが、がむしゃらに人生を楽しむようになったよ。そして、お前とみのりちゃんに出会った。
俺は夢を持てない人間だが、みのりちゃんは違う。お前も違う。お前らは夢を持てる人間だ。みのりちゃんが逝って、お前が彼女の夢を継ぐと言ったとき、俺は誓った。お前とみのりちゃんの夢の実現を、手伝うことをな」
向けられる音山の真剣な眼差しを、わたしはまだ受け止めることができない。視線を逸らし、あらぬ方を向いてしまう。
「成体クローンの研究は、多くの犠牲を払うことになる。それに危険だ。部長という立場の俺から見れば、そんな莫迦な研究のためにお前みたいな優秀な人材が抜けるなんてこと、見過ごすこたぁできねぇよ。しかし、お前は後悔しながら死んでくつもりなのか? 死ぬときに『あぁ、やっとけばよかった』なんつうくだらん悔いを残すつもりなのか?」
問われて、私は考える。
既にマルチの娘たちを実現させ得る可能性があるのは、成体クローン研究への参加くらいしか見えなかった。
私は音山のように思い詰めて考えることができない。けれどみのりの夢の実現は私の悲願だ。
「ちょっと考えろよ。どーせ成体クローンの研究なんてなぁお前が参加しなくてもやってるんだ。犠牲なんていくらでも出てる。だったらよ、消極的な方法かも知れねぇが、お前が乗り込んでって、その犠牲を最小限に抑えるってのも一つの手だとは思わねぇか?」
みのりの身体が保存してあるというなら、そして彼女の記憶が瑞恵の手元にあるとしたら――なくても彼女は力尽くで私から奪っていくだろう――、私がいなくても犠牲は出る。それを止めることはできなくても、抑えることはできるかも知れない。
心を決めた。
デスクの引き出しを開け、その中から一通の封筒を取り出す。
「これを、受け取って下さい」
渡された封筒の表に書かれた文字を読み、音山はいつもの笑みを見せた。そこには「辞表」という、二文字が書かれている。
「考えておく」
笑いながら、彼は胸のポケットにそれを収めた。
*
長瀬さんから電話がある様子は、一向になかった。
仕方なく自宅のリビングのソファに座り、オレはただボォッとしていた。
何もする気が起きなかった。
明日も会社だが、そんなことはどうでもよかった。
ただ、マルチが帰ってくることを願ってるだけだった。
――マルチがあのまま逝っちまったとしたら……。
天井を仰ぎつつ、最悪の事態が思い浮かんでしまう。
このままマルチに会えなかったとしたら、いや、会えたとしても、マルチがいなくなった後のオレは、生きて行けるだろうか。
せめてあかりがいてくれれば、と思うが、それは無理だった。
オレにはもう、マルチを失った後まで生きていく自信はなかった。
そう考えると、何もかもがどうでもいいように思えてきた。マルチにも、あかりにも、それぞれに謝りたい気持ちもあるが、オレが死んでいくんなら、どうしたところで何もかわらないように思えてきていた。
目を閉じて動かない思考を放り捨てて座っていると、玄関の方で音がした。
玄関の扉が開いて、閉まる音。靴を脱いで、こっちに歩いてくる足音。
「マルチ!」
彼女よりも先にリビングの扉を開けて、オレは小柄なその身体を抱き締めた。
かすかな髪の匂い。
伝わる暖かな体温。
柔らかな抱き心地。
マルチだった。マルチが帰ってきた。
「すまない。すまない。オレ、オレはずっとお前を――」
「ご主人様、く、苦しい……」
訴えに抱き締めるのをやめたが、興奮は冷めやらない。
「オレ、お前に謝らないと行けないことがあるんだ」
「わたしもそうです。すみません。わたし、自分の寿命ないことに気づいていたのに、ずっとご主人様に言えませんでした」
「オレもだ。前から気づいてたけど、言えなかった。それにお前にはずっと辛い思いをさせてきた。そのことも含めて、謝る。謝って済むことじゃないかも知れないが、すまない、マルチ」
「いえ……」
さっきまで心を支配していた暗い気持ちなんて吹き飛んでいた。マルチが帰ってきてくれたということだけで、オレはすべてを取り戻していた。
もう一度、今度は気をつけながらマルチを抱き締める。ここ数日でどれくらい涙を流したんだろうか。それでもオレは涙を流していた。
「すまない、マルチ。本当に、本当に……」
繰り返し謝り、オレは泣き続ける。
腕の中にはオレの幸せのすべてがあった。いつまでもいつまでも、オレはこの身体を抱き締めているつもりだった。
「ご主人様、あの、あかりさんは、どうなされました?」
「あかり?」
喜びが薄れ、胸に痛みを覚える。
「あかりは、無事だ。怪我もしてない」
「お子さんは、あかりさんのお腹の中のお子さんは大丈夫なんですか?」
「……ダメだった。ショックであいつ、流産しちまったんだ」
いきなりマルチがオレの腕の中から逃れていった。それを追ってもう一度腕を伸ばしたが、彼女はさらに身を引いてそれを避けた。
「どうしたんだ? マルチ」
目を見開き、唇を震わせている。
オレは過去二度目の、マルチの怒りを見ていた。
「あかりさんを悲しませるご主人様なんて、もうご主人様なんかじゃありません」
「何を言ってるんだ?」
さらに手を伸ばしたが、マルチはそれを逃れて玄関に下りた。
「あかりさんを不幸にさせるご主人様なんて、嫌いです」
「何言ってるんだ、マルチ。わかんねぇよ。なんでいきなりそんなこと言い出すんだ。おい、マルチ、マルチ!」
オレの声を無視して靴を履き、玄関の扉を開ける。
「さよならです。わたしのことは、忘れて下さい」
「待て、待ってくれ!」
飛び出していったマルチを追って靴も履かずに家を出た。
「行かないでくれ! オレはお前がいないと……」
その声に一瞬だけマルチの脚が止まった。だがすぐに走り出してしまう。
いつの間に雲が出ていたんだろう。雨が降り始めた。
あっという間に土砂降りになった雨の中、マルチの背中が小さくなっていった。
追えなかった。
――さよなら、だって?
その言葉がオレから力を奪っていた。
道路にがっくりと膝をつき、そのまま突っ伏す。
「オレは、すべてを失った」
つぶやきは雨の中に流されていった。