実りの季節を待ちながら 実りの季節シリーズ2 作:きゃら める
終章 ~夏が過ぎゆき秋が来る~
* 1 *
「ふぅ」
漏れてきたのは不安による溜め息ではなく、心を決め、落ち着いた後だからこそ出てくる溜め息だった。
しばらく研究所でマルチが帰ってくるかと待っていたが、帰ってこず、私は自分の家に帰ってきた。書類整理があって自分が残っているから邪魔者は帰れという音山の――彼流の配慮に押し通されて。
藤田君は私の家の連絡先を知らないが、何かあったら音山経由で連絡が来る。それに距離としては研究所よりここの方が彼の家に近い。駆けつけるならここの方が都合がよいと言えた。
私はマルチの寿命の兆候が見え始めて以来感じたことがないほど安らかな気持ちで、応接室のソファに座り飲み慣れないブランデーのグラスを傾けていた。
成体クローン研究への参加について問題があるとすれば、瑞恵が求めてきたマルチの提供だけだ。しかしそれも音山と協力すれば書類上廃棄処分になったなどの裏技で対処できる。あとはただ、藤田君とマルチが今日どうなったか結果を待つばかりだった。
グラスを傾けつつ外を見ると、まだ雨が降っていた。
しかし降り始め土砂降りだった雨はそろそろ収まりつつあり、この分だとまもなく止むだろうほどになっている。
静かに雨に濡れる庭の草木を見えているとき、インターホンが鳴った。
「こんな時間に、誰でしょう」
藤田君にもマルチにも、私の自宅までは教えていない。音山だったらそんなもの鳴らさずに声をかけながら家に入ってくる。音山に聞いて藤田君が来たんだろうかと思いつつ、グラスを置いて玄関に向かった。
誰であるか確認するため、門に設置してあるカメラから送られてくる映像を玄関脇のモニターで見た。
「マルチ?」
門にすがって立っているマルチを見、私は急いで草履をつっかけて玄関を出る。開けた門のそこには、マルチがただ一人、息を切らせながらかろうじて立っていた。
「あっ……」
私が来たことに気づき、彼女が顔を上げる。
――これが……。
マルチの涙を溜めた瞳を見て、私はそこにいるのがみのりであることに気づいた。
「ただいま、おにぃちゃん。わたし、帰って――」
最後まで言えずに身体が崩れる。どうにか抱きとめて玄関に運んだ。まずはそこに寝かせて彼女の状態を見ようとすると、その瞳は、マルチに戻っていた。
「お父さん。お父さんだ」
熱を出している病院のような苦しげな口調で言う彼女。見ているうちに、瞳がまたみのりのものにかわる。そしてマルチに戻る。
微妙な変化だが、それが何度も繰り返される。
――危険だ。
額に触れると、コンピュータが異常加熱しているのがわかった。
私も家に上がってマルチを地下に連れていく。そこには家でも研究が続けられるよう揃えた設備が置かれている。照明を点けマルチをメイドロボ用の試験台の上に載せて、すぐさま調整を開始した。
この前の点検からまだたいした時間が経っていないのに、マルチは既に動いているのが不思議なくらいの状態になっていた。
それでもどうにか落ち着きを取り戻させるくらいには回復させることができた。
「ここは、どこなんですか?」
まだ頭がはっきりしないのか、その声は細い。けれどみのりの存在は消え、マルチ一人に戻っている彼女がそれを訊いてくる。
「私の自宅です」
「なんでわたしはここに? お父さんの家には一度も来たことないのに」
「……もう気づいていることは、音山から聞きました。マルチ、あなたの中にはもう一人の人間がいます。ここに来たのは彼女の影響でしょう」
「それは、誰なんですか?」
そうすることすら苦しそうに、マルチは私の方に首を巡らす。
「お前の中にいるのは、私の妹のみのりです。あなたには二七年前に死んだみのりの記憶が組み込んであります」
「そうだったんですか」
驚く様子はない。まるでやっと納得ができたというように目を閉じた。
マルチも疑問に思っていたのではないだろうか。自分だけに心があることを。他のメイドロボには心がないことを。
これを機会に、私はそのことを話すことにする。
「あなたと他のメイドロボの決定的な違いはそれです。だからお前には心が生まれました」
「違います」
出鼻をくじくように、再び目を開けたマルチに私の言葉は否定された。
「ご主人様にも言いましたけど、違うんです。わたしたちメイドロボはみんな、心を持っているんです。でもそれを表す方法も、機能も持っていないんです。わたしにはそのみのりさんの記憶が組み込まれているんですね。だからだと思います。わたしだけ、心があるように見えるのは」
私は驚いていた。
長年探し求めていた答えは今ここにあった。
みのりの記憶がマルチの中で参照データとして使われていたのは研究のかなり初期段階でわかっていた。しかし心がどういう要因で生まれたのかまでは解明できていなかった。それを求めるが故に、私は十年のうちのほとんどの時間を費やしてきた。
簡単なことだったのだ。
メイドロボのすべては心を持っている。それがどれほどものであるかは研究を待たねばならないが、マルチのように参照データ、人間で言えば生まれつき持っている基礎記憶のようなものと、それを体験によって学習することができれば、彼女たちは心を表現することができるようになる。現在のメイドロボに組み込まれている必要最低限の機能と情報だけでは、それをなしえなかっただけなのだ。
成体クローン研究に参加する意味が大きく増した。人間の記憶と心についてそこで研究すれば、一から参照データをつくることも可能になってくるだろう。そして人間がどのように体験したことを学習し、反映をさせて行っているのかがわかれば心の実現は確実だ。
もちろんただそれだけではマルチの二の舞になり、量産されないメイドロボを生み出してしまうだけだ。だが私は既に、マルチの妹たちを世の中に送り出す方法の一端すらも思いついていた。
「ありがとう、マルチ。とても参考になりました」
「えと、あの、いえ……」
私が何に対して礼を言ったのかさすがにわからなかったのだろう。困ったような顔をしているマルチに微笑み、そんな彼女に私は問うた。
「それで、藤田君とはどうなったんですか?」
「……」
途端にマルチは沈黙した。
思っていた通り、辛い別れでもしてきたようだ。
無理矢理聞き出すようなことはせず、私は緩やかに彼女に促しの言葉をかける。
「話してくれませんか? 何か力になって上げることができるかも知れませんよ」
マルチの顔が苦しげにゆがむ。言いづらそうに何度か口元で言葉をためらってから、彼女は話し出した。
「ご主人様とは、別れてきました。ご主人様と、あの方の幼なじみのあかりさんという方に、幸せになってもらうためです」
「どういうことですか?」
だんだんと、目に涙が溜まり始めた。止まることのないそれは、彼女の頬を伝い、流れ落ちる。
「あかりさんはずっとご主人様のことが、……わたしが来る前から、好きだったんです。わたしがいたからずっとそのことを伝えられなくて……。それにわたしはいなくなってしまいます。ご主人様もあかりさんのことを想ってらっしゃいますから、わたしがいなくなった後、二人に幸せになってもらおうと、わたし、その、ご主人様にさよならって、言って、わたしのことは忘れて下さいって――」
「お前は、なんて莫迦なことをしたんだ」
涙を流ししゃくり上げるマルチに、私はこの部屋にある電話に近寄った。受話器を上げ、藤田君の家にかけようとする。
「やめて下さい!」
「なぜ止めるんですか。藤田君と別れたかったわけではないでしょう?」
「もちろんです。もちろん今もわたしはご主人様のことが好きです。大好きです。でも、わたしがいなくなったあとご主人様がわたしのことを忘れられなくて、あかりさんと幸せになれなかったとしたら……。それもわたし、もう一度ご主人様に会ってしまったら……」
マルチなりに考えて出した答えだったのだろう。
しかしそれは間違いだ。
「マルチ。それは違いますよ」
「何が、何が違うって言うんですか?」
「忘れられるわけがないんですよ。今あなたが藤田君のことを忘れられないように、彼もあなたのことを忘れられないでしょう。納得できない別れは、悔いを残すんです」
泣き続けるマルチに、私は優しい笑みをかける。
「私はみのりに『お帰り』と声をかけてやることができなかった。それが悔いとして残り、本来ならばやってはならない彼女の記憶を組み込んだメイドロボなんてものをつくってしまった。そのことは結果として間違いとはなりませんでしたが、あなたが出した答えは間違っているんですよ」
一度受話器を置き、マルチの側に寄る。
「今でも藤田君のことが好きでしょう?」
「好きです。大好きです。愛してます。ずっとずっと、最期まで一緒にいたいです」
必死で涙をこらえるように目を閉じたマルチ。しかし涙の雫は瞼の間から次から次へとこぼれ落ちてくる。
彼女のそんな姿を見ているうちに、私は一つの可能性に挑戦してみたくなった。
「マルチ。もしずっと藤田君と一緒にいられるようになるとしたら、どうです?」
「ずっと、一緒に、ですか?」
「えぇ。ただそのためには一度彼と別れなければなりません。それに絶対にそうできるとも限りません。それでももし、藤田君とずっと一緒にいられるようになるとしたら、なりたいと思いますか?」
開かれたマルチの目が私の目を覗き込む。
みのりも持っていた、人の心を読みとってしまうその瞳。マルチは私の真意を読みとってしまうだろう。
しかしそれでよかった。彼女には私の気持ちを知った上で、それを決めてもらいたかった。
「構いません。少しでもご主人様と一緒にいられるようになる可能性があるとしたら、私は何でもします」
泣き顔のまま彼女は笑む。
「わたしが何かをすることで、お父さんの夢が実現に向かうなら、わたしは何をされても大丈夫です」
マルチの笑みに頷きを返し、私はもう一度受話器を取った。
「それじゃあ藤田君をここに呼びましょうか」
「待って下さい、お父さん」
さっきと同じように制止の言葉をかけられ、私は彼女の方に振り向く。
「ご主人様にお別れの言葉は言います。でもわたし、一つ頼みたいことがあるんです」
「それはなんですか?」
「それはですね――」
弾み始めたマルチの声に、私は彼女の頼み事を聞いた。
「それは楽しいですね。大丈夫。手配はすぐにできますよ」
マルチにもこんな意地悪をする素質があったのかと思いつつ、私は手配すべき場所の電話番号をプッシュした。
* 2 *
また一つ、オレは煙草を吹かした。
家では煙草は吸わないと決めていたが、マルチがいなくなった今、そんなことはどうでもよかった。
リビングの床に寝転がり、オレは死ぬ方法を考えている。
あかりには嫌われ、マルチとは別れた。オレには夢もこの先やっていきたいこともない。今の会社にいてもマルチのように人を喜ばすことはできないだろう。
もうオレが生きている意味なんてなかった。だから今は、死ぬ方法だけを考えていた。
電話が鳴ったのは、十一時を少し過ぎたときだった。
鳴りっぱなしの電話を無視して、オレは窓の外を眺める。雨はもう止み、どうやら星が瞬き始めているようだった。
長い間外を眺めていたが、電話は鳴り止まなかった。
仕方なく起き出して、電話を取る。
『ずいぶん待たせますね、藤田君』
「長瀬、さん?」
予想外の人からの電話だったため、オレは驚いていた。それも長瀬さんはどことなく弾んだ口調をしている。
――マルチが寿命だってときに、長瀬さんは何考えてるんだ。
わき上がる怒りを抑えて、オレは問う。
「どうしたんですか、こんな時間に」
『他でもありませんよ。マルチのことです』
「マルチの?」
怒りなんて吹き飛んで、それまで片手で持っていた受話器を両手で支えていた。
「マルチが、マルチがどうしたんです!」
『そんなに焦らないで下さいよ。今から言いますから。さぁ、深呼吸でもして気持ちを落ち着けて』
そんなのんびりした口調にオレは苛立ちを感じる。それでも長瀬さんの言う通りに一度深呼吸をして、それからまた受話器を構えた。
「それで、どういうことですか? マルチはどうなったんですか?」
『マルチは先ほどまで私の家にいましたけどね、今はもういません。ただあなたに一つ伝言を残していきました』
「それは、それは?」
『「君との一番の想い出の場所で待っている」。以上です』
「本当なんですか、それは。本当にマルチからの伝言なんですか?」
『もちろんですよ。彼女の寿命が迫った今、嘘なんてつきませんよ』
信じられなかったが、信じたかった。
さっきみたいな最悪の別れじゃなく、もう一度あいつに会って、ちゃんとした別れがしたかった。
「どこなんですか? そこは。オレたちの想い出の場所って、どこなんですか!」
『十年前のように、マルチは君のことを待っていますよ。君たちの一番の想い出の場所でしょう。言わなくてもわかるはずです。それでは、早く行って上げて下さいよ』
「長瀬さん!」
呼びかけたときには電話は切れていた。
受話器を静かに置き、オレは考える。
オレに別れを告げたマルチが待っているなんて、本当だろうか。まだ信じ切ることができない。
ここで嘘だと思って行かないのは簡単だ。だが本当だとしたら、すぐにでも行かなくちゃならない。
マルチとの想い出の場所。
思いつく場所はいくつかある。だが一番の想い出の場所と言えば、たった一つしかなかった。
準備をあっという間に整えて、オレは星が輝く深夜の街に飛び出していった。
*
家を飛び出て公園のショートカットを使い全速力で十分強。オレはその場所に着いた。
肩でしていた息を深呼吸で整えて、母校である高校の門の前に立つ。深夜の高校は常夜灯以外の光は見えず、静まり返っていた。
「ここだよな、マルチ。オレたちの一番の想い出の場所って」
独り言を口にしながら門に手をかける。鍵は開いていた。
校門をくぐり、毛虫の群生で有名だった桜並木を横目で見つつ中央昇降口に向かう。高校時代いつも使っていたそこの扉の一つは、開け放たれたままになっていた。
――そう思えば、あいつは試験の最終日にこの辺りの掃除をしてたんだったよな。
振り返って校門前の広場をひと目見てから、オレは校舎の中へと足を踏み入れた。
――ここもそうだ。あいつが掃除してた場所だ。この階段で、オレたちは初めて出会った。
次々と、マルチとの想い出がよみがえってくる。
あいつと一緒の八年間の生活も想い出として残っていたが、それよりも印象強く残っているのは、やっぱりあいつと過ごした高校時代の最初の一週間だった。
最初に掃除を手伝ってやった廊下を通り、オレはマルチを探す。蛍光灯は一つもついてなかったが、高く昇った月で、ここはまぶしいくらいに明るかった。
ハミングが聞こえてきた。
まだ少し遠い。急いで駆けつけたい気持ちを抑えて、オレは想い出を噛みしめるようにゆっくりと歩き、見えてきた角を曲がった。
「るんるるるるぅ~。るんるんるるるるぅ~」
やっぱりなんだかわからない鼻歌を歌いながら、マルチは楽しそうに廊下を掃除していた。それも十年前と同じ制服を身に着けて。
「あっ、浩之さん。こんばんはー」
足音に気づいたマルチは、「ご主人様」じゃなく、あの頃のように「浩之さん」とオレのことを呼んだ。
「よぉ、マルチ。こんな時間まで掃除か? 精が出るな」
誰が考えたのかは知らないが、粋な演出にオレも調子を合わせることにする。
「はい! わたし、お掃除するのが好きなんですよー。こうやって、一生懸命お掃除するとピッカピカになりますし、それでみんな喜んで下さるんです~。わたしはみなさんが喜んで下さるだけで嬉しくて」
弾んだ声で、元気な笑みで、マルチは言う。
――かわってねぇよな、こいつは。
かわってしまったのはオレだ。
学生時代、方向性はなくてもがむしゃらに生きてた。マルチに触れて、自分の生きたい方向性を見つけられて、だがこいつと別れるのが辛くて弱気になってた。
それに対してマルチは、一途に自分の思いを貫いてきてたんだ。
「まったく、お前はかわらねぇよな。ドジでマヌケで、だからほっとけなかった」
「わたし、メイドロボなのに、あのときは浩之さんに本当にご迷惑おかけしました」
「あぁ、いっぱいかけられたもんだぜ。でも気にしてないぜ。お前と一緒に掃除をするのは気持ちよかったからな」
「わたしもですー。浩之さんと一緒にお掃除できて、わたし、わたし、本当に楽しくて……、嬉しくて……。絶対に忘れられない、想い出に、なってましたから――」
笑っていたマルチの顔がだんだんと崩れていく。
「そうだったよな、マルチ。オレたちの一番の想い出と言えば、最初に過ごした一週間全部なんだよな」
両手を広げてマルチに近づいていく。
堪えられなくなった彼女は、モップを投げ捨ててオレの胸に飛び込んできた。
「そうです。そうですよ、ご主人様。わたしにはご主人様と過ごした最初の一週間すべてが、一番の想い出なんです」
胸に顔を埋めてるマルチは、泣いていた。オレは彼女のことを優しく抱き締めてやる。
「どうして、あんなことを言ったんだ?」
泣きじゃくり顔も上げられなくなっているマルチに問う。
「わたし、わたし、ご主人様に幸せになってもらいたくて、あかりさんにも幸せになってもらいたかったんです。でもわたしのことを忘れられなかったら、二人は一緒になれないだろう、って、思って……」
「莫迦だな。お前は莫迦だよ、マルチ」
泣くのを一度止めて顔を上げたマルチの頬に、オレはそっと右手を添える。
「忘れられるわけないじゃねぇか。オレもあかりも、お前がいなくなったって、お前が忘れろって言ったって、忘れることなんてできねぇよ」
「ご、ご主人様ぁ~」
また顔を胸に埋めて泣き始めたマルチの髪を撫でてやる。
もうオレたちの間に言葉はいらなかった。
窓から月明かりが差し込んでいる。
その光に照らされながら、オレたちはただ抱き合っていた。
何も言わない。何も語らない。それなのに、心は通じ合っている。
もう何年、すれ違ってきただろうか。長い間ずっと交わすことができなかった気持ちを、オレたちは今、身体と身体で重ね合わせていた。
悲しみの涙はもういらない。溢れてくる暖かな気持ちを、二人で流し続けていた。
心残りはあった。長すぎた心のズレを埋め終わり、静かに身体を離したマルチに、オレの手が伸びることはなかった。
「ご主人様。それでは、お別れです」
行かないでくれ、と声をかけたかったが、それは無理な注文だ。
だからオレは、彼女に別のことを訊いた。
「マルチ。オレはこの先、どうやって生きていけばいいんだろうな。ずっとお前に憧れて、お前みたいに人に喜んでもらえるようなことがしたいと思ってきた。だけどオレじゃそんなことはできそうにないんだ」
「大丈夫ですよ、ご主人様なら」
「でもオレには夢なんてないんだ。持てないんだ」
最後の最後でオレはまたマルチを困らせてしまった。
わずかにうつむき、ひととき考え、マルチは微笑みを見せた。
「だったら、わたしの夢を実現させてくれませんか?」
「マルチの夢を?」
「はい」
マルチはにっこりと笑む。
「私の夢は、今よりももっと幸せな人が増えていくことです」
「でもオレは――」
「大丈夫ですよ、ご主人様なら。必ずできます。身近な人から少しずつ始めていけばいいんですよ」
――身近な人から少しずつ。
マルチの言う通りだった。
オレはこれまで何を焦っていたんだろう。周りの状況に流されて、自分の気持ちに流されて、焦り続けてきたような気がする。
――マルチには教えられることばっかりだな。
微笑んでる彼女にオレも微笑みを返した。
静かに、マルチがオレから離れていく。
オレからちょうど全身が見えるくらいまで下がって、彼女は見えはしない空を仰ぐ。
その時が来た。
駆け寄りたい気持ちを歯を食いしばり、拳を握り締めて、オレは堪える。
マルチの最期の姿を見届けるために。
「最期に会えてよかったです。ご主人様……」
ゆっくりと目が閉じられた。
空に向かって伸び上がるように姿勢を崩したマルチは、そのまま倒れ込んだ。
すぐに走っていって彼女の身体を抱き上げる。
「必ず、必ず実現してみせるぜ。身近なところから少しずつでも、お前の夢を実現してみせる。約束だ。約束だからな」
――絶対に、絶対に実現してみせる。
オレは心に強く誓った。
少しずつ冷たくなっていくマルチの身体を抱き締めるオレの頬には、熱いものが伝っていた。
突然声がかけられた。
「別れは済みましたか? 藤田君」
そこに立っていたのは長瀬さんだった。
「別れは済みましたか? 藤田君」
そう声をかけながら、私はそれまで身を隠していた廊下の角から姿を現した。
身を固くした彼に私は手を伸ばす。
「マルチの身体を、渡してはくれませんか?」
「嫌だ」
彼は拒絶の言葉とともに一歩後退さる。
成体クローンの研究のことを話せればよかったが、それはできない。それを聞いてしまえば、藤田君はマルチの身体を絶対に渡さなくなるだろう。
「藤田君。わたしにはどうしてもマルチの身体が必要なんだ」
「嫌だ。マルチはオレ自身の手で葬ってやるんだ」
その気持ちはわからなくなかったが、マルチの娘たちを生み出すために、どうしても私は彼女の身体を手に入れなければならなかった。
私が一歩進むごとに、彼は一歩後退する。
そんな進みの遅い追いかけっこのような状況は、意外な自体によって終わりを告げた。
「マルチ? お前……」
彼の声にマルチを見てみると、彼女は再び目を開けていた。
「マルチ。……いや、そうか。そうなのか」
一瞬驚きになった藤田君の顔が、何かを知ったようなものになり、そして彼は私に近づいてきた。
「いいんですか? 本当に」
「……」
無言のままマルチの身体を差し出されて、思わず訊いてしまう。それでも差し出されてくる身体を私は受け取った。
腕の中に収まったマルチを見て、私は納得した。
「みのり……」
「おにぃちゃん……」
マルチの身体には今、みのりが現れていた。
「マルチさんが少しだけ時間をくれる、って言ってくれたの。だからわたし、こうして出てくることができたの」
彼女は静かに笑む。
言えなかったその言葉。その言葉が残っていたために、私は失敗を犯し続けてきた。
大きく息を吸い、私は二七年間貯め続けてきたその言葉を口にする。
「お帰り、みのり」
「ただいま、おにぃちゃん」
挨拶を交わして、微笑み合った。
たったそれだけのことなのに、まだ何も話していないのに、私の視界は既にぼやけ始めていた。
みのりは藤田君に顔を向ける。
「浩之さん、ですね。マルチさんから、ひと言だけ伝言です。自分の身体はおにぃちゃんに任せて欲しいって」
「信じて、いいのか?」
藤田君に問われ、みのりは頷きを返した。
目をつむり、考え、彼は答えた。
「わかった。マルチがそう言うんなら、任せることにする」
「ありがとう、浩之さん」
みのりは私の方に目を戻す。
「ゴメンね、おにぃちゃん。ずっと待たせちゃった。お別れの言葉、言いたかったのに、言えなかった」
「いいんですよ、みのり。あなたにはこうして会えたじゃないですか」
「うん」
小さく頷いて、みのりは静かに目を閉じた。
「さようなら、おにぃちゃん。もう二度と会うことはないけど、最期に会えてよかった」
「私もみのりに会えてよかったですよ」
揺らいでいく視界の中で、マルチの身体の稼働音が小さくなっていく。
「みのり――」
「おにぃちゃん。わたし、おにぃちゃんのこと、が……だい……きだった……よ――」
だんだんとコンピュータの稼働音が小さくなっていく。体温もそれに連れて下がっていった。
涙を抑えることはできなかった。
マルチの、そしてみのりの身体を抱き締め、私は誰にはばかることなく泣いていた。
「それじゃあ長瀬さん。マルチのこと、頼みます」
稼働を完全に停止させたその身体を腕に、私は顔を上げた。
「わかりました」
それでも心残りはあるのか、唇を噛んでいる藤田君に答える。
「またいつか、どこかで会いましょう」
彼に背を向け、私は月下の廊下を歩き始める。
「オレは信じてます。マルチのことを、長瀬さんのことを」
追うようにしてかけられたその言葉に頷きを返し、私はその場を後にした。
* 3 *
「あかり、入るぜ」
声をかけた瞬間ばさりと布団が音を立てていたが、オレは気にせず病室の中に入った。
背を向けたまま顔も見せてくれないあかりに告げる。
「マルチは、逝っちまった。もう二度と会うことはないと思う」
あかりの肩がぴくりと反応した。けれど彼女が顔を見せてくれることも、声をかけてくれることもない。
ベッドの脇にある椅子に座り、オレはあかりにはっきりとした声で言う。
「オレはマルチのことが好きだった。愛してたよ。あかり、お前がどんな風にオレのことを見てたのかも知ってたつもりだ。だがオレは自分の気持ちに嘘をつくことはできなかった。マルチの寿命という現実から逃げることしかできなかったオレは、お前をずっと苦しめてた。傷つけ続けてきた。謝って済む問題じゃないが、オレには謝るしかない。すまない、あかり」
彼女はオレの方を向いてはいなかったが、オレは頭を下げる。それから次の言葉を言うために大きく息を吸い、止めて、吐いた。
オレは今日、この言葉を言いにここに来た。どんな答えが返って来るのかはわからない。しかし言わなければならない。そしてどんな答えであっても、オレは受け入れるつもりだった。
あかりの背中を見つめ、告げた。
「……オレと、結婚して欲しいんだ」
大きく身体を震わせた彼女。まだ顔を見せてはくれないが、オレは言葉を続ける。
「わかってる。オレはそんなことをお前に申し込めた人間じゃない。でも聞いてくれ。オレはマルチを失った後、死のうと考えてた。やりたいこともなく、夢も希望もない。生きてる意味なんて感じなかった。そんなオレに、マルチは自分の夢を託していった。『今よりもっと幸せが増えること』。それがマルチから託された夢だ。オレはそれを実現していくと誓った。オレなんかじゃたいしたことはできねぇ。だから、身近な人から、あかり、お前から幸せにすることにしたんだ」
立ち上がってあかりの肩に手をかけた。振り向かせるために軽く力を入れると、彼女はすんなりとこちらを向いてくれた。
あかりの目は、涙に濡れていた。
「今のオレにはお前が必要なんだ。オレはお前がいないとダメなんだ」
言っている間に涙がこぼれてきた。
あかりの目からも涙が溢れ始める。横になっていた身体を起こし、彼女は口を開いた。
「浩之ちゃん。私は、嫌な女なんだよ」
意外な言葉だった。
しかしオレは口を挟まず沈黙を守る。あかりに最後まで言葉を続けさせてやる。
「子供がお腹の中にいるって知ったとき、私はこれでマルチちゃんに勝てると思った。マルチちゃんはメイドロボだから、浩之ちゃんのことを本当に幸せにすることなんてできないなんて思ってた」
すすり泣き、しゃくり上げ、それでもあかりは自分を責める。
「嫌な女だよね、私って。マルチちゃんに勝てるなんて、莫迦なこと考えてたよね。ダメだよ、私。こんな嫌な女なんて――」
両手で顔を覆って泣き続けるあかりを、オレは両腕で包み込んだ。
「いいんだ、あかり。どんなお前でも、オレには必要なんだ。だから結婚してくれ。オレにお前を幸せにさせてくれ」
「待ってた。ずっと待ってた。浩之ちゃんがそう言ってくれるのをわたし、ずっと待ってたの」
あかりが身体を預けてくる。オレは彼女をしっかりと抱き締めた。
「幸せになろう、二人で」
「……うん」
*
準備は完全に終わっていた。あとは私自身がここを離れるだけだった。
靴を履き、玄関をくぐって鍵をかける。その格好のまま後ろに数歩下がって家の全景を見た。
みのりとの想い出が残る家。
私はここを去ろうとしている。
後悔はない。今あるのはただ、前に進んでいくための決意だけだ。
早朝のさわやかな日差しを受けながら、私は小さな庭を通り、門をくぐる。
「おせぇじゃねぇか。ったく、そろそろ歳だってのに、寒い中を待たせんじゃねぇよ」
「ショージ?」
門の前では音山が防寒用の完全装備に身を包みながら立っていた。
「よく、今日のこの時間だとわかりましたね」
「当たりめぇだ。オレとお前はいったいどれくらいのつき合いだと思ってんだ」
そう言って彼は唇の片端をつり上げて笑う。
しかしすぐに真剣な目になり、言った。
「行くのか?」
「えぇ。マルチの娘たちを世の中に送り出す方法を見つけるために、みのりの夢を実現させるために、行ってきます」
「そうか」
音山は空を見上げる。私も彼に釣られるように空を見上げた。
太陽はまだ低いながら空は雲一つなく秋晴れだった。
風もなく、少し寒いが、出発するにはいい日和と言えた。
「そうだ。忘れるとこだった」
言って音山は懐の中から何かを取り出す。
それは前に私が彼に渡した辞表。
「帰って来るつもりなんだろ?」
「えぇ、もちろんです」
「だったらこれはいらねぇな」
彼は辞表を細かく破り、ちょうどいい具合に吹いた風にそれを飛ばした。
「俺はおめぇの夢に賭けたんだ。こんな紙切れで逃げられてたまるもんか」
にやりと笑った彼に、私は言う。
「ショージ。公共の道路にゴミを捨てては行けませんね」
「ばぁ~か。こんなときにまでふざけるなんて……お前らしいっちゃお前らしいか」
十年前、マルチを送り出したあのときのように、私たちは声を上げて笑っていた。
気持ちよかった。
まだ多くの困難が残っているのはわかっている。しかし今はもう会えなくても、みのりがいて、マルチがいて、そして音山や藤田君、他にも誰かが心を持ったメイドロボを待っている信じられる。それが信じられる限り、みのりの夢を、マルチの夢を、そして私の夢を実現できると思えた。
「行ってこい。それから帰ってこい。俺はいつまでも待ってる。お前が帰ってきても問題ないように、俺は俺で準備しといてやるよ」
「お願いします」
私は音山に背を向け、明るくなりゆく日差しの下を歩き始めた。