北の大地の冬は早い。
早ければ10月には初雪が観測され、そこから2週間も経たないうちにホッカイドウは冬へと季節を傾ける。
この時期にもなれば、雪は数センチ積もるのは当たり前になってくる。野生動物も極寒の冬を越すために冬眠の準備を始める。
「う…うん?なんだぁ?」
ある晩、男は外から聞こえる物音に気付き目を覚ます。男はこの集落で農民として一軒家に暮らしており、この地での生活は長い。
「…キツネか?」
家の外では雪が吹雪き、叩きつけられる雪がガタガタと窓を揺らす。物音はその中に紛れ込んでいた。
男は隣で寝息を立てている家内を起こさないように布団から起き上がり、窓から外の様子を見る。しかし吹雪のせいで視界が悪く物音の正体を発見できない。
結局、キツネか何かの仕業だと結論付けた男は布団へと戻り就寝。その後は物音も聞こえなくなり、次に男が目を覚ましたのは朝の7時頃だった。
テレビをつけて、朝食を済ませる。テレビのニュースではナリタで起きたブリタニア軍と黒の騎士団との間に起きた戦闘についてのことが報じられている。
男も家内もイレヴン—日本人であり、弱い者の味方を自称する黒の騎士団、その頭領であるゼロに魅了されている者の1人である。もっとも、黒の騎士団がこんな辺境の地までやってきてくれるのかについては些か懐疑的でもあるのだが。
朝食を済ませたら、後は1日中冬へ備えての準備などに取り掛かる時間だ。男は物置小屋まで道具を取りに行った家内の元へ向かうため玄関を開けて物置小屋へ歩を進める。
「あなた!ちょっと来てよ!」
するとそこへ家内が駆けつけてくる。妙に慌てた様子の家内に男は不審がる。
「どうしたぁ?そんなに慌てて」
男がそう聞くや否や「来ればわかるよ!」と無理矢理袖を引っ張られ、どこかへと連れて行かれる。
連れて行かれた先は物置小屋だった。
「ほらコレ、なんか変だよ!」
家内が指をさした先を見た男は目を疑った。
「…なんだこれは」
貯蓄のために吊るしてあった野菜は無残に食い散らかされ、周りには動物の体毛と思しき毛が散乱している。
そして更に男の恐怖を煽ったのは物置小屋から裏山まで途切れることなく続いている20数センチはあろうかというほど巨大な足跡だった。
男は昨日の夜に聞いた物音を思い出す。背筋に寒気が走り、ゾッと身を震わせた。
「…………間違いねぇ、羆だ」
「ひ…羆?」
「あぁ、それも相当デケェぞ」
その羆がどれほどの大きさなのかは足のサイズを見ればある程度の判断がつくという。
通常、1歳がおよそ9センチ以上で雌の成獣が大きくて15センチほど。一方で大人の雄の足のサイズは15センチ以上、つまり目の前にある足跡の持ち主は雄ということになる。
しかし、男も過去に何度も羆の足跡を見てきていたがこれほど巨大な物は見たことがなかった。
「すぐに警察や軍に伝えた方がいいな」
「軍って、ブリタニア軍にかい!?」
「それ以外にどうしようってんだ」
「冗談じゃないよ、ブリタニアの奴らはあたし達のことを虫ケラとしか思ってないよ!」
10年前の極東事変の折、日本を属領としたブリタニアは日本の呼び名を『エリア11』と変え、以来植民地として支配してきた。
日本人はイレヴンと呼ばれ、蔑まれ、差別されてきた。もっともブリタニア人は日本人に限らずエリアに住んでいる人を差別し、高圧的な態度を取ることが多い。全てのブリタニア人がこういう歪んだ思想の持ち主というわけではないが彼らへ対する恨みは大きい。
「とにかく今から役所に行ってくる」
言うなり男は荷作りをして、家から飛び出し役所へ急ぐ。
役所へつくと既に同じような被害に遭った人達が詰めかけ、ブリタニアの役人が対応しているのだが、その態度はとても本気で対応しているとは思えない、その場を取り繕うものだ。
「分かりましたから後はお任せください」
適当にあしらい、暖房の効いた役場の中に戻って行こうとする役人を
「なんとかしてくださいよ!」
「このままじゃまともに農作業もできねぇ」
「もうこんなに被害が出てるんだ!」
と必死の抵抗を続ける人々に対し、役人の態度が変わる。
「うるさいぞイレヴンが!」
役人の放った拳が老人の顔に当たり、老人は地面に尻餅をつく。
「貴様らイレヴン風情の話を聞いてやってるだけ、ありがたく思え!」
「なんだと!?このブリキ野郎が!」
ブリキ野郎とは日本人がブリタニア人へ付けた渾名みたいなものだ。主にイレヴンからへの蔑称と受け取られている。
若い男から発せられたブリキ野郎の単語に怒りを露わにした役人はホルスターに仕舞われてあった拳銃を構える。一触触発の事態になり、空気は重苦しい。
「待ってくれ、俺達はアンタらと喧嘩したくてここに来たわけじゃない」
男はブリタニアの役人と若い男の間に割って入る。
「おお昌史さん、アンタのところもやられたのか?」
先程役人に殴られた老人が立ち上がり昌史と呼ばれた男を見やる。昌史は「ええ」と短く答える。
「俺達は熊をどうにかしたいだけだ。猟銃を持てない俺らじゃ太刀打ち出来ない」
この集落に住む日本人は猟銃などの銃火器を持てない。もし持っていたらブリタニアへの反乱と見られ思い厳罰、最悪射殺すらあり得る。
役人が「ぐぐぐ……」と声を上げる。そこへ1人のブリタニア人がやってきた、服装からして、近くの駐屯地で勤務する軍人だ。
「どうした?なんの騒ぎだ?」
「こっ、これはこれはミハエル卿!お勤め御苦労です!」
ミハエル卿と呼ばれた人物を見て役人は態度を180度変える。そんな役人を見て村人達は呆れ返ったが、表情には出さない。
「どうした?何があった。話してみろ」
「イレヴンのやつらが反乱だなんだと良からぬ会話をしていたので、問い詰めていた次第で…」
役人は白々しく嘘を吐いた。
ミハエルと役人はブリタニア語で話しているため村人達にはなんと話しているのか分からない。役人からしたら『どうせ自分達の言葉は分からないだろうから適当に嘘ついて終わらせよう』と思っているだろう。
しかし、この役人はとんだ誤算をしていた。
「俺達は羆を倒してほしいと言ってるだけだ、ソイツは嘘ついてんだよ」
ブリタニア語で会話に割って入る昌史に役人の顔色が一気に真っ青になる。村人達はブリタニア語を話す昌史に感心し、表情から察するに嘘をついて墓穴を掘ったのであろう役人を見て「ざまあみろ」と心の中で罵った。
「貴様、この私に嘘をついたのか?」
ミハエルの鋭い視線が役人へ突き刺さる。
「も…申し訳ありませんでした!」
「ふん」
頭を下げる役人にミハエルは軽蔑の念を込めて鼻を鳴らす。ミハエルは嘘が嫌いな人物である、そんな彼に嘘をついた役人は自業自得という言葉が似合う。
「——それよりイレヴンよ。今の話、興味が湧いてきた。確かヒグマと言ったな」
乗り気になってきたミハエルを見て、昌史はチャンスだと受け取る。ミハエル卿は近くの駐屯地で勤務する軍人で、銃火器の扱いにも長けるはず。
そしてミハエルはイレヴンなどのナンバーズと呼ばれる人々と自分とを区別こそするが、そこで震えている役人みたいに露骨な差別はしない。どちらかと言うと自分以外の人物を見下している人物なのだ。
どちらみち人格的には難ありだが、少なくとも昌史らイレヴンの話を聞いてくれるだけまだマシでもある。
「案内しろ」
「あ、あぁ…」
昌史はミハエルと彼の部下2人、それぞれ男女1人ずつに役場に来ていた住民らを連れ自宅へと移動。ブリタニア軍人を連れてきた昌史に対し家内はいい顔をしなかった。
「ほぉ、これはこれは」
物置小屋に到着した一同は地面につけられた足跡を見て呆然。ミハエルは興味津々といった様子で裏山まで続く足跡を観察する。
「でけぇ……」
「こんな奴、今まで見たことねぇ…」
住民達もこれまで見たことがないサイズの羆の足跡に息を飲む。
「うん、成る程」
一通り観察し終えたミハエルは昌史の方を向き、こう切り出す。
「そのヒグマの駆除、我々が引き受けてもいい」
「本当ですか!?」
「ただし条件がある。駆除したヒグマの処置は我々に任せてもらおう、抜け毛1本やらんが構わんだろう?」
「分かった。それでいい」
昌史ら集落の住民からしたら羆の脅威が過ぎ去ってくれればそれでいい。斃した羆をどうするかは駆除した人物に委ねられている。肉や毛皮を売りさばくのもよし、そこに言葉を挟む権限はない。
「取引成立だな」
ニヤリと笑ったミハエルは路地へと出る。
「すぐ我々で討伐しよう。本国への良い土産になる、依頼したからには、邪魔はするなよイレヴン」
イレヴン相手に気が緩んでいるのか、ミハエルは部下と談笑しながら去っていく。
3人の背中を見送りながら、住民達は不安な面持ちになる。
「こういっちゃなんじゃが、大丈夫なんじゃろうな…」
この集落で1番の年長者の言葉に周囲の空気が重くなり、不安は積もるばかり。
ブリタニア本国に羆はいない。いたとしても動物園で飼育されている個体ぐらい。最近赴任してきたばかりのミハエルは野生の羆など、精々遠目からしか見たことないだろう。その隣にいた部下2名も。
彼らは知らないのだ。ホッカイドウという大自然で育った羆の恐ろしさを。それを間近で味わう、果たして彼らにそれを想像できるのだろうか?
「昌史さん……」
しかし彼らにはそれ以上に『ある懸念』があった。中年の男性が不安そうな表情を浮かばせる。昌史も『ある懸念』をひしひしと感じ取っていた1人だ。
「あの足跡、20センチ以上はある。間違いなく大人の雄。…………恐らく、穴持たずだ」
——穴持たず——
通常、羆は冬にかけた時期は冬眠する。しかし時折何らかの理由で冬眠し損ねた個体が出現する。
冬眠できなかった理由は様々で、自分の体に合った越冬穴を見つけられなかったなどが挙げられる。そしてこれらの個体は巨体かつ非常に凶暴である可能性が極めて高い。
昌史達は脳裏に浮かぶ嫌な予感を払拭するように各々自宅へと戻っていった。昌史がもう一度裏山の方角を見ると雪が降り始め、袖に雪の結晶がひらりと乗った。
パキ…………パキ…………
ポキ…ポキポキ……
クチャクチャクチャクチャ…………
「ふぉう……う……うぅぅぅ…………」