ふわりと、車窓から風が頬を撫でる。
同時に、少し鼻にツンと来る、普段慣れない香りも。
「―――」
列車の窓を開けた栗花落カナヲは風と匂い、そして綺麗な太陽に思わず目を細めた。
車窓から吹く風は強く、列車の速度を物語っている。側頭部で結んだ髪が暴れるのを手で抑えながら彼女は小さく息を吐いた。
……開けたままで硬貨を投げたら、危ないかな。
最近は使うことが少なくなったコインのことを想う。何かを行う時に硬貨の裏表で決めていたが、ここ数か月で使う頻度は随分と変わった。大分前は一挙手一投足、何から何まで決めていたと、今更ながらに思い返す。
そして、硬貨を使うことが減った原因は、
「おぉ、これが海かぁ。俺、初めて見たよ」
額に痣を持つ少年が対面の席で、車窓の外の海を眺めていた。
瞳に映っている光景はどこまでも広がる真っ青な海。海沿いに列車の線路が走っているというわけだ。
少し、視線をずらし、真横を向く。
通路を挟んだ向かいの四人席。そこには、
「いやー、海ですね冨岡さん。良い光景です。私、海を見たのは久しぶりですね」
「……」
「冨岡さん? 海に対して何か感想はないんですか? 冨岡さんだったら海で遊ぶとかそんなことしたことないでしょう? どうですか、一言」
「……」
「おやおや、なぜ黙っているのですか? 言うことありません? 少しくらい、情緒が滲み出ることを期待したいという私に応えてはくださらないでしょうかねぇ」
「…………う」
「海だ、で終わるのは無しですよ? それ感想じゃなくてただの事実ですからね? そんなんだからみんなに嫌われるんですよ?」
「俺は嫌われていない」
「その返答だけは即座なのが逆に嫌われているという事実を強めているのではないかと思うんですが、いかかがですか?」
「……」
無表情の青年と笑顔の女性。
自分の師であり、姉でもある彼女がいつも通り青年を弄り倒している光景がそこにはあった。
●
鬼の目撃情報が入ったのは柱稽古が始まって、一月後ほどのことだった。
鬼撫辻無惨。
この日本において理外の化外―――鬼を生み出す張本人。数百年の時をかけてこの国で暗躍し、鬼を生み、多くの悲しみと涙と復讐の連鎖を生んできた。
その鬼撫辻との決戦が間近に迫りつつある。
鬼撫辻の側近、極めて強い鬼『十二鬼月』。
その上弦が二体もかけ、さらには歴史上例を見ない異端の鬼も出現した。
それにより、全国各地の鬼は、力を蓄えるように姿を消していた。
故に―――鬼殺隊もまた、同じように研鑽を重ねている。
鬼殺隊。
通常の方法では殺せない鬼。日輪刀で首を断つか、陽光に晒さねば死なない鬼を殺す鬼殺の剣士たち。
政府非公認でありながらも、戦国の時代より連綿と続く鬼殺し。
悲しみの連鎖を断ち切る為に。
多くの死を積み重ねがら、夜明けの光を希う者。
だが、ここ数年、一般隊士の練度不足が問題視されており、鬼の活動襲撃の鎮静化により鬼殺隊全体で練度の見直しが行われていた。
それこそが鬼殺隊最強の剣士集団『柱』による鍛錬―――『柱稽古』である。
元音柱宇随天元による基礎体力訓練。
霞柱時透無一郎による高速移動訓練。
恋柱甘露寺蜜璃による柔軟訓練。
蛇柱伊黒小芭内による太刀筋強制訓練。
風柱不死川実弥による無限打ち込み訓練。
岩柱悲鳴嶼行冥による全身連動訓練。
水柱冨岡義勇による実践訓練。
柱たちが総出で隊士の訓練をすることで、基礎能力の向上を試みる訓練だったのだが、訓練終盤にそれまで鳴りを潜めていた鬼の活動が報告されていた。
場所は愛知県の海沿いの漁村。漁業と少しばかりの農業で成り立つ小さな村だ。そこで数日前から行方不明者が続出し、鬼らしき目撃情報が入ってきた。
通常であれば一般隊士を派遣し対処。そこでことが終わらなければ追加隊士。それでも駄目であれば柱を投入する所であるが、現在は柱稽古の真っ最中。
柱を動かすのは躊躇われ、また鍛錬中の一般隊士を出動させるのも時期が悪い。
故に、冨岡義勇、胡蝶しのぶ、竈門炭治郎、栗花落カナヲである。
まず、隊士の中でいち早く最終の水柱の柱稽古に到達した炭治郎とカナヲ。両名は既に実力は柱に届くほどであり、実力には申し分ない。
そしてそも、『柱稽古』に参加していなかった胡蝶しのぶ。
さらに、冨岡義勇。
『柱稽古』において最終関門たる実践訓練を担う冨岡義勇であるのだが、ここでいくつかの問題が起きた。
まず、そもそもそれまでの稽古を突破して義勇の下へ辿り着く隊士が極めて少なかったこと。
さらに実践訓練ということもあり、ここでは細かい指導は行われない。ここまでの鍛錬の集大成を水柱にぶつける場であり、それぞれ己の適正に合わせて部位を磨く場であるからだ。
―――もっというと、冨岡義勇に指導が期待できなかった、という点も否めない。
ということで、『柱稽古』に満を持して参加した義勇は正直手持ち無沙汰。
そこに舞い込んだ鬼の情報。
故に、上記四名。少数精鋭にて鬼を滅殺する彼ら彼女が選ばれたのであった。
●
「ねぇねぇそれで冨岡さん。炭治郎君に発破をかけられ遅れて『柱稽古』に参加したのに炭治郎君とカナヲしか辿り着いてなかった時の気持ちってどんな感じなんですか? がっかりしました? あぁいえ、冨岡さんのことです、弟弟子とその同期だけだったから逆に安心しました? 冨岡さんが初対面の隊士とまともに会話できないでしょうし。ねぇねぇ、冨岡さーん。なんとか言ってくださいよぅ」
「……」
……生き生きしてるなぁ。
ニコニコといつものの笑顔が五割増しで輝いている気がするしのぶと、常の無表情が五割増しでムスッとしている義勇である。
しのぶは常の鬼殺隊の隊服は着ていない。詰襟に羽織は男性ならばまだいいが、女性が着ていると随分と目立つのだ。だから、しのぶは詰襟ではなく、藤色の着物に普段から着ている蝶の羽根を模した羽織だ。
どちらも刀は桐箱に入れて、席の足元に隠してある。
鬼殺隊は政府非公認であるが故、廃刀令のご時世では刀を持つのは目立つ、というか普通に犯罪である。鬼の存在を知り、鬼殺隊に助けられた経験のある警官や軍関係者も一部にはいるから誤魔化せなくもないが、なるべく騒ぎは起こしたくない。
カナヲ自身も普段の羽織の下は桃色の着物だ。普段はひざ上のみにすか、なる西洋の服なので正直動きにくいことこの上ない。この衣装では戦いにも支障がであるだろう。
愛知県という、普段活動している地域からはかなり離れている故に列車移動になったが、そうではなかったら徒歩でいつもの格好だったであろうに。
しのぶは柱としての任務でいつものことらしく、着物での動きも、刀の隠し方も慣れたものだった。
……水柱様との任務もよくあることだったんだっけ。
『柱』直属の弟子と呼べる『継子』のカナヲだが、全ての任務に同行していたわけではない。実力の関係上、しのぶ単独もあり、さらにいえば『柱』同士の合同任務も少なくなかった。
その中でも、しのぶと義勇の二人は同じ任務を任されることが多かったという。
……いつだったかな、水柱様が逮捕されていたの。
任務に赴いて現地合流しようと思ったら、義勇が警官に逮捕されていたという話は未だにしのぶが義勇のことを弄る時には欠かせない話だ。確かに鬼殺隊全隊士の畏怖と憧れである柱がお縄に付くなんてまるで笑えない。
「あははー」
「……」
笑うしのぶにムスっとした義勇。
だが、あれで相性は悪くないのだろう。
……少なくとも、水柱様といる時の師範は楽しそう。
楽しそうというか、活き活きとしているとか。
常日頃同じような笑顔が張り付いているしのぶではあるが、義勇と話している時は表情に深みがある、とカナヲは思う。
同じくらい、イライラしていることも多いのは事実なのだが。
「……?」
しのぶと義勇から視線を外し、正面の炭治郎に目を向ける。
竈門炭治郎。
額に痣を持つ、黒と緑の市松模様羽織。
鬼撫辻無惨と鬼殺隊の中でまさに渦中にいると言っても過言ではない少年だ。
家族を殺され、鬼の妹を持ち、彼女を人間に戻すために戦っている。
普段は妹の禰豆子が入った箱を背負っているが、太陽を克服し無惨に狙われている為に、今回の任務はお留守番だ。
下弦の伍を追い詰め、上弦の陸を音柱としのぎを削り、さらには上弦の肆をその刀で断ち切った。
さらには身体能力を大きく上昇させる『痣者』の先駆け。
戦績を見れば柱に匹敵所か、凌駕するほどのもの。
そんなことを、任務の最初に言ったら。
……皆がいてくれたおかげ、って。
いつもみたいな笑顔で、欠片も慢心することなく告げてくれた。炭治郎は心の底から思っているのだ。
彼は、そういう少年だ。
その在り方を胸に浮かべると、胸の奥が暖かくなる。
というか、何故か無性に頬が熱くなってしまう。
病気かもしれない。
しのぶに相談したらニコニコ笑うだけだった。
友人であるあおいに相談してみたら、やっぱり笑顔。
炭治郎の友人である我妻善逸は話しかけただけで奇声を上げ出したのでそっと距離を取った。猪頭巾の嘴平伊之助は、
『あーそれな。なんかあいつといるとほわほわするよな』
意外にもまともな会話が成立して、共感されてしまった。
ほわほわ。
少し違う気がする。
カナヲのそれは、ほわほわ、というよりどきどきだから。
一応、炭治郎の兄弟子である義勇にも聞いてみたが、
『…………………………不整脈だろう』
……不整脈かぁ。
脈拍がおかしくなる病気らしい。呼吸を用いる鬼殺隊士からすれば重大な病気だ。ちょっと不安になりしのぶに相談したら、後日義勇に向けて飛び蹴りをかましているしのぶを目撃したのでどうやら的外れな発言だったらしい。
なにはともあれ、
「炭治郎? どうしたの?」
「ん、あぁ……すまないカナヲ。少し、な」
いつも笑顔ではつらつした炭治郎の顔色が悪い。
数週間前の上弦の肆との戦いの傷は完治しているはずだし、柱稽古で大怪我という話も聞いていない。実際列車に乗るまではいつも通りだった。
なのに、今は顔色が悪い。
「―――――ぁ」
そこで思い出す。
竈門炭治郎と列車には因縁がある。
前炎柱煉獄杏寿郎。
炭治郎とカナヲが初めて出会った機能回復訓直後の任務で、上弦の参と戦い、戦死した柱。
その戦いは、無限列車という列車の中で行われたという。
そこで杏寿郎は乗客全員を護り切り、炭治郎、善逸、伊之助すらも護り切ったという。
代償として、彼自身は命を落としたが――――その魂の炎は確かに炭治郎に受け継がれている。
炭治郎の日輪刀、その炎を模した鍔はその証明だ。
つまり、炭治郎にとっては列車は尊敬する戦士を失った場だ。
であれば気分が悪くなってもおかしくない。
心的外傷を持つ鬼殺隊士は少なくない。蝶屋敷という診療所も兼ねる場に身を置いているからそういった者はよく見ていた。
……ど、どうしよう……!
冷や汗が流れるのを、カナヲは自覚した。
こういう時、あまり直接的に心の傷に触れるのはよくない。下手につつけば、その時の記憶がぶり返し、精神だけでなく体にも負荷がかかってしまうから。
しのぶやあおいの治療を横目で見ていたのを思いだし、
……こ、こういう時は別の話題に……!
「たっ、炭治郎」
「ん? どうしたカナヲ?」
「え、えっと……窓の外の景色凄いね。走るのと全然違うしっ」
「あ、あぁそうだな。やっぱり列車は速いな。前に列車に乗った時は夜だったから景色は楽しめなかったよ」
……墓穴を掘ったぁー!
内心、カナヲは頭を抱えた。
話をずらしたかったのに、思い切り列車の話題になってしまった。
そもそも、数週間前までまともに他人と会話できなかったカナヲが小粋な話ができるわけもなかったのである。
是非『柱稽古』に対人対話訓練を作ってほしい。
いや、そんなのが担当できそうな柱なんていなさそうだが。
冷や汗を流し、固まってしまったカナヲを見て、炭治郎は軽く首をかしげて、
「あぁ、すまない。俺は鼻がいいからな。海の匂いが思ったよりきつくて。少し、気分がな」
「あ、なるほど」
炭治郎は鼻がいい、とはしのぶも言っていた。
鬼の気配や攻撃、さらには人の感情まで読めるという。
自分も目は良いが、人の感情までは解らない。
確かにそれほどまでに鼻のいい彼ならば海の匂いはつらいだろう。嗅覚は普通であるカナヲにも確かに感じるのだから。
「じゃあ、窓を閉めといたほうがいい?」
「いや、任務は海沿いらしいからな。今の内に鼻を慣らしておきたい。それに、こんなにいい天気と風なんだ。窓を閉じるのはもったいないだろう。俺、海は初めてだったからな。カナヲは?」
「私は任務で何回かあるよ。今回みたいに漁村に行っただけだけど」
「へぇ! それはいいな! それにカナヲとの任務は初めてだし、こんなことを言うのはおかしな話かもしれないが楽しみだ! カナヲは強いからなぁ!」
「……そ、そんなことないよ。炭治郎も強いよ?」
実際の所、かつて那田蜘蛛山で一緒になっていて、さらにいえば疲弊していた炭治郎に踵落としで顎を砕いてとどめを刺していたのはカナヲなのだが、炭治郎はそれを覚えていなかった。
カナヲは、覚えていたが、
「は、初めての合同任務頑張ろうね!」
頬に一筋汗を流しながら、精一杯の笑顔でごまかした。
大正こそこそ話
カナヲから炭治郎へのドキドキを聞かれた義勇はこう思ったらしいぞ!
「(…………つまりそれは、栗花落は、炭治郎のことが。…………ムフフ、炭治郎も隅に置けない奴め。交際を教えてくれた時や祝言を上げると教えてくれた姉さんを思いだす。……しかし、俺がそれが恋慕であると言っていいものだろうか。胡蝶からも栗花落には『余計なことは言わないでくださいね。冨岡さんは口数は少ないのに余計なことしか言わないんですから』と言われている。俺自身、他人の惚れた腫れたに口出しできる経験もないし、下手なことを言ってしまって二人の仲に何かするのも悪いだろう。ここは適当なことを言ってお茶を濁すとしよう。胡蝶が上手くやるだろうし……ムフフ、あとは炭治郎の甲斐性だしな)………………不整脈だろう」
「ほんっっっっっと、口数が少ないのに余計なことしか言わない人ですね!!!」