ある日の……   作:スポポポーイ

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ある日の文化祭行進曲

 ”高校最後の~”という言葉は一種の魔法の言葉だ。その一言が添えられるだけで愚かで憐れな学生たちは勝手に盛り上がり、普段はかったるいと嫌々やっているような学校行事にも積極的に取り組む様になる。

 ”高校最後の体育祭”は何がなんでも優勝しようとするし、”高校最後の期末テスト”となれば最後ぐらい良い成績を取りたいと必死に勉強し、”高校最後のマラソン大会”なんてラスト一〇〇メートルで本気ダッシュしたくなっちゃうレベル。

 

 そして、ここにもまた一人、”高校最後の~”に憑りつかれた一人の学生がいた。

 

 

「なにボーっとしてるんですか、先輩! その備品申請の書類整理が終わったら、その後は各部活への予算配分調整が残ってるんですからね! キビキビ働いてください!!」

 

 

 ”高校最後の文化祭”に闘志を燃やし、『大学生ってとりあえず暇の代名詞ですよね』の一言で俺を呼び出し、馬車馬の如く働かせようとするあざとい後輩。

 正直言って断りたかった。しかし、こちらは以前にデブ絡みの依頼で借りがあるのも事実。だから仕方なく『書類整理だけでも手伝ってください』という言葉に踊らされて、やれやれとどこぞのラノベ主人公よろしく肩を竦めて溜息を吐きつつ呼び出しに応じたのである。応じてしまったのである。

 

 

「お兄ちゃん! いつまで書類整理なんてやってるのさ!! それ早く終わらせて、資材運搬の方も手伝ってよ!!」

 

 

 そんな俺を待ち構えていたのは『立っている者は兄でも使え! なんなら座ってるときでも使い倒せ!!』が持論であらせられるマイシスター。

 一年生のときから生徒会へ入会した我が妹は、今ではすっかり生徒会長の右腕的な存在となっている……らしい。とにもかくにも、ちょっとした書類整理を手伝うつもりで来てみれば、あれよあれよという間に俺は文化祭実行委員会オブザーバー兼委員長補佐兼特命雑用係に任じられることと相成った。

 

 

「先輩、早くしてください!」

「お兄ちゃん、早くして!」

 

「うわぁーん! もう仕事なんてしたくない!! ハチマン、おうちに帰るぅぅぅ!!!」

 

 

 これは、大学生になった俺と後輩と妹のある日の物語。

 

 

 

 *   *   *

 

 

 

 書類整理という名の手書き暗号文の解読を終わらせ、資材運搬という名の賦役をこなし、その他もろもろの雑用を片付けた俺は生徒会室で机に上半身を投げ出して突っ伏していた。

 

「……イヤだ。もう働きたくない。仕事なんてしたくない。手書きの申請書なんて滅べばいいのに……。申請事由を丸文字で書くなよ。顔文字とハートマークで空欄埋めるのも止めて。なんで備品申請以外の申請事項をついでに記入してくるの? バカなの? 死ぬの!?」

「先輩、うるさいです」

「お兄ちゃん、うっさい」

「……ふぁい」

 

 ふぇぇ…この後輩たち年上に容赦ないよぅ……。

 

「ほら、項垂れるのもそのくらいにして帰る準備してくださいよ。もう最終下校時刻過ぎてるんですから」

「お兄ちゃん、ハリーハリー!」

「……理不尽すぎる」

 

 『生徒会室』と印字されたキープレートを掴み、一色がブンブンブブブンと威嚇するように鍵を振り回して俺に退室を促した。それに同調するように、俺の荷物が入ったカバンを肩にかけた妹も俺が座る椅子をガタガタガッタンと揺らして席を立たせようとする。

 俺は渋々といった体でのっそり椅子から立ち上がると、緩慢な動作で生徒会室を後にした。背後でカチリと鍵がかけられる音を聞きながら、蛍光灯に照らされながらもぼんやりと薄暗く延びる廊下へなんともなしに目を向ける。大学の講義棟とはまた違う、どこか仄暗い独特の雰囲気を内包した廊下は本来なら懐かしいはずなのに、ここ数日の残業のせいでそんなノスタルジックな気持ちもすっかり萎えてしまった。

 

「……先輩、なーに黄昏てるんですか?」

 

 そう言いながら一色が左手で俺の右腕の袖をちょこんと摘まみ、そっと隣に並び立つ。ちらりとそちらに目線だけを向けてみれば、生徒会室の鍵を右手の掌で器用に弄りながら、ニヤニヤとからかうような表情を浮かべてジッとこちらを見据えてる。

 静かに交差する視線のなかで、少しだけ、一色の瞳が不安で揺れたような気がした。

 

「なーに妹の前でイチャついてるかな、このごみいちゃんは……」

 

 そんな俺と一色の睨めっこを止めたのは不機嫌なことを隠しもせず、苛立たし気に放たれた妹の言葉。

 小町はすっと俺の左側に回り込むと手を取り、せっせかさかさか歩き出してしまう。それに引っ張られるように、俺と一色もとっとことことこ後に続く。

 

「ちょ、おい小町! 歩きにくいから手を放せって」

「……それ、いろはさんには言わないんだ」

「あ? ああ……。放せよ、一色」

「えー? わたしは別に小町ちゃんみたいに先輩と手なんて繋いでませんよ?」

「いや、だから袖から手を放せってことで……」

「いーじゃないですかー別にー。それにほら、こうして歩いてるとなんだか肝試ししてるみたいな雰囲気を味わえてお得じゃありません?」

「……お前が薄暗い廊下程度で怖がるとは思えんのだが。なんか肝座ってそうだし」

「先輩は年頃の乙女を何だと思ってるんですかねぇ……」

 

 俺はヒクヒクと口角を引き攣らせる一色から目を逸らすように首を反対方向へと向けると、こちらを凍てつかせるような冷たい眼差しの妹と目が合った。やだこの妹、実の兄に対して視線で射殺さんばかりの勢いで俺を睨みつけてる。……危なかった。雪ノ下で耐性ができてなかったら別な世界の扉を開いてたかもしれない。An○therなら死んでた。

 

「……さっさと帰るか」

「……うん」

 

 ここ数日、俺が一色の手伝いとして総武高校を訪れるようになってから、妹はこのように不機嫌モードとなることがある。別に生理とかではない。一度、冗談のつもりでそう聞いてガチ目な軽蔑の眼差しを向けられた俺が言うんだから間違いない。……あの時は死を覚悟した。

 原因は何となく察している。というか、他に思い当たる節が無い。今も俺の右隣りで俺と妹の様子を興味深そうにしげしげと観察している一色だろう。どうしてか、俺と一色が二人で一緒にいると小町の機嫌はすこぶる悪くなる。別に小町と一色の仲が悪いという訳ではないのだ。むしろ仲は良い方だろうし、家でも一色に対する愚痴や悪口なんて聞いたこともない。

 ではなぜ不機嫌になるのかと言えば、その理由はてんで不明ときている。小町本人に聞いてみても『別に……』と某エリカ様みたいな返事が戻ってくるばかりで埒が明かない。一色に聞いてみてもへーへーほーと頷いて苦笑するだけだった。

 

「……愛されてますねぇ、先輩」

 

 ぽつりと零すような一色の呟き。それが聞こえたのだろう。心なしか不機嫌さを増した小町の歩幅が大きくなり、歩く速度もそれに合わせて速くなった。俺は『これ以上、妹の機嫌を損ねてやるな』という意味を込めて一色を睨みつけるが、彼女は何を思ったのかバチコンと片目を瞑り、ウィンクをかましてくる始末。……違う、そうじゃない。

 

 結局、昇降口で別れるまでの間、小町も一色も俺の腕から手を放すことは無かった。

 

 

 

 *   *   *

 

 

 

 今日も今日とて総武高校へとやってきた俺は、『先輩のためにとっておきました!』と満面の笑みで告げられた書類の山を前に、死んだ魚のような目で項垂れていた。……あ、目は元々だったわ。

 

「それが終わったら、外部参加団体の募集案内の素案と、近隣の小中学校へのポスター手配ですからね。あ、あと周辺の小売店とかにもビラとか配った方が良いですよね!」

「……やるのは勝手だが俺を巻き込むな」

「え? なんだって?」

「鈍感系ヒロインとか今日日流行らねぇよ……」

「……なんですかそれ。もしかして遠まわしに先輩にとってのヒロインはわたしだって言いたいんですか。残念ですけど今はまだお互いドタバタしてるので来年わたしが先輩の大学に合格したときにでも出直してきてください。ごめんなさい」

「そこっ! 仕事中にイチャイチャしてないで、さっさと手を動かーす!!」

 

 いつかのような一色お得意の高速お断り術をさくっと聞き流し、小町から飛んでくるクレームには聞こえなかったフリをしてやり過ごす。何人か傍にいた文実メンバーがこちらに困ったような、呆れたような眼差しを向けてくるが、そちらには何となく申し訳なくなったのでうちの後輩と妹がスミマセンとばかりにペコリと会釈だけ返しておいた。……俺と目が合っただけでビクッと身構えるのはなんでなんですかねぇ。

 

 その後もやってくる書類をせっせとノートパソコンを使って電子化しては処理済みの箱へ追いやり、舞い込んでくる部活間の場所取りトラブルを職員室で暇していた顧問共へと押し付け、競うように新たな仕事を持ってきた一色と小町に白目を剥いた。

 

「……つーか、やることが多すぎなんだよ」

 

 俺はそう愚痴を零しつつ、マウスをスッとしてカチッとさせて使っていたノートPCをシャットダウンさせた。起動していたOSが役目を終えたことで光を失ったディスプレイには、連日の過重労働に辟易とした表情を浮かべる俺の顔がぼんやりと写り出される。

 既に文化祭実行委員の奴らも全員帰宅し、今はもう俺と一色、小町しか教室には残っていない。

 

「まあ、そうなんですけどねぇ……」

 

 俺の愚痴に苦笑いを浮かべて、一色が力なく応えた。

 俺の手を借りる程に一色や小町がてんてこ舞いになっている原因は主に二つある。その一つが仕事量の多さだ。俺が二年生のときに参加した文化祭も仕事量では中々のものだったが、それは途中で遅れた分をキャッチアップするためにデスマーチとなったに過ぎない。だが、今回は違う。単純に仕事量に対してマンパワーが足りていないのだ。

 それはなぜか? 一色があれもこれもとアイデアを取り込んだ結果、例年に比べて今年の文化祭は数倍の規模に膨れ上がってしまったからだ。いつぞやのクリスマスイベントと状況が似ているが、あっちが机上の空論で終始していたのと違い、こっちは現実的に実現可能な範囲に落とし込み、実際に計画へと組み込んでしまっているから性質が悪い。

 

「そもそもが、だ」

 

 しかし、それだけならまだどうにかなったかもしれない。仕事量は多いが、きちんとタスク化されて文実の間で分担されているし、計画自体もよく練られている。だからこそ、もう一つの原因がトドメを刺したと言えるだろう。

 

「どうして生徒会長が文化祭実行委員長を兼任してるんだよ。しかも、文実の委員長は例年二年生から選ばれるのが暗黙の了解なんじゃねえの?」

 

 これが決定打だった。

 本来、文化祭実行委員会にとって生徒会とは別組織の存在だ。その位置づけは権力や金銭の監査であり、烏合の衆として集められた文化祭実行委員たちのフォローでもある。文化祭実行委員といっても俺のときのように立候補ではなく、仕方なくやらされている生徒も多いのだ。そんなやる気のない相手に、ぽっと出の実行委員長なんかが制御などできるはずもない。ノリと勢いだけで委員長となった相模は兎も角として、あの雪ノ下ですら完全には御しきれず、結局は崩壊一歩手前まで追い込まれたのだ。もしあのとき、城廻先輩を筆頭とした生徒会のフォローが無かったら、きっともっと早い段階で文実は空中分解していただろう。

 つまり、いざという時の後詰という役割を担っている筈の生徒会が、一色が実行委員長へと就任してしまったが為に強制的に主力となってしまっている現状。もはや余剰戦力なんてものはなく、しかも通常の生徒会業務も同時並行でこなす必要もあり、更には例年以上の仕事量となったことで文実と生徒会は完全にキャパオーバーへと陥ってしまっていた。

 

「……別にそんなルールは明文化されてないですし? それにほら、生徒会長と文実委員長を同時にやった人なんていないらしいじゃないですかー。あのはるさん先輩だって成し遂げていない偉業ですよ?」

「成し遂げる前に破綻しそうだけどな」

「そこで先輩の出番ってわけですよ」

「ドヤ顔すんな。ぶっとばすぞ」

 

 ふふーんと鼻を鳴らしながらドヤる一色を睨みつけながら、俺は開きっぱなしになっていたノートPCを閉じると席を立つ。俺の行動を察したらしい一色が慌てて帰宅の準備に取り掛かるが、俺は待ってなんてやらない。スタスタと教室の出口まで歩いて行って、何故か準備万端で待機していた小町と一緒に廊下へ出た。背後から聞こえてくる『待ってくださいよー!』なんて叫び声を右から左へ聞き流して、俺は今日も小町に手を引かれながら廊下を進んでゆく。

 ふと窓の外を見れば、空に広がるキャンパスは鮮やかな青色から橙色を通り越して、既に群青色へと移り変わろうとしていた。俺は文化祭本番までにこなさなくてはならない残りの仕事量に鬱々とした気分となり、遠くで輝きを放ち始めた星々を眺めながら、溜息を吐く。……いま、確実に三年分くらいの俺の幸福が逃げて行った気がする。

 

「……ねえ、お兄ちゃん」

「あ? どした小町?」

 

 不意にそれまで黙って歩いていた小町が繋いでいた手を僅かに引いて、囁くように俺を呼んだ。小町は足を止めることなく、こちらに顔を向けるでもなし、ただ少し思い詰めたような表情で前を向いたまま、ゆっくりと薄暗くなった廊下を歩いてゆく。

 

「いろはさんのこと、助けてあげてね」

「……は?」

 

 言われた言葉に疑問符を浮かべた俺に、しかしそれ以上は話すつもりがないのか、妹は沈黙したまま歩き続ける。

 

「なあ、小町。それってどういう──」

 

 小町へ言葉の真意を問おうと口を開きかけたとき、後ろから迫ってきたパタパタという足音がそれを遮った。

 

「せんぱーい! 待ってくださいって言ったじゃないですかーっ!!」

 

 追いつくなりバシバシと俺の背中を叩きまくる一色の手前、先ほど小町がお願いした言葉を問う気にはなれなかった。あとで家に帰ってから聞こうかとも考えたが、小町から発せられる聞くなオーラを鑑みるに、たぶん教えてくれないんだろうなと諦める。

 

「あ、そうだ先輩。疲れたんで途中まで自転車の後ろ乗せてってくださいよ」

「……悪いが、俺の後ろは小町専用だ」

「でたシスコン……。小町ちゃん!」

「……悪いですけど、お兄ちゃんの後部座席は小町の指定席なので」

「でたブラコン……。なんなのこの兄妹。仲良過ぎじゃない?」

 

 ブツクサと止め処なく文句を垂れ流す一色を適当にあしらいながら、もはや恒例となってしまった騒がしい三人での帰路に小さく息を吐いた。

 

 

 

 *   *   *

 

 

 

 いよいよ間近に迫った本番へラストスパートをかけるべく、気勢を上げる一色たち文実スタッフや生徒会に冷や水を浴びせるような問題が発生したのは、文化祭まで残り二週間を切ったある日のことだった。

 

「……という訳で、一部の先生方からプログラムの見直しを求められているのが今の状況です」

 

 文実の作業部屋として割り当てられていた特別教室に急遽集められた文実スタッフと生徒会メンバー。そして文実担当を押し付けられた若い教員とオブザーバーとして参加させられていた俺。今年の文化祭関係者が一堂に会したこの場で、教師陣との折衝役として話を聞いてきた生徒会側、その代表として副会長である小町が現状を簡潔に告げる。

 心なしか説明している小町が若干憔悴しているように見えるのは、きっと気のせいではないだろう。中学生時代から生徒会に所属していた小町だ。こういう突発事態にも遭遇したことだってあった筈なのに、それでもここまで動揺しているということは、それほど寝耳に水のことだったに違いない。

 

「そ、そんなぁ」

「今更そんなこと言われたって……」

「なんで今になってそんなこと言い出すんだよ。どうなってんすか、先生!?」

「ご、ごめんなさい。私も今日突然言われて……」

 

 それはもちろん、説明を聞かされた彼らも同様で、ざわざわと動揺がさざ波のように教室全体へと広がってゆき、一部の生徒が文実担当の教師に詰め寄っていた。

 彼らの困惑や憤りも尤もだろう。各クラスや部活連中の企画とは別に、文実が主体となって行う全体プログラム。それは云わば総武高校としての文化祭における顔であり、今回の文実スタッフたちが最も苦労を強いられ、そして情熱を傾けてきた部分でもある。そこに待ったがかかったのだ。当然、納得できるものではない。

 

「だって全体プログラムは素案の段階から教師向けに説明会だってやったし、俺ら計画書にもきちんと記載したんですよ! 先生方だって承認してるじゃないですか!?」

「それは、そうなんだけど……。でもやっぱりダメだって言われちゃったし…」

「それだったら、せめてもっと早く言ってくれれば……。なんで今になって…言うんですかぁ……。あたしたちが全プロのためにどれだけ頑張ってきたか、先生だって見てたじゃん。なにこれ、全部ムダだったってこと?」

 

 途中参加の部外者である俺から見ても、彼らは今日まで必死になって文化祭開催のためにタスクをこなしてきたと思う。二年前のように途中でダレるようなこともなく、誰もが己に任された役割を全うしようと全力で取り組んでいた。これがもし、文実側の不手際が原因だとかだったらまだ納得できたかもしれない。けれど、事前に調整し、然るべき手順を踏んで、関係各位の承認も得たうえで、教師側が一方的にちゃぶ台をひっくり返したとなれば、彼らも憤懣やるかたない思いであると言える。

 

「あ、あのね! なにも先生たちだって、みんなに嫌がらせがしたくてこんなこと言ってる訳じゃないと思うの」

 

 それまで責められる一方だった文実担当の若手教師が、興奮する生徒たちを諭すように、声を張り上げる。

 

「残りの日にちと作業量を鑑みて、これ以上のオーバーワークはあなた達の健康を害する恐れがあるっていう判断なの。それに、一部の保護者からも生徒の仕事量についてクレームがきてるって話だし、公立の学校でそこまで大規模な文化祭を開くこと自体がそもそもどうなのかって話もあって……」

 

 なんとか生徒たちを諌めたかったのだろう。必死になってフォローする若い教員だったが……その情報って生徒に教えてもいいものなの? オフレコなんじゃね? と思わなくもない。

 案の定、『大きなお世話だ!』『なら先生達だって手伝ってよ!?』『誰の保護者だよ、そんなクレーム入れた奴!!』と教室内は紛糾してしまっている。事件は会議室で起きてるんじゃない。特別教室で起きてます。

 

 そんな喧騒に包まれる教室内を睥睨し、俺は考えをまとめるために瞳を閉じた。

 きっとここが、この文化祭の分水嶺となるのだろう。だから俺は改めて今ある問題点を整理すべく思考を巡らし、この先の展開について思案する。

 あの文実担当の教師が言うように、全体プログラムに待ったをかけた先生たちも悪意で言っているわけではない。果てしなく空気が読めていないが、教師という立場上、それでも言わざるを得ないのだろう。ならば提言を受け入れて、規模を縮小させるのか? ……生徒の健康と文化祭の成功を考えるなら、それが妥当だろう。計画変更による多少の混乱はあるだろうが、それだって大幅な変更を加えるわけではないのだ。元来あった計画を縮小させるだけとなれば、着地点さえ決めてしまえば今からでも十分対応可能と思われる。そう考えると、教師連中が今このタイミングでストップをかけたのにも納得がいく。今より前だと『まだどうにかなる』と生徒たちは反発するだろうし、もっと後なら今度はスケジュール的にリカバリーする余裕が無くなってしまう。

 逆にこのまま計画通りに推し進めた場合だが、こちらはもう博打だ。もし進捗がオンスケなら問題なかったかもしれないが、現状はやや遅延が出ている状況。最悪、中途半端なまま文化祭当日を迎えかねない。そうなるくらいなら、多少の不満は呑みこんで、妥協点を探った方が建設的と言える。

 そうして俺がある程度自分の考えをまとめ終えたところで、聞き慣れた妹の声が耳に届いた。

 

「……はいはーい! みんなの気持ちは分かるけど、とりあえず今はこれからどうするか決めないとなので、一旦落ち着いてくださーい!!」

 

 もうお前の指示なんて聞けるかとばかりに再び先生へ詰め寄ろうとしていた文実スタッフたちに向かって、小町が制止の声を上げる。おそらく最初に話を聞かされていた分、多少は冷静さを取り戻したのだろう。パンパンと大きく手を叩き、場を仕切り直す。

 その姿に我に返っただろう騒いでいた生徒たちも徐々に静かになっていき、やがて全員が自分の席へと腰を下ろした。

 

「これからどうするかって……」

「どうするの?」

「え? 見直すんじゃないの?」

「いやいや、今からじゃ無理だろ」

 

 小町のおかげで幾分か他の生徒たちも落ち着き、これからについて頭を巡らせ始めた。

 その様子を睥睨していた小町が、ふと俺に視線を向けた。一瞬だけ交差した目線。小町は一つ頷くと改めて議題を提議する。

 

「えっとですねー。文化祭実行委員の皆さんには方針を決めてほしいのです。先生方の要求通りに全体プログラムの規模を縮小するか。……それとも、このまま押し通すか」

 

 小町の言葉に、しんと静まり返る文化祭実行委員のメンバーたち。狼狽える様に辺りをキョロキョロしていた彼らはやがて、ぽつりぽつりと周りのメンバーと囁き合い、相談を始める。

 

「縮小、かなぁ?」

「え、でも……」

「だって、先生がそうしろって言ってるんだし」

「それに規模を小さくするだけなら、そこまでプログラムを弄るわけでもないだろ」

 

 場の流れが、規模縮小へと傾いてゆく。

 まあ、そうだろう。人間、やらなくてもいい苦労なら誰しもしたくはないし、絶対的な上位者である教師自ら『やらなくていい』とお墨付きを与えているのだ。大義名分はある。ならば楽な方へと流れるのが大衆心理というものだろう。

 

「縮小でいんじゃね?」

「ここまで頑張ってきたけどさ、正直限界かなぁってのもあったし?」

「そ、そうだね。私たち頑張ったもんね」

「でもさ、ほら……」

 

 しかし、それでも結論は出ない。いや、出せないのだ。なぜなら彼らがしているのは相談であって議論ではないから。あくまで相談という体で、意見している訳でも、提案している訳でもない。

 その原因。誰しもが規模縮小の声を上げることに躊躇するその理由。

 

「……」

 

 一色いろは。生徒会長であり、文化祭実行委員長を兼任する彼女の存在が、彼ら文実メンバーの口を閉ざさせる。

 皆、分かっているのだ。この文化祭で一番尽力してきたのが誰であるかを……。誰よりも準備に駆けずり回って、誰よりも調整に奔走して、誰よりも悩んで笑って、この文化祭を楽しんでいたのを知っているから、だからこそ決定的なことを言えずにいる。

 ああ、そうだ。言えるわけがない。今も黙って俯いて、悔しさを滲ませるように唇を強く噛みしめて、怯える様に震えてじっと堪えている彼女に『仕方がないから諦めよう』なんて、そんなこと彼らに言える筈がない。

 だから──

 

 

「……妥協しろ、一色。お前はよくやった。だが実行委員長なら文化祭を成功させるために私情を挿むべきじゃない」

「っ……」

 

 

 だから、これは部外者である俺の役目だ。

 

「お、お兄ちゃん!?」

「気持ちは分かる……でも現状じゃどうにもならんだろ。作業量に対して人手が足りてないんだ。かと言って、今から追加で人員を招集することも難しい。なら教師陣が言う通り規模縮小させたって誰も文句なんて言わんし、お前の名声に傷が付くことだってない。別に失敗した訳じゃないんだ。あれだ。戦略的撤退だ」

「…ぃ……っ」

 

 俺の言葉に何度か口を開きかけた一色だったが、結局は声を詰まらせて項垂れる。

 そんな彼女の姿に周りから非難するような眼差しが俺に集中するが、しかし俺の言葉を止めるために反対する奴もいない。一色の心情を思えば、俺の言葉が許せないのも理解できる。だから彼らに対して何か思うことはない。甘んじて受け止める。別に二年前の焼き直しがしたい訳じゃない。けれど、誰かが言わなきゃいけないなら、その適任は俺しかいないのだ。小町や他の生徒会メンバーも、文実メンバーも、担当の先生も否定意見を口にして足並みを乱すわけにはいかない。文化祭本番までもう二週間を切っている現状、いまさら人間関係でギスギスしている暇なんてないのだから。なら、元々途中参加で部外者の俺が抜ければいいだけ。それだけだ。

 一色だって馬鹿じゃない。自分の置かれた状況は正しく理解しているだろうし、ああ見えて責任感もある奴だ。俺がこう言えば、あいつなら──

 

「……一色?」

 

 だから俯く彼女の目元から、ポタポタと零れ落ちる滴に気が付いたとき、俺はひどく動揺してしまった。

 

「……ッ!」

「いろはさんっ!?」

 

 制服の袖で涙を拭いながら、突然教室を飛び出して行ってしまった一色の姿を、俺はただ茫然と見送る。

 誰もが口を開けず、動くこともできず、静まり返った教室。そのとき、怒ったような叫び声が教室内に響き渡った。

 

「……んもぉぉぉおおおお!!!」

「こ、小町?」

「お兄ちゃん、何言ってるの。ごみいちゃんのバカ! ボケナス! 八幡!」

 

 お、おうふ……。これは小町ちゃんマジ切れですわ。

 

「追いかけて!」

「……は?」

「いろはさんのこと追いかけて! たぶん生徒会室だと思うから!」

「いや、でもな……」

「さっさと行く!!」

「お、おう」

 

 小町の剣幕に押されて、思わず席を立ち上がり、ドタバタと他の人が座る椅子や机にぶつかりながら何とか教室の出口まで辿り着く。未だ困惑したままだが、それでも妹からの命令にオートで従ってしまうこの体が憎い。やだ、俺ったら妹に調教され過ぎ!?

 そんな惑乱してる俺を小町が呼び止めた。

 

「お兄ちゃん!」

「あ?」

「いろはさんが…どうしてあんなに張り切ってたのか、それをよく考えてあげて」

「小町……」

「任せたからね、お兄ちゃん!」

「あ、ああ!」

 

 背後から響く『とりあえず、今日は一旦解散でー! 明日また集合してくださーい!!』という小町の声を聞きながら、俺は生徒会室へと向かって走り出す。

 小町が俺に託した真意を考えながら……。

 

 

 

 *   *   *

 

 

 

 俺が知っている一色いろはとは、強かで、計算高くて、あざとい、けれど真っ直ぐな少女だ。

 やろうと思えば上手く立ち回ることだってできるくせに、それでも男子に愛想を振りまいて、女子を敵に回して嵌められるような、そんな馬鹿正直な奴だった。

 

「……一色」

「……っ」

 

 俺はそんな一色を生徒会長へと祭り上げた。

 その時はそれが俺にとっての最善手だと思えたから。それはそうだ。俺は依頼人である一色のことなんて考えていなかったのだから。ただ只管に俺の勝手な都合で彼女を言い包めて、その結果が空虚でハリボテのような奉仕部だった。

 

「一色」

「せ、せんぱい……」

 

 だから、そんな彼女が生徒会長としてまともにやっていけるはずもなくて、案の定、生徒会メンバーとも上手くいかなければ海浜総合とのクリスマスイベントでも翻弄されるばかりで……。

 

「……」

「……」

 

 しかし、彼女は成長してみせた。

 俺なんかが居なくても、立派に生徒会長としての責務を果たしたのだ。

 二期連続で生徒会長をこなして、更には文化祭実行委員長まで兼任して、あの雪ノ下や葉山、城廻先輩や陽乃さんすら成し得なかったことをやってのけた。

 

「……会議、明日に仕切り直しだとさ」

「そう、ですか」

 

 そんな彼女がこの文化祭にかけた想い……。

 きっと俺はその想いを踏み躙ってしまったのだろう。だから、一色いろはという少女は泣いている。

 

「なあ、一色」

「……なんですか、先輩」

 

 小町は、どうして一色がここまで文化祭に傾倒していたかを考えろと言った。

 二年前の文化祭実行委員に一色の姿は無かったと思う。であれば、少なくとも一年生のときはそこまで文化祭の運営には興味は無かった筈だ。なら去年の文化祭は? ……残念ながら、その答えを俺は知らない。なぜなら俺は、その文化祭に参加していないから。いや、文化祭だけではない。俺は昨年のほとんどの学校行事に参加しなかった。

 そこまで考えて、ふと頭を過った一つの解。荒唐無稽で、根拠なんて何一つない、何とも馬鹿げた与太話。しかし、不思議とその答えはしっくりきた。

 

「……スマン」

「……なんで先輩が謝ってるんですか?」

 

 不機嫌そうにキッと俺を睨みつける一色に、俺はガシガシと片手で頭をかいて首を振る。

 俺が一色に謝罪した理由。

 

 規模を縮小するように諌めたこと? いいや違う。

 俺が自分の立場を危うくしたこと? それも違う。

 

「待たせて、悪かった」

「っ……」

 

 

 ──”高校最後の文化祭”

 

 

 本来なら、それは一年前にあったはずの光景だったんだ。

 三年生になった俺や雪ノ下や由比ヶ浜たちと、一緒に盛り上がれるはずだった最後の文化祭。

 

「二年分の想いを込めてたんなら、そりゃ規模もデカくなるわな」

「……悪いですか」

 

 図星をつかれたからか、一色は頬を染めてそっぽを向いた。こんな時でも不貞腐れたようにぷくりと頬を膨らませる仕草があざとくて、それがなんとも彼女らしくて、俺は僅かに苦笑する。

 

「お前ってそんなキャラだったか?」

「うるさいですよ……」

 

 俯く彼女の頭に、俺はそっと右手を添えた。

 

「……楽しみに、してたんだな」

「そう、です……」

 

 サラサラと揺れる亜麻色の髪を優しく撫でさする。

 

「一緒に参加してやれなくて、悪かった」

「……遅いん…ですよぉ」

 

 くしゃりと顔を歪めて、じわりと滲んだ涙を目尻に溜めて、一色が俺の胸元へ額を押し当てた。

 

「怖かったん…ですから……」

「ああ……」

 

 縋るように震える彼女の両手が、俺を拘束する。

 雪ノ下や由比ヶ浜だけじゃない。俺の弱さが、目の前で涙を流すこの少女も傷付けていた。その事実に、胸の奥がじくじくと痛む。

 

「学校に来ても先輩はいなくて、もうこのままずっと会えないんじゃないかって……」

「……そっか」

 

 おずおずと頭を上げる彼女と目が合って、揺れる瞳に心が揺れた。

 その潤んだ眼差しに目が離せない。密着した彼女の体から伝わる体温でひどく心地よくて、気がつけば一色の頭に乗せた右手とは反対の手で彼女の腰を掻き抱く。

 

「……」

「……」

 

 二人きりの生徒会室で、至近距離で見つめ合う俺と一色。

 まったく非現実的なシチュエーションなのに、耳に届く彼女の息遣いが、伝わる温もりが、ひどくリアルだった。

 

「せん…ぱい……」

「……一色」

 

 どちらともなく、ゆっくりと顔を近づける。

 ただでさえ近かった俺たち二人の距離がゼロになる──

 

 

「……なーに妹の前でイチャイチャしてくれてやがりますかね、このごみいちゃんは」

 

 

 ──直前で、マイシスターの怨念じみた声が待ったをかけた。

 

「こ、小町……?」

「小町ちゃん!?」

 

 唐突に現れた小町の存在に、我に返った俺と一色は慌てて距離を取った。

 

「お兄ちゃん。確かに小町はいろはさんのことを任せると言いました」

「お、おう……」

「でもですね! いろはさんとイチャイチャラブチュッチュしろなんて、小町は一言も言ってないわけですよ!!」

「ラブチュッチュってお前……」

 

 どこでそんなアホっぽい言葉覚えてきちゃったの、小町ちゃん。お兄ちゃん悲しいよ……。お兄ちゃん、小町をそんなはしたない妹に育てた覚えはありませんことよ!?

 そうやって馬鹿なことを考えながら動揺を落ち着かせてる俺の横で、小町がジロリと一色を睨みつける。

 

「……いろはさん?」

「ちっ……」

「いろはさん?」

「反省してまーす」

 

 あらやだ、さっきまでウルウルしてたはずのいろはすがケロッとした感じでテヘペロしてらっしゃる。……なんかもう女性不信になりそう。

 

「……はあ。まあ、いいや。今日は小町に免じて許してあげます」

「え? 自分に免じちゃうの? ありなのそれ?」

 

 なにそのセルフ免罪符。超お手軽なんですけど。マルっとしたルターさんも驚きももの木一六世紀。

 

「ほら、帰るよ。お兄ちゃん」

「あー……。そうだな。帰るか」

「あ、ちょ!? だから置いてかないでくださいよー!」

 

 ワタワタと慌てながら『あれ? わたしのカバン……あ、文実の教室じゃん!?』とか騒ぐ一色を尻目に、俺の手を取った小町が生徒会室の扉を開ける。

 人気の無い廊下。隣で静かに歩いていた小町が僅かに唇の端を持ち上げて、小さく笑った。

 

「……いろはさん。元気になったみたいだね」

「うん? ああ、まあな」

 

 これじゃ俺も一色も、まったくどちらが年上なのか……。いつの間に、小町はこんな風に大人びた顔で笑うようになったのだろう。そういえば、いつの頃からか髪型も変わっていた。以前は首筋辺りまでだった髪の長さが、今は肩にかかるほどに伸びている。

 

「去年はさ、大変だったんだよ。見るからに空元気で、無理矢理に笑ってさ」

「そう…なのか」

「いろはさんだけじゃない。雪乃さんに結衣さん、沙希さんだってそう。みんな、お兄ちゃんのこと心配してくれた」

「……」

 

 偲ぶように語る小町の横を歩きながら、俺は言葉を返すことができずに押し黙る。

 

「……大丈夫だよ」

「小町?」

「大丈夫。だって小町のお兄ちゃんだもん。小町が大好きなお兄ちゃんなんだもん。だから、きっと大丈夫!」

「小町……」

 

 小町は諭すようにそう言って、優しくふわりと笑ってみせる。

 本当に、俺には過ぎた妹だと思う。なんで血が繋がってるんだろう。実妹なのが悔やまれる。小町ちゃん、マジ天使。

 

「……なーんて! あ、いまの小町的にポイント高いっ!」

「それが無ければな……」

 

 まあ、安定のウザさだ。可愛いけど。これこそ小町。実にウザ可愛い。

 

「……んで? それどうすんの?」

「んー、それって?」

「お前が二つ持ってるカバン。片方は一色のだろ。今頃あいつ、必死こいて探してるぞ」

「あー、忘れてたー。うっかりうっかりー☆」

 

 わー、台詞がめっちゃ棒読みだよ、この妹。

 ……まあ、いいか。せめて下駄箱あたりで待っててやろう。そのうち、一色もこっちに来るだろ。

 

「……明日、どうすっかな」

「まあ、どうにかなるって」

 

 俺が呻くように零した言葉に、小町が何てことなさそうに応える。

 そんな妹が逞しくて、そろそろ妹離れする時期なのだろうかと思わず唸ってしまう。妹の成長は嬉しいけど、まだまだ養ってほしいお兄ちゃんとしては複雑です。

 

 

 

 鞄が見つからないと半泣きでやってきた一色に、ドヤ顔で鞄を差し出した小町が一色にブチ切れられるのは、それから三〇分後のことだった。

 

 

 

 *   *   *

 

 

 

 明くる日、全体プログラムの方針を決めるために再び文実関係者が集まった。

 全員が揃ったことを確認したところで、開口一番、一色が声を上げる。

 

「……現状、いまの進捗だと期限までに全ての準備が間に合うか、難しい状況です」

 

 昨日と違い、どこかスッキリしたような表情の一色。恐らく、昨日のうちに気持ちを切り替えてきたのだろう。さすがのメンタル。俺みたいに一年近くもズルズル引き摺ったりはしない。

 ちなみに一部の文実メンバーが訝しそうに俺と一色を見やりながらヒソヒソ囁き合っているが、それは無視だ。

 

「みんなは良くやってくれました。それでも目標に届かなかったのは、無理な計画を推し進めたわたしの責任です。ごめんなさい」

 

 一色はそう言って全員に頭を下げた。

 その潔い姿に、誰もが押し黙る。ある者は呆けたように、ある者は悔しそうに、ある者は安堵するように、各々が色々な感情を表情に出しているが、やがて誰かが小さく拍手をした。

 パチパチと一人分だった音色は、いつしか二人三人と増えてゆき、全員が一色を労うように手を叩く。

 

「いや、一色先輩は頑張ったよ」

「私たちこそ、足引っ張っちゃってゴメンね?」

「大丈夫だって! 規模縮小したって、去年以上なのは確実なんだから、きっと盛り上がるよ!!」

 

 野次や罵倒ではなく、励ましの言葉が飛んできたのがそんなに意外だったのか、一色はポカンと口を開けて唖然としていた。

 けれど、それもすぐに照れたようなはにかみになり、ペコペコと周囲に頭を下げる。

 

「……あ」

 

 俺がジッと一色を見ていたからだろうか。ふと視線が合い、一色が小さく言葉を漏らす。

 一瞬だけ照れ臭そうにした彼女だったけれど、すぐに自慢げに胸を張り、こちらにピースサインを向けてくる。

 

「……先輩!」

「なんだよ?」

「最後まで、付き合ってくださいね?」

「……ああ」

 

 そうだ。たとえ計画通りじゃなかったとしても、彼女の頑張りは無駄にはならない。皆が一色の努力を知っている。だから悔しさも虚しさも飲み込んで、それでも笑顔で前へと進んでいけるのだ。

 これも一種のハッピーエンド。大団円。そのはずなのに……。

 

「……にやり」

 

 どうして我が家の妹様は腹黒い笑みを浮かべてらっしゃるんですかねぇ……。

 その答えは、ババーンという効果音が付きそうな勢いで開かれた教室の扉から現れた。

 

 

 

「話は聞かせてもらったわ! この文化祭は成功する!!」

 

 

 

 教室の入り口にドヤ顔で仁王立ちする陽乃さん。……あの、いま良い雰囲気なんで空気読んでもらえます?

 

「は、はるさん先輩?」

「ひゃっはろー、いろはちゃん。でも、わたしだけじゃないわよ?」

「え……?」

「やあ、いろは。久しぶり」

「葉山先輩……」

「俺もいるぜ!」

「……どちらさまでしたっけ?」

「ちょ、いろはすそれ酷過ぎじゃね!? 隼人くーん! なんか俺の扱いだけ超雑なんだけどー」

「……スマナイ。誰だい、キミは?」

「それないわー。隼人くん、そのボケはないわー」

 

 なんかガチで涙ぐんでる戸部。いや、男の涙目上目遣いとか誰得だよ。

 ……違う。ツッコミどころはそこじゃない。

 

「なにやってんすか、雪ノ下さん。ここウチの大学の正門じゃないっすよ?」

「一体いつから────わたしたちが正門にしか乱入しないと錯覚していた?」

「なん…だと……!?」

 

 驚愕する俺を嘲笑うように、ふふんと鼻で笑う陽乃さん。やだこの人、ドヤ顔でも美人とか神様ってマジ不公平。

 

「いや、そういうボケいらないんで。ちょっと本当に空気読んで? いまアニメで言ったら十一話ぐらいの感じだったから。最終回に向けて盛り上がる展開だから。ギャグ回とかいらないです」

「まあまあ、八幡。ここは我に免じて矛を収めよ」

「……なんで材木座までいんの? 暇なの? ちょっと大学生暇過ぎじゃない?」

「あ、ごめん。僕たち邪魔だったかな、八幡?」

「と、戸塚ぁ!? そ、そそそそんなことないぞ! なんの問題もない! マジ無問題!!」

 

 やばい。テンション上がってきた。もう陽乃さん達とかどうでもいい。

 何故ならそこに戸塚がいるから。戸塚ってマジ偉大。そして世界は平和になった。

 

「……なにやってるし、ヒキオ」

「あんた……全然変わってないね」

「あ、比企谷先輩! お久しぶりっす!!」

「ぐ腐腐腐……。久方ぶりのとつはちご馳走様です!」

 

 俺がハァハァと息を荒げていたら、材木座のデカい図体を押しのけて、あーしさんと川なんとか沙希さんと、その弟の川崎大志が姿を現した。……鼻血を垂れ流した海老名さんなんて俺は見てない。

 

「なんでお前らまで……」

「は? そんなの、あーしらの勝手っしょ?」

「いや、それはそうなんだが……」

「なに、何か文句でもあるわけ?」

「な、なんでもないっす」

 

 思わず腰が引けて下っ端口調になってしまった。なんで君ら仲悪そうなのに俺を睨むときだけ息ピッタリなの? そんなに俺を追い詰めたいの? 俺の弱小メンタル舐めんなよ。二秒で心挫けるわ。

 

「……本当に、あなたが絡むと呆れるくらいに問題ばかり起きるのね」

「まあ、ヒッキーだもんね。仕方ないよ」

 

 そう言いながら最後に教室へ入ってきた二人の女性。

 雪ノ下と由比ヶ浜が、苦笑するように小さく息を吐いて俺の前に進み出る。

 

「……それで? あなたには学習能力というものはないのかしら痴呆谷くん?」

「ゆ、雪ノ下?」

 

 あれ? これもしかしなくても怒ってる?

 

「あたしたち、ヒッキーから連絡してくれるのずっと待ってたんだよ?」

「ヒェ!?」

 

 あ、これアカンやつや。だって由比ヶ浜の目からハイライト消えちゃってるもん。……こわっ!?

 

「あなたには色々と言いたいことが山……いえ、山脈のようにあるのだけれど。……今は一先ず置いておくわ」

「あ、はい。文句が積み上がるどころか連なっちゃったのね」

 

 凍えるような眼差しで俺を睨みつける雪ノ下だったが、僅かに首を左右に振ると全身から放っていた冷気を霧散させる。……ねえ、それ個性? もう個性だよね、それ? 僕のヒーローになっちゃうの?

 

「……状況は小町さんから聞いているわ」

「小町から?」

 

 雪ノ下の口から飛び出した妹の名前に、思わず首を傾げる。

 ちらりと本人へ視線を向ければ、ドヤ顔で腕を組む小町と目が合った。

 

「ふふん! こんなこともあろうかと、昨日の内に小町ネットワークを使って雪乃さんと結衣さんへ連絡を入れたのです!」

 

 誇らしげに無い胸を張る妹。あらやだ可愛い……じゃない。いや、小町は可愛いけど、そうじゃない。

 

「……小町ちゃんから、あたしたちに依頼があったの。内容は文化祭を成功させるために協力してほしいって」

「人手が足りないという話だったから、勝手ながら由比ヶ浜さんや姉さんの伝手を使って応援を頼んだわ」

 

 ようやく正気を取り戻した由比ヶ浜が小町の依頼内容を説明し、雪ノ下がくすりと笑って陽乃さんや三浦たちへ視線を投げる。

 

「そういう訳だから、一色さん」

「は、はい!」

「後は任せるわ」

「ふぇ……?」

 

 突然の雪ノ下からの丸投げ宣言に、一色が呆けたような返事で固まった。

 

「え、でも……」

「何を動揺しているの。あなたも知っているでしょう? 私たち奉仕部の基本原則はあくまで依頼達成のための手伝いだけよ」

「うん、だから後はいろはちゃん次第だよ」

「雪乃先輩、結衣先輩……」

「あなたが実行委員長なのでしょう? なら、これからどうするかは一色さんが決めなさい」

「わたし…わたしは……」

 

 一見突き放すような雪ノ下たちの言葉。けれど、彼女たちの表情を見れば分かる。

 雪ノ下と由比ヶ浜は……。いや、二人だけじゃない。陽乃さんや葉山たちだってそうだ。みんな確信している。誰も疑ってなんかいない。一色ならやり遂げられると、そう信じているから全員が笑って力強く頷いているんだ。

 

「……一色」

「先輩?」

「お前がやりたいようにやってみろよ。後の尻拭いはこっちに任せればいい」

「……なんですか、それ。それだと、わたしが失敗する前提みたいじゃないですかー!」

 

 大きく頬を膨らませて『わたし怒ってます』アピールを披露する一色。

 プンスカプンスコ膨れっ面を晒す彼女だけれど、目尻に溜まった涙が、それが一色なりの照れ隠しなのだと教えてくれる。そんな一色が可笑しくて、ついつい宥める様に頭を撫でてしまう。

 

「……ふんだ。今まで以上に扱き使っちゃいますよ、先輩?」

「俺は二年分だからな。利息だと思って諦めるさ」

 

 ぷいと拗ねる様に、けれどどこか嬉しそうにそっぽを向いた一色が、今度は視線の先にいた雪ノ下へ挑発的な笑顔を向ける。

 

「雪乃先輩が相手だって容赦なく命令しちゃいますからね?」

「……それが正しい指示ならきちんと従うわ」

 

 雪ノ下が目をすっと細めて応え、怯えた一色が慌てて由比ヶ浜へ矛先を変える……が、途中で軌道修正。

 

「結衣先輩も…………結衣先輩は頭脳労働以外でお願いします」

「あたし全然信用されてないっ!? あ、あたしだって立派な大学生なんだからねー!」

 

 憤慨する由比ヶ浜に冗談ですよと割と真顔で返した一色は、一度だけ俺たち全員をぐるりと見渡す。そして彼女はゴシゴシと制服の袖で涙を拭うと、ニヤリと勝ち気な笑みを浮かべて、少し離れたところに控えていた小町に顔を向けた。

 

「……やるよ、小町ちゃん!」

「がってん承知! 小町におっまかせーーーっ!!」

 

 そして、それまで突然登場したOB・OG連中に呆気にとられていた文実メンバーたちに向かって、一色は両手を腰に当てて堂々と宣言する。

 

「前言撤回! 規模縮小? ふっざけんなーっ! 逆に規模拡大してやりますよ! デスマがなんだ! やってやるぜコンチクショウ!」

 

 一色の豪快な啖呵が教室内に轟いて、放心していた文実メンバーたちを徐々に解き放つ。

 

「わたしたちの文化祭は、これからだぁーーーっ!!」

「「「 うおおおおお!! 」」」

 

 熱狂する文化祭実行委員共を焚き付けるように、小町が天に向かって拳を突き上げ、声を張り上げる。

 

「ぶんじつ~~~ファイッ!」

「「「 オーーーッ!! 」」」

 

 そんな盛り上がる彼女たちを、俺たちは微笑ましく見守る。

 

「いろはちゃんも小町ちゃんも、本当に楽しそうだね」

「ええ、そうね」

「……だな」

 

 一色にとって”高校最後の文化祭”は、きっとかけがえのないものになる。そう思えた。

 

「……あっ」

「ん? どうした雪ノ下?」

「いえ、ちょっと言い忘れていた事を思い出して……んんっ、一色さん。盛り上がっているところ悪いのだけれど、ちょっといいかしら?」

「え? あ、はい。なんですか雪乃先輩?」

「一色さんにとって、これが”高校最後の文化祭”であることは理解しているのだけれど……」

「……けど?」

「どうして、比企谷くんにだけ手伝いを頼んだのかしら?」

 

 見惚れるような笑顔で放った雪ノ下の言葉で、俺たち四人の周囲だけ空気が凍りついた。

 

「ゆ、雪乃先輩?」

「あなたの気持ちは分かるの。去年は引きこもり谷くんの所為で、私たちもあまり文化祭には集中できなかったもの。だから比企谷くんを手伝いに呼んだこと自体を咎める気はないわ」

「で、ででですよね!」

「でも、それならどうして私たちも一緒に呼んでくれなかったのかしら?」

「え、ええっとですね……。その、なんと言いますか……」

 

 しどろもどろになって目線を右往左往させる一色。

 あー……、うん。がんばれ。俺は応援しかできない。だからこっち見んな。俺に縋る様な眼差しを向けるのは止めろ。

 

「……あなたもよ、比企谷くん。人手が足りないって分かっていながら、どうして私たちに声を掛けてくれなかったのかしら?」

「いや、それはですね。あれがあれでして……うん、あれだよ。あれ。あれなんです」

「……そうよね。あなたは日頃から姉さんや葉山くんたちと遊んだり、平塚先生と婚活パーティに行ったりで忙しいものね。そこに一色さんの手伝いまで入ったら私たちに連絡する時間なんて取れないわよね…………なんて言うとでも思っているのかしら、不義理谷くん?」

 

 ほらー! やっぱりこっちに飛び火したじゃないすか! ヤダーーー!!

 忌々しげな眼差しと共に冷気を放って俺を凍えさせる雪ノ下だったが、やがて諦めたかのように溜息を吐いてゆっくりと視線を落とす。

 雪ノ下は拗ねたようにそっぽを向いて、ついでに頬も朱に染めたりしながらぽつりと呟いた。

 

「……一色さんばっかりズルいじゃない。私と由比ヶ浜さんだって、”高校最後の文化祭”には思うところがあるのよ?」

「うっ、そう…だよな。……はあ、スマン。俺が悪かった」

 

 ちょっとデレのんの破壊力が強烈過ぎて俺の絶対不可侵なフィールドが突破されちゃいそう。これがセカンドインパクトか……。

 

「……まっーたく、お兄ちゃんはいつからハーレム主人公になんてなったのさ。それって小町的にポイント低い!」

「そうは言うけどさ、小町ちゃん」

「え、結衣さん?」

「他人事みたいな感じだけど、小町ちゃんもヒッキーが文化祭を手伝ってること、ギリギリまで教えてくれなかったよね?」

「あああ、あれー? やだなー、もう。ちょっと小町なに言われてるのか分からないですねー。たはは……。もう結衣さんったら、瞳から光が消えちゃってますよー! そーんな怖い顔してどーしちゃったのかなーって……」

 

「……」

「……」

 

「こーまーちーちゃん?」

「ふぇぇ……お兄ちゃーん! 結衣さんが壊れたー!!」

 

 結局、この日は俺と一色と小町が正座をさせられて、雪ノ下と由比ヶ浜から説教を受けるだけで一日が終わるのだった。

 

 

 

 *   *   *

 

 

 

 そしてリスタートを切った文化祭実行委員会。

 見直しを要求された全体プログラムについては、まずは雪ノ下がまだやれるでしょうとばかりに『千葉ポートタワー ~ 猫とパンさんと、時々、ワタシ ~』という個人的趣向全開な謎企画を立ち上げ、妹に負けてなるものかと対抗した陽乃さんが『はるのん☆かむばっくライブ』なんていう悪ノリ一直線な企画をブチ込み、ならばと海老名さんが葉山と俺を巻き込んだ2.5次元ミュージカル(全年齢版)を猛プッシュ。ドンとこいやー状態の一色がヤケクソ気味に全ての企画案に決済印を押した。

 困惑する文実メンバー。爆笑する小町。まあまあ、それより予算どうするのと算盤を弾くいつの間にか勘定奉行に就任した由比ヶ浜。普通なら無謀を通り越して絶望するレベルに天元突破したこの全体プログラムだが、しかしそこは無駄にハイスペックな人材が揃った我らが総武高校OB・OG+α同盟。葉山がその圧倒的なカリスマで部活連や女子生徒たちを掌握するのを皮切りに、あーしさんとサキサキによる非協力的生徒へのプレッシャー、取り成しに奔走する戸塚と大志、ステマ? いいえダイレクトマーケティングですと言わんばかりにSNSを駆使して宣伝工作を行う材木座、ちょっとメロンパン買ってきてくださいとパシられる俺と戸部。

 そんな混沌とした文化祭実行委員会の様子に始めこそオロオロしていた文実メンバーたちだったが、慣れとは恐ろしいもので、次第に順応した彼ら彼女らは異様な熱気とハイテンションで今や積極的に加担する始末。もはや俺たちを止められる奴は存在しない。……ちなみに文実担当の若手教師は葉山が五分で籠絡した。

 

 僅か二日という短期間で大幅に魔改造された全体プログラムを引っ提げて、規模縮小を提案する一部教師連中に対し、逆に規模拡大案を突き付けた一色たち文実メンバー。

 紛糾する職員会議。知ったことかとゴリ押しする文化祭実行委員共。最終的には生徒の自主性に委ねるべしという論法で全校生徒を集めた緊急総選挙が開催され、本来なら否決されて然るべきこの世にも奇妙な全体プログラムは圧倒的賛成多数でもって可決されたのだった。これが若気の至りである。

 

 それからは怒涛の日々だった。

 

 辣腕を振るい、極限まで作業の効率化を図る雪ノ下。

 純情な思春期男子高校生たちを笑顔ひとつで傀儡化して働かせる陽乃さん。

 一切の無駄を許さず、一円単位で予算を切り詰める大蔵大臣の由比ヶ浜。

 不平不満を漏らす女子生徒を腹黒スマイル一発で従順にさせる葉山。

 葉山に集って働かない女子生徒たちを不機嫌オーラだけで支配下に組み込む三浦。

 腐女子界のフィクサーの異名で暗躍する海老名さん。

 ただ只管に可愛い、癒し、尊い、天使な戸塚。

 宣伝ポスターのキャッチコピーでその中二センスを遺憾なく発揮して却下される材木座。

 雑用を一手に引き受けて(押し付けられて)涙目の戸部。

 問題(主な原因は俺たち)が発生する度にフォローに駆けずり回っては毎回貧乏クジを引かされる大志。

 そんな大志に母性本能が擽られてときめいちゃった女子たちを屋上に呼び出す川崎。

 しゃーんなろー! っと奇声……じゃない。気勢を張り上げて俺に仕事を押し付ける一色。

 東奔西走してトラブルを拾ってきては俺に丸投げする小町。

 

 ……最後の二人だけちょっとおかしいな。なんで俺の仕事増えちゃってるの?

 

「先輩、なにブツブツ言ってるんですか? 気持ち悪いですよ?」

「気持ち悪い言うな。もうちょいオブラートに包め」

「……お兄ちゃん。お気持ちが悪いのですことよ?」

「小町……。オブラートに包むってそういうことじゃないから。語調を丁寧にすればいいって訳じゃないのですことよ?」

「……そこの三人。無駄口を叩いている暇があるなら手を動かしなさい。仕事増やすわよ」

 

 そんなこんなで、過去に例を見ないほどにフリーダムとなった今年度の総武高校文化祭が幕を開けるのだった。

 

 

 

 *   *   *

 

 

 

「お前ら、文化してるかー!?」

「「「 うおおおおお! 」」」

 

 え、そのコール&レスポンスってお決まりなの? 伝統なの? という俺の疑問を置き去りにして始まった今年の文化祭。

 一言でいえばカオス、二言でいえば混沌とお祭り騒ぎ、三四が無くて、五里霧中。

 

 いや別に失敗してる訳じゃない。表面的に見れば文化祭自体はひどく順調だ。すんごい盛り上がってる。

 ただちょっと本来の計画って意味じゃ順調とは言えない。主な原因はノリと勢いだけでアドリブをブッこんでくる奴らの所為。

 

「……どうして姉さんのライブ衣装とは別に、私の分まで衣装が用意されているのかしら」

「そんなの、わたしが雪乃ちゃんと一緒に姉妹ユニットでステージに立つからに決まってるじゃーん! ほらほら、もうすぐ出番だからさっさと着替えた着替えたー!!」

 

 いつの間にか陽乃さんの単独ライブが雪ノ下姉妹によるユニゾンステージになってたりとか。

 

「……なあ、葉山。俺の気のせいか? なんか練習のときと台本の内容が微妙に違う気がするんだが」

「奇遇だな、比企谷。俺もそう思ってたところだ」

「……」

「……」

「ぐ腐腐腐……」

 

 何でもない筈の台詞が意図的に改変(意味深)されたことによって体育館が血の海に沈んだり。

 

「おい、もう一五分以上は同じ猫動画がリピート再生されてるぞ!? どうにかしろ、由比ヶ浜!」

「だ、ダメ! ゆきのんがプロジェクターに繋いだパソコンの前から動いてくれないの! ゆ、ゆきのーん。その猫動画がお気に入りなのは分かったから、後で家でゆっくり観よう? ね?」

「何を言っているの由比ヶ浜さん! こんな大画面で猫動画を視聴できる機会なんて滅多にないのだから、このチャンスを逃す手はないわ。あと十回は観るわよ!!」

 

 体育館の巨大スクリーンで上映された猫動画に興奮して暴走する雪ノ下などなど。

 もはやボケとツッコミとフォローが入り乱れる群雄割拠な戦国時代と化した全体プログラム。良いか悪いのか、誰かがアドリブに走っても即座にフォローできるだけのスペックを持った人材が多数揃っているという事実。まあ、問題を起こす奴も大抵がハイスペックな奴だったりするのだが……。とりあえず、幸いにも今のところは大事に至っていない。

 

「……カオスってますねぇ、先輩」

「カオスってるよねぇ、お兄ちゃん」

「呑気にお茶しばいてんじゃねぇよ、責任者コンビ」

 

 今もまたステージの空き時間に即興寸劇をやり出した陽乃さんと葉山と戸部の正門トリオ。

 うーん、由比ヶ浜が雪ノ下を引き摺って無理矢理乱入したな。あ、三浦と川崎も巻き込まれた。あと材木座と……戸塚も参加しただと!? 俺も! 俺も参加しなくちゃ!! こうしちゃいられねぇ、おいらも混ぜてくんなぁ! っとばかりに走り出そうとした俺の肩を一色と小町が同時に掴み、強制的にスィットダウンさせられる。ちなみに『シットダウン』だと別な意味になっちゃうので注意が必要だ。英語が苦手な子はよく調べてから発音しよう!

 

「先輩まで混ざったら誰がフォローするんですか! 今だって海老名先輩と大志くんだけで何とか調整して……」

「……あ、二人ともしれっと寸劇に混ざった」

「や、野郎! 俺だって戸塚と同じ舞台に立ちたいのを我慢してるのに……っ! 大志許すまじ!!」

 

 今なら勇者じゃなくてもカースシリーズを発動させられる自信がある。ラースシールドぶちかますぞ、ゴラァ!

 

「……なんなのこの先輩たち。フリーダムすぎてわたしの手に負えない」

「いや、いろはさんも大概だから。この中で常識人枠は小町だけだよ、もう。やれやれ……」

「「 それはねーわ 」」

「真顔でハモられたっ!?」

 

 その後、我慢の限界に達した俺たち三人も即興劇に乱入し、他の文実メンバーから仲良く全員お叱りを受けるのだった。

 

 

 

 *   *   *

 

 

 

 午前中から続いたドタバタもようやく一段落し、もはやお馴染みとなってしまった文実御用達の特別教室へと戻ってきた。

 束の間の休息とばかりに、しばしの間だらりんと寛いでいると、徐に一色が席を立つ。

 

「ふぅー……。さーて、それじゃわたしは部活関連の企画を見回ってきますねー」

「あー、行ってらー」

「行ってらっしゃいでーす」

 

 グテッとグダッと脱力しながら返事をする俺と小町に何を思ったのか、なんとなく顔を顰めた一色がチョイチョイと俺を手招きする。

 

「どした一色? なんか厄介事?」

「いや、そういう訳じゃないんですけどねぇ」

「んじゃ何だよ?」

「うーん……。まあ、わたしとしては借りは返せるときに返す主義なので」

「はい?」

 

 なんのこっちゃかしらんとクエスチョンマークを頭上に生やす俺を尻目に、一人うんうん頷いて自己完結した一色が内緒話でもするように俺の耳元へ顔を寄せる。

 ら、らめぇ……お耳は弱いのぉぉぉ! ……うん、これはキモイな。

 

「……先輩。小町ちゃんのこと、もうちょっと気にかけてあげてくださいね」

「いや、いつも超気にかけてるけど。小町に悪い虫が寄ってこないかとか。悪い大志が近づいてこないかとか。川崎大志がそばにいないかとか」

「……そういうことじゃなくてですね」

 

 真面目に答えたのに一色には何故か呆れられてしまった。解せぬ。

 

「いいですか、先輩。一度しか言わないので良く聞いてください」

「お、おうよ」

「わたしにとって去年の文化祭は、今年みたいな”高校最後の文化祭”とはまた別の、”特別な”文化祭になる筈だったんです」

「あ、ああ……」

「でもですね。それはわたしだけじゃない。小町ちゃんにとっても同じだった筈なんです。……何でか分かりますか?」

「小町にとっても……」

 

 一色から投げられた問い掛け。その答えを思案しようとして、けれどすぐに思い至った事実。

 脳裏を過るのは、あのとき生徒会室で言葉を交わした一色の姿。

 

「……あっ」

 

 ガツンと、頭を鈍器で殴られたような衝撃を受けた気分だった。どうして、こんな簡単なことに今まで気が付かなかったのか。

 ヒントはいくらでもあったはずなのに、気付く機会なんて何度もあったはずなのに、俺は妹のことを見てるようで、何も見てなんかいやしなかった。

 

 

「……先輩も気付いたようだから言っちゃいますけど。小町ちゃんにとっても、去年の文化祭は先輩との”最初で最後の文化祭”になる筈だったんですからね」

 

 

 ああ、そうだ。本来ならそうなる筈だったんだ。

 俺が逃げ出したことで傷ついた存在が、こんなにもすぐ近くにいたのに……。

 

「わたしと先輩が二人でいると、小町ちゃん不機嫌になりますよね? あれ、たぶん不安なんだと思います」

「不安……?」

「もし、また先輩が一年前みたいに塞ぎ込んじゃったらどうしようって……。そんなことにはならないって信じてても、でも万が一はあるかもしれないじゃないですか? だから、学校内でアピールされるってシチュエーションに怯えてるんだと思うんです。まあ、少しは嫉妬とかも含んでるかもしれませんけどね」

「……そう、か」

「でも、まーわたしは構わず荒療治のつもりでガンガンいっちゃいますけどね。そうでもしないと、先輩は一生前に進めなさそうですし」

 

 そう言って俺から距離を取ると、からかうようにペロリと小さく舌を出して一色はあざとく笑う。

 

「小町ちゃんはわたしにとっても可愛い後輩なんですからねー? 寂しい思いをさせたら怒りますよ?」

「……任せろ。生まれてこの方、小町には迷惑も心配もかけ続けてるけどな、寂しい思いだけは……去年ぐらいしかさせてないぜ」

「ダメじゃないですか、それ」

 

 半眼になってジト目を向けてくる一色から視線を逸らす。やっぱり駄目ですよね。反省してます。

 

「はあ……。仕方ない。んんっ! 文化祭実行委員長として、総武高校生徒会長として、そして何より小町ちゃんの頼れる先輩として、一色いろはが命じます! 先輩は小町ちゃんと一緒に各クラスの企画を見回りに行ってくること!!」

「なにそのギアスが刻まれちゃいそうな命令。でも、まあ……承知した」

 

 お互いにくすりと笑って、俺は今もだるるーんとどこぞのクマのぬいぐるみ並みにリラックスしている小町へ声を掛ける。

 

「おーい、小町! 文実委員長兼生徒会長兼小町の先輩兼俺の後輩様からの命令だ。クラス企画の見回りに行くぞー!」

「うぇー……、また仕事なのー? ……大丈夫。小町はお兄ちゃんと一心同体だから。だからお兄ちゃんが行けば小町も仕事した気分になれる。あ、いまの小町的にポイント高い!」

「八幡的にはマイナス査定だぞ、それ。ほら、グダグダ言ってないでさっさと行くぞー」

「んあーい!」

 

 とっとことーと小走りで駆け寄ってきた小町の手を取って、俺と小町は廊下に出る。

 

「んで、小町。どこ行く?」

「……お兄ちゃん。それ雪乃さんとか結衣さん相手にやったら小町ポイント大暴落だからね?」

 

 うわっ…、俺のデート力、低すぎ…?

 

「まーいいや。どうせお兄ちゃんだし。……んー、じゃあとりあえず三年生のフロアから回ってみる?」

「それな。それある。ぱないのぉ!」

「……」

「無言やめて」

 

 この人は他人ですと言わんばかりにスタスタと先を歩いて行ってしまう小町。しまった。言葉のチョイスを間違えた。

 とりあえず、お臍をぐりんと曲げてしまった妹を追いかけながら、俺はその背中へ声を掛ける。

 

「なあ、小町」

「……」

「文化祭の準備、どうだった?」

「……疲れた」

「そっか……。ならさ、去年と比べて楽しめはしたか?」

「……」

「……」

「……楽しかった」

「そうか。なら良かった」

 

 はじめは早歩きのペースだったのに、いまではもう普通に歩く速度になった小町に追いつき、俺も横に並んで歩く。

 

「……お兄ちゃん」

「おう」

「三年A組がスイーツ喫茶なんだって。お兄ちゃんのおごりだからね」

「任せろ、確か財布に六〇〇円は入ってた筈だ」

「なにそれ全然ダメじゃん」

 

 苦々しく笑う小町の横顔を見て、俺も思わず苦笑する。

 

「まあ、あれだ。……小町」

「なに?」

「楽しもうな、文化祭」

「……うん」

 

 このあと滅茶苦茶甘やかした。

 

 

 

 *   *   *

 

 

 

 あっという間の二日間。

 嵐のように騒がしい文化祭は終わりを告げた。

 

 後夜祭だなんだと言って、もうほとんどの生徒が帰宅してしまっているのだが、俺と一色と小町は簡単な事後作業だけを済ませて、今は生徒会室に残って気が抜けたように座り込んでいる。

 

「終わっちゃいました…ね、先輩」

「そう、だな……」

 

 俺の右隣りに座っている一色が、どこかほうっとして呆けたように呟いた。無理もないと思う。この二日間……いや、文実が動き出したときからずっと、彼女は気を張り続けてきたのだから。

 

「成功…でいいのかなぁ、お兄ちゃん?」

「ああ、問題なく…とは言い難いかもしれんが、最後の最後まで盛り上がった文化祭だったのは間違いない。そう言う意味では、大成功だろうよ」

 

 俺の左隣りに座る小町も一色と同じようにぼんやりと黄昏ていたが、ふと思い出したように文化祭の成否を聞いてくる。

 そんな小町の頭をそっと撫でてやりながら、俺は成功だったと断言してやる。いや、素直にそう思う。何かとトラブルは多かったけれど、それでも最後まで笑顔が絶えない、そんな文化祭だった。

 

「雪ノ下も、由比ヶ浜も、あの雪ノ下さんでさえ手放しで称賛したんだ。誇っていいと思うぞ」

 

 どこか悔しそうに、けれど嬉しそうに一色の手腕を褒めた雪ノ下。

 心の底から満足そうに、楽しそうに笑って小町を抱き締めた由比ヶ浜。

 そんな彼女たちを見守りながら、微笑ましそうに柔らかい笑みを浮かべた陽乃さん。

 

「……俺も掛け値なしに良い文化祭だったと思う。文句のつけようもない、素晴らしい文化祭だった」

 

 本音だったと思う。特に何か考えるまでもなくスラスラと口をついて出てきた言葉だった。

 

「……先輩がデレた」

「……お兄ちゃんがデレた」

 

 両サイドから同時にキョトンとした顔を向けられる。うっせぇ、ほっとけ。はっず……。

 

「先輩」

「お兄ちゃん」

 

 ゆっくりと、俺に寄り掛かるようにして両肩へと頭を乗せた一色と小町。

 その肩の重みは、不思議と苦にはならなかった。

 

「お疲れさま」

「ご苦労さま」

 

 ふわりと優しく、小さく囁くような二人からの労いの言葉。

 ああ……、これはちょっとダメかもしれない。最近あれだ。歳だから涙腺が緩くなったんだよ。きっとそう。

 

 

「……ありがとう」

 

 こんな俺を、ずっと待っててくれて──

 

「……本当に、ありがとう」

 

 こんな俺に、ずっと寄り添ってくれて──

 

 

 止め処なく溢れ出しそうになる涙を懸命に堪えながら、二人へ感謝の言葉を紡いだ。

 

「先輩ですからねぇ……。まったくもーですよ。まったくもー」

「お兄ちゃんだもんねぇ……。まったくもーだよ。まったくもー」

 

 そんな呆れたような二人の言葉が、何だかひどくこそばゆい。

 

「先輩なら、きっと大丈夫です。でも……」

「お兄ちゃんなら、きっと大丈夫。でもさ……」

 

 それは、とても穏やかな時間だった。

 もう随分と昔のように思えてならない。あのとき失くしてしまった大切な居場所。

 窓の外から僅かに聞こえる喧騒を聞き流しながら、俺たち三人だけの空間は、夕日に照らされて橙色に染まった。

 

「今はまだ……」

「もう少しだけ、このままがいいなぁ」

 

 少しだけ、ここで休もう。この心安らぐ場所で。

 

「……おやすみ」

「おやすみなさーい」

「おやすみー」

 

 眠るように、俺はゆっくりと瞳を閉じた。

 微かに聴こえる小さな寝息は、どちらのものだろう。少しだけ悩んだけれど、それもすぐに気にならなくなる。溶けるように薄れてゆく意識を手放して、俺は微睡の中へと旅立った。

 両肩と、両掌から伝わる温もりと一緒に……。

 

 

 

 これは、そんな俺と一色と小町のある日の物語。

 


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