タイガーマイヤー戦記・第一部 ――ネメシスの動輪―― 作:茅葺
銀狼・1
酸の雨が降る。
人類がその短い歴史の間に燃やしつづけた化石燃料、その燃焼ガス中に含まれた硫黄分が、空気中の水分と反応してごく薄められた硫酸と化して降り注ぐ。
土壌を、戦車の装甲を、そして人の心を蝕んで溶かしていく――
「参ったな、本降りになりそうだぞ」
グレッグは耳の後ろを掻いた。
南に広大な砂漠を抱えたこの地方でも、北のはずれに近いこの辺りでは年に二回、ごく短い雨季がやってくる。
間近に迫る雨期をやり過ごすために、グレッグは次に訪れる街でしばらく逗留するつもりだった。だが今年は少し雨季の訪れが早く、街道沿いにファブニールを走らせている最中に、気づけば空はすっかり灰色の雲で覆われていた。
雨季に車で荒野を走り回るハンターなど、普通はいない。酸性雨はハンター達が使う車の装甲をひどく侵してしまうし、車種によっては車体上面に設けられているラジエーターの吸気孔から、エンジン内部にまで入り込んで腐食を起こすのだ。
もちろん、物資輸送のために走りまわるトレーダーや、グレッグの旧友アンディーのような運び屋はそんな事を言ってもいられない。だから彼らの車には大抵、耐酸性を考慮した塗装と防水処置が施されている。
ファブニールはそうではなかった。
グレッグが堀り出したとき、この巨大な重戦車は熱い砂の底で焼けついたようになっていて、元の塗装など辛うじてどんな色か見分けられる程度だったし、エンジンから内部の電気系統の配線までそっくり交換しなければ使用に耐えない状態だった。今に到るまで、とても防水処置や耐酸塗装までは手が廻らないままだ。
幸運なことに、旅の途中で知り合ったメカニックが操縦にも優れているおかげで、戦闘時には殆ど任せっきりにできる。それを良いことに自動操縦装置の導入を後回しにして、次は酸性雨対策をと思っていた矢先だった。
目下そのメカニック――アリサは砲塔に上がっていた。
「アリサ」
返事がない。どうやら砲手用の堅い座席の上で、けたたましいエンジン音をものともせずに寝ているらしい。まだ年齢をはっきり訊いてはいないが、見た限りは十五歳か十六歳くらいの少女。寝ると決めたらいくらでも寝ていられる年頃だ。
だが、そろそろ起きてもらった方がよさそうだ。
「アリサ。起きてくれ、雨だ」
「ふぁ?」
「雨が降ってきた。ファブニールを格納できる場所を探さなきゃならん。周りを監視してくれ――ハッチは開けずに、キューポラの
「了解。水入っちゃまずいよね」
グレッグも砲塔上の旋回式ペリスコープからの映像をモニターで睨む。二人でやれば、具合のいい物陰が見つかるのも少しは早くなるだろう。
アリサはやたらと眼がいい。始めて出会ったときなど、ファブニールと砲火を交えていた
どういう育ち方をしたのか未だに謎なのだが、その後も彼女には驚かされてばかりだった。
遠くの町で開業している医者の母親とも別れて、ハンターなどという物騒な稼業に明け暮れる中年男に、よくもまあついて来て呉れているものだ。彼女ほどの操縦技術があれば、充分に一人でハンターとして稼げるほどなのだが。
「グレッグ。三時の方向、距離八百位の所に建物の残骸がある。農家みたいな感じ」
ちょうど、グレッグも同じ建物の影をモニター上に認めた所だった。
「相変わらず目が早いな、こっちも見つけた。この辺で見当たる避難場所は、あれくらいのようだな」
「先客がいないといいけど」
「ああ。ともあれ接近するぞ、警戒を怠るな」
ほぼ九十度転針したファブニールの前方に、やがてコンクリートと木材でつくられた小ぢんまりとした建物が見えてきた。確かに農家のようだ。
壊れたシャッターの奥に、埃っぽそうな暗がりを抱えたガレージが見える。いつ頃放棄されたものなのか、ガレージの前には古いバイクが半壊したままになっている。錆び具合を見る限り、かなりの年月を経ているようでもあった。
ファブニールがガレージのシャッターを荒々しく突き抜けて中に入るのと、本降りになった雨が辺りのガラクタを叩きつけて轟音を響かせ始めたのはほぼ同時だった。
ハッチを開けると、埃と水の混ざり合った独特の匂いが、あたりに漂い始めていた。
「ちょっとガタガタするぞ。足元に気をつけろよ」
ガレージの床は風化した廃材や壊れたオイル缶等が散乱していて不安定だった。手を貸そうかとも思ったグレッグだったが、アリサはファブニールの傾斜した前面装甲を上手に使ってすべり降りてきた。
車内から持ってきた小型の灯油ランプに火をともすと、黄色い光の輪が広がって辺りの壁を照らし出す。
外の雨は当分、止みそうにも無い。 この雨の中を無理に走らせれば、次の町につく前にファブニールは立ち往生する。それは二人にとって緩慢な死を意味した。
「母屋を調べて役に立つ物があるかどうか探そう。最悪、雨季の終わりまで二週間はここに閉じ込められる事もありうる。」
「ツイてないわね」
「保存された食料や、水があると助かるんだがな……」
「見つからなかったら?」
出来ればそんな事は考えずに済ませたいものだが。
「近くで通信機をONにして走ってる、ハンターかトレーダーが居てくれる事を祈るしかないな」
それで誰も居なければ?
グレッグは自問した。己の迂闊さと不運を嘆き恨むしか無いようなこんな時、
シルバー。グレッグをかつて地獄から拾い上げてくれた男。人として、そしてハンターとして、生きるのに必要なほとんど全てを叩き込んでくれた。
名も顔も知らない実父以上に鮮明に、記憶の底から蘇るもう一人の「父」だった。
母屋の奥には、おそらく病死したと思われるかつての主の、白骨化した死体があった。家屋の大きさや部屋数から考えて、この家には複数の人間が生活していたはずだが、他の住人はいったいどうしたものか?
ベッドの下には口の開いた空のポリタンクと、ネズミに食い荒らされた保存食の包みが幾つか散乱している。
伝染性の何かの病気だったのかもしれない、とグレッグは思った。感染を恐れたのか、助かりそうも無い主に見切りをつけたのか、とにかく家族の何人かがこの人物を残して家を出たのに違いない。大破壊以来今日まで、そうしたことは別段に珍しい事でも、取りたてて残酷な仕打ちでもないのだから。
推論を裏付けるかのように、台所らしき場所の地下からは手付かずの水タンクが三個と、数日分の缶入り糧食とが見つかった。これでなんとか、雨季の終わりか、救助を頼める相手が訪れるまで持ちこたえられるだろうか?
「退屈ね」
アリサがポツリと言った。必要品を廃屋から調達し、通信機に救難信号をセットして、二人はファブニールの車内でそれぞれ寝袋にくるまっていた。
「眠っておいた方がいいぞ」
救助を待つ間は体力勝負だ。
「昼間砲手座で寝すぎたわ。全然眠れない」
何か話してよ、とアリサがせがんだ。
「考えてみたらグレッグの事、何も知らない」
グレッグは少し困惑した。
「……何を話したものかな」
「奥さんや子供の話とか、訊いちゃだめ?」
「そいつはまだ、生々しすぎる」
語尾が少し怒気を帯びた。その怒りはアリサに向けられた物ではなかったが。
「……ごめんなさい」
グレッグはふう、と長く吐息をついた。
「君が気にする必要はない。そうだな、眠れるように思いっきりつまらない話をしてやろうか……ええと、あれは俺とアンディーが昔、ペトラで石油施設の警備当番に入ったとき――」
「やだ。そんなんじゃなくて、グレッグの事を話して。子供の頃の事とかさ」
「……」
グレッグは言葉を詰まらせた。そんな話こそ、ジェインにだってしたことはないのだが。そういえばさっき、久しぶりにシルバーのことを思い出したのは偶然だろうか?
「……いいだろう」
時をさかのぼる魔法の儀式でも始めたかのように、グレッグの声が低く遠くなった。
「昔、俺がハンターでも何でもないただのガキだった頃――二十年前の事だ。その頃、俺はあのパインブリッジの町にいた……」
* * * * * * *
掘削機のバケットが新たな土砂をすくい上げ、それがコンベアーで運ばれて作業場にあけられた。
赤錆の塊のようになった鉄筋の切れ端や針金が、コンクリートの破片に混ざっているのが見える。次々に運び込まれる土砂がもうもうと土煙を上げ、搬入口の辺りはまるで火事場のようだった。
この町の地下には、かつてこの地を襲った地殻変動で地中深く埋没した、昔のコンピューター工場がある。
その遺構から発掘される土砂の中にはまだ大量の
広さ五十平方メートルほどのこの作業場では、常時だいたい二十人程度の人間が、土砂の中からそれらの部品を回収する作業に従事していた。こうした条件の整った場所ではそれほど珍しい風景ではない。
ただし。
作業員の殆どが未成年、それも下は十歳未満からで、短機関銃を構えた監視員が背後のフェンスの外で鋭い目を光らせているとなれば話は別だ。
「待て、ジョッシュ」
グレッグは、目の前を走りすぎようとした年下の少年の襟を掴んで引き止めた。
「何すんだよ!」
「土の毒を吸いたくなけりゃ、コンベアの吐き出し口には近づくな。水肺になって早死にしたかぁねえだろ」
「み、水肺……」
ジョッシュの顔色が少し青ざめた。
掘り出された土砂には大破壊のころに工場や「カクバクダン」から出た様々な毒がまだ高濃度で含まれていて、吸い込むと次第に肺や呼吸器のソシキをフクゴウ的に冒していくのだ。
症状の進んだ患者の肺にはネバネバした漿液がたまって呼吸ができなくなるので、鉱奴たちは「水肺」と呼んで恐れていた。
グレッグがこの作業場に入るようになったころ、古参の鉱奴の一人が教えてくれたことだ。ジョッシュも誰かから聞かされているようだった。
ジョッシュは
七歳かそこらになったばかりの子供だ、搬入口の近くで新しいチップを効率よく集めたいと思ったからといって、その浅はかさを責めるわけにもいかない。
「軍手は二枚重ねにしろ、タオルは俺の新品を貸してやる。稼いだら返してくれりゃいい」
「あ、ありがと」
「……とにかく自分の体を守ることには気を使え。おれ達鉱奴は、病気になっちまったらそれで終わりなんだからな」
グレッグはかつて古参の鉱奴が教えてくれたように、ジョッシュに言い聞かせた。
「わかった。グレッグも気をつけてね」
ジョッシュは新品のタオルを口の周りに巻くと、搬入口から少し離れたところで、軍手をはめた手で柔らかい土砂をかき分け始めた。
「……ずいぶんお優しいじゃねえか、グレッグ」
鉱奴のひとりが声をかけてきた。
「……見てたのかよ」
「ああ」
カイルという名前のその鉱奴は、ニヤついた視線をグレッグに向けながらからかうように答えた。
グレッグはため息をつきながら言葉を継いだ。
「俺がここに来たのもあのくらいの年だった。そんな子が何も知らずに働いて、体を壊して死んでくのは見たくねえよ」
「ケッ。全くおめえは甘チャンだぜ。ま、そこがいいトコなんだがな」
このカイルもまた変わり者だった。もう三十歳近く、とっくにもっと稼ぎの良い、但し熟練の要る仕事に移らされるのが普通なのだが、この男はいつまでもここにいる。物言いは口汚いが不思議に親切な男だ。
噂では何度か逃亡を企てたせいで、採掘現場を広げる屋外の作業からこの最も初心者向けの作業場に戻されたという話だった。
「俺は明日から屋外へまわされるんだ、あんたにも随分世話になったな」
グレッグは視線をそらしながら言った。
「ン? するってえと、おめえ、十五になったのか」
「ああ、今夜から新しい宿舎で寝る。成人扱い、キツくなる分稼ぎは増えるさ」
「そうか……ああ、じゃあまだ『
「巣守り?」
そういえば、夕方宿舎への帰り道などに、年かさの鉱奴たちがそんな言葉を口にしているのを聞いた事はあったような気がする。
だがそれが何の事なのかは知らない。知らされてもいない。
「十五になった男にはみんな、巣守りがあてがわれるのさ。フェルナンデスの方針でな」
「あてがわれる……何だい、そりゃあ?」
その動詞の意味が分からなかったのだが、カイルは別の意味にとったらしかった。
「
ま、せいぜい今夜は楽しみにしてるんだな――そう言ってカイルは、自分の持ち場と見定めた場所で土をかき分け始めた。
何処に隠し持っていた物か、恐らくは元は土砂の中に電子部品と一緒に埋まっていた物だろう、自分の肘から先ほどの長さの鉄片を、スコップ代わりに使っている。グレッグはその様子を盗み見てうなずいた。
(あれはいいな……うん、手を怪我しないで済みそうだ。もっと早く気づけば良かった)
グレッグの頭の中で「手頃な鉄片」が覚えておくことのリストに加わった。無論、作業場の周りで見張っている監視員に見つからないようにする必要はある。
ああいうものを持っていて見とがめられれば、「凶器所持」の罪で三日は営倉行きだ。その間は稼げない――つまり、食えない。
周りの年長の者がやる事を、見よう見真似で盗んでこの年までやってきた。いつも思うことだが、年上の奴らは実にいろんな事を知っているものだ。
(オンナって、何だろ?)
これも、グレッグがこれまで知らなかったことだった。畜生、フェルナンデスめ。グレッグはこの町を支配する男の名を呟いて、呪った。
(俺はいったいここで、世の中の事をどれだけ知らないままにさせられてるんだ?)
――それがほとんど絶望的なほどの盲目状態であることすら、グレッグは知らない。