嗚呼……
朽ちて往く……
何も成し得ず、何も得る事も叶わなかった。
鬼となり幾百もの時を生き、かつての仲間を斬ってきた。
家を捨て妻子を捨て人も捨て、何も残せなかった私が唯一残せていた子孫をも切り捨て、侍であることすら捨てたというのに。
何故だ、何故なのだ。
何故極められなかったのだ。
ここまで全てを投げ打って何故、お前と同じ世界に至れなかったのだ。
お前の見る景色を一瞥すら出来なかったのだ。
私は一体何の為に生まれてきたのだ。
教えてくれ──縁壱
何も残せず消えて逝く。
我が身は塵となり、微風に巻かれ何処へ消え去る。
理から外れし者に相応しい末路。
「兄上……」
夢か幻か、消え去った筈の私の前には蛇蝎の如く忌み嫌った弟の姿があった。
四百年前に見た老いさらばえた姿ではなく、我が眼に、魂にまで妬き付いている若き頃の縁壱であった。
もはや朧気にすら覚えておらぬ両親や妻子、その中で唯一鮮明に記憶している忘れたくとも消えぬ顔。
見紛う筈もなく、私の六つの眼が捉えていた。
この期に及び、私を兄と呼ぶ縁壱の顔からは何も読み取れない。
私にはお前が分からない。
なんなのだその顔は、なんなのだその声は。
何故あの時お前は私を憐れんだのだ。
何故お前はそのように平然としていられるのだ。
何故、何故!
「何故お前は! 私の前に姿を現すのだ!」
お前の顔を見るだけで吐き気がする。
お前の声を聞くだけで腹が立ち顳顬が軋み上げる。
お前の存在を感じるだけで臓腑が焦げ付く思いをする。
お前がいるから、私がこのような惨めな思いを抱くのだ。
私は生前、小さな矜持を守るために終ぞ吐き出す事のなかった思いを叫んでいた。
お前に追い付けぬ劣等感。
幾ら研鑽を積もうとも縮まぬ力量差が生む絶望感。
周りの痣者が死に、明日は我が身と寿命が近付く焦燥感。
自ら理を外れ鬼となった背徳感。
それでも尚お前の言う極めし者が辿り着くという領域に至れぬ無力感。
「兄上」
長年溜め込んだ憎悪をぶつけても顔色一つ変えぬ縁壱。
剰え微かに喜色を孕んだ声で私を呼ぶ。
恨み、妬み、誹り、在らん限りの怨嗟を吐いた私を前に何故平然としていられるのだ。
そんなお前が何故私に構う。気味が悪い。
「兄上だけだったのです」
何が私だけだったのだ。
お前には、教えを請い慕う者も、お前を頼りにする者も、お前に救われ感謝する者も、何もかもいた筈だ。
「兄上だけが、私を人として見ていてくれていたのです」
だから感謝しているのです、と。
私の後ろ暗い思いを察していても、直にその思いをぶつけられたとしても、嬉しいのだと。
「幼き頃、兄上より笛を頂きました」
「だから、どうしたというのだ。あのような外れた音しか鳴らぬがらくたが」
忌み子と言われ僅か三畳の部屋に押し込められた縁壱を可哀想に思い気紛れにやった拙い笛。
後生大事に、数十年もの間死ぬまで持ち歩いてた玩具のような笛が。
「母上は身罷られ、家を出て兄上と再会するまでに色々な事がございました」
野犬に襲われ血を流し、雨に打たれ寒さを震え、泥水を啜り飢えを誤魔化した事もあると。
鬼と言う御伽噺のような化生を知り、またそれを討つ鬼狩りを知った。
自らも鬼狩りの一員となり、そしてあの日兄上と再会したと。
聞けば聞く程分からぬ縁壱の意図に、懐かしさを覚えさせながらも私を苛立たせる。
無意識の内に眉間を顰ませ、歯を軋ませる。
だからどうしたというのだ。その旅路にがらくたの笛が何の役に立ったというのだ。
「兄上から頂いた笛の音が、私を人に引き戻してくれたのです」
数え切れぬ程の鬼を斬りました。
多くの人を救いました。
このような私にも仲間が出来ました。
なれど、鬼の断末魔も、人の感謝も、仲間の称賛も、私にはどこか遠くから聞こえてくる声だったのです。
地に足こそ着けど、空からもう一人の私が眺めているようだと、縁壱は語った。
「そうしてあらゆるものが遠く感じた時、私は懐の笛を握り締めていました」
──いただいたこの笛を兄上だと思い
──どれだけ離れていても挫けず、日々精進致します
嗚呼覚えているとも、私はがらくたを大切そうに扱い笑うお前を理解できず、気味が悪くなり口を噤んだのだから。
「この笛の外れた音色が、浮き上がりそうな我が身を大地に引き戻すのです」
気付けば、縁壱の手にはあの頃のままの笛が握られていた。
「やめろ」
「兄上のお陰です」
「私はお前が嫌いだ」
「存じております」
「私はお前が理解できぬ」
「それでも、兄上は傍にいてくださいました」
「私は………!」
「よいのです」
縁壱は私の声を遮るようにし、一拍間を空けてからまた口を開いた。
「何を思っていても、私は兄上に救われていたのです」
──私にとっての一番は、兄上だったのです。
思いがけず告げられた言葉は、私の憤怒を呼び起こすには十分なものだった。
私に感謝していただと? 私に救われていただと?
私はお前を思う度にあんなにも惨めな思いをしていたというのに。
分からぬ、何もかもが分からぬ。
今更──
「今更そのような事を言って、私はどうすればいいのだ!」
ともすれば吐息が掛かる程に縁壱に近付き、顔を寄せる。
「見ろ! この眼を! この醜い姿を!」
私の姿は、縁壱がお労しいと宣った時よりも更に悍ましく、醜い死の間際に至った姿になっていた。
刀は侍の魂とも云われるのを嘲笑うかのように体中から生やす滑稽さ。
見るだけで嫌悪感を抱かせるような蟲の如き相貌を。
このような姿になっても負けを認めぬ浅ましさを。
生き恥を晒し続けた私を見ても尚、一番と言えるのか縁壱。
「兄上……」
泣いていた、かつてのように。
まただ。何故泣く縁壱。
それほどまでに悍ましいか、憐れに見えるか。
「違うのです」
何が違う。
お前が涙を流した事など、あの時以外に見た事もない。
血を流す事も、涙も流す事も無く、神の寵愛を受け浮世離れした存在だったのだ。
「兄上が私の前から消え、鬼となり再び相見えるまで永い時がありました」
「そうだ、お前は生き続けていた。お前だけが特別だったのだ。だから私は──」
──鬼となったのだ。
「私が、私のせいで兄上を鬼にしてしまったのです」
その事に気付くのに、随分と時間を掛けてしまいましたと言う。
私は分かっていなかったのです。
兄上が後継がいないと話をした時も、それまでも。
「私の存在が、兄上を歪めてしまっていたのです」
思い返せば、幼き頃から私は兄上に甘えてしまっていたのです。
忌み子と言われた私を気に掛けてくださった。
家を捨て妻子を捨て鬼狩りとなった時も、事もあろうに私は嬉しかったのです。
兄上は、国一番の侍になるべきお方だったのです。
降って湧いてただ与えられた私の剣の腕よりも、心身を鍛え磨き上げた兄上の剣の方が余程価値がある。
それを、ただ強いだけの私の剣のせいで、歪めてしまった。
「私に剣の才など無ければ、いや私など」
やめろ、私はその先に続くであろう縁壱の言葉を聞きたくなかった。
──頼むから死んでくれ。
──お前のような者は生まれてさえ来ないでくれ。
数え切れる程のない位、呪詛のようにその言葉を吐いた。
お前が存在しているだけでこの世の理が狂うのだと。
何百何千、何万回と心の裡で繰り返した。
殺してやりたいとさえ思った。
「生まれて来なければ良かったの──」
「違う!」
なのに、縁壱からその言葉を言わせてはならないと思った。
喉が引き裂かれんばかりに叫び上げた。
何故あの時、事切れた縁壱を斬った時に私は涙を流していたのか。
あれ程死んでくれと怨嗟を募り、殺してやりたいと希ったにも関わらず、笛を大事そうに抱える幼き頃の縁壱の姿が脳裏に過ったのか。
「兄、うえ?」
「違う! 違うのだ!」
死んで欲しかった筈だ。
殺したいと願った筈だ。
惨めだった筈だ。
憎かった筈だ。
それでも死の間際、私は最期に認めてしまった。
「俺は、ただ───縁壱、お前になりたかったのだ」
声に出してしまえば、もはや抑えることも、堪えることも出来はしなかった。
「あにうえ……」
間の抜けた縁壱の声が嫌に耳に響いた。
「私こそ、私こそ兄上のような侍に、なりたかったのです」
信じられぬ、縁壱の言葉が耳に入った瞬間私は涙で濡れた頬を晒す事も厭わずに顔を上げていた。
「かつて、炎柱と話した事を今でも覚えております」
どうすればお前のように強くなれるのだと、問われました。
私は昔兄上に答えた通りの返事をしました。
生き物の体が透けて見えると、そして見えた動きに応じた行動を取ればいい、と。
その話をして幾日か経った頃、炎柱は鬼狩りを引退しました。
あの、人ならざる者を見る眼を忘れた日はありません。
釣られて幼き頃、父の輩下が私を見る眼と同じであったと気付きました。
多かれ少なかれ、私を見る皆が同じような眼をしている事にも気付いてしまった。
それから、私が
「兄上だけが、ありのままの私を見てくれていたのです」
昔から変わらずで、だからこそ私は兄上に続き、国で二番目の侍になりたいと思ったのです。
今でも、その思いは変わらないのです。私の一番は兄上なのです。
「縁壱……」
「はい」
「私は、何も成せなかった」
「そのような事はございません」
「今でも、お前に負けたくないと思うのだ」
「兄上は、国一番の侍です」
「私は、何の為に生まれてきたのだ……縁壱、教えてくれ」
「分かりませぬ、けれど」
────私は兄上が兄であった事を誇りに思います。
「そうか……私はお前の、兄で在れたのか」
ぴゅー、と音の外れた、ともすれば間抜けに聞こえる音色が聞こえた。
縁壱が、あのがらくたの笛を吹いていた。
「道を極めた者が辿り着く場所は同じだと、言いました」
「だが、私はお前のように辿り着けなかった」
「けれども、繋がっているのです」
──全ての道は、繋がっているのです。
「兄上は、少し回り道をしてしまっただけなのです」
私が、随分と回り道をさせてしまったのです。
「だから、今度は共に歩きましょう。兄上が辿り着くまでいつまでも」
兄上が傍にいてくれたように、今度は私が兄上の傍にいます。
大丈夫、きっと辿り着けます。
──だって兄上は、国一番の侍なのですから。
嗚呼、縁壱。
お前はそのような顔で笑うのだな。
今はもうかつてのような気味の悪さは感じられぬ。
縁壱の笑顔は陽だまりのような温かさがあった。
──縁壱、知っているか。
月が輝いているのは太陽の光を照らし返しているからだそうだぞ。
──そうなのですか?
そのような事は初めて耳にいれました。
かつて分かり合う事を諦めた縁壱と、他愛のない事を話して歩く。
縁壱と、夢の道を肩を並べて歩み始めたのだ。