◆◆◆◆◆
ぺレジアに広がる広大な砂漠のその中心地。
そこに、『竜の祭壇』と呼ばれる巨大な神殿は在った。
生きとし生ける者を拒絶し排斥するかの様なその場所に、ルフレは囚われているのだろう……。
ルキナが神竜の力の系譜の末席に連なる者であるからなのか、『竜の祭壇』からは並々ならぬ悍ましい力が溢れ出ている様にすら感じてしまう。それは父やチキも同じである様であった。
今尚邪竜の力が色濃く残されていると言うその神殿は、『影』……いや『ルフレ』と言う主が帰還したからなのか、より一層その力を高めている様にすら感じてしまう。
……未だ巨大な【竜】の姿は現れない所を見るに、邪竜ギムレーは復活はしていないのだろうけれども……。
しかし、ルフレが無事であると言う保証がある訳ではない。
『影』に屈していない事を願うが……。あの『影』はあの手この手でルフレの心を折ろうと画策しているだろう。
……あれからもう一か月半が過ぎてしまった。
今のルフレがどう言う状態であるのかは、誰も分からない。
だが、それでもここで躊躇う訳にはいかないのだ。
フェリアの港に着くなりクロムがイーリスに早馬を飛ばして戦いの準備を整えてくれていたお陰で、最短の日数で十分な装備で『竜の祭壇』に向かう事が出来た。
無暗にぺレジアを刺激して戦争を起こす訳にはいかないので、ルフレを救出し邪竜ギムレーの復活を阻止する為の戦いであっても率いる事が出来る部隊は極少数の者だけであったけれども、イーリスの精鋭中の精鋭を搔き集めた部隊は、寡兵であれどもまさに一騎当千の実力を持つ。
が、相対するのは千年以上にも渡りぺレジアの闇の中でその力を蓄え続けてきたギムレー教団の信徒たちだ。
優れた呪術師や教団兵を多く抱えているその教団の中枢に殴り込みを掛けるのだから、そう言った者達との激突は必至だ。
それに……ギムレーとしての【力】を振るう『影』が居る以上、油断など出来る筈は無い。
ルキナ達には【神竜族】としての力を持つチキの助力と、そして竜殺しの力を持つ神竜の牙ファルシオンがあるけれども。
チキは人々の世に寄り添い生きる為にその力の多くを封じてしまっているし、ファルシオンからは真の力が喪われて久しい。
ファルシオンに力を蘇らせる為に『覚醒の儀』を行おうにも、『炎の紋章』はこの手には無く。
何処かへ散逸した四つの宝玉と『炎の台座』を探し出している時間的な余裕も無く、ファルシオンは力を喪ったままである。
しかし臆する訳にはいかない。
邪竜ギムレーの復活に一刻の猶予も無いかもしれないのだ。
今この瞬間にも、僅かに躊躇ったその一瞬の内にでも、ルフレが、ルフレではなくなってしまうかもしれないのだ。
ならばこそ、ルキナは行かねばならない。
愛しい人の為に、出来る事を成す為に。
ルフレの手を取り、共に生きる為に。
『愛している』と、伝える為に。
その為に、ルキナは今此処に居るのだから。
ルキナは剣帯に吊るした剣を撫でた。
あの時とは違い今の自分には武器がある。
だが、これで何処まで『影』に対抗出来るのかは未知数だ。
……しかしそれでも、ルキナは恐れない。
ルフレを取り戻せる可能性を、疑わない。
そして、砂の大地を蹴り上げる様にして。
ルキナ達は『竜の祭壇』へと突撃した。
『竜の祭壇』の内部は防衛の為にか複雑な構造をしている様で、中々その奥には辿り着けない様にその中は入り組んでいる。
そして当然の様にギムレー教団の者達が中で待ち構えていた。
予めルキナ達が攻め込んでくる事が分かっていたかの様に、教団兵達の準備は万全で、誰もが完全武装して襲ってくる。
死をも厭わず突撃してくる教団員達は、ルキナ達にとって異質な存在であった。全員が全員、狂った目でギムレーを讃えながら己の命を投げ捨てる様な特攻を繰り返してくる。
狂信者と言うモノであるのだろうけれども、自らの命を何も顧みない彼らは非常に厄介な敵であった。
痛みを薬か呪術などで消しているらしく、致命傷を負おうが手足を斬られようが、構わず襲ってくるし武器を握る手を喪ったならその口で獣の様に噛み付いて足止めしようとしてくる。
教団兵達には地の利があるが故に、あらゆる場所に潜み奇襲をかけてくる。精強なるイーリスの兵達はそれに応戦する為に、また一人また一人と兵達が足止めされていった。
少しずつ戦力が分断されていく状況の不味さに歯噛みしながらもルキナ達は前に進み続けていく。
奥へ奥へと誘い込まれている様な気もするが、かといってここで足を止めても挟撃されて数の差に圧し潰されるだけだ。
無人の広間の様な場所に辿り着いた時には、ルキナの他にはクロムとチキしか傍には居なかった。
教団兵達の雪崩は取り敢えず抜け出せただろうかと、ルキナ達が一旦立ち止まって息を整えていると。
靴音を高く鳴らして何者かが広間の奥から現れた。
「これはこれは……忌々しき神竜に与する者達が何用かな?
我等が神の復活を祝しに来たのか、或いは自ら生贄に志願しに来たのか……。まあ良い……。
もう間も無く、我等が神はその真なる権能を取り戻し、再び伝説の威容を以て蘇る……。
貴様ら神竜の者達には、等しく滅びが齎されるであろう……」
それは全く見知らぬ男であった。
部屋が全体的に薄暗いからなのか、血色の悪さが際立つ肌。
彫りの深さ以上に目付きが鋭過ぎる、凶相とも言える顔立ち。
教団の中でも高い地位にあるのか、その身に纏う装束やその装飾品は、他の者達とは一線を画する程に上質な物で。
年の頃は詳しくは分からぬが、クロムよりも上だろう。
そんな表層的な情報しか分からぬ男であった。
「お前は誰だ? 悪いが、ここは通してもらうぞ」
一歩前に出たクロムのその言葉に、男はそれを阻む様に動く。
そして、大仰な程に芝居がかった口振りで名乗った。
「おお……私とした事が、まだ名乗ってはいなかったな。
私はファウダー。この教団の最高司祭を務める者。
我が神の忠実なる下僕、死をも超越した使徒である。
そして、聖王よ。貴様はこの先へ通す訳にはいかぬなぁ。
我が神の復活を邪魔立てはさせぬ」
男が懐から取り出した魔導書が妖しい紅紫の光を放つ。
ルキナでも肌で感じられる程に魔導書に集まっているその力から、ファウダーと名乗ったこの男は相当高位の魔道と呪術の使い手である事に間違いは無い。
すると、クロムとチキがファウダーと相対する様に前に出る。
「ルキナ、ここは俺たちに任せてお前は先に行け!」
二人は促す様にルキナを見詰め、ルキナはそれに頷いた。
「分かりました、お父様、チキ様! ここはお願いします!」
ファウダーの隙を突く様にしてその横をすり抜け、ルキナは更に奥へと駆けて行く。
ファウダーはそれを咎めるでも無く、寧ろ愉悦に満ちた表情で見送っていたのだが、振り返る事も無く駆けて行ったルキナがそれを知る術はない。
だが、クロムは当然それを咎めた。
「その顔……何を企んでいる」
「なに……これで我等が神の復活は確定したと思うとな。
貴様の娘が、我等が神の復活の最後の鍵となるのだ。
……自らが、最後の一押しをしてしまったと悟った時の、あの娘の顔を……想像するだけで愉快になると言うもの……。
その絶望も等しく我等が神の糧になると思えば……、貴様らは素晴らしい供物を我等が神の御前に態々運んでくれたものだと、そう思ってな。嗤いを抑えきれぬのよ」
強力な魔法を行使しながら愉快そうにファウダーは嗤う。
飛んで来る闇の炎を剣で切り裂き、空を切り裂いて走る雷光を避けながら、クロムは叫んだ。
「ルキナがギムレーの復活の鍵になるだと……!?
それは一体どう言う事だ!」
「どうもこうも無い。言葉通りの意味だ。
我等が神のその現身に宿った『人間』としての心。
ああ、『ルフレ』などとあの女は名付けておったか……。
それが今も、小癪にも神としての意識に抗い我等が神の復活を妨げておるのだ。ギムレーの血を継ぐ者と言えど我等如きの下賤な『人間』の血がその身体に混じってしまったからか……。
『人間』としての心は存外にしぶとくてな……中でも、貴様の娘に並々ならぬ執着を抱き、それを心の支えとしている。
……だが、他ならぬあの娘にその執着を裏切られた時、支えにしていたモノを一気に失い、その折れた心は我等が神の心に呑み込まれると言う訳だ。くくく……愉しみだろう?」
全てが崩壊するその時がもう間近に迫っている事を感じ、ファウダーはニヤリと嗤うのであった。
◇◇◇◇◇
薄気味悪い仄かな紫炎が灯る燭台だけが照らす、まるで何かの胎の中にいるかの様な……そんな息苦しさに似た不快感のある昏い通路を、ルキナは必死に駆けて行く。
この先にルフレが居ると言う保証は無い。
だが、己の直感は、確かにこの薄闇の先を示していた。
ファウダーが最後の教団兵だったのか、薄暗い通路でルキナを阻む者は居ない。
だが、進めば進む程に、息苦しい空気の重さは増していく。
この先に尋常ならざる強大で危険な存在が居る事を、ルキナの本能が訴えているかの様であった。
だが、それに臆して足を止める訳にはいかない。
長い長い通路を駆け続けていると、ふと遠くに揺らめく明かりが見えた。この通路の出口だろうか。
その時。
『━━━━ッッッ!!』
まるで大地が揺れ動いたかと錯覚する程の。
『竜の祭壇』全体を震わせる程の怒号にも似た咆哮が響いた。
大太鼓を何百と同時に叩いたかの様な、何百頭の飛竜が一斉に吼えた様な、この世に存在する音では表現し難いその音は、通路の奥、ルキナが向う先から響いてくる。
まさか、もう邪竜ギムレーが復活してしまったのか、と。
焦る心のままに一気に出口へと飛び出したルキナは。
奥に何かの祭壇が設けられている大広間へと出た。
ここが『竜の祭壇』の最奥であり中心であると、直感が囁く。
そして、祭祀場であろうその広間の中央に。
ルキナが探し求めていた「ルフレ」の姿と。
異形の『化け物』の姿があった。
『異形』の手足などの形は『人間』の身体のものである様に見えるのに、その首から上は異様としか言えないものであった。
三対の紅い眼、前方に長く伸びた一対の角……暗紫色の鱗に覆われた異形の【竜】の頭部が、人間の身体の上に載っている。
それはまさに悪夢の中の『化け物』であるかの様であった。
その身体に生えた尾よりも、その頭部が異質に過ぎる。
ルフレと同じ服を身に纏っているからこそ、その『異形』の異質さは更に際立つ様でさえあった。
感情の読めない相貌でありながらも、その三対の紅い眼が爛々と輝き、その喉からは竜の憤怒に染まった唸り声が零れ続けている為に、『異形』が怒り狂っている事をルキナは悟る。
『異形』の尾は、怒りをそこにぶつける様に石畳を叩いてはそこに罅を走らせていた。
そして、そんな『異形』に、「ルフレ」は細身の剣だけを手にして対峙している。
既にその身はボロボロで、『異形』によって負わされたのか、幾つもの生々しい傷がその身には刻まれていた。
ルキナが状況を呑み込めず、一瞬固まってしまったその瞬間。
『異形』は、獣が獲物を狩るが如く、「ルフレ」に飛び掛かり、押し倒した「ルフレ」の右肩にその異形の大顎で喰らい付き、腕ごと咬み千切ろうとして勢いよくその牙を立てた。
腕が裂けていく様な、不吉で嫌な音と共に、「ルフレ」は苦悶に満ちた悲鳴を上げる。
「ルフレさん!!」
ルキナが思わず上げたその悲鳴の様な声に、何故か。
『異形』が「ルフレ」を拘束する力は弱まった。
その隙に、「ルフレ」は『異形』の身体を蹴り飛ばす様にしてその拘束から抜け出し、空かさず持っていた剣で『異形』の身体を床に縫い留める様に、その腹に深く突き立てる。
人間には聞き取れない、獣の咆哮を上げて『異形』はその剣を抜こうとするが、姿勢が悪い事と床深くまで剣が突き刺さっている為に中々それを抜く事が出来ない様だった。
その隙に、「ルフレ」がルキナの方へと駆け寄ってくる。
「良かった、ルキナ……。無事だったんだね。
有難う、僕を……助けに来てくれたんだね……。
君が声を上げてくれたお陰で、『影』の意識が反れて、何とか助かったよ……、本当に、有難う……」
そう言いながら、「ルフレ」はルキナの方へと手を伸ばす。
それを見た『異形』は鋭い咆哮と共に益々暴れるのであった。
◆◆◆◆◆
ルキナが『竜の祭壇』の最奥に辿り着いた瞬間から、時は少し巻き戻る。
度重なる苛烈な『影』による拷問によって、ルフレの心身は既に限界近くに達していた。
幾度身を切り刻まれたか、手足をもがれたか、もう数えていないので分からない……。
……だがどれ程の拷問を受けようが、この身に刻まれた傷はどんな深いモノであろうとも時が経てば治ってしまうし、千切られた手足すらくっ付いてしまう……。この身体が、姿形こそ『人間』のものであっても、その中身は全く違う物であるのだと……その度に嫌と言う程に突き付けられてきた。
自分は『人間』ではないのだと、そう嫌と言う程に思い知らされてはきたけれど。それでも、ルフレは折れていなかった。
もし自分が屈してしまえば、その時には『影』がこの身を完全に掌握し、邪竜ギムレーが蘇ってしまう。
そうなれば、ルキナがどうなるか分からない……。
……『影』は、ルフレが抱く『愛』とは全く別の方向性の執着をルキナに懐いていて……。
それが故に、『影』が邪竜ギムレーとして蘇った時、ルキナに何をしようとするのか考えるだけで恐ろしい。
……『影』が以前に言っていた様に再びルキナを『竜』に変えようとしてしまうのかもしれないし、あるいはもっと別の……『怪物』の姿に変えてしまうのかもしれない。
……『影』は、姿を歪められて苦しむルキナのその姿が、大層好きだったようだから、そうなる可能性は十分にある。
そうでなくとも、無理矢理に邪竜の眷属にされてしまう可能性は極めて高いだろう。
……そんな事をルキナが喜ぶとは、ルフレには例え狂っていても全く思えないし、当然ながらそこにルキナの『幸せ』などありはしないだろう。
ルキナの『幸せ』は、邪竜が齎そうとする滅びの果ての静寂の世界にではなく、神竜が見守るこの命溢れる世界にこそ在る。
それを、壊す訳にはいかない、守らなくてはならない。
『影』の歪んだ執着から、ルキナを守れるのはルフレだけだ。
……そんな思いが、心身ともに傷付き果てていたルフレの心を寸での所で保たせていた。
しかし、四肢を強固に戒められ、既に体力的にも限界が近かったルフレには、囚われの身から抜け出す事は難しく。
ルフレに出来るのはただ耐え忍ぶ事のみでしかなくて。
だからこそ、『影』に有無を言わさずに乱暴に何処かに引き摺られて行った時も、抵抗らしい抵抗は出来なかった。
『影』に引き摺られて辿り着いた其処は、この薄暗い領域の中心であるかの様な、想像を絶する程の強い【力】が其処を中心に渦巻き集まっているのを肌で感じる様な、そんな酷く不吉で禍々しい気配を放つ祭壇の前であった。
その祭壇には、銀に輝く盾の様なモノに、緋・碧・白・黒に各々輝く宝玉が嵌め込まれたモノが鎮座していて。
ルフレはそれを何処か本能的な部分で、『炎の紋章』だと感じていた。ここに『蒼炎』が揃っていれば、正しく『炎の紋章』は完成するのであろう……。
……ただ、どうしてその【神竜】の至宝とも言えるであろうそれがここにあるのかは、ルフレには分からなかった。
『影』が『蒼炎』に拘っていたのを考えるに、『影』……いやルフレが、ギムレーとして真の【力】を取り戻す為には、『炎の紋章』が必要なのだろうか……。
そんな事を考えていると、『影』がルフレの顔を掴んでくる。
万力の様な力で掴まれ、『影』の指の力だけで顔の皮が剥ぎ取られてしまいそうな予感すら感じたルフレは、何とかその指から逃れようと藻掻くが、手足を縛られていてどうにもならない。
そんなルフレを嘲笑う様に『影』はその口を醜く歪め、もう片方の手を未完成の『炎の紋章』に掲げる。
「喜びなよ? もう直ぐ彼女がお前を助けに此処に来る。
全く呆れるよねぇ……こんな場所にのこのこ飛び込んで来るなんて。愚かだ。だが素晴らしい『愛』じゃないか。
その『愛』に免じて、『僕』はお前を自由にしてやるよ。
尤も……その姿で、彼女の元に帰れるかは別だけどねぇ……」
その言葉が耳に届くや否や、『影』に掴まれた顔が今まで生きてきた中でも未だ感じた事が無い様な、まるで高熱で顔自体が爛れ融け落ちていくかの様な、激しい痛みに襲われた。
その痛みは顔から首元へ、そして背中へと抜けていく。
燃え滾る踏鞴場の融けた鉄の中に落とされたかの様な、気が狂いそうな痛みに堪らずルフレは悲鳴を上げる。
だが、その悲鳴は首元を灼く痛みに潰されて。
死に物狂いで『影』の手から逃れようとするが、何れ程暴れても『影』の指はビクともしない。
そして、耐え難い痛みによって時間の感覚が無限に引き延ばされていく中で、ルフレは自分の骨が軋む悍ましい音を聴いた。
頭を構成する骨が、音を立てて歪んでいく。
骨が歪み、鼻先と顎が前へと延びていく感覚と共に、何かが顔と首の皮膚を突き破る様にして生えていきそれは瞬く間に頭部を覆っていく。
腰の辺りから激しい痛みと共に何かが長く伸びていく様な、そんな異常で異質な感覚が生まれる。
何かが目の横で裂ける感覚と共に、視界が突然に広くなった。
瞬きをしても視界が閉ざされない……否、眼が増えたとしか思えない異常な感覚だ。
そして、痛みが引いたその時には。
ルフレはもう、変わり果てていた。
「はははっ! 良いねぇ、良い姿じゃないか!
『人間』の皮を被っていた時より余程良い!」
嘲笑いながら『影』は、ルフレの手足の戒めを解いた。
だが、手足が自由になった喜びなど、ルフレには無くて。
恐る恐る……何も変わらぬ様に見える、『人間』のそれそのまままの様に見える手を、ゆっくりと顔へとやる。
だが、自分の顔を触った筈なのに。
指先に反ってきたのは、まるで『竜』の姿のルキナの頭を撫でた時の様な、鱗としか思えない硬質な何かの感触で。
そして、触れて確かめれば確かめる程、自分の顔である筈のそれは、到底『人間』の顔をしている様には思えなかった。
「くくく、どうした? 今の自分の姿を知りたいのかい?
ほら、これで存分に確かめなよ」
『影』はそう言いながら、その懐から大振りの手鏡を取り出し、それにルフレの姿を映した。
鏡の中に映ったルフレは。ルフレ自身である筈のそれは。
まさに、『化け物』としか言えない姿をしていた。
三対の紅い眼、前方に長く伸びた一対の角……暗紫色の鱗に覆われた異形の【竜】の頭が、人間の身体の上に載っている。
表情の読めない不気味な【竜】が、鏡の中から見返してくる。
それはまさしく、『真実の泉』に映された自分の『本性』の姿に……その顔に限りなく似ていて。
そして、そんな悍ましい化け物の姿をしているのに、その首から下の胴体は、【竜】の尾が生えている以外は『人間』のそれそのままである事が、却って人に非ざる存在としての異質感を……悍ましい『化け物』としての恐怖感を煽る。
首から下は『影』の姿と大差ない事が、却って醜さを増す。
こんな『化け物』が、自分だと言うのかと。
ルフレは言葉も喪い、呆然とした。
だが、鏡の中の【竜】の顔は、余りにも表情が乏しく……。
不気味にその紅い眼を輝かせている様にしか見えない。
その姿には、凡そ『人間』らしさなど無い。
いっそ、完全に邪竜ギムレーの姿にされてしまった方が余程マシであったのかもしれない。
こんな、どちらでも無い様な、『化け物』の姿に堕とされる位なら、いっそ……。と、思わずそう考えそうになる。
だが、次の瞬間にはその狂った考えを否定した。
例えこの身がどんな『化け物』に成り果てようとも、この心まで『化け物』に堕とす訳にはいかないと。
この心が折れるその時を『影』は待ち望んでいるのだから。
『影』に……邪竜ギムレーとしての自分に抗うならば、この程度で心を屈する訳にはいかないのだ。
元より、自分が『人間』ではない事位とうに理解している。
……ルキナと共に生きられる筈も無い『化け物』である事も。
だからこそ、今更その事実を上積みされようとも、ルフレが堪える事はとうに無いのだ。
どれ程苦しくても、絶望に心を明け渡したりはしない。
だから。
『これが、どうしたって言うんだ。
元より、『人間』ではない……『化け物』の僕がルキナの傍に居られる筈は無い事位、百も承知だ。
この程度で、僕がお前に屈するとでも思ったのか』
その言葉すら、ただの咆哮と唸り声にしかならない。
『竜』であったルキナのそれとは比べ物にならない程の、悍ましく恐ろしい『化け物』の声だ。
だが、『人間』の言葉すら奪われていようとも、最早ルフレがそれで揺らぐ事は無い。
……もう、ルキナと逢う事も叶わぬ身だ。
最も言葉を交わしたい相手がそこに居ないのなら、言葉など話せなくても何も構わない。
「やれやれ、『炎の紋章』の力を借りて、『本性』の姿を少し引き出してあげただけじゃないか。
『人間』の皮を被っていた時よりも余程楽だし、【力】も振るえるのに何が不満なんだい?
まあ、『炎の紋章』が不完全だから、そんな『人間』の姿と邪竜としての姿が混じった『化け物』になってしまったけど。
それに、さっきも言っただろう。彼女が、此処に来る、と。
『僕』なりに盛大に歓迎してあげようと思っただけさ」
『僕がお前に、ルキナに手出しさせるとでも?』
こうして手足の戒めは解かれたのだ。
ルフレは、『影』を殺してでもその凶行を止める覚悟があった。
この手に武器は無いが、それなら咬み殺してでも止める。
溢れる殺意から低く唸り声を上げ、ルフレは身を低くして構える。そんなルフレの姿に、「怖い怖い」と、欠片もそう思っていないだろう顔で呟きながら、『影』はその手に剣を握った。
「お前の様な『人間モドキ』……いやもう『人間』の擬態すら出来ていないから……そうだな、『半端もの』が、『僕』を止められるって? 自惚れるのも大概にしなよ。
お前に出来るのは、彼女が目の前で無惨に変わり果てていく姿を、無様に泣き叫びながら見ている事だけだろうに。
ふふふ……どうやって可愛がってあげようか。
お前がここで受けてきた拷問を一通り試すって言うのはどうだい? お揃いの経験が出来るんだから、嬉しいだろう?
ああ、勿論、お前みたいにちょっとやそっとじゃ死なない身体にしてから試してあげるとも。安心しなよ」
『そんな事、絶対にさせるものかッッッ!!』
ルキナがここに辿り着いてしまう前に、何としてでもこの『影』を殺さねば、と。
ルフレは憤怒の咆哮と共に、『影』に襲い掛かった。
◇◇◇◇◇
『影』の振るう剣に身を切り裂かれる痛みに構う事無く、ルフレは『影』を、その凶悪な顎で、その強靭な尾で攻撃していく。
どうせ構うまでも無く自分の傷は直ぐに治ってしまうのだ。
……それは、『影』にも同じ事が言えるが。
もう幾度『影』のその手足を食い千切っただろう、尾で叩きのめしてその全身の骨と言う骨を砕いたのだろう。
だが、その度に『影』の傷は直ぐ様治る。
食い千切った筈の首が何事も無かったかの様に瞬時に生えてきた時には流石にぞっとした。
その姿こそルフレの今の姿に比べればまだ『人間』に近いが、その中身はルフレなどより『化け物』である事を再確認する。
『化け物』同士の醜い争いは中々終わりが見えない。
いっそその全身を喰ってしまえば、もう蘇る事は無いのだろうかとも考えるのだが、流石に中々そのチャンスは無い。
ルキナが来る前に決着を着けねばならないと言う苛立ちと焦りから、尾が無意識に石畳の床を叩き、そこを砕く。
その時、何故か『影』の動きが鈍った。
まるで誘う様に、隙を見せる。
罠か? と一瞬考えるも、それ以上に絶対の好機を逃す訳にはいかなくて。『影』の動きだけに集中していたルフレは、千載一遇の好機に飛び付いた。
一気に飛び掛かりその勢いで『影』を押し倒し、拘束から抜け出せない様に尾でその足を押さえてから、ルフレは大顎を開けて『影』の右肩に喰らい付いた。
このまま拘束して全身を喰ってしまおうと、先ずはその肩を腕ごと食い千切ろうとする。
すると、それまでは一切痛みに反応していなかったと言うのに、突然『影』は苦悶に満ちた悲鳴を上げた。
何故? と一瞬呆気に取られたその瞬間。
「ルフレさん!!」
この世で誰よりも大切な……。だけれども、この場でだけは聞きたくなかった愛する人の、悲鳴の様な声がその場に響き。
突然に現れた様に思えるルキナの存在にルフレは動揺して、半ば無意識に『影』を拘束する力を緩めてしまう。
そしてその隙を『影』が見逃す訳は無く、 ルフレの身体を蹴り飛ばす様にして拘束から抜け出し、空かさず握っていた剣をルフレの腹に深く突き立て、ルフレの身体を床に縫い留めた。
何とか剣を抜こうにも、余りにも深く突き刺さって固定されている上に、体勢が悪くて中々力を入れられない。
ここに来てルフレはこの状況の『最悪さ』を……。
『影』の本当の狙いを悟った。
今のこの状況は、誰がどう見ても異形の化け物が、「ルフレ」を襲っている構図になるだろう。
『人間』の言葉を喪ったルフレが真実を訴える術など無く、『影』によって事実は幾らでも捻じ曲げられてしまう。
『影』がルキナに付け入る隙など幾らでもあるだろう。
「良かった、ルキナ……。無事だったんだね。
有難う、僕を……助けに来てくれたんだね……。
君が声を上げてくれたお陰で、『影』の意識が反れて、何とか助かったよ……、本当に、有難う……」
そう言いながら、『影』はルキナへと差し伸べようとする。
それを見たルフレは、必死に叫んだ。
『駄目だ、ルキナ! そいつは偽物だ!
そいつが『影』なんだ!!
今直ぐそこから逃げろ、早く!』
だが、その言葉は届かない。『化け物』の咆哮にしかならない。
そして、それがルキナに伝わる筈も無い。
だがルキナは戸惑う様に、『影』のその手を掴む事は無かった。
それに一瞬僅かに眉を顰めながら、直ぐ様『影』は「ルフレ」を装ってルキナに話しかける。
「こんな所にまで来る危険を冒させて、すまない、ルキナ。
今まで拘束されていて逃げ出せなかったんだ……。
多分君達がここに侵入してきた時のゴタゴタでどうにか隙を突いて逃げ出したんだけど……こうしてここまで『影』に追われてね……。何とか、祭儀用か何かに飾ってあった剣を取って応戦したら、『影』があの『化け物』の本性を現したんだ」
わざと傷を治さない事で満身創痍をアピールする『影』は、今にも倒れそうな状態を演じ、ルキナの動揺を誘おうとする。
『違う! そいつの言っている事は出鱈目だ!!
僕が、ルフレだ! そいつにこんな姿に変えられたんだ!
僕の事はどうでも良いから、そいつから離れるんだ!!』
どうにか腹に刺さった剣を抜いて、ルフレは立ち上がり叫ぶ。
だが、『影』はまるでルキナを盾にする様にその陰に隠れ、それ故に手出し出来ないルフレを見て、ルキナに見えぬ様に嗤う。
「すまない、ルキナ……。
長い監禁生活と度重なる拷問で、僕はもう戦う力も無い……。
だから、君にあの『影』を殺して貰うしか……。
君が持っているその剣……ファルシオンなら、あの姿の『影』にも致命傷を与えられる筈だよ……」
囁く様に掠れた『影』の言葉に、ルキナはその腰に下げていた剣を……ファルシオンを抜いた。
どうしてルキナがそれを持っているのかは分からない。
ただ……『影』がルキナに自身を切り捨てさせようとしている事だけはハッキリと分かった。
……ルキナに、『化け物』として斬られると、そう考えると心臓を直接掴まれたかの様に苦しくなる。恐ろしくなる。
ルフレとしてすら認識して貰えない事は酷く恐ろしい。
だけれども、それ以上に恐ろしいのは。
もしここでルフレが斬られてしまえば、『影』がルキナに何をするか分かったものではない事であった。
それとも、ここでルフレが死ねば、自分の本性の影である『影』も諸共に消えたりするのだろうか。
それならば、良いのだけれども……。
だがそれはそれで、ルフレを殺したと言う十字架を背負わせ、ルキナを苦しめる結果になるのではないだろうか……。
どうすれば良いのか、もうルフレには分からない。
『ルキナ……僕は……』
その切っ先が、自分の胸を貫く瞬間を覚悟しながら。
ルフレは、ルキナに呼び掛ける様に、小さく鳴いた。
◆◆◆◆◆
ルキナへと手を伸ばし、咆哮を上げる『異形』を見て、ルキナは困惑していた。状況が、今一つ掴めないのだ。
それ故に、差し出されたその手を取る事は、無かった。
あの時は、「ルフレ」が危ないと……そう咄嗟に声を出してしまったが、果たしてそれで良かったのかと、そう考えてしまう。
何故なら、ルキナには目の前に居るこの「ルフレ」が果たして本当にルフレなのかと……そう疑っているのだ。
確かに見た目は間違いなくルフレそっくりではあるけれども。
そもそも、『影』はそっくりそのままルフレと同じ姿をしているのだ。目の前に居る彼が、『影』でないと言う保証は無い。
だからこそ、ルキナは「ルフレ」の一挙一動をそれと悟られぬ様に注意して観察する。
そして、それと同時に『異形』へも目を向けた。
……もし、この「ルフレ」が『影』であるのだとしたら……、この『異形』こそがルフレであるのだろうか……。
何とかその表情を読み取ろうとはするものの、『異形』の表情は非常に乏しく、その内面を推し量る事は難しい。
「こんな所にまで来る危険を冒させて、すまない、ルキナ。
今まで拘束されていて逃げ出せなかったんだ……。
多分君達がここに侵入してきた時のゴタゴタでどうにか隙を突いて逃げ出したんだけど……こうしてここまで『影』に追われてね……。何とか、祭儀用か何かに飾ってあった剣を取って応戦したら、『影』があの『化け物』の本性を現したんだ」
「ルフレ」は今にも倒れそうな、弱々しい声音でそう語る。
傷だらけのその身体を見るだけなら、その発言に矛盾は無い。
だが、そう言って苦しそうな顔をするその直前の一瞬。
ルキナが、その手を取らなかった瞬間に。
「ルフレ」はその眉を僅かに顰めていたのだ。
その表情に、ルキナの直感は警告の鐘を鳴らしていた。
そして、「ルフレ」がそう言うや否や。
腹に刺さっていた剣を引き抜いて立ち上がった『異形』は、その剣を遠くへと投げ捨てながら咆哮を上げた。
だが、今にも飛び掛かってきそうな程の敵意を「ルフレ」に向けていると言うのに、『異形』は先程の様に飛び掛かろうとはせず、言葉も無くただ唸るだけであった。
それは、もしかしなくても、ルキナが「ルフレ」の傍に居るからであるのだろうか……。
もしこの『異形』が『影』であるならば、ルキナに構う事など無く「ルフレ」に飛び掛かっていたであろう。
それにそもそも、言葉でルフレを甚振る事を楽しんでいる節があったあの『影』が一言も発さないと言うのもおかしな話だ。
益々その違和感は蓄積し続ける。
それに……ルフレがルキナを盾にする様にその陰に隠れようとする事など、果たしてあるのだろうか。
……少なくともルキナの知るルフレは、何れ程傷付こうともルキナの盾になる事はあってもルキナを盾にしようとはしないであろうと、そう思える。
……ルフレの姿とは似ても似つかぬ『異形』の方が、この「ルフレ」よりも遥かにルキナの知るルフレの様であった。
「すまない、ルキナ……。
長い監禁生活と度重なる拷問で、僕はもう戦う力も無い……。
だから、君にあの『影』を殺して貰うしか……。
君が持っているその剣……ファルシオンなら、あの姿の『影』にも致命傷を与えられる筈だよ……」
「ルフレ」はそう囁く様に言った。
……この戦いの前に父から託されたファルシオンだが、真の力を喪った状態では、『影』に致命傷を与えられない事は、以前『影』本人が口にしていた事である。
漸く、ルキナは「ルフレ」の……否『影』の意図を理解した。
ルキナに、『異形』の姿に変じさせられてしまったルフレを斬らせる事で、ルフレの心を壊そうとしているのであろう。
ルキナは、ファルシオンを引き抜く。そして、その瞬間。
『ルキナ……』
『異形』の小さな鳴き声が、自分の耳には確かにハッキリと、哀しそうに自身を呼ぶルフレの声に聞こえた。
自分の選択が間違ってはいなかった事を確信したルキナは、『異形』の姿にされた愛しい人に微笑みを浮かべて。
自らの傍らに立つ薄汚い紛い物を、全力で斬り捨てた。
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