『呪われた王女と森の賢者』【完結】   作:OKAMEPON

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第二話『神竜の森の賢者』

◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 聖王が御座す王都より東へ遠く離れたイーリス辺境の地。

 そこには人の手の入らぬ険しい深山幽谷と、その山裾に広がる広大な森があった。

 その地の人々はその森を含めた一帯を、『神竜の森』と……そう畏敬の念を籠めて呼んでいる。

 神竜を崇めるイーリスには神竜の名にあやかった地が多く存在するし、《神竜の森》と呼ばれる森は国内に多く存在する為、その森が本当に神竜に関係するのかは誰も知りはしない。

 しかし何であれ、人々に無意識にも畏敬の念を懐かせる神秘的な《何か》がその森にある事は確かなのだろう。

 

 人々が滅多に立ち入らぬ獣達の楽園の様なその森の奥深くに、人里から隠れる様にして一人の『賢者』が住んでいた。

 と言っても、その森の『賢者』は古くからその地に住んでいた訳ではなかった。

 

 かつて、『神竜の森』の袂にある複数の村で疫病が流行った。

 疫病の猛威を前にして、村は全滅の危機に瀕していた。

 王都から遠く離れた辺境の地であるが故に国からの救援はなく、医者も村から離れた街にしか居らずとてもそこまでは病人の身体が持たない。このまま村ごと滅びる運命なのか、と。

 神竜に祈る力すら尽きた村人達が絶望の中で朦朧と考えた時に、その旅人は現れた。

 何処からか流れてきた旅人は村の窮状を見るや否や、その疫病の特効薬を調合しその疫病を鎮めたのだ。

 村人達はその旅人を『賢者』と讃え、是非とも自分たちの村に滞在して欲しいと願い出たのだが、旅人に救われたどの村もそう言い出した事と旅人本人がそれを断った事もあって、結局その旅人は村に残る事は無かった。

 しかし旅人は、『村に住む事は出来ないが、この森に住まわせて貰えるなら』と答えた。

 ならばと村人達が集まって話し合い、『神竜の森』の中にあるとある館を、恩人である旅人に差し出す事に決めたのだった。

 

 その館は、かつてとある貴族が愛人を住まわせる別荘として作ったものであったのだが、その貴族も囲われていた愛人もとうにこの世を去っていて、今は持ち主も居らずほぼ手付かずのままに残されていたのであった。

 建てられてからそれなりの年月が経っていたとは言え、元は貴族が建てたもの。

 館の造りはとても確りとしていて、村人達が多少整備して掃除を行えば、立派に人が住める状態になったのであった。

 その館を住まいとして提供された旅人はいたく村人達に感謝し、それ以降も何かと村に何か問題が起これば力を貸してくれる様になった。

 人々は旅人を『森の賢者』として讃え、何時しかその名は村の外にまで広がり、時折遠方から『森の賢者』に逢う為に訪れる者も居る程にまでなった。

 

 

 そして、『賢者』が森に住まう様になってから、十数年の時が経った……。

 

 

 

 

 

 

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「今日は……少し荒れそうな天気だね」

 

 空を見上げて呟いたその言葉に、反応を返す者は居ない。

 それはここ一年程変わらぬ事なのだけれど、未だに少し寂しさを感じてしまうのは、ここが人の気配など自分の他にある筈もない森の奥深くだからだろうか。

 そんな事を想ってしまう自分に僅かな寂しさを感じると共に苦笑を浮かべ、ルフレは黙々と井戸から水を汲むのであった。

 

 頼れる者は周りには居らず、可能な限り全てを自分で完結させる必要がある為、森での暮らしは決して楽ではない。

 母と二人で過ごしていた時には分担していた事も、今は全てルフレが一人でやらねばならぬのだ。

 それでも、ルフレはこの生活を苦とは感じていなかった。

 森は恵み豊かで薬草も食料も確りと確保出来るし、有り難い事にルフレにはこんな森の奥にはそぐわない程の立派な家が……家と言うよりは屋敷と言った方が良い程の住処がある。

 時には森の周りにある村々へと訪れて薬師として医師として呪術師として村人達を助けに行くし、時折ではあるが態々こんな森の奥にまで『森の賢者』の名を頼りに訪れる者も居る。

 人との交流が全く無いと言う訳ではなく、世情に敏感とまでは言えずとも、人の世の流れから隔絶されている訳でもなくて。

 その程々の穏やかな交流は、ルフレにとって心地良いものだ。

 更には、亡き母の跡を継いだルフレは自然と母へと贈られた『森の賢者』と言う称号をも引き継いでいて。

 母の名を頼ってきた人々に、母の代わりに力を貸す事も多い。

 

 知識の泉を湛えているかの如し智慧の持ち主だった母と比べると、ルフレはその知識もその経験もまだ物足りなく感じてはしまうけれど、それでも何とかその称号に恥じぬ様には努めてきたつもりである。

 だからなのか、母ではなく「ルフレ」の名を頼られる事も、ここ最近はあった。そんな人々の声に応えるのは、ルフレにとって小さな幸せの一つにもなっている。

 そして、人里離れた森の奥深くとは言えども、屋敷には母が遺した膨大な書物や手記があるしそこから学ぶ事は多い。

 退屈などは感じる暇すらないのである。

 時に人恋しくなる事はあるが、かといって住み慣れた母との思い出が色濃く残る愛着のあるこの屋敷を出てまで村に住みたいともルフレは思っていなかった。

 朝食の用意をして、屋敷の裏手にある母の墓に近くで摘んだ花を供えて、朝食を食べ終えたら洗濯をして、畑の世話をしたら、森に入って薬の材料となる草花などを集めたり或いは弓を片手に狩りを行う、屋敷に帰ったら薬の調合などを行い、寝る前には書物を読む。

 そんな日々の繰り返しも、物心ついた頃からのものなのでもう慣れたものである。

 

 昔と違うのは、そこに母の姿が無い事だけだ。

 

 物心ついた時からルフレは母と二人でこの森で暮らしていた。

 母は昔の事をそう多くは話さなかったけれども、かつてまだ乳飲み子のルフレを抱えて放浪中だった母が近くの村々を襲った疫病を鎮めた事や、それを切っ掛けとしてこの森の奥の屋敷に住まう事になったとは、聞かされた事がある。

 何故、乳飲み子のルフレを抱えて宛なき放浪の旅へと出ていたのかは、母は決して話してくれなかった。

 存在する筈であろう自身の父の事も、そして母の生まれ育った地の事も、何も話してはくれなかった。

 ……世の中には、不幸な結果として生まれる命もあるし、また生まれ育った地に良い思い出がない事もある。

 だから、母が話そうとしないのならそれはそれで良いのだろうと、そうルフレは思っていた。

 父が居なくとも母が居たし、そこに不満も大きな疑問も感じる事もなくて。『賢者』と呼び表される母の姿に憧れたルフレには、日々の研鑽の方が自分の出自やらと言った些末な事よりもずっと大切であった。

 

 ……しかし一年前、母は病に倒れて帰らぬ人となった。

 

 母の病は人に移る事は無いが特効薬の存在しないもので。

 精々、病による苦しみを軽減させてやる事位しか、ルフレに出来る事は無かった。

『死』が近付いてくるのが理解したくなくとも分かってしまう程に日々窶れていく母の枕元で必死に薬を調合していたあの時の事を、今になり振り返ってもあまり上手くは思い出せない。

 

『死なせない、死なないでくれ』とそう祈り必死に看病していても、他でもない母と共に学び培ってきた知識は母のその状態が最早手の施しようの無いと言う事を囁いていく。

 それを必死に振り払って、何とか出来ないものかと死に物狂いで足掻いてみても、零れ落ちていく命の砂を戻す事はおろか止める事すらも出来なくて。

 あれ程、自身の無力を痛感した事は無い。

 

 最期はせめて安らかに逝けるようにと、その晩期には痛みを抑える薬ばかりを作っては飲ませる事しか出来なかったが。

 ……果たしてそれで本当に良かったのかと、今でも詮無い事と知りつつもルフレは思ってしまう。

 きっと、優れた薬師であり呪術師でもあった母は、ルフレなどよりもずっと自分の状態を正確に把握していたのだろうし、ルフレが調合した薬の意味も分かっていたのだろうけれど。

 ルフレが調合する薬に何時も、ただ「ありがとう」と、そう一言だけ返して黙って飲んでくれて。

 ……最後まで、嫋やかさの中に凛とした確かな芯を感じさせる……そんな幼い頃から憧れ続けていた姿のまま、母は逝った。

 

 ……あれから一年。

 もう大分心の整理と言うものは着いてきたが、やはりまだ何処か心に穴が空いてしまった様な、そんな気持ちになる。

 寂しさにも似た気持ちを抱えながら、ルフレは今日も森の奥の屋敷で暮らしていた。

 

 

 一通りの家事を終えて今日の分の調薬を終えた頃合いで、ルフレが予想した通り、薄曇りであった空が急に暗くなってきたかと思うと強い風と雨がやって来た。

 春先の大嵐は次第に激しさを増し、時折遠くで雷が落ちた様な音すら伴っている。

 まだ陽の光がある時刻だと言うのにも関わらず辺りはすっかり暗くなっていて、とてもでないが出歩こうとは思えない。

 幸い畑には激しい雨風で荒れぬ様に麻布を被せてあるし嵐に対する備えは出来ている。

 故に、こんな時は屋敷の中に籠もるに限るとばかりに、ルフレは書庫に引き籠もると本の世界へと旅立ったのであった。

 

 

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 

 

 

 不意に光源となる火がユラリと頼り無く揺れた事で、そろそろ灯りに油を継ぎ足さなくては、とルフレは意識を本の世界から現実の世界へと呼び戻した。採光窓を雨風が叩く音が却って集中力を高めていたのか、随分と本にのめり込んでいたみたいで、机の脇には読み終わった本が何冊も積み重なっている。

 椅子から立ち上がり、凝り固まった肩や腰を解す様に大きく背伸びをし軽く身体を動かした。

 いつの間にか雨風の音が止んでいる気がして、油を継ぎ足しに書斎の外に出たついでで、廊下の雨戸を少し開けて外を見る。

 伺い見た外は、あれ程激しかった雨風の痕跡など全く無いかの様な穏やかな闇夜がそこに広がっていた。

 書斎に籠もり始めたのはまだ日が中点を過ぎた位の頃の事だと思うのだけれども、いつの間にか日も暮れていた様だ。

 

 窓の外を眺めていたその時。

 ふと、妙に獣達の鳴き声が騒がしい事に気が付いた。

 縄張り争い……にしては、どうにも様子がおかしい。

 何時にない森の様子に、ルフレは強い胸騒ぎを感じる。

 一刻も早くそこに行き何が起きたのか確かめなくてはならないと、何故か心の声はルフレを急かそうとする。

 ルフレはその心の声に逆らう事なく、カンテラだけを手に屋敷を飛び出した。

 

 

 獣達の騒ぎの中心は、どうやら屋敷の裏手の方向である様だ。

 屋敷の裏手からほんの少しばかり離れた所には、少し森が開けた場所がある。

 獣達の唸り声や鳴き声の大きさなどから推測するに、彼等が騒いでいるのはそこだろうか? 

 一体何が起きたのかは分からないが、この騒ぎ方は尋常のモノでは無い事だけは確かだ。

 

 嵐は過ぎ去り、荒れ狂う様に唸っていた風は凪いだ様に静まってはいるが、未だ大きな雲が月を隠してしまっているらしく、星明かりだけが夜の森を薄暗く照らしていた。

 カンテラの灯りで暗い道を照らしながら、獣達が騒めく方向へと、何故だか急かす心のままに周りを警戒しつつも急ぐ。

 そう離れていない事もあって、程無くしてルフレは獣達が騒いでいた場所へと辿り着いた。

 そして、そこにあった光景に思わず瞠目して息を呑む。

 そこにあったのは、まさに『異様』と言うべきものであった。

 森の開けた場所を取り囲む様に、様々な獣達が警戒を露に唸ったり何処か怯えた様に忙しなく周りを動き回っている。

 そして……。

 

 その中心に一匹の『竜』がその身を泥濘の中に横たえていた。

 

 ルフレが知っている飛竜達とは身体の作りからして全く異なるその『竜』は、まるでお伽噺の挿し絵の中から抜け出てきたかの様に、何処か非現実的で……。

 ルフレが知るどんな生き物とも異なるのに、まさに『竜』としか表現のしようが無い生き物であった。

 

 古の書物の中に名前だけは残っている、かつてこの地にも居たとされる火竜や氷竜と言った野生の竜たちの生き残り……なのだろうか?  それとも、竜の姿も併せ持つとされる《マムクート》と呼ばれる人々なのだろうか……? 

 ふとルフレが思考の海に沈みそうになったその時。

 雲の切れ間から、柔らかな月明かりが森へと降り注ぐ。

 月光に照らし出されたその『竜』の姿に、ルフレは思わず息をする事すら忘れて魅入ってしまった。

 

『竜』は、剰りにも美しかったのだ。

 

 月灯りに蒼銀に輝く硬質な鱗に全身を覆われ、ルフレの身体など容易く噛み砕いてしまえそうな大きな顎門に、鍛え上げた鋼でも切り裂いてしまいそうな鋭い爪を持つ前肢と、地を力強く踏み締める強靭そうな後肢を持ち、その背からは鳥のそれにも似た蒼みを帯びた白銀の羽根に覆われた翼が生えている。

 脆弱な人間にとってはこの上無く恐ろしい姿をしているのかもしれなくても、その『竜』はこの世の何よりも美しい生き物である様にルフレは感じてしまった。

 

 だが、『竜』は傷付き果て、今にも力尽きようとしていた。

 

 十数本の矢がその身を包む鱗を穿ち砕いて突き立ち、その内何本かは矢柄から折れる様に深く刺さっている。

 だが、そんな矢傷以上に深刻なのは、『竜』の胸元を斜めに一閃した深い斬り傷であった。余程の業物で斬られたのだろう……硬い鱗をものともせずに刻まれたのであろうその傷は、傷口周りで固まった血にドス黒く汚れている。

 遠目からでも傷口の状態を見るに、恐らく傷を与えられてから数刻は経っている筈なのに、止血が追い付かないのかそれとも動く度に傷口が開いてしまうのか、今も尚その傷口からは絶えず血が零れ、『竜』の美しい蒼銀の鱗を赤黒く汚していた。

 

 胸元の傷を庇う様に泥濘の中に『竜』は伏せていて、鞭の様に長くしなやかな尾は力無く地に投げ出され、翼は畳まれる事も無く泥濘へと伏せられていた。よく見ると、庇われている左腕にも、胸元のそれに似た酷い傷が刻まれていた。

 苦しいのかその呼吸は荒く、ルフレの接近に気付いていても最早首をもたげる力すらも無いのだろう。

 ただ、苦しみからか何処か焦点の定まらぬその蒼い瞳が、ルフレを見詰めていた。

 

 ……このままでは、そう遠くない内にこの『竜』は間違いなくその命の灯を絶やしてしまうであろう。

 最早『死』が『竜』の魂を刈り取るのは時間の問題だった。

 しかし、命の灯火が儚く消え行く間際でありながら……『死』の匂い濃くを漂わせても尚、迫る『死』の気配ですら『竜』の美しさを損なわせる事は出来なかった。

 

 ルフレが痺れた様に身動きも忘れて『竜』に魅入っていると。

『竜』はその喉から苦し気に唸り声を絞り出した。

 

 ルフレの耳にはそれは唸り声にしか聞こえないけれども、何故だかそれは敵を威嚇するものだとは思えなくて。

 何処か救いを求める声であるかの様に、ルフレには聞こえた。

 そして、『竜』は僅かに首を動かし、魅入られた様に自身を一心に見詰めているルフレを、確りと見詰め返す。

 宝玉をそのままそこに嵌め込んだ様な美しい蒼い瞳がルフレへと焦点を結び、何かの意志をルフレへと訴えようとしていた。

 

《死にたくない》と、《生きたい》と。

 

 そんな『生』への渇望の熱を強く強く帯びた眼差しが、ルフレを捉えて離さない。

 ……だが、とうとう力尽きたのか。

『竜』は僅かに持ち上げた頭を再び泥濘へと伏せ、その美しい瞳は瞼の奥へと閉ざされる。

 慌ててルフレが『竜』へと駆け寄り、硬い鱗に覆われた頭へと手を触れても、『竜』は身動ぎ一つ返す事も無い。

 

 

 だがそれでも、『生』への執着を表す様に苦し気に荒く弱々しい呼吸を必死に繰り返す『竜』の姿を見て。

 

 

 ルフレの心は、迷う事なく定まった。

 

 

 

 

 

 

◇◇◇◇◇◇

 

 

 

 

 

 

 急ぎ屋敷に引き返し、ルフレは薬や包帯代わりになりそうな布や治療の杖といったものをありったけ持ち出し、桶に井戸から汲み上げた水を張り、大鍋に火をかけて煮沸して清潔を確保した湯を用意する。

 どうやって塞ぐにしろ先ずは傷口を洗ってやらねばならない。

 泥濘の中から場所を移した方が良いが、意識を喪った『竜』の身体をルフレ一人ではどうやっても動かす事は出来そうに無いので、そこは諦めるしかなかった。

 何度も井戸とを往復しながらも、何とか傷口の泥や血の塊を洗い落としてやる事が出来た。自分が泥に塗れるのを厭わず、ルフレは『竜』の胸元に潜り込む様にしてその胸元の傷を確かめる。遠目から見ても酷いものだと判じる事が出来る傷であったが、改めて近くで確認するとこの傷でよくここまで逃げてきたものだと驚く程のものであった。

 硬い鱗をも綺麗に切り裂いたその太刀筋は深く『竜』の身を傷付けていて、辛うじて臓器こそ傷付いてはいなかったがその傷は肋骨近くにまで達していた。

 分かってはいたが、やはり『竜』の傷は人の手によって付けられたものなのだろう。

 何処でこの傷を負ったのかは分からないが、少なくともこの辺りにある村ではないだろうし、その身に突き立つ矢はこの辺りで流通するそれとは違う為この地方でもない可能性が高い。

 恐らくは何処か遠く離れた場所から逃げてきて……そしてこの辺りで力尽きたのだろう。

 

 この『竜』が何故人から武器を向けられる事になったかなど、その場を知らぬルフレには分かりようもない事だ。

 人を襲ったのかも知れないし、或いは運悪く人里に迷い込んでしまったのかもしれないし、或いは『竜』に何の瑕疵も無くとも人に住処を追われたのかも知れない。

 所詮、その全ては推測にもならぬただの想像でしかない、

 だが、ただ一つ確かな事として、今この『竜』は命を落としかけていて……そして自分にならばそれをどうにか留める事が出来るのかも知れないという可能性がそこにある。

 だからこそ、一度「助ける」と決めたルフレには、この『竜』がどの様な経緯でこの傷を負ったのかなど些末な事であった。

 

 しかし……「助ける」とは決めたものの、治療したからと言ってこの『竜』の命が助かる可能性はルフレの見立てでは五分五分と言った所だろう。

 傷口を塞いだところで喪った血を戻してやる事は出来ないし、抵抗力が落ちれば傷口が膿んでそれが元で死ぬかも知れない。

 人間に比べれば多少血を多く喪っても直ぐ様死に至る事も無いだろうが、ある程度以上の血を一度に失えば死に至るのはその身に血が流れる生き物である以上は変わらないだろう。

 傷口を診た所で具体的にどれ程の血が流れてしまったのかは分からないし、そもそもこの大きさの『竜』の場合どの程度の出血で命に関わってくるのかの知識もルフレには無い。

 牛や馬と言った家畜なら治療の知識も経験もあるけれども。

 飛竜ですら本の知識でしか知らぬルフレにとっては、『竜』の治療と言うのは未知の領域である。

 それでも、迷い手を止めている暇は無いのだ。

 無我夢中で、必死に知識を繋ぎ合わせながら治療を進める。

 

 胸元の傷を丹念に洗い可能な限り清潔を保ち、そこに治療の杖を使ってその傷口を塞いでいくが、それは応急的に薄く塞ぐ程度に留めておく。

 治療の杖の力は確かだが、その力は傷口を塞ぐと同時に少なくない体力をその者から奪う。生き物が元より持つ治癒力を活性化させる事で、治療の杖はその力を顕すものだからだ。

 こんな、今にも力尽きて息絶えそうな状態の『竜』に対してその力を十全に使うとなると、傷口を完全に塞ぐ事と引き換えにその命を奪う結果になりかねない。

 それ故にルフレは、血が流れ出ない程度に塞ぐだけに留めておいて後は時間をかけて癒やしていくべきだと判断した。

 傷口が完全に薄く塞がりもう血が出ていない事を確認してから、そこに化膿防止と治癒促進の効能がある薬を塗り、清潔な布を当ててやってから裂いたシーツを包帯代わりに巻く。

 

 左腕の傷口も同様に手当をした後で矢傷の方へと取り掛かる。

 直接的に命に関わるものでは無さそうだが矢傷も酷いもので、早くに治療しなければ膿んだ傷口から腐っていきかねない。

 傷口を塞ぐにもとにかく鏃を取り除いてやらねばならないのだが、返しのついたそれは一筋縄では取り除けなかった。

 無理に引き抜こうものなら、周りの肉や血管を引きちぎってしまい余計に酷い傷になるだろう。

 

 仕方なくルフレは、返しを安全に引き抜ける程度に、その傷口を持っていたナイフでほんの少し切り開く。

 矢に砕かれて体内に入り込んでいた鱗の欠片も丁寧に取り除いてから、胸元や腕の傷口と同じ様にそれを塞いでいく。

 

『竜』の身に刺さった全ての矢を取り除き、全ての傷口を塞ぎ終わった時には、すっかり夜も更けていて後数刻もしない内に空も白み始めるだろう頃合いになっていた。

 

 ルフレは、今しがた治療を終えたばかりの『竜』の姿を改めて観察する。全身の至る所に包帯代わりにシーツを巻き付けられたその姿は痛々しいばかりで、弱々しい吐息は今にも途切れてしまいそうでもある。

 やれるだけの事はやったが……助かるかどうかはまだルフレにも分からない。

 傷口の処置をしている間も『竜』の意識が戻る事はなく、痛みに対しての反応も微々たるもので。

 暴れてこない事に関しては有り難くもあったが、麻酔もなしにここまで痛みへの反射的な反応すら返さないのはその状態の悪さを物語っていた。

 荒々しかった呼吸も次第に弱々しい浅く早いものになっていって……このまま掻き消えてしまいそうでもある。

 傷口は塞ぎはしたが、それまでに喪った血をどうにかしてやる事は出来ない。

 ……最早助からない命に対し、苦しむ時間を徒に長引かせるだけにしかならないのかもしれないが……。

 それでもやはり、『死にたくない』と……そう「生」への渇望を訴えるあの眼から、目を反らす事など出来なかったのだ。

 ……後はもう、『竜』が目覚めるまで祈りながら見守る事しか、ルフレに出来る事はない。

 

 

 どうか助かりますように、と。

 ルフレは祈るように、『竜』のその鼻先を優しく撫でるように触れたのであった。

 

 

 

 

 

 

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