『呪われた王女と森の賢者』【完結】   作:OKAMEPON

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第三話『竜の娘』

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 焼け付く様な灼熱感と同時に、生命までもが凍り付きそうなそんな悍しい寒さを感じる。

 まるで、幼い頃に城の書庫で読んだ本に書かれていた地獄に、生きながらに落とされているかのようだと……燃え尽きそうな思考の片隅でふと考えてしまった。

 指先から次第に熱が奪われていき、その凍り付く様な冷たさはもう脈打つ心臓にすら届こうとしていて……最後に残ったその熱が消え去ったその時が、きっと自分の「終わり」なのだろうと、理解を拒みたくともそう分かってしまう。

 冷たく凍えていく心に比例する様に、「死」の足音は静かに迫ってきていて。恐くて恐くて……ここから逃げ出してしまいたいのに、何をしても身体はピクリとも動かない。

 

 時間の感覚など狂っている世界では、立ち止まる事無く近付いて来ている筈の「死」が、まるで永遠に引き延ばされているかの様でもあり……その永劫に続いているかの様な恐ろしい時間が心を蝕んでいく。

 抵抗しようとする気力すら尽きかけたその時。

 ほんの指先程度の……しかし凍えきった心身には十分に過ぎる程の温もりが、胸元に僅かに触れた様な気がした。

 そして、その温もりはゆっくりと静かに……だが確実に、全てが凍り付く様な冷たさを拭い去る様に追い払っていく。

 何時しか、耳元にまで迫り喉元を撫でようとしていた「死」は、まだその気配は消えはせずとも遠ざかり、心まで凍り付かせていた冷たさは優しい温もりによって払われて。

 身を焼き焦がす様な灼熱感も、穏やかな温もりによって薄められるかの様に鎮まっていき、完全には消えずとももう息すら儘ならぬ程の苦しみからは解放された。

 そして、やがて優しい温もりは静かに離れていったが、しかしその気配は近くにあって。遠くであっても「死」の気配が消えない不安や恐怖を、優しく打ち消してくれるかの様だった。

 

 その温もりの気配に安心したからか、トロトロと……まるで暖かで穏やかな春の陽射しに包まれているかの様に、優しい眠りの気配に包まれていく。眠りは「死」に近付く事であるけれど、この温もりが傍に居てくれるなら、怖くは無くて。

 だから、穏やかで安らかな眠りの淵へと、ゆっくりと沈んでいくのであった。

 

 

 

 

 

 

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 あれから三日三晩経ったが『竜』が目覚める事はなかった。

『竜』は身動ぎ一つする事も無く、眠り続けている。

 あの大嵐が近くの雨雲を全部吹き飛ばしていったのか、幸いな事にあの晩から雨が降る様な事もなく、『竜』は野晒しの状態ではあるが問題なく傷口は塞がったままである。

 意識が戻る事はなかったが、所謂「峠」は越えられた様で、弱々しく消えそうだったその息も、今は小さいながらも静かに落ち着いたものになっている。

 念の為化膿止めを塗っていたからなのか、或いは『竜』が人間よりも頑丈だからなのか、心配していた傷口の化膿も引き起こす事もなく経過自体は良好な様だ。

 

 ……とは言え、このまま目を覚まさなければ、何も口にしていないだろう『竜』は何れ弱って死んでしまうだろうが……。

 どうにかしてやりたいとは思うものの、こうして『竜』の目が覚めない事にはどうにも出来ないし、『竜』が目を覚ました所でルフレ自身が餌として襲われてしまう可能性も否めない。

 ここは付近の村からも大分離れているので、ちょっとやそっと『竜』が暴れた程度では誰に迷惑がかかると言うものでもないが、万が一にもこの『竜』が人を好んで襲い喰らおうとする様な「人食い竜」だった場合は……可哀想ではあるしルフレとしても助けた手前心が痛むが、『竜』が人里を襲わぬよう、ルフレが責任を持って『竜』を殺さねばならないだろう。

 そうならない事を願うが、何にせよ『竜』が目覚めない事にはどうにもならない。

『竜』が何時目覚めても良いように、ルフレは時間さえあれば『竜』の傍で過ごしていた。

 

『竜』の事が気に掛かるとは言え、四六時中『竜』だけを診ている訳にもいかない。

 特に、何時目覚めても良いように『竜』に与える食料は蓄えておく必要がある。

『竜』の歯や顎の形を見るに肉食か或いは雑食であろうと当たりを付けて、ルフレは連日森で狩りや採集に勤しんでいた。

 野生の獣なのだから血の滴る生肉が一番なのだろうけれど、流石にそのままでは日持ちしないので、狩った獲物は一日置いてから燻製にして保存している。

 かなり弱っているであろう『竜』がいきなり燻製肉を消化出来るのかは分からないけれど、もしも殆ど食べられそうにない程に弱っているのなら、柔らかく煮込んでから与えてみるのも良いかもしれない。……ただその場合も、人の手が入ったものを『竜』が食べてくれるのかと言う問題もあるのだが……。

 

 元々、半ば発作的とも言える衝動で『竜』を治療したが故に、今後に対する計画性などは今の所は何も無くて。

 勿論『竜』を助けた事自体には何一つとして後悔などしてはいないのだけれども、どうにも将来的な部分に関してはまだ考えあぐねてしまっている。

 何はともあれ、『竜』が目覚めない事にはどうにもならない。

 楽観視し過ぎるのは当然良くないが、今の時点であれやこれやと悪い方悪い方へと考える事もまた愚かしい。

 その時その時に応じて考え対応していくしかないのだから。

 

 そんな事を考えながら、ルフレは森の奥で仕留めた若い牡鹿の血抜き処理を行っていた。

 首を一矢で射抜かれた鹿はとっくに絶命していて、首を切って木に逆さに吊られていても身動き一つしない。

 辺りに血の匂いが充満し、森の獣達がおこぼれに預かろうと集まって来ているのは感じるが、彼等は獣除けに焚かれた火とそこで燻された特殊な調合薬の煙によって近寄れない。

 血抜きの終わった鹿を、ルフレは大まかに解体し始めた。

 細かい部分の処理は屋敷の方へ帰ってからするのだが、鹿の様な大きな獲物だとそのまま抱えて持ち帰るのは難しいので持ち運べる様にある程度の部位に分けておく必要がある。

 手馴れた手付きで解体用のナイフを振るい、バラバラになった肉の塊を縄で縛って背負った。

 解体した時に余った肉片や臓物の類は森の獣達への分け前としてその場に置いていくのが、ルフレの中での「決まり」だ。

 

 ……瀕死の所をルフレに助けられた『竜』と、ルフレによって狩られこうして肉として食われる鹿。

 そのどちらもが同じ一つの命であり、そこに命としての「価値」の重さに変わりはないのだけれども、その命運は真逆だ。

 生きるとは決して平等な事ではなくて、こうして他の命を奪わねば命は生きてはいけない。

 生きると言う事は、そして何かを助けると言う事は、決して綺麗事では無くて、生きていればその手は血に汚れていく。

 ただ……、それを当然と感じただ他の命を貪るのか、或いは儘ならぬそれを受け入れてもそこに「敬意」と「感謝」の気持ちを抱く事を忘れずに生きるのか……、そこに『人』としての心の尊厳があるのだと、かつてルフレは母に教えられていた。

 だからこそ、ルフレは自身の手で殺した命に、敬意も感謝の念も、どちらも懐く事を忘れた事は一度たりとも無い。

 それが、「人間」の傲慢、思い上がりの自己満足であっても。

 ……そして『命』への敬意があるからこそ、『救う』事を選択した命は、全霊を賭けて助けたいのだ。

 

 解体した鹿肉を背負って屋敷まで戻ってきたルフレは、解体作業の続きをする前に『竜』の様子を見ようと、そのまま屋敷の裏手の森へと向かう。

 それはここの所の決まったルーティンの様なもので、……残何ながら今までは良くも悪くも『竜』の様子に変わったモノは無かったのだけれども、しかし。

 ルフレの足音に反応してか警戒する様な唸り声が聴こえ、それに急かされた様にルフレが足早に急いだそこには。

 

 目覚めた『竜』が、怯える様にルフレを見詰めていた。

 

 

 

 

 

 

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 小鳥たちが鳴き交わす様な、そんな囀りがまず耳に届いた。

 そして、聴覚がゆっくり目覚めていくかの様に、次第に小鳥の囀り以外の様々な音が……木々の間を木の葉を揺らしながら風が吹き抜けていく音、地を獣達が駆けていくその足音、獣の声、何処からか聞こえる水音……そんな世界に溢れている様々な音が耳に入ってくる。

 そしてそれと並行する様に深い深い微睡の底にあった意識がゆっくりと浮上し、鉛の様に重たい瞼が徐々に開かれてゆく。

 

 ── ここは……

 

 自分が今居る場所が一体何処なのか、全く見当も付かない。

 見慣れた自室ではなく、それどころか全く見覚えの無い……まるで森の中の様に木々が立ち並ぶそこに、ルキナは困惑する。

 王城の庭の様に人の手によってその枝葉の先に至るまで管理された木々とは異なる……木々の生育に任せるがままに育ったかの様な目の前に立ち並ぶ木々が王城に存在する筈は無く。

 ならばここは少なくとも王城ではないのだろう。

 何処かの森の中であるにしても、一体どうして自分はこんな場所に居るのであろうか……。

 王族であるルキナには、身の安全上の問題やその他にも様々な事情から基本的に公務や休暇以外で城の外に出る自由は無くて……例え抜け出しても精々が城下町までだ、こんな森へ来る事など考えられない。……そもそも目覚める前の自分は、一体何をしていたのだろうか……。

 ……それすら、未だ何処か鈍い頭では辿り切れない。

 取り敢えず身を起こさねば、と。

 俯せの状態で眠っていた身体を起こそうとするが、腕に力を込めた瞬間に左腕と胸に激しい痛みが走り、バランスを崩したルキナは思わず地面に倒れこんでしまう。

 一体何がと、左腕へと目を落とした……落とした筈だった。

 

 だが、視界に映ったのは、自身の左腕などではなくて。

 布の様な何かを巻き付けている……蒼銀の鱗に覆われた獣の前脚としか呼べない何かであった。

 その光景に一瞬にして未だ夢現を彷徨っていた意識がハッキリと目覚め、そして「目覚める」直前までの記憶を呼び覚ます。

 

 ── そう、そうだ……、私は……! 

 

 突如獣の……『竜』の姿へと変貌していった自分の身体。

 向けられた敵意、敬愛する父の怒りと憎悪に染まった視線、残酷な程に美しく煌めいたファルシオンの切っ先、切り裂かれた傷口の熱さとそこから零れ落ちる命の雫、迫る『死』……。

 一気に脳裏を駆け巡ったそれらに、ルキナは思わず痛みを覚えて呻くが、それは獣の唸り声にしかならない。

 自身の記憶を否定したくて半ば反射的に自身の身体を確かめるが、……そこにあるのは『竜』の身体でしかなくて。

 あの悪夢の様な出来事が、夢などでは無かった事だけを残酷にルキナに突き付けてくる。

 

 ── ああ……一体何故、どうして……

 

 何度そう自身に問い質しても答えなど見付からずそれが返って来る事も無く……そして状況が好転する事も無い。

『竜』の身にその心と魂を囚われたまま、何も変わらない。

 絶望が荒れ狂う波の様にルキナの心に押し寄せて、心を支えるものを見失いそれに呑み込まれそうにすらなる。

 こんな『竜』の身体で、どうすれば良いのだろう、どう生きてゆけば良いのだろう……。

 こんな「怪物」の姿では、人々の世で生きる術など何処にも無い……現に父からは目の前の『竜』がルキナであると理解して貰えなかったからとは言えファルシオンを向けられた。

 例え「ルキナを襲い喰い殺した『竜』」と誤解される様な状況でなくとも……この姿では人々に追われる事になっていた。

 それも当然だ。こんな恐ろしい「怪物」を見た時に、人が抱くのは恐れや畏怖……そう言った感情になるであろうから。

 酔狂な人間だと狩る対象として見るかもしれないが、……何にせよこんな『竜』の姿ではルキナが『人間』として……知性ある生き物として扱われる事は無い。

 

 ならば野の獣の様に生きねばならぬのだろうか。

 たった独り、人目を忍ぶ様にして。

 ……それは想像するだけでも余りにも恐ろしい事であった。

 そもそも、今まで人間として生きてきたルキナにその様な野の獣の生き方が分かる筈も無くそもそも出来やしないのだが。

 

 ── 戻りたい……元の『人間』の姿に……

 

 そうは願っても、そもそもこうなった原因も何も分からないのだ……祈るだけならば当然の事ながら事態は好転しない。

 それでも、『人間』に戻りたかった。

 イーリスの王女として成さねばならぬ事があると言う自負とそこに在る責任感もその思いを支える柱の一つであるけれど、それ以上に……こんな『竜』の姿のままで、誰にそれを知られる事も無く孤独に死ぬ事に耐えられないのだ。

 自分は人間として生まれたのだ……なればこそ、最後まで『人間』としてその生を全うしたい。

 その為にも、こんな場所で『竜』のまま死ぬ訳にはかない。

 生きねば、と……そう強く意識した瞬間、無性に腹が空いている事にルキナは気が付いた。

 城から抜け出してここに逃げ延びてこうして目覚めるまでに何れ程の時間が経っていたのかは分からないが……少なくともかなりの時間を飲まず食わずで過ごしている。

 加えてあれ程の傷を負ったのだ……消耗していて当然だ。

 

 ── 傷……? 

 

 ふとルキナは自身の左腕に目をやった。

 先程は混乱の余りにそれどころではなかったけれども、よくよく見なくてもおかしな部分がある。

 左腕に巻き付けられたこの布の様な何かは一体何なのか。

 何者かの意図を感じるそれを、注意深く観察する。

 この布は何だろう……シーツ、だろうか……。

 ルキナが王城で使っているそれとは比べるべくもない質素なものではあるけれど……しかし一体何故……? 

 消耗が激しいからか僅かに腕を動かすのも億劫であるが、それを顔に近付けて臭いを嗅いでみる。

 僅かにシーツの下から香るのは……何とも独特な臭いだった。

 近いものを上げるなら、昔嗅いだ事のある調合薬のそれに何処か似ている気がする……。

 ファルシオンによって斬られ、今もまだ痛むその場所を覆う様に巻かれているそれは……「包帯」の様にも見えた。

 だが、こんな『竜』の姿をしているルキナに対して「包帯」を巻く……「治療行為」を行う人間など居ないだろう……。

 居たとしても、余程の酔狂か恐れ知らずの馬鹿だけだ……。

 偶々逃げ延びた先で、そんな酔狂な人間が偶々傷付いたルキナを見付け、それを治療したなど……到底有り得ない可能性だ。

 ルキナが人間の姿であればまだ有り得たかもしれないが……。

 ルキナは、その可能性を否定した。

 ……正確には否定したがっていた。

 腕だけでなく胸など……傷付いている様々な場所にしっかりと巻かれたシーツの存在は既に認識している。

 ……それでも、期待して……それを裏切られる恐ろしさに尻込みする様に、『希望』を持つ事を諦めようとしていたのだ。

 ルキナは独りだ、誰も助けてなどくれはしない、助けを求める声は『人間』の言葉にはならないのだから……。

 そう思っている方が、余程楽だ。

 

 その時、「何か」が草木を踏み分けながら、ルキナの居る場所へと近付いてきている音が聞こえた。

 獣か……或いは人か。

 森の獣だとしてもこのろくに動けぬ手負いの状態では熊などを相手にするのは厳しいものがあるし、もし人であるならばこうして弱ったルキナを見て殺そうとしてくるかもしれない。

 強く警戒している所為か、無意識にも唸り声が零れる。

 だが、凶暴な『竜』が威嚇している様にしか聞こえない唸り声にも、足音は怯んだ様子も無く寧ろやや足早に近付いてくる。

 そして、茂みを掻き分ける様にして現れたのは。

 一人の、若い男であった。

 年の頃はルキナとそう変わらなさそうで、柔らかな面立ちの中に何処か目を惹く『何か』を感じる……そんな印象の男だ。

 ルキナが今まで目にした事の無い少し不思議な意匠の外套を身に纏い、イーリスでは少し珍しい白銀の髪に黄金色の瞳。

 ……ここはもしかしてイーリスの地では無いのか? と男に対して警戒を続けるルキナの意識の片隅に僅かに過る。

 王城から逃げる中、行く宛も無く我武者羅に飛び続けていた上に、そもそもどの方角に向かって飛んだのかすら記憶が無いルキナは、そもそも今居るこの森が何処の国の地であるのかすら分かっていなかった。

 無意識の内にイーリスだと思っていたが、ぺレジアやフェリア……どうかすれば異なる大陸の地である可能性もあるのだ。

 ……こんな『竜』の身に窶している時点で、何処の国であるのかなど最早些末な事でしか無いのかもしれないが……。

 ……いや、今はそんな事を考えるよりも目の前の男の事だ。

 ……男は……武器は手にしていない様であった。

 しかし、背に背負う様に「何か」を持っている。

 男は驚いた様にルキナを見ているが、そこに怯えの様な感情は見えず、何故か「安堵」に似た様な顔をしている。

 男が、一歩ルキナに近付いた。

 それに反射的に、獣の様な威嚇の唸り声を上げてしまう。

 しかし、恐ろしい『竜』が唸っていると言うのにも関わらず、男に臆した様子は無く、まるで不用意に刺激するのを避けようとしている様に、害意は無い事を示すかの様にその両の掌をこちらに向けてゆっくりと慎重に近付こうとしてくる。

 

「大丈夫、僕は君を傷付けない、武器を向けたりしない……。

 ほら、だからそんなに怯えないで……。

 まだ君の傷口は完全には塞がっていないんだ。

 無理をするとまた傷口が開いてしまうよ……。

 大丈夫、僕は怖くない……だから怯えなくていいんだよ……」

 

 ……男にとってルキナは、人間の言葉など通じる筈も無い『竜』にしか見えぬであろうに、男は優しく言葉を投げかけてくる。

 その声音が、本当に優しくて……思わず警戒を解きそうになったけれども、優しい言葉を口にしているからといってそれを信じて良いのかはまた別である。

 警戒を解かないルキナに、男は諦めたのか……ルキナから少し離れた位置で立ち止まる。

「……同じ人間に傷付けられたんだ……。

 そう簡単には人間を信頼出来ないのは仕方ないね。

 でも……そうやって僕に対して怯える様に威嚇するだけ……って事は、君が人に追われた原因は、偶然の不幸で人里に迷い込んでしまった……って所だったのかな? 

 君が人を襲う様な『人食い竜』じゃなさそうで安心したよ。

 ……きっとお腹が空いているよね? 

 人間の手から与えられたものなんて、君には食べられないかもしれないけれど……」

 

 男はそう言って、ルキナの目の前に、その背に背負っていたモノを……鹿か何かの獣の後足の肉を置いた。

 熱を通してすらいない生肉を、「どうぞ食べて」と言わんばかりに差し出す様に置かれて、ルキナは困惑した。

 

 男の意図が読めなかった、と言うのもあるが……。

 ……身体がどうであれルキナの意識は紛れも無く人間だ。

 いきなり生肉にかぶり付く事なんて出来はしない。

 それをしたら自分から「人間性」を捨てる事になる気がする。

 焼くなり煮るなり、そう言った手間がルキナには必要なのだ。

 それに男が肉に毒を仕込んでいたりする可能性だってあるかもしれないので、用心の為にも口を付ける訳にはいかない。

 

 ルキナが顔を背ける様にその肉を拒絶すると、男は少し困った様な顔をした。

 

「うーん……やっぱり駄目か……。

 人間の手に渡ったモノは食べられないのか、……生肉を消化する体力も無いのか、どっちかは分からないけど……。

 何も食べなければ、折角命が助かったのにこのまま弱っていって死んでしまうよ? 

 ……少し煮込んでみたら、食べられるかい?」

 

 男はそう言って、生肉をそのままルキナの前に置いて、何処かへと姿を消す。

 そして少ししてから戻ってきたその手には、水が入った大鍋と薪木と肉の塊、そして木皿と桶があった。

 男は、その意図を理解出来ずたじろぐルキナの前で、慣れた手つきで火を起こして大鍋を火にかけた。

 そして水が茹った所で肉の塊を鍋に入れて煮込みだす。

 少しの塩とハーブの様な物と共に肉を煮込んだだけの……料理と呼ぶにも憚られる……少なくとも王城でルキナが口にする事など絶対に無かったであろう、そんな簡素な肉の煮込みだ。

 だがしかし、少しだけ加えられていたハーブの匂いの所為なのか、大鍋から沸き上る湯気がルキナの食欲を酷く刺激する。

 男は煮込んだ肉を切り分けて、小さな塊を木皿へ、大きな塊を桶へと入れ、その桶をルキナの目の前へと置く。

 そして、男はルキナの目の前で木皿に載せた肉を口にした。

 

「ほら、僕がこうして食べられるんだ、毒なんて入ってないよ。

 少し香草も混ぜたから君にとっては少し変な感じかもしれないけれど……弱った胃腸を癒す力があるモノで、今の君に必要なものだから……気にせず食べてくれると嬉しいな」

 

 男に何の目的があってこんな事をしているのかは分からないが、……確かに何か口にしなければ弱っていくだけであるし、身動きが自由に取れない以上は自力で糧を得る事も出来ない。

 男が差し出してきたこの肉を口にする事が、生きる為に今必要な事であると言うのは分かっているのだ。

 恐る恐る、ルキナは桶の中の肉を口にした。

 ほぼ肉を煮込んだだけのモノであるが、僅かな塩味と微かな香草の匂いが不思議と合っている。

 よく煮込んだ肉は柔らかく、疲れたルキナでも容易に咬み千切り呑み込む事が出来た。

 一口呑み込んでしまえば、後はもう済し崩しだった。

 空腹感に突き動かされる様に、夢中で食べてしまう。

「獣」そのものの様な食べ方だとか、そんな事を気にしている余裕は今のルキナには既に無い。

 気が付けば桶はあっと言う間に空になっていて、男が嬉しそうにそれを見ていた。

 

「良かった、これで一安心だ。

 完全に傷が癒えるまではまだ暫くかかるけれど……。

 こうして食べる事が出来たんだ、必ず良くなるよ」

 

 男はそう言いながら、恐れる様子も何も無くルキナの身体に優しく触れた。

 その微笑みが、とても優しくて。

 それが何故だか、ルキナの胸に痛みを感じさせるのであった。

 

 

 

 

 

 

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 目覚めた『竜』は、とても大人しい個体であった。

 目覚めた当初こそルフレを警戒し怯えていたが、それも次第に鳴りを潜めてゆき、今では抵抗する事も無く治療行為を受けてくれる様にまでなっていた。

 

 飛竜は、その賢さは他の生き物の比ではなく、心を通じ合わせ騎乗を許した相手とは、まさに以心伝心の状態になり簡単な言葉なら容易くその意図を理解出来る……と言われている。

 そうであるならば、この『竜』も、「助けたい」と言うルフレの意図を感じ取ってくれたのかもしれない。

 この『竜』は竜と人間の姿を併せ持つ《マムクート》と呼ばれる存在では無かった様で人間の言葉を話す事は出来ないが、しかし相当に賢いのは間違いない。

 当初こそ、ただの気休め程度に言葉を掛けていたルフレだが、『竜』が明らかにその意図を理解している様な素振りを見せるようになってからは、意識的に『竜』に話しかけている。

 ある程度なら身体を動かせる様になってきても、ルフレを襲おうとする素振りは全く見せず。

 寧ろ、何怯えや恐れに似た感情で、『竜』はルフレを見ていた。

 この『竜』が人を襲って人から追われる様になったとは考え辛く、運悪く人里に迷い込んでしまったのが人に襲われる要因になったのだろうとルフレは見ていた。

 

 そして『竜』と言えばどうにも不思議な事があって、あれから随分と回復してきた筈なのに、何故か生肉は決して食べようとはせずに、煮込んだり焼いたりと、ルフレが手を加えた肉を好むのだ。更には、滋養に良い蜂蜜と蜜蝋と雑穀とを混ぜた粥の様なモノを試しに作って与えてみたのだが、野に生きる獣なら食べた事など無いだろうそれをどうやら大層気に入った様で、尾を揺れ動かす程に喜んで食べたりしていた。

 どうやら雑食な上に甘い物が好きであるらしく、森で獲ってきた果実などを与えるととても喜ぶのである。

 

 ……しかし、ルフレが『竜』の面倒を見るのはあくまでもその傷が癒えてまた一匹で生きていける様になるまでだ。

 人の手が加わったモノの味や、人から糧を得る事を過度に覚えさせてしまうのは『竜』自身にとっても害にしかならない。

 貴族などが道楽で人間の食料を野の獣に与えた結果、その味を覚えた獣が人里にまで降りてきてしまい、結果双方共に不幸な結末に終わった話はしばしば耳にする。

 だからこそ、『竜』が必要以上に人間に……引いてはルフレに対しての警戒心を解かない様にしようと……そう心がけようとしてはいるのだけれども。

 しかし、どうにも上手くはいかなかった。

 

『竜』の……あの深い孤独に似た色と「何か」への恐怖を映す目を見ていると、どうしてだか心がざわついてしまう。

 相手は野に生きる存在で、人間の理屈や意識とは全く異なる理で生きている命である筈なのに、……どうしてだか酷く「人間臭い」ものをこの『竜』から感じるのだ。

 

 今もルフレに多少怯えてはいるものの、人馴れしていると言うべきなのか……『竜』はルフレの意図を汲み取る事に長けていた。例えば、『竜』にとっては見慣れぬものであろう治療道具の類や薬に対してだって、最初だけ多少は怯えていたが今となっては怯える事も無く、寧ろ治療しやすい様に傷付いている腕をルフレの方へと差し出す様にしてくる事だってある。

 もしかして、この『竜』は……かつては人の手で飼われるなりしてその近くで暮らしていたのだろうか? 

 貴族や大富豪の類の中には珍しいモノを飼う事に楽しみと箔付けを見出している者も居るらしいと聞くし、そう言った者が珍しい猛獣などを飼う事はしばしばあるらしい。

 それこそもう千年以上も前の事になるが、イーリスを興した初代聖王が生きていた時代などには、《マムクート》や……獣の姿と人間の姿を併せ持つ《タグエル》と呼ばれた人々を『飼う』者達も居たと言われてもいる。

 そう言った「人間」を、『飼う』事・非人道的な扱いをする事は、初代聖王が直々に禁じた事ではあるのだけれども……。

 禁じられたが故に更にその希少性が高まり、そこに価値を見出して隠れて『飼って』いた者も居たと……そう僅かながら文献で目にした事もあった。

 何にせよ、希少な生き物を飼う事は社会的ステータスを誇示する方法の一種であると考えている者は何時の時代にも居る。

 この『竜』も、そうだったのではないだろうか。

 

 傷付き果てていても、その蒼銀の鱗に覆われた体躯はしなやかで、深い蒼の瞳は夜明け前の空をそこに閉じ込めたかの様で、飛竜たちのそれとは異なる鳥の翼にも似たその翼は天からの御使いだと言われても何の疑問も感じずに受け入れてしまいそうな程に荘厳さを秘めていて、物語の世界から抜け出してきたかの様なその姿は、まるで万物の創造主がこの世で一番美しく特別なものを創ろうとして生み出したかの様だ。

 近寄り難さすら感じる美しさとは、この事を言うのだろう。

 そう言った感性を持つ者にとって、この『竜』がその手の内に在る事は限りない至福であったのではないだろうか。

 そんな感性は一切持たない……命は在るべき場所に在ってこそ美しいと思うルフレですら、この『竜』には何かが惹かれるのを感じてしまうのだ。……無論、だからと言って自らの手の内に閉じ込めたいなどとは思ってはいないけれども。

 ただ……そういった「道楽」を持つ貴族の内には、そうやって自身の内に囲った命に対しての「責任」を果たさない者もそう少なくは無いと聞く。飽いて捨てられた猛獣が、人を恐れないばかりに人里にやって来てしまう事だってあるらしい。

 

 ……そう思えば、この『竜』が人に傷付けられ追われる事になった原因は、そこにあるのではないだろうか。

 人を知っているが故に人恋しくなり人里に降り立って……そして人に追われたのだとすれば。

 それは、酷く『竜』の心を傷付けた事であろう。

 それでもこうしてルフレに対し攻撃的にはならずにただ怯えるだけであると言う事が、この『竜』が人に深く接して生きてきた証左になるのではないかとも思う。

 

 しかしそうだとすれば、益々『竜』への対応に悩んでしまう。

 一度でも人の手の内で生きていた獣は、捨てられるなりして解放されたとしてもそのまま野で生きていく事は酷く難しい。

 野の同族の群れに混じって逞しく生きていく事もあるにはあるだろうが……そもそもこの『竜』の同族が何処に居るのかは知らないルフレには、群れに帰してやる事も難しい。

 かと言って森に放したとしても、既に人里に降りて追われた事があるだけにまた同じ事を繰り返す可能性は低くない。

 折角こうして助かった命なのだ、出来るならば少しでもこの『竜』にとって幸せな生き方をさせてやりたい。

 

 どうする事が、どうしてやる事が、この『竜』にとっての最善になるのだろうか……。

「森の賢者」と呼ばれるルフレではあるが、この手の事は全くの門外漢であるだけにどうにも良い手が思い浮かばない。

 

 

「いっそ、君が『人間』だったら……なんて考えてしまうんだ」

 

 もう何度目かも分からない薬の塗り替えの際に、ルフレはそうポツリと独り言として呟く。

 それは『竜』に向けての言葉では無かったのだけれども。

 しかし、『竜』はその言葉に何故か身を固くして、ルフレの言葉を決して聞き漏らすまいとばかりに静かに見詰めてきた。

 そんな反応が返ってきた事に驚きながらも、ルフレは治療の手を休める事無くそのまま独り言を続ける。

「君が『人間』だったなら……近くの村に送り届けるなり、君の家を探して連れて行くなり、そうやって君にどうしてあげるべきなのか……って言うのは簡単だったんだけどね。

 傷が癒えた後で君にどうすれば一番良いのか分からなくて。

 君は……どうしたい?」

 

 返事など返ってくる訳も無いけれど、そう問いかけてしまう。

『竜』は、当然ながら何も言わなかった。

 しかし、ルフレの手へと摺り寄せる様にその頭を触れさせる。

 そこにある隠す事すらない不安の色に、ルフレは『竜』の頭を優しく撫で返して、思わず苦笑する様に呟いた。

 

「傷が癒えるにはまだまだかかるから、当分は先の話だよ。

 それに、人里に降りるのは危険だけれど、僕の所になら何時でも遊びに来ても良いから……そんなに心配しないで良いさ」

 

 そう言ってやると、『竜』はその言葉の意味を解したかの様に安堵した様に小さくその喉を鳴らして尾を揺らした。

 その仕草に無性に「人間臭さ」を感じて、思わず呟く。

 

「……どうにも、君に接していると、まるで人間を相手にしている様に時折思えてしまうな……。

 案外、本当に『人間』だったりして…………。

 …………何てね、そんな事、ある筈──」

 

 有り得ない冗談の様なそれを呟いた瞬間。

『竜』は何かを訴えかける様に鳴いた。

 そして、その瞳からポロポロと光る雫が零れ落ちていく。

 その反応に思わず唖然として、そんな事ある筈無いと……そう思いながらも、ルフレは『竜』に問わずにはいられなかった。

 

「まさか……本当に。君は『人間』……なのかい……?」

 

 そう問い掛けた瞬間。

『竜』はそれを肯定するかの様に……見間違え様も無くハッキリと、涙を零しながらその首を縦に振ったのであった。

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 男は、本当にルキナに対して害意は全く無い様であった。

 害意が無いどころか、彼にとっては恐ろしい『竜』でしかないだろうルキナに対し、献身的なまでに治療を施し、食事などの用意までしてくれている。

 酔狂なのか何なのか、彼はルキナに対して怯える様子も無く鋭い爪や牙に対しても恐れる様子を微塵も見せなかった。

 傷だらけでこの森まで逃げ延びてきたルキナの傷を治療して助けてくれたのは間違いなく彼であろう。……と言うより彼の様な酔狂な人間がそうそう他に居るとも思えない。

 

 ……彼はルキナに対して色々と語りかけてくれるけれども、それはルキナを『人間』として見ている訳では無くて、精々知能が高く人間の言葉をある程度は解せる獣程度の認識である。

 それでも、こうして人間の言葉で語り掛けてくれる者が居ると言う事は、今のルキナにとってはこれ以上に無い程に有難い事であって、その扱いに文句など言える筈は無い。

 まあ……文句を言った所でそれが彼に伝わる事は無いのだが。

 傷付いた身を治そうとしてくれている彼には感謝しかなく、今更彼のそう言った「善意」を疑うつもりは毛頭ない。

 しかし……それでもどうしても彼の事を信じきれないのだ。

 

 彼の優しさに触れる度に……父のあの憎悪に染まった視線が脳裏を過り、そしてファルシオンによって斬られた傷が痛む。

 ……何かの切っ掛けで、彼もまた父と同じ様にあんな目を向けて武器を手にルキナを殺そうとしてくるのではないかと……そんな考えが頭の片隅に居座り、それを何故か追い払えない。

 ……そんな事をするのなら、最初から彼にとっては『竜』でしかないルキナの命を助けようなんてしないと言う理屈は分かっている……分かっているのだけれども……。

 

 ……顔見知りの『人間』に、そして最も信頼していた相手である父に、憎しみと怒りを向けられて殺されかけた経験は、ルキナの心の深い場所で大きな傷になっていた……。

 ……紛れも無く命の恩人である彼にすら、どうしても心を開き切る事が出来ない程に。

 しかし、ルキナ自身がそれを「良し」とは出来ないからこそ、苦しくて仕方ないのだ。

 

 そして……彼は間違いなくルキナに対して良くしてくれているし優しいのだけれど、それは「獣」に対するものなのだ。

 それを仕方ない事だとは分かっているのだけれども、自分が「獣」扱いされている事を改めて認識するのは辛いものがある。

 自分は『人間』だ。……『人間』、なのだ。

 

 言葉を話せるのならばそれを彼に伝える事も出来るだろうに。

 しかし、この喉から出るのは獣の鳴き声でしかない。

 いっそ、彼が気付いてくれれば良いのに……だなんて、夢を見るにも程がある事を思ってしまう。

 ……そんな事を思っていたからだろうか。

 

 

「いっそ、君が『人間』だったら……なんて考えてしまうんだ」

 

 何時もの様に傷口に薬を塗りながら彼がポツリと呟いたその独り言に、過剰な程に反応してしまったのは……。

 もしかして……と言う淡い期待から、彼の言葉を聞き逃すまいと……決定的な言葉があれば、直ぐにでもその言葉を誰が見ても伝わる様に肯定しようと、身構えてしまう。

 ルキナの突然のそんな反応に彼は少し困惑していたが、そのまま手を止める事無く言葉を続ける。

 

「君が『人間』だったなら……近くの村に送り届けるなり、君の家を探して連れて行くなり、そうやって君にどうしてあげるべきなのか……って言うのは簡単だったんだけどね。

 傷が癒えた後で君にどうすれば一番良いのか分からなくて。

 君は……どうしたい?」

 

 それは、ルキナの期待していた言葉では無かったけれども、しかしルキナにとってはとても重要な問いかけだった。

 ……今のルキナには、何処にも行く宛が無い、それどころかこれからどうしたら良いのか、どうするべきなのかと言う指標すら何も無い。

 元の『人間』の姿に戻りたい」と言う願いはあるのだけれども、どうすればそれが叶うのか……その手掛かりは何処かにあるのかどうかすらも……何も分からなくて。

 まさに、見渡す限りの全ての道が深い深い霧に覆われてほんの指先程度の先すら見通しが立てられないかの様だった。

 

 目下の所は、傷を癒して動ける様になる事が目標だけれども。

「その後」をどうすれば良いのかなんて、ルキナの方が誰かに聞きたい位であった。

 どうしたいのかと言う事ですら、自分にも分からない。

 ただ……例え自分を『人間』として見てくれている訳では無いのだとしても、こうしてこんな姿をしている自分に優しくしてくれている彼から離れるのは……恐ろしかった。

 何も分からないまま自分と言う存在が変質してしまった恐怖と混迷に荒れ狂う暗い海の中で、やっと見付けた寄る辺なのだ。

 そこを追い出され喪う事は、……何よりも恐ろしい。

 だから、どうかその小さな寄る辺から追い出さないでくれと、そんな不安を胸にそれを伝えようと、ルキナは彼の手に鱗で覆われた『竜』の頭を摺り寄せた。

 人間らしい指先を喪ったこの身体では、そう言う風にしなくては、自分の想いを伝える事すら難しかった。

 ……ルキナの想いが伝わったのか、彼は優しい目でそっとルキナの頭を撫で返し、そして苦笑する様に呟く。

 

「傷が癒えるにはまだまだかかるから、当分は先の話だよ。

 それに、人里に降りるのは危険だけれど、僕の所になら何時でも遊びに来ても良いから……そんなに心配しないで良いさ」

 

 何時でも帰って来て良いのだと、彼の中にルキナの居場所はあるのだと、そう感じた途端……安堵がこの胸に溢れ出す。

 無意識の内に喉を小さく鳴らしてしまい、今の自分の身体の一部ではあるが未だにその存在に慣れぬ尾が微かに揺れた。

 そんなルキナの様子を見た彼は、ちょっとした冗談を言うかの様な軽さで呟く。

 

「……どうにも、君に接していると、まるで人間を相手にしている様に時折思えてしまうな……。

 案外、本当に『人間』だったりして…………。

 …………何てね、そんな事、ある筈──」

 

 彼の言葉は、そこで途切れた。

 そして唖然とした顔で、ルキナを……そしてその頬を零れ落ちる涙の雫を見詰める。

 

 

『そうです! 私は……私は! 人間なんです!! 

 貴方と同じ……、人間なんです……』

 

 

 それが人間の言葉にはならないと分かっていながらも、どうか届いてくれと願い、ルキナはその思いを訴える。

 ボロボロと零れる涙で、彼の姿が滲む。

 もしかして、もしかしたら……! 

 今ならば、そして彼ならば……。

 目の前のこの『竜』が、人間なのだと。

 そんな、まるで夢物語の様な、到底信じられない事実を。

 他でもない彼ならば、信じてくれるのではないかと。

 そんな「期待」がルキナの胸を圧し潰さんばかりに溢れ出す。

 

 彼は、そんなルキナの様子に。

 有り得ないと、信じられないと、そんな筈無いだろうと。

 そんな思いを隠す事も無い表情で。

 しかし、聞き間違えようも無くハッキリと。

 ルキナが求め続けていた問いを、口にした。

 

「まさか……本当に。君は『人間』……なのかい……?」

 

 その問いに。

 ルキナは絶対に誰が見ても確実に理解出来るよう、これ以上に無い程にハッキリと大きく頷いた。

 それを見た瞬間、彼は驚愕の余りに一瞬硬直して。

 そして次の瞬間には混乱の極みにあるかの様に取り乱した。

 

「そんな……まさか……。そんな事が起こり得るのか……。

 そんな話、お伽噺の中位でしか……。

 何だってそんな事に……。

 いや、原因が何であるのかなんて、今はどうでも良い。

 とにかく、事実を確かめる事、それが一番大事だから……。

 でも、そんな……もしそれが本当なら……。

 何て……何て惨い……」

 

 乱れた思考がそのまま言葉として零れ出ているかの様にブツブツと呟いていた彼は、何故か酷く傷付いた様な……痛ましいモノを見る様な目でルキナを見詰めた。

 そして意を決した様にルキナの頭へとその手を伸ばした

 

「大丈夫……君を傷付けたりする様な事はしない。

 絶対に痛く無いし、君に害が及ぶ事は無い。

 ただ……確かめさせて欲しいんだ……」

 そう言って彼は、ルキナには何と言っているのか聞き取れない言葉で何事かを呟き、ルキナの頭を抱き寄せる様にして、彼の額とルキナの額を触れ合わせる。

 ……暫しの間、沈黙がその場に落ちた。

 そして……。

 

「そんな……こんな事が……どうして……」

 

 ルキナの頭から手を離した彼は、今にも泣きそうな顔で悲痛に震える声で、言葉を零した。

 

「君は……君と同じ『人間』に、……こんなに……死の淵を彷徨う程に、傷付けられたと……そんな……。

 君が何かをした訳じゃないのに、何でそんな……。

 酷い……惨過ぎる……。

 すまない……僕は……。

 僕は、気付いてあげられなかった……。

 君の苦しみに、何も……。

 すまない、もっと僕が早く思い至っていれば……。

 君を、『獣』の様に扱うだなんて、僕は何て事を……!」

 

 耐えられないとばかりに、彼はルキナに懺悔の言葉を繰り返す。それには流石に慌てたルキナは、何度も「そんな事は無い」と首を横に振った。

 彼が「ルキナが人間である」と思い至らなかったのは何一つとして彼に落ち度がある事では無いし、寧ろこうして理解して貰えた事の方が奇跡以外の何物でも無いのだ。

 出逢う生き物全てを、本当は『人間』なのでは? と疑うなど狂気の沙汰でしかないし、実際それは狂人の思考だ。

 ルキナ自身、未だに自分の身に起こった事である筈なのに何も信じられないのだ。彼が気に病む事では全くない。

 

 しかし……『人間』であると信じて貰う事は出来た様であるが、ルキナの鳴き声にしかならぬ言葉は相変わらず全く通じていない様で、ルキナが何を言っても彼は自分を責め続ける。

 だから、再びルキナは彼に頭を摺り寄せた。

 すると、虚を突かれた様に彼は謝罪の言葉を止めて、漸くルキナの事を真っ直ぐに見詰める。

 小さく喉を鳴らして首を横に振れば、その意図が漸く伝わったのだろう……彼はまだ苦い顔を隠せないまでもそれ以上の懺悔の言葉を連ねる事は止めた。

 

「分かった……君が望まないなら、これ以上は何も言わない。

 だから、その代わり……と言う訳じゃないけれど。

 君の……『人間』としての君の名前を、教えて欲しいんだ。

 ちゃんと君自身の名前で、君の事を呼びたいから……」

 

 そう言って彼は、そっとルキナの腕に触れる。

 ルキナは、僅かに迷った。

 人間の言葉にはならぬ以上、音でそれを伝える事は出来ない。

 ならば書いて伝えるしか無いのだけれど……。

 人の指先とは掛け離れた形に変貌しているこの手で、果たしてちゃんと伝わる字を書く事が出来るのであろうかと……。

 ……しかし、こうして促された以上は、やってみなくては何も始まらないであろう。

 

 ルキナは右の前脚で、地面を爪で削る様に文字を書き始めた。

 しかしこれがどうしても中々上手くはいかない。

 途中で潰してしまったり削り過ぎてしまったり……。

 そうやって十数回程書き直して、漸く、字を手習い始めたばかりの子供が落書きで書いたかの様な……自分の普段の字とは程遠い、読み辛いが何とか読めなくも無い字が書けた。

 

「『L…U…C…I…N…A』……『ルキナ』……。

 これが、君の名前なんだね、『ルキナ』……。

 ……じゃあ、僕もちゃんと名乗らないとね……。

 ……僕は『ルフレ』。

 この『神竜の森』に暮らしている……『森の賢者』だ。

 これからよろしくね、『ルキナ』」

 

 

 そう言ってルフレは、優しく微笑む様にルキナの名を呼んだ。

 

 

 

 

 

 

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