◆◆◆◆◆
助けた『竜』が、その本当の姿は『人間』だった。
そんな……作り話の中でしか起こり得ない様な事が現実に起こるだなんて考えた事は無かったし、実際ルキナがそれを訴える事が無ければ、ルフレは一生それに気付けなかったであろう。
それを疑う事も無く、本来は人間である彼女を……野の獣として扱ってしまっていたであろう。
それは……それはあまりにも残酷な、彼女の「人間性」を踏み躙る様な行為だ。
それを知らなかったとは言え、どう詫びれば良いのか全く分からない程に残酷な事を、ルキナに対して行ってしまっていた、
僅かにでも疑念を抱いた時に、確かめていれば良かったのだ。
違和感……と言うよりも引っ掛かる部分を度々感じていたのにそれを気の所為だと……或いはそれらしい理屈を付けて、それ以上それを確かめようだなんて思っていなかった。
呪術の心得もあるルフレにならば、ほんの少しの手間があれば彼女の「正体」を確かめる事なんて容易に出来ていたのに。
実際、慌てて呪術で確かめた彼女の「魂」の形は、紛れも無く『人間』のものであった……。
もっと早くに、どうして気付いてやれなかったのかと、そう自分を責めるばかりである。
……その事への申し訳無さは尽きず、慚愧の念は絶えない。
そしてそれ以上に。彼女が負った惨たらしい傷の『意味』が……自分が考えていたモノとは全く違う意味を帯びた事に、そしてその余りの惨たらしさに、ルフレの胸は酷く痛むのだ。
……彼女が何故『竜』の姿をしているのか、その事情はルフレにはまだ分からぬけれど、こうして傷付き果てて命すら危うい状況に在っても元の『人間』の姿に戻る事も叶わず言葉すら喪った状況から察するに、その『変化』は決して彼女自身の望んだモノではなく……また、彼女自身の意志では元の姿に戻る事も叶わないモノであろう事は間違いない。
……ルキナがどの様な状況で『竜』と化したのかは分からないけれども……。
突然の変貌に誰よりも驚き混乱し恐怖したのは彼女自身であろうし、そして……混乱した彼女が、身近な者……友人や家族などに助けを求めようとした可能性は十分以上に在る。
そして……彼女が負った酷い傷が、他ならぬその者達の手で付けられた可能性だって……。
……そうでなくても、彼女は「同じ」『人間』に、生死の狭間を彷徨う程の傷を負わされた事だけは確かだ。
……人々から殺されかけたその恐怖は、何れ程その心を深く傷付けた事であろうか……。
彼女には、身体の傷を癒す事以上に、その深く傷付いた心を癒す事の方が必要であったのかもしれない。
……それなのに、自分は彼女を「獣」扱いして……。
……もう今更過ぎてしまった事を何時までも悔いていても何も変わらないし、それで彼女の心が救われる訳でも無い。
とにかく今は少しでも、彼女に『人間』として出来る限りの事をしてあげなくてはならないのだ。
彼女が元の姿に戻る為の方法を探す事は当然として、最大限『人間』の様にしてあげられる事はしてあげたい。
先ずは、こんな野晒しの場所では無くて、せめて屋根と壁がある場所で過ごさせてあげなくては。
そう考えたルフレは、早速行動を開始した。
かなり広い屋敷ではあるけれど、流石に『竜』の身体が入れる大きさの戸はなくて、屋敷の中に招くのは難しい。
だけれども、今は物置小屋代わりに使っている馬小屋ならば、きっと『竜』の身体でも十分以上に寛げる筈だ。
元々は貴族の為の屋敷であった事もあってか、備え付けられていた馬小屋も、一度に十何頭も入れそうな程に大きく立派なもので、しっかりとした頑丈な造りである。
ルフレ達親子は馬など飼ってはいなかった事もあって今ではただの頑丈な物置としてしか使ってはいなかったが、中の物を片付けて掃除をすれば、十分以上に快適に過ごせる場所になる。
その為、早速ルフレは馬小屋に置いていた様々な物を全部移動させて、隅から隅まで埃を掃いた後に水拭きをして、人も十分に中で過ごせる状態にした。
そこに、藁を軽く固める様にして作ったベッドを作る。
……残念ながら『竜』の身体で眠れる様な寝台はこの屋敷の中にも無かったので、藁で代用するしか無かったのだ。
天井付近の採光窓もしっかりと掃除した為日中の小屋の中は十分に明るく、照明の油も補充したので夜も安心だ。
そうやって諸々の準備が整ってから、ルフレは裏手の森に居たルキナを小屋にまで案内した。
まだ左腕の傷が治りきっていないから、そこに負担を掛けない様にとゆっくり移動したルキナは、小屋を見て目を丸くする。
「ごめんね……今の君の身体で過ごせる様な屋根がある場所はここしか無かったんだ……。
快適に過ごせる様に、色々と工夫はしてみたんだけど……」
やはり、幾ら屋根がある場所とは言っても馬小屋で過ごすのは抵抗があるだろうかと、そう思っていると。
ルキナは「違う」と言いた気に、首を勢いよく横に振った。
そして、何かを伝えようとして優しい響きで喉を鳴らす。
彼女が懸命に伝えようとしているものは、「喜び」、「感謝」……そう言った感情だろうか。
彼女が『人間』である事は分かっているけれども、ルフレの言葉は通じていても、彼女の言葉はルフレがそれを正確に読み解くのはまだ難しく、それを正しく解釈出来ている自信は無い。
それでもきっと、その尾が大きく揺れているのを見るに、そこにあるのは負の感情では無いのだろう。
少しでも彼女の為に『何か』をしてあげられた事が嬉しくて。
ルフレは、漸く安堵から微笑みを浮かべるのであった。
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ルフレの厚意で、ルキナは彼の家にある馬小屋で寝起きさせて貰える事になった。
馬小屋で寝起きさせる事にルフレは抵抗を感じていた様ではあるけれど、肝心の当人であるルキナには、そんな事は何一つとして気にならない程にそれは有り難かったのだ。
そもそも、『人間』に比べればずっと大きい『竜』の身体では、幾ら広い間取りであったとしても『人間』の為に作られた家で過ごすのには無理があるし、寧ろこうしてルキナが窮屈さを感じずにいられる程に大きな馬小屋がこんな森の奥の家にあった事の方が驚きである。
ルキナが不思議そうに小屋を見回している所を察したルフレが話してくれた所によると、彼の家は元々はとある貴族の別荘の様なモノであったらしい。
最初の持ち主たる貴族がこの世を去り、家が手離されて暫く経った後でルフレとその母がここに住み始めたのだとか。
元は貴族のものだと言われれば、ここが馬小屋にしては無駄とも思える程に広く立派な造りをしている事も納得がいく。
本来の用途では久しく使われていなかった為か、馬小屋独特の臭いも全く無く、ルキナが気になる様な所は無い。
そもそも、こうして雨風を凌げる場所を用意して貰えた時点で、不満を感じるも何もただ感謝するしかないのであるけれど。
寝藁として使っている藁束だって、ただ乱雑に積んだモノではなくて、軽く固めてベッドの様にする気遣いまでされている。
これで不満を感じる者が居たら、それは余程の恩知らずか厚顔無恥な暴君だろう。
しかも、そうして居場所を提供して貰うだけではなく、相変わらず献身的に傷を治療してくれているし、更にはルキナが元の『人間』の姿に戻る為の手掛かりまでも探そうとしてくれて。
ルフレには、本来ルキナの事情など何の関係も無い事である筈なのに、偶々彼の所に傷付いたルキナが転がり込んできたと言う……ただそれだけで、有り得ない程親身になってくれる。
いっそ彼には何か裏でもあるのではないかと疑ってしまいそうになる程に……しかしそんな疑いを持つ事など到底出来ない程に誠実に、彼はルキナに良くしてくれるのだ。
ふと気が付けば何時の間にか、ルフレの『優しさ』に触れても、傷が痛む事はもう無くなっていた。
目を閉じた時や眠る時に、父の姿が浮かんで身が竦む事はあるけれど……それも、何時しかその頻度は少しずつ減っていて。
……それはきっと、ルフレが傍に居てくれるからだろうと、そうルキナは思うのだ。
例えば、雨が一日中降り続いて心が沈みがちな時。
例えば、あの日を思い出させる様な強い風が一日中吹き荒れて……心細く不安になる時。
例えば、夢見が悪くて魘されがちな時。
ルフレは、まるでそれを察したかの様にルキナの心に寄り添おうとしてくれているかの様に、ずっと傍に居てくれるのだ。
ただ静かにルキナに身を預ける様にして傍に居てくれる事も、様々な本を持ち込んでそれをルキナと共に読む様に見る事も、他愛ないお喋りをするかの様に語り掛けてくる事もあって。
ルキナにとっては、その何れもが酷く心地よい時間であった。
『竜』の姿から未だ戻れない事は今も変わらず苦しくて不安で仕方が無いのだけれど、それでも……心の全てを塗り潰す様だった「絶望感」は少しずつ薄れてきていた。
ルキナ自身の状況が大きく変わった訳ではない。
それでも、こんな姿をしている自分を、それでも『人間』なのだと……それを理解して、そしてそう接しようとしてくれる者が居る事が、泣いてしまいそうな程に嬉しいのだ。
……ルフレは、ルキナにとってまさに、「救い」であった。
ルキナが言葉を話せなくても、彼は懸命にルキナが伝えようとしている想いを汲み取ろうとしてくれて。
何時だって、ルキナの意志を尊重しようとしてくれる。
ルフレは、『竜』ではなく、『ルキナ』を見てくれているのだ。
それが何れ程得難く『価値』がある事なのか、ルキナには計り知る事など到底出来なかった。
……少なくとも、あの父ですら出来なかった事だ。
状況的には仕方の無かった事でも、父の目に映ったルキナは、『ルキナ』ではなくて『竜』でしかなかったのだから。
王城に居た頃……ルキナが「王女」としての自分の役割を全うしようと懸命に努力していた頃でも。
ルキナを……『ルキナ王女』ではなくて、『ルキナ』と言う一人の人間として見ていた人は何れ程居たのだろう。
少なくともそれは、きっと両の手で数えられる程の数すらも居なかったのだと思う。
自分でも、「王女」としての自分と『ルキナ』としての「個人」とは不可分で同じものだと思っていたのだから。
それを当然だと……そう思ってずっと生きてきたけれど。
……しかし、こうして『竜』の姿に変えられた今のルキナを、『ルキナ王女』として見る者なんて誰一人として居ない。
それどころか、『人間』として見てくれる者すら、この世にルフレただ一人しか居ないのだ。
そう思うと「王女」としての自分なんて、『自分』の在り方として絶対的なモノでは無かったのだと、そう思い知らされる。
『人間』としての在り方を喪ってそれに気付くだなんて、少し変な感じはするのだけれども。
しかし、こうしてルフレと過ごす時間は、王城で『ルキナ王女』として過ごしていた時間よりもずっと穏やかで、暖かくて。
……だからこそ、この身が『竜』である事が苦しいのだ。
『ルフレ』さん、と。
彼の名前を、ちゃんと自分の声で呼びたいと。
そう心から願ってしまうから。
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「駄目だ……これも違う……」
独り言と共に隠す事も無く溜息を吐いて、ルフレは手にしていた本を閉じてそれを書架に戻した。ルキナが、その姿を何らかの要因によって『竜』の姿に変えられた『人間』だと判明してから……ルフレはこうして時間を見付けては彼女を元の姿に戻す為の手掛かりを求めて、屋敷の書庫を漁っている。
屋敷には、母が残した書物が数多く遺されていて、その中には『呪術』に関するモノもかなりの数に上っているのだ。
『呪術』がそこまで一般的なものではないイーリスに於いては、一・二を争える程の蔵書量だろう。
優れた呪術師でもあった母の遺した『呪術』に関する書物の多くは非常に高度なモノで、そこには『呪術』を知らない者からすればまるで神か悪魔の業の様にすら思えるだろうモノも多く記されてはいるのだけれども。
しかし、そんな蔵書の数々を隅々まで読み漁っても。
……『人間』を、『竜』に変える様な術は存在しなかった。
正確には、理性の無い「怪物」の様な……この世のどんな生き物とも似つかぬ様な悍ましい化け物へと『人間』を堕とす『呪術』ならばあるのだけれども……しかし、それはまさにその者の「人間性」も何もかもを汚し尽くすだけのもので。
少なくともルキナの様に、姿こそ歪められていてもその『魂』を本来の状態を保った状態のままに出来るものではない。
そもそも、肉体をその『魂』の在るべき姿から無理矢理に『呪術』で歪める時点で、『魂』自体にも大きな傷が付くのだ。
それは、どんなに卓越した呪術師が行っても変わらない。
だが……少なくともルフレが調べられる限りでは、ルキナの『魂』にその様な痕跡は無い。
ルキナの『魂』は何一つ歪みも傷も無く本来の姿のままだ……だからこそ余計に苦しみ絶望しているのかもしれないが。
だから、彼女の身に起きたその異常の原因は、『呪術』とは違う所にあるのではないかと……ルフレは思うのだ。
彼女の身体を歪める何かとてつもなく大きな『力』が存在している事にもルフレは気付いていた。
しかしそれは余りにも強大で、ルフレが何れ程力を尽くしても、大山に素手で押し比べをするかの様にしかならなかった。
いっそ逆転の発想で、『解呪』の方向ではなく、『人間』の姿になる様な『呪術』を掛けてみれば良いのではないかと思い付いて試してみたのだが、それも敢え無く強大な『力』に跳ね除けられる様な形で失敗に終わった。
……ルフレは『呪術』の心得があるし、その扱いにも長けている方だとも思ってはいるのだが、残念ながらあくまでも母からその手解きを受けて後は独学で学んだだけで、出来る事に限りはある。だが、『呪術』に長けたものが多く集いその研鑽の質は他国のそれとは比較にすらならぬ程であると知られているぺレジアになら、ルフレでは全く歯が立たぬ『呪術』でも軽々とこなせてしまう者も居る筈だ。
中には『呪術』を極めようとするばかりに、生まれてきた赤子の臍の緒を切る事にすら『呪術』を使う一族も居ると聞く。
……ぺレジアに行き、そういった者達の力を借りれば、ルキナを元の『人間』の姿に戻してやる事が出来るかもしれないが。
しかし、ルフレにはそれをどうしても躊躇する事情があった。
……母が生前に繰り返し繰り返し……そしてその今際に在ってすらルフレに繰り返し言い聞かせ続けていた事。
『ギムレー教に、関わってはならない』と言うその約束。
それが、ルフレの行動を縛っていた。
何故母が偏執的な程にそう言っていたのか、ルフレに約束させ続けてきたのかは……母亡き今となってはもう分からない。
この森で生きていくならば、そもそもイーリスには殆ど居ないギムレー教徒の者と関わる事なんて先ず考えられなかったし、だからこそ母の言葉に何の疑問も不自由も感じなかった。
しかし……ルキナを元の姿に戻す為にぺレジアの『呪術師』に頼ると言う事は、まず間違いなくその約束を破る事になる。
ぺレジアはその民のほぼ全員が『ギムレー教』の信徒であるし、況してや呪術師の大半は『ギムレー教』の中心的存在である『ギムレー教団』の一員だ。
ルフレが探している様な卓越した呪術師なんて、まず間違いなく『ギムレー教』の関係者になる。
そもそもそんな凄腕の呪術師への伝手など無いと言う問題もあるけれど、母との約束の事もあって、ぺレジアの呪術師たちを頼ると言う選択肢はほぼほぼ存在しないのである。
……そして、『ギムレー教』に関わらないと言うルフレのその姿勢には間違いなく母の言葉とその約束が影響しているけれど、ある部分ではそれ以上に。
『ギムレー』の名を聞く度に、ルフレの胸はざわつき、恐ろしい『何か』が心を呑み込もうとしてくる様に感じるのだ。
その感覚が心の底から嫌で、ルフレは『ギムレー』と言う名前自体から半ば逃げる様にそれを避けていた。
……ぺレジアに行くのは、本当にもうそれしか方法が無いと確信した時だけだと……ルフレはそう決めている。
ぺレジアに向かう事が、ルキナの苦しみを最も早く取り除いてやれる手段であるのだとしても……それがルフレの我儘である事を十二分に承知の上で、それだけは譲れないのだ。
『呪術』以外の手掛かりは無いのかと、最近は神話や伝承……最早創作なのか事実が元なのかも定かでない様な書物にも目を通す様にしている。しかし……僅かにでも手掛かりになるかと一瞬思った内容は、そのどれもが事実無根の出鱈目でしかないと直ぐに分かってしまうものばかりで……。
そう言った神話伝承の類の中でも、『人間』が異なる姿へと変貌する事象の大半は、ラブロマンスを彩る為のある種の香り付けとしての創作でしかなかった。
中々有効な手掛かりを見付ける事が出来ず、ルキナの力になってやれぬまま無為に日々が過ぎて行ってしまう。
それを心苦しく思う一方で。
……ルキナと過ごす時間に、自分でも誤魔化す事の出来ない程に充足感を感じてしまっている事に、ルフレは気付いていた。
母を喪った日から、独りこの森の奥の屋敷で暮らす内に少しずつ隙間風の様な何かを感じていた心が、優しく塞がれて。
母の命を救う事の出来なかったこの手が、一人の命をこの世に繋ぎ止める事が出来て、何かが救われる様なものを感じて。
その言葉こそルフレにはまだはっきりとは分からないけれど、ルフレの言葉に耳を傾けて……そして想いを必死に伝えようとしてくれる彼女の事が、どうしようもなく大切に思えて。
ルキナと過ごす穏やかで暖かな時間が、何よりも楽しい。
最初の内は、少しでもルキナの心の傷を……その孤独を癒そうと……、そう思ってしていた事だったのに。何時の間にかそれは、ルフレにとっての「癒し」になっていて。
……だからこそ、ルフレは何処か後ろめたさを感じてしまう。
……ルフレが喜びと安らぎ感じているその瞬間も、ルキナは姿を歪められて苦しんでいるのに……。
……ずっと、こうして傍に居たいと、そう思ってしまうのだ。
◆◆◆◆◆
「ルキナ、今日は森の奥の湖に行ってみないかい?」
すっかり包帯代わりのシーツも要らなくなった傷口に、軟膏の様な塗り薬を塗りながら、ルフレがそう尋ねてくる。
ルフレに命を救われたあの日から、もう随分と……それこそ二月以上の時間が経ち、一時は命すら危うかった傷ももうその殆どが綺麗に塞がっていて。最も重篤だったファルシオンで胸を切られたその傷も、鱗も綺麗に生えてきているのでよくよく見なければ傷痕に気付く事は難しくなっている。
激しく動くとまだ少し痛むので無理は出来ないが、最近は日中は畑の世話の手伝いをしたり、狩った獲物を家まで運ぶ手伝いをしたりと、自分なりに今の姿でも出来る事をしている。
最初の内は、ルキナに手伝わせる事に抵抗があったのかそれを遠慮しようとしていたルフレであったけれど、ルキナとしてはここまで彼に世話になっているのにこのまま何もしない方が落ち着かないからと、押し切る様に手伝い始めたのだった。
最初は「無理をしないで」と頻りに言っていたルフレであったが、他ならぬルキナが生き生きと手伝っているのを見て次第に止める様な事は言わなくなり、代わりに色々とルキナに頼んでくれる様になっていった。
恩返し……と言うには余りにも細やかな事ではあるのだけれど、そうやって少しでもルフレの力になれているのなら、ルキナにとってはとても『幸せ』な事であった。
そして、そんなルフレから誘って貰えた事が嬉しくて、ルキナは喜びから尾を揺らして頷く。
『はい! 是非行ってみたいです、ルフレさん』
相変わらず人間の言葉は話せなくて、喉を鳴らしたり唸ったりといった音にしかならないけれど。
最近はそう言った鳴き声の『言葉』でも、ルフレに大体の意味が通じる様になってきていた。
正確には、ルフレがルキナの伝えようとしている『想い』を汲み取る事に慣れてきた、とも言えるのだけれど。
特に、『ルフレさん』と呼び掛けた時の『声』は確実に伝わる様になっていて、それがルキナには堪らなく嬉しいのだ。
「そうか、良かった。
湖の周りの景色も凄く綺麗だし、水もそのまま水浴び出来る位に綺麗だから、一度連れて行ってあげたかったんだ。
少し離れているから、今まではあまり無理をさせたくなくて連れて行けなかったけれど、もう十分動ける様になったからね。
それに、この時期は湖で獲れる魚が美味しいんだよ。
魚が獲れたら、今日のご飯は魚料理にしよう」
ニコニコと微笑むルフレに、ルキナは『楽しみです』と鳴く。
決して、ルキナの食い意地が張っているなんて事は無いのだけれど、ルキナはルフレの作る料理が好きだった。
王城で食べていた料理に比べれば限りなく質素なものであるし味自体もきっと王家付きの料理人達が腕を振るっていたそれと比べる事は難しいのだろうけれども。
ルフレがルキナの事を思って作ってくれる料理は、……城で食べていた毒見を行う内に冷めてしまっている事が大半であったそれとは比べ物にならない程に、とても「温かい」のだ。
たった一口でも心がぽかぽかと温かくなる。
同じ料理を分け合って食べる事はルキナにとってはとても新鮮で……そして幸せな事であった。
そして、それだけではなくて。
ルフレは、森での独り暮らしと言う決して楽ではない生活の中でも、それを苦とも見せずにルキナに良くしてくれている。
『竜』の身体のルキナは、普通の人間を基準に考えると成人男性よりも食べてしまうのだけれども。
その分余計に日々の食料は必要で……それなのにルフレはそれを欠片も厭う事無く……寧ろルキナが食べている姿を嬉しそうに微笑んで見ているのだ。
……だからなのだろうか。
金銭的に豊かな人々が贅を凝らして作る料理よりも、ルフレと共に食べる質素な食事の方が、ずっと美味しく感じるのは。
どうすれば彼に恩を……こうして一緒に暮らさせて貰っている恩だけでなく、そもそも命を救って貰った事の恩も含めたその全てを、返す事が出来るのだろうかと、そう思ってしまう。
……彼はルキナに何か見返りを求めようとは全く思ってもいない様ではあるけれど、それではルキナとしては気が済まない。
だが……『王女』と言う立場でも最早ないただの『ルキナ』が……そしてこの『竜』の身体で、彼に何をしてあげられるのか……ルキナには全く何も思い付かない。
ルキナは彼から貰ってばかりで、それを返す術すら思い付かないままに次から次へ受け取るばかりになってしまっている。
ルキナが世話をかけてばかりでいる事を気にしているのを察しているのか、ルフレは事ある毎に「好きでやっている事だから気にしないで」と笑って言うのだけれど……。
……儘ならない想いはあるのだけれども、どうしてだかルフレのその言葉すらも心地良くて、ルキナは少し戸惑ってしまうのであった。
竿や網などの魚を獲る為の道具を持ったルフレに案内されて森の奥の方へと歩いていくと、突然に視界が大きく広がり、目の前一杯に広がる大きな湖面が姿を現した。
晩春と初夏の移り変わりの時期の少し強い温かな風が湖面を揺らし、湖畔に静かな漣を寄せて。湖を取り巻く木々は降り注ぐ陽射しに照らされて青々と輝き、吹き抜けていく風にその木の葉を揺らして。少し遠くの岸辺近くでは、鴨の群れがのんびりと水草を食みながらプカプカと浮かぶ様に泳いでいて。
陽の光を照り返す様に、湖面は宝石の様に輝いている。
美しい……とても美しい景色であった。
人間の手によって整えられた美しさとは異なる、そこに在るがままの美しさの、そんな極致の一つなのだろう。
深い森の奥にあるからこそ、湖には人の姿はルフレとルキナ以外には見当たらず、まるで獣達だけの楽園の様ですらあった。
「ね、綺麗な湖だろう?
この時期だけじゃなくて、秋も冬も春先も凄く綺麗なんだ。
ずっと向こうにある山の方から流れてくる雪解け水や、湧き水なんかがこの湖に集まって来てて、凄く豊かな水だからか魚も物凄く多いしよく育つんだよ。
この湖の水は、遠く海の方まで流れていくらしいんだけれど、僕はこの森を離れた事が殆ど無いから『海』って言うモノをこの目で見た事はまだないんだ。
ルキナは、『海』を見た事があるかい?」
網を使って罠を作りながら、ルフレはそう訊ねてくる。
ルキナも、まだ『海』を目にした事は無かった。
公務として赴いた場所は内陸の領地ばかりであったし、『海』を見る為だけに我儘を言える性格でも無かったからだ。
『海』と言うモノは勿論知識としては知っているけれど……。
「未知」のモノを知る為に我儘を言う前に、ルキナには成さなくてはならない事が沢山あって、そして「『海』を見る事」はルキナにとってはそれらを後回しにしてでもする必要がある事ではなかった。
「そっか、ルキナも『海』を見た事が無いんだね。
僕と一緒だ」
そう言いながら罠を仕掛け終えたルフレは、岸辺に転がっていた手近な岩に腰かけて釣竿を握る。
「……僕は、この森の中の世界しか、殆ど知らないんだ。
本から沢山の事を学んだけれど、その殆どはこの目で確かめた事が無い事ばかりで。ずっと、それでも良いと思っていた。
この森の中で生きていくには不自由はしなかったしね。
……でも、ルキナと出会って、少し変わった」
穏やかな声音で、その視線を湖面で微かに揺れる浮きを見詰めながらルフレは静かに言う。
ルキナは、そんなルフレの傍に寄り添う様に座りながら、その言葉の続きを待った。
「……君と出逢ってからの毎日は、『知らなかった』事の連続でね……それを手探りする様に考え知っていく事は、僕にとって……とても楽しかったんだ。
母さんの後を継ぐ様にして『森の賢者』なんて言われながら近くの村の人々に力を貸す事だって、満足していたんだけど。
何て言ったら良いのかな……自分の世界が広がっていく楽しさ……広がった世界がしっかりと経験に裏打ちされていく喜び……『知らなかった』事自体を知る驚き……。
狭かった世界だけで満足していた僕の『世界』を、君が変えてくれた……その切っ掛けをくれたんだ。
それに……僕は君に何時も支えて貰っている。
誰かと一緒に食事する楽しさを、こうして喋る言葉に耳を傾けていてくれる人が居る事の『幸せ』を。
君が、僕にもう一度教えてくれたんだ。
だから、有難う、ルキナ。
君に出逢えて、僕はとても『幸せ』なんだ。
少し照れ臭いけれど……それでもちゃんと伝えたかった」
そう言ったルフレの頬はその言葉通り照れ臭かったのか少し赤くて……それでも、ルキナの目を真っ直ぐに見ていた。
ルキナは、何かを言おうとして、でもどう言えば良いのか分からなくて、伝えようとした言葉も無いままに小さく唸る様にその喉を鳴らした。
もしも『竜』の姿でなく元の人間の姿であったなら、ルキナの頬も朱に染まっていたであろうと、そう根拠もなく思う。
ルフレと目を合わせているのがどうしてだか落ち着かなくて視線を彷徨わせて偶然目にした湖面に映る今の自身の姿は。
落ち着きなく翼を震わせて、尾はゆっくりと大きく動き、蒼銀の鱗に覆われている『竜』の顔は赤みが差しているのかどうかは分からないけれど……動揺を隠す事も出来ずにソワソワとその視線を彷徨わせているものであった。
どうしてルフレの言葉にここまで動揺してしまっているのか、ルキナにはまだその理由が分からない。
ルフレから「有難う」と言われただけであるのに、心が浮き立つ様にソワソワしてしまう。
感謝してもしきれないのは寧ろルキナの方であると言う想いはあるけれど、それがこの動揺の原因ではないだろう。
何か伝えたくて、でもどうしたら良いのか分からなくて、分からないままなのに、想いは勝手に溢れ出す。
『私も、ルフレさんに出逢えて、本当に──』
あの日、ルフレに出会えていなかったら。
ルキナがこうして息をする事は叶わなかったであろう。
泥濘の中、嵐に打たれて冷えきった身体と心のまま……そこで誰にそれを知られる事もなくその命の灯は消えていた。
……ルフレ以外の者がルキナを見付けていたのだとしても、やはりルキナはあのまま死んでいたであろう。
無我夢中で何の宛も無いままに飛んで偶然に墜ちた場所がこの森であった事、そしてルフレがそれを見付けてくれた事。
それは、幾つもの奇跡が重なりあって初めて成し得る、可能性の極致にある「奇跡」であった。
この身が突然『竜』に変じた事、そして父達から追われ殺されそうになった事。
それらは予期する事も出来ぬ不運であると……理不尽であるとも言えるのだろうけれども。
その過程があるからこそ、ルフレと出逢う事が出来た。
それだけは確かな事実であり……そしてルキナにとって、それは掛替えの無い程に『幸い』な事であるのだ。
ルキナの全てを変えてしまったあの日がなければ、ルキナがルフレと出逢う事はきっと無かったであろう。
王城で『王女』として生きるルキナと、この森で生きるルフレの人生が交わる事は、きっと何処かの往来ですれ違う事すら無かっただろうと……そう思う。
ルキナは、ルフレと言う人のその為人どころかその存在すら知る事も無く生きて……そして死んでいったであろう。
その人生を『不幸』と断ずる事は出来無いけれども。
……ルフレと出逢い彼に命を救われた今のルキナには、そんな人生は、これっぽっちも考えられないものであった。
命を救われたあの日から、心を救われたその日から。
ルフレは、ルキナにとってはなくてはならない……心のとても大切な場所に居る存在になったのだ。
その出逢いの為に、どんな苦痛が、どんな理不尽が、どんな絶望があったのだとしても。それですら全て抱き締めて、『出逢えた』事をこの上ない『喜び』であると感じられる様な……そんな『特別』で『大切』な存在なのだ。
……ルフレにとってのルキナも、少しでもそんな存在に……彼の心の大切な場所に居る存在になれているのだと、そう思っても良いのだろうか……。
出逢えた事を『幸せ』であると、ルフレにそう思って貰える事は、ルキナにとっては限りない『幸せ』であった。
そして、ルキナの存在がルフレの『世界』を広げたと言うけれど、それはルキナにとってもそうなのだ。
『王女』としての生き方しか……そしてそこから見える『世界』しか、かつてのルキナは知らなかった。
けれどもルフレと出逢って、彼に手を引かれる様に共に見る『世界』は、あの頃の自分では想像も出来ぬ輝きに満ちていて。
それを、「美しい」と心からそう思う。
その心の色彩を与えてくれたのは、『世界』に色付けてくれたのは、間違いなくルフレなのだ。
そう言った全てを、ルキナはルフレに伝えたかった。
貴方からこんなにも沢山の大切な物を貰ったのだと、貴方と出逢えたから見付ける事が出来たのだと。
だがそれは、ただでさえ言葉にするのも難しくて。
況してや、複雑な『想い』を伝える事が困難な『竜』の鳴き声では、到底伝えきれない。それが、どうしても苦しいのだ。
……何時か、この身が再び『人間』の姿に戻る事が出来たのなら、伝える事が出来るのだろうか。
この心を暖かく照らす光の様なその『想い』を……。
……その日が少しでも早く来るように、ルキナは願っている。
「ルキナ……僕は、叶うなら……君と……」
ルフレは何かを言い掛けて、そしてそこで何かを思い直した様に軽く首を横に振り、口を噤んで曖昧に微笑んだ。
その後はルフレは他愛ない話を始め、それは日が傾き始めて釣りを終えるまで続いたのであった。
◆◆◆◆◆
ルキナと共に森での日々を過ごすルフレではあるが、ずっと森の奥だけで生活している訳ではない。
二月に一度程度の頻度ではあるけれど、森の傍にある村へと出掛けてそこで村人たちの力になっている。
本当にのっぴきならない事情があれば村人達が森の奥へと分け入ってでもルフレの下へと訪れる事はあるけれど、村でルフレが訪れるのを待っている事の方が多いし、彼等が森の奥にまで来た事は母が生きていた頃から数えても一回や二回程度の事でしかない。そもそも熊や狼なども多く生息している森に立ち入るのは猟師位なもので、その猟師達もルフレが暮らしている森の奥まで立ち入る事は殆ど無いも同然であった。
そうやって人目がある事はほぼほぼ考えられないからこそ、ルキナを安心して匿えてやれているのだ。
そう言う環境の事を考えても、あの日ルキナを見付けたのが自分で良かったと、そうルフレは心から思う。『竜』の姿であるルキナが落ち着いて傷を癒せる環境の条件は厳しく、偶々この森がそれを全て満たしていた事は紛れも無い「幸運」だった。
と、そんな事をつらつらと考えながらも、ルフレは村の方へと出掛ける準備を進める。
作っていた薬の数々や、換金する為に持っていく毛皮など、何時もちょっとした大荷物になってしまう。
そして……。
「ごめんね、ルキナ。
今から森の近くの村に行く用事があるんだ。
なるべく早くには帰ってくるけれど……少しの間留守番を頼めるかな?」
夜明け前に出発しても、ルフレがどれだけ急いでも戻って来る事が出来るのは翌日の明け方近くになってしまう。
その間のルキナの為の食料はしっかりと用意してはいるけれど……彼女を一人残していくのは幾分か不安が残る。
傷が治っていなかった時ならばいざ知らず、完全に復調した状態である今ならば、熊などの猛獣でも相手にならぬ強さを持つ『竜』であるルキナが危険な目に遭う事は、ここが人の立ち入らぬ森の奥深くである事も踏まえてあまり考え難いけれど……それでも万が一と言う事はあるだろう。
もしも身に危険が差し迫ったのなら、ルフレの事は気にせずに空へと逃げて欲しいとは言ってあるけれど……。
『分かっています』と言わんばかりに頷くその姿が、自分でも気の迷いだとは分かっていてもどうにも心配になるのだ。
それは、ルフレがルキナに万が一があれば平静ではいられないからと言うのもあるし……一度深く傷付いた彼女の心の傷が何を切っ掛けにまた開いてしまうとも分からないと言う何処か漠然とした不安が常にあるからでもある。
が、それでもルフレには自分を待っているだろう村人の事を無視する事は出来なくて、後ろ髪を引かれる思いながらも、屋敷を後にして村へと向かうのであった。
村人達とはほぼ全員と顔見知りの状態であり、誰がどの様な薬を求めているのかをルフレはよく知っている。
村に着いたルフレは、村人達からの歓待もそこそこに、慣れた手際で村人達の診察と共に彼等に必要な薬を渡していく。
そして、村人たちの悩み事などを解決したりしていく内にすっかり日は傾き始めて。
それでもどうにか陽が沈む前に用事を済ませる事が出来た。
そしてそろそろ森に帰ろうと準備を始めたその時、村の集会所の入り口が妙に騒がしくなっている事に気が付く。
何事かと、近付いて話を聞いてみると、この国を治めている王家の人物の訃報が届いたらしい。
どうやらこの国の王女が若くして逝去したと言うのだ。
こんな辺境の村まで王都での出来事であろうその情報が届いたと言う事は、その王女が亡くなったのは随分と前なのだろう。
既に国葬も行われた後であるらしいのだが、彼女の死を悼んで国中が当分の間喪に服す事になるそうだ。
大々的な祭りは暫くの間は自粛せねばならないと言う事で、村の人々の中にはその事に不満を零す者も居る。
こんな辺境の村では、そもそもこの国を治める聖王家だのと言った雲上の人々の事など全くと言って良い程に無関係で。
村人達にとって直接的に関係があるのはこの地を治める貴族の事位なものだ。
早逝したその王女の名前すら知らなかった者が大半である。
ルフレにとっても、王族だの何だのと言った人々の事は自分に全く関わり合いの無い事であるし、喪に服すと言う話だとてそもそも森の奥で引き籠る様に暮らしている為関係ない。
その生き死にが、その一挙一動が、多くの人々の生活に強く影響を与えるのだと考えると、王族に生まれ育つと言う事も楽では無いのだろうとそう心から思う。
餓え苦しむ事は無いのだとしても、その肩に載せられた責任の重みと言うモノを考えると、そう生きたいとは全く思わない。
……そんな重荷を背負っていたのだろうその王女は、その命の灯が消えるまでの間に『幸せ』を見付けていたのだろうか。
……願っても喪われた命は戻る事は無いけれど、……それでもせめてそうであって欲しいと願う。
ルキナが待つ森の奥の屋敷へ一刻も早く帰ろうと、村人たちの話を聞く事もそこそこに急ぎ支度を終えて森へと戻って行ったルフレは知らなかった。
王女は、蒼銀の『竜』に襲われて命を落としたと言う事を。
その王女の名が、『ルキナ』であると言う事を。
そして……今も何処かで生きている可能性があるその『竜』を……彼女の父たる聖王が直々に命を下して、確実に息の根を止める為に捜し続けていると言う事を……。
◆◆◆◆◆
ルフレが森の近くにあると言う村へと出掛けてから少しの時間が経ったのだが……ルキナは落ち着きなく所在無さげに屋敷の周りをウロウロと彷徨っていたり、或いは何かすると言う事も無く寝床で丸くなっていた。
ルフレが居ない時間がこんなにも長くなるのは初めてで。
彼が居ない屋敷は、大切な何かが欠けてしまったかの様に、酷く寂しく思えるのだ。
本当は、今すぐにでも飛んで彼の元へ行ってしまいたい位に、ルフレに逢いたかった、その傍で時を過ごしていたかった。
が、そんな事は出来ない事はルキナが一番よく分かっている。
ルフレはルキナの為だけの存在では無いし、彼には彼の生活があって……ルキナは寧ろそこに転がり込んできた立場だ。
片時も離れずにずっと傍に居てくれ……だなんて思える訳なんて無いし、それを願いたい訳でも無い……筈だ。
ただ……ルフレ以外の人間に関わる事の出来ない今の自分は、ルフレが居なくなれば真実『孤独』になってしまう。
それがとても恐ろしく、考えるだけで心まで凍えそうになる。
ルフレに出逢う事が無ければ、ルキナは『人間』ではなくなった我が身を嘆き憐みながらも、その『孤独』を仕方が無いものと諦めて受け入れていたのだろう。
しかし、ルフレに出逢って理解して貰えて救われて……。
こんな姿になってしまっても『孤独』になる事がなかったルキナには、もう今更それを諦めて受け入れられる事なんて出来る訳は無かった。
別に、ルフレは永久の別離をした訳でなくて近くの村へと行っただけなのは分かっているけれど、ルキナがあの日何の前触れもなく『人間』ではなくなってしまった様に、この世には絶対なんて何処にも無くて。
ルフレがこのまま帰って来ないかもしれないと言う可能性を考えるだけでもどうしようもなく不安になる。
だけれども、ルキナがルフレの傍に居続ける事は難しい。
自身の手を……変わり果てた『竜』の前脚を見て、ルキナは深い溜息を吐く。
モノを優しく掴んだりする事にも、壊さぬ様にそっと触れる事も、……凡そ『人間』らしい事が何も出来ない手。
それは、自身の変貌を最も実感させるものだ。
蛇の鎌首の様に長い首も、前に突き出た口やそこに並ぶ鋭い牙も、空を飛ぶ事も出来る翼も、感情の機微に反応して無意識に動いてしまう尾も。
そのどれもが自分の身が変わり果てた事を実感するものであるのだけれど、その中でも極めつけがこの前脚だった。
ルキナは、ルフレの手の温かさも、優しい見た目以上にしっかりとした厚さのあるその質感も、どちらも知っているけれど。
ルフレのその腕に、肩に、頬に、触れた時はどの様な感じであるのかは全く知らない。
ルキナの今のこの手では、ルフレに触れる事は出来ない。
無理にそうしようとしても、この鉤爪は彼を傷付けてしまう。
それに、別に手で触れる事だけではなく、この身では叶わぬ事は余りにも多い。
最近は、この身が変わってしまった事そのものについて嘆くよりも、そう言った『出来ない事』の積み重ねに心を苦しめられるようになっていた。
『人間』であったなら出来た事、この身体では出来ない事。
それらが些細なものから深刻なものまで積み上がっていく。
そして、そのどれもが、ルフレに関しての事であった。
勿論、ルフレの事以外にも、自分が置き去りにする形で残してきたモノもその心を苛むけれど。
しかしそれは、二月以上の時が経つ中で次第に整理が着いて、どうにもならぬ事だと諦めが先立つ様になっていた。
……あの状況ではルキナは死んだと誰もが思っているだろう。
突如現れた『竜』に襲われて死んだ……と、そうなっている。
ならば、とっくにその葬儀は終わっているだろうし、そういう意味でも『ルキナ王女』と言う存在はこの世にはもう居ない。
今代の聖王である父の子はルキナ一人であるが、聖痕を受け継ぎ王位継承権を持つ者はルキナ以外にも存在する。
『ルキナ王女』がこの世から消えたとしても、この国の根本が揺らぎ、取り返しのつかない事態になると言う事は無い。
『王女』であるルキナもまた、この国を動かす歯車の一つでしかなく、その歯車としての機能に関しても代替出来る者が居ない訳ではない。
恐らくは、既にその者が次代の聖王と言う事になっている。
そして、一度決まったそれを覆すのは難しい。
……その状況で、この先ルキナが元の『人間』の『ルキナ』に戻れたとしても、王城に帰るべき場所があるのかと言われれば、それに関しては分からないとしかルキナには言えない。
死んだ筈のルキナが戻る事で国に余計な混乱をもたらす可能性はあるし、そうなれば最悪国が割れるだろう。
厄介な事にルキナには『ファルシオンに選ばれた』と言う、聖王としてのある種の正統性があるし、それを神輿に担がれる事は十分に考えられる。
残してきた家族にも、そして果たすべきであった役目にも、そのどちらにも未練はあり、帰りたいと言う願望が無い訳ではないのだけれど……。
『王女』としての矜持は、国の禍になる事を自身に許さない。
そして……だからこそ、ルキナはあの場所をもう半ば『自分の帰る場所』ではないと……自分の『居場所』ではなくなったのだと思っていた。
そして、今のルキナにとっての『居場所』は、この森……正確にはルフレの傍だ。
だからこそ、それを喪う事を恐れ、彼の傍に居続ける事の難しいこの身が苦しいのだ。
きっともう二度と、『喪う』事に絶えられないから。
ここで得た安息の場所を、そしてこの胸を照らす『想い』を、絶対に喪いたくないのだ。
……未だ、『人間』に戻る為の手掛かりは見付からない。
無論、そう簡単に見つかる様なものではない事は分かっているし、まだ二月しか経っていないとも言えるけれど。
少しずつ少しずつ、諦めの様な恐怖が……『もしかしたら一生自分はこのままなのかもしれない』と言う想像が、僅かにでも現実味を帯び始めている。
その嘆きは、あの日からずっと心にある恐怖であるけれども、そこにある感情と苦しみの根源にある『想い』は違う。
あの日の嘆きは、このまま『竜』として誰にも顧みられる事も無く『孤独』に死んでいくのではないかと言う恐怖だった。
だが、今はまた少し違う。
『一生このまま』であるのだとすれば、ルキナは一生ルフレに触れられない、ルフレと言葉を交わせない、ルフレにこの『想い』を伝えられない……。
それが、恐ろしかった。
何時かルフレが『竜』である自分を置いて、誰か他に大切な人を見付けてしまうのではないかと……恐ろしいのだ。
『人間』だと自分でそう思い続けルフレからもそう接して貰えてはいるけれど、事実として今のルキナの身体は『竜』のものでしかないのだ。
……『竜』であるルキナが、『人間』であるルフレの一生を自分だけに縛り付ける事なんて出来る訳は無く、してはならない。
『竜』でしかないルキナと、『愛』しあってくれだなんて……願える訳は無いのだ。
……そう。ルキナは……ルフレの事が好きだ。
一人の男性として、『愛』を向ける相手として。
ルフレの事を、愛している。
ルキナはルフレに、『恋』をしているのだ。
だからこそ苦しい。
彼に触れる事の叶わないこの手が。
彼と肩を寄り添わせる事も出来ないこの身が。
彼に、『好きです』と、『愛しています』と……そんな大切な言葉すら届ける事の出来ぬこの喉が。
口付けすら難しい『竜』の身体が……。
苦しくて、仕方が無いのだ。
もしも、このまま一生『人間』に戻れないのなら。
一生、この苦しみを抱え続けなければならないのだろうか。
伝える事も出来ないのに忘れる事も出来ない『想い』を。
毎日の様にルフレに『恋』をして、そしてそれを伝えられない苦しみに悶え続けるのだろうか。
それは、余りにも……。
そこまで考えたルキナはまた一つ、重く深い溜息を吐いた。
◆◆◆◆◆
……最近、ルキナの様子が少しおかしい気がする。
具体的にどこがどう……と言うモノでは無くて、もしかしたらルフレの気の所為なのかもしれないけれど……。
しかし例えば、ふとした瞬間にルフレの方をジッと見詰めていたかと思うと、ルフレが目を向けるとその視線を逸らす。
呼び掛けた時の反応が僅かに遅い気がする。
何かを思い悩む様に、何処か遠くを見ている事がある。
自分の手を見ては溜息を吐いている……。
そう言った事が積み重なっているとルフレも心配になるのだけれども、ルキナは何を訊ねても『何でもない』と首を横に振るばかりで……、それが、ルフレには寂しかった。
ルフレでは、彼女の力になってやれないのだろうか、と……。
自分なら彼女の為に何でもしてやれる、どんな悩みだって解決してあげられる……なんて自惚れている訳では無いけれど。
それでも、大切な人に何もしてあげられない事は苦しいのだ。
……ルキナを思い悩ませているのは、やはり未だ元の『人間』の姿に戻る方法もその手掛かりも見付からない事であろうか。
……恐らくは、そうであろう。
ルキナは『人間』であり、望んで今の状態に在る訳でないのなら元に戻りたいと望む事は当然だ。
そして……『人間』としてのルキナには、家族や友人……或いは恋人と言った、彼女の『居場所』が、ある筈なのだ。
ルキナを思い悩ませているのはそう言った、彼女が置き去りにせざるを得なかった者達の事だろうか。
会いたいと、帰りたいと、そう望み……だがそれが未だ叶わないからこそ、その心を痛めているのだろうか。
……ルフレは、ルキナを元の姿に戻してやりたいと……そう心から願っているし、その為に出来る限りの事はしている。
だけれども……心の何処かでは、この時間が……ルキナと共に過ごすこの日々が、終わらないで欲しいとも、思っていた。
ルフレとルキナの人生は、彼女にとっての突然の『不幸』によって偶然に交差しただけで。
ルフレがこの森で今まで生きてきた様に、彼女にも彼女の人生が……彼女の生きる場所とそこを取り巻く人々が居る。
この日々は傷付いた彼女がほんの一時その羽を休める為のものでしかなくて、彼女が元の姿に戻れた時に、彼女の本来の『居場所』へ帰ろうとするその手を取って引き留める為の言葉を……その明確な理由を、ルフレはまだ持っていない。
ただ傍に居て欲しい……だなんて理由では引き止められないし、そんな事はしてはならない。
……ルキナの為を思うのならば、ルフレにとってのこの暖かな日々は少しでも早く終わりを迎えなければならないし、その為に出来る事をしなくてはならない。
だからこそルフレは、その気持ちに矛盾を抱えながらも、その方法を探し続けている。
でももし……この屋敷の書庫を調べ尽くしても、そこに手掛かりも無いのなら、その時は……。そう過る愚かな考えを振り払い、ルフレは書庫の中を探し続ける。
そもそも、個膨大な蔵書の山はまだまだ未開拓の場所が遥かに多いので、そんな『もしも』は今考えるのは無駄でしかない。
気を取り直して書架の上の方の棚にある本を取ろうと、踏み台の上に乗りながら思いっきり手を伸ばす。
キッチリと挟まり過ぎた本を引き抜くのは難しい。
況してや背伸びをしているに近い姿勢だと中々本が取れなくて、上下に本を揺する様にしてゆっくりと引き抜かねばならない。その拍子に頑丈な本棚も軽くだが揺れ、本棚の天板部分に積もった埃が落ちてきてルフレは軽く咳き込んだ。
と、その時。本棚の天板の上に、箱の様な物が置かれている事にルフレは気が付く。
全く見覚えが無いので、恐らくは天板の奥の方に置かれていた物が、本棚全体が揺れた為手前の方に移動してきたのだろう。
その箱に興味を引かれたルフレは、何度か飛び跳ねる様にしながらその箱を少しずつ引き寄せ、そして手の中に落とした。
随分と長い事本棚の上に置かれていたのだろうその箱は埃塗れで、それを手で軽く払ってからその箱を開ける。
中に在ったのは、一冊の本……と言うよりも分厚めの手記の様な感じの装丁のものであった。
表紙には何の文字も無く、誰が書いた物なのか何の内容が書かれているのかはパッと見ただけでは分からない。
「これ……母さんの字だ……」
何の気も無しに開いたそこに懐かしい字を見付け、ルフレは驚いた。母は多くの本を書き残してくれていたし、それはルフレも知っているし活用もしている。
しかし、こんな場所にひっそりと隠されているのは初めてで……だからこそ、隠していた秘密を暴こうとしているかの様な後ろめたさと共に、どうしても抑えきれない好奇心が湧き起こる。その好奇心には抗えずに、少しだけ……と、そう思いルフレはその母の手記を読み進めた。
そこに書かれていたのは様々な伝説や伝承……それこそ神話の中の出来事の様についての走り書きの様な物であった。
かつてこの世界に数多存在し強大な力を持っていたとされている【竜族】と、彼等がこの世界に遺した様々な人智を超えた神器や遺跡、それらに纏わる伝説や伝承の数々。
手記の中には、マルス王の時代に暴威を振るったと伝えられている暗黒竜メディウスについての伝承や、グランベル大陸のロプトウス、ヴァルム大陸のドーマとミラ神、神竜族の王ナーガ、……そして邪竜ギムレーなどの、人の歴史にも大きな影響を与えてきた神々の如き【竜】の事も特に多く記されている。
そして【竜】そのものだけではなく。
古い伝承に語られる救国の英雄アンリ、その子孫であり世界を救った偉大なる英雄マルス……そしてこの国を興した初代聖王と、……そんな彼等が振るっていたと神の剣『ファルシオン』に関する伝承。遠く海を隔てた彼方のユグドラル大陸の伝説にある、神器と聖戦士たち……。時を超える力が眠るとされる遺跡に、『異なる世界』と言う此処ではない何処かを繋げる『竜の門』……。
手記に記されたそれらは、全て【竜族】に繋がる物であった。
……何故母がこの様なものを調べていたのか、そしてそれをこうして書き残していたのかは分からない。
だけれども、手記に記されている様々な伝承の中に、一つルフレの目を捉えて離さないものがあった。
『真実の泉』……そしてその伝説。
それこそまさに、ルフレが探し求めているものであったのだ。
◆◆◆◆◆