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『真実の泉』……それは、ヴァルム大陸の北部のとある地域に伝わる伝説の一つだ。
遥かなる古の時代から存在するその遺跡の最奥には、神秘の力を湛えた泉が存在すると言う。
『その水面は真実を映す鏡。
そこに映し出された者の「真実」を暴き出す。
何人たりとも泉を前に己を偽る事叶わず。
如何なる魔法も幻術も虚構も、泉の前には無力なり。
己の「真実」を映す覚悟がある者だけが、泉を訪れるべし』
……そう伝説に謳われるその泉は、覗き込んだ者にその者の「真実」を与えると……そう言われていると、手記には書かれていた。
『真実』……。
その言葉が含む意味は多様で、具体的にそれがどう言った性質の『真実』の事を指すのかは分からないけれど……。
だが、もしかしたらその『真実の泉』には、ルキナの姿を元の『人間』の姿に戻す力があるのではないかと思うのだ。
今のルキナの『竜』の身体は、彼女にとっての『真実』の姿では無くて……ならば『真実の泉』がルキナに映し出す『真実』とは、彼女本来の『人間』としての姿ではないかと、……そう考えられるのではないだろうか。
『真実の泉』は伝説の中だけでしか語られず、それが具体的にヴァルム大陸の何処にあるのかは分からないし、手記の中でもそれは明らかにはなっていない。
実在するのかどうかも不確かで……そして『真実の泉』に辿り着いた所で望んだ結果が得られるかは分からないが。
それでも、何の手掛かりも全く無い今の状態では、そこに僅かにでも可能性があるならば、賭けてみる価値はあるだろう。
ルフレは早速、手記を手にルキナの元へと急いだ。
「ルキナ! 見付けたよ!!」
ルフレが息を切らして小屋に飛び込んできたのを見たルキナは、突然の事に驚いた様に目を丸くする。
主語も何もないそのルフレの言葉に困惑したのか、『どうかしたのか』とばかりにその首を傾げる。
そんなルキナに、興奮を隠しきれずにやや上がった息でルフレは母の手記を手に言った。
「君を元の『人間』の姿に戻す事が出来るかもしれない方法が、やっと……! 見付かったんだ!!
この……ほら、ここに……!」
ルフレは『真実の泉』について書かれているページをルキナに見える様にした。
ルフレの勢いに戸惑いながらもルキナはそのページを読み始め、次第に食い入るようにそれを見詰める。
「確証は無いけど、『真実の泉』に辿り着く事が出来れば……!
ルキナが元の姿に戻れるんじゃないかと、僕はそう思うんだ。
このままどうすれば良いのか分からないまま、確実に元の姿に戻る方法をただ探し続けるよりは、可能性が低いかもしれなくても、『真実の泉』を探し目指す価値はあるんじゃないかな?」
ルフレの言葉にルキナは顔を上げるが、突然降ってきたその可能性を完全には飲み込め切れずに戸惑いが先に立っている。
だから、ルフレはルキナに力強く言った。
「行こう、ルキナ! ヴァルム大陸へ、『真実の泉』へ!!」
例え結果として無駄足になるのだとしても、そもそも『真実の泉』は実在しなかったのだとしても。
確かめてみない事には、何も変わらない。
居心地の良い『幸せ』な平穏の中で、『人間』に戻れぬ苦しみに静かに静かに心を削っていく位ならば、例え分の悪い賭けであるのだとしても、賭けてみても良いであろう。
悪い方悪い方へと考え続けていては、可能性の光を逃してしまうだけである。
ルフレの言葉に、ルキナはまだ少し何かを考えていた様だけれども、最後には力強く頷いた。
その眼は、迷い人が目指すべき道を見付けたかの様に、そんな前へと進もうとする意志の輝きに満ちていて。
それに安堵を覚えると共に、ルフレもまた心を決める。
目指すべき道は見えた。
ならば、後はその輝きを見失わぬ様に目指すだけだ。
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ルフレと過ごす日々は『幸せ』で、だからこそ……その穏やかな安寧がルキナの胸を締め付けていた。
元の姿に戻りたい……ルフレにこの『想い』を伝えたいと言う願望と、それを叶わない事だと……叶わない夢を見て傷付く前に諦めて今のこの『幸せ』な日々で満ち足りるべきだと囁く諦念に染まった心の一部と。
それらが相反して、ルキナの心を苛む様に苦しめる。
『人間』としてのルキナが、ルフレの傍に居て、そして今の様な穏やかで暖かい日々を過ごして。
そして、沢山言葉を交わしあって、相手を傷付ける恐怖に怯える事もなくその身体に触れ合って。
……そんな『幸せ』を、ルキナは夢に見てしまう。
だけれどもその一方で。
どうして何の前触れも無くこの身が『竜』の身に変わってしまったのか、その原因も何も分からないのだから。
この異変を解決して元の『人間』の姿に戻る術など見付かる筈も無いと……そう諦めてしまいかけている心もある。
ルフレは、ルキナを何とか元の姿に戻そうとして様々な手を尽くしてくれているし、今も彼の家にあると言う書庫で文献を探し続けてくれているけれども。
今の所、試した手は尽く失敗に終わり、何か他に手掛かりになりそうな書物も見付からないままだと言う。
まだ二月と少ししか経っていないのだから、完全に諦めると言うには早過ぎるのかもしれないけれども。
……それでも、恐ろしい『もしも』を受け入れる為の心の準備は……どうしようも無い事だと心が諦めようとする準備は。
少しずつ少しずつ、この心を蝕んでいく。
あの日、何処に行く宛も無いままに独り死に行く筈であった自分からすれば、今のこの日々は……『人間』ではなくなってしまってもこうして穏やかな日々を送れている自分は、間違いなく類稀なる『幸運』に恵まれていて。
これ以上を望み続けてしまえば、その所為でこの『幸せ』を喪ってしまう事になるのではないかと……そんな根拠も無い漠然とした不安が常に付き纏うのだ。
何かを得ようとすれば、それに見合った何かを差し出さねばならないのがこの世の常であるのだけれども。ならば。
ルキナの願うそれに見合う代価とは何であるのだろうか。
今のルキナには、『願い』の為に差し出せるものは何もない。
そもそも、その『願い』を叶える方法を探す事自体を、ルフレの善意に頼ってしまっている状態なのだから。
だからこそ……もしも代償として喪うものがあるとすれば、この『幸せ』以外には無いのではないかと思ってしまうのだ。
単なる気の迷い、考え過ぎであるのかもしれなくとも。
……その不安を晴らす手立ては、無い。
故に、迷い悩み続け、それはこの心を苛むのだ。
だからこそ……。
「ルキナ! 見付けたよ!!」
今まで見た事が無い程の勢いで小屋に飛び込んできたルフレが開口一番にそう言った時には、何が何だか分からなかった。
余程急いで来たのか微かに肩で息をする程に、その息は荒く。
そしてそれ以上の、隠しきれない興奮にその瞳は輝いて。
だけれどもルキナは。何を? と。
ここ最近の彼が探し続けていたモノなんて一つしか心当たりなど無いのに、困惑のままに首を傾げてしまう。
そんなルキナへ、興奮を抑えきれない様なやや上ずった声で、その手に持った本か何かを見せながらルフレは言う。
「君を元の『人間』の姿に戻す事が出来るかもしれない方法が、……やっと! 見付かったんだ!!
この……ほら、ここに……!」
ルフレのその言葉に背を押される様にして、ルキナは彼が見せてくれているその本のページへと目を向ける。
本か何かと思っていたが……どちらかと言うと手記の類だった様で、そこには何かについての覚書と走り書きの様な内容が整然としつつも細々と書き綴られていて。
そして、ルフレが見せてくれているそこには。
『真実の泉』と言う……伝説の場所について記されていた。
そこに記されたその伝承に、そしてそれを補足するかの様な数々の記述に。ルキナも、段々と食い入る様に読んでしまう。
覗き込んだ者にその者の真実を与えると、そう謳われる泉。
成る程、確かにそれは……そこには、ルキナのこの身を『人間』のそれに戻す力があるのかもしれないと、そう思えてくる。
未知なるもの、それが「伝説」などと謳われるものであるのならば尚更に、人はそこに期待と希望を抱くのだから。
「確証は無いけど、『真実の泉』に辿り着く事が出来れば……!
ルキナが元の姿に戻れるんじゃないかと、僕はそう思うんだ。
このままどうすれば良いのか分からないまま、確実に元の姿に戻る方法をただ探し続けるよりは、可能性が低いかもしれなくても、『真実の泉』を探し目指す価値はあるんじゃないかな?」
ルフレはそう言って、その答えを待つ様にルキナを見上げた。
だがしかし、ここにきてルキナは戸惑いと……そして躊躇いを覚えてしまい、彼の言葉に反射的に頷く事は出来なかった。
『真実の泉』は、この森から遠く離れたヴァルムの地の何処かにある……と伝説は言うけれども。
「伝説」のそれが実在しているのかは分からないし、それを確かめるのだとしてもヴァルムの地は此処からは遠過ぎる。
ぺレジアの砂漠やフェリアの雪原を超えて、大海を渡って遥かなる大地を目指して……そしてそこから更に『真実の泉』を探さねばならないのだ。そして、その果てに目的の地に辿り着けたとしても、ルキナの『願い』を叶えられる保証は無い。
ルキナ一人であるならば、そんな困難な道のりでも、僅かな可能性に賭けて『真実の泉』を探そうと……そう思えただろう。
しかし、現実的な問題として、人と言葉を交わせないルキナ一人では到底そこには辿り着けず……『真実の泉』を目指すならばルフレの力を借りる他に無い。
だが、例えルフレ本人がルキナに力を貸す事に積極的であるのだとしても、その厚意に甘えても本当に良いのかと迷うのだ。
ルフレにはルフレの生活があって……それを、ルキナの為だけに壊させてしまって良いのかと、徒労に終わる可能性の高い旅路に付き合わせてしまって本当に良いのかと……。
ルフレの事が大切であるからこそ、素直にそれに頷けない。
だけれども、そんなルキナの躊躇いを見透かしたかの様に。
ルフレは、ルキナに手を差し伸べるかの様に、ルキナの鱗に覆われた長い首筋に触れて、真っ直ぐにルキナを見詰めて言う。
「行こう、ルキナ! ヴァルム大陸へ、『真実の泉』へ!!」
その力強い声に、その眼差しに。
ルフレの『想い』が、煌めく様に揺らめいていて。
それに引き込まれる様に、ルキナは思わず頷いてしまった。
そう、そうだ。自分は、元の姿に戻りたいのだ。
そして、叶えたい『願い』がある。
どうしても諦めきれない『夢』がある。
だからこそ、ルキナはその可能性を切り捨てる事は出来ない。
ただの徒労に終わるかもしれない、辿り着いたそこはルキナが期待していた様なものではないかもしれない。
それでも、無為に時間を費やして何も得られなくても。
ここで何もしない内から諦めてしまうよりは、ずっと良い。
ここで諦めてしまったら、きっとルキナは一生『あの時諦めていなかったら』と言う「もしも」を抱え続ける事になる。
そんな気持ちでルフレの傍に居ては、ルキナを思い遣ってくれている彼を苦しめてしまうかもしれない。
なればこそ、勇気を持って挑まなくてはならないのだ。
挑む者にこそ、『願い』を叶える資格はあるのだから。
◆◆◆◆◆
『真実の泉』を探しに行くと決めたからと言って、思い立ったが吉日とばかりに直ぐ様旅立つ事は出来なかった。
物心ついてからは全くこの『神竜の森』とその周辺の村からは出た事の無いルフレにとっては、ぺレジアやフェリアと言った同じ大陸の中にあるイーリスの隣国どころか、大海原を超えた遥か彼方にあるヴァルム大陸は余りにも遠く。
十分以上に念入りに準備をしてからではなくては、旅立つには余りにも心許なさ過ぎるのだ。
先ずは第一の目的地となるヴァルム大陸までの地図と海図を手に入れなければならないし、ここで調べていけるだけの情報は調べていくに越した事は無い。
元より、半ば宛の無い旅路になるのだ。
最初から行き当たりばったりでは、一体何時『真実の泉』に辿り着けるのか分かったものではない。
だからこそ、ルフレはそれはもう入念な準備を行った。
長旅にも耐えられる様に干し肉などの保存食を蓄えて、薬を売って旅先で入用になるだろう金銭を貯めて。
ルキナは街には入れない事を考えると旅先では殆ど野宿に近い生活になるだろう事を見据えて最低限必要な道具を揃えて。
村からまた少し離れた町にまで行って、ヴァルム大陸までの地図を何とか手に入れた。
肝心のヴァルム大陸まで渡る方法だが、ルキナは飛竜などと偽るのも難しい程に美しく人目を惹いてしまう『竜』である事を考えると、ヴァルムに渡る船に乗り込むのも難しいだろう。
と、なればルキナに飛んで渡って貰うしかない。
幸いこの季節だと、ぺレジア側からヴァルム大陸の方向へと強い海風が吹いている上に、ぺレジアから渡るその途中には大小様々な島々が飛び石の様にヴァルム大陸まで続いている。
島々で休息を挟みながら飛んでいけば、ヴァルム大陸まで辿り着ける……筈だ。
途中で悪天候に巻き込まれたりしない事を祈るしかないが。
まあそれは船を使っていても同じ事である。
怪我がすっかり完治して久しいルキナは、最初の内こそ戸惑いながらであったが今では鳥の様に軽やかに思うがままに空を翔ける事が出来る様になっていて。
ルフレ一人をその背に乗せる事など何の負担にもならない様で、恐らく海を超える事も難しくはなさそうであった。
ルキナに負担が大きくなってしまう事だけはルフレとしては申し訳なく思ってしまうのだけれど、ルキナ本人はとてもやる気満々で、だから気にするなと言いた気なので、ルフレは掛ける言葉は感謝のものだけに留めている。
海を渡る手段はそれで良いとして、ぺレジアを横断するルートは念入りに考えなくてはならない。
ぺレジアはその国土の多くを砂漠や荒野と言った厳しい環境が占めており、そういった場所では身を隠しながら行く事は中々に難しく、またその羽を休める場所も限られている。
それに……ルフレとしてもぺレジアでは出来る限り人の目に付く場所は避けて通りたいのだ。
気休めであろうが、母との『約束』もあって、ギムレー教団と何らかの形で関わり合いになる可能性は極力避けたい。
ギムレー教団では、神であるギムレーに対して多くの『生贄』を捧げており、『生贄』の対象は獣も人もお構いなしであるらしく、また珍しい生き物を生贄にしたがる傾向もあると聞く。
ルキナがその標的になりかねない事を考えると、やはりギムレー教団だけは避けるに越した事は無いだろう。
そんなこんなで、『真実の泉』に向かう事を決めてから半月近くの時間が過ぎて。
ルキナと出会ったあの日からは凡そ三か月経っていて、夏の陽射しが木々の青葉を眩しく照らす季節になっていた。
全ての支度を終え、背嚢に纏めた荷物を背負ったルフレは。
物心付いてからの長い時間を過ごしてきた屋敷を振り返った。
『真実の泉』に辿り着くまでに……或いはそれが存在しないと確証を得るまでに、何れ程の時間がかかるのかは分からない。
再びここに戻って来るのが何時の事になるのか……帰って来れるのかも、分からない。
だけれども、ここがルフレにとっての『家』である事には何があっても変わらないのだ。……だから。
「行ってきます」
住み慣れた屋敷に、そしてその裏庭に眠る母に、そう告げて。
ルフレは、ルキナの背に跨って合図を出した。
軽やかに飛び立ったルキナの背の上で、ルフレは振り返る事無く遥か彼方のヴァルム大陸を思うのであった。
◆◆◆◆◆
「…………」
最早日課となった墓参りを済ませた男──イーリス聖王国の当代聖王であるクロムは、癒える事の無い痛みにその眼差しを歪ませて、立ち上がった。
この墓土の下に、最愛の娘の身体は無い。
……あの日、娘の……ルキナの十六歳の誕生日であったその日に……、突如現れた『竜』に襲われて……骨の欠片すら遺す事無く無惨にも喰い殺されたからだ。
その場に残っていたのは、辺りに飛び散った血と、そしてその身に纏っていた衣服の残骸だけで。その惨たらしい死は、王城の者達のみならず、国中の民に深い悲しみを与えていた。
王妃に至っては、愛する一人娘の惨い死に様を深く哀しむその余りに心の安定を崩して、すっかり寝込んでしまっている。
だが、クロムの心に在るのは、深い悲しみだけではなくて。
それ以上の燃え滾る憤怒がその身を突き動かしていた。
ルキナを襲い喰い殺したあの『竜』……忘れもしない蒼銀の鱗に覆われたあの「獣」を。何処までも追い詰めて……この手で八つ裂きにしてルキナが受けた以上の苦しみを与えて殺さなくては到底気が済まないのだ。
あの日、クロムは『竜』に竜殺しの神剣ファルシオンで深い傷を与えはしたが、殺しきる前に飛んで逃げられてしまった。
そして、直後に発生した大嵐でその行方すら見失ったのだ。
あの深い傷では『竜』とてただでは済まなかっただろうが、……あれで死んだと言う確証も無い。
クロムは直ぐ様に彼の『竜』の首に懸賞金を掛けてその後を追ったのだが、今の所何の報告も無かった。
その死体を見付けただけで一生を働かずに暮らしていけるだけのその懸賞金は、民達に血眼で『竜』を探させるには十分過ぎる程のものだったのだけれども。
その姿を見かけたと言う証言すら無いのだ。
イーリスのみならず、フェリアやぺレジアの方面へとその捜索の手は伸ばしてはいるが、まだ何の音沙汰も無い。
海を越えたか……或いは海に墜ちて水底に沈んだか……。
最近はその可能性も検討し始めている。
もしもこのまま『竜』が見付からなければ。
決して消える事の無いこの昏く深い憎悪の炎を、復讐を叫ぶこの心を、一生抱えて生きるしか無いのかもしれない。
だが。『竜』の首を墓前に捧げる事で亡き娘への弔いにすると、クロムはその空っぽの墓前に誓ったのだ。
それが果たされるまで、クロムは自分を止められない。
聖王としての政務をこなし続ける一方で、その心は『竜』への憎しみに囚われていた。
第一王位継承者であったルキナがその命を落とした以上、王族としては後継者を正式に据えねばならないのだが。
『竜』を討ち滅ぼすまでは……少なくとも一年以上の時が経つまでは、クロムはそれを先延ばしにするつもりであった。
周囲の貴族たちも、クロムの深い憎悪と哀しみを知っているだけにそれに表立って異を唱える者は居ない。
『竜』が見付かり……そしてまだ生き長らえているならば。
クロムは常に佩いているファルシオンの柄に触れる。
竜を殺す事に特化した神の牙は幾千の時を経てもその切れ味に僅かな曇りも無く、『竜』の身を切り裂いて見せた。
ルキナの手に託されゆく筈だったこの剣で、仇を討つ。
それこそが、愛娘への唯一の手向けとなると、そうクロムは信じている。……信じるしかない。
生者が死者の為にしてやれる事など本当の意味ではこの世に存在せず、生きる者達の欺瞞と自己満足であるのだとしても。
それしか……もうクロムにしてやれる事は無く。そしてそうするしか、クロムは最早この胸を焦がす憎悪を晴らせない。
あの『竜』をこの手で殺す事だけを、最近は夢に見るのだ。
ルキナの事を想う度に、思い出そうとする度に。
浮かぶのはあの『竜』の姿であり、それへの憎悪だ。
それもまた耐え難くて、一層クロムの中の憤怒と憎悪へと糧となる炎を注ぎ込んでいる。
そして……遂に待ち望んでいたその時は訪れた。
「『竜』が現れた……だと?! それは確かか!?」
執務室に慌てる様にして飛び込んできた兵士の言葉に、震えたち今にも叫び出しそうな程のどす黒い憎悪の炎と共に燃える歓喜も似たそれをどうにか抑えて、クロムは問い質す。
クロムの視線の圧に少し怯えつつも頷いた兵は報告を続けた。
曰く、イーリスの東部からぺレジアとの国境がある西部へと向けて飛ぶ『竜』の姿を見かけたとの目撃情報がここ最近相次いで寄せられているらしく、それらの情報を統合すると『竜』はぺレジアの方へと向かっている様であるとの事だった。
『竜』が目指しているのがぺレジアなのか、或いはその更に先、海を越えたヴァルム大陸であるのかはまだ分からないが。
それでも、待ち望んでいたその情報に、クロムの心は昏い喜びと憎悪と共に快哉を叫んだ。
「急ぎ討伐部隊を集めろ! 『竜』を追うぞ!!」
他国に足を踏み入れる可能性も高いので大軍を率いる訳にはいかないが、クロムはイーリスの精鋭中の精鋭から選抜した討伐部隊を既に組織していた。
聖王である自分が一時とは言え国を離れる事は本来ならば望ましくは無いが、信頼出来る名代は既に用意している。
「待っていろ……必ずその身を引き裂いてやる……!!」
憎悪に燃えるクロムを止められる者は、何処にも居なかった。
◆◆◆◆◆
イーリスの王城で憎悪の炎が燃え上がっているその頃。
イーリスと国境を接する砂漠の国ぺレジアの、深い深い闇の底にある様な神殿の奥深くでは、一つの異変が起きていた。
「最高司祭様……! 今、ギムレー様の反応が……!!」
歓喜に打ち震える様な声で、教団の信徒が自らにとっての絶対の神の名を口にする。
憎き神竜の傀儡の手によって彼らの神が封じられてから千年。
絶望と憎悪を織り上げ続けて、漸く彼等の手に神は取り戻された……筈だった。
しかし、彼等の願いの連鎖の果てに甦り、神竜の忌々しい封印から取り戻した筈の神は……卑劣な裏切りにより喪われた。
だがしかし、神は決して自身を崇め奉り続けてきた彼等を見放す事は無かったのだ。
喪われていた筈の、彼の神がこの世に存在する事の証が。
今再びその健在を示す様に輝き始めていた。
それも、かつてのそれよりもより一層禍々しく猛々しく……見る者全てを喰い殺さんばかりの輝きでそれを知らしめる。
彼等の神の帰還を確信し、信徒たちは喜びに打ち震え涙を流してその輝きへと平伏した。
「ギムレー様……! 我等が偉大なる神よ……!」
「その破滅と絶望の翼で、この世に静寂を齎し給え」
「苦しむ全てを救済し、偽りの安寧を終わらせ給え」
「終焉の先にある楽園へと、我等を導き給え……」
信徒たちの祈りの声はより多く重なってゆく。
それを満足気に眺めたギムレー教団最高司祭ファウダーは、朗々と配下の信徒たちへと宣下する。
「さあ、我等の神の帰還は直ぐそこだ。
故に、我等が神に捧げる『炎の紋章』を完成させねばならん。
さあ、神へと我等の祈りを届かせるのだ……!」
祭壇に輝く台座には、四つの宝玉が煌めいているのであった。
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