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全速力で高く空を飛び、山脈を幾つか越えて。人気などある筈も無い深山の更に奥地で見付けた清涼な水が流れる川辺に。
傷付いたルフレを抱えて飛び続けたルキナは漸く降り立った。
既にもう日は暮れていて、辺りは月灯りと星灯りしかない暗闇の帳に覆われている。
幾ら復讐に燃える父であってもこんな山奥をこの時間に分け入ろうとする程に考えが狂っている訳ではないだろう。
故に、夜明けまではここに留まれる、とルキナは判断した。
森の獣達は見慣れぬ『竜』を恐れて近寄ろうとはせずにいるらしく、少なくとも今晩の間は襲われる可能性は低い。
先ずは火を起こさねばと、ルキナは川辺にあった樹を爪で切り倒して、大雑把な薪木を作り、それに炎の息吹で火を着けた。
乾燥していない生木は火が着き難く本来薪木には適さないが、炎の息吹の威力を前にすればあっさりと燃え上がる。
炎を吐き出した事など、クロムの元から逃げる為に無我夢中になって吐いたそれが初めてであったのだが、一度出来てしまえばまるで生来可能だった様にすら感じてしまう。
だが今は炎を吐ける様になった事について考える暇はない。
焚火によって熱源と光源を確保出来た事で、ルキナは改めてルフレの様子を観察した。
意識がまだ戻らないルフレは、左肩から脇腹に掛けて服が大きく切り裂かれ……そこを中心に服が血で赤黒く染まっている。止血が追い付いていないのか、未だに零れる様に血の雫は傷口から滴り落ちていく。そして、ルキナが鋭い鉤爪の生えた手で構わずに抱き抱えた所為で、左肩の傷程深くなくとも腕などには裂傷が幾つも刻まれていた。
『ルフレさん……。
お願いです、死なないでください……』
自分のこの手では、かつて彼がしてくれた様に、傷を治療する事など出来なくて。そもそも、ルキナにはその知識すら無い。
獣がそうする様に傷口を舐めてやる事なら出来るだろうが……それで治る様な物でも無い事位は流石に判断が付く。
せめて水を飲ませようとするのだけれども、水辺に連れて行った処で、気を喪っているルフレがそれを飲める訳も無く。
水を掬ってみるのも、ルキナのこの手では難しい。
だからルキナは、意識が無い相手にこんな事をするのはどうなのだと思いつつも。水を自身の口に含んでから、ルフレの唇に口先を押し当てる様にして。
そして舌で優しく抉じ開ける様にして、口移しで水を与えた。
すると、急に水が口に入って来たので身体が反射的に驚いたのか、ルフレは激しく咳き込み、うっすらとその目を開けた。
「……ルキナ……無事……だったんだね……良かった……」
そう言ってルフレは苦しそうな表情のまま、微笑みを浮かべようとするが……痛みからかそれは上手くいっていない。
だが、意識が戻った事を喜び、傷付いていない右肩へとそっと鼻先を触れさせたルキナの頭を、そっと優しく撫でてくれた。
『すみません、ルフレさん。お父様が、ルフレさんに……』
「……気にしなくて、良いんだよ、ルキナ。
君がまた実のお父さんから殺されかけるだなんて……そんな酷い目に遭う事に比べたら……こんな傷、どうって事ないさ。
それに、僕は身体は丈夫な方だから、これ位じゃ死なないよ」
ルフレのその言葉に、胸に何かが詰まったかの様な苦しさを覚える。……どんな事情があれルフレを傷付けたのはクロムだ。
クロムはルフレの命などどうでもいいと本気で考えていたし、実際あの一撃でルフレが命を落とした可能性だってあったし、そうなっていたとしてもそれを悔いる事も無かったであろう。
ルフレが「どうと言う事は無い」と言うその傷は、どう考えてもそんな言葉で流して良いモノである筈なんて無くて。
それなのに、ルフレはルキナの事ばかり気に掛ける。
それがどうしようもなく苦しいのに、それ以上の謝罪の『言葉』を、ルフレのその優しい目は許してはくれない。
それが、どうしようもなく苦しい。
ルフレはルキナの背に預けていた荷物を持ってくる様にと頼み、ルキナが言われた通り荷物の入った鞄を咥えてくると。
その鞄の中から治療の杖と薬を取り出したルフレは。
あろう事か、自分の傷を癒すのではなくて、ルキナの翼の傷に治療の杖を使い始めた。
『ルフレさん! 私の事など後でで良いのです!
今は、ご自分の傷を最優先にして下さい!』
だがルキナが幾ら抗議の唸り声を上げても、何処吹く風とばかりにルフレはルキナの治療を止めない。
「深く傷付いていたのに、無理をして飛んだんだろう?
今の内に治しておかないと、もっと酷い事になってしまうよ。
それに、僕の傷は見た目程酷くは無いみたいなんだ。
嘘だと思うなら、ほら」
そう言いながらルフレは服を捲り上げてその左の脇腹を晒す。
……その傷口は、服を汚す血の量からはとても考えられない様な、「浅い」傷だった。だが……ルキナは確かに、ザックリと深くまで切り裂かれた傷口を見たのだ。
あれが見間違いだとは到底思えないのだけれど……。
更に気になる事はそれだけではなく、ルキナの鉤爪が傷付けてしまった裂創は、もう薄い瘡蓋になっていた。……本当に?
ルキナは自分が見たそれを信じられずに、その臭いを嗅ぐ様に鼻先を押し当てるが……。あれ程までに深い傷口で、しかもさっき確かめた時でも傷口からは血が流れていた筈なのに、もうそこからは乾いた血の臭いしかしない。ほんの十数分程度でそこまで治る事など、有り得るのだろうか?
どうにも落ち着かないものを感じるけれど、ルフレの傷が深くない事自体は喜ぶべき事である。……傷の深さがどうであれ、父がした事の重さは変わらないのだけれども。
『ルフレさん……。私の所為で、あなたをこんな目に遭わせてしまって……。本当にごめんなさい……』
ルキナは、……恐ろしかった。
ルフレが、そのまま死んでしまうのではないかと。
父の手で、否ルキナを庇って、命を落としてしまうのではと。
それが恐ろしくて恐ろしくて……。
ルフレが死ぬ事自体、到底耐えられない事だけれども。
それがよりにもよって自分を庇ってだなんて……ルキナには何があっても耐えられなかった。
愛する相手を、『恋』している相手を。そんな形で喪うなんて。
絶対に耐えられないと、ルキナには分かっていた。
それに、どうしてあそこにイーリスに居る筈のクロムが居たのかは分からないけれど……もしも、ルキナがあの森を旅立ったからなのだとしたら……ルキナの『願い』に付き合ってここまで来てくれたルフレを、半ば自分が殺した様なものになる。
「自分の所為で」と言う想いが、どうしてもルキナの心から離れない。そんなルキナを見て、ルフレは優しく苦笑する。
「良いんだよ、ルキナ。この傷は誰の所為の者でも無い。
だから、そんな顔をしないで。
君が苦しんでいるのを見る事が、僕は一番辛いんだから」
そう言って、ルフレはルキナの顔に両手を当てて、眼を……ルキナの左眼を覗き込む。
「……ずっと前から思っていたけれど、綺麗な眼だ。
……ここに刻まれた『聖痕』に、僕はもっと早くに気付くべきだったのかもしれないね……。
そうしたら、もっと別の道があって……ルキナのお父さんが……聖王様が。あんな風に憎しみに囚われてしまう事も、無かったのかもしれない……。
……でも、僕は全然気付いてあげられなかった。
……ごめんね……。
君をこんな風に苦しめずに済んだのかもしれないのに……」
ルフレが苦しそうな顔をするので、ルキナは首を横に振った。
ルフレの所為では無い。その責の所在を問うのであれば、寧ろ全く伝えようともしなかったルキナの責任になるだろう。
『良いんです、ルフレさん。
そんな事……あなたの所為じゃないです』
それよりも、全く伝えようともしていなかったのに、どうしてルキナが王女であるとルフレは分かったのだろうか……。
そんな風に考えてルフレを見詰めていると、ルフレは少しバツが悪そうな顔をした。
「……実は、ルキナとチキ様が夜中に会話している所を少しだけ聞いてしまってね……。その時に、気付いてしまったんだ。
……でも、それを言い出せなかった。……言ってしまったら、君が王女であると知っている事を伝えてしまったら……。
ルキナと過ごす『幸せ』なこの時間が、その瞬間に終わってしまう様な気がして……それが、怖かったんだ。
馬鹿みたいだろう……?」
ルフレの言葉に、『そんな事無い』と思い切り首を横に振った。
ルキナも同じだったからだ。
もし王女だと知られてしまったら、この『幸せ』な時間が終わってしまう様な気がして……だから、伝えられなかった。
だから、自分もまた同じ気持であったのだと。
そうルフレに伝える様に喉を鳴らした。
「……ルキナも、同じ気持ちだったのかい……?
……互いにそんな事を考えて、何も言えなかったなんて。
……僕たちは、似た者同士だったのかもね……」
ルフレは苦笑して、ルキナの頭を両手で抱き寄せる様にする。
そして、そっと額を合わせて目を閉じた。
「……僕は、ルキナに出逢えて『幸せ』だった。
あの日、傷付いた君を見付けた時は、こうしてこんな所にまで旅をするなんて、ちっとも考えた事は無かったけれど。
……でも、あの森で二人で過ごしていた時間も、こうして二人で旅をしてきた時間も。
……僕にとっては、本当に……本当に、『幸せ』その物だった」
そして、ゆっくりと目を開けたルフレは。
少し、寂しそうな……そんな顔をして微笑んだ。
「『幸せ』過ぎて、終わらないで欲しいと、そう心から思ってしまう程、君と過ごした日々は僕にとって特別なものだった。
……僕にとって、ルキナは特別で大切な……そんな人だから。
だけど、『人間』としての君には帰るべき場所がある。
そしてそれは、あの森じゃない。
……僕なんかではどんなに手を伸ばしても届かない場所に、君は去ってしまう……。……それが、怖かったんだ。
ずっと傍に居たい、傍に居て欲しいと。……そんな我儘な子供みたいな、叶わない『願い』を夢見てしまう程……。
でも、やっぱり、そんな事を願うべきじゃない……。
……ルキナを想うあまりに、あんな風に憎しみに囚われてしまった聖王様を見て、やっと思い切る事が出来た。
ルキナ、君は君の生きるべき場所に、君を心から想う人達が待つ場所へ、帰るべきだ。
今の聖王様に、僕の言葉は届かないだろうし、君の『言葉』も届かない……。でも、『人間』に戻った君の言葉なら届く。
君が、お父さんの苦しみを、終わらせてあげるべきだ……」
『ルフレさん……。私は……。私も、あなたとの日々を、終わって欲しくないと……ずっとそう思っていたんです。
……叶う事ならば、この旅が終わっても、あなたと二人、あの森で静かに生きられるなら……。
そんな事を、ずっと思っていました。
……ルフレさんにとっての私がそうであるように。
私にとって、ルフレさんは何よりも大切で特別な人だから』
伝わらないと分かっていても、ルキナは『言葉』に『想い』を乗せる。……叶うならばルフレのその身体を抱き締めたい位に、気持ちが心の奥底から溢れ出してしまいそうだった。
ルフレと自分が抱えている『想い』が同じものであるかは分からないけれど。
ルフレから、『大切』だと、『特別』だと……そう思って貰えた事が、そう言って貰えた事が、泣きそうな程に嬉しくて。
そして、ルキナの事を心から想うルフレの言葉が嬉しくて。
『愛しい』気持ちが、止め処なく溢れ出してしまいそうだ。
思わず彼の胸へと摺り寄せた頭を、ルフレは優しく抱き締めてくれる。その優しい温もりを伝えてくれる。
『ルフレさん。好きです。あなたの事が、何よりも、誰よりも。
叶う事ならば、ずっと……ずっと傍に居たい。
愛しています。……この『想い』が叶わなくても、ずっと』
伝わらないからこそ、ルキナはその『言葉』を口にした。
……復讐と憎悪に縛られてしまった父を、ルキナは救わねばならない。娘としても、そしてイーリスの王女としても。
ルフレの言う様に、ルキナには帰らねばならぬ場所がある。
そこに、ルフレが居ないのだとしても、共に生きる場所は無いのだとしても……。そこから逃げ出す事は、出来ない。
……ならば、こうしてルフレと共に在れる時間は、本当に後少しだけしか残されていないのであろう。
『真実の泉』に辿り着いたその後は。
……父を、止めなくてはならない。『人間』としての姿と言葉で、その苦しみから解放してあげなくてはならない。
ならばこそ、せめてこの夜だけは、とルキナは願う。
この温もりを、何れ程の時間が過ぎても忘れない様に。
ルフレに抱き締められたまま、ルキナは目を閉じた。
◇◇◇◇◇
空が白み始めると共に、ルキナとルフレは飛び立った。
今も『竜』を血眼で捜しているであろうクロムに見付かるよりも前に、『真実の泉』へと辿り着かなければならない。
ルキナも、そしてルフレも。
それを暗黙の了解として、少しでもクロム達に見付かるまでの時間を稼ごうと、一言も話す事は無かった。
目指す地は、もう間もなく見えてくる筈である。
遺跡らしきものを見逃さぬ様、ルキナ達は注意深く下を探す。
恐らくはこれが最後の飛行になるのであろうと思うと、何だか不思議な気持ちになる。
思えば、もう四ヶ月以上『竜』の姿であったのだ。
季節も、春どころか夏すら過ぎ行こうとしていて、少しずつ秋の気配が訪れている。
決して少なくは無い時間を過ごしてきたこの『竜』の身体に今日で別れを告げるのだと思うと、感慨深さと共に僅かばかりの寂しさの様な物も感じる。不思議なものだ。
「……!」
眼下に何かを見付けたのか、ルフレが軽くルキナの背を叩き少し遠くを指さす。その方向に目をやると、それはクロム達で。
大分距離を離したつもりだったのに、昨晩の内にこんなに近くにまで迫って来ていたのだろうかと、背筋が凍り付きそうなものを感じる、が。まだこちらを見付けた訳ではない様で。
ルキナは音を立てない様に注意してより高度を取った。
この高さならば早々気付かれはしないし、万が一気付かれたとしても矢も届かない。その分、地上の構造物を見逃しやすくはなるので遺跡を見逃さないようにと神経を使うが……。
そうしてクロム達を見付けた所から更に一つ山を越えた辺りで、急に視界に霧がかかり一気に見通しが悪くなった。
これがチキの言っていた、『真実の泉』があると霧煙る山なのだろうか。深い霧の中では上空から地上を見下ろす事は難しく。
高度をギリギリまで落とすしかないが、視界の悪い中だと急に山肌にぶつかりそうになったりと中々に大変であった。
こうも深い霧がこの山だけに発生するものなのだろうか。
これも、【竜族】の遺跡の力によるものなのだろうか……。
「ルキナ、あそこに……」
そんな事を考えていると、再びルフレが何かを見付けたらしく、小声で呼びかけながら、霧の中でもルキナに見える様に身を乗り出すようにして前方やや右を指さした。
その指示通りに飛ぶと、急に霧が晴れた様に途切れ、目の前に古びた石造りの様に見える何かの構造物が見えてくる。
これが、チキの言っていた遺跡だろうか?
山頂付近の山肌に貼り付く様に造られたそれの前に降り立つと、ルキナの背中から飛び降りたルフレが早速それを調べる。
「石で作られている様に見えるけれど……。よく見たら、特殊な……今まで見た事も無い様な加工が施されているみたいだ。
建材の一つ一つから、古く強い魔法の力を感じる……。
……ここが、チキ様の言っていた『真実の泉』がある遺跡で間違いないと思う。こんな場所にあるなら、今までここに辿り着いた人は殆ど居ないんだろうね……。
幻の泉になる訳だ。寧ろ、伝承が残されていた事に驚くよ」
そう言いながら、ルフレはカンテラに火を灯し遺跡の入り口を照らす様に掲げた。
「さあ……行こうか、ルキナ。『真実の泉』は、この奥だ」
ルフレの言葉に頷き、ルキナは遺跡の中へと入っていく。
……遺跡の中は『竜』の身体の大きさで考えても十分な程の広さがあり、緩やかに下に降りる形で奥へ奥へと続く内部は、奥に行くに従って天井もかなり広く作られている様であった。
そして、カンテラの灯りは必要ない程に遺跡の内部は薄ぼんやりと明るくて。それは驚く事に、建材となっている石の一つ一つが自ら淡く光っているからであった。
人智を超えたその遺跡にルキナも驚くばかりである。
やはり、古の【竜族】が造り出した遺跡であるのだろうか。
……少なくとも、現代の魔導師達でも想像も付かない程の、尋常ならざる力で造り出されている事は間違い無いだろう。
まるで緩やかに地の底に続いている様な遺跡の中を、ルフレから離れない様に注意して先を急いだ。
自分達以外の生き物の気配は無いが……。自分の理解を越えた『何か』の中に長居するのは、そう気分が良いモノではない。
ルフレも同じ気持ちなのだろうか……何時もよりも先を急いでいる様にルキナには思える。
緩やかな坂と階段を何れ程下って行ったのか、曖昧になってきた頃に、急にそれまでよりも格段に広い空間に出た。
そして、その空間の最奥には……。
「……! ルキナ、あれが……」
ルフレが指さしたそこには。
王城の中庭にあった池よりもどうかしたら小さい位の……そんな大きさの、澄んだ水を湛えた一画があった。
あれが、『真実の泉』なのだろうか。
何となく神々しいモノを想像していたルキナにとっては少し肩透かしな程に、一見その泉の水は普通に見えた。
だが、ルキナよりも余程魔道や呪術の力に詳しく敏感なルフレが驚いているのを見るに、恐らくはルキナには感じ取れない何か強い『力』がそこにはあるのだろう。
緊張から生唾を呑み込んだルキナが、恐る恐ると『真実の泉』へと近付こうとすると、急にルフレは何かを思い出した様にその背に背負っていた鞄をルキナへと慌てて投げ渡してきた。
その鞄を咄嗟に咥えて受け取ったルキナは、突然のその行動の意図が掴めずに首を傾げるが。
「多分、ルキナに必要なものだと思うから。
僕はここであっちを向いて待っているよ」
そう言ってルフレは、『真実の泉』から少し離れた場所で立ち止まり、何故か後ろを向く。
何故? とは思うけれども、今は先に『人間』の姿に戻る方を優先するべきだろうと、ルキナはそのまま『泉』へと近寄る。
そして、その水面を覗き込んだその瞬間。
そこにあった光景に驚き、ルキナは思わず後退さった。
『真実の泉』の水面に映っていたのは、『竜』の姿の自分では無くて、紛れも無く元の姿の……『人間』の自分であったのだ。
だが、今の自分は未だ『竜』の姿のままで。
現実と、水面に写し出された虚像が、乖離している。
それはまさに、尋常ならざる光景であった。
ルキナは再び『真実の泉』を覗き込んだ。
すると、水の中から『人間』の自分がこちらを覗く。
そっと、恐る恐る左の前脚を水面へと伸ばすと、鏡像の『自分』も手を伸ばしてくる。そして、ルキナの指先が水面に……鏡像の『自分』が伸ばした指先に触れた瞬間。
全身が燃え上がる様な、目も開けていられない程の激しい痛みの様な感覚が一瞬で全身を駆け巡り、直後には霧散した。
直前までの痛みが完全に消え失せ、寧ろ身体は爽快その物で。
直前までは感じていなかった様な、ひんやりとした空気を全身で感じたルキナは、恐る恐るその目を開ける。
先ず気付いたのは、視線の低さだ。
そして、次に視界に入った『手』に……紛れもなく『人間』のそれである、鱗など一つも生えていないしその指先に鉤爪も付いていない、柔らかな質感の腕と手に、気が付いた。その場に膝をついて、ルキナは恐る恐るその手を顔と首に伸ばす。
そしてその手の中に返ってきたのは、『竜』のそれとは全く違う……『人間』である自身のそれと同じ感触で。
立ち上がり、全身を見回しても、そこに在るのは、紛れもなく自分自身の、生まれたままの状態の『人間』の身体であった。
衣服を何も身に纏っていない状態である事に気付いた瞬間。
途端にルキナは近くにルフレが居る事を思い出して、顔から火が出てしまいかねない程に気恥ずかしくなるが。
反射的に振り返った先に居る彼は、言葉通りに律義に反対方向を向いていて、恐らくは何も見ていないのだろう。
ルフレは、元の姿に戻ったルキナがこの状態である事を察していたのだろうか。……そう言えば、と。
ルフレから渡されていた小さな鞄があった事を思い出したルキナは、それを開ける。
するとそこには、質素ながらも一式の衣服と靴が入っていて。
ルフレの気遣いに感謝しながら、ルキナはそれを身に着ける。
少しばかりルキナには大きかったが特には問題なく着る事が出来るサイズであって、ルフレの用意周到さに舌を巻く思いだ。
そして、ルフレに呼び掛けようとして。
そこで、上手く言葉が出ない事に気が付いた。
『竜』であった時の様に、そもそも音として言葉が話せないと言う訳では無くて。
長く言葉を発していなかったからか、喉と舌が言葉の発し方を忘れてしまったかの様な感じであった。
「るっ……るっれ……ふ……るふ、……るふれ、さん」
何度もつっかえながら、まるで舌足らずな子供の様に覚束ない言葉であったけれども。
漸く。ルキナは、初めて。彼の名前を呼ぶ事が出来た。
その事に思わず感極まって、涙を零してしまう。
名を呼ばれて、弾かれた様にルキナの方へと振り返ったルフレは、心から驚いた様に硬直して何度も目を瞬かせて。
そして、ルキナが涙を零している事に気付いた瞬間に、慌てた様にルキナへと駆け寄ってきた。
そのままルキナを抱き締めようと手を広げていたけれど、その手は直前で何かを思い止まったかの様に止まる。
どうかしたのかと、ルキナよりも背が高くなった彼を見上げる様に見詰めると。ルフレは少し頬を赤らめた。
「あ、その……何時もの癖で、抱き締めそうになったけど。
流石に、女性に対してそう言う事を軽々しくやるのは良くないと言うか、その……。色々と驚いて、戸惑ってしまって……」
「どうか、したの、ですか……?」
まだ涙は止まらないけれど、それを少し乱暴に拭って、ルキナは首を傾げる。確かに、ルフレが『人間』としてのルキナの姿を見るのはこれが初めてあろうけれども。それでもその中身とも言える部分は今までと全く変わらないのに。
すると、ルフレは益々その頬を赤らめる。
「その……あんまりにも、ルキナが綺麗だから……。
あ、いやその、『竜』の姿の時も、美しいとずっと思っていたんだけれど、そう言うのじゃなくて……。上手く言えないけど。
とにかく、今の君を抱き締めるのは少し憚られると言うか」
まさにしどろもどろと言った有様で、ルフレはそう言う。
そんなルフレの姿に、ルキナは思わず笑ってしまった。
何だろう……『可愛い人』だなと、そんな事を思ってしまう。
そして、おたおたとしているルフレを、ルキナの方から飛びつく様にして抱き締めた。
今のこの身体なら、思い切り抱き締めてもルフレを傷付けたりはしない、この手がルフレの身を引き裂いたりもしない。
腕の中にある温もりを全身で感じる様にルキナは目を閉じる。
「ずっと、こう、したかった……。
この手で、ルフレさんの温もりを、確かめたかった……。
ずっと、ルフレさんの、名前を、呼びたかった……。
今やっと、漸く……」
少しずつ喋る感覚が戻って来て。それでも伝えたい事ばかりが溢れてきて、上手く言葉に出来ない儘ならなさが募った。
そんなルキナの身体を、ルフレの手はそっと優しく抱き抱える様に支え、よりその距離は縮まる。
互いの鼓動の音すら聞こえてきそうだと、そんな事も思ってしまう程近くに、ルフレを感じる。
「ルキナ……。僕は……、君の事が──」
その時。ルフレが口にしようとした言葉は。
突然その場に響いた緩い拍手の音によって遮られた。
◇◇◇◇◇
ルフレとルキナしか居ない筈の『真実の泉』に、有り得ない第三者の拍手が響く。
一体誰が、何処から、と。辺りを見回した瞬間。
ついさっきまではそこには誰も居なかった筈の。
『真実の泉』の目の前に。一人の男が立っていた。
パチパチと、まるで心の伴っていない拍手をしながら、ニヤニヤと……まるでその心にある悪意がそのままそこに現れているかの様な表情を浮かべているのは。
まさに鏡像であるかの様に、ルフレとそっくり同じ……クロムに切り裂かれ血で染まったが故に左の半身が赤黒く染まっている外套すらも全く同じ姿をしていた。
だが、そこにある表情だけは、そしてそれを映し出す心は、疑いようも無くルフレのものではなくて。
余りにも似通っているが故に、その違いが却って絶対的な程に浮き彫りになっている。
── 『これ』は、一体何だ……?
武器なんて持っている筈も無く……『竜』から戻ったが故に、今のルキナはとても非力な状態ではあるけれど。
目の前の『何か』へ、最大限の警戒心を持つ。
もし『竜』の身体であれば威嚇の唸り声を上げていただろう。
ルフレはと言うと、突然に現れた自分に極めて近似した『何か』への動揺を隠せない。まるでお伽噺の『ドッペルゲンガー』と言う名の怪物に遭遇してしまったかの様な顔をしている。
ルフレもルキナも、何も言わず身動き一つせず、『何か』の一挙手一投足を警戒していると。
『何か』はルフレなら絶対に浮かべない表情に、その口の端を醜く歪め。……そしてルフレの声で、喋り出した。
「いやはや成る程、実に感動的な場面だと言うべきだろうね。
邪竜の【呪い】によって『竜』にされ居場所を追われた姫君が、偶然出会った若者の力を借り幾多の苦難を乗り越えて、終にはその【呪い】を解く……。
実に、感動的じゃないか。素晴らしい、称賛するよ。
……ああ、本当に、よくやってくれた。例を言うよ、ルキナ。
君のお陰で、『僕』はここに辿り着けたのだから」
『何か』はニヤニヤと嘲笑いながらそう宣う。
そんな『何か』へ、ルフレは声を上げた。
「お前は一体何者だ。どうして僕の姿をしているんだ!?」
ルフレのその言葉に、『何か』はおかしくて堪らないとばかりの哄笑を上げて腹を抱える様な真似をする。
「どうして……? お前もここが何処だか知っているだろう?
その者の『真実』の姿を映し出す、『真実の泉』じゃないか。
『僕』はお前の『真実』の姿……正確には、お前の本性の人格を写し出した、言わば『真なる影』だ。
全く……緩んだ封印の隙間から抜け出す様にして、こうして『人間』のものであっても身体を得て蘇ったと言うのに……。
まさか、あの忌々しい神竜の力に満ちた森に、まだ【力】が蘇りきらない状態で逃げ込まれるとは思いもよらなかったさ。
そのお陰で、もっと早くに目覚める筈だった『僕』が今まで眠らされ、お前みたいな『人間モドキ』の心が生まれたんだ。
こうして、『真実の泉』の力で仮初の実体を得なければ表に出る事すら出来ないとは……全く忌々しい限りだよ」
そう吐き捨てた『何か』……ルフレの『真なる影』と名乗ったそれは、ルキナの方を見て表面上だけの笑顔を浮かべる。
「だがまあ、千年前に戯れに遺した【呪い】がこんな風に役立つとは思わなかった。有難う、ルキナ。
君が、コイツをあの忌々しい森の外へと連れ出してくれた。
君が、コイツをここまで連れて来てくれた。
君のお陰で、あの神竜の娘から『宝玉』を手に入れられた。
全て、君のお陰であるとも。
君のお陰で、『僕』は蘇る。心から感謝するよ、ルキナ」
それに、と。『影』は一転して歪んだ笑みを浮かべる。
「君の絶望は。姿を奪われ、居場所を奪われ。
獣として追われ苦しみ傷付き絶望する君のその心は。
『竜』の身体に苦しむその有様は。
実に! 素晴らしい見せ物であったよ。
君は実に退屈しない最高の玩具だった。
君があの日あの森に辿り着いたのは、運命とも言えるだろう。
無意識の内に『僕』の【力】に惹かれたのかもしれないけど」
くつくつと喉を鳴らして、『影』は一歩近付いてくる。
戸惑い混乱しながらも、『影』の危険性を肌で感じ取って。
ルキナ達は近寄られた分だけ後退る。
それを、『影』は「おやおや」と言わんばかりの目で見た。
「どうして逃げるんだい?
『僕』はお前の『真実』であるし、『僕』の【力】があったからこそ今も生きていると言うのに……その反応は心外だね。
まあ……あの鈍に成り果てたファルシオンで斬られた衝撃で、一気に『僕』が目覚めたとも言えるけれども……。
かつて『僕』を封じた剣が、今度は『僕』を目覚めさせた最後の切っ掛けになるとは……何とも皮肉な結果だね。
ああ……そう言う意味でも、ルキナには感謝しているよ」
「【力】……? 一体何の事だ……?
それに、封じるとか目覚めるとか、一体何を言って……」
ルフレは、戸惑いの中に怯えの様なモノを含ませながらも、『影』の言葉の真意を問う。
すると、『影』は呆れた様に肩を竦めた。
「全く……神竜の封印の所為とは言え、『記憶』が無いと言うのも面倒なものだね……。
『人間』なんかを模しているとは言え、『僕』自身なのにここまで愚鈍な存在に成り下がっているのを見るのは不愉快だ。
『僕』は、千年前に神竜とその下僕によって封じられた者。
人間達が言う所の、『邪竜ギムレー』さ。
ああ、その顔! まるで全く気付いて居なかったんだね。
そうとも、お前は、『僕』は、『人間』ではないのさ!!」
『影』の言葉に、信じられないとばかりに首を振って否定するルフレを、『影』は嘲笑う。
『影』の言葉に揺さぶられているルフレを庇う様に、ルキナは一歩前に出て反射的に言い返した。
「何を言っているんですか!? ルフレさんは『人間』です!
ルフレさんが、邪竜ギムレーだなんて、有り得ません!!」
そんなルキナの言葉に、『影』は愉快で堪らないとばかりに、口元を歪めてそれを手で覆い隠す。
そして、ギラギラと悪意が灯る眼でルキナを睨んだ。
「有り得ない? それは君がそう思いたいだけだろう?
君が一体コイツの何を知っているんだい?
君にとって都合のいい虚像を信じているだけじゃないか。
君がどう思おうが、事実は変わらない。
『僕』達は、君達が『邪竜』と呼ぶモノ、ギムレーさ。
まあ、肉体はまだ仮初の『人間』のものである事には間違いないから、『人間』だと言う君の指摘も、全部が全部的外れとまではいかないけれどね。
第一君も、色々と『おかしさ』は感じていたんじゃないかな?
普通なら致命傷になる様な傷が、何もせずとも直ぐに治るのは『人間』なのかな? ……うんうん良いね、その表情!
あの鈍のファルシオンに斬られた傷なんて、もう綺麗さっぱり跡形も無いよ? 気になるなら確かめてみると良いさ」
『影』の言葉に、ルキナは思わず反射的にルフレの左の脇腹を見てしまう。そして、ルフレは何処か顔を蒼褪めさせて、そこを……傷がある筈の場所を手で隠す様に押さえていた。
何かに怯える様なルフレのその表情を見て、ルキナは『影』の言葉が、少なくともルフレにはもう傷は無いという其処だけは事実なのだろうと、理解してしまった。
「それに、神竜の力の影響下にあったあの森を出てからは、『僕』の『記憶』を度々夢に見ていただろう?
まあお前はそれをただの夢だとして、記憶からまた消してしまっていたけれど……。消しきれないものはあった筈だ。
特に、ファルシオンに斬られる感覚は、君の意識の奥底に刷り込まれていたんだろう? だからこそ、あの鈍に斬られた時に、『僕』の意識に届く程の衝撃を受けたんだろうに。
目を反らして、耳を塞いで、気付かないフリをして。
そうやってこんな所まで来てしまった。
さあ、もう『人間ごっこ』の時間は終わりだ。
『僕』を受け入れ一つとなり、【竜】として再び蘇ろう。
……ああ、なに心配はするな。
お前の望み通り、ルキナは殺さないさ。
『僕』も、目覚めさせて貰った『恩』は感じているからね。
忌々しい神竜の下僕の末だが、喰い殺すには流石に惜しい。
全てを殺し尽くした後でルキナと二人生きるのも良いだろう」
喉を震わせる様に嗤いながら、『影』はまた一歩また一歩とルフレに近付いていく。
どうにか離れようとするも、足が凍り付いた様に動かない。
「逃げようとしたって無駄さ。逃げた処で、『真実』から逃げる術は無いし……第一『僕』がみすみす見逃すとでも?
あまり『僕』の【力】を舐めるのは止めた方が良い。
何なら、もう一度ルキナを『竜』に変えてしまっても良いよ?
今度は何をしても絶対に戻れない様に、念入りに。
……それなら、『王女』じゃないルキナとなら、ずっと一緒に居られると、お前自身が願っていただろう?」
『影』が何らかの力でルキナ達の動きを封じているのかは分からないが、今自分達の意志で動かせるのは首から上だけで。
圧倒的強者の余裕を見せつける様に、ゆっくりと近寄ってくる『影』から距離を取る事すら出来ない。
『影』の言葉に、ルフレはか細く震える声で言い返す。
「違う……僕は、僕は、そんな事を望んでいない。
僕が望んでいたのは、ルキナの『幸せ』だけで……」
その途端、『影』は愉快で堪らないと言わんばかりに笑い出し、乱暴な手付きでルフレの顎を掴んだ。
そして、呪詛の様な言葉を吐きかける。
「『僕』はお前だと言っただろう?
お前がその心に隠してきた、醜い欲望も、願いも!
『僕』は全て知っているのさ!
『竜』のままでも良いからずっと自分の傍に居て欲しいと、そう思っていただろう?
自分の手の届かない存在になってしまう事を恐れて、いっそ何処かに攫ってしまいたい、二人だけで閉じた世界で暮らしていきたいと願っただろう?
『真実の泉』など知らないまま、あの森で『竜』の身に縛り付けたままのルキナと二人で過ごしていたかったんだろう?
ルキナの『幸せ』を願うと口ではそう言いながら、醜い欲望を捨てる事も出来ずに抱え続けていただろう?
しかもそれを知られて幻滅される事を恐れて、ルキナの前では最後まで『良い人』の仮面を被ろうとしていたじゃないか!
なぁに、お前が心を痛めていた身分の差なんて、ギムレーとして蘇れば何の関係も無いさ。
滅ぶ世界には、身分など何だのとそんな物に意味は無いし。
人間如き虫けらなんて、幾らでも自分の好きな様に出来る。
ルキナを好きなだけ『愛』せるし、二人で生きられる。
良かったな、お前の『願い』は全て叶うぞ?」
ニヤニヤと嗤う『影』に、ルフレは必死に「違う」と言い返すが、その声は『影』の言葉を打ち消すには到底及ばない。
そしてルフレは、恐怖を多分に含んだ目でルキナを見た。
「違う、違うんだ、ルキナ。
僕は、そんな事を思ってない。僕はそんな事望まない。
僕は、『人間』だ。君と同じ……。
僕は、ギムレーなんかじゃない。
お願いだ、信じてくれ、ルキナ……」
「ルフレさん……。私は──」
その眼差しに、そこに宿る感情に。ルキナは覚えがあった。
どうか否定しないで。どうか拒絶しないで。と。
そう懇願する眼だ。……痛い程に身に覚えがある。
だから、ルキナはルフレの不安と恐怖を拭う為に言葉をかけようとして……だがそれは『影』によって阻まれた。
「お前が『人間』だって……?
これを見ても、まだそんな戯言が言えるのかな?」
そう言うなり、『影』は片腕だけでルフレの身体を持ち上げて。
そして、ルフレに無理矢理『真実の泉』を覗かせる。
その瞬間、ルフレの表情は絶望に染まった。
「嘘だ!! こんなの、こんな化け物、僕じゃない!
僕は『人間』だ! 『人間』なんだ!!」
「『真実の泉』の力を理解しても尚、まだそう否定するのは流石に往生際が悪いと『僕』は思うけどね。
ほら、これで『人間ごっこ』を終わらせる気になれただろう?」
……ルフレが『真実の泉』に自分のどの様な姿を見たのかはルキナには分からないけれども。
しかしその尋常ではない取り乱し様と、強い否定に染まった絶望を見れば……恐らくルフレにとっては自身の全てを否定するかの様な『化け物』の姿をした自分が映っていたのだろう。
『影』の言葉を否定するその表情は、いっそ死んでしまいそうな程に蒼褪めている。
それでも、ルフレは諦めなかった。
それがただの悪足掻きにしかならないのだとしても……。
ルフレのそんな様子に興が冷めたのか、『影』は詰まらなさそうに溜息を吐いて、無造作にルフレを放り投げた。
身体を自由に動かせないまま受け身を取る事も出来ずに、硬い床にその身を強かに打ち付けたルフレは息を詰まらせる。
そんなルフレを感情の籠らない眼で見やった『影』は、今度はルキナの方へと近付いた。
「『人間ごっこ』の弊害がここまで大きいとはね……。
全く、教団の連中があの女を取り逃がしたからこんな面倒で頭が痛くなる事になったんだ。
『僕』を神だのと崇め奉っておきながら、杜撰にも程がある。
……目の前でルキナを少し痛めつけてやれば、諦めるかい?
なに、心配はいらないさ。『僕』は君には本当に感謝している。
命までは取らないし、腕の一本や二本再生させる事は容易い。
何なら、ここで再び君の姿を歪めるのも良いね。
どんな姿になりたいか、希望はあるかい?」
『影』が、ルキナに手を伸ばしてくる。
逃げようとしても、身体はピクリとも動かなくて。
ルキナは、凍り付いた様にその手を見詰める事しか出来ない。
「止めてくれ……! ルキナには手を出すな……!!」
「止める必要が何処にある?
怨むなら自分の無力を恨むが良いさ」
ルフレの制止に構う事すらなく、『影』はルキナの首を掴む。
万力で握り締められているかの様なその力に息が詰まった。
殺す気は無いと言いながら加減を知らないのか、それとも苦しむルキナを見てその嗜虐心を満たしているのか……。
首筋の血管を押さえつけられているからなのか、頭に血が足りない。意識が次第に薄れていく。
「るふ、れ……さ…………」
薄れゆく意識の中で思うのは、自分の事では無くて。
「止めろ──ッッ!!」
まるで竜の咆哮の様な、ルフレの怒号に似た叫び声と共に。
激しい衝撃が、遺跡全体を揺らした。
衝撃に弾かれた様に、『影』はルキナから手を離し後退った。
喉が解放された反動でルキナは咳き込み、喉に手をやる。
そしてその次の瞬間に、身体を自由に動かせる事に気付いた。
ルキナは弾かれた様に辺りを見回して状況を確認する。
『影』は衝撃の影響を強く受けたのか片膝をついていて。
ルフレは叫ぶ事にかなり体力を使ったのか肩で荒く息をしながらも、手をついて身を起こし、『影』を睨み付けていた。
── 今ならば逃げられるかもしれない!
武器も何もない状況では、『影』に立ち向かうという選択肢は最初からルキナの頭に無かった。
今はただとにかくこの危険な『影』から逃げなければと。
ルキナはルフレの元へと全速力で駆け寄り、立ち上がっていた彼のその腕を取る。
「行きましょうルフレさん! 今なら!」
だが、その瞬間。ルフレはルキナを勢いよく突き飛ばす。
一体どうして、と。そう思った次の瞬間。
倒れたルキナの目の前で、ルフレの身体が激しい勢いで吹き飛ばされ、遺跡の壁に叩き付けられた。
一瞬前までルフレが居たその場所には。ほんの一瞬で距離を詰めていた『影』が立っていて。ルフレを蹴り飛ばしたその足で苛立ちをぶつける様に床を踏み付けて石材に罅を走らせる。
「クソ! 一瞬でもお前なんかに『僕』が押されるなんて……!
『僕』自身であっても、こんな『人間ごっこ』で腑抜けたやつに『僕』が膝をつくなんて、何たる屈辱だ……!
自分じゃないなら八つ裂きにして殺してやりたい位さ!」
『影』は壁に叩き付けられた衝撃で動けないルフレを更に甚振る様に蹴り飛ばした。
腹を凄まじい力で蹴りつけられたルフレは、息を詰まらせた後で空嘔する様に何度も咳き込む。
「この身体は所詮は仮初のモノに過ぎないと言う事か……!
全く忌々しい! その身体が『僕』のものなら、とっくに【力】を取り戻して完全なる復活を果たしていたと言うのに……!!」
動けなくなったルフレの襟首を掴む様にしてその身体を持ち上げた『影』は、忌々しさを隠す事も無く唸る。
「お前も【力】を使える事が分かった以上は戯れもここまでだ。
幸い、『蒼炎』はここにある。
『竜の祭壇』に戻れば、忌々しいお前も食い潰せるだろう。
『人間』の皮を被る必要もなくなるさ」
そして、と。『影』はルキナの方へと向く。
「コイツを食い潰す方が先だから、今は見逃してあげよう。
だが、必ず君を捕らえに行くとも。
精々その時までは『人間』として生きるが良いさ」
そう言った次の瞬間。
『影』はその手で掴んでいたルフレの身体ごと、その場から影も形も無く消失する。……ルキナが手を伸ばす暇すら無かった程の一瞬で。
そしてその場には。ルキナ唯一人が残されたのであった。
◇◇◇◇◇
「ルフレさん……」
独り取り残された空間で、ルキナは呆然とその名を呼ぶ。
だが、その声に応える者は居ない。
余りにも多くの事が一度に起こり、まだ何も整理出来ていないし、殆ど何も呑み込めてもいないけれど……。
自分は、ルフレを奪われた。
ただそれだけが、ルキナにとって一つ確かな事であった。
ルフレがギムレーであるかどうかなど、ルキナにとってはそんなに大きな問題では無かった。
実際、あの悪意の塊の様な『影』にさえ出逢わなければ。
『人間』の肉体を得て蘇ったギムレーであると言うルフレが、かつての伝説の邪竜の様に世界を滅ぼそうとするなど到底考えられない事であったし、例えそれが『影』の揶揄した様に『人間ごっこ』に過ぎないのだとしても、ルフレはあの森の奥で静かに平穏な『幸せ』な日々を過ごしていただろうから。
自分の所為、なのだろうか。
ルフレが……ルフレとしての彼の心が決して知りたいと望んですらいなかった『真実』を突き付けられる事になったのは。
自分は『人間』では無いのだと、絶望する事になったのは。
そして……あの邪悪な『影』を呼び覚ましてしまったのは。
……ああ、それは。それは何と言う……。
だが、ルキナには。
愛する者を結果として傷付けてしまった苦しみに、ズタズタに引き裂かれた心の痛みに涙を流す様な暇も。
溢れ出す後悔に足を取られて迷い立ち止まる様な時間も。
愛する者を奪われた絶望に吼える事も。
何一つ許されてはいないのだ。
時は、待たない。
何れ程後悔に沈もうとも、時を巻き戻したいと願っても。
全てを等しく未来へと運んでいく。
だからこそ、愛する者を取り戻したいと心から想うのなら。
足掻かねばならない。立ち向かわねばならない。
己の出来る全てを限られた時の中で果たさなくてはならない。
そして、まだ全ての手掛かりと道が喪われた訳ではないのだ。
ルキナは、ルフレに突き飛ばされたその時に。
彼から押し付けられる様にして密かに託された小さな袋を、それが『希望』そのものであるかの様に握り締める。
それは、チキからルキナへと託され……あの瞬間までルフレが預かっていた『蒼炎』であった。
『影』は、『蒼炎』に拘っていた。
だからこそ、……恐らくは『影』から逃げきる事は出来ないと悟ったルフレは、あの瞬間にルキナにこれを託したのだ。
恐らく、『影』はまだそれに気付いていない。
ならば、『蒼炎』がここにあると言う事は。
『影』の目的であった、ルフレの意識を呑み込むまでには、きっとまだ余裕が出来た筈だ。
それが何れ程の時間なのかは分からないが……それでも、ルフレが託してくれた時間である。
自分に出来る全てで、その役目を果たさなければならない。
ルフレを、取り戻す為にも。
『影』の行方には『竜の祭壇』と言う手掛かりがある。
それが何処なのかはルキナには分からないが……。
幸いにもルキナはそれが何であるのか、何処にあるのかを知っていそうな人物を知っている。
そして、ルフレを取り戻す為に必要な力……戦う為の力を持っている者も、よく知っている。
……ルキナは、まだルフレに自分の『想い』を伝えていない。
感謝の気持ちも、……この胸を今も熱く燃やす『想い』も。
何も、まだ何一つ。
だからこそ、行かねばならない。
ルフレを、救う為に、この手に取り戻す為に。
ルフレが何者であっても、ルキナには関係ない。
何故ならば、ルキナにとってルフレがこの世界で一番大切で愛おしい存在である事は、何があっても変わらないのだから。
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