不敗のブラックディーラー   作:あおい安室

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本作品はフィクションであり、現実における賭博行為を推進するものではありません。
作品内の描写のように勝つことは非常に難しいです。

万が一、本作がきっかけでギャンブルに興味を持ったとしても適度に遊ぶことを強く推奨します。


不敗のブラックディーラー

 

 ──ラッキー7、舐めんな──

 

 

 

 

「畜生、もう一度だ!!」

 

 勢いよくテーブルを叩く音と共に男の罵声が響く。

 

 ここ、カジノではギャンブルに負けた奴が騒ぐことはよくあるが、どうも雰囲気が普段とは違う。

 ピリピリとした暗い雰囲気が気になって騒ぎの現場──ルーレットのテーブルを覗きに行く。

 

 ああ、なるほど理解した。負けているのは叫んだ男だけじゃなくて参加者全員というわけだ。

 テーブルを取り囲む男や女たちの顔は一様に怒りに耐えるかのような表情。そりゃあ雰囲気も違うわ。

 

「お客様、そろそろお止めになった方がよろしいかと。

 最初に申しあげたとおり私はお強いので。これ以上は皆さまの生活が心配になってきます」

 

「うるせぇ、だったらいい加減負けろ!」

 

「申し訳ありませんがそれはできません。これが私の仕事ですので」

 

 客たちの怒りの矛先は女性ディーラーに向けられている。

 ショートの黒髪に黒い瞳。胸や尻は大きすぎず小さすぎずのちょうどいいサイズ。

 そんななかなかの美人が何人もの客を手玉に取っているこの状況。こいつは面白そうだ。

 人混みの外に見知った顔を見つけると、テーブルから離れて声をかける。

 

「そこのボーイ、ちょっといいか?」

 

「おや、あなたですか。この騒ぎを聞きつけて来た口で?」

 

 この状況を眺めていた馴染みのボーイは楽しそうに口を開く。

 彼は昔ディーラーを務めており、その頃からの付き合いだ。

 なお、ディーラーは俺に大負けしたので廃業した。本当にすまんね。

 

「ああ。ついさっきここに来たんだが何があったのか教えてくれないか?」

 

「かしこまりました。ところでお客様──―不敗のブラックディーラーの噂、ご存じで?」

 

「……! ああ、知ってる。ということは……!」

 

「ええ。彼女がそうです」

 

 笑みを浮かべながらルーレットを回すディーラー。

 彼女が、あの噂の……まさか生で見られるとはな。

 

 不敗のブラックディーラー。

 

 カジノ界で最近噂となっている人物の一人。

 三年ほど前にとあるカジノでディーラーを始めた黒髪黒目の女性。

 専門はルーレットのみだが、彼女はとにかく強い。三年間負けたことはない。

 ベットの条件上勝てない場合でも、損する金額は最低額のところに玉を落とすのだ。

 ゆえに彼女は不敗。そしてその容姿から不敗のブラックディーラーと呼ばれているのだ。

 

 そんな彼女をこのカジノのオーナーが最近引き抜いた。

 

 そして、特別ルールで彼女がディーラーのルーレットを開催しているのだ。

 

 参加人数は16人まで、一人が賭けられるのは一か所の1点賭けのみ、かつ最低参加金額もそこそこ要求される。

 しかし、勝った奴にはボーナスが出るとのこと。なんと、店で一番高いオレンジチップ100枚。

 具体的な金額を言うと、そこそこなサラリーマンの年収50年分くらい。

 

 それに引きつけられた客がこぞって賭け──―連戦連敗。

 

「お客様がドンドン賭けている光景は見ていて面白いものです。今日のカジノは大黒字ですね。

 今月のボーナスは期待できそうです」

 

「そりゃあよかったな。俺もちょっとやってみるかね」

 

 今日一晩で稼いだ手元のチップを数える。

 ひーふーみー……うむうむ、そこそこの金額儲けたな。

 

「その程度では足りませんよ。せめて後5倍は必要です」

 

「俺は一生あのルーレットに参加できないことが確定した」

 

「低金額のベットでボーナスを獲得されては当店も困るので……ご理解の程よろしくお願いいたします」

 

「低金額のベットの場合ボーナス大幅減とかにしてくれないか? 

 ギャンブラーとしてはあんな強いディーラーには賭け金関係なしに挑みたい」

 

「その手がありましたか。今度担当者に相談してみましょう」

 

 ボーイとの雑談を楽しんでいる間もルーレットは回る。

 そして、客の嘆き声が響く。結果はいつもディーラーの勝ち。

 ギャンブラーは惜しい結果はあっても勝つことはない。

 噂に違わぬ実力に舌を巻いていると、突然ディーラーがふらついて頭を押さえる。

 

「くぅっ……申し訳ありません、少々疲れてしまいました。

 ああ、大丈夫です。ゲームには問題はありませんのでご安心を。

 ベットはもうありませんね? ──―参ります」

 

 調子を立て直した女性ディーラーは再びルーレットを回し始めた。

 

「ふむ……お客様からのストレスの耐性はまずまずといったところですね。

 そろそろ交替のディーラーを手配しておきましょう」

 

「ん? お前あの新人ディーラーの評価してたのか?」

 

「はい。彼女が当店でディーラーを務めるのは今日が初めてでして。

 本日の働きはスタッフもよく観察することにしているのです。

 彼女、他のカジノでも負けなしなのですが……正直なところ彼女がイカサマをしているのではないかと疑っているのです」

 

「なるほどな、気持ちはわかる。あそこまで強いとなぁ……」

 

「お客様も何かお気づきになりましたら報告をお願いします」

 

「了解、よく見ておくよ」

 

 そう言ってルーレットを回す彼女を眺めていると──あることに気づく。

 

「ボーイ、一応腕自慢の人を呼んでおいてくれ。例のやつだ」

 

「おや、かしこまりました。手配します」

 

 ボーイから離れて俺は人混みの中に紛れる。そして、ディーラーへと近づいていく。

 

「ベットはもうありませんね? ──―参ります」

 

 再びルーレットを回そうとした彼女。俺は息を吸い込んで大きな声を出す。

 

「そのルーレット待った!」

 

 そして、大声で硬直したディーラーの──―傍で拳を振りかぶっていた男の肩を掴んだ。

 

「おいアンタ、何やってんだ。さっき騒いだだけじゃなくて今度は暴力騒ぎを起こすのか?」

 

 その男は先ほど騒いだあの男だった。

 少し怪しい雰囲気だったから止めに入って正解だったぜ。彼は赤面しながら俺に対して激怒する。

 

「うるさい、こいつは絶対何かイカサマしてるに決まってる! 

 一発殴ってやりゃあそれが何か吐き出すだろう! 止めるな!」

 

「止めるよ。あんた頭に血が上りすぎだぜ。

 負けが込んで怒りたくなる気持ちもわかるが、ディーラー殴るのはやめとけよ。

 こんな綺麗な女だったら尚更な。男としての格が落ちるぜ?」

 

「女だろうとイカサマしたってことに関係あるか!」

 

「簡単にイカサマしたって決めつけんなよ。そう思うなら他のスタッフに言えばいい。

 本人に当たるよりもまずはそっちが先じゃねぇか? 俺みたいにな」

 

 そういうと、顔の赤い色が一気に抜けていく。

 俺の背後から現れた筋骨隆々の二人の黒服が男の両腕をがっちりとホールドして動けなくした。

 そして、俺の隣に颯爽と現れるボーイ。ナイスタイミングだぜ。内心で称賛する。

 

「そちらのお客様の言う通りです。

 イカサマを疑うのであればまずは他のスタッフに連絡していただきたい。

 でないと今のあなたのように取り押さえる準備ができませんので」

 

「あ、いや、その……わかりました、すみません」

 

「それと、先ほどの罵声騒ぎはまだ見逃せますが、ディーラーへの暴力未遂は見逃せません。

 あなたが彼女をイカサマしていると思った理由含めて別室でよく聞かせてもらいますので、どうぞこちらへ」

 

 色が抜けた顔が一気に土気色に変わり、黒服にどこかへと連れていかれる。

 このカジノで騒ぎを起こした奴は病院行きになることを知ってるんだろうな。

 自業自得だけど、ご愁傷様。

 

「皆様、大変お騒がせして申し訳ありません。

 ですが、あまりにもディーラーが勝ってしまうためにこのような騒ぎが起こしてしまう気持ちもわかります。

 念のためイカサマを行っていないかディーラーにも確認を取りますので、本日はここで特別ルールを終了させていただきます。

 引き続き通常ルールでゲームをお楽しみください」

 

 ペコリと頭を下げて女性ディーラーと共にボーイは立ち去る。

 女性ディーラーが立ち去ろうとしたとき、俺の耳元で囁いてきた。

 

 

 ──ありがとう、後輩君──

 

 

 その声に俺は茫然とした。

 振り返るが、既に女性ディーラーはボーイと共に消えていた。

 俺を後輩君、と呼ぶ女性は一人しかいない。記憶を思い返せば容姿は大分違っていたが、確かにそうだ。

 

 

 彼女は俺の、『初恋の女性』だ。

 

 

 

 

 自慢じゃないが、俺はそこそこ足が速い。

 そんな俺は高校生の時家も学校と近かったからいつも一番乗りで教室にいたんだ。

 

 ある日、俺は教室に入ると、そこには他の人がいたんだ。

 正直言ってショックを受けたよ。いつも一番乗りで教室にいることをちょっと誇りに思ってたから。

 

 教室にいた人は初めて見るロングヘア―の女性だった。

 窓際に立って外を見ていたから背中しか見えなかったが、見覚えが全くなかった。

 俺の同級生に長い髪の女の子は一人もいなかったから。

 

「君は……誰なんだ?」

 

 問いかけた俺に気づいた彼女は髪をなびかせながら振り向いた。

 

 ──―静かな部屋に差し込む朝日に照らされる女性。

 

 当時から彼女は綺麗で、その光景がどれだけ美しく見えたことか。

 

「はじめまして、私この学校に転校してきたんだ。

 今日から君と同じ二年二組の生徒だよ。私の名前は──―」

 

 いうならば、一目惚れしちゃったんだよ俺は。

 

 なお。

 

「あの、教室間違えてるよ」

 

「えっ」

 

「ここ一年生の教室。二年生の教室は上の階ですよ、先輩」

 

「~~~!! こ、後輩君! このことは内緒にしておいてね!」

 

 間違いを指摘すると赤面しながら全速力で教室を出ていった。

 そんな割と面白い結末付きである。初めて会う同級生にミステリアスな雰囲気を与えかったらしいけど、教室間違えるとかポンコツなのでは。

 

 

 

 

「そんな面白いことをあなたが黙っているわけないでしょう」

 

「よくわかってるなボーイ。速攻で言いふらした」

 

「本当にあの時はぶっとばしてやろうかと思ったんだけど」

 

「「後輩君! ちょっと来て!!」そういって怒りながらやってきた先輩。

 何もないのに転んだ。な・に・も・な・い・の・に転んだ。ギャフンって鳴いてた」

 

 ボーイ、テーブルに突っ伏す。

 笑いをこらえて震えてるぞお前。久しぶりにその光景見たな。

 

「……記憶にないよ、そんなこと」

 

 遠い目をする女性ディーラー、もとい先輩。

 割と面白い光景が営業終了後のカジノのバーで起きていた。

 

 というのも、騒ぎに気付いたお礼としてボーイから酒を奢ってもらえることになった。

 バーテンダーに扮したボーイと二人で飲んでいると、女性ディーラーがお礼を言いに来た。

 

 そこで「もしかして先輩ですか?」と聞いたら「気付いてなかったの?」と返された。

 本当に初恋相手にこんなところで会えるとは、嬉しいのやら悲しいのやら。

 

 そして、ボーイからどんな関係なのかを聞かれて初対面の思い出を語り現在に至る。

 ……さすがに初恋相手だっていうことは言ってない。当時も告白する勇気なかったし。

 

「ちなみにそんな彼女のバニー姿……いかがですか、お客様」

 

「最高です。初めて生でバニー見たぜ」

 

「ちょ、ちょっとあまりジロジロ見ないでよ! 恥ずかしいんだけど!!」

 

 元々スーツ越しでもわかるくらいにいい体をしていた先輩は、バニー姿だとその良さがますます際立つ。

 恥ずかしがって胸のあたりを手で隠すしぐさもなかなかによい。うむうむ、眼福である。

 

「でもなんでバニーなんだ? サービスかなー、とか思って今まで聞かなかったんだが」

 

「イカサマをしていないか確かめるために女性スタッフが一度彼女を脱がせまして。

 で、本日はあんな騒ぎがあったので彼女がディーラーとして立つことをオーナーが禁止したのです。

 そうしたらスタッフが悪乗りしまして……」

 

「私の着替えがバニースーツにすり替えられてたってわけ。

 新人だからって舐めてるわねあの人たち……あの人たちがギャンブラーだったら素寒貧にしてやったところよ。

 何か手はないかな……ねえ、いい案はない後輩君?」

 

「おお、怖い怖い。連戦連勝のディーラーに目を付けられるとは気の毒なもんだ。

 案とか言われてもその女性スタッフがディーラーのテーブルで客が勝ちまくるくらいしかねぇぞ」

 

「客に私の予想ばらまけばできそうねそれ。私運がいいし」

 

「やめてください。ディーラー同士での争いでカジノを荒らされるとかどんな笑い話ですか」

 

「あら、聞いたからにはボーイ君も協力してもらうけど?」

 

「お断りします。私根っからのこのカジノの味方ですので」

 

 ちえっ、とつまらなそうにする先輩。呆れ顔でため息を吐くボーイ。

 そうそう、先輩ってこういう人だった。懐かしいなぁ……そうだ、懐かしいといえば。

 

「先輩ロングヘアはやめたんですか? よく似合ってたのにもったいない」

 

 今の先輩の髪はショートヘア。

 これはこれでいいんだが、やっぱり俺はロングの方が好きだ。

 

「ロングヘア―はちょっと理由があって止めたんだ……

 止めた理由については聞かないで。女性には事情が色々とあるの」

 

「了解。聞いた俺が悪かった」

 

「悪いと思うのなら一杯おごってくれる? ちょっと金欠気味で」

 

「しょうがないなぁ……わかった、いいぞ」

 

「やった! ボーイ君、一番高いのお願いね!」

 

「そこまでの額は奢れないんだけど!? ボーイ、カシスオレンジ! それくらいで充分!」

 

「えー、ケチ」

 

 容赦なく一番高いのを注文するな。ボーイ、舌打ちするな。

 ここの一番高いやつは俺が今日カジノで稼いだ額と同レベルなんだよ。

 いくら先輩とはいえ稼ぎをもっていかれてはたまらないぞ……

 ボーイが差し出したカシスオレンジを若干不満げに先輩は口にする。

 

「……あっ、美味しい。甘いんだけどほんのりと漂う苦みがある。

 匂いもいいし……ふふふっ、飲みやすいし気にいったかも」

 

「だろ? このカジノのカシスオレンジ絶品なんだよ。

 俺もこれを飲むためだけにここに来たことあるし」

 

「そこは一回くらい賭けていきなさいよ」

 

「その時は運があんまり良くなかったんだよ」

 

「何よそれ。運なんかに頼ってないで自力で勝負しなさいよ、ギャンブラーなんでしょ?」

 

「ボーイ。豪運のディーラーがなんか言ってやがるんだがどう思う?」

 

「鏡を見るべきですね。お手洗いへどうぞ」

 

「何で二人とも辛辣なのよ……」

 

 ショックを受けた先輩が再びカシスオレンジを口にした。

 その瞬間──―先輩が後ろへと倒れていく。

 

「あぶねっ! 先輩、大丈夫か!?」

 

 とっさに手を伸ばして肩を掴み、床に頭を打ち付けるのを防ぐ。

 目がぼんやりとしていたが、何度かゆすると意識を取り戻したようだ。

 

「ご、ごめんね後輩君! 急にちょっとめまいがして……」

 

「またか? さっきディーラーやってた時もめまい起こしたよな? 

 今日はもう帰ったほうがいいよ。どんな仕事でも健康第一だと俺は思うぞ」

 

「私も同意見です。ディーラーというものはかなり精神的に消耗します。

 別のカジノで何度もディーラーとして戦ったあなたならご存じかと思いますが、念のために言っておきます」

 

「あはは、やっぱりちょっと疲れてるのかも。お言葉に甘えて帰って休むよ」

 

「その方がいいですよ。送っていきましょうか?」

 

「大丈夫、私ここに住み込みだから。

 ねえ、後輩君。今日は一緒に飲めて楽しかった」

 

「こちらこそ楽しかったです。また今度一緒に飲みましょう」

 

「んー……今度はカシスオレンジじゃなくて、オレンジチップ賭けてくれたらいいよ。女の一晩は高いんだよ?」

 

「俺を破産させる気ですか先輩」

 

 間違いなく負けて路頭に迷うぞ、俺。渋い顔をしてると先輩はくすくす笑った。

 

「まあ、気が向いたら誘ってあげる。ねえ、後輩君……んっ」

 

 一瞬意識が飛んだ。先輩の小さな声と共に頬に柔らかい感触がしたのはわかったが……

 思わず先輩の顔を見る。いたずらが成功した子供のように笑っていた。

 

「ふふふっ、そのキスは今日のお礼。それじゃあね」

 

 ひらひらと、蝶が羽ばたくかのような気軽さで手を振って先輩はバーを出ていく。

 それを見送った俺はふぅー、と大きく息を吐く。

 

「……先輩綺麗だなぁ」

 

「おや、久しぶりに会った知人から頬にキスをされた程度で惚れましたか? 

 ああいうのは割と軽いあいさつ程度でする人多いですよ」

 

「その程度とかいうな。惚れたというか、惚れ直したよ俺。

 高校の頃に一目ぼれした俺の初恋の相手なんだよなー、先輩は……あ”っ」

 

 思わず口を滑らせてしまった。ギギギ、と音を立てるかのように首をボーイに向ける。

 思いっきりニヤニヤしている……畜生聞いてやがった!! 

 

「彼女にその気持ちお伝えしましょうか?」

 

「やめて。当時の俺はとにかく勇気がなかったからそういうアプローチ全くしてないし。

 好きだ、とか口に出して伝える勇気なんてありゃしない。同じクラスになったらこっそり喜んでたくらいなもんで……」

 

「ピュアですね」

 

 うるせいよ。

 

「思いは伝える勇気はなかったけど、ただ目で追っているだけで幸せなんだよ。そういう気持ちわかるだろ?」

 

「わからなくもないですが、その気持ちをまだ引きずっているのにちょっと驚きです。

 今年で26ですよね? 高校の頃となると……およそ10年前ですね。しかもその時が初恋。遅くないです?」

 

 畜生このボーイ精神的にガンガン削ってきやがる。下手なディーラーよりも手ごわいぞ。

 

「そうはいうけどな、ここまで初恋引きずったのは理由もあるんだよ。

 ……先輩はな、高校卒業直前に突然学校を辞めたんだよ。それどころか行方不明になった」

 

「なんと」

 

 突然学校を辞めたのを不審に思った先輩の友人が自宅を訪ねてみたが、もぬけの殻。

 俺もそこそこ親しかったから聞かれたが、全く見当がつかなかった。

 当時は本当にショックを受けて体調も崩したな。今でも覚えている。

 

「ではなぜその理由を先ほど聞かなかったのですか?」

 

「複雑な事情があるんじゃないか、と思ってな。聞く気になれなかった。

 久しぶりに会えて楽しい雰囲気だったからそれを壊すのが嫌だったのもあるが」

 

「……ヘタレですか?」

 

 うるせぇ。

 

「そういうな、ボーイ。その坊主の判断はある意味正解だぜ。

 女には触れてほしくない過去ってもんがあるのさ。下手に踏み込むのは勇者か馬鹿がやることだ」

 

 二人しかいないはずのバーに第三者の声が響く。

 振り向くとそこには黒服姿の老人がいた。老人は老いを感じさせない軽快な足取りで俺の隣に座った。

 

「さて、初めまして……で合ってるよな、坊主?」

 

「お、おう」

 

 老人は自らの髭を触りながら確かめるように顔を近づけてきた。

 確かに初めましてだと思う。カジノの客に老人はそこそこ要るし何人かとは面識もあるが、彼とは初めてだ。

 

「そうかそうか。最近物忘れが激しくてなぁ。既に会ってるかもと思っちまった」

 

「最近どころかずっとでしょうに。そろそろ引退したらどうですか、オーナー」

 

 ……オーナー? 

 

「馬鹿、バラすな! ここからグッと溜めて正体明かすつもりだったのによぅ……」

 

「そんなこと知りませんよオーナー。というか、何しに来たんですか」

 

 ……やっぱり、オーナーって呼んだよな。カジノのオーナー……だよな。

 その割にはボーイの扱いが雑な気がするが。

 

「すみませんお客様。当店のオーナーは正直言って屑ですので。

 あまり関わらない方がよろしいかと。お帰りになることをお勧めします」

 

 うわぁ、ボーイの顔がガチで嫌いなものを見る顔だ。

 前々からオーナーに暴言吐く姿は見たことはあったが、こんな顔初めて見たぞ。

 

「てめえ調子に乗りやがって……クビにしてやろうか? あ?」

 

「クビにしたことすら忘れてたじゃないですか。4回くらい忘れてますよ。

 本当にボケが酷すぎるんですし引退してください」

 

「断る! 儂の生きる場所はこのカジノと決めておるのでな!」

 

「これだからこの老人は……早くくたばってもらえませんかね……」

 

「聞こえておるぞボーイ。とっととカシスオレンジをよこせ。

 儂は寝る前にここに酒を飲みに来たんだ。それでチャラにしてやる」

 

 心底うんざりしているボーイはそれでもしぶしぶカシスオレンジを作る。

 マジでどうなってんのこれ。本当にこの老人オーナー……なのか? 

 

「なんじゃ、信じられんとでも言いたそうな顔じゃな」

 

「当たり前だろ、爺さん。何か証拠でも見せてもらえないと納得できん」

 

「ふむ。名刺は……おっと、部屋に忘れてきたか。

 ならば。坊主、硬貨10枚貸せ。種類は問わん」

 

 言われたとおりに財布から取り出した硬貨10枚を渡す。

 老人はそれを両手で包んでシェイク。そしてカウンターにぶちまけた。

 硬貨は一枚たりとも狭いカウンターから落ちなかった。それだけでもすごい、が──―

 

「全部表、だと!? 嘘だろおい……!!」

 

 そう、全部表。カウンターから落とすことなく、その上全部表。

 どんな豪運なんだよ、これは……! 

 

「ひひひっ、儂の運はギャンブル界1と言っても過言ではない。

 そしてこの豪運こそが儂がオーナーであるということの証明になる。

 この豪運でこのカジノのオーナーにまで上り詰めたのだからな。どうじゃ、信じるか?」

 

「ぐぬぬ……認めざるを得ないのか……?」

 

「でもオーナーにはこの運しかありませんので。後は屑な部分しか残っていません」

 

 ボーイ本当に辛辣だな。どんだけ嫌いなんだ。

 

「イカサマをしたのに飄々と笑う卑怯なギャンブラーよりも嫌いです。

 はい、注文のカシスオレンジです。では、私はこれで」

 

「え、帰るのか?」

 

「……私本当に本当にほんっとうに。オーナーのことが嫌いですので」

 

 ピキピキと音を立てそうなくらいに笑顔で怒るという器用なことをして出て行った。

 オーナー、お前ボーイに何をやったんだ。

 

「何もしてない、というべきか、忘れた、というべきか」

 

「どっちにしろ嫌な予感しかしねぇ。俺ももう帰るぞ」

 

「まぁ待てよ坊主、爺の酒に付き合えよ」

 

 断る。なんか嫌な予感しかしねぇ。

 

「そういうなって──―

 

 

 あのディーラーの嬢ちゃんの過去について教えてやるからよ。

 

 

 ……よしよし、それでいい。初恋相手に何があったのかはやっぱり気になるか?」

 

「……まあ、な」

 

「ひひひっ、若いねぇ。それじゃあ一つ聞いておくことがある。

 ──―この名前に見覚えはあるか」

 

 老人が年季の入った手帳を取り出してそこに書かれている名前を見せる。

 知らない名前だった。だが……なぜか、見覚えがある。

 

「それはあの嬢ちゃんの名前じゃ」

 

「馬鹿な。先輩の名前はそんなんじゃない。全く違うぞ」

 

「だが、見覚えはあった。そんな顔をしておったぞ。

 これは確かに今の嬢ちゃんの名前なんじゃ。本人もそうだと信じて書いておる。

 じゃから、嬢ちゃんの今の名前に見覚えはなくとも、筆跡に見覚えがあったわけだ」

 

 そんな馬鹿な、と否定したかったが確かに合点がいった。この筆跡には見覚えがあるのだ。

 

「それに嬢ちゃんに名前は確認したか? その際に誤魔化すようなふりはしなかったか?」

 

「名前は確認してなかった。ずっと先輩って呼んでたからな……」

 

「やれやれ、恋は盲目というわけか……

 坊主、過去について教えるといったが少々酷かもしれん。やめておくか?」

 

 優しい目つきで爺さんは問いかけてきた。

 だが──―ここまで来て引き下がるわけにはいかない。引き下がりたくない。

 

 先輩に、何があったのか。知りたいのだ。

 

「……よかろう。先に断っておくが、これは儂が集めた情報からの推測になる。

 

 本人に聞いても正誤を確かめることはできん。

 

 

 何故って? 嬢ちゃんには『記憶がない』のさ。だから名前も変わっている。

 

 

 その理由も含めて話をするとしよう──―

 

 

 

 

 坊主が知っているのは高校を辞めたところまでだったな。そこから話すとしよう。

 嬢ちゃんが学校を辞めた理由はズバリ、親の借金だ。両親共にギャンブル狂いだったのよ。

 それでも生活が成り立つほどに仕事、ギャンブル共に儲けていたんだが、ある日ミスを犯した。

 

 引き際を誤ったか、あるいは賭け時を誤ったか。

 とんでもなく負けが込んで、莫大な借金を背負っちまった。

 

 ギャンブルはいつまでも当たるものではないし、いくら使ったからと言って確実に当たるものではない。

 程ほどに賭けて程ほどに儲けたらやめるくらいがいいってのに間抜けな夫婦よ。

 そんな両親に嬢ちゃんも巻き込まれちまった。借金取りに一家そろって捕まった。

 

 そこからが若干情報が錯綜しているんだが、確実なのは両親は死んでいる。

 借金取りに殺されたとも、臓器売買者に全身掻っ捌かれたか。どちらにせよもうこの世にはおらん。

 嬢ちゃんは年齢が年齢だ。『そういう女』を求めるところに売られたのは確実だ。

 

 ……何があったのかは、語らんぞ。想像はつくだろう? 

 嬢ちゃんはもう覚えていないこととはいえ語るべきではない。それはお前さんにもわかるはずだ。

 

 それから時は流れて嬢ちゃんが23歳の時。彼女が初めてカジノの世界へと現れた。

 いわゆる彼女のご主人と共に小さなカジノを訪れた。そしてその日、伝説を起こした。

 

 勝ちに勝ちまくってジャンジャンチップを稼ぎ。

 スタッフが気付いたころにはもう遅い。カジノの金庫の金以上のチップを稼いじまった。

 で、本来なら行われるはずの払い戻しだが行われることはなかった。

 

 そのカジノ、運営してるのがちょいとヤバいところでな。非合法のとこだったんだよ。

 客が問題起こしたらもみ消すこともザラじゃねぇ。そして、連中にとっての問題にはな。

 

 

『勝ちすぎた客』も入っていたんだよ。

 

 

「お客様勝ちすぎてカジノは金を払えませーん。そんなお客様には死んでいただきます! 

 ……はっ、そんなんだから二流なんじゃ、馬鹿どもめ」

 

「爺さん酔ってるだろ」

 

 既に顔真っ赤にしながらどこか遠いところを眺めているオーナー。

 ……途中まで本当じゃないかと思ってたけどこの様子見てると嘘のような気がする……

 

「おっと、すまんすまん。ついついあの連中のことが嫌いでなぁ。

 頭に血が上っちまった。ちゃんと報酬を支払わんような卑怯なカジノは大っ嫌いでな」

 

 ニコニコ笑いながら頭を下げてきたが、本当に大丈夫なのか。

 ちょいと気になったことを聞いてみるか。

 

「そうか。嫌いな奴ならしかたないが、なんでそいつらについてアンタは詳しいんだ? 

 秘密裏に客を殺すようなカジノだろ? 情報が洩れるとは思えん」

 

「あー、そのカジノもう無くなったからな。

 カジノ内の情報がそれなりに流出したんじゃよ。で、話を戻すが──―」

 

 

 そのくそったれのカジノが消えたのは、ちょうど。

 

 嬢ちゃんがカジノで大勝ちした日なんじゃよ。

 

 

 そして、嬢ちゃんが大勝ちしていよいよカジノの連中が始末に動き出したその時。

 なんの偶然か、はたまた奇跡か。警察が乗り込んだ。目的はカジノの摘発さ。

 またたく間にスタッフ、客、共々に逮捕されていったが、その中に嬢ちゃんはいない。

 

 運よく逃げ出すことに成功したんじゃよ。おまけにご主人様とやらは逮捕。

 自由の身になれた嬢ちゃんなんだが、その時点である問題が起きていた。

 

 嬢ちゃんはあの後闇医者に掛かっておる。

 ん、なぜ表の医者に掛からなかったのか? それは推測するしかないのう。

 裏での暮らしが長くその発想が無かったか、彼女が抱えた新たな問題が原因とみておる。

 

 ──―記憶喪失じゃ。医者に掛かった理由もそれだと聞いておる。

 

 と言っても全部の記憶を失ったわけではない。一部の記憶のみ無くしたそうじゃ。

 

 忘れたのは当時住んでいた場所と──―自分の名前じゃ。

 そんな彼女を見かねたのか、闇医者が彼女を助手として雇っている。

 

 それから、一年後。この時嬢ちゃんは24歳だな。

 医者の助手として働いていたが、記憶喪失の治療方法は見つかっておらんかった。

 それどころか記憶喪失は悪化。両親や家族のことを思い出せなくなっていたと聞いておる。

 

 症状が悪化していくある日、闇医者が記憶喪失に効く薬を見つけた。

 が、その薬を買うためには莫大な金が必要じゃった。闇医者には到底手が出せん額だ。

 それでも彼女は少しでもと希望を求めて、金を稼ぐことにした。

 

 カジノの世界へと、彼女が再び舞い戻ったのさ。

 

 今度はちゃんとしたカジノでそれなりに勝ちまくり、目標金額まで稼いだ。

 以前の様に非合法のカジノじゃなかったから、スタッフからのストップも適切に行われたがな。

 ま、残念なことにその薬は既に買われちまってた。在庫はなし。

 

 哀れな嬢ちゃんだったが、救いも一つあった。

 

 彼女の幸運に目を付けたカジノが彼女をスタッフとして雇おうとしたのさ。

 あんな化け物みたいに勝ちまくる客がいたら困るって意図もあったんだろうな。

 その分給料は弾むと言われて、彼女はカジノのスタッフとなる道を選んだ。

 

 実は当時闇医者は大分体に無理をしていてな。

 治療費を必要としていたんだ。医者の不養生とはまさにこのことだな。

 彼女は医者の治療費を稼ぐためにも安定した働き口を求めていたからちょうどよかった。

 

 そして、スタッフとして働き始めた彼女は時折ディーラーとしても働きその強さで話題となった。

 あまりもの強さの人気に羨んだ他のカジノが大金を払ってレンタルすることもあったりな。

 

 おかげですぐに治療費は完済できたんだが……記憶喪失が、また進行していた。

 

 今度は闇医者のことをすべて忘れちまった。おまけに治療には失敗して闇医者も死んだ。

 帰る場所を無くした彼女はカジノ界で生きるようになった。

 

 じゃが、記憶喪失はますます進行。もはや覚えていることはカジノ界で生きていることのみ。

 それだけしか嬢ちゃんの記憶はなくなったんじゃ。

 

 それでも何とか彼女はこの世界で生きてきた。豪運の持ち主じゃったからな。

 カジノの世界で生きることには不自由はせんかったのじゃろう。

 そして、いくつものカジノでその強さを見せつけた彼女はこう呼ばれることになった──―

 

 

 不敗のブラックディーラー、ってな。

 

 

 そんな彼女がちょっと気になって大金積み上げてカジノから買い上げた。

 これがつい最近のことで──―現在に至る、というわけだ」

 

「……ここまでの話が本当だ、という証拠はあるのか」

 

「情報屋からかき集めた資料が儂の部屋にある。

 嬢ちゃんの目撃情報、売買記録、雇用記録、医者のカルテ……他にも過去の写真が数枚。

 それくらいしか残っておらんが、すぐに持ってこさせるとしよう」

 

 爺さんはそういってバーの電話を使い、スタッフに指示を出した。

 

「持ってくるのに時間がかかるそうじゃ。

 保管場所を工夫したのがまずかったかのう。その間他に聞きたいことはあるか」

 

 聞きたいこと。

 先輩の過去については資料を確認して確かめるしかない。それ以外に聞きたいことと言えば──―

 

「記憶喪失について聞かせてくれ。

 あんたは今までの話で先輩が記憶喪失だということを話していたが、その理由については一切語っていない。

 教えてくれ。先輩はどうして記憶喪失になったんだ。それに、記憶をなくしたというのなら──―

 

 なぜ、俺のことを覚えているんだ?」

 

 そう。全ての記憶をなくしたというのなら、俺のことを覚えているわけがない。

 俺も声をかけられるまでわからなかったのに、彼女は俺に気づいた。それはおかしいだろう。

 

「質問が多いな。順に答えるとしよう。

 

 まず、記憶を無くした理由。それは彼女が持っている豪運が理由じゃ。

 

 カジノ界には時折すさまじい豪運を持つ者が現れる。

 彼女が三年間不敗であるように、同じように豪運のギャンブラー、ディーラーが歴史上に何人かおる。

 儂もその中の一人と言っていい。先ほどのコイントスの結果は覚えておるじゃろう?」

 

「ああ。確かにあんなことはすさまじい運がないとできんはずだ。

 しかもあんたは全部表が出ると確信して振っていた。信じるしかねぇよ」

 

「そして、その豪運の連中はろくな最後を迎えておらん。

 皆どこかで野垂れ死ぬか、殺されるか、消息不明になるか。

 

 死に方は千差万別じゃが一つ共通点がある──―記憶をなくしているのじゃ。

 

 ゆっくりと記憶をなくしていき、最終的には全てを忘れる。

 記憶をなくした瞬間は他人から見るとめまいを起こしているように見えるらしい。心当たり、あるじゃろう? 

 そして、一人残ることなく、全員にその記録が残っておる。それに気づいておる奴はほとんどおらんがな。

 

 これが記憶喪失の理由じゃ。非現実的だと言いたいかもしれんが、これらの名前に見覚えはあるじゃろう?」

 

 その、末路もな。

 爺さんが見せてきた手帳には数々の過去の伝説級のギャンブラー、ディーラーの名前があった。

 全員名前は聞いたことがあった。末路までは全ては知らなかったが、半分ほどはわかる。

 

 ──―ろくな死に方をしていない。あるいは、行方不明になっている。

 

「嘘だろ……」

 

「事実じゃ。

 この情報があるから嬢ちゃんが名前を変えても同一人物であると気づけたからな。

 カジノ界で豪運を発揮した奴は良くも悪くも目出つ。そのおかげじゃよ」

 

「この症状の原因は? 治療法とかないのか?」

 

「原因は不明じゃ。ギャンブラーの神がもたらす加護じゃないか、とも呼ばれてはおったが。

 治療法はない。藁にも縋るつもりで儂もいろいろ探したがどれも効かんかった。

 嬢ちゃんが探していた記憶喪失の治療薬は儂が買って試したが、何も効果はなかった」

 

「爺さんが薬を買った……いや、待て、まさか。アンタも──―」

 

 記憶がないのか。わずかに声を震わせながら問いかけると、爺さんは重々しく頷いた。

 

「そうじゃ。儂にはもう何の記憶も残っておらん。だからお前さんと初対面なのか自信がなかったんじゃよ。

 毎日目覚めるたびにこれまでの記憶を書き記した手帳やメモを読み込み、それでもカバーできんところはボケでごまかしておる。

 年が年じゃからな、不自然だと思う奴はおらんのがせめてもの救いか……いや、ボーイは例外じゃな。

 

 ……あいつは、儂の息子らしい。覚えてはおらんがな」

 

 息子。ボーイが──―爺さんの息子。

 

「……そういや、ボーイは卑怯な奴が嫌いだったな。爺さんも卑怯な奴が嫌いだとさっき言っていた……」

 

「そこは記憶をなくしても似ているところらしいな。手帳に残してあった。こうも書いてあったよ。

 

『私は最愛の妻に記憶をなくしていくことを言った上で、「どんなことがあっても絶対に忘れない」と語ったらしい。

 無茶を言ったものだ。それを口にしたところで、忘れるときは忘れてしまうというのに。

 彼女への愛も何もかもを忘れた私に、彼女は見向きもしなかった。ただ、「馬鹿」とだけ言って幼い息子を連れて出て行った。

 その姿に私は何も感じなかった。この手帳には彼女への愛がつづられていたが──―

 

 記録で愛が蘇るわけがないだろうに。私にはカジノしか残っていない』とな。

 

 それから数年後、「母が死んだ」といってここを訪れたボーイにこれを見せたらぶん殴られたよ。

 この手帳にはそう記されている──―殴られたことも、儂は覚えておらんのだ。

 

 だからボーイは儂のことが心底嫌いなのじゃよ。そして、儂はあいつを毎日忘れるから愛することもない。

 あいつに父親らしいことなど……してやったことはないな。少なくとも覚えてはおらんよ。

 

 お前とボーイの様子は先ほどまでのやり取りを聞いていれば信頼関係があるのはわかる。

 儂のことは信じれなくとも、あいつのことなら信じられるじゃろ? 普段あいつが儂のことをどう言っていたか、思い出してみろ」

 

 唖然とした。言葉が出なかった。

 そういわれると納得が行く場面がいくらかあるのだ。あいつがオーナーのことを悪く言うとき。

 悪いところとして「ボケている」「すぐに忘れる」だのそういったことをかなりの頻度で言っているのだ。

 

「……納得が行ったか。それで、嬢ちゃんがお前を覚えている理由だがそいつは知らん。

 本人に聞くしか無かろう……もう出てよいぞ!」

 

 爺さんが声を張り上げて手を叩く。

 バーの扉が開かれて、資料を持った先輩が入ってきた。

 

「せ、先輩!? いつからそこに!?」

 

「数分前から。オーナー、相変わらず勘が良いですね」

 

「まあな。これでも昔は凄腕のギャンブラーだったんじゃから。

 ……何を話すかは、わかるな?」

 

 先輩は覚悟を決めた表情で頷く。それを見たオーナーは後は任せたぞ、と言って立ち去った。

 ……あんなにも先輩の話をしていたというのに、いざこうして会うと言葉が出なかった。

 どう声をかければいいのか。俺にはわからない。

 

 戸惑っていた俺を見かねたのか、大きくため息を吐くと先輩は切り出した。

 

「……本当に記憶がないのか、って聞かれるかと思ってた。

 それを証明するのは私の言葉しかないけど、豪運は今証明できる」

 

 ポケットから10枚の硬貨を取り出した先輩はパパっと床にばらまいた。

 結果は──―10枚すべて表だった。

 

「やはり本当だったんだな……信じたくないよ、俺」

 

「事実だから、これ。受け入れて後輩君。

 とりあえず、オーナーに持ってくるように言われた資料。確認してくれる? 

 眠ってたところを起こされて寝ぼけ状態で資料集めてたからちょっと自信がないんだよ」

 

「あ、お、おう」

 

 カウンターに広げてもらった資料を確認する。

 内容は爺さんが言っていた通りのもので、どれも日付が過去の物だった。

 

「言っておくけど、私に確認を取らないでよ。

 どれも覚えてないし、記憶にないけどあまり気分がいいものじゃないから」

 

 苦い顔をした先輩を尻目に手早く資料を確認する。

 高校を辞めて先輩がいなくなった時期と、先輩が売られた時期。

 ギャンブル仲間から前に聞いた闇医者の噂と、先輩が働いていた病院の位置。

 不敗のブラックディーラーの噂とディーラーとして働き始めたころの先輩の評判。

 その中で添えられた写真は全て行方不明になってからのもので、先輩がどんな生き方をしていたのか見て取れるようだった。

 だが、目をそらすわけにはいかない。俺の持ち得る記憶と、資料の情報を照らし合わせていく。

 

 10分もかからないうちに照合を終わらせた。

 

 ……事実だ。そうとしか思えない。

 

「理解できたみたいだね。付け加えると、さっきあなたは「ロングヘア―じゃないのか」って聞いたよね? 

 変えた理由は濁したけど本当は「ロングヘア―だった」記憶がないから。どうして変えたのかは覚えてない」

 

「……だからショートヘアだったんだな、先輩……」

 

「悲しい顔をしないで。どう反応すればいいのかわからないから」

 

 そう言った先輩の顔の表情は変わらず苦かった。

 昔の先輩ならこんな時は悲しい顔をしていたはず──―頭の中で記憶が囁いた。

 しかし、先輩はもう忘れてしまったのだ。俺の記憶の中にある表情を向けてはくれないだろう……

 大きく深呼吸して心を落ち着かせる。そして先輩に向き直った。

 

「いい顔になったね。じゃあ、後輩君の質問に答えるわ。

 どうして私が君のことを覚えていたのか、よね。その答えはここにある」

 

 先輩が資料を渡す際に一つだけ手放さなかったものがある。

 一冊の古いノートだ。何度も書き、めくったのだろう。見てわかるほどに紙がよれていた。

 

「これは私が記憶をなくし始めているとわかった頃から書き始めた、自分の記憶のノート。

 正直言って辛い記憶も少なくないから全部を見せたくはない。だから、このページだけ見せてあげる」

 

 パラパラと慣れた手つきでノートをめくり、俺に見せてきた。

 

「……俺の、名前……」

 

 ページの一番上には俺の名前があった。

 

 そしてその下には俺の特徴や、先輩のコメントが記されていた。

『一歳年下の後輩』『失態を何度も見られた』『信頼できる友人』等。

 

 続いて俺に関連した思い出がいくつも書いてあった。初めて会った日のこと。

 再会した日のこと──ギャフンって鳴いたことは書いていなかった──。

 体育祭で係が一緒で、協力して競技の準備をしたこと。

 文化祭で後輩、俺が先輩の占いを受けに来たこと。

 

 色んな事がページ一杯に書かれていた。次のページにも、その次のページにも。

 先輩の文章でページが埋め尽くされていた。そのどれもが、本当に懐かしくて──涙が出てきた。

 

「実はこのノートは二代目なんだ。

 最初に書いてたノートは紛失しちゃって……そこに書かれていた思い出は思い出すこともできない。

 二代目を書く時に昔のことで覚えてたのはね、あなたのことだけだった」

 

「……」

 

 俺の記憶が、昔のことで唯一残っていた。

 そのことに喜ぶべきなのか、それほどに記憶を失っていたのか。

 

「それに今も記憶喪失は進行してるの。

 今日はカジノのスタッフの顔と名前を忘れたみたい。

 

 ノートにはその記憶は記されているから起きてノートを読み直せば覚えなおすことはできる。

 でも、失った記憶はノートを見れば覚えなおすことはできるけど、寝て起きたら必ず忘れてしまう。

 だから、君にはこう言わなきゃいけない。

 

 ──ノートに記憶は残っている。

 

 でも、とっくの昔に君の記憶は失ったんだ。

 

 起きるたびに君のことを覚えて、そして眠るたびに忘れる。それを私は何年も繰り返してきている」

 

 流れる涙がさらに増えた。それを見た先輩は悲しそうな表情になった。

 だが、その顔を見ると余計に俺は辛くなる。そんな顔をしないでくれ。

 

 言葉は声にならず、先輩は俺に──―追い打ちをかけた。

 

「だから──―死ぬことにした。

 明日の夜私宛に毒薬が届くの。苦しむこともなく眠るように死ねる毒薬がね。

 それで私は明日この世から消える。オーナーにも許可はもらっているわ」

 

 驚きで口がぽかんと開く。何故だ、と呻くように声を絞り出すのがやっとだった。

 

「正直言ってね、もう耐えられない。

 

 何度も何度も覚えて、何度も何度も忘れて。

 それでも周りの人は私を知っている。優しくしてくれる人もいる。

 だけど──―私が忘れていることが本当に辛い。

 

『忘れた』ことすら私は忘れる。

 だけど、心のどこかが軋みを挙げてる気がする。

 昨日のことすら忘れてしまうことがある私だけど、それが強くなってる確信がある。

 

 ──―もう、耐えられないよ。

 

 だけど……失った記憶の中にいる後輩君。

 君のことはきっと私にとって大切な人なんだ。

 もしかすると、私のことは君にとっても大切な人なんじゃないかな、って。

 だから死ぬのはあなたに会って確かめてからって決めてた。

 

 ……そして、わかった。やっぱり私はあなたにとって大切な人だったんだね。

 私、死ぬ前に大切な人にお別れを言っておきたかった。

 

 さよなら、後輩君。今までありがとう。

 

 ふふふっ、これでもう心残りはない。安心して死ねるよ」

 

 悲しみに笑みが混じり、表情が変わる。まるで母親が子を諭すかのような笑みに。

 

「やめてくれ、先輩……!」

 

 その笑みについに俺は耐えることができなくなった。

 涙を流しながら、先輩の肩を掴み必死に言葉を紡ぐ。

 

「そんな目で見ないでくれよ……死ぬなんて言わないでくれよ……! 

 先輩は……俺の、初恋の人なんだよ! 今でも好きなんだよ! 10年間ずっと愛してたんだよ!! 

 何年も会えなくてつらくて、ようやく今日会えたのに、明日には死ぬ、だって!? 

 

 嘘だと言ってくれよ、先輩!!」

 

 お願いだ、嘘だと言ってくれ。目でそう訴えかけたが、先輩は笑みを崩さない。

 

「ありがとう、後輩君。

 こんな私をそんなにも思ってくれてたんだね。でも私は絶対に明日死ぬ。そう決めてるから。

 

 あ、そうだ。好きだって言われたのは……多分初めてかもしれない。ふふふっ、最後にいい思い出が出来たわ。

 ──―本当にありがとう」

 

「そんなありがとう、聞きたくなかった……」

 

 先輩は優しく俺の手を離す。俺はショックのあまり膝をつき、そのまま泣いていた。

 そんな俺の頭をやさしく撫でると、例の記憶のノートを手に取って近くに置いてあったペンでさらさらと何かを書く。

 書き終えたページを涙交じりの俺に見せてきた。

 俺のことが記されているページに、新たな記述があった。

 

『お互いに大切に思いあっている』

『私に初恋した人。今でも大好きだって言ってる』

『既に別れは済ませてあるので心置きなく死んで大丈夫』

 

『……私もこの人のこと、好き。できることなら忘れたくなかった人』

 

「あ……」

 

「このページは起きたときは読まない。

 死ぬ覚悟が鈍りそうだから。だから、毒薬を飲んでから読むことにする。

 ……絶対に君のことを覚えてから死ぬ。約束するよ、後輩君」

 

 そんな悲しい約束を、しないでくれ。

 先輩に最後にそう問いかけたが……ただ、小さく笑って「ごめん」と言うだけで。

 立ち去っていく先輩を俺はただ見送ることしかできなかった。

 

 俺は大きな声をあげて泣いた。

 先輩が記憶喪失だったからなのか。先輩が明日死ぬからなのか。

 初恋が実らなかったからなのか。俺には……何もできないからなのか。

 色々な感情や思いが入り混じって何故泣いているのかは説明できない。

 

 ただ一人、泣いていた。

 

 その後俺はどう歩いたのか、どう帰ったのかはわからないが自宅に戻っていた。

 涙はまだ、枯れることはなかった。悲しみに震える体を温めるように毛布を体に巻き付け眠る。

 涙は止まらない──―

 

 

 

 

 翌日。泣きすぎたせいで目が痛い。

 目の痛みとジリジリとやかましい目覚まし時計のベルの音で目覚める。

 今日は休日だから別にセットしなくていいのにうっかりセットしていたのか。

 寝ぼけながら時計を止めたが、音が止まらない。どういうことだ? 

 

 やかましい音で意識が覚めていくと状況が分かった。音が鳴っているのは電話の方だった。

 ええい、紛らわしい。今度買い替えるか。

 ぼやきながら電話の下へとのそのそ歩き、受話器を取った。

 

「もしもし──」

 

『おはようございます。私です、ボーイです』

 

 受話器から響く声は昨晩一足先に帰ったあいつの物だった。

 

「ボーイか。朝から何の用だ?」

 

『──―記憶喪失』

 

「っ!」

 

 思わず息をのむ。その様子は向こうからも伝わった様子だ。

 

『なるほど、やはりあのクソ爺はその話をしましたか』

 

「ああ。お前があの爺さんの息子だってことも聞いたよ。

 というかオーナー呼びは止めたのか?」

 

『午前中はオフですので。職業上この喋り方はやめられませんが、あれをそう呼称するくらいはします』

 

 マジで嫌われてるんだな……理由が理由だから仕方ないと言えば仕方ないんだが。

 

『あのクソ爺のことはさておき。少し話があります。彼女のことも含めて』

 

 正直なところまだ先輩に対する気持ちの整理はついていない。

『彼女』というフレーズを聞いた時体が震えたのを感じた。涙はさすがに流れなかったが。

 

『落ち着いてください。彼女を死なせない方法があるのですよ』

 

「なんだと!?」

 

 彼女を──―先輩を死なせない? 

 

『昨晩の二人が大体何を話したのか。

 それを予想しているのですが、間違いがなければ……死なせないで済むでしょう。

 確認を取りたいので今から私の家に来てほしいのですが、よろしいでしょうか?』

 

「ああ、大丈夫だ」

 

 ボーイの発言を全く疑わなかった。

 アイツはできないことは言わない。言うとしても冗談だが、その場合は即座に否定する。

 

『かしこまりました。到着をお待ちしております』

 

 電話が切れた。俺は素早く服装を整え、朝食をとることなく部屋を飛び出した。

 

 

 

 

 時は流れ、太陽は沈みかけて夕日へと変わり街を赤く染め上げる。

 そんな街の建物は夜になる前にと明かりを灯し始める。

 

 カジノも例外ではない。

 

 ただし、カジノの場合はそれが営業開始の合図である。

 

 日の当たる間のカジノは息をひそめるかのように静かだが、日が沈む頃になると活発になる。

 それが街の小さなルールであった。

 活発になったカジノへと人々が吸い込まれていく。

『不敗のブラックディーラー』が働くカジノも例外ではない。

 入り口をくぐる老若男女の中に一人の男がいた。後輩君と呼ばれていた男だ。

 

 メインホールに立つボーイはそれを確認するとニヤリと笑みを浮かべた。

 

「いらっしゃいませ、お客様。どうぞこちらへ」

 

 ペコリと頭を下げたボーイは彼を連れて行く。

 

 途中、彼が持つアタッシュケースを受け取ったスタッフがあるものを彼に渡す。

 彼はそれをポケットに入れると、バーへと二人は向かった。

 

 到着したバーには二人の人間がいた。オーナーと女性ディーラー。先輩である。

 

「すみませんお二人共。お待たせしました」

 

「いや、営業開始時間を考えればそんなに待っておらんから気にするな、ボーイ」

 

「私も同じく。それで、その方が私とオーナーに会わせたい方ですか?」

 

 事前にボーイから話を通しておいた二人がここで待っていたのだ。

 二人は初めて見るかのように、男を見る。記憶をまた無くしたのだ。

 ここまでは事前に二人に営業開始後に会わせたい客がいる、とボーイが連絡した際に既に知っていたので驚きはない。

 ボーイと彼は表情を変えることなく話を続ける。

 

「ええ。彼は昨日お二人の記憶喪失の件について説明を受けた方です。

 お二人が手帳やノートにメモしていたのであればご存じだと思われますが」

 

「おおー、あの若造がこやつか。ほうほう、いい面構えをしておる。

 文だけでは顔がわからんかったからなぁ。ディーラー、お前もそう思わんか?」

 

「確かに面構えはいいとは思いますが……すみません、昨日のことは書き忘れてしまいまして。

 何も覚えていないのです。申し訳ありません、お客様」

 

「気にしなくていいさ、大丈夫だよ『不敗のブラックディーラー』さん」

 

 そう言った彼にオーナーの眉がピクリと動く。

 

「は、はぁ……どうも。それで何の用なんですか?」

 

 手帳の記録には、『先輩』と彼はディーラーのことを呼んでいたとあった。

 

「実は昨日ディーラーとお客様の間でとある約束をしておりました。

 オレンジチップを賭けてくれたら、一晩一緒に飲みに付き合うと」

 

 何故呼び方を変えた? オーナーの勘はそこが怪しいと囁いていた。

 

「えっ、そんな約束をしてたの私?」

 

 記録にはオーナーと彼が会話した後、二人きりにして会話させたとあった。

 

「していました。冗談とも否定されておりません」

 

 昨日の二人の会話の内容は彼女が彼を覚えていた理由の説明、と推測が記されていたが詳細は不明である。

 その会話の中で何かがあったのだろうか。老人が考えていると……

 

「で、俺実はな……オレンジチップを用意してきたんだ。

 約束通りこいつを賭けるから仕事の後で飲みに付き合ってほしい」

 

 ほう、とポケットからオレンジチップを1枚取り出した彼に驚く。

 そんな大金をどうやって用意したのか……ちらりとボーイを見る。

 

「ここまでされてしまったのでは、少々約束を反故にするのはどうかと思います。

 オーナー、『オレンジチップを1枚賭けたら彼女に一晩飲みに付き合ってもらう』。

 この約束、飲んでもらえませんか」

 

 オーナーをじっと見つめるボーイは、小さくニヤリと笑っていた。

 こやつ、何か考えておるな……いいだろう。オーナーも同じように笑みを返し。

 

「いいだろう、その条件飲んだ。ディーラー、今晩飲みに付き合ってやれ」

 

「はい、かしこまりました。それでは今夜を楽しみにしていてくださいねお客様。

 ゲームの準備にしばらく時間を要しますので、お待ちください。

 私はこれで失礼します」

 

 ボーイの提案した約束を飲むことにした。

 

 

 

 

「レディース&ジェントルメン! 皆さまよくお集まりいただきました! 

 さて、今宵もあの『不敗のブラックディーラー』が皆様に特別なお時間を提供します!」

 

 メインホールに大きな声が響いた。

 カジノスタッフの一人がまるでイベントの司会者のように、不敗のブラックディーラーについて語り、特別ルールを解説していた。

 

 それを遠くから眺められる位置にボーイとオーナーがいた。

 

「さて、ボーイ。

 ネタバラシを始めてもらおうか」

 

「気が早いですね。まだゲームが始まってすらいないというのに」

 

「悪いな、儂は忘れっぽくてな。早め早めに聞いておきたいんじゃよ」

 

 ケラケラと笑うオーナーにボーイは内心とっととくたばれクソ爺とぼやく。

 実はこれいつもの光景だったりするのだが、余談である。

 

「まず1点目。あのオレンジチップ購入に使われた金、あの坊主の金じゃないな?」

 

「察しがいいですね、正解です」

 

「坊主からはそんなに儲けておるオーラがない。なのに大金を要求するオレンジチップを手にしておる。

 ではどこからその金を持ってきたか? 答えは──―お前の金じゃろ。

 メモにも親友関係にあると記されておったし、今日自分用金庫から金を持ち出す姿が確認されておる」

 

「その通りです。私は彼が勝てると確信したので金を貸しただけです。

 金を貸しただけなので、イカサマではありませんよ?」

 

「ふん、そこは気にしておらんわい。お前さんの金使いが少々気になっただけじゃ」

 

「おやおや、記憶にない息子の様子をよく気にしているようで」

 

 悪態をつくボーイの姿にオーナーが溜息を吐く。

 メモにはかなり嫌われているとあったが、本当にそうだった。ここまでとは予想外である。

 その頃。スタッフの解説が終わり、いよいよ特別ルールのルーレットが始まろうとしていた。

 人数制限に対して参加者が多数のため、先着順での参加となる。

 第1回目の参加者には当然彼の姿があった。そして、ベットが始まるとオレンジチップを賭けた彼にどよめきが起こった。

 それを確認したオーナーはボーイに再び向き直る。

 

「次じゃ。これは純粋な疑問じゃが……奴は勝てると思っているのか」

 

 ほう、と驚いたようなそぶりを見せるボーイ。

 

「嬢ちゃんは非常に強いディーラーじゃ。儂と同じく豪運を持っておる。

 悪いがあの坊主が勝てるとは思えん。あの坊主、嬢ちゃんと共に酒を飲みたいがために大金を──―」

 

「おやおや、何をおっしゃるのですか?」

 

 クククッ、とおかしそうに笑うボーイ。何がおかしい、と問いかける前に口を開いた。

 

「勝てると信じていないのに賭けるギャンブラーがどこにいますか。

 確かにいますが、そういう連中はあきらめて天に運を任せたギャンブラーです。

 それに彼のオレンジチップは私の金で買ったものです。

 

 ──―私が勝てると思っていなければ金を貸すわけないでしょう」

 

「ほう。絶対に勝てる確証はあるのか?」

 

「ありませんね! ギャンブルに絶対なんてありません。

 ですがそれは向こうも同じです。私は彼が勝てる確証はありませんが、彼が勝てると確信しています。

 オーナー、記憶がないのは承知でお聞きしますがね?」

 

「彼の目にあきらめはありましたか」

 

 オーナーは目を閉じる。目を閉じて先ほどまで話していた坊主の顔を思い浮かべ。

 

 目を、思い出した。その目はどう見ても普通の目にしか見えなかった。

 

 だが……わかる。記憶はなくとも、そういうものだとどこかで分かる。

 

 目を開くと、ボーイと同じように笑う

 

「ないな! 勇気と希望をもってどんなに無謀なギャンブルにも挑む若者! 

 そんな目をしておったわい」

 

「ふふふっ、そうでしょう?」

 

「じゃが、いくらそんな目をしておっても彼女に勝てるわけがあるまいて。

 カジノとしては潤うから別に止めはせんがのう」

 

 そう笑ったオーナーを見たボーイは不敵に笑った。

 

「オーナー、3点目のネタバラシです。私のここでの経歴をご存じですか?」

 

「んー? 知っておるわい。飛び込みでこのカジノに就職。

 スタッフとして経験を積み、ディーラーになるもあの坊主に負けてディーラーを引退。

 以後、このカジノのボーイとして勤務する……とあったが。

 

 ……おお、そういえば。お前があの坊主に負けたのは今日じゃな?」

 

 オーナーはボーイの経歴書を思い出す。

 日付もきっちりと記載されたそれには数年前の今日の日付が記されていたのだ。

 

「ははははっ! あれか、坊主は以前この日にお前に勝ったからと今日も勝てると信じておるのか」

 

「ええ、私もそのため彼が勝てると確信しております。

 それがどうかしましたか?」

 

「……馬鹿じゃろう、お前ら。カジノはその程度で勝てる程甘くはないぞ」

 

 どこか遠いところを見る目でオーナーはテーブルの付近でルーレットの停止を待つ彼に視線を向けた。

 

「そうですね、その程度で勝てるとは思ってはいません。

 

 本当にその程度だったら、ね。

 

 オーナーの手帳から記述を消したので私がどう負けたのかはご存じないでしょうが」

 

「あ? お前何やってんだ。お前卑怯なこと嫌いとか言ってたのにそんなことしてたのか」

 

 ボーイの発言に思わずオーナーは向き直る。

 彼は苦虫を噛み潰したような表情で語り始めた。

 

「確かに嫌いですがね。あの日の私はほんっとうに大敗北だったんですよ。

 自分の信念を曲げてでもそんな手段に出るくらいに負けました。

 

 第4のネタバラシです。あの日の彼は私に──―」

 

 ボーイは楽しそうに口を開く。

 

 

 それと同時に。

 

 

 カラン。ルーレットの玉が動きを止め、運命の音を鳴らした。

 

 誰かが嫌な予感を感じた。誰かはいい予感を感じた。

 

 想いが乗せられたルーレットの回転はゆっくりと遅くなっていき、玉の落ちた位置がようやくわかった。

 

 

 落ちた場所は、赤い色。そして──―

 

 

 数字は、7。

 

 

 誰もがテーブルの確認をした。あるものは二度見し、あるものは口を押え、あるものは頭を抱えた。

 

 そして──―7番にベットされていたのは、1枚のチップのみ。

 賭けた男が勝利にニヤリと笑い。ボーイと同じタイミングで言葉を紡ぐ。

 

 

「7番の一点賭けで勝利したのです。ラッキー7だから、という安直な賭けに」

「俺の勝ちだ、不敗のブラックディーラー! ラッキー7舐めんな!!」

 

 

 チップの色は、オレンジだった。

 

 

 歓声と拍手が巻き起こる。

 ルーレットの周囲に集まった人々から始まったそれは、次々と伝染いき、カジノ中を揺るがすほどの盛大な盛り上がりへと成長する。

 

「う、そ……」

 

 喧噪の中、へたり込むディーラー。こんな瞬間は想像したことがなかった。

 失った記憶を含めて、自らの敗北する瞬間を彼女はイメージしたことはないのだ。

 この豪運を破る者が現れるとは思ってもいなかった。

 

「なんと、負けおったか……! 

 そんな願掛け程度で勝ちおったのか、あやつは!」

 

「ええ、そんな願掛け程度です。彼はその願掛け程度で勝ったのですよ。

 ギャンブルの行方を左右するのは運と勘と、ちょっとした願掛け。

 そんなものだと私は思っていますよ。おっと、少し失礼しますね」

 

 オーナーも当然彼女が敗北するとは思っていなかった。

 あっけにとられたオーナーとディーラーの姿に気分を良くしたボーイは颯爽とテーブルに近づく。

 

「おめでとうございます、お客様。……本当にお見事でした」

 

「おう、ありがとよ」

 

 ボーイを目にした彼はニヤッと笑う。ボーイも同じように笑みを返した。

 

 ──―流石ですね、私に勝ったお客様? 

 

 当たり前よ、俺に負けたディーラーさん? ──―

 

 言葉をなくとも二人は視線でやり取りをしていた。

 数年前のあの日。彼はボーイに一点賭けで大勝ちし、ボーイは負けた。

 それがきっかけでよく話すようになり、今ではこんな親友関係に至ったのだ。

 

「さて、チップを支払いましょう。

 

 一点賭けの倍率は36倍であるため、オレンジチップ36枚。

 加えて、不敗のブラックディーラーに勝利したボーナスとしてオレンジチップ100枚。

 合計136枚のオレンジチップとなります。ご確認ください」

 

 ボーイが差し出した136枚のチップを受け取る。

 再び拍手と喧騒が起こる。俺にも一枚くれよー! と言った欲の声も交じり始めたが。

 チップを数えた彼は、へたり込むディーラーに声をかけた。

 

「ディーラー」

 

「え? あ、は、はい! 

 約束……よね? ちゃんとわかってる。一晩飲みに」

 

「違う」

 

 そう言われてキョトンとするディーラー。

 ニヤリとした笑みを再び見せた彼は──―

 

 

 136枚のチップを、7番に賭けた。

 

 

 一瞬、静寂になる。そして──―

 

「7番に136枚オレンジチップをベット。ルーレット回せ」

 

 どよめきが巻き起こる。ディーラーは唖然とし、オーナーは自らの耳の不調を疑った。

 ようやく手にした大金を分の悪い一点賭けに突っ込む。

 

 ありえない。どう考えてもありえない。

 

「え、ええええっ!? そんな大金を賭けるの!? 

 あなたいくら私に勝ったからって頭どうかしてませんか!? 

 冷静に考え直してください! 今なら間に合います!!」

 

 ディーラーも同じく戸惑っている。バッと起きて詰め寄るが……

 

「どうかしてない。さっさと回せ」

 

 彼は全く聞かない。周りの人間も止めようとするが、聞かない。

 

「で、でも……」「回せ」

 

「その……」「ディーラー」

 

 戸惑う彼女の肩をポン、とボーイは叩く。

 良かった、ボーイは彼を止めてくれるようだ……! 

 

「回しなさい」

 

 全然違った。しかもすごくいい笑顔。

 断ると何をされるかわからないような恐ろしい笑顔だった。

 

「は、はい! ベットはありませんよね!? ……えいっ!!」

 

 ディーラーは慌ててルーレットを回す。

 他の客は混乱していて賭けるタイミングがなく、ベットしたのは彼だけだった。

 そして、回り始めたルーレットを見ると彼はようやく口を開く。

 

「あのな、ディーラー。よーく考えろ」

 

 思いっきりうんざりした口調で。

 

「あんたほどの美人をたった一日でモノにできるわけないだろ。しかも死ぬ気の。

 それを落とせるような男ならここまで苦労してない」

 

「び、美人……じゃなくて!? モ、モノにする……そ、そうじゃない! 

 ま、まさか……さっきの1枚と今回の136枚で……136日、4ヵ月以上飲みに付き合えっていうの!?」

 

 客たちは事情が理解できず戸惑うが、ボーイがすかさず説明を入れた。

 納得したり、オレンジチップを用意すればよかったと後悔したりと反応は様々。

 そんな客たちを気にせずに彼はにこりと笑って話す。

 

「おう。4ヵ月もありゃあ俺でもモノにできる気がする。

 ……約束は守れよ? きっちり付き合え。逃げてるのは許さん。なぁ、ボーイ?」

 

「ええ、そうですね。約束の不履行はカジノの人間として許すわけにはいきません」

 

 笑みを浮かべてディーラーを見下す二人にカジノ中の人間が絶句した。

 こいつそんな理由で大金をつっこんだのか。てか、ボーイもそれわかってたのかよ。

 ……馬鹿じゃねぇの? 誰かが囁く。馬鹿だ。こいつ馬鹿だ。史上最大の馬鹿だ。

 彼は馬鹿であるという認識が瞬く間に広がる。オーナーもディーラーも。馬鹿だと呟いた。

 

「うるせぇ。お前らに一つ言ってやる。いいか!」

 

 若干いらついた様子の彼が皆を見渡して口を開く。

 ちょうどそのタイミングでルーレットの周りも鈍くなってきた。

 

「人を馬鹿にするのは勝手だが──―」

 

 後輩に視線を向けながら、時々ルーレットを眺めていたディーラーは後数秒で結果が出ることに気づく。

 そして、彼が閉めの一言を言い放った次の瞬間。

 

「結果を見てから言うんだな」

 

 

 玉は、また7番に落ちた。

 

 

「へへっ、やったぜ。入らないと思ったけどなー」

 

 カジノが再び喧騒に包まれた。オーナーは崩れ落ち、ボーイも笑うしかない。

 ディーラーはもはや驚くしかない。なんだこのギャンブラー。化け物か。

 

「今度のチップは……4896枚か。ボーイ、用意しろ」

 

「用意しております」

 

 指をパチンと鳴らすと先日のガチムチ黒服が笑いながらチップを持ってきた。

 そしてそれをテーブルに載せて迷わず言い放つ。

 

「7番に4896枚オレンジチップをベット。ルーレット回せ」

 

 何だこいつもはや怖いんだけど。客が恐怖を覚え始める中ディーラーは叫ぶ。

 

「待って、本当に待って!? もう4ヵ月分一緒に飲むことになってるんだよ!? 

 4896枚って……13年以上あるんだけど?! そんなに私と一緒に飲みたいの君!?」

 

 その問いに彼は──―

 

「当たり前に決まってんだろ。あんたのこと好きなんだから。さ、回せ」

 

 軽々しく言い放った。

 ディーラーはギャンブラーの馬鹿さ加減に呆れてもはや笑うしかなかった。

 一方、ボーイはガチムチ黒服に連れられてオーナーの元にいた。

 

「おいボーイ! イカサマしてないよな!?」

 

「してませんよ。気になるならいくらでも調べてください。

 ああ、そうそう。一つだけ言っておきますが──―」

 

 

 私、彼に一点賭けで5連敗してます。全部7番の一点賭けです。

 

 

「だから今日の彼は勝ってくれる、と信じていたんですよ」

 

「次のゲームが終わったらすぐにあの客を儂の部屋に連行しろ! 説得する!! 

 これ以上勝たれては本当に困る! カジノ消滅の危機じゃぞ!!」

 

 

 なお、そのタイミングでちょうどまた7番に落ちた。

 

 

 余談ではあるが、4896枚賭けて一点賭けで勝利した場合176256枚のチップが返ってくる。

 

 年単位に直すと、約483年。女一人の人生買えるってレベルじゃねーぞ。

 

 

 

 

「……馬鹿でしょ、君」

 

 酒──約束通りバーで一番高い酒──を片手に女性──―元不敗のブラックディーラーはぼやく。

 ここは、大勝ちした彼の自宅。約束通り一晩飲みに付き合ってもらっているのだ。

 ただし。

 

「君のせいで私仕事無くしたんだけど……! 家も無くしたんだけど!! 

 私物を取りに帰る暇すらもなくてこの服一つでカジノを追い出されたんだけど! 

 しかもバニースーツ! どうしてよ!?」

 

 正確に言うと、一生だが。

 ディーラーはカジノを追い出されて今日から彼と共に暮らすことになったのだ。

 彼女を買ったオーナーの命令である。彼女に逆らうことは不可能であった。

 

「あははは、そうだなー。バニーはマジで知らん。女性スタッフの悪ノリじゃね?」

 

「女性スタッフいつかぶっとばす!」

 

「ちなみに俺は眼福だしむしろよくやったと思っている。ははは、いいセンスだよ」

 

「笑うな!」

 

 あの後厳重に身体検査されてイカサマしていないことが確認された上で、彼はオーナーと取引をした。

 

 ディーラーをもらいうけると共に、二度とカジノの世界に関わらせないと約束。

 生活面でのサポート──あんなに目立ってしまった二人を狙う馬鹿がいるので──をしてもらう。

 代わりに、今日の稼ぎはほとんど返却した。というか、ボーイに返した。

 カジノの金がボーイの金になったわけだ。これはカジノ内でひと悶着ありそうだが、知ったこっちゃない。

 カジノに永久出入り禁止を言い渡されたのだから。ボーイから後で話を聞くしかない。

 

 あきらかに釣り合っていないと思うかもしれないが、別に彼は気にしていない。

 

「こんな恥ずかしい服装で二人きりとか、笑い事じゃないよ!」

 

「おや、俺は憧れの好きな女を手に入れられたんだから、正直笑うしかないんだが? 

 別にいいだろそれくらい」

 

「こっちは本当に笑えない……ディーラーとしてのプライドズタズタだよ……」

 

「忘れればいいじゃないか」

 

「こんな屈辱一生忘れてたまるか! 絶対に覚えてるからね……!」

 

 悔しがりながら日記に記憶を書き記す彼女を見て彼はまた笑う。

 その姿に大きなため息を吐く彼女。

 

「はぁ……どうせ知ってるだろうから言うけど。

 私、今日死ぬ予定だったんだけど? それ、どうしてくれるの?」

 

「勝手に死ぬのは許さないからな、マジで。

 死なれたら困るから今日みたいな強硬手段に出たんだよ」

 

「その強硬手段が豪運での大勝ちって。

 あなたも記憶無くすんじゃない? そこ私は不安なんだけど」

 

 不安げな視線を向ける彼女に彼はにこりと笑って返した。

 

「大丈夫だ、問題ない。

 あの前にちょっとボーイとルーレット練習してたんだけどことごとく負けた。

 オーナーの爺さん曰く、記憶喪失の豪運持ちは練習でも必ず勝つそうだ」

 

 なんということだ。

 

「じゃあ、私が負けたのって……」

 

「俺のこれは記憶喪失の豪運じゃない。純粋な運だよ。

 それに俺も勝てるとは思っていなかった。負けたら一晩で何としても口説き落とすつもりだったな」

 

 元ディーラーは頭を抱えてうーうー呻き始めた。相当ショックだったようだ。

 

「まあ、そう落ち込むなって。なあ、『先輩』?」

 

 そう呼ぶと彼女は呻くのをやめて不審そうな目を向けた。

 

「……何その呼び方。私君より確かに年上だけど」

 

「とぼけんなって。本当は俺のこと忘れてないんだろ?」

 

 証拠はとっくにあるんだよ。

 

 

 

 

「ここで第5のネタバラシです」

 

 チップ返還の条件を決めて彼と元ディーラーが立ち去った直後のオーナー室。

 二人きりの室内でボーイが突然口を開き、オーナーが驚く。

 

「なんじゃ……まだあるのか……」

 

 あまりもの奇跡にもはや疲れ切っているオーナー。

 まだネタバラシがあるだと? どこまで手が込んでいるのだお前らは。

 そう言いたげな彼を見て笑みを浮かべつつ、ボーイは口を開いた。

 

「豪運の記憶喪失は完全ではない。『本当に大切な記憶』は残るんですよ」

 

「なんじゃと!? そんな馬鹿な! 証拠はあるのか!?」

 

 驚いてボーイに問い詰めるオーナー。

 彼はその顔が見たかった、と言わんばかりのいい笑顔で最後のネタバラシを始めた。

 

「私の母親が言っていました。

『あの人は私のことを忘れてしまったの。

 自分にとって大切なカジノのことしかおぼえてなかったのよ。

 だからあの人の元にいたいと思わなくなった……』

 とね。この言葉を思い出した時そんな馬鹿なと思いましたが、確かにその通りだった……」

 

 老人の手帳やメモ。それらを集めてボーイはオーナーに見せる。

 同時に、後で送る予定の元ディーラーのノートのあるページを添えて。

 

「これらの記述にはカジノ内の建物の構造やルールはほとんど書かれていない。

 なのに、あなたはそれらを把握しているんですよ。彼女はノートを見ればわかるようにはカジノのことも忘れているのに。

 あなたがカジノのことを書かなくても問題はない理由。

 

 どう考えてもカジノのことは覚えているとしか考えられない」

 

「な、なんと……」

 

「全ての記憶を忘れても本当に大切なカジノのことだけは覚えている。

 だから妻に逃げられたんですよ、クソ親父」

 

 目から鱗が落ちるようだった。オーナーにはそこまで思考が至らなかった。

 それが当たり前のことだと思っていたのだから。当たり前に気づくのは難しいことである。

 

「加えて。彼女のノートと彼女の関連資料からもう一つ」

 

 そういってボーイは資料から写真をすべて取り出し、日記を見せる。

 

「彼女は「彼の記憶をすべて失った」と言っていた。それはおかしいんですよ。

 彼女と彼がバーで酒を飲んだきっかけは騒動で彼女が彼が後輩であると気づいたから。

 ごらんください、オーナー」

 

 ノートには文章で軽く容姿について触れられていますが、それだけ。

 写真に至っては彼が写っているものは一枚もない。ノートにもそういった写真はありませんでした。

 手掛かりはわずかな文章のみ。

 

 

 ──―記憶を失っているのなら、これで気が付けるわけがない──―

 

 

 

 

「ってな。ボーイが気づいてくれたんだよ、これ」

 

「ボーイ君本当に何者なの。その事実私も気づかなかったんだけど……!」

 

 あのオーナーの息子。

 聞いた話だとオーナー、ギャンブルで稼いだ金だけを元手にカジノを作ったらしい。

 そりゃあ親子ともども只者じゃねぇわな。

 

「そうよ、気が付けるわけない! なのにあの日君を近くで見たときに確信していた……! 

 いつも目覚めたときもちゃんと君のこと覚えてた! その理由が不思議だったけど──―

 

 ──―そんな理由だったんだ。ああ、良かった」

 

 ポロポロと涙を流し、先輩は呟いた。

 

 

 君のこと、忘れられなくて良かった──―! 

 

 

 泣きながら笑う彼女を見て笑みを浮かべる。

 そうだな。俺も先輩に忘れられてなくて良かったよ。ありがとう、先輩。

 

 

 

 

「……で。忘れていたふりをしていた弁明を聞こうか」

 

 それはそれ。これはこれ。話は別だ。

 

「うっ。こ、この調子で流せるかと思ったのに」

 

「流せるわけないだろ。記憶無くしててもその辺変わってないな」

 

 ちえー、と先輩は悪態をつく。

 こういった細かい動作はやはり変わっていない。少しだけ安心した。

 

「忘れたふりをしてた理由、だよね。

 簡単な話。

 

 ──―本当に大切な記憶として覚えていたのが後輩君なんだ。それくらいに君が大切だったんだ。

 

 だから、いつか君のことを忘れるのが怖かった。それを忘れる前に死ぬと決めてたんだ。

 でも、私は死ぬ前に後輩君に会いたかった。君に少しでも後悔してほしくなかった。

 

 君のことを既に忘れて、絶対に死ぬと決意している女性ディーラー。

 

 そんなキャラを演じたら君もあきらめてくれるかな、なんて思ってたんだ」

 

「馬鹿だなぁ、先輩。その程度で諦めるかよ。

 ギャンブラーって生き物はあきらめが悪いんだよ」

 

 呆れたような視線を向けると、おかしそうに彼女は笑う。

 

「ふふふっ、そうだったね。昔から君はそうだった気がするよ」

 

「当たり。先輩やっぱりよーく覚えててくれてるな。

 ──―本当に大切な記憶として覚えていたのが俺のこと、かぁ」

 

 

 これ、遠回しに告白されてるようなもんだよな? 

 

 

 彼の唇を彼女は無言で自らの唇で塞いだ。顔はすでに赤く染まっていた。

 

「わざわざ言わないでよ、恥ずかしい」

 

「やだ。俺、先輩のこと好きだから。10年間ずっと愛してたんだぜ?」 

 

「知ってる。あの夜に言ってくれたんだし。

 ちゃんと覚えてるよ……あ、そうだ。ねえ、後輩君。今度は私からお返し」

 

 そっと耳元に口を寄せ、彼女は囁く。                       

 

 

 10年間、愛してくれてありがと。私も愛してるよ。

 

 

 あ、照れた。

 

 うるさい。

 

 

 

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