もしも世界の音に色がついているのならば、きっと貴女と同じ瞳の色をしているのだろう。
僕が彼女に出会ったのは、どこか湿気臭さが鼻につく、暗く埃っぽいステージの上だった。何処にでもあるようなライブハウスの、お世辞にも広いとは決して言えないステージの上。そんな場所で、彼女はまるで絵画から飛び出たかのような優雅さでもって、優しく、艶やかに、それでいて誇らしげな表情で、音を紡いでいた。別に初めて彼女の存在をそこで知った訳ではなかった。
でも、その姿に、その心に初めて触れることが出来たと感じるのは、やっぱりあの場所だったんだと思う。
一音一音が心を震わせ、魂を穿つ。
彼女の音が響く時、そのありきたりなライブハウスは彼女の世界に包まれた。足元のコンクリートは草原へと変わり、湿っぽかった空気を清々しい程の風が攫って行く。
音色は僕らの今いる場所を一瞬で塗り替え、まるでどこか遠くの花畑に立っているかのような錯覚さえ覚える。
そんな世界の中心で、『歌姫』は歌っていた。
胸のドキドキが鳴りやんでくれない。
どうして貴女の音は、こんなにも僕の心を震わせるのだろう。
どうしてこんなに、貴女に魅かれてやまないのだろう。
視線が離れてくれなかった。一瞬たりとも彼女を見失ってしまわないように。一瞬たりとも、世界から色が消えてしまわないようにと。
視線の先の『歌姫』はその歌声でもってくすんだ僕の世界に、確かに色を付けたのだった。
「こんなんじゃダメだねぇ……。うちじゃ使えないよ」
もう何度見慣れた光景だろうか。
僕は机の上に放り出された紙束を恨めし気に睨みつける。バサリと音を立てて整った長方形から形を崩した数十枚の紙束は、ここ最近の熱情の塊だったものだった。
「……すみません」
自分が発したはずのその一言で、目の前にあった物語はどう見てもただのゴミ束にしか見えなくなってしまった。
試行錯誤すること一か月。そんな僕の時間は、たった十五分の打ち合わせであっけなく水泡に帰すこととなってしまった。
何も言えずに黙ってしまった僕をあざ笑うかのように、外では五月蠅いくらいの蝉の声が響いている。
「七瀬君さぁ、これで何度目よ」
「……すいません」
「今西部長が目をかけてるって話だったから俺も付き合ってるけど、こっちだって案外暇じゃないのよ?夏フェスの打ち合わせだってあるんだし」
「それはっ!っ……わかってます……けど……」
机の下で握りしめた拳が、小さく悲鳴を上げたのが分かった。
自分が心血を注いで書き上げた一本が、こうも無下に扱われるという悔しさは、何度味わっても慣れてくれそうにない。こっちだってふざけてやってるわけじゃないってのに。
「うちだってお抱えの脚本家なんていくらでも居るんだから、こんなんじゃそっちに頼んじゃうからさ」
「もうちょっとだけっ、待っていただけないでしょうか……?」
机にぶつけんばかりの勢いで頭を下げる。
そんな僕を、脇ですっかりぬるくなったコーヒーが冷めた目で見ているのが分かった。
「ま、考えとくよ……。でも、今のままじゃ使ってやることは到底できそうにないね。君は親父さんとは違う。ありきたりなどこにでもありそうな話、素人でも書けそうなもん持ってこられちゃ困るよ。金だってスケジュールだってかかるんだからさ、期待しないで待ってるよ」
”親父さん”というセリフについピクリと反応してしまい、僕は何も言い返す言葉が出てこなかった。
そのまま彼は机の上の飲みかけのそれに目もくれることなくその場を立ち去っていく。残されたのはくすぶったままいつまでも燃えることのない僕と、僕を冷たく見つめる冷めたコーヒー、そしてついぞ一人にしか見られることのないままこの世を去っていくことになるかわいそうな物語が一つ。
誰の心にも残らないだろう拙いハッピーエンドが、こうしてまた一つこの世から姿を消すことになった。
「……またダメか」
思わず机の上に伸ばした手が、くしゃりと音を立てながら束ねられたA4用紙を握りつぶした。否定されて、結末を迎えることのできなかった物語―。
帰ろう。こんなところで落ち込んでいたって惨めなだけだ。
辺りを見回すと今も大勢の人たちが落ち着いた店内を装飾していた。平日のカフェは思ったより人の出入りが激しい。大手芸能事務所からほど近いこの場所は、そういう所謂業界人達の格好の打ち合わせ場所になっているらしく今も多くのそれっぽい人たちが出入りしている。
そんな、誰かの夢が生まれるかもしれないその場所で暗く下を向くことしかできない僕が、あまりにもちっぽけに見えて情けなかった。
ふと、ポケットのスマートフォンが震えるのが分かった。パンパンのジーパンのポケットで小さくその存在を必死に誇示しようとしているそれを開くと、それはバイトのシフト一時間前であることを告げるアラームだった。
「……何やってんだろうな」
慣れた手つきでアラームを止めた僕の口を思いがけず付いたのは、そんな言葉だった。
誰に聞かれてるわけでもないのに、自分で自分が発した言葉を耳にしてより一層その言葉がズシリと沈み込む。
こんな場所から一刻も早く出ていきたくて、机の上の伝票に目を移す。が、伝票を入れるのであろう小さなプラスチックの筒の中にはもう既にその姿はなく、そこにはただぽっかりと僕の心に空いたものと同じ穴がただ静かにこちらを見つめているのみだった。
なんていうか、大人はズルい。あんなに僕の心を傷つけておいて、それでいてこういう時だけ大人であろうとする。何て言うか、そういう見栄みたいなものが嫌いだ。
でも……、でも、それ以上に、今の自分はもっと嫌いだ。夢に縋って、憧れに縋って、そして過去に縋って生きている自分。
一体僕は、こんな世界で何になれるのだろうか。
「七瀬、そういやお前あれどうだったの?」
喫茶店の出来事から数時間後、僕の姿はとある居酒屋のスタッフルームの一角にあった。仕事上がりを迎えた僕は、バイト先のユニフォームを脱ぎながら今日の出来事を思い出してしまっていた。否が応でもあの苦い感情を思い返してしまう。声をかけられたのはそんな時だった。
八月真っただ中の室内はエアコンが効いているとはいえ夏特有の蒸し暑さに包まれていた。ベタついた肌を制汗シートで丁寧に拭いながら僕は声の主の方へと首だけ動かす。
「……お疲れ様です」
「お疲れ様」
そこに居たのは僕がお世話になっているこの居酒屋の店長だった。近場の椅子を引くと彼はどしりと腰を下ろしタバコに火をつける。
「また山田さんに叱られますよ」
「いいんだよ、あのおばちゃんシフトそんなに埋めてくれないのに口だけは達者なんだからさ」
不満げな表情を浮かべた店長はそういいながら口に含んだタバコの煙を勢いよく中空へと吹きかけた。
「で、どうだったんだ?」
「えっと、何がですか?」
「ライブだよライブ。お前、この前言ってたじゃねぇか、ほら」
そういって彼はスタッフルームの壁に貼られている一枚のポスターを指さした。
「高垣楓のライブ、行ってきたんだろ?いいよなぁあれだろ、親父さんの知り合いの伝手だろ?」
「ええ、まぁ」
店長の指の先、そこに居たのはジョッキを片手に笑顔を浮かべる、『歌姫』の姿だった。夏真っ盛り、青空の下で白い砂浜の上に立つ彼女は、白いワンピースに麦わら帽子というまさにお決まりの格好でこちらを見つめている。
ステージの上とポスターの中。同一人物なのにそのギャップがなんだかおもしろく感じ、鼻の先が何やらむずがゆくなってしまったのは店長にはナイショだった。
「あー俺も三船美優のライブのチケット、どっかから降ってこねぇかなぁ。って七瀬、なんか嬉しそうじゃねぇかよ。」
「そんなんじゃないですよ……」
そういって誤魔化してみるものの、若輩者の見え透いた見栄なんてもんはばっちりとお見通しだったようで店長は不敵な笑みを浮かべながらまた気持ちよさそうにぷかぷかと煙を吐いた。
「やっぱり綺麗だったか?」
「そればっかですねホント」
毎度おなじみになってしまったセリフに苦笑いを浮かべつつ僕は空いている椅子へと腰を下ろした。
「わりぃかよ」
「新しいタレントさんのポスターが来るたびにスケベな目で精査してるの、みんな知ってますからね」
「男ってのはな、みんな綺麗な女が好きなんだよ」
「それは同意しますけど」
店長の女好きは今に始まったことではなく、もうここのスタッフ全員の共通認識の一部となっている。ここに入った新人バイトがまず初めに教わることは、皿洗いでも注文の受け方でもなく、店長の女癖の悪さだなんて冗談もあるぐらいだ。
「綺麗だったか?」
「……はい、とても」
「そか」
それだけ言うと、店長は何とも言えない嬉しそうな表情を浮かべた。
この店で働き始めて一年。僕が初めて目にする表情だった。
「もう帰るのか?」
すっかり短くなった吸殻を灰皿へとぐりぐりと押し付けながら店長は寂しそうに僕に声をかけた。
その声で思い浮かべるのは、ワンルームの小さなアパート。築40年の古ぼけたコンクリート製のアパート。バブルの終わりかけに作られたというその一室は、僕をこの世に縛る牢獄のようだった。
ただ夢に縋り続けるだけの一日の終わりを迎える場所。最初はそこには夢が詰まっていたはずなのに、今となってはそこに巣食っているのは、夢という名の”呪い”だった。
いや、僕はただ夢という言葉を体のいい言い訳にして逃げてきただけだったのかもしれない。
「……そう、ですね」
「そか、まぁ、頑張れよ」
”頑張れよ”に込められた意味を、僕は僕なりに理解しているつもりだった。いつだったか、店長には日常会話のきっかけでポロリと零してしまっていたからだ。
夢のこと、将来の展望、そして父さんのこと。
心から応援してくれているのだろうか、それとも子どもの戯言だと腹の底では笑っているのだろうか。それを知る術は今の僕にはだけれども、それならそれでまぁ良しとしよう。
「今日も書くのか?」
「……はい」
「あんま遅くならないようにだけ気をつけろよ、お前明日もシフト入ってるからな」
「でも、やらなきゃいけないことが……」
「あーもう、俺は男のプライベートには興味がないの」
それだけ言うと店長はそのままスタッフルーム奥の事務所へと姿を消してしまった。
「わかりました、おつかれさまです」
去りゆく背中に向かって声をかけると、「おう」とだけ小さな声だけが返ってきた。
店を出て見上げた空は、どんよりとした悲しい雲で覆われていた。その空がまるで今の僕の心情を映し出しているかのようでぽっかりと穴が空いてしまった心に蓋をしようとしていた。
そんな今にも押し潰されそうな空の下で、今日も僕は何かになりたがっている。
七瀬幸市、19歳、職業フリーター。自称、脚本家見習い。そんなちっぽけな肩書が、僕を僕たらしめようとする数少ない存在証明だった。
そんなちっぽけな肩書を背負って、僕は一体こんな世界で何になろうとしているのだろうか。
ということで、感想等頂けると泣いて喜ぶのでよろしくお願いいたします。