高垣楓「そして明日の物語」   作:くまたろうさん

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第10話

 楓さんと歩く夜の道は、ちょっとだけこの世のものじゃないように感じてしまうのはどうしてだろうか。

 都内だというのに星がいつもより輝いて見え、周りの音がより鮮明に聞こえる。そして何より、世界が澄んで見えるような気がした。

 

「楓さん、ご機嫌ですね」

「ええ~お酒が入ってとっても酒あわせ、ですよ~」

 

 僕の数歩先を鼻歌を歌いながら楽しそうに歩く楓さん。時折立ち止まり空を見上げて大きな深呼吸をしたかと思えば、今度は別の歌を歌い出す。さらに数歩歩いたかと思えばこちらへと何やら嬉しそうな笑顔を見せる。その笑顔がこちらに向かう度、僕は何とも名状しがたい胸の高鳴りに襲われてしまうのだ。

 でも、そんな彼女の自由さに心情を振り回されている自分が、僕はとても心地が良かった。

 

「ねぇ七瀬君」

 

 それは、彼女の自宅まで後数百メートルというところまで差し掛かった頃だろうか。

 ふと、彼女が道端で立ち止まると僕の名前を呼んだ。

 

「どうかしましたか、楓さん」

「私がどうしてアイドルを辞めるか、聞かないんですか?」

 

 瞬間、僕の心臓が一つ大きな音を立てた。

 気にならない訳がなかった。でもそんな大事なことを聞ける訳がない。僕なんかが踏み込んでいい場所じゃない、そこはそういう場所な気がしていたからだ。

 

「……聞いて欲しいんですか?」

「どうなんでしょうか」

 

 ふと、高架下を一台のトラックが大きな音を立てて通り過ぎて行った。そこで気づく。この場所は、以前楓さんと深夜に出会った場所によく似ていた。

 これが同じ場所だったならよくできた物語だと思うが、現実はそこまでは寄せてくれないらしい。

 

「楓さん」

 

 一つ、僕は小さく深呼吸をすると彼女の名前を呼んだ。

 

「僕はきっとカインにすら慣れないどこかの誰かだったんだと思います」

 

 その言葉に一瞬楓さんは驚いた表情を浮かべたが、すぐに先ほどまでのどこか掴みどころのない顔に戻ってしまう。

 

「憧れている女性が居て、そんな女性に近づきたいと願うどこにでもいるような男だ。でも、そんな彼女に近づけるような大層なものを僕は持ち合わせていない」

 

 半ば告白のようなセリフを吐いてしまったがもうどうにでもなれという感じだ。というか、きっとこの夜を逃してしまったら僕は一生彼女の世界に手を伸ばすきっかけを失ってしまうような、そんな気がする。

 今なら分かる。あの物語の結末が、きっと僕にとっての今なのだ。

 カインは向かった。王都のシンシアの元へ。僕も、進まねばならない。

 

 職業として高みに上るために。

 父を理解するために。

 憧れである楓さんに近づくために。

 そして、何より僕自身を納得させるために。

 

「それでも彼は旅立ちました。そこにはきっと、憧れに手を伸ばそうという勇気があったんだと、僕は思います。楓さん、話せる分でいいんです。どうしてあなたはアイドルを辞めてしまうんですか?」

 

 月明かりの元、僕の問いかけに満足そうな表情を浮かべる楓さんの姿が目に入る。

 

「七瀬君、月が綺麗な夜ですね」

 

 そして彼女は、あの人同じセリフを吐く。

 だからこそ、僕はこうして小さな決意と共にその言葉を口にできるのだ。

 

「はい、今の僕はその輝きに手を伸ばしたいと思っています」

「……そう、ですかっ」

 

 この世界は全て、誰かの物語の積み重ねだ。家族、恋人、友人、同僚、赤の他人。様々な人物の物語が複雑に絡み合って構成されている。

 あの日、スクリーンの向こう側のように感じていた彼女の存在も実は僕の錯覚で、楓さんも僕と同じ物語の中で生きている。

 

 ああ楓さん、あなたの世界は、こんなにも僕の近くにあったのですね。

 

「私がなぜ、アイドルを辞めるのかというと――」

 

 

 

 

 

 

 

「え、楓を主役に本を書かせて欲しい?」

「はい、我儘言っているのは分かります。無茶だってお願いも分かってます。でも、どうしても書かせて欲しいんです」

 

 数日後、僕の姿は346プロ最寄りのカフェにあった。ここにあまりいい思い出はないのだが、ここが一番待ち合わせに最適なのだからしょうがない。

 僕は本日の待ち合わせの相手に開口一番に頭を下げてオウム返しにされた先ほどの台詞を口にしたのだった。 

 

「どうしてもって言われたって急すぎじゃないか。それに俺にだって予定もある。楓のことは……」

「楓さんは、諦めません」

「諦めませんってったって書くとしても今からだろ?引退宣言までしといていつまでもダラダラとしてんのはCMの降板を認めてくれたスポンサーにも悪いし何よりも世間のイメージがだな」

 

 そう言って本日の待ち合わせ相手、もとい大崎プロデューサーは苦虫を嚙み潰したような表情を浮かべた。

 

「本なら、原本があります」

「原本ってなんだよ」

「これです」

 

 机の上に僕が差し出したのはA4サイズの紙束だった。伊豆大島から戻った後の店長との会話以来、穴が開くように目を通したそれは、僕がいつか向き合わなければならないだろうと強く感じていたものだ。

 

「……正気か?」

「ええ。大崎さんは言いました。この作品には、足りないものがあると」

 

 思い返すのは先日伊豆大島で交わした会話。

 

「役者、だな」

「ええ」

「七瀬君、まさか君は」

「はい、僕が、この七瀬貴臣の最期のメモを完成させます」

「……んな無茶な」

「とりあえず二か月、いや、一月でいいんですっ。僕に時間をください。お願いします。出来たら一番に大崎さんのところにまた頭を下げに来ます。お願いします、僕にチャンスをください!」

「チャンスってったってなぁ」

 

 胸ポケットからタバコを取り出した大崎さんは、ここが禁煙だということに気づいたのかバツが悪そうにそのままタバコを元の場所に戻す。

 そんな彼から僕は一時も視線を外すことなく更に言葉を続ける。

 

「……楓さんから、引退の理由を聞きました」

「そうか」

「僕には持つ者ゆえの苦悩というのが分からないです」

 

 楓さんはあの日の夜、引退の理由をこう語った。

 曰く、”歌を嫌いになってしまいたくない”と。

 

「”歌姫高垣楓”この称号が彼女にどれだけのプレッシャーを与えてきたのか、僕にはそれを理解することはできません。でも楓さんは、ステージの上は世界を教えてくれる、そう口にしていました。彼女が歌うことを、ステージを無くしてしまったら楓さんの世界は狭まってしまう」

「七瀬君が、その世界を創ろうってのか?高垣楓という最高の素材を使って、君がやろうとしていることは君のただの我儘だぞ」

 

 その通りだ。これは僕の完全な我儘。楓さんのために、僕が楓さんのためだけに、今こうしてこの想いをぶつけている。

 

「時間だって、人だって、金だってかかる。それでも君は、彼女をシンシアにしたいのかい?」

「楓さんは、あの結末を好きだと言ってました。僕はずっと何でなんだろうって考えてたんです。だって、あの結末を僕は好きじゃなかったから」

 

 カラン、と机の上に置かれているアイスコーヒーの氷が崩れる音が響いた。

 

「でも、ちょっとだけ今は理解できるような気がしています。きっと楓さんは新しい世界を探して旅立つことを選んだシンシアの生き方に共感したんだと思います。あくまで……憶測ですけど。僕は、楓さんにとってのカインでありたい。恋とか愛とかは正直よくわかってないんですけど……。あの背中の向こう側に、あの世界の先に僕も一緒に行きたい、そう思っていました」

 

 でも、今はもうそれが叶わない状況になりかけている。楓さんの求めている世界は既にもうその入り口を閉じかけている。

 これが彼女にとって最適かは正直よくわからない。それでも、僕がその物語を作り上げることが、今それが一番楓さんに贈りたい僕の精いっぱいなのだというのなら、せめて僕はその気持ちに真摯でありたい。

 

「俺はな、あの結末が嫌いだった」

 

 グラスに残ったアイスコーヒーを一気に飲み干した大崎さんは、ポツリと言葉をこぼした。

 

「シンシアと、楓。確かに似てると思ったよ。でも、そんな風に無意識に楓を重ねてしまう自分が、どこか嫌だった。あいつもあのシーンのラストみたいに、どこかに行ってしまうような気がしたんだ。俺も、きっと恋をしていたんだろうな、高垣楓という物語に。それを失ってしまうのが、きっと怖かったんだ」

「でも、楓さんは……」

「ああ、楓の引退の話はずっと前から聞いていたよ。でも、それでも俺は、あの物語の続きを見続けて居たかったんだろうな」

「そんな終わってしまったみたいな言い方」

「あいつの想いはしっかりと汲んだつもりだ。俺と彼女との関係は、正直終わったも当然なんだよ。でも、俺の中では未だにちゃんと踏ん切りがついている訳じゃないんだ。言うなれば、理解はしたけど納得はしたくない、そんなところだろうな。恨んだよ。どうして二人は離れなきゃいけないんだって。カインだってついていきゃいいじゃないか王都に一緒に。なんでそこで見送る選択肢が取れるんだよってな。俺も、見送る側だったのに」

「僕は、何となくカインの気持ちが分かるような気がします」

「ああ、分かるよ。今ならわかる。俺達は、シンシアと一緒に道を歩けるような人間じゃなかったってことだっただけだ。カインになることを選べない奴らだったんだ、俺は。なぁ……」

 

 そこまで口にして、大崎さんは机の上に散らばったメモ束に静かに手を伸ばした。

 

「楓の物語は、まだ続くのかい?」

「続きますよ。いえ、僕が続けてみせます」

 

 そう言い切った僕に向けて、大崎さんはちょっとだけ驚いたような表情をみせた。

 

「誰かの明日になれる物語を」

「……それは?」

「父が昔よく口にしていた言葉です」

 

 僕はメモ書きの束を数枚ペラペラとめくると終盤の方に走り書きのように書かれていたそれを指さした。

 

「もし、父がこの物語に何かメッセージを込めていたのなら、きっとそれはこれなんだと思います。見た人の、演者の、そしてこの物語に関わった人の、全ての人の明日になれる物語を。このメッセージを、僕は遺していきたい。なによりも楓さんと、そして僕のために」

「そうか……。なんかいいなぁ、そういうのさ」

「へ?」

 

 ふと、先ほどまでどこか険しい表情を浮かべていた大崎さんの顔が砕けた。

 

「いや、なんつーかさ、この歳になると世間体とか周りにかかる迷惑とかいろいろ考えちゃって本当に自分のやりたいことって明確に口にできなくなるのよ」

「あの、僕遠回しに迷惑かけてるぞてめぇって言われてます?」

「ああ、言ってる」

「うぐっ」

「でも、嫌いじゃないぜそういうのさ。七瀬君、カインになってくれ。あいつを、どこまでも追いかけて行ってくれ。俺の代わりにな。んじゃ、会計よろしくな。この後も仕事なんだ」

「え、あ、はいっ」

 

 懐から二千円だけ取り出すとそのままそれを机の上に放り投げ大崎さんは席を立つ。

 

「まぁ、俺のできる限りで都合は付けてやる。その代わり――」

「その代わり?」

「楓の説得は七瀬君がやれ。あれがいちばん手間だ。高垣楓を、口説き落とせ」

 

 それだけ言い残し大崎さんは店の出入り口から姿を消した。

 え、あの、いや……。僕、楓さんと連絡を取る手段を持っていなんですが。

 

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