「どうしたものか……」
346プロでの簡単な打ち合わせを終えたその日の午後、僕は346プロダクション社屋内の食堂でうんうんと頭を悩ませていたのだった。
楓さんの口説き方が分からないのだ。
思い返すのはあの日の夜のこと。楓さんはアイドルを辞める理由をこう語った。
『私にとって、歌というのは世界と繋がるための手段でした。歌を通して世界を知って、その世界を通して私は私と向き合ってきました。でも、いつからか高垣楓という名前は私の中から離れていったんです。売れるのは嬉しかった。認められるのは嬉しかったです。沢山の人が私の歌を聞いてくれて、私の想いを汲み取ってくれる世界。でも、いつからかその世界は私に私の知らない私を求めました。それが……怖かったんです。いつか私が私じゃ無くなる日が来て、ステージの上に立つのが嫌になる日が来るのが怖かったんです。歌を……嫌いになりたくなかった』と。
秋の訪れを感じるちょっとだけ肌寒い星空の下で耳にしたのは、そんな余りにも人間らしい独白だった。”高垣楓”という非現実感から高垣楓という何処にでもいる女性に戻る瞬間。そんな光景が僕の目の前にはあったのだった。
”歌姫”であるということは、彼女にとっては誇りであり呪いだった。
そんな呪いを解いてやりたい。僕の中にあるのはそんなちっぽけな傲慢さ。だけど、それが今は何よりも僕が僕足りえる原動力なのかもしれない。シンシアに憧れるカイルが、楓さんを追いかける僕がなぜ彼女を追いかけ続けるのか、その姿がどれだけ綺麗なのか伝えたい。仮にそれが仮初の歪んだ思いであったとしても――
なんて考えてしまうのは僕が高垣楓という毒に侵されてしまったからなのだろう。
「あれ、あなたは……」
ふと、そんな僕を現実に引き戻すかのように声が聞こえた。
振り向くとそこにはこの場にはやたらと不似合いなドレスに身を包んだ女性が立っていた。裾からすらりと伸びる白い足。ふくよかなその胸部を強調するかのように開いた胸元。そしてその姿を更に魅力的に仕上げる全身に纏われた色香。
「ひ、柊さん?」
「こんにちは、物書きの雛さん」
そこには柊志乃さんがその妖艶な姿にはちょっと不似合いな愛らしい笑顔を浮かべて立っていた。
「奇遇ね、こんなところで」
「えっと、この間お会いして以来ですね」
「ええ、楓ちゃんの送別会ね。噂の七瀬君がアルバイトしていたのは驚いたけど」
「噂の?」
「ええ、噂の」なんて言いながら柊さんはテーブルの対面に腰を下ろした。
「楓ちゃんから耳にしたの」
「楓さんが……?」
噂の、なんて言い方から考えると楓さんが柊さんに僕の話をしたのだろうか。
「楓さん、ねぇ。随分と親しくしてるみたいじゃない?」
「そ、それは楓さんがそう呼べって」
「ま、いいけれど」
「その……柊さんは」
「志乃」
「えっと」
「楓ちゃんばっかりズルいじゃない。私のことも名前で呼んで」
またこのパターンですか……。今回も呼ばないと話を続けてくれないんだろうな。
期待した表情でこちらを見つめる柊さんの視線が痛い。覚悟を決めて僕は彼女の名前を口にする。
「し、志乃さん」
「はい、よく出来ました」
「あの、僕、揶揄われてます?」
テーブル越しにニコニコとこちらを見つめる志乃さん。聞かずもがな、これは完全に揶揄われてるんだろうなぁ。
「もちろん」
「でしょうね……」
「それで、どうしたの?」
「先ほどから気になってたんですが……私服ですか?」
「どっちだと思う?」
いや、聞いといてなんだけどこの場合どっちだと答えるのが正解なんだ。
「えっと、これからパーティーとかですか?」
「ふふっ、そう見える?残念ながら不正解。衣装合わせの途中なの」
「衣装合わせ中ってじゃあこんなところいちゃだめじゃないですか!?」
予想だにしない回答だった。仮にもどこかからの借りものだろうに。仮の……借り物。楓さん的には何点なんだろうか。
「良いのよ。動きやすさのテストも兼ねてるから」
「それならいいんですけど、衣装合わせの途中なら時間とかも……」
「それも問題ないわね。業者の発注ミスで今スタイリストさんが衣装を取りに出払ってるところなの。戻ってくるまで私は手持ち無沙汰」
「それでこんなところをうろついていた訳ですか」
「そういうこと」
ぐいとこちらに顔を寄せる柊さん、改め志乃さん。この距離で見ると改めて分かる。この人、めちゃくちゃ綺麗な顔してるな。っていうかどうして衣装を着たままなのだろうか。着替えればいいのに。
「それよりも、悩んでるって顔に書いてあるわ」
「……そんなに分かりやすいつもりじゃなかったんですけどね」
「楓ちゃん?」
大人はズルい。誰かの心に踏み込むときは、大概完全武装か逃げ道をしっかり作った状態で飛び込んでくる。
この人の場合は……どっちなんだろう。それすら見せてくれないのもひたすらにズルい。
戦闘態勢に入る前に殴られたらこちらとしては開幕お手上げだ。
「見つからないんです」
ぽつり。ぶん殴られた心の奥から溢れ出た言葉はそんな言葉だった。
「それだけ言われても分からないわ」
「そう……ですよね」
「探してるのは大切なもの?」
「だと、思います」
「なら、それは誰かに貰うものじゃないわ。もし探しているものがあなたにとって本当に大切なものなのなら、それじゃあそれはあなた自身が見つけるものよ。でも、そうねぇ……あなたが進むべき道ぐらいは、示してあげることはできるかも知れないわ」
志乃さんはそういうと誰もいないはずの食堂の入り口にちらと視線を配るのだった。
「志乃さん。こちらにいらっしゃったんですね。スタイリストさんが戻られたみたいです」
「あ……」
扉の陰から現れたのは見慣れたアッシュグリーンのボブカットだった。ふと僕と目があった彼女は驚いたような表情を見せたかと思うといつもの笑顔に瞬時に切り替わる。
「ありがと、楓ちゃん」
「楓さん……」
「それじゃね、七瀬君。後は二人でゆっくりと話なさい」
そういうと志乃さんは妖艶な雰囲気そのまま食堂の外へと姿を消そうとする。
「あの、志乃さん!」
「……大丈夫、男の子でしょ?」
去り際、ぽんと背中をひとつ叩かれたのがやけに印象的だった。綺麗な人だなと思っていたけど、案外おちゃめな人なのかもしれない。
そんなやりとりで忘れかけていたが、それよりも重要なことが今目の前に残っている。
「七瀬君……」
「楓さん、あの……、お、お話が、ありますっ」
覚悟を決めろ、七瀬幸市。お前と、そして何よりも彼女自身の、明日のために――。
高垣楓を、口説き落とす覚悟を。
高垣楓と過ごす三度目の夜は、それは月が綺麗な夜だった。
まぁ、今までの二回も晴れていたから月は綺麗に見えていたのだけれど。これまでと違うのはそんな綺麗な月に妙な親近感を覚えることと、楓さんがアルコールを摂取していないことぐらいだろう。
「お待たせしました」
「いえ、月を見ていましたのですぐでしたよ」
そして、そんな月をずっと想っていたから。
なんてキザな台詞を言える勇気は僕にはないのでこれは心の中に留めておこう。まぁ、月を見ていたのも大概な台詞だけどな。
「楓さんも、お仕事お疲れ様です」
「ありがとうございます」
楓さんと待ち合わせたのは食堂で突然の邂逅をしたその日の夜だった。楓さんはあの後ラジオの収録が入っていたらしくその場で話をするということは適わなかったのだ。
おかげでこんなに月が綺麗な夜に、楓さんと二人なんて状況を享受できるのだからよしとしよう。
「それで、お話って何でしょうか」
僕がここに楓さんを呼び出した理由は本人には伝えていない。これから大切な話をしようと覚悟を決めた僕の心境なんて楓さんは知ったこっちゃないだろう。
だけど、ずっと考えてきた。
今思えば、彼女と出会ったときからずっと想っていたことなのかもしれない。彼女のために出来ること。彼女のためにしたいこと。
「楓さん、本当にアイドル辞めちゃうんですか?」
「……ええ、決めたことです」
そういって笑う彼女の笑顔は、月明かりに照らされてあまりにも綺麗だった。
「ステージに立つことも無くなっちゃうんでしょうか?」
「アイドルを辞めちゃうとそうなるかもしれませんね」
「ステージの上は世界を教えてくれるんじゃなかったんですか?」
「でも、今の私じゃきっとステージを、歌を通して繋がってきた世界を、嫌いになってしまう。あんなに愛したものを、嫌いになってしまいたくないんですっ!」
普段の彼女からは想像できないほどに、その語気は強かった。まるで今まで溜めてきたものを吐き出すように、楓さんは力強くそう言い放った。
「ここからは完全に僕の独り言というか我儘なんですけど……」
台本も事前のリハーサルもない、突貫の一人芝居。楓さんという観客に向けて、僕は今からありったけの僕を演じる。あなたの、明日のために。
「初めてあなたをステージで見かけたのは、とあるライブハウスのステージの上でした。あの時ステージ上で歌うあなたを見た瞬間、僕の曇った世界に色が付いたような感覚を覚えました。スタンディングの固いコンクリートの床は気づけば草原になっていたし、どこか生ぬるく感じていた空調も透き通るように吹き抜ける風のようでした」
楓さんは、僕の言葉に一切の口をはさむことなく、真剣にこちらだけを見つめていた。
蒼と翠。綺麗な二つの瞳が、こちらの心を見透かしてくるようでちょっとだけ怖い。だけど気にするな、なんなら思いっきり見透かしてくれ。そこに、僕が貴女に伝えたい本当の想いがあるのだから。
「貴女が、僕の世界に色を付けてくれた。くすんだ世界を鮮やかに染め上げてくれたんです。貴女が手を伸ばした世界が、僕の世界を広げてくれたんですっ。覚えてますか?貴女と初めて会ったとき。貴女は父の物語の結末を好きだと言ってくれた」
「あれはっ」
ふと、先ほどまで静かに僕の言葉に耳を傾けてくれていた楓さんが声を上げた。アッシュグリーンの綺麗な髪が、彼女の感情に合わせて左右に振れる。
「あれは……。羨ましかったんです」
「新しい世界に踏み出す、シンシアの覚悟がですか?」
「そう……なんだと思います。愛した世界を、嫌いになりたくなかった。愛した人たちを、嫌いになってしまいたくなかった。嫌な女でしょう、私。臆病で、弱虫」
「確かに、臆病で、弱虫かもしれません。でも、僕はそんな楓さんに世界を変えてもらいました。それは、そんな臆病で弱虫な楓さんが、そんな世界と戦ってきた証なんだと思っています」
楓さんの宝石のような二つの瞳が、わずかに開いたような気がした。
「父の遺したメモをちゃんと台本に起こそうと思うんです。だから、楓さんが今もしこれからの世界に手を伸ばすことを恐れているのならば……」
言え、言うんだ。七瀬幸市。これでも物書きの端くれだろ。言葉一つで人間一人の心を動かして見せろ。
「楓さん、貴女の生きる世界の一つを、僕に作らせてくれませんか!もし、台本が完成した暁には、僕の世界で……歌ってくださいっ!」
僕の拙い語り口が止まった時、彼女の口元は小さく震えその隙間からは言葉にならない音が零れた。
「っ、……わ、わた……私は……っ」
いつも笑いながら涙を流す彼女の顔が、今はもう泣き顔でぐちゃぐちゃだった。それすらも心から愛おしいと思えてしまうのは、僕という人間が高垣楓という存在にどうしようもなく心を奪われてきた結果なんだろう。
「楓さん」
「は、はい……」
「お願いします、楓さん。シンシアを、演じては頂けないでしょうか」
この世界に生きる人々は、きっと誰もが特別な何かじゃなくて、それになりたい只の誰かなんだろう。楓さんだって、僕等から見たら別の世界の人間のように見えるけど、彼女だってこんなキラキラとぐちゃぐちゃが溢れた世界で自分の特別を掴もうと足掻いてきた。
そんな世界で生きる貴女だから、そんな世界で物語を紡ごうとしてきた貴女だからこそ僕は――
「七瀬君、私はまだ、新しい世界を探してもいいの?」
「もちろんですよ。迷ったら呼んでください。貴女を助けてくれる人はたくさんいます。大崎さんだってそうです。今西部長も当然駆けつけてくれます。今まで沢山楓さんが想いを届けてきたファンの人たちだって、楓さんの背中を押してくれます。もちろん、その際は僕が一番最初に、貴女の居場所に駆け付けます」
その言葉に、楓さんは嬉しそうに空を見上げた。
「七瀬君、月が綺麗ですね」
「はい、でもまだ、死ぬわけには行きません」
「ふふっ……そうですね」
「はい。でも、そんなことよりなによりも楓さんに出会えたことが、僕にとっては一番のツキだったのかもしれません」
「……ん~、もうちょっと頑張りましょう」
「ひどいですよっ!!」