きっかけというものは往々にして予想外のところに転がっているものだ。それを予測できるものがいるとしたらそれは世間一般で”神”とでも呼ばれているものか、それともFBIもびっくりの予知能力者だろう。そういえば超能力捜査なんて番組も久しく見なくなってしまったな……。みんなきっとそんなものに夢を見られるほど、現実から目を離せる余裕なんてないんだろう。
そんなこんなで僕の予想だにしなかったきっかけは、とある平日の午後に突然目の前に現れた。
「それで……」
「ああ、これが昨日君に突然電話した理由だよ」
普段業界人で賑わうこの場所も、今日に限ってはあまりに静かで、店内には僕と彼の声だけが響いていた。
「これが噂のメモ書きですか?」
「ああ、知り合いに聞いてみたらしっかりと残っていたみたいだよ」
そういってどこか懐かしそうな顔を浮かべる彼は、父の古くからの友人で、僕にとっては幼いころから知っている気のいいおじさんだった。
「ありがとうございます、今西部長はお忙しいとお聞きしていたのに」
「なに、気にすることはないさ、君のたってのお願いだからね」
「…………ありがとうございます」
「それじゃあ僕はもう行くよ、仕事の最中においしいコーヒーにありつけたしね」
「はい、改めてありがとうございます」
それだけ言うと彼は机の上に千円札を二枚だけ放り投げてそのまま去っていってしまった。
残されたのは僕と、そして机の上に乗っかる数十枚の紙の束だった。
自宅に帰る気力もなかった僕は何の気なしに机の上の紙束へと手を伸ばす。そこから伝わってきたのは、圧倒的なまでの力量だった。
言葉選び、場面の切り替え、伏線の回収。そして、そんなすべてをつなぎ合わせる圧倒的な構成力。たかがメモ程度の走り書きであるはずのそれすらもう僕の自信を奪うには十分だった。
古くからの知り合いである彼の手から渡されたそれは、圧倒的な世界観でもって全力で僕の心を折りに来ていたのだった。
「クッソ……こんなもん貰わなきゃよかった」
何と言うか、自分から言い出したこととはいえこれはないな。そう思わせるほどにその内容はあまりにも綺麗で面白かった。
ページをめくる手が止まってくれそうにない。
その世界は、時を忘れさせるほどに僕をその世界の中に引きずり込んだ。
「……」
数十分後、僕は机の上で苦虫を嚙み潰したような表情を浮かべていた。
「いや、これは違うだろ……」
くしゃり、と紙が潰れる音が響いた。
いつの間にかコピー用紙を持っていた紙に、無意識に力が入っていたようだ。
分からなかった。
言葉の意味がとかではない。
その最後の記述に、僕は何を感じればいいのかが分からなかったのだ。こんなのが物語の終わりであっていいはずがない。
ふと心の奥から湧き出た憤りに、思わず居ても立っても居られなくなった僕はこの場を立ち去るために椅子を引く手にも自然と力が入ってしまう。
「あっ……」
刹那、ふと、背中の方から女性の小さな声が聞こえてきた。
「すいませんっ!」
引いた椅子から伝わってきた感触から事の経緯を察した僕は慌ててそちらに頭を下げる。タイミング悪く僕の引いた先に女性が歩いていたらしく、その方に椅子がぶつかってしまったようだ。
「不注意で申し訳ありませんっ!」
なんというか、間が悪いというか……。思ったようにいかない事というのは、連鎖をすると他人にまで迷惑をかけることになるのか。
「えっと、お気になさらないでください」
そんな僕の元に帰ってきた声は、透き通るように綺麗な音で僕の鼓膜を震わせた。
「椅子ぐらい、ぶつかってもいいっす、なんて……」
見上げた先、ぱちくりとこちらを見つめるその表情に僕ははっと息を飲んだ。別に先ほどのギャグが全然面白くなかったとかそんなことは今は全く問題なくて、それよりもそのギャグを吐いた本人が僕のよく知る人物だったからだ……。
「あ、え、あの……」
「面白く、なかったですか?」
「え、あ、面白かったか面白くなかったかというと面白くなかったんですけどそんな問題じゃなくて、えっと……」
あ、僕今余計なこと言ったな。少し寂しそうな表情を浮かべる彼女を見て咄嗟に自分が口にしてしまった言葉を呪いたくなる。
「高垣……楓……さん?」
「あ、はい……。高垣楓と申します」
きっかけというものは往々にして予想外のところに転がっているものだ。お生憎と僕は神でも何でもないので、こうして目の前に降ってきたきっかけを只今は理解するだけで精いっぱいだったのだった。
「あの……どうかされましたでしょうか?」
宝石のように澄んだ二つの瞳がこちらを見つめている。その輝きに見惚れて、僕はただその景色を見つめることしかできなかった。
これが、僕と歌姫のちゃんとした初めての邂逅だった。
「何、じゃあお前高垣楓と喋ったのか?」
あれから数日後、僕はまた相も変わらずバイト先のスタッフルームで店長と仕事終わりの雑談を交わしていた。
「だから話はちゃんと聞いてくださいよ!別に喋ったとかそういうんじゃないんですって!」
そうなのだ、結局あの後テンパりにテンパった僕はそそくさと机の上の物をカバンにしまい込むと慌ててその場を立ち去ってしまった。
あまりの出来事に情けない程の振る舞いをしてしまったことを後悔した僕はあの日抱いた決意もほっぽり出して布団の中でしくしくと悲しみに暮れたことを思い出した。
「勿体ねぇなー」
ふう、と一息。相も変わらずな煙をぷかぷかとスタッフルームの天井に吹きかけつつ店長は壁の高垣楓に視線を動かした。
「俺なら連絡先聞くとかぐらいするぜ?」
「それは店長だからで僕にはそんなことは到底無理ですって!」
「まー七瀬だからそれはしょうがないか」
職場の上司にしょうがないなんて思われるだなんて普段僕はどんな風に見られているのか不安になってくるな……。
「でもほら、お前ライブ行ったんだから応援してますぐらいは伝えたんだろ?」
「それは……」
恥ずかしながら、そんなことあの時は微塵も思いつかなかったです。
「言ってねぇのかよ……」
「いや、誰だってそうなりますってっ!」
「これだから七瀬は……」なんて呟く店長を他所に僕は帰り支度の為にロッカーから鞄を取り出す。 バイト着を取り出したそれへと突っ込み、財布をポケットに回収し、家の鍵の確認をして、というところであることに気づく。
「あれ……?」
「どうした七瀬~」
「あ、いや……」
気のせいだろうか、鞄の中に乱雑に突っ込んでいたクリアファイルに一切厚さを感じない。気になって取り出してみるとやっぱりその中には”ある”ものが入っていなかった。
どこかで落とした……?いや、ここ数日忙しかったから原稿をカバンから取り出した覚えはない。自宅で開いた記憶もないし他の誰かに見せた覚えもない。
それこそ最後に確認したのはあの日、高垣楓と会った日……。
「マジか……」
「どした、携帯代払い損ねて携帯止まったか?」
「店長じゃないんですから」
「俺はそんなことしねぇよ」
そう言いながら店長は次のタバコへと火をつける。
「そんなことしたら、女と連絡取れないだろ」
あ、確かに。この人はそんなことしないな。
「で、大事なものでも落としたのか?」
ふと、乱雑に私物をしまい込んでいた手が止まった。
大事なもの……。今の僕にとって、あの物語の結末は、大事なものなんだろうか。
「……分かりません」
「……そか」
僕の何の飾り気もない心からの呟きに、店長は小さくそれだけを返した。一瞬、静寂が狭い室内を包む。38歳、雇われ店長の彼にも、もしかして大切なものがあったりしたんだろうか。
大切なものを胸に生きてきたはずなのに、いつの間にか僕らはそんな大切なものの在処を探して日々を過ごしていた。
あの物語の結末も、作者にとっては大切なものだったんだろうか。
それを知る術は、もうこの世には存在していなかった。
あれから数日後、結局あのメモの束は見つからなかった。
まぁ、データは残っているはずだから今西部長にお願いしてデータを送ってもらい、そのまま改めて印刷しなおせば済む話なんだろうが、どうにもその気は起きず今もまだあの物語はどこかに行ってしまったままだ。
そしてこうして今日もまた、あまりいい思い出がないこのカフェへと足を運んでいる。
ちらと壁の時計へと視線を移すと、忙しなく動き回る針が待ち合わせの時間の10分ほど前を指し示そうとしていた。
「お疲れ様、七瀬君」
待ち合わせの人物はトレードマークの白髪と眼鏡を携え、いつもと変わらない柔和な表情を浮かべながらこちらへと小さく右手を振った。
「先日はありがとうございました、今西部長」
「ああ、別に大したことじゃないよ」
僕が彼を”部長”と呼ぶには理由があった。それは、彼こそが大手芸能プロダクション346プロアイドル部門において部長という肩書をつけるにふさわしい地位にいる人物だからだ。
「それで、突然どうしたんです、急に明日会いたいだなんて」
ウェイトレスからおしぼりを受け取り小さく頭を下げる彼を見ながら僕は今日ここにいることについての疑問を尋ねた。
その問いかけに頭を2度ほど小さく掻くと、彼は先ほどのウェイトレスに「アイスコーヒーを」と小声で声をかけるとそのまま僕の対面へと腰を下ろした。
「いやぁ、別に会いたかったのは僕じゃないんだ」
「え、っといいますと……」
「いやぁ、とある筋からあるものを預かっていてね」
そう言って彼はお馴染みの鞄から何やらそこそこに厚みのある紙束を取り出した。
「これを、君にと」
「え、これって……」
「いやぁ、全く。あの子がね、どうしてもというものだから何事かと初めは思ったんだが……。渡された物を見て納得したよ」
そこにあったのは、ここ数日の探し物だった。
別に、見つかって欲しいとは思っていなかったけど、こうして改めて目にする何やら不思議な気持ちになる。
「これ、父のメモ書き……」
「みたいだねぇ」
「どうしてこれを今西部長が?」
「ある人が、君に返して欲しいと」
「ある人……?」
すっかりどこかに落としてしまって、この街のどこかのゴミに成り果てていたものと思っていたのだけれど、いったいどこの親切な人がこれをわざわざ届けようだなんて思ったのだろうか。
「君は、これを最後に見かけた時に誰かに会っていなかったかね?」
あの日は確か……。
「今西部長?」
「いや、僕の後だよ」
「小林さん……ですか?あ、いや、小林さんは電話を入れただけか」
「ん、小林?っというとあの映画事業部のか?」
「あ、今西部長もご存知でしたか」
「あぁ、彼とは面識あるよ。なんでも冬に予定している映画の脚本が決まらないとかで方々に声をかけているみたいだねぇ」
「あ、それです……最近お世話になっているのはそれ関連で」
「ふむふむ」
今西部長は本人曰くプロダクション内でもそこそこ顔の広い人物らしい。仮にも大企業である346プロダクションとはいえ他の部署の人間を知っていてもおかしくはない。
しかしながら今目の前の彼の反応を見るに僕の解答は……。
「ハズレ、ですか?」
「その通り。小林君じゃあないなぁ。君はもっと、その後に衝撃的な出会いを、していると思うんだがねぇ」
思い返せ。あの日の僕は何処で誰に会った?バイト先、店長……?違うな、最後に話したのは小林さんだ。それ以前は今西部長と別れて、このカフェを出て……。このカフェ?いやいやまさか、そんなはずは。でも、もしそれがあり得るとするのならばその人物は……。
「高垣、楓……?」
「ご名答。高垣君が、君に渡して欲しいと頼んできたんだよ」
「いやいやいやいやっ!おかしいですって!」
「ん~?何がそんなにおかしいんだい?」
「だって初対面ですよ?しかも僕は向こうのことを知ってるかもしれないけれど、僕のことなんか向こうが知ってる訳がっ、それにこれは僕のメモじゃ……」
ふと、今西部長が僕の捲し立てる物言いを咎めるかのように右手で話を遮ってきた。
「まぁまぁ、そこまで慌てんでも」
「慌てますよっ!」
「君の言いたいことは分かる。分かるが君はもっと自分の立場を自覚するべきだ」
「自分の立場って僕はそんな人間じゃ……名乗った覚えもないですし……」
思い返せば純情丸出しの対応をしてしまったと思う。女性に慣れていないのがあんなんじゃ丸わかりじゃないか。……記憶が鮮明になっていくほど猛烈に恥ずかしくなってきた。
「何を考えてるのかは知らないけど、ほらここに」
僕の悩みなんか大したことじゃないと言いたげな顔で今西部長は机の上に差し出された紙束のある部分を人差し指でリズミカルに叩いた。
「え、あ……」
そして気づくのだ。その指先にある答えに。
「メモの端っこにご丁寧に名前が入ってるじゃないか」
「あー」と無意識に僕は音にならない声を漏らす。今西部長の指の先、そこには確かに見慣れた名前が刻まれていた。
題名の横に小さな文字で。
七瀬貴臣、と。
これを見て彼女はわざわざこれを僕の元へと届けようと思ったのだ。
「だから高垣君に聞かれたときにすぐにピンと来たよ。どうやって入手したのか聞いたときも君らしいなと思ったものだ」
聞いて納得。あの日高垣楓との突然の出会いにテンパった僕はあろうことか貰ったはずの紙束を丸々その場に置いて立ち去ってしまったのだ。
それをその場にいた高垣楓氏が持ち帰り、とりあえず事務所内で伝手のあった今西部長に持ち主の元に返してもらえないかとお願いしたというところだろう。
「そういうことでしたかぁ……」
「よかったよ、君の大事なものをちゃんと届けることが出来て」
ふと、コーヒーを口元へ運ぼうとしていた手がピタリと止まった。事の経緯が把握できたことに安心しきっていた僕の体に再び小さな緊張が走る。
「それは……」
「おや、違ったかね?」
思い返すのは、先日の店長とのやり取りだった。あれから何度考えただろうか。あの物語の結末はあれでよかったのか、それとももっと他のエンドがあったんじゃないか。
僕は、あの結末に納得できないでいた。
「それは、そんなに大切なものじゃないんです」
「そうなのかい?でも君は知りたがってたじゃないか」
突然の僕の言葉にも今西部長はその柔和な表情をピクリとも動かすことはなかった。
「今西部長は、そのメモの内容に目を通されましたか?」
「ああ、通したとも。自慢じゃないが、世界で初めてこれを見たのは僕だと思っているよ」
そう言ってニッコリ笑う彼をみて、彼と父との関係の深さを改めて感じた。
きっと父は、ふっと湧いて出たこのアイデアをいち早く今西部長に見せたのだろう。
「僕は……そのメモの最後に書かれていた物語の結末が好きではありません。ずっと想いあっていた二人の最後が、あんなのなんてあまりにも悲しすぎます」
「君がそう思っているのは構わないけれど、その物語は君だけの物語ではないということだよ」
「……どういうことです?」
彼はそのまま立ち上がると千円札を二枚机の上に広げた。
「ちょ、待ってくださいよ今西部長!」
「すまないね、すぐに会社に戻らなくちゃいけなくて」
「今の話もっと詳しく聞かせてくださいよっ!」
出入り口の取っ手に手を伸ばしかけた彼の手がピタリと止まる。
一呼吸。肩越しに彼と視線が合う。
自分がはっと息を飲むのが分かった。
「少なくとも、彼女はその物語が好きだ、と言っていたけどねぇ」
それだけ言い残すと彼はそのまま店の外へと姿を消した。
「好きって……」
僕の視線は店の出入り口から机の上の原稿へと移る。
無意識のうちに視線は原稿の文字をなぞる様に追っていき、彼が血反吐を吐きながら文字へと書き起こした風景が頭の中に浮かんでくる。
そこに居たのは一人の女性とそれを見送る一人の少年。
その物語の結末は――。
「だってこれは……」
父、七瀬貴臣の遺作は、僕にとってはあまりにも悲しい結末だったからだ。