店長との会話から数日経ったある日のこと、月があまりにも綺麗な夜に僕は美人を捕まえていた。
いや、誤解なくありのまま起こったことを口にするなら、僕は美人に捕まっていた。
「七瀬君、月が綺麗な夜ですね」
そんなことをぼそりと呟きながら、彼女は橋の欄干から空を見上げていた。アッシュグリーンのボブカットが夜風にふわりと掬われ、時折彼女のうなじをさらりと攫って行く。碧と翠の二つの目が東京を照らす夜の光をその目に宿して煌めいていた。彼女には不似合いな右手に握られた500ミリの缶チューハイでさえ、その場においては彼女を作り上げる工芸品の一部を担っているかのようだった。
「はい、綺麗ですね」
ポツリ、僕はそんな彼女を目にした素直な気持ちを口にする。触ろうと思えば触れる場所、距離にして五十センチほどだろうか。そんな場所にいるのに、その存在はどこか非現実的に思えてしまう。
まるでスクリーンの向こう側にいるかのようだった。
視線を、時間を、そして心まで奪い去ってしまった彼女に向かって僕は静かにこう続けるのだった。
「でも、今の僕にはまだ手が届きそうにはありません」
僕の小さな呟きに、彼女はどこか満足そうな表情を浮かべる。それが僕への期待なのか、それとも一種の諦めなのか、手の届かない場所に居る彼女の気持ちは分かりそうにはない。
月明かりに照らされたその人に出会ったのは、346プロの建物からほど近いとある陸橋の上だった。先日新人アイドルのラジオの短いコーナーの脚本を任された僕は、その簡単な打ち合わせと顔合わせを兼ねて346プロを訪れていた。彼女に出会ったのはその帰りのことだった。
「あら、あなたは……」
僕が見つけた時、彼女は橋の上からどこか遠くを見つめていた。僕の近づく足音に気づいたのか、彼女は少しだけ驚いた表情を浮かべるとその顔をちょっとだけ嬉しそうに崩す。向こうが気づかなければ知らないふりをするのも吝かではなかったのだが、バレてしまっては流石に無視するのも気が引けた。
そんなこんなで一瞬の葛藤の後「こんばんは、高垣さん」なんて面白みもない第一声を発しながら僕は彼女の元へと近づいていくことをしぶしぶ選んだのだった。
「こんな夜中にお一人ですか?」
時刻は既に十二時をとうに回っており、東京をぐるりと囲むように忙しなく走っているその日最後の電車が北に向かって姿を消した。
「たまには、こんな夜もあります」
そう言って彼女は右手の缶チューハイを小さく振ると、カシュッという小気味のいい音を合図にそれに口を付ける。
「七瀬君はどうしてここに?」
「346プロにちょっと用がありまして……」
「そうですか」
「まぁ、せっかくのお仕事の依頼だったものですから……。それにしても高垣さんもお一人ですか?深夜に女性のお一人は危ないですよ」
「あら、ご心配してくださるんですか?」
「もちろんですよ、高垣さんは有名人なんですから」
「有名人……」
ふと、月に照らされている彼女の横顔が、一瞬曇ったように見えた。
「私は……」
彼女が見上げる空は、雲一つない綺麗な星空だった。東京の空だというのに柄にもなく空のキラメキが見て取れる。
そんな空の下で、一つ、ポツリと雨が降っている。
「高垣さん……」
何と言葉をかけていいか分からなかった。思わず、彼女の名前だけが僕のどうしようもない感情よりも先に音になる。それ以上の言葉の紡ぎ方なんて分からないくせに。
「七瀬君、月が綺麗な夜ですね」
そして彼女は冒頭の台詞を呟くのだ。
その頬を伝う一滴の理由を、貴女だけの世界の奥にしまい込んだまま。
舞台はとある王国の港町セレツィア。国でも有数の交易の拠点であるその街のとある外れ、そこではとある一家が農業を経営していた。その農家の長男であるカインの日課は毎朝バイオリンを弾くこと。
小さいころに読んだ絵本に憧れて、無理を言って父に買ってもらったそれを毎朝欠かさず彼は誰に聞かれることなく弾き続けるのだ。
彼のもう一つの楽しみは、街に朝一で取れた新鮮な野菜を売りに行くことだった。市場で新鮮な野菜を卸し、馴染みの厩に餌用の野菜を渡す。そしてそんな彼が最後に辿り着く先は、海に面したとある酒場であった。
父と娘、そして数人の従業員で経営されているその酒場は、海の男たちはもちろん沢山の行商人達で賑わい街中でも有数の評判の酒場となっていた。
そんな酒場の名物は、港で水揚げされた新鮮な魚料理、そして看板娘であったシンシアの歌声である。
彼女は毎晩酒で盛り上がった客たちを相手に、酒場に作られたステージの上でその美声を披露していた。父ジョシュアの伴奏と共に華麗に歌い上げられる彼女の歌に酒に酔った彼らはより一層酔いしれるのであった。
そんな看板娘である彼女と言葉を交わすことが、カインが街に野菜を売りに行く一番の楽しみだったのだ。
いつか自分の伴奏で彼女に歌を歌って欲しい。それが、カインの密かな夢だった。
自分より少し年の離れたシンシアは、まさにカインの憧れの女性だった。彼女の美しさに魅かれ、優しさに魅かれ、そして何よりその歌声に心奪われた。
そしてシンシアも、自分を慕ってくれるカインに少しずつ心を動かされていくのだった。
しかし、そんな彼らの間に転機が訪れる。
偶然街を訪れていた国お抱えの劇団の団長が、シンシアの歌に魅かれたのだ。
「もっと広いステージで、もっとたくさんの客の前で歌を歌える」。そう口にした団長の言葉が、シンシアの耳からは離れてくれなかった。今はもうここにはいない母から教えてもらった歌。シンシアにとって、歌は命の次に大切なものだった。そんな歌と今まで以上に深く付き合っていけるということが、シンシアの心を掴んで離してくれなかった。
結局、シンシアは悩みぬいた末に首都へと向かう。王国お抱えの劇団で、歌姫として更なる高みを目指していくことを選ぶのだった。
そんな彼女に、結局カインは最後まで自分の心情を明かすことはなかった。
彼女の夢を誰よりも後押しするためには、自分という存在は邪魔になるだけだ。だって自分は、彼女の歌に何よりも魅かれたのだから。
その後カインは、誰にも知られぬままセレツィアの街を後にする。抱えたものは、わずかな身銭とバイオリンのみ。
彼は歩く。いつか彼女の一番近くで、その歌声を聴くことができるように。願わくば、その歌声が、自分のバイオリンの音と共に、この世界に響き渡る様に。
そしたら伝えよう。自分の気持ちを。
貴女を、心から愛したことを。
机の上に広がったそれは、簡単に要約するとそんな話だった。
帰宅してすぐに父のメモを読み直した僕は、そのまま机の上に突っ伏したまま父が最期に遺した話を思い返していた。何と言うか、着地点に納得したくない話だと思う。好きなら好きだと言えばいいじゃないか。それを適当に誤魔化して、何かと言い訳をして、結局はシンシアのことを想い続けているだけ。
そんなの、あまりにも寂しすぎる。
「彼女達の選んだ生き方に憧れていきたい……か」
無意識に僕の口を付いて出たのは、先日別れ際に高垣さんが発した言葉だった。
彼女はこの結末が好きだと言っていた。あの吸い込まれるようなオッドアイには、もしかして僕とは違う物語が見えていたのだろうか。もし、その世界を共有できた時、僕も同じように愛せるだろうか。この生き方を選んだ彼らを。
カサリ、と小さな音を立てて僕の右手はメモとは別のA4用紙を掴み取っていた。先日高垣さんが去った後、今西部長は一枚の紙をこちらへと手渡してきていた。僕の無意識は、まるで僕の背中を後押しするかのように右手をその紙へと伸ばしている。
知りたい。彼女が見ている世界を。見たい。彼女と同じ景色を。触れたい。何よりも、同じ一人の表現者として、あの作品の奥に秘められた世界に。その衝動が、僕を前へと強く進めようとしていた。
先ほどの無意識は、今度は明確な意思をもって僕の右手を動かした。
充電器のケーブルを手繰る様に引き寄せるとその先に刺さったままのスマートフォンのロックを外す。何度もやり慣れた動作で電話帳を開くとこれまた見慣れた名前を探し、迷いなく表示されたプッシュボタンを押し込んだ。
「やぁ、七瀬君」
二、三度程の短いコール音の後に、声が電話越しに聞こえてくる。
「夜分にすいません、今西部長」
「こんばんは。この前会って以来だね」
「そうですね。それで、お願いしたいことがありまして……」
「その口ぶりだとあれかい、決めてくれたかい?」
スマートフォンを握りしめた手に自然と力が入っていることに気づく。全く、こういうのはガラじゃないってのに。
「ええ、先日お話していただいた写真集の撮影の件、お手伝いさせていただけないでしょうか」