「お疲れ様です」
「おう、お疲れ様。そんじゃあの辺の機材適当に車に乗せといてくれ」
撮影が終わったのはまだ太陽が丸々水平線の上に姿を残している午後六時過ぎのことだった。夏場の日は子どものころから何一つ変わらない長さで、日差しが辺り一面をオレンジ色に染め上げているその光景はどこか幻想的な雰囲気を醸し出している。
大崎さんに言われたままに荷物をレンタカーの後部座席へと押し込みながら昼間のリエさんとの会話を何となく思い返す。
結局このロケの間、僕はこれといって確証を得ることが出来ないでいた。
高垣さんの見えている世界。そして父が見てきた世界に手を伸ばしたくてここへ来た。しかし、今もその世界の光景は背中すら見せてくれない。
店長はその世界を”羨ましい”と表現した。今は何となくその気持ちが分かるような気がする。僕の知らない世界は、あまりにも僕にとって綺麗すぎた。
「七瀬君」
そしてその綺麗すぎる世界の一部は、その世界にぴったりの音色で僕の名前を呼ぶ。
「どうしました、高垣さん」
「海がとっても綺麗ですよ。夕日に照らされて真っ赤。荷物を積み終わったらちょっとだけ眺めてみませんか?」
そういって視線の先の高垣さんは展望台の柵にちょこんと寄りかかりながら僕の方へと手招きをする。そんな仕草に誘われるように僕の足は彼女のもとへと向かっていった。
「ちょっとだけ、お話がしたくなったものですから」
「僕なんかでよければお付き合いしますけど……。高垣さんが楽しめるような話題が出来るかどうか自信はないです」
「楓」
「あ……えっ」
ふと、高垣さんがぷぅと頬っぺたを膨らませながらこちらへ不満そうな表情を向ける。
「何かご不満ですか?」
「ご不満しかありません。親しい友人はみんな私のことを楓って呼んでくれます」
「……僕にもそう呼べとっ!?無理ですよっ!第一僕は高垣さんと親しくなってそんな日が経ってる訳じゃないんですからっ!」
突然のことに困惑する僕。今回のロケだって彼女とまともに言葉を交わした回数は少ない。僕が親しい友人に含まれるかと言われればそれは当然ノーだろう。
第一、年上の綺麗な女性を名前で呼ぶというのは僕の人生経験上初めてのことな訳で……。
「……」
ちらと顔色を伺ってみるものの相変わらずその表情が変わりそうにはない。
このままだと延々と時間が過ぎていくだけなのだろう。言葉にできないその雰囲気に僕は根負けしてしまい、意を決してその名前を口にする。
「……楓さん」
「はいっ!」
なんて嬉しそうな顔で笑うのだろうか。名前を呼んだのはこんな僕だというのに。
まるでステージの上から客席に向かって投げかけるような笑顔でこちらへと微笑む高垣さん、改め楓さん。彼女の後ろに広がる広大な海に乱反射するオレンジの光がより一層その姿を惹き立てる。その光景が僕にはまるでサイリウムの波の中に佇むかのように見えてしまい込み上げる言葉にならない思いが体中を駆け巡っていった。
「楓さんは……」
楓さんは、僕の知らない向こうの世界からこちらを見ている。手を伸ばせば届く距離なのに、心は何処までも遠くに感じた。
「楓さんには、どんな世界が見えているんですか……」
問いかけでも何でもなかった。きっと僕はそのどうしようもないやるせなさをどうにか吐き出したかっただけなんだろう。生きる世界が違う。なんていう言葉は陳腐に聞こえるかもしれないけど的確だ。今目の前に広がる世界は、僕の十九年じゃ埋まってくれそうにないほど深く遠い。
そんな僕の両手がふと、見知らぬ温かさに包まれるのが分かった。
真夏の気温のせいではない。ましてや熱いものを急に握りしめた訳でもなかった。
いや、僕は知っていた。この熱は――体温。
「ステージの上っていうのは」
楓さんはそっと僕の両手を自らの二つの手の平で包み込みながら静かに水平線の彼方を見つめていた。
「いつだって知らない世界です」
言葉を探すように、その口からは美しい音が紡がれていく。
「三万人以上のドーム、百人にも満たないライブハウス、デビューしてすぐは地域のお祭りの舞台にも立ちました。見てくださったのは、十人ほど。そのどれもが、私の知らない世界でした。私はあの、恥ずかしながら同僚から時折抜けてるって言われることもありまして、おまけに酒癖も悪いみたいです」
そう言って楓さんは照れ臭そうに笑った。それでも、音を紡ぐ口が閉じられることはない。
「そんな私にとってステージの上っていうのは、私が私でいられる場所なんだと思います。新しい世界を求めて、私はステージに立ち続けていたのでしょう。写真でも、映像なんかでもなく、この二つの瞳でそんな世界を見に行きたくて私は、歌ってきました」
もしも、世界の音に色がついているのならば、それはきっと楓さんと同じ瞳の色をしているのだろう。初めて彼女と出会ったとき、僕は切にそう思った。
今ははっきりと違うと言える。あの色は、彼女の目を通してみた色。僕らが見ようとしていた世界の色は高垣楓という二つの目を通して感じた世界だったのだ。
「七瀬君は……」
ふと、先ほどまで饒舌に語っていた彼女の言葉が詰まった。
見ればその二つの瞳は何処か悲しそうな色を含んでいる。
「楓さん……?」
恐る恐る声をかけてみるがその色が消えることはない。
「な、何でもありません。ごめんなさい、ふと吐き出したくなっちゃいました。アルコールも入ってないのに私ったら」
「い、いえ、そんな僕なんかでよければまたいつだってっ……っ」
誤魔化すように先ほどまでの見慣れた笑顔に切り替える彼女を見てチクリと胸が痛んだ。彼女の生きている世界を、僕は知らない。でも、それを分かっていながらそんな世界を知ることができない自分の無力さがただただ今は痛かった。
彼女のために自分が出来ること。彼女の世界に手を伸ばす方法を――。
楓さん。今あなたの頬を伝う涙を、僕はどうやったら拭えますか?
「どうだったか、この三日は」
伊豆大島から東京へと戻った日の空は昨日とは打って変わってどんよりとした雲に覆われていた。事務所へと今回の撮影で使用した大荷物を運びこんだ僕はというと今は346プロダクションの入り口で大崎さんと軽い雑談を交わしている。
「まぁ、大変でした……力仕事は慣れていないもので」
「そーだよな。ま、また機会があったら声かけてくれよ。バイト代は弾むぞ?」
そう言っていやらしそうに右手の指で小さく丸を作る大崎さん。彼の言葉通り今回のバイト代はいつもの僕の稼ぎじゃ到底届きそうにないほどに美味しかった。まぁ、これは多分今西部長からの口添えも多少あるんだろうけど……。
「その時はぜひ、お願いします」
「ま、その時は……別の子になるかもしれねぇけどな」
ぽつり。今にも雨が降り出しそうな空模様よりも先に、大崎さんの口から冷たい言葉が零れた。
「七瀬君」
ふと、大崎さんが僕の名前を呼ぶ。
見れば彼の眼はこの三日間で見たこともないような真剣な眼差しをしている。
「高垣楓は、今やどんなトップアイドルや歌手にも引けを取らない歌姫になった」
「はい、僕もそう思います」
彼女の声を初めて生で耳にした時から、僕はずっと高垣楓という世界の虜だ。
「十二時の鐘が鳴る時間が、来たんだろうな」
物語には必ず終わりが訪れる。
昨日の楓さんの涙の理由は、何となく想像がついていた。もし僕という存在が、そしてこの世界そのものが高垣楓という物語の虜なのならばその物語の行きつく先は、その世界が最後に見せる景色は、いったいどんな結末なんだろうか。
悲しそうな、悔しそうな、それでいてどこか満足した表情を浮かべる大崎プロデューサーの顔が、眠りにつく直前まで僕の脳裏にこびりついて消えてはくれなかった。
『ええ、ぜひとも永迫選手には次代の日の丸を背負うエースになってもらいたいですね』
あれから二週間が経った。
僕の日常はいつも通りの光景へと戻りバイト先と自宅の行き来、そして空いている時間はパソコンに向かって原稿の執筆と代り映えのしない日々を送っている。
テレビからは聞き慣れたキャスターの声でニュースが流れ特に関心もない音だけが狭い僕の巣の中に虚しく響いていた。
『それでは次は芸能コーナーです。いやぁ、まさかって感じですよ。僕も朝から驚いてしまいました』
しかし、世界はいつも通りを許してくれることはなく、僕の世界も少しずつ変化を強いてくる。
『高垣楓、アイドル引退。いやぁ朝から様々な新聞の一面を飾りましたこちらのニュース、驚きでしたねぇ』
右手に握りしめた携帯電話に無意識のうちに力が入る。
画面にはついぞ閉じることができなかった大崎さんから送られてきたメールが表示されていた。受信時間は昨日の午後十時過ぎ。きっと彼もこのメールを送るのに躊躇したに違いない。
僕へと連絡をくれたのは僕を信頼してのことだったのか。それとも、彼なりの僕への義理立てみたいなものなのかもしれない。ベッドの上には、先日大崎さんから手渡された写真が可愛げのない写真立てに収まっていた。
あの時の言葉も、表情も、きっと彼はこうなることを知っていたが故のものだったんだろう。
”アイドル”であった高垣楓の物語。それに僕が触れられるように大崎さんは気を遣ってくれたのかもしれない。それなのに、僕は……。
『それでは、次の芸能ニュース。続きましては韓国で大人気の三人組アイドルグループがついに』
リモコンのボタンを乱雑に押し込みテレビの音を消す。壁掛け時計の針はバイトの時間まで一時間を切っている。
机の上の自転車の鍵へと手を伸ばすと僕は飛び出すように家を出た。
その後のことは、よく覚えていない。
無心で自転車をこいで無心でドリンクを作った。無心で飲食物を運んで無心でオーダーを取った。
意識をするときっと思い出してしまうからだ。
あの時の楓さんの笑顔を。
あの時の楓さんの涙を。
僕の知らない世界で、僕の知ることのできない悲しみを抱えるあなたを、とてつもなく想ってしまう。