鬼の手先として一心の無意識領域へと侵入した青年はゲッカビジンの花道に誘われ歩き続けている。沼という歩き難く凡そ歩いた経験のないであろう青年にとって苛立ちしか感じないのか最初はその歩みは強く大きかった。だが、進めば進むほどにその足取りは重く小さくなっていく。
この青年の在り方であれば苛立ちで足を止めかねないというのにその足は重く小さくなれども歩き続けている。
果たしてどれほど歩けば辿り着くのだろうか。今までこんなにも長く無意識領域を歩いた事があるだろうか。
わからない。わからない。わからない。
それでも恋人との夢を見る為に青年は歩き続ける。
グチュリッ
グチュリッ
グチュリッ
彼らは蠢き続ける。這いずり回る。何処までも何処までも。
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「一心。最近はどうだい?」
「ええ、まあ、それなり……ですかね」
茶の間で一心は義父と二人きりで卓袱台を挟んで茶が入れられた湯呑みを片手に談笑をしていた。
山の麓で狩人として生活している義父と街で大切な人たちと一緒に暮らし生活している一心、子供の時のようにずっと二人で山を駆けて狭い小屋で暮らしていた思い出を反芻しながら互いに今を話す。
「仕事先の御子息がとても地頭が良くて、何れ俺が教える事は無くなるんじゃないかな?とまあ、冷や冷やしてますよ」
「ハハっ!そうかそうか、それは何ともまあ大変だ」
「笑い事じゃあないんですがね」
自身の仕事が無くなるのではないか、と冗談めかして言う一心に義父はカラカラと笑いそんな義父に実際問題なかなか冗談とは言い切れない現実に一心は苦笑しながら茶を口にする。
「それで?先生の方は最近どうなんですか?」
「ん?私かい?……そうだな、私はまあボチボチかな?」
今度は一心からの質問に対して義父は目を細めながら茶を飲み、誤魔化すようにカラカラと笑いながら答える。それに対して一心は半笑いしながら、話を促す。
そんな一心に義父はまた笑いながら眼鏡の位置を動かして答える。
「まだ冬に入ったばかりだからなぁ……冬眠前の大物を何とか仕留めてはいるよ。ああ、そうそう。この前はとびきりデカい熊が出てね、いやはやとても大変だった」
「熊か……まあ、先生の腕なら簡単に仕留められたんでしょう?」
「ハッハッハ!まさか!流石に私もあの大きさの熊は簡単に仕留められないさ!」
まるで一心がおかしな事を言っているかのように義父は大きく笑い、それに対して一心はしばしその表情を固まらせた。
いったい、何を言っているのだろうかこの人は。
自分の知っている先生ならば熊程度の獣など容易くその首を一太刀で刎ね飛ばしてしまうだろうに。
─────ァ?
そこまで思考が回って、ようやく一心はその表情が動いた。そして、自分がつい数瞬抱いていた疑問が何処か、湯気を掴もうとしたかのようにするりと頭の内から消えていった。だが、ジクリ、と頭が痛んだ気がした。
「そうですね……それで?結局どうなったんですか?」
「まあ、あの巨体だからなぁ。腹が減ってたのか、三町はあるのにコチラに気づいた途端私に走り出してきてね……いやぁ、私の知ってる熊の比じゃない速さで」
「良くもまあ、五体満足でいますね」
「それは確かに。子連れで気性が荒い熊なら私も手は出さず落ち着いてその場を離れるけどあの熊はもう最初から私の事を食べる気しかなくてね……距離を何とか取りながら脚をとにかく狙って……」
笑いながら苦労話を喋る義父に一心は大変だったのだな、と共感しながら義父が五体満足で傍から見て目立つ大きな傷を拵える事がなかった事に安堵の息を漏らし、そして痛む頭を無理矢理に抑え込む。
無論、頭痛に対し義父が気付かぬように表情へ出さずに。
と、そんな最中に玄関が開く音が廊下から茶の間へと入り込んでくる。
「おや?」
「しのぶが帰ってきたんでしょう」
「おお、そうか……と、もうこんな時間か」
玄関の音の主がもう一人の家族であるしのぶだ、と一心はアタリをつけて首を傾げた義父へと伝えれば義父は納得したように何度か頷いて部屋へと差し込む緋色の陽光にそろそろ帰ろうと腰をあげる。
故に一心も義父を見送っていこうと腰をあげて、茶の間の戸が開かれた。
「あら、もう帰るんですか?」
「遅くなると夕餉の準備も遅れるからね」
茶の間を覗く割烹着に着替えたカナエの言葉に義父はそう答えればまるで丁度いいと言わんばかりに手のひらを合わせてカナエが微笑む。
「なら、今日は泊まっていってください。流石に私たち三人だけじゃあ貰ったあの鴨は食べきれませんし」
「んん?いや、流石に家族水入らずの団欒を邪魔するわけには」
「先生も俺の家族でしょうに」
カナエの提案に渋る義父を後押しするかのように一心が腰を下ろして茶を飲みながらそう言えば義父は考え込むように表情を歪め、カナエは思わぬ援護に一心へ視線を向け満面の笑みを浮かべる。
そんな彼女の表情に一心は気恥ずかしいのか、顔ごと視線をカナエからズラして湯呑みを傾ける。
そうして、もはや泊まりは確定だろうという中ではっ、と義父は顔を上げた。その様を一心は視界の端に収めながら、果たしてどんな言い訳を考えついたのだろうか、と卓袱台に肘をつき拳に顎をのっけながら事を見守る。
「ほら、しのぶちゃんが嫌かもしれないだろう?流石に突発的で────」
「私は別に構いませんよ」
考えついた言い訳を口にした途端に、言い訳に使った張本人がひょっこりとカナエの脇から顔を出して義父の言い訳を崩してみせた。
あまりにも息のあった掛け合いに一心は思わず笑ってしまい、バツが悪そうに義父頬を掻きながら苦笑し、そしてもはや確定したことにカナエは再び満面の笑みを浮かべた。
「それじゃあ決まりね!」
「姉さん、今日はなんなの?」
「先生が持ってきてくれた鴨だよ。それと生姜の佃煮もある」
笑いながら、一心は腰をあげてそのままカナエの横を通り廊下へ出る。
夕餉の内容を聞いてくるしのぶに一心は軽く答えつつ、荷物を自室に置いてくるように促して台所へと一足先に向かっていく。
幼少期から義父と二人で小屋に暮らしていた一心にとって料理というものは出来て当たり前であり、何より家族と一緒に並んで料理を作るという事が彼にとって何よりも幸せな事であるから、茶の間で待っているつもりなどさらさらないのである。
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──────青年はもはや、歩くことは出来なかった。
ゲッカビジンに誘われ、歩みが重く小さくなってからしばらくして漸く青年はそれを見つけた。ゲッカビジンが狂い咲く丘という到底理解し難い、いや理解しようという事すら本能が警鐘をけたたましく鳴らすような世界、その中心にある一番高い丘の上で雄々しく聳え立つ白い花をその枝々の先に爛漫と咲き誇らせた異様な大樹。
青年は大樹を見つけた瞬間にそこに一心の精神の核が存在していると理解した。
故に早く夢を見る為に、重い足を動かして青年は走り始めた。
だが、どれほど走ろうとも進もうとも、確かにそこに、遠くても五町程度の距離しかないだろうにも関わらずまったくその距離が縮まらず、そもそも自分が本当に走っているのか、歩いているのか進んでいるのかすら分からなくなって青年はその足を止めた。
まるで青年を見下ろしている大樹がお前の夢は何処にもないとでも言っているかのようなこの状況に心が折られかけていた。
もはや何もかもを諦めるしかない、心が折られた青年はその場に膝をついて手をつき頭を垂れる。
グチュリッ────
そんな音が自分のすぐ下から聴こえた気がした。
青年が閉じていた目を開け、自分の下、すなわち地面を見ればそこには丘でありながら先程まで歩いてきた地面のように沼地のようなものが広がっていた。
泥沼に咲くスイレンの変わりに咲き誇るゲッカビジンと言うべきであるがそれは何も関係がない。丘であるのに沼地のようになっている事も今は関係がない。
関係があるとすれば、ただ一つ。
「ぁ…………」
その沼が赤く、黒く、そして何よりもそれが鉄臭さを帯びているということだけだ。
青年がこの沼を形成しているものが水や泥などではなく血であると理解するのに数秒かけ、その事に反応するのが更に数秒───────
「ヒッ!?」
その数秒で沼は蠢いた。
血の沼に潜んでいた彼らは蠢き這いずり、青年の身体に絡み付く。
青年はそれらに気が付き立ち上がって腕や脚を這い登るそれらを叩き落とそうとして暴れる。
「なんだこれ!なんだこれ!!!」
例えばそれは蛭。例えばそれは蛆。例えばそれは馬陸。
そして、蜈蚣。
夥しい程の数の虫たちが血の沼から這いずり出てくる。まるで何ヶ月も何も口にしていなかったかのように青年に這いずり回る。
叩いても叩いても暴れても暴れても彼らは青年に集り続ける。それもそうだろう、彼らは皆青年の足下で広がっている血の沼から這い出てきているのだから。
故に青年は走り始めた。折れていた心を奮起させ、少しでも少しでも早くこの無意識領域から、一心の世界から抜け出す為に大樹に向かって走り始めた。
早く早く早く、とこのまま気を失ってしまえばいいのに青年は走る。他人の夢の中で死ねばどうなるかはわからないと言えども、まだ意識がなくなる方がマシだと言うのに走る。
その眼は血走り、何か見てはいけないものを見たかのように目を逸らそうとして、同時に大樹から目を離す事が出来なくなっていた。いや、もはや目が離せない所ではない、何時からか青年の中で自分の夢を見ることよりも生き延びることよりも大樹に辿り着きたいという何か執着めいたものが広がっていた。
嗚呼、それはさながら虫の足掻きのようだ。
大樹に取り憑かれ妄執の念すら抱き走る青年と幸せな夢に揺蕩う狩人を赤い月が見下ろしていた。
───けれど、けれどね。 悪夢は巡り、そして終わらないものだろう