血反吐を出して、男は起き上がる。窓から見える夜空には血の様に赤い月が登り、空はまるで青褪めたかのように異様な光景が広がっていた。
理解出来た。漸くその頭にかかっていた煩わしい靄が掻き消え、脳はハッキリとし、その瞳はしっかりと現実を捉えることが出来た。
そして、だからこそ頭が痛く疼き煩かった。
どうしようもなく、どうしようもなく、意図的に閉じていたモノまで開き、夢現のさなかであるというのに今すぐにでも発狂してしまいそうな程に自分の中にあるソレが蠢いていた。
それでも尚、男はそれを抑えながら布団より抜け出し立ち上がる。
息を吐きながら、血を垂らしながらその視線を自分が寝ていた布団の隣に敷かれた布団に寝ていた女へと向ける。下らなかった。吐き気すら感じた。気色が悪かった。
「夜にありて迷わず、血に濡れて酔わず
名誉ある鬼殺の狩人よ
鬼は呪い 呪いは淀み
そして君たち鬼滅の刃とならん」
血が沸き立つ。
淀みが蠢き、虫が這いずり回る。
知らないが理解している自分の中に流れる血が、この夢を殺し尽くせと囁いているのを感じた。あまりにも常人では理解する事も納得する事も出来ない自分のモノから発せられる狂気的な命令に黙して男は応えた。
あまりに唐突なこの変化を男は理解はしていない、だがこうなる理由があるというのは納得していた。さながら踏み込んではいけない部分に土足で誰かが踏み荒らしているような気分ですらあった。
事実、既に汚物たる鬼の手先が、人面獣心の者が男の無意識領域へと侵入していた。故の反射、反応なのだろう。
「────ン」
廊下から響く硬質な足音に男は女から視線を切り、襖へと視線を向けた。それと同時に鳴り響いていた足音は襖の前で止まり、ゆったりと襖は開かれていく。
そこにいたのは人影だ。
明かりなど窓から差し込む月明かりだけだからなのか、それともこれが夢の世界だからなのか、純粋にそういう存在だからなのか。その全容がとんと分からない。曖昧にだが情報は分かりはするが。
洋装、憲兵に近いようなそれに金髪の異人、その手には身の丈ほどはあろう武器が握られていた。子供の身長程はあるだろう柄の先に取り付けられた複雑な紋様が刻まれた大きく厚めの円盤。だが、ただの円盤ではあるまい、円盤の側面部には二列の刃先が並んでおり、何処かノコギリを思わせる意匠である。
無論、その武器に目が惹かれるが何よりもその武器を目立たせているのはその刃先でも紋様でも形状でもなく、その武器に付着している赤い液体だ。
男にとってそれは見知ったモノ。臭いも嗅ぎなれてしまった、その為それがなんなのかは容易く理解しいったい誰のものかも自ずと理解出来た。
「…………」
互いに何も語らず、ただただお互いの内を見続けていた。
少なくとも敵意は無いのだろうが、だからといって目の前の人影が安全な存在とは限らない故に警戒しながら一歩踏み込み───────
─────視界がひっくり返った。
青年は血の沼に足を取られ横転したのだ、と理解しすぐにでも起き上がろうとしたが仰向けた視界に映る白い花を咲かせた木の枝々に瞠目し、気づけば血の沼による不快感も夥しい虫たちも消え失せていた事に気がついた。
何処か静寂さすら感じさせる空気に、先程までの恐怖と焦りはなんだったのかと言わんばかりに落ち着きを取り戻してゆったりとした動作ながらもその場から立ち上がる。
顔を上げ、もう目と鼻の先程にまで近づいた大樹を見る。
赤い月が爛々と輝き、青ざめた夜空が広がり、まるでこの世のモノではないかのような白い花々が枝々に咲き誇るその姿は何処か異様さを感じさせる。
そんな大樹の根本。
そこには確かに精神の核が存在していた。
悠々と浮遊するその核はこのおぞましく疎ましい狂気すら感じさせる無意識領域に置いて、あまりにも清々しい。
穢れを知らぬかのように翡翠色の輝きを保つそれに青年は触れようと手を伸ばすも、無意識領域がそれを拒絶するように大樹や地面から蔦が伸びて触れぬように網を作り出す。そんな反応に青年は苛立ち、蔦を引きちぎろうと蔦を掴み────
「貴公、挨拶もなくそれはないだろう」
そんな耳もとで囁かれた女性の言葉に青年は勢いよく振り向いて、気がつけば視界が空高く飛んでいた。
目まぐるしく視界が変わっていくさなかに青年が見たのは首から上の無い自分の身体とそれの前に佇む一人の人間を見た。
落ちていきながら、その人間を見ていればだんだんとその全貌が分かっていき、そうしてようやく理解した。
嘗て生家で見た事があった西洋の人形が着ていた洋服に何処か似通った様な服装を着込みその手にはおおよそその風貌には似合わぬであろう大鎌を持ち、空いた手で鉄か何かで出来た穴の空いた桶のようなモノを持った白髪の女。
そんな女が落ちていく青年の首を見ながら、微笑んだ。その姿を見て、青年は首だけとなりながらも自分の頭を掻きむしろうとしたが自分の首から下は繋がっておらず現実から逃避することは出来ない。
女を見ているとまるで頭の中、脳が何かにこじ開けられそうな拓かれそうな感覚が襲いかかり、ようやく青年は自分が死んだ事に気がついた。
「やれやれ…………勝手に入って勝手に消える、か」
誰もいなくなった丘で女はいつの間にかにそこにあった車椅子へと腰掛ける。膝の上に片目だけ穴の空いた鉄兜を置いて、女は疲れたように何処か楽しげな様に呆れた笑みを浮かべる。
女はこの山村一心の無意識領域とは関係の無い存在であった。と言っても、決して全くの無関係ではないが、それでも一心は一度もこの女とは出会った事がなかった。
だが、女は一心を知っている。
女は一心の事を把握していた。それもそうだろう、もはや自分と一心のたった二人しかいない『連盟』の同胞なのだから。
今回はたまさか波長が合っていただけに過ぎず、そしてコレが人外による夢を介してのモノであったから。そんなたまたまで女はこうして一心の無意識領域に陣取っていた。
事実、この無意識領域の光景のほとんどが一心由来のものではない。あってもせいぜい虫が溢れ出る穢れた血沼とゲッカビジンが狂い咲く花畑程度だろう。それ以外は全て、女と一心に流れる血の影響と言っていいだろう。
女は微笑みながら、極東で一人狩りの夜を駆ける同胞、一方的に弟の様にも思っている男の末路に思い馳せながらまるで靄か霞、はたまた霧にでもなったかのように周囲の光景と共に消えていく。
蠢く蜈蚣の軋る音ばかりが後に残った。
─────────────
気がつけば、そこには何も無かった。
いや、正確に言えばおぞましい程の血溜まりが廊下からこの部屋に続いており、それを踏みにじりながら、俺はいつの間にかにその手に握っていた一振りの刀を見下ろしていた。
鶯色の刀身に赤い、血のような一本線が走った何処か疎ましさを感じさせる刀身。はばきの上に彫られた惡鬼滅殺の字がこの暗闇で主張するかのように目に入る。
視線を切るように鍔へと動かせば、そこにあるのは四枚花弁の花を模した様で蝶にも見える形の鍔。前まではどこにでもある様な鍔だった。だが、何処ぞの柱が勿体ないなどと言って鍔を変えさせた。
あの時はたかだか鍔、とまぁしのぶと暴走するカナエに色々ともの申したがしかし結果はコレだ。色も合わせようとしてきたのは流石に、何ともこちらが気恥ずかしかったから結局無難な黒にしてもらった。
そうだ。懐かしい話だ。
「だからこそ不愉快だ」
あの日から振るうのをやめたコレをこうして握っているのが、そんな記憶を想起させたこのくだらない夢が、そして何よりも。
「一体誰の許可を得てこんな、夢を見せた」
眼下で眠る彼女を見ながら俺は柄を握る手に力を込める。
視界が歪む。
頭の中で虫が這いずる音が聴こえる。
血が沸き立つ。
「先生は既に亡く、カナエも死んだ。で?なんだコレは?くだらない吐き気がする。こんなものが俺の求めた幸せだとでも言うのか?度し難い。汚物風情がてめぇの物差しで俺を推し量ろうとするな。必ず殺す。絶対に殺す。踏み潰す」
義父さんはあの日、死んだ。俺に血を遺して死んだ。
カナエはあの日、死んだ。俺に呪いを遺して死んだ。
「死ね。死ね。死ね。踏み殺す。蹴り殺す。狩り殺す。削り殺す。裂き殺す─────惡鬼絶殺、汚物鏖殺。ただ殺し尽くす」
故に今は起きねばならない。
日輪刀を眼下の首に叩きつけ、返し刃でそのまま俺は自らの頸を刎ねる。
どこのどいつかは知らないが必ず殺す。
認めたくはない、認めたくはない。だが、一時の敗北を受けるのは良い、だがだがしかし、必ず殺す。如何な手段を取ろうとも─────それが鬼狩りというものだ。
頸が落ちるさなか、花の様に微笑む誰かを見た気がした。
一心の本来の無意識領域はゲッカビジンの花畑と虫が這いずる血沼の中心に佇む一軒の小さな山小屋だけでした。
一心が育手の元にやってきたのは十二歳の時。
その六年前に一心は実の両親を崖崩れで亡くしています。
村で一人孤独となった一心を引き取ったのは余所からやってきた『山村』という狩人でした。
西洋の国にしばらく居たという『山村』から狩りや軽い学問を教わりながら、一心は二人で楽しく暮らしていたある日の事、十二歳になった日に一心は鬼に襲われました─────