狂気の片鱗
場所は変わってAクラス教室。
正久の登校から数時間もすれば流石に他の生徒も登校して来る。
生徒が入って来ては一流ホテル顔負けの豪華な設備に目を奪われ、各々に与えられたシステムデスクの使い勝手を確認、それらを経て同じクラスになった仲間と自己紹介をし合って友情を育むべく仲を深めていくーーというのがほとんどの生徒のとる行動なのだが、ただ一人だけ例外がいた。
誰が教室に入って来ても目もくれず、挨拶をするわけでもなくただひたすらに机の上のノートを見つめ、右手に握った鉛筆をひっきりなしに動かしている。
反対の左手には折り畳まれた紙を握りしめており、時々その方を見ては小声で何かを呟き、またノートに目線を戻して鉛筆を動かすのを繰り返していた。
そして正久のノートを見れば一目で分かることがある。
異端だ、と。
そのノート、白い部分がほとんど存在しないのである。
正確に言えば見開きのページのほぼ全域が黒一色なのだ。
鉛筆の粉によって紙面も正久の右手も真っ黒になっているのだが当の本人はそれを気にする様子もなく虚ろな目で淡々と作業を繰り返している。
ここまでくると他の生徒達も徐々にその異常性に気づき始め、親睦を深めるべくしていた雑談を打ち切り、次の話題としてあげた。
「え?な、何なのあれ」
「なんか怖い・・・」
「あれだよな、漫画とかドラマに出てくるような病人があんなことしてるよな。ちょっと頭どうかしてるんじゃないか?」
「おい、バカ!聞こえるぞ!」
正久に対して奇異の目が向けられすぐさま評価が酷いものになってしまった。
「・・・・・・」
そんな中、正久の方に目を向けながらどこか悲しげな表情をしている女子生徒が一人。
「あ、優子。優子も気になるの?」
正久を見つめていた女子生徒、木下優子に声をかけたのは工藤愛子。
緑色の短髪がボーイッシュな雰囲気と快活さを匂わせる。
彼女も他のクラスメイトと同じく正久の奇怪な行動に興味を抱いたらしい。
興味と言っても持ち前の好奇心からくるものだろうが。
「ええ。アイツ、変わちゃったなって思ったの」
「変わっちゃったって・・・あの人、松永君だっけ?前から知ってるの?もしかして彼氏とか?」
愛子は優子の返答に首を傾げたがすぐにニヤリと口角を上げて切り返す。
「か、彼氏って、付き合ってるわけないでしょ!ただ小学校が同じだっただけ!」
「あはは、顔が赤いよ」
必死に否定する優子の様子に笑みを浮かべる愛子。
「冗談はこれくらいにして・・・・変わっちゃったってことは前はどうだったの?」
「どうって・・・・小学校のころはアタシと秀吉といつも一緒にいて、明るくて真面目で、本が大好きでーー。でも、中学に上がる時に引っ越して行っちゃったの。そして去年、久しぶりに会ったら・・・・」
「だから変わっちゃったって言ったんだね」
「そう。・・・・先生達に質問をする以外は今じゃアタシと秀吉はおろかほとんど誰とも自分から話そうともしないし、ああやってずっと勉強してるの」
「え?あれ、勉強なの?」
「・・・まあ、ね」
「ふーん」
優子の話を聞いた愛子は徐に正久の方へ歩いていく。
よりいっそう興味がわいたのだろう。
「よし、じゃあボクは優子の彼氏さんとお話ししてくるね」
「なっ!?もう、からかわないでよ、愛子!」
優子の否定を背で受けつつも流す愛子だった。
「ねぇ、松永君」
愛子は正久の隣まで来ると、手元を覗き混みながら声をかける。
「・・・・・」
しかし、正久は応答せずに手を動かし続ける。
「おーい、松永君」
再び愛子は呼び掛ける。
「・・・・・」
またも反応しない正久。
「松永君ってば、ちょっとお話しーーうわっ!?」
三度目の呼び掛けの途中で突然正久が立ち上がる。
それに驚いた愛子は思わず声を上げて数歩後退してしまう。
「これは、これは失礼いたしました。たしか工藤さん、でしたかな?いやぁ申し訳ない。昨年度は俺の姿勢を嘲り笑い罵り冷やかす輩が多かったもので。今回ももしかしたらと思って様子を見ていたのですが、杞憂だったようで。それもそのはずですよね。とても、とても優秀なAクラスの皆さんです。他のどの誰よりも真面目に努力してきた皆さんの中に他人が懸命に努めている様を揶揄して辱しめ貶めるような輩はまさかいないでしょう!いやいるはずがない!」
「う、うん。そうだね・・・・」
一気にまくしたてる正久に若干引きつつも相槌をうつ愛子。
また、先程まで正久の様子を見て好き勝手言っていた生徒達はばつが悪そうに目を背ける。
「ところで、ところで何か用がおありで?恥ずかしながら俺に話しかける人物は性の悪い輩以外に優子さんと秀吉、先生方以外にほとんどいませんので、心当たりがないのですが」
「い、いや、何をしているのかなぁって思って」
愛子はいつも他の男子をからかう(保健体育の分野で)ときのようにするつもりだったのだが完全にペースをつかみ損ねてしまう。
「ああ、これはただの暗記でして」
「暗記?」
「ええ。これなのですがね」
そう言いながら正久は鞄の中から一冊の本を取り出す。
かなり使いこんでいるのだろう。
カバーは既に無く『基礎から難関大学まで 必修単語・イディオム7000』というタイトルがかすれており辛うじて読み取ることができる。
購入当初はページの紙には折り目がなくクリーニングしたてのシャツのようにパリッとしていたのだろうが、今は紙自体が萎びており、一部破れてさえいる。
また無数の付箋紙がページに貼られておりそのせいか参考書自体が余計に分厚く見える。
「振り分け試験の後、7000の全てを自分でテストをしてみたのですがね、なんと、なんと23個も間違ってしまったのですよ!なんたる体たらくでしょうか!」
「23個って・・・・」
「暗記をする際は何度も反復することによってより覚えやすくなります。だからこうして何回も何回も何回も覚えるまで書き続けているのですよ」
「えっ」
愛子は絶句した。
優子に勉強と言われてもピンとこなかった。
端から見て正久はただ単にノートを塗り潰しているようにしか見えなかったからだ。
しかし違った。
これは単語や構文の書き取りだった。
しかも紙面が真っ黒になるほどだ、その回数は相当なものであろう。
愛子は正久の顔を見る。
生気も光もない双眼がそこにはあり、自分を見つめている。
暗い底無し沼のようなそれに愛子はわずかながら恐怖と彼の狂気を感じた。
『アイツ、変わっちゃったなって思ったの』
優子の言葉の意味が少し分かったような気がした。
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