誰もいないと聞かされていたその部屋には女がいた。女と言っても教師でもなければ部外者でもない。黒いブレザーに膝まで伸びたスカートは間違いなくうちの生徒のものだろう。
肩の下まで伸びた美しく長い黒髪に制服を着こなすその佇まいに俺は思わず立ちすくむ。そして、女生徒はそんな俺の存在に気付くと、ゾンビのような目に足に包帯を巻かれて一足先にハロウィンを満喫しているような格好の俺に怯えることも無く笑顔を綻ばせてこちらを見た。
「こんにちは比企谷八幡さん」
後ろ姿だけでは清楚だとか清潔、純白みたいな言葉が似合いそうだと思っていたがその顔を見れば大きく好奇心を滲ませた子供のような瞳にその印象を変えられる。しかし、言葉遣いや所作からは、礼儀正しいお嬢様のような部分も感じ取れる。
「……えっと、どちら様?」
だが俺はこの女を知らない。リボンの色から見て同級生なのはわかるのだが、それ以外は全くわからない。そもそも俺は今日が登校初日で仕方ない部分が大きいのだが。
いくら俺が他人の顔や名前を覚えるのが億劫に感じていても、こんな美少女の顔は易々と忘れない。どこかで会ったか? いや会ったとしても俺は名を名乗らない。名乗っても覚えてもらった試しがない。とすると、同じ小学校、中学校だった可能性もある。いや、それもないな。俺が総武を受けたのはウチの中学からの進学者がいなかったからだ。つまるところ、俺はこいつを知らない。
「千反田です。千反田えるです。」
ふむ、やはり知らない。そんな珍しい苗字や名前なら顔とセットで直ぐに覚えるはずだ。
「すまん、俺は今日来たばかりであんたの事は知らないんだ」
「ええ存じております」
それも知っているのか。ほんとに分からないな。俺は降参だと手を広げて教えを乞うことにした。
「どうして知ってるんだ?」
「だって同じクラスで隣の席ですから」
「……え?」
もしかすると俺は地雷を踏んだのかもしれない。焦る俺に千反田は構わずそのまま話を続けた。
「入学式の日からずっと空いてる席があったので、気になって先生に確認したところ比企谷さんという話だったので」
その人がまさか席替えで隣になるなんてびっくりしました!と手を合わせて言う千反田に俺もその通りだなと心の中で頷いてしまう。しかし、わざわざいないやつのことを気にするとは千反田は品行方正、清く正しくを貫くクラス委員にでもなったのだろうか。
「教室で声をかけようかと悩んだのですが、プリントの整理や教科書を熟読していて忙しそうだったので明日にしようかと思っていたんですが……」
どうやらそうでは無いらしく、単に登校初日で困っている俺に話しかけようとしてくれた女神だったらしい。チタンダエルって女神いそう。いそうじゃない?
そんな考えを過ぎらせる俺に対して申し訳なさそうに話す千反田に俺は返す言葉がない。プリントは簡単に目を通して重要そうなのはファイリングしたが、教科書は中学の復習が終わって高校の範囲に入り始めていたのを知って諦めたし熟読しているように見えたのは千反田の空見だろう。
「いや、いい。その心遣いに感謝しよう」
自己紹介(俺はしてない)も終わったところで本題に入るとしよう。
「それで千反田はどうしてここに?」
「入部したんです。古典部に」
ですよねー。この部屋にいるってことはそういうことですよね。そんな気はしていました。これで比企谷八幡のプライペートルーム計画は完結です!比企谷八幡先生の次回作にご期待ください!
「比企谷さんはどうしたんですか?」
「え?あぁ、俺は見学」
登校初日という事情を知っている千反田なら見学期間が過ぎていても俺のこの理屈は通じるはずだ。それを証拠に「そうだったんですか」と納得している。だが心做しか嬉しそうに聞こえるのは何故だろう。その疑問はすぐに明らかとなった。
「私以外に部員の方がいなかったので助かりました」
あぁ、やっぱりね。知ってたよ。別に俺に運命とか感じないよね。労働力来たぜよっしゃ!って感じなんだろう。
しかし残念ながら俺がこの部に入る意義は数分前に消失した。あとは来るか分からない新入部員が来るまで心を強く持って欲しい。
だが、千反田はどうしてこんな廃部寸前の古典部に来たのだろうか。
「…千反田はどうして古典部に入ったんだ?」
「言えません。一身上の都合です」
なるほど禁則事項か。ならば仕方ない。しかし、これで千反田が部活に入った理由を予測するのは難しくなったわけだが、もはやどうでもいい事だ。
「じゃあ俺はここで」
「こらぁ!お前ら何してる!!」
サッと立ち去ろうとしたその時、ドアが勢いよく開け放たれ怒号が飛び込んでくる。あまりの大きさに俺と千反田はビクッと肩を震わせ、その声の主を見た。登校初日で担任の顔ですら未だに朧気な俺には目の前の男が教師だとわかっても、何の担当なのかまでは判断できない。
「こんにちは厚木先生」
当惑する俺を他所に、千反田は驚いた顔を正し穏やかな微笑を浮かべて会釈した。頭を下げる速さと言い角度といい、完璧な所作で行われた会釈。俺でも感服してしまう。出鼻をくじかれた厚木という教師は言葉に詰まった様子だったが、直ぐに声の調子を取り戻した。
「鍵が開いてるからどうしたのかと思えば、どうして空き教室に生徒がいるんだ?」
厚木と名乗る教師の言い方には何らかの誤解があった。確かに思春期の男子と女子が二人きり。怪しむのも分からなくもない。
クラスと名前を尋ねられ、俺が自分の名前を言うと厚木は首を傾げた。
「比企谷…?…あぁ、今日からだったのか」
見たところジャージ姿でその上からがっしりとした身体付きがわかる。声の張り方からして厚木の担当は体育で間違いない。千反田さんが厚木を知っていることから1年の担当であることは予想できる。体育ならクラス問わずに顔を合わせるから、初めて見る俺という存在に首を傾げるのもおかしくは無い。
納得し、声が若干柔らかになった厚木に俺はここが古典部の部室であること。そして、見学に来た俺に千反田と自己紹介をし合っていたことを話す。
「古典部?」
再度首を傾げた厚木は千反田を見た。そして「そういえば今年は入部希望者がいたんだったか」と思い出したように呟くと背を向けた。
「ならいい。鍵は下校時に返すこと」
そう言って荒々しく戸を閉めた厚木に俺はふぅと肩をなでおろした。千反田も戸の音に驚いたようだが、あちらも身をすくませていたが穏やかに笑った。
「声の大きい先生でしたね」
「まぁ体育の先生なんてそんなもんだろ」
俺がそう言うと千反田はきょとんとした目を向けてくる。
「どうして分かったんですか?」
「何が」
「厚木先生が体育の先生だって」
「そんなの見ればわかる」
前述した仮説から自然と導き出された答えであることをそのまま千反田に伝えると彼女は「なるほど」と感心したような声を漏らす。
「比企谷さんって人間観察がお得意なんですね」
「…まぁな」
皮肉にも取れる言葉だが、千反田の純粋な声からはそのような悪意は感じ取れない。おそらく本心だろう。しかし、この程度のことなど視線に気を遣い、相手に悟られない技術を見につければ誰でも出来る。
「では、私はどう見えますか?」
「は?…え?」
唐突に聞かれ声がどもる。人は他人にどう見られているのか気にする生物であることは様々な科学者が提唱しているが、初めて会った相手にその所感を求めることは少ない。これは科学者の研究結果ではなく俺の持論であるが、間違いないはずだ。
「…ちょっとお嬢様っぽい普通の女の子」
なるべく言葉を選んで千反田の第一印象を伝えると、千反田はぱちくりとまばた気を繰り返すと「ふふっ」と口に手を当てて笑った。
「あ、すみません、当たらずも遠からずだったので」
「いいよ気にしないから」
そう全然気にしない。人に笑われたり蔑まれたりするのは慣れている。それがたとえ悪意のない笑いでもだ。
けれど、何故だろう。千反田にはその悪意というのが感じられない。まるで存在しないかのようだが、そんな人間はいない。誰しも嫉妬や嘲笑、反感や劣等感といった負の感情を少なからず抱えているはずなのだ。千反田えるという人物を深く知れば知るほどそういう面と出会うだろう。だが、その前に、千反田には良い印象を持ったまま別れようと思った。何故ならば……女子と二人きりで部活とか無理。死ぬ。
「じゃ、俺はこれで」
「え?部活動はしていかないんですか?」
「日も暮れてきたし今日はいいだろ」
というか俺は見学に来ただけで部活をしに来たんじゃない。その旨を伝えると千反田はあからさまに肩を落とした。餌を横取りされた小動物のような千反田に僅かに罪悪感を覚える。誰もいなければ入部届けを出して即受理してもらったんだがな。
しかし、千反田にそう言うわけにもいかず俺は頭をかくとさして荷物の入っていないショルダーバッグを担ぎ直した。
「戸締りよろしく」
「え」
呆気に取られたような千反田に背を向けた俺が教室を出ようとした時、背中に声がかかる。
「待ってください」
振り返ると千反田は「私戸締りできません」と訳の分からないことを言い出した。
「なんで」
「私鍵もってませんから」
あぁなるほど。鍵は俺が持っているんだった。「ほらよ」と鍵を渡してやると、そこでふとある疑問が生じた。
「千反田はどうやってこの教室に入ったんだ?」
「え?」
「いや、鍵を持ってなかったならどうやって入ったんだ」
至極真っ当な疑問だ。俺じゃなくても思いつく。東西の名探偵でも真っ先にこの疑問に至るくらいにな。
「いえ来た時には開いていて誰かがあけてくれたのかと」
それにと千反田は付け足すように言った。
「中に誰かいるかもと鍵を持ってこなかったんです」
「ん?じゃあ千反田も今日初めてきたのか?」
「はい」
本入部は今日からだったのでと言葉を聞いて俺は天井を仰いだ。古典部に部員がいなかったのは周知の事実ではなかったのか。そうでなくても仮入部や見学期間に彼女がこの教室を訪れていれば分かったはずだが。入学時から入部することを決めていたのなら、まぁ来ない理由としては納得できなくもない。
いや、それよりも先に片付けなければならないのは鍵の話だろう。
「比企谷さんが来た時には戸は…」
「閉まってたな」
確かにガチャりと開く音がしたし、妙に開けにくかった。
俺が言うと、カツンと千反田が何故か1歩足を踏み出していた。
「ということは、私は閉じ込められていた、ってことですね」
「…まぁそういうことになるな」
開いた窓から運動部の掛け声が聞こえてくる。空も夕焼け色に染まり、いい子はでんでんデンぐり返しでバイバイな頃合だ。
ちらりと千反田に目を向けると、真っ直ぐな瞳が俺を見つめていた。まるで、自分が閉じ込められていた訳を知りたいと言わんばかりに。
「まぁあれだ、自分で閉めたんだろ。不審者が入ってこないように」
「閉めてません」
キッパリと言い放たれ、俺はぐっと言葉に詰まる。けれども、鍵は俺が持っている。
「それにこの教室は内から鍵がかけれません」
驚愕の事実に俺は戸に目を向ける。ふむ、確かにないな。けれども、出れるのだからもはや問題ではない。もし俺が来なければ千反田は明日までここに閉じ込められたままだったので、俺に感謝して咽び泣いて養って欲しいものだ。
まぁそんな冗談は置いておいて、今回の件は千反田がドアをすり抜けた。そんなところでいいだろう。非科学的だが俺にとってはそんな結論で片付けられるくらいどうでもいいのだ。
「待ってください」
再び身を翻して帰ろうとする俺に、千反田はいつの間にやら近づいて俺のブレザーの裾を握る。
「な、なに」
「私気になります」
近い近い近い。なんだかめちゃくちゃいい匂いがする。というか一言発する度に進むのやめてね。足が動かせない俺は背骨を曲げるしか避ける手段ないから。
「どうして私が閉じ込められたのか。もし、閉じ込められたのならどうして私はこの部屋に入ることが出来たのでしょう」
輝く瞳が俺に訴えかけてくる。この謎を解けと。
「千反田はドアを開けたんじゃなくて、すり抜けた…とか」
適当に言ってみると千反田は裾から手を離して、ドアへと歩いていく。そして、手を伸ばしドアの表面に触れた。
「すり抜けません!」
「だろうな」
「嘘だったんですか!?」
騙された!と頬を赤くして怒る千反田に俺はまあまあと宥めた。
「でもまぁこれで可能性が1つ消えたじゃないか」
「…元から無いですよ」
つんと顔を背けた千反田に俺は苦笑する。そんなの確かめなくても分かりそうなものだが、どうやらお嬢様は純粋すぎるようだ。
「そんなに気になるのか」
「はい、気になります!」
「うおっ」
またも前のめりにこちらに迫ってくる千反田から身を避ける際に変な声が出てしまう。しかし千反田はあまり気にしてないらしく、こちらとの距離をより詰めようとする。
「分かった。分かったから離れてくれ」
「本当ですか?」
「もちろんだ」
俺の誠実な態度に千反田は渋々といった様子で俺から離れる。ふぅ、あともう少しで人生辞めるとこだったわ。さてと、じゃあ考えてやるとしましょうか。といっても答えはほとんど出ているのだが。
「マスターキーだな」
「え?」
「いや、ほら教頭か用務員さん当たりが持ってるだろ」
小中学校で最後の戸締りを確認する役目は確か教頭か用務員さんのはずだ。前者は朝早くに来て教室を開けることもあるし、後者は電球が切れたり、ガラスの修復などで色んな教室に入る。その際にいちいち職員室に鍵を取りに行っていてはいささか面倒だ。ならば、全ての教室を開けるのに使えるマスターキーがあってもおかしくは無い。
「あ、そういえば用務員の人がキーホルダーに色んな鍵をつけていました 」
思い出したように千反田が言うと俺は仮説を真実に変えるべく一つ千反田に質問を投げかけた。
「千反田がこの教室に来たのはいつ頃だ?」
「えっと、16:20です」
そして俺が来たのは17時前。つまりその間に用務員、または教頭が訪れた可能性がある。だが、俺が職員室に行った時教頭は一番前の真ん中の席に鎮座していたはずだ。ならば、今千反田の見た通り用務員さんがマスターキーを使って教室を締めに回っているのだろう。
「結論が出た」
「本当ですか!?」
「うおっぉ」
だから近いんだってば。なんなのこの子、パーソナルスペースってのがないの? 松葉杖をついて少し距離をとった俺はコホンと咳払いをする。
「まず千反田がこの教室に入れた理由は分からん。そこは6限目で使った先生がそのまま開けっ放しにしたから、ってのが妥当だろう」
教師陣は用務員さんが締めに来ると分かっているはずだ。だから、わざわざ締める必要も無い。
「次に何故閉じ込められたか、だが」
これはきっとただの偶然だ。地学教室が開け放たれている間に千反田が来て、その後に用務員さんが鍵を締めに来た。そして、そのあとに俺が来た。事実はこれ以上でもそれ以下でもないだろう。そう話すと千反田は眉をしかめた。
「それだけ、ですか」
「これ以外にあるなら俺が知りたい」
ずっと立っているのも疲れたので椅子に座る。俺の言ったことは適当にすぎない。誰にでも思いつきそうなことを少し誇張しているだけだ。誇張にもなってない気はするが、それで千反田の気が晴れるなら些細なことだ。
「では、どうして私は用務員さんが鍵を締めたのに気づかなかったんでしょうか……」
「それはお前が景色に魅入ってたからなんじゃねぇの?」
「え?」
「俺が鍵開けた時も気付いてなかっただろ」
つまり今回の話、悪いのは誰でもない。強いて言うならば、窓から見える景色が音を消すほど素晴らしかったから。これでいいんじゃないだろうか。
「そう、ですね。そういうことにしておきましょうか」
俺の言い分に千反田はふふふと笑った。夕焼けを背にしてこちらに顔を向けてくるその姿はとても絵になっており、本当に可愛らしく見えたのは俺だけの秘密だ。
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「それで比企谷さん。どうするんですか?」
鍵を返し下駄箱で靴を履き替えていると、既にローファーを履き終えた千反田がこちらを覗くようにして尋ねてきた。
「どうって……あぁ入部かどうかか」
「はい」
俺だけのプライベートスペース計画は頓挫した。それも目の前にいる彼女のおかげでだ。しかし元々そんな計画は酔狂なもので、俺以外の遅刻者や来年に入ってくる新入生が来てしまえば一瞬で瓦解するものだったのだ。
顔を上げると純粋無垢な煌めいた瞳が俺を見つめている。……まぁ、プライベートスペースが無かろうとも、母ちゃんの願いである学校生活の円滑化を図るにはどこかの部活にはいらねばならんのだ。
「分かったよ」
靴を履いてのろりと立ち上がった俺は千反田と目を合わせた。
「入るよ。古典部」
「……はい!」
こうして俺の美少女と過ごす放課後が決定した。気分は決して悪くなく、むしろ高校デビューを失敗した俺がまさかの再チャンスで掴めたことには神の存在を信じたくなった。いや、神は目の前にいたのだ。そう、チタンダエル。これから平日は毎日拝むとしよう。
─────── 一方違う部室では。
「それで先生。そのボーっとした人は?」
「あぁ彼は折木奉太郎。入部希望者だ」
「は?」
……To be continued?
次回
「ちょっと入部希望者ってなんですか」
「何が灰色の青春だ。まだ始まったばかりだろう」
「ホータローが人に奉仕だなんて明日は針が降るね」
「はぁ……騒がしい」
次回『奉仕部の誕生』
古典部メインか奉仕部メインか
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古典部
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奉仕部
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両方