惰眠を貪る土曜の朝。アラームの設定をしていないスマホから爆音が鳴り響いた。着信を報せるのは人気アニメのop曲。染み付いた生活習慣でスマホを手に取り電話を鳴らす不届き者の名を確認する。
『神崎奈緒』妹の名前である。こんな朝っぱらから電話してくる愛する愚妹の電話を無視するわけにはいかず、渋々ながらも寝起きの寝惚け頭で通話状態にするとスピーカーにしてなんとか声を紡いだ。
「なんだよこの朝っぱらから」
『兄さん。お願いがあります。泊めてください』
媚びるでもなく率直に要求を突きつけてくる奈緒の言葉を寝惚け頭で咀嚼して飲み込む。
妹が突然、泊まりたいと言ってくるのは珍しくもない。兄妹仲は良好でこんな愚かな兄を慕ってくれるいい子なのだ。そんな可愛い妹を贔屓目に見ても可愛くて甘やかしてしまうのは当然のことで、二つ返事で了承するのはいつものことだ。
「それは今日か?」
『……ええと、それは兄さん次第というか』
歯切れの悪い返事だった。学校さえなければいつまでも居座る妹なのでその返答は問題はないのだが、今日に限って反応が悪いような気がする。
『取り敢えず、話をする前にドアを開けてくれませんか?』
「え?もう来てんの?それなら勝手に入って来ればいいのに」
奈緒には合鍵を渡しており、一人暮らしの寂しい部屋に勝手に居座っていることもしばしばある。だというのに、今日は少し礼儀正しいというか……いや、よくできた妹なのだけども。
起きたままの格好で玄関へと赴き、ドアの鍵を解錠して俺はドアをゆっくりと開けた。
「おはようございます。兄さん」
扉の前にいたのは十五歳の少女。亜麻色の髪をサイドポニーに纏め、休日なのに制服を着ている妹の姿がそこにあった。
「ん。はよ……お?」
麗しい妹の姿に感激しているとその斜め後ろに別の美少女の姿が目に映る。妹と同じ制服を着て、金髪を腰まで伸ばした娘が視線を微妙に下げながらこちらを窺っていた。瑠璃色の瞳が悲しげに揺らめく海の底のような色をしていて、朝の眠気は妙な感覚に吹っ飛んでしまった。何処か二人の雰囲気が真面目なものに感じるのだ。
「えーと。……そちらは?」
「兄さん忘れたんですか。昔、よく遊んであげてたじゃないですか。瑞樹ちゃんですよ」
言われて思い出す。妹が小学生の頃、毎日のように家に連れて来ていた妹の親友。よく俺に懐いてくれていたので凄く可愛がっていた。それも彼女達が中学に上がる前の話だが。中学生になってからあまり来なくなってしまい、久しぶりに顔を見た。随分と大人びていてびっくりするくらいに綺麗になっている。
あの小さかった少女がこんな綺麗になっていると思わず、一瞬見惚れてしまうほどに彼女の容姿は整っていた。制服の上からでもわかる起伏は成長の証だろう。身体は徐々に大人になりつつあるようだ。別にいやらしい意味で言ったわけではないが。
「随分と大きくなったな。瑞樹ちゃん」
「……はい。青葉さん」
もう二年ほど会っていないせいかお互いに硬い挨拶になってしまった。
立ち話もあれだ。と、二人を通してお茶を淹れる。自分の分は甘ったるいコーヒー、二人の分は紅茶を淹れて簡易テーブルに並べる。向かい側に二人が座り二口ほど飲んだところでようやく要件を聞く姿勢に移る。
「んで。こんな朝早くからどうしたんだ?」
俺がそう切り出した理由は単純だ。いきなり押し掛けてくるのはいつものことながら、その時間帯がおかしいのだ。普段なら夕方くらいに勝手に来て勝手に居座る。そこに妹の友達まで随伴しているとあらばさっきの『泊めてください』案件も含めてなんだか俺の予想の斜め上をいく展開になっている気がするのだ。杞憂だといいんだが……。
「兄さん、泊めてください」
「いや、それはさっき訊いただろ」
「何も言わずに了承してください」
「いや、まぁそれはいいんだが……」
「言質とりましたからね」
妙に徹底している。怪訝な目で奈緒を見ると案の定、怪訝な案件だった。
「瑞樹ちゃん、よかったですね」
「……おい、なんでそこで瑞樹ちゃんが……」
朗報と言わんばかりに安堵の笑みを浮かべる奈緒に待ったをかける。
「まさかとは思うが……」
「はい。泊めて欲しいのは瑞樹ちゃんです」
–––いやダメだろう。社会的に。実家の方ならまだ友達の家に泊まりに来た、という程になるが此処は俺が借りたマンションの一室である。仮にも男の部屋に友達を招こうなど何を考えているのかこの愚妹は。
「んー。一日くらいなら構いはしないが」
もちろん妹も込みで。二人きりにされたら死んでしまう。俺が社会的に。
「一日、ですか……」
「あとごりょ……親の承諾はあるのか?」
御両親、といいかけて言い換える。
瑞樹の父親は既に他界しており、今は母親しかいない。
母娘で二人暮らしと聞いていたのを思い出し慌てて言い直す。
すると、今まで黙りとしていた瑞樹が口を開く。
「……許可を取る必要はないわ。もう、死んだもの」
「っ」
訊き返す勇気も俺にはなく、反射的に「え?」と返してしまいそうになった言葉を飲み込む。同じく沈痛な面持ちで俯いている奈緒を見るに事は重大なことを悟った。
まさか地雷源を避けたと思えば、そこに地雷があるなんて誰が予想できるだろうか。言葉を慎重に選ぶべきか事細かく事情を知るか選択肢がある中で俺はやはり我慢など出来なかった。
「じゃあ、今はどうしてるんだ?」
「さぁ、私はどうしたらいいのかしら」
訊けば葬式が終わりそのまま飛び出して来たらしい。
彼女の処遇の話になって、行く宛もなく歩いてふと思い出したのが親友で。
「引き取ってくれる親族とかは?」
「どいつもこいつもパパとママの遺産と保険金目当てで碌なのがいないわ」
いるにはいるけど、どいつもこいつも金目当てと。
「……それに私のことをいやらしい目で見てくるやつばかりだし」
確かに瑞樹は美少女で誰もが可愛い綺麗と賛辞を述べるだろう。こんな女の子がいたら誰だってそういう好意的な目で見てしまう。俺だってさっき見惚れてしまったのだ。
「というわけで兄さん、将来誰かを養う予行練習と思って瑞樹ちゃんと同棲してくれませんか?」
「何故、同棲と言った」
「どうせ彼女もいないでしょうし」
「いなくて悪かったな」
年齢=彼女いない歴の公式が成り立ってしまうという悲しい現実を背負う。最初から期待もしていないし誰かを本気で好きになったこともないので当然と言えば当然だが。
「しかし、俺が赦しても他の奴が赦さないだろう」
「大丈夫よ。遺言で母が予め信頼出来る人を選んでおいたから。保護者にはおじさま達がなるし」
「……は?うちの両親が?」
「瑞樹ちゃんのママが病死する前に遺言で兄さんや私達の両親の名前を指名していたそうで。話はつけてあるらしいのですが……」
きっと話をつけている相手はうちの両親だけなのだろう。勝手に遺言で指名されてるあたり親父達が伝達し忘れたのかもしれない。
「それとも青葉さんにとって私は邪魔なの……?」
懇願するように上目遣いで見てくる瑞樹の泣きそうな顔にやられ、俺の防波堤も脆く風化していく。
「いや、嫌ってわけじゃないんだ。むしろ嬉しいとは思うが……社会人になってまだ半端者の俺なんかより、親父達と一緒に暮らした方が不便もなくていいと思うんだが」
彼女のためを思うなら、此処にいるのは間違っている。
感情よりも理性的な思考が働き、勧めてみたのだが。
「兄さん。うちは再婚してまだ五年と経っていないんですよ。兄さんが逃げ出した家に置いておくのも少しばかり問題があると思うんですが」
「うぐ。いや、逃げたわけじゃないぞ。社会人になったんだし一人暮らしをだな」
「義妹をあんな甘ったるい空間に独り置いていくなんて兄さんは薄情ですよね」
義妹–––因みに、奈緒は義母の連れ子–––によって却下された。
「……まぁ、瑞樹ちゃんがそれでいいってなら俺もいいんだけど」
「良かったですね瑞樹ちゃん!」
此処に来てから今まで口数少なく張り詰めていた表情が僅かに安堵で緩んだ瞬間だった。
気づいたら朝食を食べたあと瑞樹は眠っていた。座布団を枕にして眠りこけている彼女を見るなり、奈緒も表情を柔らかくする。妹もまた緊張していた糸が解れたようだ。
「兄さん。瑞樹ちゃんは色々あって疲れているようですから寝かせておいてあげてください。あんなに安心した表情をするのはだいぶ久し振りに見ましたから」
「そうだな。その方がいいだろう。でも、流石に床の上はまずいだろ」
床の上で寝ると起きた時に身体が痛くなり休んだ気もしなくなる。それを危惧して俺は妹の親友を抱きかかえるとベッドに運び寝かせてやった。毛布も被せておく。春先とはいえ、毛布もなければ寒くて目が醒める。
「そういえば兄さん、今日は何も予定はなかったんですか?」
「ん?あぁ、別に大した用じゃないし別にいいんじゃね」
「どんな用だったんですか?」
「……いや、友達とパチ屋に開店から閉店まで……」
しどろもどろに言い切ると奈緒の目がすわった。
「別に兄さんの趣味をとやかく言うつもりはありませんが。生活態度を改めてください。今日からは私の親友と同棲なんですから」
「いや、お前が来た時点で今日は行く気なかったよ」
「今日は?」
「すみません。今後控えます」
「よろしい」
となると友人に連絡しておかなければならない。今日はいけないと。理由を言及されるだろうが妹が押し掛けてきたと言っておこう。事実だし嘘はついてない。
「本当に色々と間違ってると思うが。なんで俺なんかのところに連れてきたかね」
「そんなの兄さんだってわからないはずがないでしょう。あんなに安心しきった寝顔を見せるのは兄さんだけなんですから。それに瑞樹ちゃんのパパが死んだ時、寄り添って立ち直らせていたのは兄さんじゃないですか」
「昔の話だ。あの時は若かった」
「まだ二十一歳ですよね」
二十歳超えたら徐々に肉体は衰えていく。それを今、痛感しているところだ。
適当に生きて、適当に死ぬ。
ただそれだけの人生だと思っていた。
やる気もなければやりたいこともない。
それが俺である。
妹はそんな俺を見透かしているのだろう。
次に繋いだ言葉が裏付けていた。
「これで兄さんももう少し真面目に生きてくれるといいんですけどね」
「そのために大事な親友を俺のところに送り込もうってか」
「別にそれだけじゃないですよ。でも、兄さんは誰かのためなら頑張れる人なので効果はあるって信じてます」
「それ言っちゃいけないやつだろ」
「いいんですよ。兄さんは自分のやりたいことをやる。そういう人ですから」
–––この日から、妹の友達との同居生活が始まったのだ。