夏休み明けの登校日、憂鬱と絶望に打ち拉がれた多くの生徒の姿を私は目にした。また学校が始まってしまったことに対する不満が六割、絶望しているのは男子生徒だけだった。何が原因でそんなに落ち込んだり死んだ魚の目をしているのか疑問に思ったが、私の脳内のリソースは今晩のおかずと青葉のことに割り振られていて、すぐに頭の片隅に追いやってしまった。
「お、来たっすね。噂になってますよ」
悪戯っぽい笑みで手を振る。奈緒と話していた楓だった。
「……噂ってなによ?」
訊かないわけにもいかず鞄を机に置いてから私は二人の会話に加わる。すると奈緒が天使のような微笑を絶やさずに私に告げた。
「なにって決まってるじゃないですか。夏祭りの話です」
「夏祭り、ね……」
どうしても楽しいという気持ちより、花火の弾けて散る儚さのような感情が先行してしまう。青葉との楽しかった記憶より、家族のことを思い出してしまうから、あの夏祭りだけはそういった意味では特別だった。せっかく一緒に行ってもらったのにね。
「で、その夏祭りがどうしたの?」
「多くの人が瑞樹ちゃんと兄さんの仲睦まじい姿を目撃したそうで」
「手を繋いで歩いただけだけどね」
「そして、その結果がご覧の有様っすね」
教室内を手で示してみる楓の方を見ると、夏休みの終わりを嘆いて絶望している男子生徒の姿が。
「夢も希望も絶たれたわけです」
その割に奈緒は随分と楽しそうだった。他人の不幸を喜んでいる節さえある。いや、この場合、不幸が振り掛かるのは私達か。
「元からわかってたことじゃない」
「百聞は一見に如かず、と言うように信じてなかったんでしょう」
「傍迷惑な話ね」
恋人がいる噂が広まっても告白して来た人は減っただけで消滅とまではいかず、今度こそは数も減るだろう。
「それで実際のところ何か進展はあったんすか?」
青山楓は私の嘘を知っている、信頼できるから話した。
「……ないわよ」
そう。あるわけない。教えていないことはキスしたことだけど、私からの強引なやつだし。
あれから青葉は求めてくれなかった。私ってそんなに魅力がないのかしら。
「キス止まりですか」
「……ちょっと待ってなんで」
「はい、一部始終見てましたから」
「録画はないんっすか?」
「残念ながら、次の機会にということで」
当人差し置いて二人は楽しそうにお喋りする。もっとも私には面白くない内容だ。
話の内容を訊く限り、『次の機会』というのは私が青葉に押し付けた禁煙の話だろう。
キスする口実として押し付けたに過ぎないけれど。でも、やっぱり陰で喫煙されるとショックで最近は匂いをチェックしてる。私に隠れて喫煙してないか。……別に私が匂いを嗅ぎたいとかそういうんじゃない。癖になっただけで。
「……それで付き合ってないんっすか?」
「うるさいわね。黙りなさい」
だって、あれは私が一方的に押し付けたものだもの。
「……どうせ私の片想いよ。私のことなんて妹の友達くらいにしか思ってないのよ」
自分で吐き出した言葉のナイフはまるで自傷行為のように突き刺さった。
◇
夏休みが明けて一週間経てば修学旅行が始まる。そして、今日はその最後の日、修学旅行前夜だというのに私の気持ちは晴れたりはしなかった。
不安だった。
私がいない時、青葉は何を食べて過ごすだろうか。私がいなかった時に戻るだけ。そんなネガティブな思考が脳裏を過り、実は私は必要ないんじゃないかと思えて来た。
私がいない時、女の人を連れ込まないだろうか。他の人に靡かないだろうか。特に会社の同僚の小鳥遊って人は要注意人物だ。あの人は私に比べて綺麗だし二人きりになればきっと何かある。あれは青葉を狙っていた。私だからわかる、同族嫌悪というやつかな、あの人のこと好きになれなかった。
他にも不安な事はいっぱいある。青葉が私のこと忘れてしまわないか。私がいないことで、私が邪魔だと気づいてしまったら……それが怖くて、心配で、どうしようもない。
修学旅行なんかより、青葉と一緒にいたかった。
「瑞樹、準備は済んだのか?」
そんな私の心情を知らずして青葉はこの一週間、毎日この言葉を掛けてきた。
「大丈夫。完璧よ」
惜しむらくは、晩で数えると二日。朝で二日。時間で言うと六十時間くらい会えないこと。たった一日ですら会えないなんて、私は考えたくもなかった。
「青葉さんこそ大丈夫?私がいない間」
「おまえが来るまで一人暮らしだったんだぞ。大丈夫だ」
「そうね……」
本当に掛けて欲しい言葉はそうじゃない。
ズキリと痛んだ胸を抑えた。心の奥底を隠すように。
ただ、その一言が悲しくて、寂しくて、私は甘えるように彼に抱きついた。
「おぉ…い、瑞樹さん?」
スンスンと匂いを嗅いでみる。煙草の匂いはしない。それはそうだ、お風呂に入った後だしどちらかと言えば大好きな人の匂いに石鹸の香りが足されているみたいだった。
「何してるんだ?」
「煙草を隠れて吸ってないかチェック」
「そうか」
お腹にグリグリと押し付ける私の頭を青葉が右手で優しく撫でる。髪の流れに沿って優しく梳くように、何度も何度も。それが気持ち良くて私は更に強く抱き着く。
「なんだ、今日はいつもより甘えん坊だな。何かあったのか?」
「……行きたくない」
「修学旅行に行きたくないやつなんて初めて聞いたぞ……って、俺も同じだったわ」
「青葉さんも?」
「あー、その、班行動ってやつが嫌いだったから」
「それはわかる気がするわ」
青葉は私の言葉を否定せず、肯定するような言葉を投げ掛けてくれる。私の場合は男子が嫌いなだけだけど。
「ねぇ、休んでいい?」
「ダメだ。行ってきなさい」
流石にそれは許してくれなかったか。
「どうしてもダメ?」
「ダメ」
「私が家にいると不都合なことでもあるの?」
「そんなわけねぇだろ」
「私は邪魔?」
「なんでそうなる」
「じゃあ、私のこと愛してる?」
卑怯なことを言っているのはわかってる。
愛してると言ってもそれは異性としてではない。
そういう答えが返ってくる。
わかっていても、それで良かった。
「うん、そりゃあ、まぁ……愛してるよ。家族としてだぞ、家族として」
家族として。それでも良い、今はそれでも安心できた。
「……わかった。じゃあ、ひとつだけわがまま言っていい?」
「俺が叶えられる範囲でな」
「じゃあ、今日一緒に寝て欲しいな」
「なんでまた」
「丸二日会えないんだもの。だから、今日一日は青葉さんと一緒にいたい」
きっと一日、青葉に会えないだけでも私は耐えきれない。青葉にはきっとわからないかもしれない。それでもいつかきっとわかってくれるといいな、と思う。
「明日も早いし寝るぞ」
「あ……」
ダメなのかな。
青葉がリビングを出て自室に。
「一緒に寝るんじゃないのか?」
部屋から消えるその前に、青葉は振り返って恥ずかしげに頰を掻く。
「うん、待って青葉さん」
青葉の部屋のベッドに二人で寝転び、可能な限り私は身を寄せた。電気が消えた、闇夜の部屋に月の光が差す。その中で私は仰向けに眠る青葉の横顔を眺めていた。
「そういえば、お土産は何がいい?」
「何処行くんだっけ」
「京都よ」
「……別にお土産のことなんて考えなくていいぞ」
「やっぱり和菓子?」
「人の話を訊きなさい」
「だって答えてくれないんだもの」
「……瑞樹さえ無事に帰ってきてくれれば何も要らないよ」
「……え?」
「なんでもない」
「青葉さん、今さっきなんて言ったの?」
「早く寝ないと明日起きれないぞ」
そしてそのまま、青葉は狸寝入りを始めた。
翌朝、午前五時。少し寝過ごして寝坊した。本当ならお弁当を作るためにもう少し早く起きないといけないのに、三十分も時間をロスしてしまった。朝は奈緒も拾って六時には学校に着いてないといけないのに後一時間しかない。
こんな時に限って寝癖が酷くて直す時間もない。何から始めようか焦ってリビングに出ると、肉の弾ける良い匂いが漂ってきた。
「……青葉さん?」
キッチンに立っていたのは最愛の人。同じく寝癖の酷い頭でパジャマの上にエプロンをつけて、ソーセージを転がしていた。近くには詰めている途中の弁当箱が置いてある。冷めてから入れるように皿に出来上がった料理が置かれていた。
「おう、おはよう」
「なんで……」
「いつもより朝は早いからたまには俺がやろうと思って」
「お、起こしてくれればいいのに」
「気持ち良さそうに眠ってたからな」
火を止めて焼いたソーセージを皿に移した。そのあとで料理を弁当箱に詰めて、残りの料理を皿二つに分けて盛ると白米も茶碗によそい朝食の準備まで済ませてしまった。
「準備はあとでもいいだろ。食うぞ」
「え、えぇ……」
仕方なく私も食卓について箸を手にする。
よく考えれば、昼食は青葉の手料理。悪い話じゃない。
「……美味しい」
卵焼きは甘さがちょうど良くて、鮭の塩焼きは良い塩加減、きんぴらなんて市販のものではなくお手製だった。
「青葉さん料理上手だったのね」
「瑞樹に任せっきりだったからな」
「今度から交代制にしようかしら」
「それは困る」
青葉は慌てた。ちょっとした冗談なのに。
でも、たまには青葉の手料理が食べたいけど。
「……瑞樹の料理を毎日食いたいからな」
ただ、その一言を訊いて私の今日の機嫌は最高にまで上がった。
「本当に忘れ物はないな、二人とも」
運転席の青葉が私と奈緒に確認する。この日のために青葉は乗用車をお義父様から借りていた。それに乗って私達は学校まで送ってもらったのだ。まだ少し暗い空模様、空が青くなり始めている。
「では、行ってきますね。兄さん」
奈緒が先に車を降りた。大荷物を手にしてもしっかりと立っている。
「気をつけて行って来いよ」
「そうね、行ってきます」
私はそう告げて、車を出る前に青葉の頰にキスをする。あまりの不意打ちに対応できなくてしばらく何をされたのかもわかっていないみたいだった。でも、取り敢えずこれで他の女が言い寄って来ても大丈夫だろう。
「ねぇ、青葉さん。私がいないからって女の人を連れ込んだらダメよ」
「わかってるって」
念を押せば、不思議な答えが返ってきた。
青葉にこんな約束を守る義務なんてないのに。
「煙草も隠れて吸わないでね」
隠れて吸ったらキスしてやる。そんなことを考えていた。
「それと私がいないからって不健康な生活はしないように」
「おまえは俺の母親か」
「それも魅力的な提案だけど、他のポジションが欲しいわ」
「馬鹿なこと言ってないでさっさと行け」
充分思いは伝わったのか青葉の頰は少し赤かった。
名残惜しいけれど、行かなくてはならない。集合時間まであと十分。待っている奈緒のところに駆け寄ってそのまま二人で集合場所である体育館を目指す。
見えなくなる校舎の角で私はちらりと振り向いた。
あの人は私が見えなくなるまでずっと見送ってくれていた。
二週間以内に一回は投稿したいな、とは思ってる。
次も多分、一週間は空く。ネタはあるんだけどな。