「ただいま。……って、そうか、瑞樹はいないんだっけ」
仕事を終えて帰宅した。鍵を開けてみても部屋は暗く、呼びかけてみても応答がない。それもそのはず瑞樹は中学校で最大の行事、修学旅行に行っているのだから当たり前だろう。急激に疲れた身体を引き摺るように歩き、玄関を抜けてリビングに行くとそのままソファーに身体を投げるように沈めた。背凭れに思いっきり寄り掛かり、天井の明かりを見つめる。
「……大丈夫かな。瑞樹」
元気にしているか、修学旅行を楽しんでいるか、そんなことばかり思い浮かぶ。目の届かない場所にいることの歯痒さがどうにも慣れない。
「あー、そういえば、飯どうしよう」
差し当たり、夕食をどうするか、という問題もある。
最近、管理すら瑞樹任せの冷蔵庫を覗く為に重い腰をソファーから上げて、これまた重い足取りで冷蔵庫の前に立つと中身を確認する為に開いた。
端的に言えば、殆ど食材は残っていなかった。瑞樹の弁当を作るのと朝食で殆ど使い切ったらしい。これならば外で食事をしてくれば良かったと今更ながらに後悔する。
『私がいなくても大丈夫?』と幻聴がした。いや、これは一週間の間に何度も確認されたことか。歳下の女の子に心配されるという奇妙な現場に俺は頭を抱える。
「大丈夫、って言ったの俺か」
全然大丈夫じゃない。ちゃんとすると約束はしたが大丈夫な気がしない。毎日、瑞樹の料理を楽しみにしている俺からすれば、これは死活問題である。今日は朝食も昼食も瑞樹の料理を食べていない。つまり、今日一日瑞樹の料理を口にしていないことになる。
「あー、うーん、どうすっか」
久しぶりに外食でもするか。牛丼、ハンバーガー、ラーメン、カツ丼、ハンバーグ、寿司、焼肉。ファミレスに行くか、回転寿司行くか、適当なファストフード店に行くか悩みどころだ。ただどの飲食店も食欲がそそられない。
–––ピロン♪
そんな時、スマホに連絡が来た。内容を確認してみるとただ一言、青山陽介から食事の誘いである。
『明日飲みにいかねぇ?』
『誰がくんの?』
『おまえと俺だけだよ』
青山陽介、彼が飲みに誘ってくるのは珍しい事である。いつも仲間内で飲む場合は主催者が決まってあの変人どもなのだ。比較的まともな人間である陽介から連絡が来ることも、割と……いやそれほど少なくはないが。
–––行く、と返信しておいた。
◇
翌日、仕事終わりの午後七時。駅前の居酒屋に青山陽介は先に着いていた。遅れてやって来た俺は店員に会釈をして待ち合わせをしている事を伝え、友人の待っている席へ。既に串カツを食べている陽介は俺を見るも無感情な瞳を向けてくる。興味ない事には興味無し。面倒臭がりな性格で連絡が来たのも随分と久しぶりだ。
「ん、来たな、女子中学生と同棲してる変態」
「ちょっと待て。……陽介、おまえが何故それを」
挨拶代わりの罵倒に思考が停止した。座敷席の対面に座り、店員がおしぼりなどを持って来たのでついでに注文をする。まずは飯を食いたい気分だったのでざるそばを一つ。それと串カツを二つほど。
店員が去ったところで俺は目の前の秘密を知る友人に目を向けた。妹の友達、瑞樹と一緒に住んでいることはトップシークレットである。バラした覚えはないしバラす予定もない。特に仲間内には絶対に。教えたら、瑞樹目的で来るような変態が仲間内にいないとは限らないのだ。
「楓が言っていたが?」
「……そりゃそうか」
学校内では既に噂になっているらしいし。妹が同じ学校に通っていて、同じ学年で、友達。なら、普通知らないはずがない。話題に上がらないのなら別だが。
「で、事実なのか?」
「……まぁ、そうだが。このことあいつらは?」
「教えてねぇよ、まだ」
「絶対に言うなよ?あの二人には絶対に」
「まだ」とは言うかもしれなかったということである。念を押すと「わかった。言わねぇよ」と約束はしてくれたが油断はできない。
「じゃあ、取り敢えず飲むぞ」
訳「酔わしたら包み隠さず全部吐くだろ」と言って、陽介は店員を呼び止めて度数の高い酒を頼み始めた。
完全に俺を酔い潰し、全部吐かせるつもりである。興味なさそうな顔してやることがエグい。俺は口を固くすることを心に誓ったのだった。
「それで話を戻すが。おまえが一緒に住んでるのって瑞樹って娘だよな?」
ウォッカをストレートで飲まされ酒に強くない俺の気分はかなり上がっている。そんな状態の俺に対して、いきなり話題を変えた陽介の出した名前に俺は摘んでいた蛸山葵を食べる箸を止めた。
「……名前も知ってるんだな」
楓の友達なら当然であろう。名前を知っている可能性はあった。だが、俺の中にあるのはもやもやとした感情である。友人からその名前が出た事に少し動揺した。
「金髪の子だろ。家に来たことがある」
「……」
その一言を訊きながら俺は酒をちびちびと口にする。
「そうか」
楓は瑞樹の友達。遊びに行くのは当たり前だろう。だが、何故か少し嫌な気分になる。その理由に思い当たる節があるものの俺は酒を飲んで良い気分になっていることで無視をする事にした。感情に蓋をする。いや、蓋をしようとしている。
「可愛いな、あの子」
「……それはな」
当たり前だ。瑞樹は可愛い。人類の共通認識である。だが、その言葉を他人から訊くと嫌な気分になる。それも身近にいる人間が。友人が言った言葉で。
「俺の部屋に入ったこともある」
「……なんで?」
脈絡もなくいきなりそんなことを言い出す陽介の方を睨むように見てしまった。気づいたのはまるで怒っているような声音で陽介を問い詰めた後だった。
「なんでだと思う?」
「……」
「そう怒るなよ」
「怒ってねぇよ」
「そうか?俺には不機嫌に見えるけどな」
隠そうにも上手く感情を制御できない。全ては酒のせいだ。これではいつ何を言ってしまうかわからない。
陽介の言っていることもわかる。自分は不機嫌だ。でも、それを認めるわけにはいかない。
「不機嫌じゃねぇよ」
「まぁ、それでもいいけど。俺の部屋入ったってのは嘘だ」
嘘。あっけらかんと陽介はそう言って酒を呷る。
「……はぁ?」
「いや、悪い。ちょっと試した」
「試したって……」
「おまえ、金髪の子好きだろ?」
「それは俺の女性の好みの話か?」
「訂正。瑞樹って女の子のこと好きだろ」
疑問系から何故か確定された。
「面白い冗談だ」
「じゃあ、俺が貰ってもいいか?」
俺はその言葉を受けて陽介の方に目を強制的に向けさせられた。相変わらず無表情で何考えているかわからなくて、さっきの嘘も合わせて今日の陽介は何かおかしい。普段、嘘を言うような性格ではないのだ。彼は。だから、余計に動揺したし本気にした。瑞樹のことだからなおさら気になって仕方がない。
「ダメだ」
「どうしてか訊いてもいいか?」
青山陽介という人間は友人達の中で最も信頼が置ける人物だ。良識的な人間というやつ。他の奴らが悪友と言えるものでも、陽介だけは違って本当に信頼しているし、多分これは尊敬にも近いと思う。
でも、それでもダメだと思った。
瑞樹をあげたくないと思ってしまった。
何処とも知らない馬の骨と比べれば安心だろうに。
「それは……なんというか……その……」
「言い方を間違えた。どうしておまえの許可がいる?」
訂正された言葉が胸に刺さる。陽介の指摘に対して俺は返す言葉を持っていない。
「それは、一応、保護者だし……?」
「おまえが一番それを否定しているのにか?」
「どういう意味だよ」
「そのまんまの意味だ。おまえが一番わかっているだろう」
言葉を濁して直接口にすることはせず、これ以上は語らないと言うかのようにつまみや酒で口に蓋をする。意地でも俺の口から言わせたいらしい。
「……これも冗談だろ」
青山陽介という男に浮いた話など訊いた事はない。学生時代はいつも皆で馬鹿やって過ごして来た連中だ。色恋沙汰は皆無だし、女の気など一度も見せたことはなかった。恋愛に興味もなかった。俺達全員、いや一人を除いて。黄村だ。俺が一番警戒していたのはアレだし、陽介のことは警戒していなかった。女に興味があるとは思ってもいなかったから。それに本人が妹と同い年は恋愛対象外と言ったことがある。俺はそれを信じていたし、今も無意識にそう思っていた。
瑞樹の魅力が陽介の心を掴んだ、というなら別だが。
「貰う云々は嘘だ」
親友の言葉にほっとする。……ほっとする?
「でも、俺以外にそういうやつが現れるかもしれない。この先おまえの一番大切な女の子が誰かを好きになるかもしれない。おまえは指を咥えたままそれを見ているのか?」
まるで説教じみた言葉で、また否定しようとしたが、言葉の節々が引っ掛かって即答することは出来なかった。今日はいつになく他人の事に首を突っ込んでくる。俺の心の蓋を抉じ開けようとする。
「どうだっていいだろそんなこと」
ぶっきらぼうに返す。踏み込まれて欲しくなかったから、そういう態度を取ってしまった。
正確には踏み込まれたくない、ではなく、俺は……。
「本当にいいのか?好きじゃないのか?」
探るような物言いで興味なさそうに冷やしトマトを口に運び酒を呷る。真面目な話をしていない風を装って、人の心を揺する言葉を放ち、それを無責任と言わずなんと言えばいいのか。
答えることが出来ず酒を呷る。本当に諦めているならば、悩む必要はない。そんなことはわかっていた。悩む時点で答えなんて出ているのと同じだろう。
「すみませーん、ビール!」
追加の酒はすぐに運ばれて来た。店員から受け取ると一気に飲み干す。元々、酒はあまり好きでもなければ弱いし苦手だ。少し覚めた酔いを身体に戻すため、無理に飲んでいるに過ぎない。でも、今は酔いに頼りたい気分だった。例えそれで何かが変わってしまうとしても。切っ掛けだけを追い求めた。
「……あぁ、そうだよ。好きだよ。あの娘のこと」
言ってしまった。絶対に認めようとしなかったことを。認めてしまえばもう戻ることも、立ち止まることも、振り返ることもできない。逃げ道は無くなった。
「ほう。……で、自白した感想は?」
「最悪だよ」
俺は学生時代、恋愛とは無縁だった。今まで誰かを好きになったことはない。だって、好きにならなければ、失恋することもないだろう?だから、誰かを好きにはならなかった。最初から諦めていた。怖かったから。誰かを本気で好きになって失恋することが。恋愛経験もないのに失恋する事に臆病になっていた。
好きという感情もわからなかった。理解しようとしなかっただけかもしれないが、嫌でも瑞樹に理解させられるとは思いもしなかったな。
「最悪とか言いながら何ニヤニヤしてんの?」
「いや、これでも一応不安なんだぞ」
明らかに瑞樹は俺を好き。なのだろうけど恋愛弱者は安心などしない。今は良くてもこれから先どうなるかわからないし、当面の問題というか目下の問題は修学旅行から帰って来た瑞樹とどう接すればいいかだ。幸いな事に帰って来るのが明日なので、それまでにいつも通りに戻っていなければならない。
「はぁ、明日からどんな顔で瑞樹と顔を合わせればいいんだか……」
煙草を吸おうと取り出して吸わずに無言でしまう、その姿を陽介が不思議そうに首を傾げて見ていた。
これで逃げる事はできなくなった。