「それで兄さんとはどんな感じですか?」
私の親友は登校時ににやにやと微笑を湛えてそんな詰問をしてきた。
今朝方、音もなく当たり前のように家に合鍵を使って侵入した彼女と遭遇した時、思わず悲鳴を上げそうになったのもついさっき。
とても楽しそうな笑みを浮かべる彼女には頭が上がらず、私も素直に答える。
「別に普通よ」
「普通、ですか……確かにいつも通り、いやそれ以上かな?」
「な、なによ……」
「いえ、瑞樹ちゃんが元気になったのはやっぱり兄さんのおかげなんだなって。私がどう足掻いても今の瑞樹ちゃんに戻ってもらうのは無理でしたでしょうし。とにかく嬉しいんですよ」
何処か納得した様子で語る奈緒に私は釈然としない気持ちを抱いていた。相変わらず、にこにこと満足げな笑みを浮かべられるものだから訳がわからず喧嘩腰な口調になってしまう。
「悪かったわね。心配させて」
「本当に酷かったですからね。あの時の瑞樹ちゃんは」
素直に礼を言えればいいものを、昨日までの自分を思い返して自己嫌悪してしまう。
あれは本当になかった。できるなら昨日の記憶を消し去りたい。
絶望の淵にいて、親友の声すら訊こえず、久し振りに大好きな人に会った反動で思いっきり甘えてしまった上、あんなはしたない格好を見られるなんて……。
あの時、シャワーに混じって涙を隠していたはずなのに、彼に抱き締められると不思議と安心感と共に失った悲しみと虚無感が押し寄せてきて子供みたいに泣いてしまったのだ。
その後のことは一切覚えていない。またベッドに寝かせられていたのはわかったのだが。
まぁ、親友が訊きたいのはそんなことじゃないけど。
「本当に何もないわよ」
「災い転じて福となすですよ。何のために兄さんのところを選んだんですか」
「そ、そんな余裕ないわよ」
私の母が死去し天涯孤独となった私、元々病気で余命宣告された母が遺してくれたのは将来の為のお金と誰に私を託すかという書状だった。財産を残す上で私の身を案じた母が信頼出来る人間に頼み込んでいたのだ。その名前の中に彼女の両親と青葉の名前が入っていたのは少なからず付き合いがあったからだ。
私にとって奈緒の兄、青葉は初恋の人。
それを知っていた奈緒が私と青葉の同棲を勧めたのだ。
「時間は幾らでもあるといえど兄さんだって男の人ですから、悪い女の人に引っかからないとも限らないんですからね。他の人に盗られても知りませんよ」
それもわかっている。でも、私はまだ中学生で結婚できる年齢ではない。それが余計に壁に感じていた。きっと青葉は私のことを女性として見てくれないだろうって。
「まぁ、言い過ぎるのも辛いところなので話を変えましょう。彼シャツ作戦は効きました?」
「一応、女の子として意識はされてる、のかしら……?」
「ふふっ、考えた甲斐がありましたね」
ちなみに寝間着をお金がもったいないという理由で買わなかったのは奈緒の策だ。下着も日用品も青葉のお財布から出費されている為、私は一銭も払っていない。
あれやこれやと昨日の事を詰問されているうちに学校へ辿り着く。階段を昇りながら彼女はふと思い出したように口にする。
「そうだ、放課後に予定はあるんですか?」
「あっちの家に服を取りに行くことになってるわ」
流石に全ての服を新しく買うわけにもいかない。寝間着の件で服を揃えようと決意された結果、放課後に待ち合わせて必要な物を取りに行くことになったのだ。
……。
教室に入るとこの有様。
教室を包んでいた喧騒が止み、会話を楽しんでいたクラスメイト達は私を見る。
遠巻きに眺めて、声をかけるべきか悩んでいるのか。するとそのうちの一人、男子生徒が歩み寄ってきた。
「もう大丈夫なのかい?」
「問題ないわ。別にそのことに関してはね」
母が死に途方にくれたまではいい。現在の問題をあげるとすれば、その同情したような視線をやめて欲しかった。
「その、何か力になれることがあったら言ってくれ。僕は君の味方だから」
きっと悪気はないんだろうけど。私はその言葉にうんざりしていた。鬱陶しさを覚える。親戚中そんな言葉を投げかけてきていたが、言葉の裏にある悪意を垣間見るとどうしても信じられなくなってしまうのだ。あいつは金目当て。あの男は肩に手を置いて無遠慮に触れてくる。下心が丸出しだ。
私の反応を見てか他のクラスメイト達も無遠慮に声を掛けてくる。先の抜け駆けを咎める声、私の身を案じる者、同情するならそっとしておいてくれというのが何故わからないのか。
「……ごめんなさい。少し一人にしてくれないかしら」
一喝するとクラスメイト達は一声掛けて散っていく。その最後の一言さえ私の頭を悩ませる要因となり、朝から陰鬱な気持ちになってしまった。
放課後、最後の夏に向けた部活動の時間。鬱陶しいくらいに訊いた同情の言葉もなりを潜めた頃、私はもう一つ陰鬱な気持ちになるものを下駄箱で見つけてしまった。
「……空気読みなさいよね」
私の下駄箱の中にあったのは手紙だった。十中八九、誰かしらからのラブレターだろう。私の反応を見て察した奈緒が苦笑いと共に労いの言葉を投げかけてくれる。
「モテるっていうのも考えものですね。瑞樹ちゃんは兄さん以外に興味ないのに」
労いに揶揄いが混じっていた気がするが、反応すればするほど弄られる結果になるのは目に見えているので敢えて触れないでおく。
「それはあなただって同じでしょう。先月は何回告白されたのかしら」
「んー、どうでしたっけ。そんなことより読まなくていいんですか?」
「お生憎様ね、私には予定があるのよ」
手紙を開封すれば予想通り、長文に亘る恋文である。要点を掻い摘んで説明するとどうやら同学年らしく校舎裏に来て欲しいとある。私が弱っているところに漬け込むあたり性質が悪いとしか言いようがない。
「さっさと終わらせてくるわ。あの人を待たせるわけにもいかないし」
教室の窓から校門の前に立っていた青葉の姿を見ているので、私は早足に校舎裏へと向かった。
「ごめんなさい。私には好きな人がいるの」
たった一行の告白にたっぷり数秒を要したあと、一考の余地なくばっさりと切り捨てた。もう何度も繰り返した返答でも私には幾分の余裕もなかったのかもしれない。私には目の前の男子生徒が誰かすらもわかっていないのだ。いつもならもう少し丁寧に断るのだけど、逸る気持ちが抑えきれずあの人のことが気になってしまっていた。
「そ、そうだね。大変な時にごめんね。今は考える余裕ないよね。返事は待つことにするよ」
–––いやもう諦めて。という言葉を苛立ちと共に飲み込み、代わりにきつめの口調で私は言い放つ。
「付き合う気はない。そう言ったわよね?」
「返事は後からでもいいんだ。今は保留にしてもらって」
–––これが返事なのだけど。
段々と苛立ちを隠せなくなっていた。
まるで成り立たない会話に私の機嫌も悪くなる。
そういえば、こんな顔同じクラスでも見た気がする。
「夏や修学旅行前に恋人を作りたいのかもしれないけど私は興味ないの。善意か弱ったところにつけ込んでるつもりか知らないけど迷惑なのよ。しつこい男は嫌い」
「ぐふっ……!」
どうやら半分図星だったようだ。呆然とする男子生徒を放置して私は校門へと向かう。その道すがら色んな人に声を掛けられたが適当に返して先を急ぐ。
グラウンドと校舎の間を突っ切り校門への道を駆け出しそうになりながら進む。
そしてその先、見慣れた背中を見つけて声を掛けようとした時、私は青葉と話している妙な大人達を見てどうも様子がおかしいことに気づいてしまった。
声がようやく届く場所に辿り着いたところで喧騒が耳に飛び込んでくる。
「–––さっさと帰れ迷惑だって言ってるのがわかんねぇのか!」
それは青葉の今まで訊いたことのない怒声。叫ぶまではいかないまでも、近くにいたら内容がわかってしまう声量で妙な大人達を怒鳴りつけていた。相手はおばさんと言っても差し支えない年齢の女性と、二十代後半か三十代に見えるくらいの不摂生な身体の脂ぎった男性、どう見ても関係性がわからない。
困惑していると傍にいた奈緒が私の方に駆け寄ってくる。まるで面白い見世物を見ているような、彼女の蠱惑的な表情が垣間見え嫌な予感がした。
「ねぇ、あの人達どうしたの?」
「覚えがないんですか?瑞樹ちゃんの遠縁の親戚らしいですけど。瑞樹ちゃんのことを片っ端から生徒に訊いて探し回っていて兄さんが声を掛けてあんなことに……」
親戚と言われても私にはよくわからない。確かに葬式には親戚と名乗る人達が多く現れたが、私自身殆どそういう関係を知らず育ってきたのだ。それこそ母が病気の時、親族は誰も見舞いに来なかった。この前の葬式で初めて見たくらいだ。
訝しげに様子を見守っていると今度は見覚えのない親戚達が怒鳴り返す。
「あんたみたいな子育ての経験もろくにない奴が年頃の娘を育てられるわけがないじゃない!どうせ下心があるに決まってるわ!」
「いい加減にしろよあんたら。あいつの事を考えてるとか言いながら、言動が伴ってないんだよ」
「やだ怖い。これだから若い男は。あの子も暴力で従わせてるんじゃないの」
その言葉に私が言い返そうとして前に出ようとすれば、奈緒が私の腕を掴んで止める。此処からがいいところだと言わんばかりに首を横に振る彼女を見て、私はどうも彼女が冷静でいる理由がわからなかった。自分の大切な兄が罵倒されているというのに余裕そうな微笑みを浮かべて私を諭すように振る舞うのだ。
「……じゃあ、あんたらに覚悟はあるか?」
「はぁ?何を当然の事を」
「命を懸けられるか?何があっても守ると誓えるか?不幸にしないと誓えるか?」
「子供も持ったことのないガキが偉そうに」
「……これ以上は学校側にもあの子にも迷惑だ。場所を変えるぞ」
「私達はあの子を迎えに来たのよ!なんで場所を変えなくちゃいけないのよ!」
キーキー喚くおばさんと青葉を取り囲むように周囲には人集りが出来ていた。それを見て青葉はそう提案したのだろう。あの人の様子を見て不摂生な男が唾を吐きながら喚き散らす。
「だいたいあんたあの子のなんなんだ!部外者は引っ込んでろ!」
「それさっき説明したろ」
面倒臭そうに青葉は言った。
私が訊きたい言葉はそんなものじゃなかったけど。
確かに明確な位置付けをしていない。
あの人からしたら、妹の友達くらいにしか映っていないだろう。
だから、私はもっと見て欲しくて補填する。
「青葉さんは私の大切な人よ」
あの人の隣に立って私はそう宣言した。
「あぁ、よかった。瑞樹ちゃんよね?話があるのよ」
「君にとってもいい話だよ」
もう青葉は眼中にないとでも言うように二人の視線がロックオンされた。悪意の中でも飛び抜けて凄く、生理的に嫌悪感のする視線を男の方から浴びせられて反射的に青葉を盾にする。
「お断りするわ。私は現状で満足しているしそれ以上は求めてないの」
「でも、こんな得体の知れない人のところにいるよりかは」
「それはそっくりそのままお返しするわ。親戚?知らないわよあなた達なんて」
「で、でもねぇ?年頃の娘が男の人と同居っていうのもねぇ」
「私の人生は私が決める。もう関わって来ないで」
そう吐き捨てて私は青葉の腕を引く。怒りもあって私は何処に向かうのかもわからず先を急いだ。
「瑞樹。止まれ……止まれって」
「きゃっ!」
ふと足が宙に浮いて私は素っ頓狂な声を上げる。腰に腕が回され持ち上げられる形で青葉に抱き留められていて、状況を理解した瞬間、私の脳は沸騰しそうになった。
「……その、悪い」
「青葉さん?」
「変な噂が立つのも嫌だろうから。良かれと思って止めようとしたんだけど、火に油を注ぐ形になってしまった」
……あぁ、そういうことか。
青葉の独白に私は彼が怒っていた理由を知る。すとんと地面に降ろされて、解放したあの人は申し訳なさそうに眉根を下げていた。
「きっと明日にはよくない噂が回るでしょうね」
どうやら自称親戚達は妙な事をしでかしてくれたみたいだし。だけど、怪我の功名か噂を塗りつぶす方法はある。
「青葉さんはもし私が引き篭もったらどうする?」
親がいなくなった不幸に重ね、妙な親戚が現れて、その噂が私に対しての悪意を生むものだとしたら。結果的に私がダメな子になってしまった場合、青葉が私をどうするのか興味があった。だから、これはもしもの話だ。
「そんな心配しなくても絶対に見捨てないって」
「もしもの話よ。適当に誤魔化しておけばどうとでもなるわ。その場合、青葉さんに迷惑をかけることになるかもしれないけど」
その場合、ちょっととは言い難いけれど。
青葉はそれでも私の頭を撫でてくれた。
笑って、私から目を逸らさないでいてくれる。
そんな彼の腕に抱き着いて、胸の鼓動が伝わればいいなと、願いを込めながら私は緩んだ笑みを向ける。
「ねぇ、青葉さん、晩御飯は何がいい?」
「瑞樹の得意な料理、かな」
「じゃあ、今晩はシチューにするわね」
青葉が私を支えてくれるように、私もまた彼を支えたい。
そんな思いを胸に私は彼と共にある事を望んでいた。