妹の友達が風呂に乱入してきた。
小学六年生になったバレンタインのことだった。どうにか初恋の人に想いを伝えたくて、本命チョコと共に気持ちを込めてラブレターを書いた。渡す時に告白もした。『好き』と言葉にするのは思いの外難しくて、気恥ずかしさもあってその時のことはあまり覚えていないけど、私が嬉しくなるようなことを彼が言ってくれたのは覚えている。
–––もう少し瑞樹ちゃんが大きくなって、それでも好きだったらいいよ。
そんな感じに言いくるめられたような気がする。
何か約束をしたのは覚えてる。結婚だったか、恋人になるって話だったかは曖昧だけど。正確には覚えていないので記憶は断片的だ。
父が死んだのは小学校卒業を間近に控えた日。辛いことが起きたせいで、私は小学生の頃のことがあまり上手く思い出せない。正確には思い出したくないのだろう。楽しい事、辛い事、悲しい事、嬉しい事、全てが一緒になって思い出すのをある程度脳が拒否しているのだ。
–––だから、今見ているこの光景はきっと夢。
目の前には小学校六年生の私がいる。勇気を振り絞って青葉に告白している私、父が死んで大泣きしている私、中学生になってからは家事を全般的に頑張っている私、部活をしている私、勉強をしている私、そして最後に母を亡くして天涯孤独の身となった私。
これが私の人生。
何も父が死んで悲しんだのは私だけじゃない。母は一時期、私に構う余裕もなかったし、そんな私を慰めてくれたのが彼で、私の心を支えてくれたのは青葉だけだった。
母が働きに出ている間、家事を全般的に覚えるためにかなり無茶をした。
精神的に疲れていても、そんな私を支えてくれたのはバレンタイン時に交わした言葉。
今は断片的にしか覚えていないけど、私は青葉に相応しくなろうと頑張った。
だから今の私がある。
『嘘だったら許さないから』
幼い私は笑顔で詰め寄っている。
青葉も何かを喋っているけど音は拾えない。
あの時、青葉は何を言ったのだろうか。
今更、そんなことを言っても迷惑だっていうのはわかってる。
それに私も踏み出せないでいるのは同じ。
幸せそうな幼い私がいて、その幼い私は青葉に顔を近づけて–––。
そこで夢は覚めた。
◇
「……んぅ。んん…」
意識がゆっくりと覚醒する。まだ浸っていたい微睡みの中、呼び掛ける声がして視線だけを向けるとそこには変わらぬ親友の姿があった。優しげに微笑む姿を見るとどうも安心してしまう。
「ぐっすりでしたね。もう夕方ですよ」
「…いつから寝てた?」
「最後の授業の後半からですかね」
「起こしてくれればいいのに」
あぁ、でもあの夢の続きは見たかった。それだけがとても残念だった。そういう意味では起こしてくれなくてよかったとも思う。
まだ意識がはっきりせずぼーっと椅子に座っていると、対面に椅子を引いて奈緒が座る。
「それでどうでした?昨日は」
「……」
思わず口を噤んだ私を見て、悪戯っぽく笑みを浮かべている奈緒から顔を逸らしとぼけたふりをすると彼女はしっかりと明言してくる。
「濡れ濡れ透け透け大作戦は成功しましたか?」
『濡れ濡れ透け透け大作戦』とは–––。梅雨が続き、鬱陶しい雨を見て奈緒が思いついた所謂憂さ晴らしだ。傘を差さずに雨に濡れて帰ることで夏服の下にある下着を自然な感じで透けさせ青葉を誘惑してしまおうという作戦だ。本来なら私もやる気はなかったのだが、この前青葉が連れて来た女性のことが気懸りで嫌とは言えず、流されるままに気がつけばずぶ濡れで家に辿り着いていた。此処までが奈緒の策。
誤算だったのは青葉がお風呂に入っていたこと。当初の予定ではすぐにお風呂に入る予定で一目見てくれさえすればそれでいいはずだった。もう一つ誤算だったのは私は思ったよりも追い込まれていたこと。青葉に女の影があるとわかって、それにとても綺麗な人だったから、あんな人が青葉に迫ったら勝てる筈もないと思って……。
「失敗。これで満足?」
「……そうですか。それは残念です」
奈緒の計画は失敗。嘘は言ってない。
「まぁそれより次の策を練りましょうか」
気にした様子もなく奈緒は一枚の紙を突きつけてくる。大きく書かれた文字を見ると『三者面談』の文字が。眠気も覚めるような頭悩ます内容に私の顔も険しくなる。
「もうそんな時期なのね」
「瑞樹ちゃんのことだから、兄さんに相談もせず悩んでしまうのかと思いまして。勝手ながら報告させてもらいます」
「……瑞樹のご両親には悪いけど、おばさまじゃダメなの?」
「ダメですよ。大事なことなんですから」
私が青葉に相談できないのも全て奈緒にはお見通し。
遠慮なく互いに言い合えるから、彼女は私の親友なのだろう。
「小さな事から距離を縮めないと。一応、瑞樹ちゃんにもアドバンテージはありますけど、大人の女性に誘惑されたら兄さんだって簡単に靡いてしまうでしょうし」
「でも、なんだか悪いことをしている気がするわ」
「好意を抱いてもらうためにアプローチするのは誰でもやっていることですよ。兄さんの同僚の女性だって何かしらやっているはずです」
「……そうかしら?」
アプローチの仕方を間違えている気がするのだけど、奈緒は気にした様子もない。なんだか青葉を騙している気がしてならないのだけど妹的にはいいらしい。
「チャンスだけなら幾らでもありますけど、もっと瑞樹ちゃんは押していかないと。兄さんは恋愛に対しては臆病ですから。絶対に兄さんの方から告白してくるなんてありえません」
「わかってるわよ。もう一度告白するわ」
そう。わかっている。青葉が告白してくることは絶対にない。だから私から行く。彼から告白してほしいだなんて夢を見ていたら取り返しのつかないことだってあるのだ。まだ時間があるとは限らない、それを両親は最後に教えてくれた。
「次のイベントといえば瑞樹ちゃんの十五歳の誕生日ですね」
「誕生日がどうしたのよ」
「兄さんは誕生日プレゼントを選ぶのは苦手ですから。そこでデートに誘うんですよ」
「む、無理よ。誘うなんて」
「そんなこともあるかと思ってこちらでなんとかしますから瑞樹ちゃんは心配しなくても大丈夫です」
相変わらず、恋愛に関してのサポートは万全過ぎておんぶにだっこな状況に頭が上がらなくなる。ともあれ私の親友は楽しんでいるような節がありそこが問題なのだけど。
「ねぇ、前から疑問に思ってたんだけど」
「なんですか?」
「奈緒ってそういう知識は何処から持ってくるの?」
私の親友も恋愛経験はないはずで、極度のブラコンである彼女は青葉以外の男性に興味がない。つまり付き合った人がいないわけで、恋愛に関しては私と同じはずなのだ。
そんな疑問を叩きつければ、奈緒はその秘密を暴露した。
「兄さんって恋愛系の漫画が好きなんですよね。割と役に立つんですよ」
つまり、奈緒の恋愛に関する知識はそこから来ているらしい。ちょいちょいと手招きする彼女に耳を寄せれば小声で囁かれたのは青葉の秘密だった。
「お気に入りは全部持って行ったので兄さんの部屋を探せばあると思いますよ」
「なんで小声なのよ」
「ちなみにえっちなゲームも漁れば出て来るはずです」
「……そ、そう」
あの人の部屋を掃除してえっちな本が出てこないと思ったら、殆どパソコンに入っているらしい。帰ったら調べてみようかしらと一人意気込んでいると奈緒は鞄を手にして立ち上がる。
「というわけで行きましょうか。善は急げですよ」
こうして放課後の予定が決まった。
家には勿論、青葉はいない。仕事が終わる時間までまだ少しある。玄関から真っ直ぐに青葉の部屋に直行すると奈緒は慣れた手つきでパソコンを起動した。起動するまでの間に棚を漁り十八禁のシールが貼られた箱を積み上げていく。その数は四つほど。表面は可愛らしい女の子の絵が描かれているのに、裏面は肌色成分多めでエッチだった。
「まぁ、取り敢えずは兄さんのお気に入りのキャラのストーリーでも観てみましょうか」
「わかるの?」
「兄さんの好みは把握してますので」
そう言って奈緒はセーブデータの一つをロードする。すると画面に映し出されたのはスタイル抜群の高校生くらいの黒髪長髪の女性。登場人物は全て成人年齢です、とかいう謳い文句は一体なんなのだろうか。
「ちなみに兄さんの好みは長髪です。他にも靴下はニーハイソックスか黒タイツとか、靴下を選ぶならそうした方が良いですよ。兄さん太腿好きなので」
「そ、その……青葉さんから見て私って…その…」
「胸ですか?瑞樹ちゃんは気にしなくても大丈夫ですよ。ないよりあるほうがいいらしいですけど、巨乳好きというより美乳好きですからね兄さんは」
ほっと胸をなでおろす。
「あ、そろそろですよ」
そんな会話をしている間にゲームの方は進展を迎えていた。
二人きりの密室で主人公がヒロインと愛を語らっていたのだ。
絵が変わりキスシーンへ。
淫靡な女性の声がテキストに沿ってスピーカーから流れ始め、私は思わず目を隠した。指の隙間からパソコンのディスプレイを盗み見る。
そして、物語は進みヒロインが服をはだけさせた。そしてそのまま……。
「ね、ねぇ、青葉さんもやっぱり……こういうの興味あるの?」
「兄さんも男の子ですから。最終的には瑞樹ちゃんと兄さんもこうなるんですよ」
自動再生にしているから、奈緒がクリックしなくても物語は進む。思ったよりもいやらしい声がスピーカーから流れ続け私はずっと顔を赤くしながらその様子を見守っていた。
絵であるのに、恥ずかしさが込み上げてきて……でも画面から視線を外せない。
「な、奈緒は平気なの?」
「慣れました」
慣れた、とは……。
「さて、それじゃあ私はそろそろ帰りますね。漫画の方は棚にあるので読んでもいいと思いますよ」
奈緒が鞄を手に逃げるように部屋を出ようとする。親友の背中を視線で追いかければ、彼女はすり抜けるように部屋の入り口に立っている人を避けて帰ろうとして捕まる。
私は思わず、目を逸らした。
「あ、青葉さん、おかえりなさい」
「……ただいま」
もちろん、奈緒は逃げられなかった。